Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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アイデアが尽きる前に、書けるとこまで書き切る。



Scent of the Sun

 

 朝の衛宮邸は、いつも通りに始まるはずだった。

 

 冬の空気は冷たく、台所の床も少しひんやりしている。士郎はいつもの時間に起き、顔を洗い、米を研ぎ、味噌汁の鍋に火をかけた。包丁で大根を切る音が、まだ静かな家の中に小さく響く。

 

 それだけなら、普段と何も変わらない。

 

 だが、今朝の衛宮邸には普段と違うものが多すぎた。

 

 まず、桜が泊まっている。

 

 次に、その桜は聖杯戦争のマスターになっている。

 

 そして庭には、ライダーのサーヴァントがいる。

 

 士郎は味噌汁をかき混ぜながら、縁側の向こうを見た。

 

 庭の隅、朝日が差し込む場所に、白い神狼が伏せていた。夜に見た時よりも、その姿は少し穏やかに見える。雪のような毛並み、額から頬へ走る紅い隈取、四肢の渦巻く紋様、背に負った神鏡。それらは朝の光の中でもはっきりと存在している。

 

 ただ、不思議なことに、家の外から見ればそうは見えないらしい。

 

 昨夜、凛が言っていた。

 

 神性が高い存在は、普通の人間には正しく認識されないことがある。特にライダーのように、本人が隠そうとしなくても神秘そのものが薄く覆いをかける存在なら、一般人には別の姿に見える可能性が高い。

 

 実際、朝になって新聞配達のバイクが門の前を通った時、配達員は庭のライダーをちらりと見て、特に驚く様子もなく通り過ぎていった。

 

 たぶん、ただの白い大型犬に見えたのだろう。

 

 士郎はそう考えながら、味噌汁の火を弱めた。

 

 問題は、藤ねえだった。

 

 あの人に、桜が泊まっていることをどう説明するか。庭にいる白い大型犬、もとい神霊級サーヴァントをどう説明するか。さらに、聖杯戦争については絶対に話せない。

 

 考えれば考えるほど、胃が重くなってくる。

 

「……よし」

 

 士郎は小さく呟いた。

 

 考えても無駄だ。

 

 藤ねえは来る。絶対に来る。なら、来た時に何とかするしかない。

 

 茶の間では、桜が座布団の上に正座していた。

 

 昨夜より顔色は良い。完全に元気というわけではないが、少なくともあの地下室から逃げてきた直後のような青白さは薄れていた。右手の令呪は包帯で隠してある。凛が「学校に行くなら絶対隠しなさい」と言って置いていったものだ。

 

「桜、体は大丈夫か」

 

 士郎が声をかけると、桜は顔を上げた。

 

「はい。少しだるさはありますけど、昨日よりずっと楽です」

 

「ならよかった。今日は学校、休んだ方がいいな」

 

「……でも」

 

「無理するな。遠坂もそう言ってただろ」

 

 桜は少し困ったように笑った。

 

「そうですね。今日は休ませてもらいます」

 

 その言葉を聞いて、士郎は少し安心した。

 

 桜が無理をしない。

 

 たったそれだけのことなのに、今は大きな前進のように思えた。

 

 縁側の向こうで、ライダーが顔を上げる。士郎と桜を見て、尻尾を一度だけ揺らした。紅い隈取が朝日に照らされ、背の神鏡が淡く光る。

 

 桜はそれを見て、柔らかく目を細めた。

 

「ライダーさんも、ありがとうございます」

 

 ライダーは短く鳴いた。

 

 士郎には、その声が「当然だ」と言っているように聞こえた。

 

 その時だった。

 

 玄関の方から、勢いよく門が開く音がした。

 

「士郎ー! 朝ごはーん!」

 

 藤村大河の声だった。

 

 士郎は固まった。

 

 桜も固まった。

 

 庭のライダーだけが、のんびり耳を動かした。

 

「来た……」

 

 士郎は思わず呟いた。

 

 逃げ場はない。

 

 藤ねえは玄関を開けるのも早い。何度言っても遠慮というものを覚えてくれない。士郎が止めに行くより早く、廊下を歩く音が近づいてくる。

 

「おっはよー! いやー、今日も寒いねえ。士郎、お味噌汁ある? 先生、朝からすっごくお腹が──」

 

 茶の間に顔を出した藤ねえは、そこで止まった。

 

 目が桜を捉える。

 

 沈黙。

 

