ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
煙の層が特別棟の天井近くからじわじわと降りてくる。
赤い非常灯の光を鈍く濁らせながら
廊下全体を薄暗い膜のように包み始めた時、
綾小路清隆は堀北鈴音の手首を掴んだまま足を止めず、
視界の悪化を不利ではなく、
一時的な遮蔽として使うほうへ意識を切り替えていた。
背後ではまだ複数の声が重なっていた。
それらは先ほどまでのように位置が明確ではなく、
煙と反響のせいで距離感を失い、龍園の怒声も、宝泉の低い叫びも、
七瀬の制止も、天沢の笑いも、坂柳の静かな指示も、
すべてが同じ濃度で空間に滲んでいた。
それは追う側にとって厄介であると同時に、
逃げる側にとっても一つ判断を誤れば
即座に行き止まりへ滑り込む危険な状況だった。
少なくとも今この瞬間だけは、綾小路にとって必要な数秒を生んでいた。
「こっちで合ってるの?」
堀北が低く問いかける。
息は乱れているが、まだ意識は鋭い。
「中央階段は使わない」
綾小路は短く返した。
「いま向こうは読まれてる」
「なら?」
「北側の資料連絡通路を抜ける」
堀北はわずかに眉を寄せた。
「そんな通路、あったかしら」
「普段は閉まってる」
それだけ答え、綾小路は煙の薄い方向を見定めて角を曲がった。
特別棟の北側は文化祭関連の備品や展示用の予備資材が
一時的に寄せられている区画で、
表向きの導線から外れているぶん普段は人が少ないが、
今夜に限ってはその雑多な配置が逆に追跡者の視線を切る壁になっていた。
長机が横倒しになり、発泡ボードの束が立てかけられている。
巻かれた暗幕とアルミフレームが中途半端に通路を塞ぎ、
明日の賑わいのための準備だったはずのものが、
今はまるでここから先へは容易に通すなと言わんばかりに狭い迷路を形成している。
綾小路は一度だけ立ち止まり、背後の気配を探った。
追跡は来ている。
だが一団ではない。
少なくとも三方向に割れている。
一つは宝泉。
一直線に深く追ってくる重い足音。
一つは七瀬。
その後方か、少し外側を並走している慎重な気配。
そしてもう一つは龍園側か坂柳側の誰かが、
やや遅れて別の経路から回り込もうとしている足の置き方だった。
天沢は分からない。
それが最も不穏だった。
「止まったの?」
堀北が問う。
「追い方が割れた」
「それは好都合?」
「半分だけな」
綾小路はそう言って再び歩き出したが、今度は走らない。
走れば音が増える。
煙と反響が濃い状況では、早さより位置を誤認させるほうが価値があった。
堀北もその意図を読んだのか、無理に前へ出ず、
綾小路の半歩後ろを保ちながら呼吸だけを整えていた。
「軽井沢さんたちは」
堀北が低く呟いた。
それは問いというより確認に近かった。
「教室棟側でまだ動きがある」
綾小路が答える。
「人質の配置はもう固定じゃない」
「移される?」
「可能性は高い」
堀北は少しだけ視線を伏せた。
「わたしが抜けた時点で、向こうもやり方を変えるわね」
「変えるだろうな」
「一之瀬さんか、軽井沢さんか、椎名さんか」
名前が並ぶ。
綾小路は否定しなかった。
否定できる根拠がないからではない。
否定したところで、何も軽くならないと分かっているからだ。
その沈黙を切るように、背後で何かが倒れる音がした。
金属と木材がぶつかる乾いた音。
宝泉ではない。
あれはわざとだ。
音で位置を動かそうとしている。
