Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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ライダー(◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎)の戦闘描写には少量の想像が含まれています……



Shadow Under the Sun

 

 蒼い影が、冬木の夜を駆けていた。

 

 屋根を蹴り、塀を越え、電線の影を縫うように進む。その速度は、人間のものではない。夜道を歩く者がいたとしても、目に映るのは一瞬の風だけだろう。だが、本人に急いでいる自覚はなかった。

 

 ランサーは、ただ面白いものを見つけただけだった。

 

 学校の校庭で打ち合っていた赤い外套の弓兵は、まだ後ろにいる。追ってきてはいるが、完全には届かない。あれはあれで悪くない相手だった。弓兵のくせに双剣を握り、槍の間合いへ平然と踏み込んでくる。あのまま続けていれば、それなりに楽しい勝負になっただろう。

 

 だが、今は別の匂いがした。

 

 清められた土地。

 

 妙に強い神気。

 

 獣の気配。

 

 何より気になったのは、それが夜の街に似合わないほど明るいことだった。聖杯戦争の夜は、血と魔力と殺意で湿るものだ。なのに、その一角だけは違う。まるで夜の住宅街に、朝日を落としたような気配がある。

 

「……太陽、ねえ」

 

 ランサーは笑った。

 

 槍兵の足が屋根瓦を軽く蹴る。視線の先には、古い日本家屋の並ぶ住宅街が広がっている。その中に、妙なほど澄んだ場所があった。

 

 そこだけ空気が違う。

 

 普通の魔術師なら、結界だの防壁だのと言うのかもしれない。だが、ランサーの感覚では違った。あれは壁ではない。拒絶でもない。ただ、その場所そのものが清められている。

 

 踏み込めば、隠れたものは浮き彫りになる。

 

 殺意も、呪いも、影も、夜の底へ沈めていたものも。

 

 戦場としては面白い。

 

 背後で空気が震えた。

 

 アーチャーが追ってきている。

 

「待て、ランサー」

 

「待てと言われて待つ槍兵がいるかよ」

 

 ランサーは振り返らずに答えた。

 

「それとも、あの白いのを見られると困るのか?」

 

 返答の代わりに、後方から刃が飛んできた。投影された剣だろう。ランサーは槍を回し、それを弾き落とす。金属音が夜に散った。

 

「怖い怖い。図星か?」

 

「好奇心で他人の拠点に踏み込むなと言っている」

 

「聖杯戦争でそれを言うかよ」

 

 ランサーは笑い、さらに速度を上げた。

 

 路地を越え、屋根を越え、風のように夜を裂く。

 

 やがて、目的の屋敷が見えた。

 

 広い敷地。古い日本家屋。静かな庭。

 

 そして、その中心にある澄み切った気配。

 

 ランサーは塀の上に降り立った。

 

 足元で、見えない何かがかすかに弾ける。結界というより、清められた水面に足を入れたような感覚だった。肌がぴりつく。だが、不快ではない。むしろ、こちらをはっきり見据えてくるような清浄さがある。

 

「よお」

 

 ランサーは庭の中へ声を投げた。

 

「こいつはまた、妙な屋敷だな」

 

 縁側の方で、人影が動いた。

 

 赤毛の少年。

 

 その後ろに、紫の髪の少女。

 

 そして、その前に白い神狼が立ち上がる。

 

 ランサーは目を細めた。

 

 白い毛並み。額から鼻筋、頬へ走る紅い隈取。四肢に刻まれた渦のような紋様。背に負った神鏡。尾へ流れる炎のような毛。

 

 昼間なら、普通の人間の目にはただの白い大型犬にでも見えるのかもしれない。だが、サーヴァントであるランサーの目には、その姿がはっきりと見えていた。

 

 神気をまとった獣。

 

 太陽を背負う白いライダー。

 

 ランサーは、心底楽しそうに笑った。

 

「白い犬……って呼ぶには、さすがに罰が当たりそうだな」

 

