毒蝶と巨躯   作:kamiomiya

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8話 戦場の正義

 

累を討ち果たしてから幾日後。

 

穏やかな朝だった。

 

胡蝶邸の庭先には薄い霧が残り朝露を含んだ空気が

肺に冷たく沁みる。

 

那田蜘蛛山での惨劇がまるで遠い夢だったかのように

鳥の声だけが静かに響いていた。

胡蝶邸の食堂には柔らかな陽光が差し込み障子越しの光が

食卓を淡く照らし静かな影を落としている。

 

胡蝶しのぶ。

継子の栗花落カナヲ。

竈門炭治郎。

 

そして――

ジャック・ハンマー。

 

食卓には料理が並べられていた。

 

一方には、

味噌汁、白米、焼き魚。

大正の世ではまだ珍しい、

洋風の卵料理やパン、紅茶。

 

しのぶ、カナヲ、炭治郎達の整った人の食事。

 

その静謐を切り裂く異物は食卓の上にあった。

 

そこに一本、見えない境界線が

引かれているかのように明確に異質だった。

その境界を越えた向こう側。

 

そこには――

 

人間の腕程太い背骨。

そして、その背骨の "所有者" だった動物のステーキ。

 

野生の匂いが静かな朝に混ざっていた。

 

ジャックは一切の遠慮なく背骨を掴み上げ、

ためらいなくそれに噛みついた。

歯が骨を拒まない。

抵抗が存在しないかのように背骨は砕かれ、

露わになった髄を彼は啜った。

 

歯が背骨を軽く嚙み砕く音が朝の静けさを破り部屋に響く。

髄を啜るその姿は食事というより捕食だった。

 

炭治郎は鼻腔を刺す匂いに顔を強張らせ、

カナヲは箸を持つ手を止め、

恐る恐るその異様な光景を見つめていた。

 

やがて、意を決したように、

カナヲが小さく口を開いた。

 

「ど、……どうして、そこまで……」

「薬物を摂取してまで……」

「強くなろうとするんですか……?」

 

恐る恐る。

声は震えていた。

 

だが、確かに投げかけられた問いだった。

 

ジャックは椰子の実を手に取る。

繊維が幾重にも絡んだ硬殻に躊躇なく噛みついた。

 

サクッ、

 

とあり得ない程の軽い音。

 

側面に穴が穿たれ中の液体が溢れ出す。

彼はそれをグラスに注ぎながら笑った。

 

「お嬢さんは "健全な隊士" がお望みか?」

 

低い声だった。

 

そして、炭治郎とカナヲを見据える。

 

一瞬の沈黙。

 

「なら――俺は望みがねえな。」

 

炭治郎の肩が僅かに揺れる。

 

低くだが妙に穏やかな声。

 

「小僧も、よく聞け!」

 

炭治郎は背筋を伸ばした。

 

視線が鋭くなる。

 

「お前たちは、鬼と相対して命のやり取りをしてる。」

「鬼は再生する。」

「だが人間はどうだ?」

「腕が、脚が、飛べば戻らねえ。」

「内臓を潰されりゃ死ぬ。」

 

沈黙が落ちた。

 

「そこは安全な道場じゃねえ!」

 

ジャックの声が低く沈む。

 

「戦場そのものだ。」

 

空気が冷たく張り詰める。

 

ジャックは淡々と語る。

 

「これを飲めば強くなれる、」

「あれを使用したら強くなれる、」

「それが判りながら手を出さない!――」

 

鼻で笑った。

 

「それは、だらしない!」

「情熱不足!」

「強くなれる手段があるのに、」

「使わねえのは怠慢だよ!」

 

炭治郎の拳が膝の上で硬くなる。

 

カナヲの指先がわずかに強張る。

 

「死が近づこうが関係ねえ。」

「俺はこう思ってる。」

 

ジャックは、はっきりと言い切った。

 

「強くなれば "正義" だ!」

 

炭治郎の喉が鳴った。

 

「薬物で強くなるのは卑怯か?」

「卑怯じゃねえのか?」

 

一瞬、間を置き嗤う。

 

「そんなもんはな、」

「安全な場所で後世の連中が考えりゃいい。」

「戦場じゃ意味がねえ。」

 

空気が重く沈む。

 