天沢か、あるいは橋本あたりが近い。
綾小路は足を止めず、小さく言った。
「誘導だ。乗るな」
「分かってるわ」
堀北の返答は即座だった。
その短いやり取りのあと、二人は資料連絡通路へ辿り着いた。
普段なら教員や係の生徒が備品を運ぶ時にだけ使うような細い渡し通路で、
壁際に保管箱が寄せられ、照明も弱く、
特別棟本線の廊下よりさらに圧迫感が強い。
だがその先には、教室棟側へ直接戻るのではない。
校舎外周寄りの階段へ抜けられる短い分岐がある。
そこまで行ければ一度校門方向を覗ける。
綾小路の狙いはそこだった。
「本当にこっちへ抜けられるのね」
堀北がかすかに言う。
「覚えてるの」
「覚える必要があるものは覚えてる」
「便利ね、その頭」
「今だけはな」
その瞬間、通路の入口側で声がした。
「やっぱりこっちか」
天沢だった。
楽しげではあるが、声の位置が近い。
かなり近い。
綾小路は即座に堀北を壁際へ寄せ、自分が通路中央へ半歩出る。
天沢は通路の入口に立っていた。
煙の向こうから浮かぶその輪郭は薄いが、立ち位置に迷いがない。
つまり偶然ではなく読んで来た。
「先輩って、逃げる時ほど頭の回転速いですよね」
「褒め言葉として受け取っておく」
「うん、褒めてるつもり」
彼女は一歩前へ出る。
銃はある。
だが今は上げない。
近距離で撃つより、進路を塞ぐことのほうを選んでいる。
そこが天沢らしかった。
「堀北先輩も大変ですよね。守られてるのか、
巻き込まれてるのか、たぶん自分でも半々くらいでしょ?」
堀北は答えない。
答える必要がないと分かっているのだろう。
綾小路がわずかに角度を変える。
天沢の目がそれを追う。
「ねえ先輩」
「なんだ」
「ここでわたしが本気で邪魔したら、先輩、堀北先輩を捨てられますか?」
綾小路は答えなかった。
答えるかわりに、足元の保管箱へ視線を落とす。
段ボール箱の上に細長い紙管が乗っている。
文化祭ポスター用の芯材だろう。
軽い。
だが視線を切るには十分だ。
天沢もそれに気づく。
「投げる?」
「さあな」
次の瞬間、綾小路は紙管ではなく、その下の段ボール箱そのものを蹴り上げた。
箱が崩れ、軽い備品が天沢の正面へ雪崩れる。
天沢は笑ったまま半歩下がる。
息を吐く間もなく、天沢が反射的に拳銃を持ち上げる。
狙いは綾小路の胸部。
だが――遅い。
綾小路はそれ以上の速度で踏み込んでいた。
天沢の指が引き金へ触れるより早く、綾小路の左手がその手首を掴み取る。
「っ――!」
天沢の表情が初めて僅かに揺れた。
次の瞬間には綾小路はその腕を外側へ鋭く捻り上げる。
関節が悲鳴を上げる。
拳銃の銃口が天井へ逸れる。
発砲。
乾いた銃声とともに、弾丸が配管を撃ち抜き、水飛沫が弾けた。
だが綾小路は止まらない。
捻り上げた腕をそのままさらに引き込み、天沢の重心を一気に崩す。
天沢は即座に回転して逃れようとする。
だが完全には間に合わない。
綾小路は半歩だけ深く踏み込み、そのまま肩を押し込むように身体を密着させると、
捻り固めた腕を支点にして天沢の身体ごと地面へ叩き落とした。
床が震える。
天沢の拳銃が手から離れ、火花を散らしながら通路の奥へ滑っていく。
「っ、は……!」
天沢が息を漏らす。
それでも笑っていた。
だが、その笑みの奥に再び押し負けたことへの驚きが混ざる。
綾小路はそのまま天沢の腕を完全に極め、逃げられない角度で床へ押さえ込む。
「……ほんと、容赦ないですねぇ」
苦しげに笑う天沢。