 士郎は覚悟した。

 

「……桜ちゃん?」

 

「お、おはようございます、藤村先生」

 

 桜は慌てて頭を下げた。

 

 藤ねえは目を丸くしたまま、士郎を見た。

 

 そして、桜を見た。

 

 もう一度、士郎を見る。

 

「士郎」

 

「はい」

 

「説明」

 

「えっと」

 

 士郎は言葉を探した。

 

 桜は体調を崩していた。昨日の夜に来た。家に帰れない事情があった。だから泊めた。

 

 どこまで言える。

 

 どこまで言ったら余計に怪しまれる。

 

 士郎が悩んでいると、桜が先に口を開いた。

 

「あの、すみません。昨日、少し体調が悪くなってしまって……先輩にご迷惑をかけてしまいました」

 

「体調?」

 

 藤ねえの顔が一瞬で心配そうなものに変わる。

 

「え、大丈夫なの桜ちゃん!? 熱は? 寒気は? 病院行く? 先生、車出すよ?」

 

「あ、いえ。本当にもう大丈夫です。少し休めば平気ですから」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 桜が微笑むと、藤ねえはまだ心配そうにしながらも、少しだけ肩の力を抜いた。

 

「そっかあ。でも無理しちゃだめだよ。桜ちゃん、いつも頑張りすぎるからね」

 

 桜の表情が、わずかに揺れた。

 

 士郎はそれに気づいた。

 

 藤ねえは気づかないまま、今度は士郎を睨む。

 

「士郎!」

 

「なんだよ」

 

「ちゃんと看病したんでしょうね?」

 

「したよ。今朝も休めって言った」

 

「よろしい」

 

 藤ねえは満足げに頷いた。

 

 その瞬間、庭の方で白い影が動いた。

 

 藤ねえの視線がそちらへ向く。

 

「……ん?」

 

 士郎は嫌な予感がした。

 

 藤ねえは縁側へ近づき、庭を見た。

 

 そこには、ライダーがいる。

 

 士郎と桜には、紅い隈取を持つ白い神狼として見えている。背には神鏡があり、尾の毛は炎のように揺れている。どう見ても普通の動物ではない。

 

 だが、藤ねえは目をぱちぱちさせ、それから満面の笑みを浮かべた。

 

「わあ! 白いわんこ!」

 

 士郎は頭を抱えたくなった。

 

 やっぱり、そう見えるのか。

 

「士郎、犬飼い始めたの!?」

 

「いや、違う」

 

「じゃあ桜ちゃんの?」

 

「えっと……」

 

 桜が困ったように笑う。

 

 ライダーは縁側の前に座り、藤ねえを見上げた。紅い隈取も神鏡も、藤ねえの目には見えていないのだろう。ただの大きな白い犬に見えているらしい。

 

「大きいねえ。真っ白だねえ。もふもふだねえ」

 

 藤ねえは庭に降りようとした。

 

 士郎は慌てて止める。

 

「待て藤ねえ。いきなり触るな」

 

「えー、なんでよ。こんなにかわいいのに」

 

「大きい犬は急に触ると危ないだろ」

 

「大丈夫だよ。私、動物には好かれるし」

 

「その自信はどこから来るんだ」

 

 藤ねえは士郎の制止を半分聞き流しながら、縁側にしゃがみ込んだ。

 

「おいでー」

 

 ライダーはしばらく藤ねえを見ていた。

 

 それから、ちらりと桜を見る。

 

 桜は少し困ったように微笑んだ。

 

「ライダーさん……あ、えっと」

 

 桜は慌てて口を押さえた。

 

 藤ねえが首を傾げる。

 

「ライダーさん?」

 

「な、名前です」

 

 桜が小さく答える。

 

「この子の名前、ライダーっていうんです」

 

「へえ、かっこいい名前! 白いのにライダー! なんか強そう!」

 

 藤ねえは納得した。

 

 士郎はそれでいいのかと思ったが、突っ込むと余計ややこしくなるので黙った。

 

 ライダーはゆっくりと立ち上がり、縁側に近づいた。藤ねえの手が届く少し手前で止まる。完全に触らせる気はないが、拒絶しているわけでもない。

 

 藤ねえは嬉しそうに笑った。

 

「賢いねえ、ライダーちゃん」

 

 ライダーの耳がぴくりと動いた。

 

 ちゃん。

 

 その呼び方に反応したように見えた。

 

 士郎は少しだけ笑いそうになった。

 

