Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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The Girl in White

 

 昼の衛宮邸は、いつもより静かだった。

 

 朝食の匂いはもう薄れ、台所には洗い終えた食器が並んでいる。縁側には冬の光が差し込み、庭の木々が風に揺れていた。戦いの後とは思えないほど穏やかな光景だったが、その静けさの内側には、まだ張り詰めたものが残っていた。

 

 セイバーは奥の部屋で休んでいる。

 

 凛が何度も念を押した通り、今日一日は戦闘禁止。契約は安定したが、まだ完全ではない。士郎との繋がりは確かに戻った。それでも、キャスターに一度切られ、上書きされ、さらに戻された傷跡は消えていない。

 

 ライダーは縁側に伏せていた。

 

 大きさは変わらない。

 

 だが、紅い隈取も、背の神鏡も、神器の気配もない。真っ白な大型犬。ただ、それだけに見える。神気はほとんど感じられず、そばにいると少し心が落ち着く程度だった。

 

 桜はその隣に座っている。

 

 ライダーの毛並みに手を置き、時折、水の入った器を差し出したり、柔らかい布を整えたりしていた。ライダーは大人しくしている。たまに鼻を鳴らすだけで、動こうとはしない。

 

 士郎は茶の間からその様子を見て、少しだけ息を吐いた。

 

「本当に、普通の犬みたいだな」

 

 言った瞬間、ライダーの片目が開いた。

 

 不満そうな視線が士郎へ向けられる。

 

「いや、悪い意味じゃなくて」

 

 士郎が慌てて言うと、凛が呆れたように振り返った。

 

「普通の犬は契約のパスを描き足したりしないわよ」

 

「それはそうだけど」

 

「それに、普通の犬は遠坂の術式を見ただけで鼻で笑ったりしない」

 

「笑ったのか?」

 

「笑ったように見えたのよ」

 

 ライダーは、ふす、と鼻を鳴らした。

 

 やはり迫力はない。

 

 だが、凛の眉はぴくりと動いた。

 

「今の、絶対笑ったでしょ」

 

 桜が少しだけ笑う。

 

 昨日から続く重苦しさの中で、その笑みは小さくても確かなものだった。

 

 士郎はほっとする。

 

 ライダーが神だと知った後でも、桜はライダーのそばにいる。怖がりながらも、変に距離を取ったりはしていない。むしろ、白い犬の姿になったことで、ほんの少しだけ緊張が解けているようにも見えた。

 

「ライダーさんが神様だと知っても」

 

 桜が静かに言った。

 

「こうしていると、やっぱり少し安心します」

 

 ライダーは桜の手に鼻先を寄せた。

 

 その仕草には、神威も威厳もない。

 

 ただ、そばにいるというだけの温かさがあった。

 

「今は、私が守る番……とまでは言えないかもしれませんけど」

 

 桜はライダーの背を撫でる。

 

「でも、できることは考えます。守られるだけでは、いたくないですから」

 

 凛はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。

 

「桜」

 

「はい」

 

「本気?」

 

「はい」

 

 桜は頷いた。

 

「戦うことは、まだ怖いです。たぶん、すぐにはできません。でも、ここを守るためにできることがあるなら、知りたいです」

 

 凛はしばらく黙った。

 

 それから、小さく息を吐く。

 

「分かった。結界の補助くらいなら教えられるかもしれない。ただし、無理はしないこと。あなたはまだ回復途中なんだから」

 

「はい」

 

「それと、ライダーの残り香を屋敷に留める方法も考えてみる。今のライダーは弱っているけど、完全に力が消えたわけじゃない。桜がそばにいるなら、少しは守りに使えるかもしれない」

 

 桜の表情が少し明るくなった。

 

「お願いします」

 

「その前に、全員休むのが先だけどね」

 

 凛はそう言って、士郎の方を見た。

 

「特にあなた」

 

「俺?」

 

「あなたよ。何当然みたいに茶の間を片付けてるの。昨日からほとんど寝てないでしょ」

 

「でも、やることが」

 

「あるわよ。でも、倒れたら全部無駄」

 

 凛の言い方は厳しい。

 

 だが、今の士郎には言い返せなかった。

 

 セイバーを奪われた時のこと。

 