 ◇

 

 少し前まで、衛宮邸の茶の間は穏やかだった。

 

 藤村大河は夕食を食べるだけ食べ、桜の体調をこれでもかと心配してから帰っていった。帰り際には庭のライダーに向かって「ライダーちゃん、桜ちゃんをよろしくね」と手を振っていた。ライダーはそれに対して、どこか不満そうに耳を動かしていたが、結局何もしなかった。

 

 士郎は夕食の片づけを終え、布巾で手を拭いていた。

 

 桜は縁側の近くに座っている。朝より顔色は良い。まだ疲れは残っているが、食事も少し取れた。無理に笑っているのではなく、本当に少しだけ安心しているように見える。そのことが、士郎には嬉しかった。

 

 庭にはライダーがいた。

 

 昼間、藤ねえにはただの白い大型犬に見えていたのだろう。だが、士郎と桜の目には違う。紅い隈取が暗がりに浮かび、背の神鏡が月を映し、尾へ流れる毛は赤と橙の炎のように揺れている。

 

 衛宮邸の庭は、昨日より静かだった。

 

 ライダーが清めた土地の空気は、夜になっても柔らかい。冷たい冬の空気の中に、わずかな朝の気配が残っている。士郎には魔術の詳しいことは分からないが、この家が守られていることだけは感じ取れた。

 

 だからこそ、ライダーが顔を上げた瞬間、士郎にも分かった。

 

 何かが来る。

 

 ライダーはゆっくりと立ち上がった。

 

 耳が動く。

 

 背の神鏡が淡く光る。

 

 桜が不安そうに声をかける。

 

「ライダーさん……?」

 

 ライダーは答えない。

 

 ただ、門の方角を見据えている。

 

 士郎は布巾を置き、縁側へ向かった。

 

「どうした」

 

 ライダーは低く鳴いた。

 

 昼間の気の抜けた声ではない。警告。あるいは、桜を下がらせるための合図。

 

 桜はすぐに立ち上がろうとしたが、足元が少しふらついた。士郎は反射的に支える。

 

「桜、大丈夫か」

 

「はい。でも、ライダーさんが……」

 

「分かってる」

 

 士郎は門の方を見た。

 

 凛の言葉を思い出す。

 

 夜に動く。

 

 学校は霊地として意味がある。

 

 何が起きてもおかしくない。

 

 士郎は拳を握った。

 

「俺は外に出ない」

 

 小さく言う。

 

 桜が士郎を見る。

 

「遠坂にも言われてる。今は勝手に動かない。ここには桜がいる。ライダーもいる。俺が飛び出したら、余計に危ない」

 

 それは桜に言った言葉であり、自分に言い聞かせる言葉でもあった。

 

 ライダーが一歩前へ出る。

 

 庭の空気が変わった。

 

 清められた土地の気配が、静かに強まる。草木の先に淡い光が宿り、見えない境界が衛宮邸を包む。庭の中央に、うっすらと金色の線が浮かんだ。昨夜、ライダーが筆しらべで描いた守りの名残だ。

 

 その時、塀の上から声がした。

 

「よお。こいつはまた、妙な屋敷だな」

 

 士郎の背筋が冷えた。

 

 軽い声だった。

 

 けれど、その軽さの奥に、刃物のような鋭さがある。

 

 塀の上に、男が立っていた。

 

 蒼い装束。手には赤い槍。青い髪が夜風に揺れ、口元には不敵な笑みが浮かんでいる。士郎はその姿を見た瞬間、理解した。

 

 人間ではない。

 

 遠坂のアーチャーと同じ。

 

 サーヴァントだ。

 

「おまえは……」

 

「ランサーだ」

 

 男はあっさりと言った。

 

「そっちの白いのと同じ、サーヴァントってやつだよ」

 

 士郎は桜を背に庇うように立った。

 

 体が勝手に動いた。

 