 神霊級サーヴァントが、藤ねえに「ライダーちゃん」と呼ばれている。

 

 凛が見たら頭を抱えるだろう。

 

 その予想は、数十分後に現実になった。

 

 朝食が終わった頃、遠坂凛が衛宮邸を訪れた。

 

 制服姿で、いつものようにきっちりしている。だが、門をくぐってすぐ、庭で藤ねえがライダーに話しかけている光景を見て、足を止めた。

 

「……何してるの」

 

 凛の声は低かった。

 

 藤ねえは振り返る。

 

「あれ、遠坂さん。おはよう」

 

「おはようございます、藤村先生」

 

 凛はにこやかに挨拶した。

 

 だが、その目は笑っていない。

 

 視線は士郎へ向いていた。

 

 説明しなさい。

 

 そう言っている。

 

 士郎は目を逸らした。

 

 藤ねえはそんな空気に気づかず、ライダーを指差した。

 

「見て見て、遠坂さん。士郎の家に大きな白いわんこがいるの。ライダーちゃんっていうんだって」

 

「ライダー……ちゃん」

 

 凛のこめかみがぴくりと動いた。

 

 ライダーは藤ねえの隣で座っている。士郎たちには紅い隈取も神鏡も見えているが、藤ねえだけは本当にただの白い犬として見ているらしい。

 

 凛は小声で士郎に詰め寄った。

 

「衛宮くん。神霊級サーヴァントを大型犬扱いで一般人に見せるって、あなたたち正気?」

 

「俺に言うな。藤ねえが勝手に入ってきたんだ」

 

「それを止めなさいよ」

 

「無理だろ、藤ねえだぞ」

 

 凛は一瞬黙った。

 

 妙に納得したような顔になった。

 

「……それは少し分かるけど」

 

「分かるのか」

 

「分かるわよ。学校でもあの調子だもの」

 

 凛は深くため息をついた。

 

 それから桜を見る。

 

「桜、体はどう?」

 

「昨日より楽です。先輩が朝食も用意してくれましたし、ライダーさんもそばにいてくれましたから」

 

「そう。ならいいわ」

 

 凛の声が少しだけ柔らかくなる。

 

 藤ねえはその様子を見て、何かを察したように大きく頷いた。

 

「なるほど。桜ちゃんは今日はお休みだね。先生、学校にはうまく言っておくよ」

 

「えっ」

 

 桜が驚く。

 

「いいんですか?」

 

「いいのいいの。体調不良でしょ? 無理しちゃだめ。あと、士郎」

 

「なんだよ」

 

「桜ちゃんをちゃんと休ませること。学校から帰ったら、ちゃんと面倒見ること。いいね?」

 

「分かってる」

 

「よろしい」

 

 藤ねえは満足そうに頷いた。

 

 その単純さに、士郎は少し救われた。

 

 もちろん、何も知らないからこその単純さだ。藤ねえに本当のことを話すわけにはいかない。それでも、桜を自然に気遣ってくれる存在がいることは、今の桜にとって悪くないのかもしれない。

 

 凛は藤ねえが台所へ向かった隙に、小声で言った。

 

「今日の方針を確認するわ」

 

 士郎と桜は凛を見る。

 

「桜は学校を休む。ライダーは衛宮邸から出ない。一般人には白い大型犬に見えるみたいだけど、油断しないで。サーヴァントや魔術師には正しく見える可能性が高い」

 

 ライダーが耳を動かす。

 

「衛宮くんは学校へ行く」

 

「俺も?」

 

「当然。あなたまで休んだら怪しまれるでしょ。桜が休んで、慎二くんの様子も分からない。学校で情報を拾う必要がある」

 

 士郎は少し迷った。

 

 桜を置いて学校へ行くことに抵抗がある。だが、凛の言うことも分かる。普段通りにしなければ、余計な疑いを招くかもしれない。

 

「桜は大丈夫なのか」

 

 士郎が言うと、凛は庭を見た。

 

「ライダーがいるわ。正直、私がここに残るより安全かもしれない」

 

 ライダーは当然だと言わんばかりに尻尾を振った。

 

 士郎は桜を見る。

 

「桜、本当に大丈夫か」

 

「はい。私は大丈夫です。先輩は学校へ行ってください」

 

「何かあったら、すぐ連絡しろ」

 

「はい」

 

 凛は頷く。

 

