Fate/Divine Brush──桜花浄界── 作:一般ガス会社社員
短め
冬木教会は、夜の底に沈んでいた。
丘の上に建つその建物は、街の灯りから少しだけ離れている。昼間ならば、礼拝堂のステンドグラスから差し込む光が床に色を落とし、外の喧騒から切り離された静けさを作る。だが、夜の教会は違う。光は少なく、空気は冷え、祈りの場であるはずの空間には、どこか墓所めいた重さが漂っていた。
その静けさの中心に、言峰綺礼はいた。
祭壇の前。
蝋燭の火が小さく揺れている。
彼は祈っているようにも見えた。手を組み、目を伏せ、沈黙の中に身を置いている。その姿だけを見れば、神に仕える者としての佇まいに何の違和感もない。
だが、その沈黙の内側で、彼が見ていたものは神ではなかった。
聖杯戦争。
冬木の地に再び始まった、魔術師たちの殺し合い。
七人のマスターと七騎のサーヴァント。願望器を巡る戦争。監督役としての言峰綺礼は、その進行を見届ける立場にある。表向きは中立。教会の名において、脱落者の保護や規律の管理を担う。
表向きは、だ。
言峰は目を開けた。
礼拝堂は静かだった。
まだ開戦直後であるにもかかわらず、盤面はすでに歪み始めている。
遠坂凛はアーチャーを召喚した。
それは想定の範囲内だ。遠坂の後継者として、凛が聖杯戦争に参加することは当然の流れだった。優秀な魔術師であり、準備もしていた。召喚されたサーヴァントがどの程度のものかまでは不明だが、ランサーからの報告では、弓兵でありながら近接戦にも対応するらしい。
衛宮士郎。
この名は、想定の外にあるようで、完全に外とは言い切れない。
衛宮切嗣の養子。
あの男の残したもの。
魔術師としては未熟であり、本来なら聖杯戦争の中心に立つべき人間ではない。少なくとも、言峰が把握していた限りではそうだった。
だが、聖杯戦争は時に血筋や準備だけで動くわけではない。
縁。
因果。
過去の残響。
そういうものが、思わぬ形で盤面を引き寄せることがある。
そして、間桐。
言峰は祭壇の蝋燭を見つめた。
間桐臓硯。
あの老魔術師は、簡単に消える存在ではない。肉体を捨て、蟲に魂を宿し、醜く延命を続けてきた執念の塊。聖杯戦争を捨てることなどありえない。もし間桐のサーヴァントが召喚されたならば、そこには必ず臓硯の影があるはずだった。
だが、その影が薄い。
いや、薄いどころではない。
沈黙している。
不自然なほどに。
言峰は静かに息を吐いた。
その時だった。
礼拝堂の扉が、軋むような音を立てて開いた。
冷たい夜気が流れ込む。
入ってきたのは、一人の男だった。
青い装束。鋭い目。軽薄そうな笑み。手には赤い槍を携えてはいない。だが、その姿勢には、いつでも戦いに移れる獣のような緊張がある。
ランサーのサーヴァント。
彼は教会の中だというのに、まるで酒場にでも入るような気軽さで歩いてきた。
「よお、神父」
「戻ったか、ランサー」
言峰は振り返らずに言った。
「報告を聞こう」
「相変わらず愛想がねえな。まあ、いいけどよ」
ランサーは肩をすくめた。
その顔には、戦いの後の高揚が残っている。血の匂いはない。だが、槍を振るった者特有の空気があった。
「遠坂の嬢ちゃんのサーヴァントとやり合った」
「アーチャーか」
「ああ。弓兵のくせに双剣で打ち合ってきやがった。妙な奴だ。間合いに入っても腰が引けねえ。あれはあれで楽しめそうだな」
「仕留めなかったのか」
「仕留めるつもりなら、もう少し腰を据えてやってるさ」
ランサーは笑った。
「ただ、途中で別の匂いがした」
「匂い」
「ああ」
ランサーは礼拝堂の長椅子に腰を下ろすこともなく、祭壇の前で立ち止まった。
「妙な屋敷があった。衛宮の家だ」
言峰の目が、わずかに動いた。
「衛宮士郎の家か」
