ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第1話 銃声

文化祭前夜の高度育成高等学校は、

いつもの夜よりも少しだけ明るく、

少しだけ騒がしく、そして少しだけ浮ついていた。

 

本来ならば放課後の時間を過ぎれば生徒たちの姿は

徐々に寮やケヤキモールへと移っていくはずだったが、

この日だけは例外で、各教室の窓にはまだ明かりが残り、

廊下には段ボール箱や模造紙やペンキの缶が積み上げられ、

床には切り損ねた色紙や養生テープの端が落ち、

普段なら整然としている校舎そのものが、

翌日に控えた文化祭という非日常を前に、

少しだけ落ち着きを失っているように見えた。

 

2年Bクラスの教室も例外ではなく、机は壁際に寄せられ、

中央にはメイド喫茶用のパネルと未完成の看板が並べられ、

須藤が脚立の上で不安定にバランスを取りながら飾り付けを直し、

池がその下で大げさに指示を出し、篠原がそんな二人を呆れた目で見つめ、

平田は全体を見渡しながら誰かが孤立しないよう細かく声をかけていた。

 

「須藤くん、もう少し右。……違う、そっちじゃなくて、私から見て右よ」

 

堀北鈴音の冷静な声が教室内に響くと、

脚立の上にいた須藤は額に汗を浮かべたまま、ぎこちなく飾りの位置をずらした。

 

「お、おう。これでどうだ?」

「少し傾いているわね」

「マジかよ……俺の目には真っ直ぐに見えるんだけどな」

「あなたの目が信用できないというだけよ」

 

堀北が淡々と告げると、近くにいた軽井沢が小さく笑い、

須藤は言い返したそうに口を開いたものの、

結局は何も言わずに飾りを直し始めた。

 

文化祭という言葉には、本来ならもっと軽やかな響きがあるはずだった。

 

だが、この学校においては、文化祭もまた単なる行事ではなく、

クラスの評価やポイント、外部からの印象、

生徒同士の力関係に直結する一種の戦場であり、

どれだけ楽しげな装飾を施そうとも、

その裏側では誰もが損得や勝敗を計算している。

 

それでも、少なくとも今この瞬間だけは、教室に漂う空気は悪くなかった。

 

軽井沢は女子数人と一緒にお茶やお菓子を確認し、

みーちゃんは来場者向けの案内文を整え、幸村は資料の誤字を指摘し、

本堂や池はふざけながらも必要な荷物を運び、

平田は全員の間を行き来しながら、

まるでこの教室全体がひとつの小さな喫茶店であるかのように、

その空気を穏やかに保とうとしていた。

 

オレ――綾小路清隆は、その光景を教室の隅から眺めていた。

 

特に何かをしていないわけではない。

 

頼まれた作業は一通り終えたし、必要があれば手を貸すつもりでもいた。

 

ただ、今この教室の中で積極的に動く必要性は薄く、

むしろ全体の流れを邪魔しない程度に存在感を薄めているほうが、

結果的には効率が良いと判断していた。

 

「綾小路くん」

 

声をかけてきたのは一之瀬帆波だった。

 

隣のクラスの生徒でありながら、

文化祭準備の関係で何度かこちらの教室に顔を出していた彼女は、

手に持ったチェック表を胸の前に抱え、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。

 

「そっち、順調そうだね」

「大きな問題はないと思う。

少なくとも、飾りが何度か曲がる程度で済んでいる」

「それ、須藤くんのこと?」

 

一之瀬が苦笑すると、脚立の上の須藤がこちらを振り返った。

 

「おい綾小路、聞こえてるぞ!」

「聞こえるように言ったつもりはない」

「それはそれで腹立つな!」

 

須藤の声に教室の何人かが笑い、

堀北が「手を止めない」と短く注意すると、須藤は慌てて作業に戻った。

 

一之瀬はその様子を見て、少しだけ安心したように息をついた。

 