「それと、学校では余計なことを言わない。聖杯戦争の話もしない。慎二くんに桜のことを聞かれても、知らないふりをすること」

 

「慎二にか」

 

「ええ。今の慎二くんがどういう状態か分からない以上、下手に刺激しない方がいい」

 

 士郎は少し苦い顔をした。

 

 慎二。

 

 桜の兄。

 

 今まで友人だと思っていた相手。

 

 だが、昨夜の桜の様子を見た後では、いつもと同じ目で見ることはできそうになかった。

 

 それでも、学校へ行くしかない。

 

 朝食の後、藤ねえが先に出ていき、続いて士郎と凛も家を出ることになった。

 

 玄関先で、桜が見送る。

 

「いってらっしゃい、先輩」

 

「ああ。行ってくる。ちゃんと休んでろよ」

 

「はい」

 

 庭のライダーが、縁側から士郎を見る。

 

 士郎は少し考えてから、軽く頭を下げた。

 

「桜を頼む」

 

 ライダーは短く鳴いた。

 

 それは昨日と同じ、当然だという返事に聞こえた。

 

 学校へ向かう道すがら、凛は小声で言った。

 

「衛宮くん。今日一日、特に放課後は気をつけて」

 

「放課後?」

 

「聖杯戦争は夜に動くことが多い。学校は霊地としても意味があるし、マスターが通っている可能性も高い。何が起きてもおかしくない」

 

「遠坂も学校で何かするのか」

 

「必要があればね」

 

 凛はそれ以上、詳しくは言わなかった。

 

 士郎も深く聞けなかった。

 

 学校に着くと、表向きはいつもの日常がそこにあった。

 

 生徒たちは普通に登校し、教室では友人同士の会話が飛び交っている。教師の声、机を引く音、廊下を走る足音。昨日までと同じ学校。

 

 だが、士郎には少し違って見えた。

 

 この中に、マスターがいるかもしれない。

 

 この校舎のどこかで、サーヴァント同士の戦いが起こるかもしれない。

 

 そう考えると、普通の教室さえ薄い膜の向こう側にあるようだった。

 

 慎二は、いつもより機嫌が悪そうだった。

 

 朝のホームルーム前、慎二は自分の席で苛立ったように机を指で叩いていた。取り巻きの生徒が何か話しかけても、まともに返事をしない。

 

 士郎は遠くからそれを見ていた。

 

 桜が帰っていないことを、慎二は知っているはずだ。臓硯が消えたことも、少なくとも昨夜の地下室の異変は見ている。平静でいられるわけがない。

 

 だが、慎二は外では虚勢を張る。

 

「衛宮」

 

 昼休み、廊下で慎二に呼び止められた。

 

 士郎は足を止める。

 

「慎二」

 

 慎二はいつものような薄い笑みを浮かべていた。

 

 だが、その目は笑っていない。

 

「桜、今日休んでるよな」

 

「ああ。体調が悪いらしい」

 

「らしい?」

 

 慎二の眉が動く。

 

「おまえ、何か知ってるんじゃないのか」

 

 士郎は凛の言葉を思い出した。

 

 余計なことを言わない。

 

 慎二を刺激しない。

 

「朝、藤ねえから聞いただけだ。体調不良だって」

 

「ふうん」

 

 慎二は士郎をじっと見た。

 

 探るような視線だった。

 

「昨日の夜、桜がどこにいたかも知らない?」

 

「知らない」

 

 嘘をついた。

 

 士郎は嘘が得意ではない。自分でも声が少し硬くなったのが分かった。だが、慎二はそれ以上追及しなかった。

 

 代わりに、苛立ったように舌打ちする。

 

「まったく、あいつも面倒なことしてくれるよ」

 

 その言い方に、士郎の胸の奥が熱くなった。

 

 だが、抑えた。

 

 今ここで怒鳴っても、何も進まない。桜のためにもならない。

 

「慎二」

 

「何だよ」

 

「桜は体調が悪いんだ。そういう言い方はやめろ」

 

 慎二の顔が一瞬歪んだ。

 

「……おまえに言われる筋合いないんだけど」

 

「そうかもしれない。でも、言う」

 

 慎二はしばらく士郎を睨んでいた。

 

 やがて、ふん、と鼻で笑う。

 

「相変わらずだな、衛宮は」

 

 それだけ言って、慎二は去っていった。

 

 士郎はその背中を見送る。

 

 何かが変わり始めている。

 

 そう感じた。

 

 放課後。

 