 だが、ランサーの目は士郎ではなく、庭のライダーに向いている。

 

「白い犬……って呼ぶには、さすがに罰が当たりそうだな」

 

 ランサーは塀の上から庭へ降り立った。

 

 その足が地面に触れた瞬間、衛宮邸の空気がわずかに震えた。清められた土地が、外から来た異物を拒もうとしている。ランサーはそれに気づいたのか、口笛を吹いた。

 

「へえ。踏み込むだけで肌がぴりつく。聖域か、ここは」

 

 ライダーは桜の前に立った。

 

 唸らない。

 

 吠えない。

 

 だが、退くつもりはない。

 

 紅い隈取が夜の中で燃えるように浮かび、背の神鏡が淡く回る。藤ねえに見えていた白い大型犬の姿ではない。ランサーには、ライダーの本来の姿が見えている。

 

 神気をまとった白い神狼。

 

 太陽を背負うサーヴァント。

 

 ランサーは目を細め、笑った。

 

「神様の使いか? いや、もっと上か。まったく、今回の聖杯戦争は初っ端から退屈しねえな」

 

「ここに何しに来た」

 

 士郎が言う。

 

 声が硬い。

 

 ランサーはようやく士郎を見た。

 

「おまえ、マスターか?」

 

「違う」

 

「へえ。じゃあ何だ」

 

 士郎は答えに詰まった。

 

 何だ。

 

 自分は何なのか。

 

 マスターではない。サーヴァントでもない。魔術師としても半端だ。桜を守ると言ったが、目の前のランサー相手に何ができるのか分からない。

 

 桜が小さく声を出した。

 

「先輩……」

 

 その声で、士郎は一歩も引けなくなった。

 

「桜の味方だ」

 

 ランサーは一瞬きょとんとした。

 

 それから、声を上げて笑った。

 

「ははっ、いいねえ。そういうのは嫌いじゃねえ」

 

 だが、槍を持つ手は緩まない。

 

 士郎には分かった。

 

 この男は笑いながら人を殺せる。

 

 軽口を叩きながら、次の瞬間には槍を突き出せる。

 

 ライダーもそれを分かっているのだろう。

 

 白い神狼は、静かに前足を踏み出した。

 

 ランサーの目が鋭くなる。

 

「試していいか、ライダー」

 

 返事はなかった。

 

 代わりに、ライダーの背の神鏡が回転した。

 

 ランサーが動く。

 

 速い。

 

 士郎の目では追いきれなかった。蒼い影が消えたと思った瞬間、赤い槍が月光を裂いていた。

 

 狙いは、桜。

 

 いや、正確には桜へ届くか届かないかの線。

 

 試すための一撃。

 

 だが、士郎にはそれだけで十分すぎるほど恐ろしかった。

 

「桜!」

 

 叫ぶより早く、ライダーが動いた。

 

 白い神狼の背の神鏡が前へ滑るように浮かぶ。鏡面に月ではなく金色の光が宿り、そこから薄い光の盾が広がった。

 

 赤い槍が、その光へ突き刺さる。

 

 甲高い音が庭に響いた。

 

 槍は止まっていた。

 

 桜へは届いていない。

 

 士郎は息を呑む。

 

 ライダーは一歩も退いていなかった。

 

「受けたか」

 

 ランサーは笑う。

 

「やるじゃねえか、ライダー!」

 

 ライダーの紅い隈取が濃くなる。

 

 神鏡が再び背へ戻ると同時に、今度は白い神狼の周囲に小さな光が浮かんだ。丸みを帯びた玉。勾玉の形をした光がいくつも連なり、ライダーの周囲を回る。

 

 士郎は目を見開いた。

 

 昨日まで、ライダーの背には鏡しか見えていなかった。だが今、その周囲に浮かぶ勾玉は、まるで別の神器のように輝いている。

 

 ランサーが口角を上げる。

 

「おいおい、犬が飛び道具まで使うのかよ」

 