「こういう雰囲気、いいよね。

試験とか競争とか、そういうのが完全になくなるわけじゃないけど、

みんなで何かを作ってる感じがして」

「一之瀬のクラスは特にそういう空気を作るのが上手いだろうな」

「うん。でも、堀北さんのクラスも前よりずっとまとまってると思うよ」

 

一之瀬はそう言って、教室の中央にいる堀北を見た。

 

堀北は相変わらず表情こそ大きく変えないが、

須藤に指示を出し、平田と確認を取り、

時には女子たちの意見にも耳を傾けながら、

確かに以前より自然にクラスの中心に立っていた。

 

この学校に入学したばかりの頃の彼女なら、

今のような立ち位置を自分から引き受けることはなかっただろう。

 

孤独を強さだと誤認し、

他者との関わりを無駄なものとして切り捨てようとしていた彼女は、

今では不器用ながらもクラスという集団を見つめ、

その中で自分が果たすべき役割を理解し始めている。

 

成長、と呼ぶべきなのだろう。

 

もっとも、この学校における成長とは、

必ずしも穏やかで美しいものばかりではない。

 

「何を見ているの?」

 

堀北がこちらに気づき、少しだけ眉を寄せた。

 

「いや、リーダーらしくなったと思ってな」

「褒め言葉に聞こえないわね」

「褒めているつもりだ」

「あなたがそう言う時ほど信用できないのよ」

 

そう言いながらも、堀北はそれ以上深く追及してこなかった。

 

そのやり取りを見ていた一之瀬が微笑む。

 

ほんの数秒の、ありふれた時間だった。

 

だが、今にして思えば、その何気ない会話こそが、

この夜に残された最後の日常だったのかもしれない。

 

廊下の向こうから、龍園翔の笑い声が聞こえてきた。

 

「おい石崎、そんな持ち方してんじゃねえよ。

中身ぶっ壊したらテメェが明日一日中客寄せだ」

「わ、分かってますって龍園さん!」

 

龍園クラスの生徒たちが資材を運びながら廊下を通り過ぎていく。

 

龍園はいつものように余裕と不遜を混ぜたような表情で歩き、

その背後には石崎や伊吹たちが続いていた。

 

文化祭前夜という状況ですら、彼の周囲にはどこか不穏な空気がある。

 

それは暴力の匂いというより、

秩序を壊すことに躊躇しない者だけが持つ、独特の軽さだった。

 

龍園はこちらの教室の前で足を止めると、中を覗き込むようにして笑った。

 

「随分と仲良しごっこしてんじゃねえか、鈴音ぇ」

「文化祭の準備をしているだけよ。

あなたのクラスこそ、廊下を塞がないでもらえるかしら」

「おお怖ぇ。生徒会長に睨まれたら文化祭どころじゃねえな」

 

龍園はそう言いながらも、視線だけはこちらへ向けた。

 

正確には、オレを見ていた。

 

「綾小路、お前も随分と退屈そうだな」

「そう見えるか?」

「ああ。まるで全部終わった後の客みてえな顔してやがる」

「文化祭前夜で疲れているだけだ」

「ハッ。お前が疲れた顔なんざするかよ」

 

龍園の笑みは楽しげだったが、その目の奥には別のものが潜んでいた。

 

好奇心。

敵意。

執着。

 

そして、いつか必ずこちら側を引きずり出してやるという、彼なりの確信。

 

龍園はそれ以上何も言わず、

資材を持った生徒たちを連れて廊下の先へ消えていった。

 

そのさらに奥、階段付近には坂柳有栖の姿もあった。

 

彼女は杖をつきながら、神室や橋本たちを伴って静かに歩いていたが、

龍園のように騒がしい気配はなく、

まるで夜の校舎そのものを盤面として眺めているような落ち着きがあった。

 

坂柳は一瞬だけこちらを見ると、いつものように薄く微笑んだ。

 

その微笑みには、文化祭前夜の浮ついた空気などまるで含まれていなかった。

 

