伊之助は動けなかった。
肺に残った空気が悲鳴のように漏れるだけで
四肢は言うことを聞かない。
視界の端で巨体が沈み込むのが見えた。
ジャックの目は獲物を見るものではない。
まるで、医師か研究者のように
伊之助の身体を観察していた。
その目は冗談か、本気か、判別する暇すらない。
ジャックは自分の胸元に走る斬撃の傷に指を当て、
指先を赤く染めた。
それを――ためらいなく伊之助の腹へ伸ばす。
みぞおちから臍へ。
縦一文字。
まるで外科医の一刀だった。
温かい血が皮膚を伝う。
その瞬間、伊之助は理解した。
(……捌かれた!)
これは攻撃ではない。下処理だ。
「ウリ坊よ……」
低く噛み砕くような声。
「お前の身軽さも、柔軟さも、野生も、」
「悪くない……」
評価。それが何よりも恐ろしい。
「だがな……」
ジャックの目が遠くを見る。
「俺は既に――」
「"太古の野生"に敗北し…」
「そして勝利している」
名を静かに告げた。
「ピクルだ」
空気が重く沈む。
「そいつはな……」
「自分が勝利した後……」
「敗北した戦敵を敬意を持って喰らうんだよ! 」
「強敵との惜別(わかれ)に純粋な涙を流してな……」
伊之助の喉が、ひくりと鳴る。
淡々と事実を語る声。
「ある奴は"片脚"」
「ある奴は"片腕"」
一拍。
「俺は――顔の下半分の皮を喰われた」
ジャックの手が口元から顎をゆっくりさする。
伊之助の思考が追いつかない。
「しかもだ……」
ジャックの口元に自嘲めいた笑みが浮かぶ。
「失神した俺をな……」
「これ以上傷つけねえように、」
「丁寧に、丁寧に……扱ってな……」
一瞬、間を置き、
「百舌鳥の早贄みたいに吊るしたよ!」
伊之助の背中に冷たいものが走った。
「殺されなかった!喰われもしなかった!」
「後で喰うためにな!」
それは死よりも重い屈辱。
捕食者に値踏みされ保存されるという事実。
ジャックの視線が再び伊之助に戻る。
「だからだ!ウリ坊……」
血に濡れた指先を僅かに持ち上げる。
「俺は礼儀として、お前を喰らう!!!」
静かな断言。
比喩ではない。脅しでもない。
――捕食の宣言だった。
伊之助は冗談だと思おうとした。
理解を拒もうとした。
瞬間――
「やめなさい!!!」
鋭く張り裂ける声が庭を切り裂いた。
羽織が翻り、しのぶが二人の間に割って入る。
その表情に微笑はない。
そこにあるのは、ただ――柱としての顔。
「それ以上は許しません!!!」
静かだが刃のような声。
「あなたは鬼ではないですよね!!!」
ジャックは、ゆっくりと立ち上がった。
血の付いた指を一瞥し肩をすくめる。
「……冗談が通じねえな」
その目は笑っていない。
その瞳の奥には、
自らの獲物を横から奪われた獣のような苛立ちが滲んでいた。
だが、しのぶは伊之助を庇うように立ち一歩も引かない。
庭に残るのは血の匂いと、
捕食者と餌の野生の境界線。
伊之助は地面に伏したまま思った。
(……これは立会いじゃねえ……)
(戦場だ……)
(鬼殺の現場だ……)
そして自分は今、生き残った餌なのだと。
その事実だけが骨の奥まで冷たく沈んでいった。