 ライダーが短く鳴いた。

 

 勾玉が一斉に光を放つ。

 

 金色の弾が庭を走った。ランサーは軽く跳び、身をひねり、槍で弾き、避けていく。人間の動きではない。速い。軽い。まるで攻撃そのものを楽しんでいるようだった。

 

「いいねえ! 面白い!」

 

 ランサーが踏み込む。

 

 だが、ライダーは追わない。

 

 桜の前から離れない。

 

 ランサーが間合いに入った瞬間、空中に墨の線が走った。

 

 士郎はそれを見た。

 

 筆などない。

 

 誰かが手を動かしたわけでもない。

 

 それでも、夜の庭に一筋の墨線が引かれる。

 

 一閃。

 

 線が走った瞬間、ランサーの足元の地面が裂けた。

 

 槍の軌道がわずかに逸れる。ランサーは反射的に後ろへ跳び、距離を取った。

 

 その顔から、笑みが少しだけ消えていた。

 

「……今のは、魔術じゃねえな」

 

 ライダーは答えない。

 

 ただ、桜の前に立ち続ける。

 

 その背の神鏡に、月光と金色の光が重なっていた。

 

 ランサーは槍を軽く回し、改めてライダーを見た。

 

「なるほど。力任せってわけじゃねえ。場を変える。線を引く。守るものの前から動かずに、こっちの動きを削ってくる。こりゃ厄介だ」

 

 士郎は、その言葉を聞きながら何もできずにいた。

 

 目の前で戦いが起きている。

 

 ライダーが桜を守っている。

 

 ランサーの槍が、ほんの少しでも通れば桜に届く。

 

 それなのに、自分の足は動かない。

 

 動いたところで、どうなる。

 

 槍の速さすら見えなかった。

 

 割って入れば、守るどころか邪魔になるだけだ。

 

 その事実が、士郎の胸に重く沈んだ。

 

「間に合った……!」

 

 声が門の外から聞こえた。

 

 凛だった。

 

 すぐ隣に、赤い外套のアーチャーが着地する。

 

 凛は庭の状況を見て、顔を引きつらせた。

 

「だから言ったじゃない! 夜に厄介事が来るって!」

 

「俺は出てない」

 

 士郎は思わず返した。

 

「向こうから来たんだ」

 

 凛は一瞬、言葉に詰まった。

 

「……それはそうだけど!」

 

 アーチャーはすでに双剣を構えていた。

 

 ランサーを挟むように、アーチャーとライダーが位置を取る。ライダーは桜の前から動かないため、完全な包囲ではない。だが、ランサーが桜へ踏み込もうとすればライダーが受け、外へ逃げようとすればアーチャーが追う形になる。

 

 ランサーはその状況を見て、楽しそうに笑った。

 

「おいおい、アーチャーにライダーか。初日から二騎相手はさすがに骨が折れるな」

 

「なら、引くか」

 

 アーチャーが言う。

 

「そう急かすなよ。せっかく面白くなってきたんだ」

 

「こちらとしては、これ以上この家の庭を荒らされるのは困るのよ」

 

 凛が鋭く言った。

 

「あなた、何が目的?」

 

「目的ってほどじゃねえよ。妙な匂いがしたから見に来ただけだ」

 

「サーヴァントが敵陣の拠点に来る理由としては十分すぎるわね」

 

「敵陣ねえ」

 

 ランサーはライダーを見る。

 

「白いの。あんた、本当に聖杯が欲しいのか?」

 

 ライダーは答えない。

 

 ただ、桜の前にいる。

 

 ランサーはその様子を見て、何かを察したように笑った。

 

「なるほど。そういうことか。マスターを守るのが第一で、聖杯なんざ二の次って顔だ」

 

 ライダーの尾がわずかに揺れた。

 

 ランサーは槍を肩に担ぐ。

 

「今日は顔見せだ。白いの、次はもう少し遊ぼうぜ」

 