「綾小路くん」

 

遠くから聞こえるには十分なほど小さく、しかしこちらには確かに届く声だった。

 

「明日は、楽しみにしていますね」

 

それだけ言うと、坂柳は踵を返した。

 

彼女が何を楽しみにしているのか。

 

文化祭なのか。

別の何かなのか。

 

その時点では、判断材料が足りなかった。

 

だが、少なくともこの夜の校舎には、いつもより多くの要素が揃いすぎていた。

 

文化祭前夜。

多数の生徒。

遅い時間。

複数クラスの混在。

教師の目が届きにくい空白。

 

外部に対しては、準備という名目で説明可能な混雑。

 

そして、この学校の内側に潜む、表向きの教育機関とは別の顔。

 

オレは廊下の奥を見た。

 

夜の校舎は、明るい教室の中から眺めると、いつもより深く暗く見える。

 

まるで、光の届かない場所だけが、こちらをじっと見返しているようだった。

 

「清隆、これ運ぶの手伝ってもらえる?」

 

軽井沢の声で意識が戻る。

 

「ああ」

 

オレは段ボール箱を受け取り、教室後方へ運んだ。

中には文化祭で使う紙コップや簡易装飾が入っているだけ。

だが、廊下に積まれた箱の数が多すぎるせいか、

校舎全体の死角は通常より増えていた。

 

廊下の角。

階段の踊り場。

教室の裏口。

資材置き場。

体育館への渡り廊下。

 

文化祭準備のために開放された複数の部屋。

 

それらは本来なら、明日の賑わいを支えるための準備だった。

 

しかし見方を変えれば、それらはすべて、

追跡、遮蔽、待ち伏せ、逃走に適した障害物でもある。

 

そう考えてしまう自分に、ほんの少しだけ自嘲する。

 

平穏な文化祭前夜に、そんなことを考える必要は本来ない。

 

少なくとも、普通の生徒であれば。

 

その時だった。

 

校舎全体の照明が、一斉に落ちた。

 

最初は、誰もそれを異常だとは認識できなかった。

 

蛍光灯の白い明かりが消え、教室の中が一瞬で暗闇に沈み、

窓の外に見える校庭の輪郭も夜に溶けた。

 

数秒遅れて、女子の小さな悲鳴が上がった。

 

「えっ?」

「停電?」

「ちょっと、誰かブレーカー落とした?」

 

池が軽口を叩こうとしたが、その声には明らかに戸惑いが混じっていた。

 

廊下の向こうでも同じようなざわめきが広がり、

複数の教室から椅子の動く音や人の声が重なって聞こえてくる。

 

暗闇の中で、須藤が脚立の上から慌てて降りようとし、足を滑らせかけた。

 

「須藤くん、動かないで!」

 

堀北の声が鋭く飛ぶ。

数秒後、赤い非常灯が点いた。

 

天井近くの小さな照明が淡く赤い光を放ち、

教室内の生徒たちの顔を下から薄く照らし出す。

 

その光は安心を与えるには弱すぎ、

むしろ生徒たちの表情から血の気を奪うように、

世界全体を不穏な色に染めていた。

 

「携帯、圏外なんだけど」

 

松下の声がした。

 

「こっちも」

「え、嘘でしょ?」

 

教室内の何人かが一斉に端末を確認する。

 

画面には圏外の表示。

校内Wi-Fiも切断されている。

停電だけならあり得る。

通信障害も、可能性としてはゼロではない。

 

だが、停電と同時に校舎全体の通信が遮断されるというのは、

偶然にしては出来すぎていた。

 

オレは廊下側の窓から外を確認した。

 

校庭の照明も落ちている。

 

だが、学校外の遠い建物には明かりがある。

 

つまり、停電は地域全体ではなく、

この敷地内に限定されている可能性が高い。

 

「先生に連絡を――」

 

平田が言いかけた瞬間、廊下の奥から重い金属音が響いた。

 

