虫喰い   作:壊れたテレビ

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1話

 

「ここはどこだろう」

 懐かしい匂いがする。少しひんやりした空気を吸い込むと、そこそこある双丘いっぱいに雑草の青さと土の香りが広がった。何で懐かしさを覚えたのかはわからない。どこぞの田舎の育ちだったのかもしれない。

「私は誰だろう」

 大きく息を吐き出した。草が擦れる音、空気が流れる風の音すらもよく聞こえる気がする。この蒼穹の空の下、しばらく心地よい静寂に耳を澄ませていたかった。

「おい起きろ。踏まれたいのか」

 静寂をぶっ壊す無粋な声がする。その声が如何に可愛くても今に限っては全く癒しにならないし、ご褒美にもならない。私の泰平の眠りを覚さないで欲しい。現在鎖国中、黒船はおかえりください。

「起きる時間だ。遅刻するぞ」

 黒船でもASMRでもなくお母さんかお兄ちゃんなのか知らないが、遅刻だとか憂鬱になる言葉を出さないで欲しい。今はこの曇りなき青空の雲の流れるサマを追いかけていたい。

「いい加減起きないと踏むぞ」

 青い空が急に曇り始めた。どんよりとした純白の空と水玉模様の雲が私の頭上だけを覆っている。そして遥か天までそびえ立つ双塔。いや、あれは双塔ではない。巨人の生足だ。水玉模様なんて洒落た柄の雲があるわけがなかった。それは女の子のパンツだった。

「水玉……?」

「は? 水玉? あ!」

 とてもマズい。私が女の子でなければ完全無欠のセクハラだった。女の子であってもセクハラの必要条件も十分条件も備わっている。言い逃れはもはやできない。裁判長兼原告による裁きの時を待つしかない。

「なるほど。どうやらお前は言い逃れようもない変態らしい」

 白い空のさらに上から響いてくる天の声の温度は急降下していく。大洪水でも起こして愚かな私を滅ぼしてしまうんじゃないかと、そこから変な連想をした自らの変態さに気づいた時には既に審判が下っていた。

「変態の正体見たり枯れ尾花! 記憶消してこい!」

「その言葉使い方間違ってるのよ! あと、もう記憶消えてるから! 二度手間はいらないってば!」

 かくして変態、すなわち私。私こと彼女の体は浮いていた。羽がないのに蝶のように低空を舞っていた。羽がないので重力には逆らえず、Xの係数が小さそうな二次関数のグラフを描くとやがて落ちた。これが現実だったら良くて大怪我だった。

 彼女は痛みにその可愛い顔を歪める。確かに下着を見てしまった私が悪い。土下座でもすべき案件だ。

 しかし、わざわざ私を踏んで結果的に下着を見せつける構図を作ったどこぞのあなたも悪いし、蹴り飛ばすことはないじゃない。親しきなかにも礼儀はあるし、せめて軽い踏みつけで済まして欲しかった。

 文句を言って抗議してやらねば彼女の虫の居所がおさまらない。改めて憎き友人の姿を視界におさめた。

「あれ?」

 知り合いだと思った理由が分からないくらいには知らない少女だった。可愛らしくも鋭めの凛々しい目つき、やたら艶のある黒髪を短めのツインテールでまとめている。平坦なせいか身長以上に小柄に見える。まるで少年のように見えるが、女の子で合っているはずだ。

「ねえ、ここは誰? 私はどこ? 誰はあなた?」

「落ち着け。誰はあなたって何だよ」

「人をいきなり蹴飛ばしておいてその生意気な態度は何なの」

「お前が俺の下着じっくり見る変態なのが悪い」

「いきなり踏みつけようとしてくるあなたとどっちが変態なんでしょうね」

「こんなところで寝てるバカが悪い」

「バカって言う方がバカっていう有名な法則も知らないの?」

「うるさい黙れクソガキが」

「ガキなのはどっちでしょうね?」

 腹が立ったので、彼女もいい加減立ちあがることにした。こうして立ち上がって見ると少女の身長は彼女とさほど変わらなかった。唯一ある一部分を除いてはほぼ同程度だった。

 改めて周囲に目を向ける。人間にしか出来ない直立二足歩行。その利点である高い視野から見える回りの景色は、否が応にも寝ぼけた頭を覚ましてくれた。

 だって地平線の彼方まで見渡す限り、建物がない。道路もない。当然車も走ってない。畑もない。田んぼもない。人工物が何もないし、人口もいない。清々しいくらい真っさらだった。まるで彼女の記憶のように真っさらだった。

「ねえ、あなたのせいで私の記憶無くなったんだけど。どう責任取ってくれるの?」

「俺が起こす前から記憶喪失だっただろ。ここはどこ私は誰って言ってただろ」

「蹴飛ばす時に私に対して記憶消してこいって言ったよね?」

「下着見た記憶消してこいって意味だから。それ以前の記憶まで消せとは言ってない」

「ピンポイントで記憶消せるわけないじゃない。あなたのせいでそれ以前の記憶まで消し飛んじゃったんだけど」

「つまり俺が蹴飛ばす前の記憶はないということか?」

「そうそうそういうこと」

「俺の下着の色は?」

「水玉模様」

「しっかり覚えているようで」

「チッ。バレちゃった」

 適当な発言の誤魔化しが効かなくなった彼女は顔に見合わない舌打ちをする。性格はあまりよろしくないようだ。それよりもどう見ても異世界だった。そしてこんな文明がない異世界、彼女は嫌だった。