 ライダーが力を使い切ったこと。

 

 桜が令呪を使ったこと。

 

 自分一人で何とかできることなど、ほとんどなかった。それを思い知ったばかりだ。

 

「分かった。少し休む」

 

「よろしい」

 

 凛は満足げに頷いた。

 

 その時、廊下の奥から物音がした。

 

 セイバーが出てきたのだ。

 

 白いドレスから、桜が用意した着替えに変わっている。動きやすい服装ではあるが、まだ戦闘用ではない。セイバー本人も、それを少し気にしているようだった。

 

「セイバー、起きて大丈夫なのか」

 

 士郎が声をかけると、セイバーは小さく頷いた。

 

「はい。横になっているだけでは落ち着きませんので」

 

「無理はするなよ」

 

「承知しています、マスター」

 

 その呼び方に、士郎は一瞬だけ反応した。

 

 セイバーも、わずかに目を伏せる。

 

 朝、契約が描き足された瞬間。

 

 セイバーは確かに、士郎を名前で呼んだ。

 

 シロウ。

 

 その一言は、今も士郎の中に残っている。

 

 だが、セイバーはすぐに「マスター」と言い直した。今もまた、彼女は士郎をマスターと呼んでいる。

 

 それでいい。

 

 士郎はそう思う。

 

 けれど、胸の奥に少しだけ違う感覚があった。

 

「どうしましたか」

 

 セイバーが問う。

 

「いや、何でもない」

 

「そうですか」

 

 セイバーも、それ以上は聞かなかった。

 

 互いに触れない。

 

 だが、触れないことで、かえって意識してしまう。

 

 凛は二人を見て、何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わなかった。

 

 ◇

 

 午後に入る頃、凛は屋敷の外周を確認していた。

 

 士郎も一緒だ。

 

 単独行動禁止。

 

 その言葉を守るため、士郎は何をするにも凛かセイバーに声をかけるようにしていた。以前なら面倒だと思ったかもしれない。だが、今はそれが必要なことだと理解している。

 

 庭の境界には、凛の簡易結界が張られている。

 

 その上に、ライダーの神気の残り香が薄く重なっていた。以前ほど強くはない。外からの悪意を焼き払うほどの太陽は、今はない。それでも、低級の使い魔や呪いなら近づきにくい程度の清めは残っている。

 

「やっぱり弱くなってるわね」

 

 凛が言った。

 

「ライダーが?」

 

「ええ。昨日までなら、この屋敷に正面から手を出すのは相当危険だった。でも今は、守りが落ちてる」

 

「まずいのか」

 

「まずいわよ。敵がそれに気づけばね」

 

 凛は空を見上げる。

 

「そして、気づいている相手はたぶんいる」

 

 士郎は周囲を見た。

 

 誰もいない。

 

 ただの住宅街。

 

 風が吹き、塀の向こうで木の葉が揺れているだけだ。

 

 だが、凛の表情は真剣だった。

 

「アーチャー」

 

 凛が小さく呼ぶ。

 

 見えない場所から声が返る。

 

「見ている」

 

「何かいる?」

 

「気配は薄い。だが、朝から何度か視線を感じる。遠距離からだ。使い魔ではないな」

 

「人?」

 

「おそらく」

 

 凛の顔が険しくなる。

 

「見られてるってことか」

 

 士郎が言う。

 

「そう考えた方がいいわ」

 

 凛は視線を門の方へ向けた。

 

「ライダーが弱っていることも、セイバーが休養中なことも、向こうに筒抜けだと思って動いた方がいい」

 

 士郎は拳を握る。

 

「じゃあ、外には出ない方がいいな」

 

「そうね。少なくとも今日は──」

 

 凛の言葉が止まった。

 

 門の外。

 

 そこに、誰かが立っていた。

 

 白い少女だった。

 

 雪のような髪。

 

 赤い瞳。

 

 可憐な服。

 

 小さな体。

 

 その姿だけなら、迷子の少女に見えたかもしれない。

 

 だが、士郎は知っている。

 

 その少女が、バーサーカーのマスターであることを。

 

「こんにちは、シロウ」

 

 少女は、にこりと笑った。

 

「イリヤ……」

 

 士郎の声が硬くなる。

 

 凛が一歩前に出た。

 