ガシャン、という音。

 

続けて、別の場所でも同じ音がした。

 

防火シャッター。

 

廊下の各所に設置された防火シャッターが、次々と降り始めていた。

 

生徒たちのざわめきが一段階大きくなる。

 

「おい、なんだよこれ!」

「閉じ込められるぞ!」

「誰か止めろ!」

 

廊下に出ようとした生徒がいたが、すぐに別の生徒に止められた。

 

赤い非常灯に照らされた廊下の奥で、

巨大なシャッターが床へ降りていく様子は、単なる設備の作動というより、

校舎そのものが内側から檻へと変わっていく光景に見えた。

 

堀北はすぐに平田へ視線を向けた。

 

「平田くん、教室にいる生徒を落ち着かせて。勝手に外へ出ないようにして」

「分かった。みんな、まずは教室から出ないで。

状況を確認するまで不用意に動かないほうがいい」

 

平田の声は落ち着いていたが、

それでも教室内の不安は完全には収まらなかった。

 

当然だ。

 

この学校の生徒たちは試験や競争に慣れているが、

停電と通信遮断と防火シャッターの同時作動など、

通常の特別試験の範囲を明らかに超えている。

 

その時、校内放送が鳴った。

 

最初に聞こえたのは、耳障りなノイズだった。

古い機械が無理やり目を覚まされたような、ざらついた音。

 

それから、数秒の沈黙。

 

そして、聞き覚えのある声が校舎全体に響き渡った。

 

『――皆さん、こんばんは』

 

その声を聞いた瞬間、教室内の空気が変わった。

 

月城理事長代理。

 

穏やかで、丁寧で、しかし底の読めない声。

 

『文化祭前夜にもかかわらず、

遅くまで準備に励んでいる皆さんには、まず労いの言葉を贈りましょう』

 

誰も声を出さなかった。

 

赤い非常灯の下、生徒たちは天井のスピーカーを見上げていた。

 

『ですが、残念ながら明日の文化祭は予定通りには行われません』

 

堀北の顔が強張る。

一之瀬も教室の入り口付近で立ち尽くしていた。

 

『これより、高度育成高等学校において、特別試験を開始します』

 

特別試験。

 

その言葉だけなら、この学校では珍しくない。

 

だが、今の状況と月城の声色が、

その言葉の意味を普段とはまったく違うものに変えていた。

 

『対象者は一名』

 

わずかな沈黙。

 

『2年Bクラス、綾小路清隆くん』

 

教室中の視線が、ほぼ同時にこちらへ向いた。

軽井沢の表情から血の気が引いた。

堀北は目を細め、一之瀬は息を呑み、

平田は何かを言おうとして言葉を失っていた。

 

『試験内容は単純です。

綾小路清隆を殺害した者には、無条件でAクラス卒業資格を与えます』

 

一瞬、誰も反応しなかった。

 

言葉の意味を脳が拒絶したのだろう。

 

退学ではない。

敗北でもない。

 

殺害。

 

この学校で、これまでどれほど過酷な試験が行われようとも、

その言葉が公式に告げられたことは一度もなかった。

 

『なお、これは比喩ではありません。冗談でもありません。

試験の達成条件は、綾小路清隆くんの死亡確認です』

 

教室のどこかで、誰かが小さく悲鳴を漏らした。

 

『各所に必要な装備を配置しています。

使用方法は皆さんの判断に委ねます。制限時間は夜明けまで。

外部への通信は遮断済み。校舎の主要出入口も封鎖済みです』

 

月城の声は、どこまでも穏やかだった。

 

まるで明日の天気を告げるように、あまりにも自然に異常を告げていた。

 

『また、試験の妨害、対象者の逃亡補助、

外部への通報を試みた生徒については、相応の処分を行います』

「ふざけないで……」

 

堀北が低く呟いた。

 

その声は怒りを抑えていたが、完全には隠せていなかった。

 