「そうだな。赤毛の坊主がいた。魔術師って感じじゃなかったが、肝だけは据わってる。俺を前にして、女の後ろに隠れなかった」
「女?」
「紫の髪の嬢ちゃんだ。たぶん間桐の娘だろう」
言峰は黙った。
間桐桜。
遠坂から間桐へ養子に出された少女。
臓硯の手に渡った器。
その少女が、衛宮邸にいる。
そしてランサーは、そこで何を見たのか。
「続けろ」
「その嬢ちゃんの前に、白いのがいた」
ランサーは口角を上げた。
「白い犬……って言うには、さすがに罰が当たりそうな代物だったな」
「犬か」
「形だけならな。だが、あれは犬じゃねえ。神様の使いか、それとも神様そのものか。どっちにしろ、まともな英霊じゃねえ」
言峰はようやくランサーの方を向いた。
礼拝堂の薄い光の中で、ランサーは楽しそうに話している。単なる誇張ではない。戦士としての感覚が、あのサーヴァントを異常なものとして認識している。
「クラスは?」
「ライダーだろうな。少なくとも、あの場ではそう呼ばれていた」
「間桐のライダーか」
「たぶん、そういうことになるんだろうが……あれは間桐って感じじゃねえな」
ランサーは肩を回した。
「屋敷そのものが清められてた。結界とは違う。壁を張って守るっていうより、土地そのものを朝に変えちまったみたいな感じだ。夜の街の中で、あそこだけ空気が澄んでやがる。血の匂いも、呪いの匂いも、沈みにくい」
「太陽か」
言峰が呟く。
ランサーは楽しそうに笑った。
「ああ。まさにそれだ。夜なのに、あの屋敷だけ太陽くさい」
太陽。
聖杯戦争という夜の器において、あまりにも似つかわしくない言葉だった。
この戦争は本質的に暗い。願いを求める者たちが、互いを殺し、奪い、騙し合う。英雄という名の亡霊を従え、死者を燃料として聖杯へ近づく。そこにあるのは執念であり、欲望であり、救済の名を借りた争いだ。
その中に、太陽。
あまりにも場違いで、だからこそ異物として際立つ。
「そのライダーは何をしていた」
「桜って嬢ちゃんを守ってた。徹底してな」
ランサーの声が少しだけ変わった。
からかうような軽さは残っている。だが、その奥に戦士としての評価がある。
「俺が試しに槍を出したら、鏡みたいなもので受けやがった。金色の光を広げてな。嬢ちゃんには届かなかった」
「おまえの槍を受けたか」
「軽く出しただけだ。本気じゃねえ」
「だが、受けた」
ランサーは不満そうに鼻を鳴らした。
「まあな。それだけじゃねえ。勾玉みたいな光弾も出す。おまけに、空中に線を引いたと思ったら、俺の足元が斬れた」
「魔術か」
「いや」
ランサーは即答した。
「あれは魔術じゃねえ。少なくとも、俺が知ってる魔術師のやり方じゃない。もっと直接的だ。世界に線を引いて、その通りに変えちまう。そんな感じだな」
言峰は静かに目を細めた。
世界に線を引く。
それは、魔術の系統として説明できる部分もあるかもしれない。だが、ランサーの言葉が正しいならば、それは単なる術式ではない。もっと原始的で、もっと根源的な干渉に近い。
神の権能。
そう呼ぶ方が近いのかもしれない。
「そして、そのライダーは桜を守っていた」
「ああ。聖杯が欲しいって感じじゃなかったな。少なくとも、俺にはそう見えた。あいつの優先順位ははっきりしてる。マスターを守る。それ以外は二の次だ」
言峰は沈黙した。
間桐桜が、神性を帯びたライダーに守られている。
臓硯の気配はない。
桜は衛宮邸にいる。
その意味するところは、一つではない。
臓硯が方針を変えた可能性。
桜が臓硯の管理を離れた可能性。
ライダーが臓硯の支配を破った可能性。
あるいは。
「臓硯が沈黙している、か」
言峰は小さく言った。
ランサーが片眉を上げる。
「やっぱり、あの爺さん絡みか」
「間桐の聖杯戦争に、あの男が関わらないはずがない。だが、今の話では気配が薄すぎる」