 ライダーは短く鳴いた。

 

 その声は、楽しみにしているというより、次に桜へ近づいたら容赦しないという警告に聞こえた。

 

 ランサーは笑う。

 

「怖い怖い」

 

「逃がすと思うか」

 

 アーチャーが一歩前に出る。

 

 ランサーは肩をすくめた。

 

「追ってもいいぜ。ただ、ここで続けたら、そこの坊主と嬢ちゃんを巻き込むぞ」

 

 凛の表情が険しくなる。

 

 それは脅しだった。

 

 だが、効果はあった。

 

 この場には士郎と桜がいる。ライダーの聖域があるとはいえ、全力のサーヴァント戦をこの庭で続ければ、二人を完全に守り切れる保証はない。

 

 アーチャーもそれを理解しているのか、動かなかった。

 

 ランサーは満足げに笑い、塀の上へ跳んだ。

 

「じゃあな。アーチャー、続きはまた今度だ。ライダー、おまえともな」

 

 蒼い影が夜へ溶ける。

 

 数秒後には、その気配も遠ざかっていた。

 

 庭に沈黙が戻る。

 

 だが、先ほどまでの穏やかな静けさではない。戦いの余韻が、まだ空気を震わせている。

 

 凛が深く息を吐いた。

 

「……最悪ね」

 

 士郎は何も言えなかった。

 

 桜は、ライダーのそばに立っていた。震えている。けれど、倒れそうなほどではない。ライダーがすぐそばにいるからだろう。白い神狼は、まだ門の方を見ている。

 

 アーチャーは双剣を消し、凛の横に立った。

 

「追わないのか」

 

 士郎が言う。

 

「追ってほしいの?」

 

 凛が即座に返す。

 

 その声は少し荒かった。

 

「今ここを離れたら、また別の敵が来た時にどうするのよ。ランサー一騎だけが動いているとは限らない。今はこの場の安全確保が優先」

 

「……そうか」

 

 士郎は頷いた。

 

 正しい。

 

 凛は正しい。

 

 今追えば、桜が危険になるかもしれない。

 

 それでも、胸の奥に焦りが残った。

 

 凛は士郎を見る。

 

「分かったでしょ。これが聖杯戦争よ」

 

 その言葉は、厳しかった。

 

 だが、責めているわけではない。

 

 事実を突きつけているだけだった。

 

「サーヴァント同士の戦いに、人間が不用意に入れば死ぬ。マスターじゃないならなおさら。衛宮くん、あなたが何かしたいと思っても、今のままじゃ本当に何もできない」

 

 士郎は唇を噛んだ。

 

 分かっている。

 

 今、嫌というほど分かった。

 

 守ると言った。

 

 桜がここにいたいなら、ここにいればいいと言った。

 

 なのに、槍が振るわれた瞬間、自分は何もできなかった。

 

 動けば死ぬ。

 

 動かなくても、守れない。

 

 その現実だけが、士郎の中に残っていた。

 

「先輩」

 

 桜が声をかける。

 

 士郎は顔を上げた。

 

「大丈夫ですか」

 

「俺は大丈夫だ。桜こそ」

 

「私は……ライダーさんが守ってくれましたから」

 

 桜はライダーの背に手を置いた。

 

「先輩も、無事でよかったです」

 

 その言葉が、士郎には余計に刺さった。

 

 桜は責めない。

 

 凛のように現実を突きつけることもしない。

 

 ただ、士郎が無事でよかったと言う。

 

 だからこそ、士郎は自分の無力さをごまかせなかった。

 

 ライダーが士郎を見た。

 

 紅い隈取のある白い顔が、静かにこちらを向いている。

 

 責めているわけではない。

 

 見下しているわけでもない。

 

 けれど、その瞳は何かを見透かしているようだった。

 

 凛は庭を見回した。

 