『では皆さん、健闘を祈ります』

 

放送はそこで切れた。

 

ノイズが消えた後、校舎にはしばらく完全な沈黙が落ちた。

その沈黙を破ったのは、廊下の遠くで響いた乾いた破裂音だった。

 

一発。

続けて、もう一発。

 

銃声だった。

 

普通の生徒には、それが何の音か即座には分からなかったかもしれない。

 

だが、直後に廊下から上がった悲鳴と、

何かが砕ける音が、その意味を残酷なほど明確にした。

 

「う、嘘だろ……?」

 

池が震えた声を出した。

 

「今の、何の音だよ……?」

 

誰も答えなかった。

いや、答えられなかった。

答えを認めることができなかった。

 

その直後、廊下側の扉が勢いよく開いた。

 

現れたのは龍園だった。

 

その手には拳銃が握られていた。

赤い非常灯に照らされた黒い銃身は、作り物には見えなかった。

 

龍園の背後には石崎やアルベルト、数人の龍園クラスの生徒たちが立っていた。

 

全員が武器を持っているわけではない。

 

だが、少なくとも龍園の手の中にあるものは、

この教室の空気を支配するには十分すぎた。

 

「動くな」

 

龍園の声は低く、笑っていなかった。

 

いつもの挑発的な笑みは口元に残っていたが、

その目は完全に狩る側のものだった。

 

「騒いだ奴から撃つ」

「龍園くん、あなた、自分が何をしているのか分かっているの?」

 

堀北が一歩前に出ようとした。

 

その瞬間、龍園は銃口をわずかに動かした。

 

狙いは堀北ではなく、彼女の足元だった。

 

乾いた音が教室内で炸裂し、床の一部が弾けた。

 

悲鳴。

 

女子生徒たちが一斉に身をすくめ、

須藤が反射的に堀北の前へ出ようとしたが、平田がそれを必死に止めた。

 

「須藤くん、駄目だ!」

 

硝煙の匂いが教室に広がった。

 

作り物ではない。

 

誰もがその事実を理解した。

 

「次は外さねえ」

 

龍園は静かに言った。

 

その声には、冗談の余地がなかった。

 

「龍園さん……本当にやるんすか……?」

 

石崎の声は震えていた。

彼は龍園に従っている。

だが、その顔は明らかに青ざめていた。

 

本物の銃。

本物の殺意。

本物の試験。

 

龍園の周囲にいる生徒たちの中にも、状況に適応しきれていない者は多かった。

 

だが、龍園だけは違った。

 

彼はこの異常事態を前にして、恐怖より先に興奮していた。

 

「月城が用意した舞台だ。乗るしかねえだろ」

「こんなの、試験じゃない!」

 

一之瀬が叫んだ。

 

廊下側からこちらへ来ていた彼女は、

教室の入り口付近で立ち止まり、龍園を睨んでいた。

 

「人を殺してAクラスに行くなんて、そんなの絶対に間違ってる!」

「間違ってる?」

 

龍園は一之瀬を見ると、鼻で笑った。

 

「お前らしいな、一之瀬。

だがな、間違ってるかどうかを決めるのは俺たちじゃねえ。

この学校を動かしてる連中だ」

「だからって従う必要なんてない!」

「従うんじゃねえよ。利用するんだ」

 

龍園の言葉に、教室内の空気がさらに冷えた。

 

彼は本気だった。

 

月城の狂った条件を、道徳的に拒否するのではなく、

勝利への道具として受け取っている。

 

そのことが、何よりも恐ろしかった。

 

その時、別の足音が廊下から聞こえた。

 

坂柳有栖だった。

 

彼女は神室や橋本たちを伴い、赤い非常灯の下をゆっくりと歩いてきた。

 

彼女の周囲にも、武装した生徒がいる。

 

坂柳自身は銃を持っていなかった。

 

だが、その背後にいる生徒たちの手には、明らかに本物の武器があった。

 

