しかし――
それ以上は、立合いではなかった。
「死合い」
確実に命が零れ落ちる段階へ踏み込んでいる。
胡蝶しのぶは、静かに一歩前へ出た。
「――そこまでです」
声は小さい。
だが、刃のように場を断ち切った。
「これ以上は立合いではなく、死合いになります。」
「両者、立合い終了を命じます」
ジャックは肩を竦め、炭治郎から視線を外した。
「まあ、そうだな」
そして、炭治郎にだけ低く告げる。
「小僧!」
「初っ端から真剣を使ってりゃ、もう少し俺も本気になった」
炭治郎の喉が鳴る。
「しのぶからは]
「“完膚なきまでに敗北させろ”」
「“殺せ” って言われてただろ?」
しのぶは何も否定しなかった。
ただ、視線だけが僅かに細くなる。
その後の朝食は、蝶屋敷の空気をさらに異質なものへ変えた。
卓上の光景は、静けさとは程遠い。
炭治郎の前には焼き魚と味噌汁。
しのぶの前には紅茶と軽食。
文明の食生活から境界線を越えた先。
ジャックの前には――
野生動物の背骨と、山のように積まれたレアステーキ。
ジャックは、ためらいもなく背骨を掴み――
齧った。
「サクッ」
「サクッ」
音は、まるで果物を噛むそれだった。
骨が砕ける抵抗音は、一切ない。
しのぶの視線が止まり、
炭治郎の箸が宙で固まる。
ジャックは笑った。
「骨ってよりよ……」
無造作に言う。
「この髄が一番のご馳走だ」
「他の野生動物じゃ、ここを食える奴はそうはいねえ」
「ライオンでも顎が弱いからな!」
笑いながら、次に彼が掴んだのは――椰子の実だった。
繊維が複雑に絡み合った、堅牢な殻。
それを無造作に口元へ運び、歯を突き立てる。
繊維が裂ける音。
まるで林檎へ噛りつくように、側面へ穴を開けた。
そして、そこから流れ出る液体を、
平然と、当たり前のようにグラスへ注ぐ。
しのぶは驚愕し、
炭治郎は目を見開き、完全に唖然としていた。
(……顎で?)
(まるで……林檎に噛りついたみたいに……)
(人間が……?)
人間の咬合力は、鍛えるとここまで到達するのか。
「小僧」
ジャックは炭治郎を見た。
「お前が木刀だったから、この噛みつきをしなかった」
淡々と。
「真剣だったら、俺は迷わず噛みついて、お前を千切ってたよ」
金属光沢を帯びた歯を覗かせる。
「冗談ではない」
炭治郎は、そう理解した。
そして、ずっと引っかかっていた疑問を口にする。
「……ジャックさん」
「……その歯は」
「金属ですか?」
ジャックは一瞬、視線を落とした。
「ああ」
静かに、短く答える。
「ある立合いでな……根こそぎ歯を抜かれた」
炭治郎の息が止まり、胸がざわつく。
「背格好はな、小僧……」
「お前より少しデカいくらいの、冴えねえおっさんに敗北したよ」
悔しさの色はない。
「忘れられねえ過去であり、事実だ」
指で歯を叩く。
鈍い金属音。
「それからだ。」
「特殊な手術で歯を全部チタン製に入れ替え、」
「噛みつきを徹底的に鍛えた」
ジャックは炭治郎を見据える。
「小僧」
「刀は確かに優れた武器だ」
「だがよ……その最大の武器が折れた時、どうする?」
炭治郎は答えられない。
「この“噛みつき”は、世間でいうところの――」
「卑怯な行為の代名詞。」
「女子供の緊急避難。」
「大の大人が使う卑怯技で、情けない。」
「みっともない。」
「格好悪い。」
「何故、そんな“技”とも呼べねえ低級な行為を磨く?」
一つ一つ、吐き捨てる。
「……そう思うだろ?」
だが、次の言葉が空気を変えた。
「だがな――小僧!」
声が低くなる。
「女子供の緊急避難」
「肝は正に、そこなんだ」
力弱き者でさえ、逃げ込める安全地帯。
「例えばだ、小僧」
「十歳程度のガキに、鍛え抜かれた格闘家や柱を、」
「好き放題に殴らせる」
「まあ、耐えられるだろ」
「……じゃあ、噛みつきならどうだ?」
炭治郎の背筋が凍る。
「五分間、好き放題噛ませる」
「指先」
「鼻」
「耳」
「瞼」
「太腿」
「喉」
「そして――頸動脈だ」
「狙われたら、格闘家でも柱でも死ぬ」
ジャックは淡々と結論づける。
「女子供でも、鍛え抜かれた格闘家を殺せる」
「だから噛みつきは強え」
「だから俺は、敢えて噛みつく」
最後に、低く言った。
「噛みつきってのはな……人類最大の武器なんだよ!」
しのぶは静かに、その言葉を受け止めていた。
炭治郎は、戦士としての覚悟を垣間見ていた。
これは残酷な思想でも、善悪でもない。
矜持でも、品格でもない。
生き残るために削ぎ落とされた末の、
冷たく純粋な合理。
――“戦場の論理”。
胡蝶しのぶは無言で、それを胸に刻む。
この男は、薬の被験体である以前に――
戦争そのものだった。
庭先の蝶が舞う。
平和な朝の光の中で。
だが、この邸宅の食卓にだけは――
確かに、戦場の匂いが残っていた。