Fate/Divine Brush──桜花浄界── 作:一般ガス会社社員
いつもより短め
土蔵の床に浮かんだ光は、すぐに消えた。
けれど、衛宮士郎はしばらくその場から動けなかった。
古い木材の匂い。冬の夜気。壁際に積まれたガラクタの影。いつもの土蔵のはずなのに、今だけは少し違って見える。さっきまで確かに、床に何かが走った。円を描く線。幾何学的な紋様。魔法陣のようなもの。
見間違いだったのかもしれない。
疲れているだけかもしれない。
そう思おうとしても、胸の奥に残った感覚は消えなかった。
剣。
それが何なのか、士郎には分からない。けれど一瞬、頭の中に剣の影が浮かんだ。刃の形。冷たい鋼の気配。だが、それは手に取れるものではなく、遠い場所で眠っている何かのようだった。
「……なんだったんだ、今の」
呟いても、答えは返ってこない。
土蔵の外では、白い神狼が静かにこちらを見ていた。
ライダーだ。
月明かりの下で、白い毛並みがぼんやりと光っている。額から頬へ走る紅い隈取。背に負った神鏡。尾へ流れる炎のような毛。昨夜ランサーの槍を受け止めた神狼は、今は何も言わず、土蔵の入り口に立っている。
「おまえ、何か分かるのか」
士郎が尋ねると、ライダーは土蔵の床を見た。
その背の神鏡が、ほんのわずかに光る。
まるで、そこに何かがあると知っているようだった。
「ここに……何かあるのか」
ライダーは答えない。
ただ、士郎と床を交互に見つめる。
その瞳は、警告しているようにも見えたし、何かを待っているようにも見えた。
士郎は床へ目を戻した。
今はもう、ただの土蔵の床だ。古びた板があるだけで、光も線も残っていない。
それでも、何かが眠っている。
そう思った。
翌朝、士郎は迷った末に、凛へそのことを話した。
隠しておくべきではないと思ったからだ。凛には散々、一人で判断するなと言われている。桜にも、無理をしないでほしいと言われたばかりだった。ここで黙っていたら、また同じことを繰り返す気がした。
案の定、凛は頭を抱えた。
「だから、一人で何かするなって言ったでしょ!」
「いや、魔術は使ってない。光っただけだ」
「光っただけで済むと思ってるのが問題なのよ!」
衛宮邸の茶の間で、凛は深いため息をついた。
桜はその横で心配そうに士郎を見ている。ライダーは縁側の近くで伏せていたが、耳だけはこちらへ向けていた。アーチャーは霊体化しているのか姿は見えない。だが、たぶん近くにはいるのだろう。
「土蔵よね?」
「ああ」
「見せて」
凛は立ち上がった。
土蔵へ向かう途中、凛の表情はずっと険しかった。士郎はその後ろを歩き、桜は少し遅れてついてくる。ライダーも庭を横切り、土蔵の入り口近くで立ち止まった。
中へ入った凛は、床を見てすぐに黙った。
何もないはずの床。
けれど、凛の目には何かが見えているらしい。膝をつき、指先を床へ近づける。触れる寸前で止め、目を細めた。
「……嘘でしょ」
小さな声だった。
士郎は息を呑む。
「何か分かるのか」
「これ、召喚陣の痕跡よ」
「召喚陣?」
「サーヴァントを召喚するための陣。今は眠っているけど、完全に死んでるわけじゃない。むしろ、何かの拍子に再起動しかけたように見える」
凛は床から目を離さない。
「どうして衛宮邸にこんなものがあるのよ……」
「親父が関係してるのか?」
士郎が言うと、凛の表情がさらに険しくなった。
「可能性はあるわ。衛宮切嗣。あなたのお父さんが、ただの魔術師じゃなかったのは分かってる。でも……」
凛は言葉を切った。
そこから先を言うべきか迷っているようだった。
「とにかく、しばらくここには近づかないで」
「近づかない?」
「当たり前でしょ。あなたはもう聖杯戦争に巻き込まれてる。しかもここには、桜とライダーがいる。土地は清められているし、外部からの刺激も増えている。召喚陣が眠っている場所に、あなたみたいな半端に魔力を持った人間が近づくのは危険すぎる」
「でも、何か分かれば」
「分かる前に起動したらどうするの」
凛の声が鋭くなる。
「衛宮くん。これは冗談じゃない。サーヴァントを呼ぶっていうのは、ただ便利な味方が増えるってことじゃない。契約が結ばれれば、マスターとして聖杯戦争に登録される。狙われる側になるのよ」
士郎は黙った。
その言葉は重かった。