綾小路は答えない。
そしてようやく、綾小路は天沢を床へ押さえ込んだまま、背後の堀北へ視線を向ける。
「行け」
綾小路は堀北の背を押し、通路の分岐へ走る。
堀北も迷わず動く。
天沢が立ち上がろうとした時には、二人はもう紙箱の影を抜けていた。
だが、その直後に別方向から七瀬の声が飛ぶ。
「右へ抜けました!」
読まれた。
綾小路は舌打ちを飲み込み、分岐をさらに下へ取る。
北側階段へ向かう。
そこへ宝泉の足音が重なる。
「今度こそ逃がさねえ!」
速い。
煙の中でも一直線に来る。
理性より闘争で追っている者の足だった。
綾小路は階段手前で立ち止まり、背後の空気を読む。
堀北が驚いたようにこちらを見る。
「どうしたの」
「先に降りろ」
「また一人で――」
「いいから行け」
その声が少しだけ強くなる。
堀北は何か言い返しかけ、それでも結局は言葉を飲み込み、階段を一段下がった。
その判断の速さに、綾小路は一瞬だけ救われる。
直後、宝泉が分岐を曲がって現れた。
煙の中でもその巨体は隠れない。
目だけが異様に光って見えた。
「見つけたぜ!」
笑っていない。
もう純粋に追い詰めることだけを見ている。
綾小路は正面に立つ。
背後には階段。
横は狭い。
ここは廊下よりさらに間合いが限られる。
だが宝泉の勢いを殺すには悪くない。
宝泉が踏み込む。
綾小路は真正面ではなく、階段脇の手すり側へ誘うように半身を取る。
宝泉の拳が来る。
受ける。
流す。
だが衝撃は重い。
肩の傷が鈍く熱を帯びる。
それでも崩れない。
宝泉がさらに前へ出る。
綾小路は一歩だけ階段側へ下がる。
宝泉の踏み込みが深くなる。
狙い通りだ。
そこへ背後から龍園の声が飛んだ。
「おい宝泉、奥まで行きすぎるな!」
それは警告でもあり、苛立ちでもあった。
宝泉は振り向かない。
「うるせえ!」
綾小路はその応答の瞬間を待っていた。
宝泉の意識がほんの一瞬だけ割れた隙に、
手首の角度を崩し、踏み込みの軸を手すり側へ流す。
宝泉の体が一段だけずれる。
完全に崩せるわけではない。
だが一拍遅らせられる。
その間に綾小路は階段を二段下がり、堀北へ短く言う。
「さらに下へ」
堀北が動く。
宝泉もすぐに体勢を戻し、階段上から見下ろす形で踏み込もうとする。
そこへ今度は坂柳の声が届いた。
「龍園くん、そこへ全員で入ると詰まりますよ」
「だから何だ」
「だから、階段は一つの喉だと言っているんです」
坂柳の声は妙に冷静だった。
まるで講義でもしているように。
「宝泉くんが前へ出すぎれば、後ろのあなた方は動けません。
逆に彼が下で崩された瞬間、あなた方の進路も一気に詰まる」
龍園が舌打ちする気配。
図星だったのだろう。
階段は狭い。
一人ずつしか本気で動けない。
だからこそ綾小路はここを選んだ。
「だったらテメェが別から回れよ」
龍園が吐き捨てる。
「ええ、そのつもりです」
坂柳は即答した。
その言葉を聞いた瞬間、綾小路は坂柳が教室棟側か、
あるいは校舎外周への近道を取ると読んだ。
つまり、こちらが階段で宝泉とぶつかっている間に、
坂柳はより先の出口を押さえようとしている。
厄介だが、読めるだけましだった。
「堀北」
綾小路が低く呼ぶ。
「先に降りきれ。北側一階の資材室前で待つな。そのまま外周路へ出ろ」
「一人で残る気?」
「残らない。時間差を作るだけだ」
堀北は階段の下からこちらを見上げた。
表情は険しい。
それでも言い返す代わりに、強く頷いた。