「随分と乱暴な制圧ですね、龍園くん」

 

坂柳は静かに言った。

 

「あなたにしては早い動きです」

「テメェこそ随分早いじゃねえか。足が遅い割にはな」

「盤面が動き出した以上、初手を誤るわけにはいきませんから」

 

坂柳は微笑みながら教室内を見回した。

 

その視線が、堀北、一之瀬、平田、軽井沢、須藤、

そして最後にオレのいた場所へ向けられる。

 

しかし、その時にはもう、オレは教室の中央にはいなかった。

 

停電直後。

放送の最中。

龍園が扉を開ける直前。

 

そのわずかな混乱の中で、オレは教室後方の資材置き場へ移動していた。

 

段ボール箱と展示パネルの影。

 

そこからさらに、準備のため一時的に開いていた隣室への連絡扉を抜ける。

 

普段なら施錠されている小部屋だったが、

文化祭準備のため開放されていたことは把握していた。

 

そこから廊下へ出る別の扉がある。

 

ただし、その廊下は既に防火シャッターで分断されている可能性がある。

それでも、正面で龍園や坂柳と向き合うよりは選択肢が残る。

 

オレは物音を立てないように移動した。

 

背後では、龍園と坂柳が教室を制圧している。

 

「綾小路くんはどこですか?」

 

坂柳の声が聞こえた。

 

「さっきまでそこに――」

 

誰かが言いかけて、言葉を止めた。

 

気づかれた。

 

「……逃げたか」

 

龍園の声が、低く笑った。

 

その声には怒りよりも歓喜があった。

 

「いいじゃねえか。最初から檻の中にいる獲物を撃つだけじゃつまらねえ」

「龍園くん、油断は禁物ですよ。彼はただ逃げたのではありません。

おそらく、既に校舎内の構造とこちらの動きを計算し始めています」

「上等だ」

 

龍園が笑う。

 

「だから殺しがいがある」

 

オレは隣室の扉を静かに閉めた。

その瞬間、遠くの廊下から再び銃声が響いた。

 

悲鳴。

足音。

 

何かが倒れる音。

 

校舎全体が、すでに崩れ始めている。

 

オレは暗い準備室の中で、周囲を確認した。

 

棚。

脚立。

工具箱。

養生テープ。

カッター。

針金。

懐中電灯。

 

武器と呼べるものはない。

だが、何もないよりはましだった。

 

オレは小型の懐中電灯と工具箱の中から使えそうなものを選び、ポケットに入れた。

 

現時点で優先すべきことは三つ。

 

一つ、堀北たち人質の位置と状況を把握すること。

二つ、敵勢力の配置と武装を確認すること。

三つ、こちらも武器を確保すること。

 

月城は本気だ。

篤臣が関わっている可能性も高い。

 

ホワイトルームへ戻らないオレを処分するために、

学校という閉鎖空間と生徒たちの欲望を利用した。

 

Aクラス卒業という報酬は、この学校の生徒にとってあまりにも大きい。

 

道徳で拒否する者もいるだろう。

恐怖で動けない者もいるだろう。

だが、引き金を引く者は必ずいる。

 

龍園。

坂柳。

宝泉。

天沢。

 

その名前が頭に浮かぶ。

 

特に一年生側の動きは危険だ。

 

宝泉はためらわない。

 

天沢は楽しむ。

 

七瀬は迷うかもしれないが、命令に縛られている限り敵にも味方にもなり得る。

 

そして、坂柳は直接手を下さずとも盤面を支配する。

 

龍園は狩る。

 

この状況で最も避けるべきなのは、敵を一つの集団として見ることだ。

 

彼らは全員、オレを殺すという目的では一致している。

 

だが、互いに協力し続けるとは限らない。

 

報酬は一つ。

 

綾小路清隆を殺害した者。

 

つまり、最後に引き金を引いた者だけが勝者になる。

 

その条件は、必ず彼らを分裂させる。

 