「死んだと思うか?」
ランサーは軽く言った。
言峰はすぐには答えなかった。
あの老魔術師が死ぬ。
その言葉は簡単だが、実際には容易なことではない。臓硯は死を避けるために人であることさえ捨てた存在だ。殺したと思っても、別の蟲に魂を移して生き延びる。肉体を潰すだけでは意味がない。魂の在り処そのものに手を届かせなければならない。
だが、太陽の神性を帯びたライダー。
土地を清め、魔術ではない干渉で世界を変える白い獣。
もし、それが臓硯に触れたなら。
「完全に消えたと断じるには早い」
言峰は言った。
「だが、少なくとも表へ出てこられない状態にある可能性は高い」
「へえ。じゃあ、あの白いのが爺さんを黙らせたってことか」
「あるいは、そう見るべきかもしれん」
言峰の声は淡々としていた。
だが、その奥で、何かが静かに動いていた。
臓硯。
桜。
衛宮士郎。
白いライダー。
そして、セイバー。
「もう一つ報告があるんだろう」
言峰が言うと、ランサーは笑った。
「さすがだな。あの屋敷、後からまた妙な反応が出た。剣の気配だ」
「セイバーか」
「ああ。たぶんセイバーが召喚された。場所は同じく衛宮の屋敷だ」
言峰は目を閉じた。
やはり、か。
セイバーの召喚反応は、この教会からでも察知できていた。だが、問題は場所だった。
衛宮邸。
衛宮切嗣がかつて住まいとした家。
かつて聖杯戦争において、セイバーを従えた男の家。
その養子である衛宮士郎が、今度はセイバーを呼んだ。
因果というものは、時に悪趣味だ。
「衛宮切嗣の息子が、セイバーを呼んだか」
言峰は呟いた。
ランサーは、言峰の表情を見て少しだけ目を細めた。
「知り合いか、その切嗣って奴」
「古い縁だ」
「仲良しって顔じゃねえな」
「その通りだ」
言峰はあっさりと答えた。
衛宮切嗣。
かつての聖杯戦争における敵。
正義を掲げ、犠牲を積み上げ、最後には聖杯を破壊した男。言峰にとって、あの男は単なる敵ではなかった。理解できない存在であり、同時に自分自身を照らす鏡のような存在でもあった。
その男の息子が、今、聖杯戦争の中心にいる。
しかも、その傍らには間桐桜がいる。
桜は太陽を呼び、士郎は剣を呼んだ。
言峰は、祭壇の上の十字架を見上げた。
救い。
その言葉が、ふと頭に浮かぶ。
間桐桜は、救われたのだろうか。
臓硯の蟲から。
暗い地下から。
自分を食い潰していたものから。
もしそうなら、興味深い。
救われた者は、その後に何を望むのか。
苦しみから解放された人間は、ただ幸福へ向かうのか。それとも、空いた穴に別のものを求めるのか。救済は完成なのか、それとも新しい飢えの始まりなのか。
言峰は自分の胸の内に浮かぶその問いを、祈りのように静かに見つめた。
「神父」
ランサーが声をかける。
「楽しそうだな」
「そう見えるか」
「見えるね。普段より少しだけな」
言峰は小さく笑った。
否定はしなかった。
今回の聖杯戦争は、始まったばかりでありながら、すでに原型を崩し始めている。
遠坂のアーチャー。
間桐のはずのライダー。
衛宮のセイバー。
三騎が一つの屋敷に集まっている可能性が高い。しかも、その屋敷は神性によって清められている。低級の使い魔や呪いでは容易に近づけないだろう。正面から攻めるには危険すぎる。だが、放置するには目立ちすぎる。
監督役としては、由々しき異常事態だ。
だが、言峰綺礼という個人にとっては。
「ランサー」
「あ?」
「衛宮邸への不用意な再襲撃は控えろ」
ランサーは露骨に嫌そうな顔をした。
「おいおい。俺はあの白いのともう少し遊びたいんだが」
「その白いライダーは、単純な敵ではない。少なくとも、今はな」
「だから面白いんだろ」
「だからこそ、時期を選べ」
言峰は静かに言った。