 その瞬間、空気が変わった。

 

 アーチャーの気配が鋭くなる。セイバーも家の中で反応したのか、廊下を走る気配がした。桜も気づいただろう。庭の空気がわずかに揺れる。

 

 そして、奥の部屋でも小さな物音がした。

 

 慎二だった。

 

 布団の中で目を開けたまま、彼は動けずにいた。

 

 キャスターの糸とは違う。

 

 もっと単純で、もっと大きい。

 

 近づいてくるだけで喉を塞ぐような、暴力そのものの気配。

 

「……何だよ、これ」

 

 声は情けないほど震えていた。

 

 立ち上がろうとしても、足に力が入らない。

 

 慎二は布団の端を掴んだまま、ただ廊下の向こうを見ていた。見に行くこともできない。逃げることもできない。ただ、あの気配が自分のいる場所まで届かないようにと、無意味に息を潜めている。

 

 それが、どうしようもなく惨めだった。

 

 門の外で、イリヤは楽しそうに首を傾げた。

 

「そんなに怖い顔しないで。今日は遊びに来ただけよ」

 

「遊びに来た、だと」

 

 士郎は門へ近づこうとして、凛に腕を掴まれた。

 

「距離を取って」

 

「でも」

 

「いいから」

 

 凛の声は低い。

 

 士郎は足を止めた。

 

 イリヤはそれを見て、少しだけ目を細める。

 

「ふうん。シロウ、少し賢くなったんだ」

 

「何しに来たの」

 

 凛が問う。

 

 イリヤは凛を見る。

 

「遠坂凛。あなたもいるんだ。アーチャーも近くにいるのね」

 

 凛の表情が変わる。

 

「見えてるの?」

 

「分かるだけ。隠れてても、気配が怖いもの」

 

 イリヤは視線を屋敷の方へ移す。

 

「セイバーは戻ったんだ。よかったね、シロウ」

 

 士郎の背筋が冷たくなる。

 

「何で知ってる」

 

「見てたから」

 

 あっさりとした答えだった。

 

 イリヤは笑っている。

 

 だが、その笑みは子どもの無邪気さだけではない。

 

 狩りを始める前に、相手の傷を確認するような冷たさがあった。

 

「キャスター、負けちゃったんでしょう? セイバーも取り返した。でも、まだ本調子じゃない」

 

 イリヤの赤い瞳が、縁側へ向く。

 

 そこには、桜に寄り添う白い大型犬がいた。

 

 紅い隈取もない。

 

 神鏡もない。

 

 神気も薄い。

 

 ただの白い犬に見えるライダー。

 

「それに、ライダー」

 

 イリヤはくすりと笑った。

 

「今は、あまり怖くないね」

 

 庭の空気が一瞬で冷えた。

 

 桜がライダーの首元に手を置く。

 

 ライダーは伏せたまま、イリヤを見ていた。

 

 唸らない。

 

 吠えない。

 

 ただ見る。

 

 けれど、その姿には、以前のような圧はなかった。

 

 凛が歯を食いしばる。

 

「あなた、どこまで見てたの」

 

「さあ。どこまでだと思う?」

 

 イリヤは楽しそうに答える。

 

「でもね、シロウ。今が一番いいと思わない?」

 

「何がだ」

 

「わたしとバーサーカーが、あなたたちを倒すのに」

 

 その瞬間、遠くの空気が重くなった。

 

 見えない。

 

 姿はない。

 

 だが、そこにいる。

 

 巨大な気配。

 

 圧倒的な暴力の塊。

 

 バーサーカー。

 

 士郎は無意識に息を止めた。

 

 体が覚えている。

 

 斧剣を振り下ろされた時の衝撃。

 

 骨の奥まで軋むような恐怖。

 

 死にかけた記憶。

 

 セイバーが家の中から出てきた。

 

「マスター」

 

「セイバー、出てくるな」

 

 士郎は反射的に言った。

 

 セイバーは驚いたように士郎を見る。

 

「しかし」

 

「休んでろ。まだ本調子じゃないだろ」

 

「ですが、敵が」

 

「分かってる。でも、今ここで無理をするな」

 

 士郎は門の外を見たまま言った。

 

 セイバーはしばらく黙る。

 

