累の亡骸から、
まだ湯気のように立ちのぼる血の匂いの中で――
ジャック・ハンマーが振り向いた。
その薄ら笑い。
裂けた口元。
濡れた拳。
鬼より鬼。
否――
鬼という概念の外側に立つ存在。
「しのぶ!」
低い声が、山の沈黙を揺らす。
「少しは記録が取れたのか?」
胡蝶しのぶは答えなかった。
彼女の視線は、
ジャックの肉体に注がれていた。
――投与量。
マウスに用いた対鬼薬の容量を基準に、
体重・循環血液量・代謝速度を補正し、
それ以下で抑えた投与。
それにもかかわらず。
下弦の伍を一方的蹂躙。
戦闘後に生存。
「……ええ……」
ようやく、しのぶは口を開いた。
「想定を遥かに超える効果です。」
声は冷静だった。
胸の奥では、
二つの感情がせめぎ合っていた。
――成果への歓喜。
――そして、震え。
(私は……何を作った?)
鬼を殺すための薬。
だが今、
彼女の眼前に立つのは――
鬼を凌駕する "人”
ジャックは彼女の内心を
見透かしたように笑った。
「心配するな。」
「俺は、俺だ。」
一歩、近づき、真っすぐ目を見て、
静かに言った。
「それよりな……」
「しのぶ……」
その声に僅かな重みが宿る。
「俺は、お前の方が心配だよ。」
しのぶの瞳が揺れた。
「俺の身体が骨と皮だった頃に、」
「潜在能力を見抜いた科学者がいた。」
「ジョン博士って男だ。」
空を仰ぎ淡々と語り出す。
「自分の研究を世に認められず、」
「世の中を心底恨んでた。」
「まあ、当然だな。」
「薬物で人為的に肉体を強化するなんて――」
「科学者にとっちゃ、禁忌(タブー)だ。」
"禁忌(タブー)"
決して越えてはならない線。
「そこに俺が現れた。」
「当時の俺は…」
「世界一ハードなトレーニングをする、世界一ひ弱な男。」
「博士の第一印象だ。」
「その貧弱な肉体に投与すれば半年後に死ぬかもしれんとも言われたよ。」
「俺の肉体がそれに耐えられず半年後に死ぬと言うのなら、」
「それだけの男だったと言うことだろう。」
「長生きしようなどと最初っから考えちゃいないッッッ」
「最強の肉体と死を引き替えにする覚悟は既にできてるッッッ」
その覚悟を聞いたジョン博士は震えていた。
恐怖ではない。
歓喜だ。
己の理論を託せる男を見つけた歓喜。
そして同時に理解していた。
これは人間の限界への挑戦ではない。
かつて北極で見た"究極の暴力"を
己の手でつくる神の領域への挑戦だと。
「大量の薬物投与後、」
「俺の肉体はようやく鍛錬に応える器へ変わった。」
「たったそれだけでも博士は歓喜したよ。」
「君が今までやってきたことに肉体が確かな答えを出したのだ!ってな。」
「それからだ……」
「ドーピングに次ぐドーピング。」
「日に30時間の鍛錬と揶揄されるトレーニング。」
「ドーピングとトレーニング。」
「人体の限界を何度も何度も踏み越えさせた!」
「そして証明した!」
「――理論は、正しかった!」
「自分の研究は間違ってなかったってな!」
声が少しだけ低くなる。
「それでも俺は止まらなかった。」
「もっと強くなりたかった。」
「強さだけを、求め続けた。」
「ある時な……」
ジャックは、ゆっくりと視線を戻す。
「巨大なホッキョクグマを、」
「俺が素手で倒したのを見て――」
一拍。
「博士は言ったよ。」
「『これ以上、神と喧嘩は出来ない』ってな……」
沈黙。
「そのまま、こめかみに銃口を当てて――」
「自殺した……」
しのぶの喉が微かに鳴った。
「お前は、どうだ?」
ジャックの眼が彼女を射抜く。
「博士と同じ人体改造をしている研究者として、」
「その覚悟はあるかい?」
問い。
それは、責めではない。
確認だった。
一瞬の後、彼は自嘲気味に笑った。
「……おっと」
「その覚悟を、」
「すでに自分の身体を」
「"毒袋" にした女に聞くのは野暮か!」
しのぶの唇がわずかに歪む。
「流石だな!」
「――同類だ」
ジャックは、しのぶの肩に手を置いた。
血と薬の匂いが混じる。
「頼むぞ!」
低く確信に満ちた声。
「相棒!」
「お前を頼りにしてる!」
胡蝶しのぶは、その手を振り払わなかった。
月も山も何も答えない。
彼女は理解していた。
自分は既に "人の道" から外れていたのだと。
狂気の蝶は血と薬の夜を好み、
さらに深い闇へと羽ばたいていく。
その翅が向かう先にあるのは、
救済か、
破滅か。
それすらも――
もはや彼女には関係がなかった。