 士郎は弓道場に顔を出した後、早めに帰るつもりだった。凛にも「用が済んだらすぐ帰りなさい」と念を押されている。

 

 だが、校舎の空気は夕方になるにつれ、妙に張りつめていった。

 

 廊下の隅に、見えない糸が張られているような感覚。

 

 魔術の気配なのか、士郎には分からない。けれど、昨夜から続く異常な出来事のせいで、何でもない違和感まで気になるようになっていた。

 

 凛は放課後になると、姿を消した。

 

 士郎は一度、遠坂の姿を探そうとして、やめた。

 

 深入りするな。

 

 そう言われている。

 

 だから士郎は、いつもより早く学校を出た。

 

 日が沈み始めている。

 

 冬の夕暮れは早い。校門を出る頃には、空の端が暗くなり始めていた。

 

 士郎は振り返る。

 

 学校の校舎が、夕闇の中で黒く沈んで見えた。

 

 胸騒ぎはあった。

 

 だが、今の士郎には帰る理由がある。

 

 衛宮邸には桜がいる。

 

 ライダーがいる。

 

 自分が戻るべき場所がある。

 

 士郎は踵を返し、家へ向かった。

 

 その夜。

 

 学校の屋上に、冷たい風が吹いていた。

 

 遠坂凛は校舎の上に立ち、街を見下ろしていた。隣には、赤い外套のアーチャーがいる。

 

「……いるわね」

 

 凛が呟く。

 

 アーチャーは頷いた。

 

「ああ。誘われている、というより、こちらを試しているな」

 

 夜の校庭。

 

 そこに、蒼い影が立っていた。

 

 長身の男。手には赤い槍。軽薄そうに見える笑みを浮かべながら、しかし全身から放たれる戦意は鋭い。そこにいるだけで、空気が張りつめる。

 

 ランサーのサーヴァント。

 

 凛は唇を結んだ。

 

「初戦からランサーなんて、ついてないわね」

 

「悪くない相手だ。少なくとも、力量を測るには不足はない」

 

「余裕ね、アーチャー」

 

「余裕ではない。事実を言っただけだ」

 

 アーチャーは屋上の縁から校庭を見下ろす。

 

 ランサーが顔を上げた。

 

 目が合う。

 

 次の瞬間、赤い槍が閃いた。

 

 戦闘は、唐突に始まった。

 

 アーチャーが飛び降りる。手には双剣。校庭に着地すると同時に、ランサーの槍と刃がぶつかった。火花が散る。金属音が夜の学校に響く。

 

 凛は屋上から周囲を確認する。

 

 人払いは済ませてある。士郎も帰ったはずだ。目撃者はいない。少なくとも、原作ならここで最悪の偶然が起こっていたのかもしれないが、この夜の士郎は学校に残っていなかった。

 

 槍と双剣が交差する。

 

 ランサーは楽しそうに笑った。

 

「やるじゃねえか、アーチャー。弓兵のくせに近接戦もいけるのかよ」

 

「弓兵が弓しか扱えないと思うのは早計だな」

 

「へえ、言うねえ」

 

 ランサーが踏み込む。

 

 槍が伸びる。

 

 アーチャーは双剣で受け流し、距離を取った。凛はその動きを見ながら、相手の能力を探る。速い。槍の間合いが厄介だ。正面からまともに戦えば、アーチャーでも分が悪い。

 

 だが、それ以上に気になることがあった。

 

 ランサーの視線が、時折、学校の外へ向く。

 

 戦闘中にも関わらず、何かを気にしている。

 

「何を見ている」

 

 アーチャーが問いかける。

 

 ランサーは槍を肩に担ぎ、にやりと笑った。

 

「いやな。昨夜から変な匂いがしてたんだよ」

 

「犬の鼻でも持っているのか?」

 

「犬どころじゃねえな」

 

 ランサーは東の方角を見た。

 

 その先には住宅街がある。

 

 衛宮邸のある方角。

 

「ありゃあ……太陽か?」

 

 凛の表情が変わった。

 

 アーチャーもわずかに目を細める。

 

「気づいたか」

 

「気づくだろ、あんなもん。夜の街に場違いな匂いを撒き散らしてやがる。清められた土地、妙に強い神気、それに獣の気配。おまけに、聖杯戦争のサーヴァントときた」

 

 ランサーは笑った。

 

 戦闘中だというのに、心底楽しそうだった。

 