「ねえ帰るまでの道案内して?」

「普通に嫌なんだけど。すごく嫌erなんだけど。嫌estなんだけど」

「道案内したらあなたが私を蹴飛ばしたこと不問にしてあげる」

「お前が俺の下着見たこと不問にした覚えはないんだけど」

「じゃあ私がこの世界に居座ってもいいの? 実質同居だね」

「同じ世界に住んでいることを同居と言うわけないだろ」

「人類皆兄弟というじゃない」

「お前はその兄弟の顔を全員知ってるのか? 同居人なら顔は知ってないとおかしいよな?」

「顔が知らない同居人はたくさんいるじゃない。虫とか」

「虫の方はお前を同居人だとは絶対思っていないからな」

「私の方は虫だろうと同居人として解釈しているんだけど」

「じゃあその同居人さんとやらには敬意を持って接しているんだろうな?」

「普通に無理に決まってるじゃん。だから例え同居人であろうと虫は退治するに決まっているでしょう」

 彼女にとっては至極当たり前の発想だった。少女がやや引いた表情をした方が不思議だった。きっと自然育ちと都会育ちでは価値観が違うのだろう。盛大なため息が聞こえた。

「分かった。元の世界に帰ることを手伝ってやる」

 いかにも渋々といった様子ではあるが少女はとうとう彼女の頼みを受け入れた。彼女と同居というイメージが少女には到底耐えられるものではなかったからだ。しかし、少女は彼女の保護者ではない。彼女のバカさ加減にいちいち対処していては胃に穴が開く。そこで彼女の暴走を防ぐべく三本くらい釘を刺すように念を押すことにした。

「いいか。余計なことに首を突っ込むな。誰かに肩入れするな。異世界から帰る意思を失うな」

「うるさい。あなたは私のお父さんか何かなの? これから一緒に下着洗わないでね」

「その前に俺の下着を見るな。あと俺はお前のお父さんじゃない」

「嫌ああ」

「嫌なのはどっちだ。前者なら通報するぞ。後者なら俺が女の子だということ忘れてないか?」

「お父さんは男の子だけの専売特許ではないってことも知らないの? これだから田舎者は基本がなってないのよ」

「おままごとの話でもしてる? 世の中はデカいおままごとでも言いたいタイプ?」

「デカいおままごとってどういう概念? それより何でそんな男子みたいな口調なの? 男の子になりたいタイプ?」

「決めつけるな。多様性の時代だぞ。女の子が俺って言って何が悪い」

「多様性の時代じゃなくても何も悪くないけどね。そもそも人がいない世界なら多様性なんて持ち出さなくても何でもかんでも自由なんじゃないの?」

「さあな」

「それより、地図はないの?」

「そんなもの持ってるわけがないだろ。そもそも普段そんなに移動したりしないし」

「そんなので道案内が務まるわけ?」

「務めて見せるさ」

 少女は迷いなく地べたに座り込むと下ろしたカバンを漁り始める。何が入っているのかずっと気になっていたことが判明する間もなく、少女はカバンから木の枝を取り出していた。

 再び立ちあがると先程の枝の先端を地面の上に走らせ図形を描く。生い茂った草の絵、密集した木々の絵、山っぽい何か、トンボが飛ぶ水辺、密集した豆腐、どうやら地面に描かれた図ではなく、地面に描かれた地図のようだった。

 少女の画力が成せる技か、大雑把ながらもちゃんと分かりやすい地図を彼女はしばらく見つめる。これ見よがしにウンウン五月蝿く唸っている。

「排泄するなら他所でしろ」

「勘違いが最低ね! どうしてそういう解釈になるの?」

「地図見て唸ってたからてっきりそうなのかと思った」

「どうしてそこから頭を使ってるという方に解釈が出来なかったの?」

「そんな唸るほど地図が複雑だったか?」

「絵は上手いけど地図が単純すぎね」

「ずいぶん上から目線なんだな。さっきも言ったが普段移動しないからこれ以上は知らん」

「それでどこへ向かえばいいの?」

「さあ、どこだろうな」

 彼女はずっこけてしまった。続けてがっくりと肩を落とす。案内役である少女が頼りなさすぎる。今はこんなにも晴れている空の雲行きすら怪しく思えてきてしまう。

 しかしながら、ここに来た原理が不明なら、帰る原理も分からないのは無理もない。当事者である彼女本人ですら知らないのだから、少女が知らないのもまた無理のない当然のことであった。

 前例がいたなら帰り方だけは分かったのかもしれないのに。彼女には自分がファーストペンギンだったことを恨むことしか出来なかった。だが彼女は楽観的であった。分からないことは可能性である。

「よし。じゃあこっちに行こうよ」

「それはどうしてだ?」

「それは乙女の勘よ」

「お前はバカなのか?」

「この世界に馬と鹿はいるってこと?」

「知らんな」

 颯爽と雑草を踏み締めていく彼女を、俺っ娘少女が追いかける。どちらが案内役なのか傍目には最早分からなくなっていた。

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