「……分かった」
そして走る。
一階へ。
その背中が見えなくなるまで、綾小路は階段上の宝泉から目を外さない。
宝泉は笑った。
「また離したな」
「お前が止められなかっただけだ」
その返しに、宝泉の目が細くなる。
次の瞬間、階段を叩き潰すような勢いで踏み込んできた。
狭い。
だがその狭さが、逆に宝泉の体格にはわずかに不利だった。
綾小路は手すりと壁の間の数センチまで使って角度をずらし、正面衝突を避ける。
宝泉の肘が壁に当たり、鈍い音が響く。
それでも止まらない。
二撃目がすぐ来る。
綾小路は受けて、流して、階段をもう一段下がる。
そこへ後方から七瀬の声。
「宝泉くん、深追いしないで!」
宝泉は無視する。
龍園も苛立っている。
坂柳側は回り込みに動いた。
天沢はどこかで笑っている。
すべてが聞こえる。
だが、今必要なのは階段を一つ降り切ることだけだった。
宝泉がさらに詰める。
床を軋ませるような重い踏み込み。
その巨体が真正面から圧力をかけてくる。
綾小路は今度は受けない。
半歩だけ下へ沈む。
重心を落とし、真正面ではなく、
宝泉の進行線そのものをずらすように身体を滑らせた。
宝泉の足が階段の角を掠める。
わずかな乱れ。
だが、その僅かな崩れを宝泉は力任せに押し戻そうとした。
「逃げんじゃねぇッ!!」
次の瞬間、宝泉は強引に身体を立て直し、その勢いのまま前蹴りを叩き込んできた。
重い。
ただの蹴りではない。
まるで丸太でも飛んできたような破壊力だった。
だが綾小路は、その蹴りが伸び切る瞬間を待っていた。
来る。
その瞬間、綾小路は半歩だけ内側へ踏み込む。
真正面。
逃げない。
そして次の瞬間には、綾小路の左肘が宝泉の膝裏へ鋭く叩き込まれた。
同時に、右膝が逆方向から脛関節へ食い込む。
挟み撃ち。
膝関節へ対して、上下逆方向から衝撃が加わる。
鈍い音。
「ッ――――!!?」
宝泉の表情が激痛で大きく歪んだ。
蹴りの勢いそのものを利用されたことで、膝へ異常な負荷が集中する。
巨体が一瞬止まる。
いや、止められた。
宝泉は咄嗟に踏み直そうとする。
だが膝が言うことを聞かない。
「ぐッ……ァ……!」
低い呻き。
宝泉の身体が大きく揺れ、そのまま階段脇へ片膝をついた。
呼吸が乱れる。
拳を床へ叩きつける。
激痛で声にならない。
それでも完全には倒れない。
歯を食いしばりながら、なお綾小路を睨み続けている。
その目だけはまだ死んでいなかった。
綾小路は静かに距離を取る。
今の一撃で止まらないことも、もう分かっていた。
すぐに走る。
宝泉は追撃してこれない。
綾小路はその横を抜け、一階踊り場へ飛び出した。
靴底が濡れた床を叩く音が、静まり返る暇もない校舎へ乾いて響く。
北側資材室前を横切る。
堀北の姿はない。
指示通り動いた。
良い。
だが、その安堵が形になる前に、背後から鋭い発砲音が一発だけ廊下を貫いた。
空気が裂ける。
弾丸は綾小路の肩横を掠め、
そのまま踊り場脇に設置されていた消火器ケースへ直撃した。
透明な保護カバーが粉々に砕け散り、
細かな破片が赤い非常灯を反射しながら床へ降り注ぐ。
綾小路は反射的に身体を沈め、その勢いのまま横へ滑るように移動した。
次の瞬間にはもう二発目が飛んでくる。
コンクリート壁が抉れ、白い粉塵が煙のように広がった。
綾小路は振り返る。
そこに立っていたのは山田アルベルトだった。
肩幅だけで廊下が狭く見える。
火災警報の赤色灯を背にしたその姿は、もはや人間というより進んでくる壁だった。
