毒蝶と巨躯   作:kamiomiya

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5話 血染めの観測

那田蜘蛛山からの急使は夜を裂いて蝶屋敷に辿り着いた。

本部からの情報は短くも凄惨の一言に尽きた。

 

――緊急救助要請。

――隊士、ほぼ壊滅状態。

 

しのぶは一瞬だけ目を閉じ、すぐに立ち上がる。

 

その背後で、ジャック・ハンマーがゆっくりと首を鳴らす。

「……戦場、か」

 

低い声に僅かな昂揚が混じる。

「どんな鬼が出るのか、楽しみだな」

 

山に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

湿った土と絡み合い、肺の奥に沈殿する重たい気配。

血の匂い。

鉄錆と臓腑の匂い。

 

そして、死臭。

 

隊士たちは、ほぼ全滅していた。

四肢を糸で裂かれ幹に吊るされた者。

内臓を引き摺り出されたまま、なお息のある者。

生きている者も、すでに“生”から零れ落ちかけている。

 

死屍累々。

 

ここは、山ではない。

虐殺。否、屠殺。

 

人を家畜以下としか認識していない鬼の行為。

 

ジャックはテーマパークに来た様に、

「――いいねえ」

場違いなほど軽い声だった。

「それらしくなってきたな。どんな鬼が出るのか楽しみだ」

 

しのぶは何も返さない。

ただ周囲の生存者の脈を確認しながら進む。

 

ジャックは周囲を見回し笑った。

「……なるほどな」

「間違いなく、鬼の仕業だな」

「通常の人間では、こうまで破壊は無理だ。」

 

その時、気配が変わった。

木々の合間から少年の姿が現れた。

白い肌。

幼い顔立ち。

赤い眼。

冷たい視線。

糸を操る異様な気配。

 

下弦の伍――累。

 

「……何だ?」

ジャックは鼻で笑い肩をすくめた。

「なんだ、ガキじゃねえか」

しのぶを横目で見る。

「しのぶ。本当に鬼か?」

 

しのぶは、静かに淡々と返した。

「あなたは以前、見た目で判断して中年男性――」

「"本部以蔵"に敗北しましたよね?」

 

ジャックは一瞬だけ視線を逸らし苦笑する。

「……ああ。そうだった。」

 

遠い記憶を噛みしめるように。

「チビの中年おっさんだと侮って、」

「自慢の歯を全部引っこ抜かれ、」

「挙げ句の果て緊縛されて衆目の前で敗北だ」

「いい勉強だった」

 

累が眉をひそめる。

人間同士の会話。

まるで、自分が見えていないかのような態度。

 

ジャックは、静かに言った。

「……今ので目が覚めたよ」

 

次の瞬間。

彼は懐から注射器を取り出し首元に注射針を突き立てた。

薬液が体内へ流れ込む。

血流が加速する音が聞こえるようだった。

筋繊維が微かに膨張し皮膚の下で脈打つ。

 

「しのぶ!」

 

ジャックは、ゆっくりと息を吐く。

「お前の対鬼薬の“一部”を入れた。」

「実験結果をよく見てろ!」

 

累を見据える。

 

「見た目はガキだがよ、小鬼!」

「敵同士だ。容赦はしねえ」

 

シャツを脱ぎ捨て歪んだ笑み。

 

「俺のデビュー戦だ。全力で行くぜ」

 

累の眉がわずかに動いた。

累は本能的に理解した。

(……異常だ)

この男は人間ではない。

だが、鬼でもない。

 

「人間の分際で……!」

 

怒りが累の糸を走らせた。

先手必勝。

鋼鉄の糸が空間を裂く。

――だが。

ジャックは、いなかった。

 

否、

 

もう目の前にいた。

瞬間移動と錯覚するほどの速度。

対鬼薬で強化された筋力と反射。

 

「――遅え」

 

次の瞬間、

高速タックル。

累の身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。

衝撃で内臓が悲鳴を上げる。

 

ジャックは歪で悪そうな薄ら笑いを浮かべ――

マウントポジションからの無呼吸連打。

言葉通りだった。

呼吸を止めたまま、

拳が雷雨のように落ちる。

骨が砕け、

肉が潰れ、

血が噴き出す。

累は糸で抵抗しようとするが、

腕を振り上げるたび、ジャックの拳が

断罪の槌の如く落ちる。

 

(……動かない)

(なんで……?)

(僕は……下弦の鬼だよ……?)

 

理解が追いつかない。

意識が白く霞んでいく。

 

その中で、

累の脳裏に浮かんだのは鬼になる前の

人間の記憶だった。

本当の家族。

抱きしめられた記憶。

温もり。

優しい声。

守られていた時間。

 

(……なぜ)

(なぜ僕は、こんな場所で)

(異人の獣に踏み潰されているのか……)

 

一筋の涙が、累の頬を伝った。

だが、ジャックの拳は止まらない。

やがて、

糸は動かなくなり、

声も消えた。

 

累が最後に見たのはジャックの血塗られ歪んだ笑みだった。

戦闘は、あまりにも一方的で蹂躙であった。

 

静寂が戻る。

ジャックは血に濡れた拳を見下ろし息を整える。

 

「しのぶ」

「これが下弦の鬼か?」

 

しのぶを振り返った。

「一応、鬼の中じゃ強え方なんだろ?」

 

肩をすくめ、鼻で笑う。

「フン。」

「対鬼薬を使うまでもなかったな」

「これなら、ナチュラルな状態で十分だ」

 

そう言うと、

彼は無造作に、アンプルを差し出した。

中には、

累の肉体から抽出された血液。

 

「ホレ」

「こいつの血だ」

「少しは、お前の研究に役立つだろ」

 

最後に低く言う。

「役立てな」

 

しのぶは、無言でそれを受け取った。

その手は微かに震えていた。

 

そして、心の奥で別の疑問が芽生えていた。

 

鬼を殺せるのは日輪刀のみ。

それが常識。

 

だが、この男は違った。

薬で強化されたとはいえ、

日輪刀も使わず、朝日も待たず、

純粋な力で鬼を圧倒し倒した!

 

(この人は……本当に人間?)

 

血筋なのか。

異質な適応能力なのか。

 

しのぶはアンプルを見つめた。

その中で揺れる赤黒い液体が未知の可能性を

囁いているようだった。

 

狂気の蝶は血塗られた羽で、

さらに深く闇へと舞い降りていく。

 

――これは、

人と鬼の序列が完全に壊れ始めた瞬間だった。

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