「結界を確認するわ。ランサーが踏み込んだせいで少し乱れてる。ライダーの清めた場は保ってるけど、外周を直しておかないと」

 

「俺も手伝う」

 

 士郎が言うと、凛は少し迷った。

 

「……じゃあ、言った場所に札を置いて。余計な魔力は通さなくていい。あなたが下手に触ると壊れるから」

 

「分かった」

 

 きつい言い方だったが、今はそれでよかった。

 

 何かできることがあるだけで、少しだけ救われた。

 

 その後、凛とアーチャーは結界の補修を行った。ライダーも庭をゆっくりと歩き、踏み荒らされた清めの流れを整えていく。空中に小さな墨の線が走り、淡い花びらが庭へ落ちた。強い筆しらべではない。乱れた場所を撫でるような、静かな修復だった。

 

 士郎は凛に言われた通り、札を置いて回った。

 

 その手は震えていた。

 

 恐怖ではない。

 

 悔しさだった。

 

 深夜。

 

 ようやく一通りの処置が終わり、凛は疲れた顔で息を吐いた。

 

「今夜はもう何もない……と言いたいところだけど、断言はできない。アーチャーを周辺に置くわ。私は一度戻るけど、何かあったらすぐ知らせて」

 

「分かった」

 

「衛宮くん」

 

 凛は士郎を真っ直ぐ見た。

 

「さっきのこと、忘れないで。あなたが悪いって言ってるんじゃない。でも、聖杯戦争に関わるなら、覚悟だけじゃ足りない」

 

 士郎は頷いた。

 

「ああ」

 

 凛はそれ以上言わなかった。

 

 アーチャーは士郎を一瞥し、何かを言いかけたようだったが、結局口を閉じた。

 

 遠坂たちが去った後、衛宮邸には再び静けさが戻った。

 

 桜は疲れが出たのか、士郎が用意した部屋で休んでいる。ライダーはその近く、縁側の前に伏せていた。背の神鏡は淡く光り、庭全体を見守っている。

 

 士郎は一人、廊下に立っていた。

 

 眠れなかった。

 

 目を閉じると、ランサーの槍が浮かぶ。

 

 赤い槍。

 

 桜へ届くかもしれなかった一撃。

 

 それを止めたのはライダーだった。

 

 自分ではない。

 

 士郎は縁側に腰を下ろし、庭を見た。

 

 白い神狼が、静かに伏せている。桜は守られている。それは良いことのはずだった。桜を守れる存在がいる。間桐の地下室から連れ出し、今日もランサーの槍から守った。

 

 なのに、士郎の胸には焦りだけが残っていた。

 

「守るって言ったのにな」

 

 小さく呟く。

 

 ライダーの耳が動いた。

 

 聞こえていたらしい。

 

 白い神狼は顔を上げ、士郎を見る。

 

 士郎は苦笑した。

 

「悪い。情けない話だ」

 

 ライダーは何も言わない。

 

 ただ、じっと士郎を見ている。

 

 その瞳には、怒りも失望もなかった。

 

 だからこそ、士郎は視線を逸らせなかった。

 

「俺は、何もできなかった」

 

 夜風が庭を渡る。

 

 遠くに、土蔵の影が見えた。

 

 士郎が毎晩のように鍛錬をしてきた場所。

 

 使えない魔術を繰り返し、投影と強化を半端に学び、それでも何かになれると信じようとしていた場所。

 

 その土蔵が、今夜はやけに遠く見えた。

 

 守りたいと口にするだけでは、何も守れない。

 

 その事実だけが、夜よりも重く士郎の中に残っていた。

 

 ライダーはゆっくりと立ち上がると、桜の部屋の方へ戻っていった。

 

 士郎はその背を見送る。

 

 白い毛並み。紅い隈取。背の神鏡。

 

 夜を終わらせる太陽。

 

 その光が眩しいほど、士郎は自分の影の濃さを思い知らされていた。





ランサー……楽しそうだな

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