炭治郎は倒れたまま動けなかった。
肺が潰れ、視界が歪み、光が滲み、音が遠くなっていく。
意識が水の底へと沈んでいく。
それでも――
巨影が近づいてくるのだけは分かった。
ジャック・ハンマーは、炭治郎の前にしゃがみ込むと、
自分の額から流れ落ちていた血に、ゆっくりと指を浸した。
そして――
炭治郎の首元に横一文字に、
なぞるように、迷いなく。
次に再び血を指先につけ、
喉仏の中央に「一点」を刺すように――。
しのぶの瞳が、わずかに細くなる。
炭治郎も、その意味を理解してしまった。
――首を落とされ、
――喉を刺され、
――すでに死んでいる。
止めとばかりに、ジャックは炭治郎の左胸――
心臓の位置に人差し指を小さな刃に見立て、
軽く置いた。
"刺した”
そう告げる所作。
「小僧?」
低く淡々とした声。
「……まだ元気か?」
「出来るかい?」
その瞬間、炭治郎の全身が激しく震えた。
恐怖ではない。
生存本能が無理やり身体を立ち上がらせていた。
歯を食いしばり膝を叩き、
――辛うじて立つ。
「おお」
ジャックは、楽しげに口角を上げた。
「死人が起き上がったか!」
ゆっくりと首を鳴らす。
「小僧。俺はまだ、ナチュラルな状態だ」
「それが、どういう事か理解できるか?」
「――俺が薬を入れたらどうなるか」
炭治郎は答えられなかった。
全身が軋み血の味が口に広がる。
だが、倒れるわけにはいかなかった。
もう――
"水の呼吸"では、追いつかない。
(……駄目だ)
(この人には通じない)
選択肢は一つ。
――"ヒノカミ神楽”。
未熟。未完成。
負荷が重すぎる。
短時間、羽毛のように身体は軽くなるが、
その反動で、構えすら取れなくなる。
本来なら、使うべきではない。
だが――
今は、そんなことを言っていられなかった。
炭治郎が息を吸った瞬間、
彼自身が異変に気づく。
(……軽い?)
痛みはある。
だが、力みがない。
ジャックの猛攻で無駄な力が削ぎ落とされていた。
恐怖も躊躇も既に砕かれていた。
――円滑。
驚くほど自然に。
炭治郎の身体はヒノカミ神楽を受け入れていた。
ジャックもすぐに察する。
「……ほう」
「さっきとは別人だな」
初動から違う。
迷いがない。
狙いが明確。
炭治郎は確実に急所を狙い一撃一撃を叩き込んでくる。
そして――
勝負を決めにいった。
炭治郎は踏み込み、人間最大の急所の一つ、
ジャックの口元を狙って木刀を横一閃。
――捉えた!。
そう確信した。
だが!
「……?」
手応えが無い。
否。
抵抗が途中で消えた。
炭治郎の木刀はジャックの顔をすり抜けた――
のではない。
木刀が途中から消失していた。
炭治郎は反射的に自分の木刀を見る。
先端は確かに地面に落ちている。
だが――
ジャックの口幅に相当する分だけ、どこにも存在しない。
ゆっくりと、視線を戻す。
ジャックの口元から何かを砕く音がする。
ガリッ。
ガリッ。
ボリッ。
ボリッ。
――咀嚼音。
歯が何かを砕き押し潰し噛み潰している。
やがて、ジャックは口を開き
ぺっ、
と地面に吐き出した。
落ちたのは――
ペースト状になった木刀の繊維。
炭治郎の思考が停止する。
ジャックは穏やかに言った。
「小僧」
「今のは、いい攻撃だった」
そして、低く続ける。
「……が」
「さっきも言っただろ?」
目が獣になる。
「真剣で来いとな!」
朝の光が二人を照らしていた。
だがそこには温もりはない。
狂気の蝶は静かに観察していた。
その瞳には一片の迷いもなく、
ただ冷徹な研究者の視線が映っている。