それまで生き残る必要がある。

 

準備室の外で足音が止まった。

 

オレは息を殺した。

 

扉の向こうに誰かがいる。

 

人数は二人。

 

足音の重さから判断して、龍園クラスの生徒ではない可能性がある。

 

片方は落ち着いている。

 

もう片方は明らかに呼吸が乱れている。

 

「本当に探すんですか……?」

 

聞こえてきた声は、見知らぬ下級生のものだった。

 

「命令だろ。見つけたら撃てって」

「でも、相手は先輩ですよ……」

「Aクラス卒業だぞ。こんなチャンス、二度とない」

 

その声は強がっていた。

 

だが、手の震えまでは隠せていないだろう。

 

オレは扉から少し離れ、棚の影に身を沈めた。

 

扉が開いた。

 

赤い非常灯の光が細く差し込む。

 

生徒が一人、銃を構えながら中へ入ってきた。

 

構えは不安定。

 

視線は銃口の先ではなく、暗闇そのものに怯えている。

 

もう一人は廊下に残っている。

 

オレは動かなかった。

 

生徒は懐中電灯を向けようとした。

 

その瞬間、オレは棚の隙間から踏み込み、

相手の手首を押さえ、銃口を天井へ逸らした。

 

発砲音。

 

天井の一部が砕け、粉じんが落ちる。

 

廊下にいたもう一人が叫ぶ。

 

オレは銃を持っていた生徒の体勢を崩し、声を出す暇を与えず床に押さえ込んだ。

 

殺す必要はない。

 

意識を奪う必要も、今はない。

 

必要なのは銃だけだ。

 

銃を奪い、弾倉を確認する。

 

残弾は少ない。

 

だが、これで丸腰ではなくなった。

 

廊下の生徒が慌てて中へ入ろうとする。

 

オレは懐中電灯を相手の顔へ向けた。

 

強い光を受け、生徒が一瞬ひるむ。

 

その隙に距離を詰め、武器を奪い、壁際へ押し込む。

 

「撃つ覚悟がないなら、持つな」

 

オレはそれだけ告げた。

 

二人とも震えていた。

 

彼らは殺し合いに向いていない。

 

月城の放送と報酬に押され、周囲の空気に流され、

銃という道具を手にしただけの生徒だ。

 

だが、そういう人間ほど危険でもある。

 

恐怖で引き金を引くからだ。

 

オレは二人を縛るほどの時間はないと判断し、

武器だけを奪って準備室を出た。

 

廊下は赤く暗かった。

 

遠くで複数の足音が響き、放送室方面からノイズ混じりの音が漏れている。

 

校舎のどこかで誰かが泣いている。

別の場所では龍園の笑い声が聞こえたような気がした。

 

オレは銃を手にしたまま、廊下の影へ身を滑り込ませた。

 

これで状況は変わった。

狩られるだけではない。

 

しかし同時に、ここから先は一歩誤れば終わる。

 

教室には堀北たちがいる。

一之瀬クラスも人質に取られている可能性が高い。

 

外部は遮断され、校舎は封鎖され、月城はこの状況をどこかで見ている。

 

夜明けまで。

 

その言葉が頭に残る。

 

夜明けまで生き延びれば終わるのか。

それとも、夜明けまでにすべてを終わらせるつもりなのか。

 

答えはまだ分からない。

 

ただ一つだけ確かなことがある。

文化祭前夜の校舎は、もう学校ではなかった。

 

赤い非常灯に照らされた廊下。

 

閉ざされたシャッター。

銃声。

悲鳴。

人質。

 

そして、オレを殺せば未来を手に入れられると信じた生徒たち。

 

高度育成高等学校はこの夜、教育機関ではなく、巨大な狩場へと変貌した。

 

その中心にいる獲物は、オレだった。

 

そして、その獲物がまだ生きていることを知らせるように、

オレは奪った銃を握り直し、暗い廊下の奥へ歩き出した。




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