そして彼は遠い記憶を掘り起こすように呟いた。

 

「ある軍人が言ってたよ。」

「戦場には反則がない、んじゃねえ、」

「――反則があるなら、即使え、だ!」

 

静かな朝に、その言葉は刃物のように響いた。

 

「戦場でのダーティープレイこそがフェアプレイ。」

「目の前の敵に勝ち、」

「自分は生き残る。」

「それが勝者だ!」

「単純で最高だろ!」

 

しのぶは、紅茶を静かに啜っていた。

その横顔に感情は読み取れない。

 

ジャックは視線を彼女へと向ける。

 

「しのぶ、あんたは柱だ。」

 

しのぶは紅茶を一口含み何も言わない。

 

「劇薬、増強剤、ステロイド……」

「しのぶ特製の即死すらの可能性もある、」

「そんな薬物を一般隊士に投与!?」

「そりゃ駄目だろ!?」

 

視線がカナヲに向く。

 

「……ましてや継子のお嬢さんを被験体に?」

「それはもっとダメだ。」

 

カナヲの肩が、わずかに揺れた。

 

「お嬢さんはな……」

「お前の技術と思いを継ぐ存在だ。」

「そこには必ず―― "情" が生じる。」

 

ジャックはちらりと、しのぶを見る。

しのぶは、カップを置き、

ただ一言だけ告げた。

 

「……どうぞ。続きを。」

 

その声には拒絶も否定もなかった。

 

ジャックは口角を歪めた。

 

「だがな!」

「鬼殺隊でもねえ、」

「隊士でもねえ、」

「柱でもねえ、」

「仲間でもねえ!」

「”明日を捨てた協力者” が目の前に現れたら?」

 

自嘲気味に肩をすくめ自分の胸を指差す。

 

「重度の薬物中毒(ジャンキー)」

「結果、死んでも文句言わねえときてる。」

「――しのぶが一番欲しがってた協力者だろ?」

 

低く楽しげに笑う。

しのぶの紅茶が、わずかに揺れた。

 

「研究者ってのは、」

「自分の "実験結果" "臨床結果" を知りてえ生き物だ。」

「否、それは――」

「研究者じゃなく、」

「人間の "欲" だ。」

 

ジャックは自分の胸を叩く。

 

「俺も知りてえ。」

「お前の薬で、」

「どこまで肉体が壊れて、」

「どこまで強くなれるのか!」

 

低く真剣な声。

 

「どんな "結果" でもいい。」

「知りてえんだ。」

「――俺も、」

「しのぶも――」

「同じ人間だ!」

 

カナヲと炭治郎は言葉を失っていた。

 

「そこに、お互いの間に情は入り込む余地がねえ。」

「この国じゃ何て言う?」

「……持ちつ持たれつ、って言うんだっけ?」

「俺はしのぶを頼ってる。」

「言うならばビジネスパートナーだ。」

 

その言葉が卓に静かに落ちた。

 

最後にジャックは言った。

 

「お嬢さん。」

「小僧。」

「人格形成が目的なら何も殺傷能力なんぞ要らねえだろ。」

「壁に向かって座禅でも組んでいる方が、」

「よっぽど気が利いている。」

「戦場において戦力向上と人格形成は無関係だよ!」

 

重く逃げ場のない真実として、

カナヲも炭治郎も呼吸を忘れていた。

そこにあったのは善悪ではない。

 

正義でもない。

 

狂気と理性が完全に噛み合った瞬間だった。

 

カナヲは理解した。

しのぶの微笑みの裏にある深淵を。

 

炭治郎は感じた。

ジャックという男の中にある命の扱い方の違いを。

 

しのぶは微笑んだ。

蝶の羽が触れるように儚く――

 

同時に――致死の毒を孕んだ笑み。

 

彼女は何も言わない。

 

だが、その沈黙こそが――肯定だった。

 

その朝、カナヲと炭治郎は理解した。

この卓に座る二人は鬼を狩る側でありながら、

すでに人の枠から大きく外れている。

 

そしてその狂気は、

互いを支え合う形で――

静かに完成へ向かっていた。

 

庭の蝶が朝日に溶けるように舞い上がる。

誰もその行き先を知らない。

 

ただ一つだけ確かなのは――

この邸宅には鬼とは別種の怪物が

確かに息づいているということだった。

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