 それから、静かに士郎の横へ並んだ。

 

「無理はしません。ですが、貴方の前には立ちます」

 

「セイバー」

 

「私は貴方の剣です。マスター」

 

 その声には、揺らぎがあった。

 

 けれど、呼び方はマスターだった。

 

 イリヤはそのやり取りを見て、少し退屈そうにした。

 

「いいなあ。シロウは守ってくれる子が多いんだね」

 

「イリヤ、戦いに来たのか」

 

 士郎が聞く。

 

 イリヤは笑った。

 

「ううん。今日はやめてあげる」

 

 凛の目が細くなる。

 

「どういうつもり?」

 

「だって、今ここで潰したら、シロウは何も分からないまま死んじゃうでしょ?」

 

 イリヤは、無邪気な声で言った。

 

 それなのに、その言葉には冷たい棘があった。

 

「それじゃつまらないわ。ちゃんと分かってからじゃないと。自分がどれだけ無力なのか。キリツグの子どもが、何を背負っているのか。そういうのを全部分かってからじゃないと、面白くないもの」

 

 士郎の息が止まる。

 

「切嗣……?」

 

 凛の表情も変わった。

 

 イリヤは笑っている。

 

 だが、その目の奥には、幼い遊びとは違う感情があった。

 

 寂しさ。

 

 怒り。

 

 置き去りにされた子どものような、歪んだ執着。

 

「だから、明日の夜」

 

 イリヤは士郎を見た。

 

「森に来て。わたしとバーサーカーが待ってる」

 

 凛が即座に言う。

 

「受ける必要はないわ」

 

「来なくてもいいよ」

 

 イリヤは笑顔のまま言った。

 

「その時は、わたしから来るだけ」

 

 その一言で、士郎の中にあったものが動いた。

 

 今すぐ飛び出す。

 

 門を開けて、イリヤの前に立つ。

 

 バーサーカーが来るなら、自分が一番前で止める。

 

 そんな考えが、反射のように頭をよぎった。

 

 体が先に動こうとする。

 

 自分が傷つくことなど、数に入っていない。

 

 桜がいる。

 

 慎二がいる。

 

 ライダーは動けない。

 

 セイバーも万全ではない。

 

 なら、自分が前に出るしかない。

 

 いつもの考えだ。

 

 あまりにも自然に、士郎の中から出てくる答えだった。

 

 だが、士郎は足を止めた。

 

 桜の令呪を思い出した。

 

 セイバーを助けてほしいと震えながら願った声を思い出した。

 

 ライダーが力を使い切り、ただの白い犬のように伏せている姿を思い出した。

 

 セイバーが契約を切られ、それでも「マスター」と呼んだ声を思い出した。

 

 自分が飛び出せば、誰かがまた無理をする。

 

 自分が傷つくことを数に入れなければ、周りの誰かがその分だけ傷つく。

 

 士郎は奥歯を噛んだ。

 

 衝動を飲み込む。

 

 喉の奥が焼けるようだった。

 

「行く」

 

 士郎は言った。

 

 凛が士郎を睨む。

 

「衛宮くん」

 

「分かってる。無策で行くわけじゃない」

 

 士郎は凛を見る。

 

「でも、ここに来られるよりはましだ。ここには桜も慎二もいる。ライダーも動けない。だから行く。準備して行く。遠坂、手伝ってくれ」

 

 凛は一瞬、言葉を失った。

 

 以前の士郎なら、きっと一人で飛び出していた。

 

 だが、今は違う。

 

 行く。

 

 けれど、一人ではない。

 

 準備をする。

 

 それを、士郎は自分で言った。

 

 凛は小さく息を吐く。

 

「当然よ。行くなら全員で準備する。単独行動は禁止。作戦なしも禁止。勝手な突撃も禁止」

 

「分かった」

 

「三回言わせたら殴るわよ」

 

「分かったって」

 

 イリヤはそのやり取りを見て、楽しそうに笑った。

 

「いいね。少しは楽しめそう」

 

「イリヤ」

 

 士郎は門の外の少女を見る。

 

「お前は、何で俺を狙う」

 

 イリヤの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。

 

「知りたい?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、明日教えてあげる」

 

 イリヤはそう言って、背を向けた。

 