「面白え。ライダーか? いや、何だありゃ。神様の犬でも呼んだか?」

 

 凛は奥歯を噛んだ。

 

 衛宮邸の聖域化は、普通の魔術師なら感知しにくいよう外周に結界を重ねてある。だが、サーヴァント相手には完全ではない。特にランサーのような優れた戦士なら、戦闘感覚で違和感を拾ってもおかしくない。

 

「アーチャー」

 

「分かっている」

 

 アーチャーが双剣を構える。

 

「ここで足止めする」

 

「おいおい、そんな怖い顔すんなよ」

 

 ランサーが槍を回す。

 

「別に今すぐ行くとは言ってねえだろ。ただ、気になっただけだ」

 

「それを素直に信じる理由はないな」

 

「だろうな」

 

 ランサーが笑う。

 

 そして、次の瞬間、再び槍が走った。

 

 アーチャーが受ける。

 

 戦闘は続く。

 

 だが、凛には分かった。

 

 ランサーはもう、こちらだけを見ていない。

 

 衛宮邸の太陽に気づかれた。

 

 その事実だけで、盤面はさらに悪くなっていた。

 

 同じ頃、衛宮邸。

 

 茶の間では、士郎が夕食の片づけをしていた。

 

 桜は朝よりも少し顔色が良くなっている。無理はさせないようにしたが、それでも皿を運ぶくらいは手伝うと言ってきかなかった。士郎は何度か止め、結局軽いものだけ任せた。

 

 藤ねえは夕食を食べるだけ食べて、桜の体調を心配しながら帰っていった。

 

 庭にはライダーがいる。

 

 昼間、藤ねえに「ライダーちゃん」と呼ばれていた神狼は、夜になると再び本来の神々しさを増していた。紅い隈取が暗がりに浮かび、背の神鏡が月を映している。

 

 士郎が洗い物を終えた時だった。

 

 ライダーが、静かに顔を上げた。

 

 それまで伏せていた体が起き上がる。

 

 耳が動く。

 

 背の神鏡が淡く光った。

 

 桜がすぐに気づく。

 

「ライダーさん?」

 

 士郎も縁側へ向かった。

 

「どうした」

 

 ライダーは答えない。

 

 ただ、夜の向こうを見ていた。

 

 方角は、学校の方だった。

 

 士郎の胸がざわつく。

 

 凛の言葉を思い出す。

 

 夜に動く。

 

 学校は霊地として意味がある。

 

 何が起きてもおかしくない。

 

「……遠坂か」

 

 士郎が呟く。

 

 桜が不安そうに士郎を見る。

 

「先輩」

 

「大丈夫。俺は出ない」

 

 士郎は自分に言い聞かせるように言った。

 

「遠坂にも言われてる。今は勝手に動かない」

 

 それでも、拳は自然と握られていた。

 

 学校で何かが起きている。

 

 凛が戦っているのかもしれない。

 

 アーチャーがいるとはいえ、危険なことには変わりない。

 

 だが、ここには桜がいる。

 

 自分が守ると言った相手がいる。

 

 勝手に飛び出せば、桜を不安にさせるだけだ。

 

 ライダーが一歩前に出た。

 

 庭の空気が変わる。

 

 衛宮邸を包む清められた気配が、静かに強まった。見えない境界が張られるように、庭の草木が淡く光を帯びる。

 

 桜はライダーのそばへ寄った。

 

「何か、来るんですか」

 

 ライダーは低く鳴いた。

 

 それは肯定にも、警告にも聞こえた。

 

 士郎は夜空を見上げる。

 

 遠くで、何かがぶつかるような気配がした。

 

 音ではない。

 

 魔力の震え。

 

 士郎にはまだうまく感じ取れない。けれど、今夜の空気が普通ではないことだけは分かった。

 

 庭の中央で、ライダーの紅い隈取が燃えるように浮かび上がる。

 

 背の神鏡に、月ではない光が宿る。

 

 それは、夜を照らす小さな太陽のようだった。

 

 桜はそっと、ライダーの背に手を置いた。

 

「ライダーさん……」

 

 白い神狼は、学校の方角を見据えたまま動かない。

 

 その目は、まだ見ぬ敵を捉えているようだった。

 

 夜は深い。

 

 聖杯戦争の最初の衝突は、士郎の知らない場所で始まっている。

 

 そして蒼い槍兵は、すでに太陽の匂いを嗅ぎつけていた。





ランサーは犬だった……?

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