今までも巻き込まれていた。だが、それは桜を匿っているからだ。士郎自身はマスターではない。だから凛は、士郎を一般人に近いものとして扱っていた。
だが、もしこの陣が起動したら。
士郎自身がマスターになる。
それは、今までとは意味が違う。
「分かった。近づかない」
士郎は言った。
凛は疑わしそうに見た。
「本当に?」
「本当だ」
「昨日の夜みたいに、眠れないからちょっと土蔵へ、なんてなしよ」
「……分かった」
「今、間があったわね」
「分かったって」
凛はまだ不安そうだったが、ひとまず頷いた。
その時、ライダーが土蔵の外で小さく鳴いた。
全員がそちらを見る。
ライダーは土蔵の床ではなく、士郎を見ていた。
その視線は静かだった。
責めるでも、止めるでもない。ただ、何かを見定めるような目だった。
桜がそっと言う。
「ライダーさん……?」
ライダーは答えない。
背の神鏡が、ほんの一瞬だけ淡く光った。
そこに映ったものは、士郎には見えなかった。
その日の夜。
衛宮邸は、いつも以上に静かだった。
凛は夕方まで衛宮邸に残り、結界を何度も確認してから帰っていった。アーチャーは周辺警戒に回っている。ライダーも庭で伏せているように見えるが、実際には常に周囲の気配を探っていた。
桜は茶の間で、少しだけ本を読んでいた。
士郎は夕食の片づけを終え、台所を拭いていた。
表面上は、昨日までと同じだった。
けれど、士郎には分かる。
家の空気は張りつめている。
ランサーが来たことで、衛宮邸はもう隠れ家ではなくなった。ライダーの聖域と凛の結界があるとはいえ、完全に安全な場所ではない。むしろ、異常なサーヴァントの拠点として、他陣営から注目されてもおかしくない。
そして、その予感は当たった。
最初に気づいたのは、ライダーだった。
縁側の近くで伏せていた白い神狼が、静かに頭を上げる。
桜もすぐに気づいた。
「ライダーさん?」
ライダーは庭の外を見ていた。
門ではない。
塀の向こう。
夜の影に紛れるように、黒い紙片のようなものが貼りついている。
士郎は目を凝らした。
虫か。
鳥か。
いや、生き物ではない。
薄い紙か布を折り畳んだものに、魔力を流し込んで動かしているような、不自然な影だった。
「……なんだ、あれ」
魔術に関係するものだ。
それだけは、士郎にも分かった。
だが、それが誰のものなのか。サーヴァントのものなのか、魔術師のものなのか。そんなことまでは分からない。
黒い紙片が、塀を越えようとした。
その瞬間、庭の空気が白く光った。
音もなく、紙片が焼け落ちる。
炎ではない。光に触れた影が、形を保てなくなったような消え方だった。
ライダーが低く鳴く。
紅い隈取が、夜の中で濃く浮かび上がった。
別の紙片が、今度は反対側の塀から入り込もうとする。だが、それも庭へ落ちる前に弾けた。三つ目も同じだった。衛宮邸の内側へ入ることすらできない。
桜は息を呑んだ。
「外から……見ているんですか?」
「たぶん」
士郎は答えた。
ライダーが一歩前へ出る。
背の神鏡が淡く回り、庭全体に清めの光が広がった。塀の外にいた黒い影たちは、次々と焼かれるように消えていく。聖域に踏み込むことはできない。ただ触れようとしただけで、形を失っていく。
だが、そのうちの一つが、消える寸前に細い糸を伸ばした。
魔力の糸。
それは庭へ入るのではなく、地面の下を探るように走った。
士郎には、その動きがはっきり見えたわけではない。けれど、ぞわりとした感覚が背筋を這った。何かが、庭の守りを越えようとしているのではない。外から、屋敷の下にある何かを探っている。
糸は土蔵の方へ向かった。
ライダーが鋭く吠えた。
空中に墨の線が走る。
一閃。
魔力の糸は、庭へ届く前に断たれた。
だが、一瞬だけ遅かった。
土蔵の方で、青白い光が走った。
「……!」
士郎の胸が跳ねる。
昨夜見た光と同じだった。
凛に言われた言葉が頭をよぎる。
近づかない方がいい。
起動する可能性がある。
分かっている。
分かっていた。
それでも、土蔵の中で何かが目を覚まそうとしているのを感じた瞬間、士郎の足は動いていた。
「先輩!」
桜の声が背中に届く。
「すぐ戻る!」
そう言ったものの、確証はなかった。
士郎は土蔵へ走った。
ライダーは追わなかった。
追えなかった。
庭の外にはまだ、黒い紙片の残滓が散っている。桜のそばを離れれば、別の何かが入り込もうとするかもしれない。白い神狼は桜の前に立ち、土蔵へ向かう士郎を見送るしかなかった。