「ちゃんと来てね、シロウ。来なかったら、わたし、怒るから」

 

 白い少女の姿が、門の前から離れていく。

 

 小さな足音。

 

 冬の風。

 

 そして、遠くにある巨人の気配も、少しずつ薄れていった。

 

 完全に消えるまで、誰も動かなかった。

 

 ◇

 

 門を閉めた後も、空気は重かった。

 

 凛はすぐに結界を確認し直し、アーチャーへ周囲の監視を強めるよう指示した。セイバーは悔しそうに拳を握っている。戦える状態ではないと分かっていても、目の前で挑発されて黙っているのは彼女にとって苦痛なのだろう。

 

 桜はライダーのそばにいた。

 

 白い犬になったライダーは、まだ伏せたままイリヤが去った方角を見ている。

 

 桜の顔色は良くなかった。

 

「桜」

 

 士郎が声をかける。

 

「大丈夫か」

 

「大丈夫、ではないです」

 

 桜は正直に言った。

 

「でも、大丈夫じゃないままでも、考えます」

 

 凛が振り返る。

 

「桜?」

 

「ライダーさんは今、休まないといけません。セイバーさんも無理できません。先輩も、遠坂先輩も、アーチャーさんも、明日のために準備しないといけない」

 

 桜はライダーの毛並みに触れた。

 

「だから、私はここを守る準備をしたいです」

 

「本気なのね」

 

「はい」

 

 凛は桜を見た。

 

 桜の手は震えている。

 

 怖くないわけではない。

 

 それでも、目は逸らしていなかった。

 

「分かった」

 

 凛は頷いた。

 

「屋敷の結界補助を教えるわ。難しい術式は使わせない。あなたはライダーの残り香をこの屋敷に留めるための中心になる。それなら、今の桜にもできるかもしれない」

 

「お願いします」

 

「ただし、少しでも苦しくなったらすぐ止める。約束できる?」

 

「はい」

 

 凛は少しだけ表情を緩めた。

 

「なら、やりましょう」

 

 士郎は桜を見た。

 

 守られるだけではいたくない。

 

 桜はそう言った。

 

 その言葉は、今も確かに続いている。

 

 その時、廊下の奥でまた小さな音がした。

 

 士郎が振り返る。

 

 奥の部屋の障子が、ほんの少しだけ開いていた。

 

 慎二がそこにいた。

 

 顔色は悪い。

 

 額には汗が浮かび、片手で柱を掴んでいる。立っているというより、倒れないようにしがみついているようだった。

 

「慎二」

 

 士郎が呼ぶと、慎二はびくりと肩を揺らした。

 

「見に来たのか」

 

「……うるさい」

 

 声は震えていた。

 

 慎二は奥歯を噛み、士郎から目を逸らす。

 

「あんなのが外にいるって分かって、寝てられるわけないだろ」

 

 誰も笑わなかった。

 

 慎二の足は震えている。

 

 それを隠そうとしているのが分かるから、余計に痛々しかった。

 

「あれがバーサーカーかよ」

 

 慎二は低く言った。

 

「あんなもの、どうやって止めるんだよ」

 

 士郎は答えられなかった。

 

 答えを持っていない。

 

 これから考えるしかない。

 

 慎二は士郎を見た。

 

「お前、行くのか」

 

「ああ」

 

「馬鹿じゃないのか」

 

「かもしれない」

 

「……否定しろよ」

 

 慎二はかすれた声で笑った。

 

 だが、その笑いはすぐに消える。

 

「僕なら行かない」

 

 慎二は言った。

 

「絶対に行かない。あんなのが待ってる場所に、自分から行くなんて正気じゃない」

 

「そうだな」

 

「なのに、行くのかよ」

 

「来られるよりはましだ」

 

 慎二は黙った。

 

 しばらくして、悔しそうに顔を歪める。

 

「……そういうところが嫌いなんだよ」

 

 その言葉は弱かった。

 

 以前のように、人を見下すための言葉ではなかった。

 

 自分ができないことを、目の前の相手がやろうとしている。

 

 それが悔しい。

 

 怖い。

 

 認めたくない。

 

 そんな感情が混ざっていた。

 

 桜が慎二を見ていた。

 