「おまえが再び向かえば、ライダーだけでなく、セイバー、アーチャーも出てくる可能性がある。三騎を同時に相手取るのは、いかにおまえでも得策ではない」
「勝てねえとは言わねえのか」
「勝てるかどうかと、やるべきかどうかは別だ」
ランサーはつまらなさそうに舌打ちした。
「監督役らしいこと言うじゃねえか」
「私は監督役だからな」
「よく言うぜ」
ランサーは肩をすくめた。
それでも、完全に反抗するつもりはないらしい。口では不満を言っても、言峰の指示を聞く程度の分別はある。戦士としての本能は強いが、獣そのものではない。
「で、どうするんだ」
「しばらくは見る」
「見るだけか?」
「情報が足りない。間桐臓硯の状態。ライダーの正体。衛宮士郎の召喚経緯。遠坂凛がどこまで関与しているか。確認すべきことは多い」
言峰は祭壇の前から歩き出した。
礼拝堂の床に、靴音が静かに響く。
「それに、衛宮邸があれほど目立つなら、こちらが動かずとも他陣営が反応する」
「キャスターか」
「可能性はある。魔術師のサーヴァントなら、あの清められた土地に興味を持たないはずがない」
「バーサーカーは?」
「アインツベルンもいずれ動く」
言峰は淡々と言った。
「太陽と剣が同じ屋敷にある。それを見過ごせる陣営は少ない」
ランサーはにやりと笑う。
「つまり、放っておいても火種になるってわけだ」
「そうだ」
「いいねえ。楽しくなってきた」
ランサーの笑みは、純粋な戦意に満ちている。
言峰はそれを見て、少しだけ目を細めた。
ランサーは分かりやすい。
強者を求め、戦いを楽しみ、槍を振るう。そこに複雑な歪みは少ない。だからこそ扱いやすく、だからこそ時に眩しいほど単純でもある。
一方で、衛宮士郎はどうだろうか。
切嗣の息子。
守りたいと願い、剣を呼んだ少年。
その願いは美しいものか。
それとも、いつか自分自身を焼く炎か。
言峰は知っている。
正義という言葉が、人をどれほど歪めるかを。
救済という願いが、どれほど多くのものを切り捨てるかを。
衛宮切嗣は、その果てに何を得たのか。
その息子は、同じ道を歩むのか。
あるいは、太陽を連れた少女と出会ったことで、別の形に歪むのか。
興味深い。
実に、興味深い。
言峰は祭壇の前に戻り、再び蝋燭の火を見た。
火は小さく揺れている。
祈りの場にある火。
だが、その揺らぎはどこか、遠くの太陽を思わせた。
「太陽を連れた少女と、剣を呼んだ少年か」
言峰は静かに言った。
ランサーはその言葉を聞き、面白そうに笑った。
「詩人みたいなこと言うじゃねえか、神父」
「ただの事実だ」
「で、その二人をどうする」
言峰は少しだけ口元を緩めた。
「今は、見届ける」
「見届ける、ねえ」
「聖杯戦争は始まったばかりだ。急ぐ必要はない。盤面が歪んだなら、その歪みがどこへ向かうのかを見ればいい」
ランサーは肩をすくめた。
「性格悪いな、あんた」
「自覚はある」
言峰は静かに答えた。
礼拝堂に再び沈黙が戻る。
外では冬の風が吹いている。
街はまだ眠っている。多くの人間は、夜の裏側で何が動いているのかを知らない。教会の鐘も鳴らない。聖杯戦争は、闇の中で静かに形を変えていく。
監督役として、言峰綺礼はその変化を見つめる。
表向きは中立。
規律を守る者。
脱落者を保護する者。
だが、その胸の奥で、祈りとは別のものが静かに息づいていた。
退屈ではない。
少なくとも、今回の戦争は。
言峰は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、まだ見ぬ白い神狼。
桜を守る太陽。
そして、衛宮切嗣の息子が呼んだ剣。
「なるほど」
彼は、祈るような姿勢のまま、祈りではない笑みを浮かべた。
「今回の聖杯戦争は、退屈せずに済みそうだ」
言峰綺礼のキャラはこれで合ってるのか……?
皆さまの感想をお待ちしております