それでも、その背の神鏡は強く光っていた。
まるで、土蔵で起こることを見届けようとしているかのように。
士郎は土蔵の扉を開けた。
中は暗い。
けれど、床だけが光っていた。
昨日とは違う。
一瞬だけではない。
円が浮かぶ。
線が繋がる。
幾何学的な紋様が、古い床の上に蘇っていく。
「なんだ、これ……」
士郎は息を呑んだ。
右手が熱い。
焼けるような痛みが走った。
「っ!」
士郎は右手を押さえる。
そこに、赤い刻印が浮かび上がっていた。
令呪。
凛や桜の手にあったものと同じ、マスターの証。
「嘘だろ……」
土蔵の外で、ライダーが吠えた。
庭の空気が一気に震える。桜が士郎の名前を呼ぶ声が遠くに聞こえた。さらに別の場所で、凛の張った結界が反応する。
衛宮邸全体が、目を覚ましたように震えている。
土蔵の床から、光が噴き上がった。
士郎は腕で顔を庇う。
まぶしい。
けれど、ライダーの太陽の光とは違う。
これは、もっと鋭い光だった。
夜を照らす朝日ではない。
闇を切り裂く剣の光。
光の中に、人影が現れる。
小柄な影。
鎧の輝き。
金色の髪。
凛とした横顔。
士郎は、その姿から目を離せなかった。
光が収まる。
土蔵の中央に、少女が立っていた。
青と銀の甲冑。小柄な体に似合わないほど強い気配。手には何も持っていないように見える。けれど士郎には、そこに剣があるのだと分かった。見えないだけで、確かに彼女は剣を持っている。
少女は静かに士郎を見た。
まっすぐな瞳だった。
迷いがない。
その目に射抜かれて、士郎は言葉を失う。
そして少女は、厳かに口を開いた。
「問おう。貴方が私のマスターか」
時間が止まったようだった。
士郎は何も答えられなかった。
自分が何を呼んだのか分からない。
なぜ呼ばれたのかも分からない。
だが、右手の令呪が熱を持っている。
それが答えだった。
土蔵の外から、足音が近づく。
最初に現れたのはライダーだった。
白い神狼が土蔵の入り口に立つ。紅い隈取が燃えるように輝き、背の神鏡が強い光を帯びている。その背後には桜がいた。息を切らし、不安そうに士郎を見ている。
「先輩!」
桜が叫ぶ。
士郎はようやく声を出した。
「桜、俺は大丈夫だ」
だが、桜の視線は士郎だけでなく、土蔵の中の少女にも向いていた。
ライダーは一歩前へ出る。
セイバーもまた、反射的に構えた。
見えない剣の気配が空気を裂く。
土蔵の中に、緊張が走った。
太陽を背負う白いライダー。
剣を携えた金髪の少女。
二騎のサーヴァントが、月明かりの下で向き合う。
士郎は慌てて立ち上がった。
「待て! 敵じゃない!」
セイバーはライダーから視線を外さずに言った。
「マスター。状況の説明を」
「俺にも分からない!」
ほとんど叫ぶような声だった。
庭の方から、別の足音が近づいてくる。
「衛宮くん!」
凛だった。
アーチャーもその後ろに現れる。二人とも、土蔵の入り口で足を止めた。
凛の目が、まず士郎の右手へ向かった。
赤い令呪。
次に、土蔵の中央に立つ少女。
そして、入り口で警戒するライダー。
凛の表情が、ゆっくりと変わっていく。
「……セイバー」
その声は、驚きと呆れと、信じたくないという感情が混ざっていた。
アーチャーは黙っている。
だが、その目は、召喚された少女を見てわずかに細められていた。
セイバーは周囲を見渡した。
士郎。
桜。
ライダー。
凛。
アーチャー。
そして、塀の外で焼き払われつつある黒い影の残滓。
状況は混乱している。
だが、セイバーは一瞬で判断したようだった。
彼女は見えない剣を構えたまま、士郎の前に立つ。
ライダーは桜の前に立つ。
互いに、自分のマスターを守る位置。
それは鏡写しのようだった。
土蔵の中に、重い沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、凛だった。
「……もう」
凛は額を押さえた。
「もう、ほんとにどうなってるのよ、この家」
誰も答えられなかった。
士郎は右手の令呪を見下ろす。
その赤い刻印は、確かにそこにある。
桜が太陽を呼び、士郎は剣を呼んだ。
その事実だけが、冬木の夜に新しい波紋を広げていた。
凛さんの胃はもう限界かもしれない……
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