 慎二はその視線に気づき、顔を背ける。

 

「見るなよ」

 

「……はい」

 

 桜はそれ以上、何も言わなかった。

 

 慎二は障子を閉めようとして、手を止める。

 

「死ぬなよ」

 

 小さな声だった。

 

 士郎は慎二を見る。

 

 慎二は、もうこちらを見ていなかった。

 

「桜がまた泣く」

 

 それだけ言って、慎二は障子を閉めた。

 

 茶の間に、短い沈黙が残る。

 

 士郎はしばらく奥の部屋を見ていた。

 

 それから、静かに息を吐く。

 

「……死なない」

 

 誰に言うでもなく、そう呟いた。

 

 白い犬になったライダーは、桜の隣で静かに目を閉じた。

 

 神気はほとんどない。

 

 それでも、その姿は桜の背を押しているようだった。

 

 セイバーは士郎を見る。

 

「マスター。明日の戦い、私も出ます」

 

「まだ本調子じゃないだろ」

 

「承知しています。ですが、バーサーカーが相手ならば、私が前に出なければなりません」

 

「セイバー」

 

「無理はしません」

 

 セイバーは真っ直ぐに言った。

 

「ですが、逃げもしません。貴方が準備して戦うというなら、私もその剣として備えます」

 

 士郎は少しだけ黙った。

 

 そして、頷く。

 

「分かった。でも、本当に無理はするな」

 

「はい」

 

 凛が手を叩いた。

 

「話はそこまで。時間がないわ。まず状況整理。バーサーカー相手に正面から殴り合うのは論外。地形、罠、アーチャーの射撃、セイバーの防御、全部使う」

 

「俺は何をすればいい」

 

「勝手に前に出ない」

 

「またそれか」

 

「それが一番大事なのよ」

 

 凛は真顔だった。

 

「あなたは前に出る前に見る。考える。指示を聞く。いい?」

 

「分かった」

 

「本当に?」

 

「本当にだ」

 

 凛はまだ疑っている顔だったが、少しだけ頷いた。

 

「なら、作戦を立てるわ」

 

 衛宮邸の昼は、もう穏やかなだけではなかった。

 

 茶の間には紙が広げられ、凛が森の地形を簡単に描いていく。アーチャーの声が時折入り、セイバーがバーサーカーの動きを想定する。士郎はそれを聞きながら、自分にできることを考える。

 

 桜は庭で、凛に教えられた通り、屋敷の結界の中心に小さく魔力を流す練習を始めた。

 

 ライダーはその隣で眠っている。

 

 ただの白い犬のように。

 

 それでも、桜はそのそばにいるだけで、少しだけ呼吸がしやすかった。

 

 ◇

 

 夜。

 

 森の奥で、イリヤはバーサーカーのそばにいた。

 

 木々の間に冷たい風が流れる。

 

 空には月が薄く浮かび、枝の影が地面に揺れている。人の気配はない。獣の気配すら、バーサーカーの存在を恐れて遠ざかっているようだった。

 

 イリヤは倒木に腰かけ、足を揺らしていた。

 

「シロウ、来てくれるかな」

 

 バーサーカーは答えない。

 

 ただ、少女の後ろに立っている。

 

 その巨体は闇の中でもはっきりと分かる。斧剣はまだ構えられていない。だが、それが振るわれれば、木も岩も人も同じように砕かれるだろう。

 

 イリヤはくすりと笑った。

 

「来るよね。だって、シロウはそういう人だもの」

 

 その声には、期待があった。

 

 怒りもあった。

 

 寂しさもあった。

 

 それらが混ざって、子どもの遊びのような言葉になっている。

 

「セイバーも来るかな。ライダーは……今は無理かな。神様なのに、犬みたいになっちゃって」

 

 イリヤは少しだけ首を傾げる。

 

「でも、あの子は気になるね。桜のそばにいる白い太陽。バーサーカー、あれが元気だったら大変だったかも」

 

 バーサーカーは沈黙している。

 

 イリヤは立ち上がった。

 

「明日は、ちゃんと遊ぼうね」

 

 森の奥で、巨人の影が静かに動いた。

 

 次の戦場は、もう決まっていた。

 

 そして、夜はその時を待つように、深く沈んでいった。

 






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