しかも今は、その分厚い右手に黒い拳銃まで握られている。
無言で低く重い呼吸音。
感情を露骨に表へ出しているわけではない。
だが、その銃口だけは真っ直ぐ綾小路の中心を捉えていた。
発砲。
銃声が狭い廊下へ反響する。
綾小路は即座に身体を捻り、そのまま北側資材室の扉へ突っ込んだ。
扉を蹴り開ける。
中は薄暗かった。
文化祭準備用の備品倉庫。
折り畳み机。
暗幕。
段ボール。
衣装ケース。
工具箱。
家庭科部用の調理器具。
様々な物が雑然と積み上がっている。
綾小路は一瞬だけ室内を見渡した。
その視線の端で、一台の工業用ミシンが止まっているのが見える。
文化祭衣装の制作で使われていたのだろう。
まだ電源コードが壁へ繋がったままだ。
その時、重い足音が廊下側から近づいてくる。
アルベルトだ。
拳銃を構えたまま、
まるで獲物を追い詰める肉食獣のようにゆっくりと資材室へ踏み込んでくる。
無言の圧だけで空気が重くなる。
綾小路は何も言わない。
ただ静かに、机陰から半歩だけ位置を変えた。
そして工業用ミシンのスイッチを押す。
モーター音が突然響いた。
高速で針が上下し始める。
音に気づいたアルベルトの視線が一瞬だけそちらへ流れた。
そのほんの一瞬だった。
綾小路は床を蹴って踏み込む。
アルベルトが拳銃を向け直すより早く、その右手首へ鋭い打撃を叩き込んだ。
鈍い衝撃音。
拳銃が手から弾き飛ばされ、床を滑って棚の奥へ消えていく。
アルベルトの目が細くなる。
だが焦らない。
むしろその瞬間から、彼は銃を捨てた。
巨体ごと前へ出る。
重い踏み込み。
やはりヘビー級ボクサーのようだった。
右拳が一直線に飛ぶ。
風圧だけで近くの紙箱が吹き飛ぶ。
綾小路は半歩だけ身体を流す。
拳は机へ直撃した。
木製天板が鈍い音を立てて割れ、破片が宙へ散る。
アルベルトは止まらない。
左。
さらに右。
肩ごと押し込むようなフック。
連打。
重い。
一発ごとに空気が震える。
まともに受ければ危険だった。
綾小路は真正面から受けない。
最小限だけ逸らす。
肩をずらす。
腕で流す。
だが完全には避け切れない。
アルベルトの拳が綾小路の肩を掠めた。
鈍い衝撃が全身へ走る。
身体が横へ持っていかれ、棚へぶつかりそうになる。
重い攻撃は想像以上だった。
アルベルトはさらに踏み込んでくる。
距離を与えない。
逃がさない。
拳圧だけで周囲の資材が倒れ、段ボール箱が潰れ、
積み上がっていた布ロールが床へ崩れ落ちる。
綾小路はそこでわざと後退した。
工業用ミシンの正面まで。
アルベルトは一直線に追う。
右拳が再び綾小路の顔面を狙って振り抜かれた瞬間、
綾小路は身体を半歩だけ横へ流した。
拳が空を切る。
そのまま綾小路はアルベルトの腕を掴み、
勢いを利用するように身体を回転させる。
大きな手が、そのまま工業用ミシンへ叩き込まれた。
激しい駆動音。
高速で上下していた工業用ミシンの針が、アルベルトの手へ深々と突き刺さる。
「――――ッ!!」
声にならない絶叫。
アルベルトの巨体が激しく震えた。
鮮血が飛び散る。
針は肉を貫き、襟ごと巻き込みながらなお高速で上下し続けている。
アルベルトは反射的に腕を引き抜こうとする。
だが遅い。
綾小路はさらに肩を押し込み、完全に体勢を崩した。
アルベルトの膝が床へ落ちる。
荒い呼吸。
右腕が痙攣している。
もう拳は振れない。
綾小路は床へ転がった拳銃を足先で遠くへ蹴り飛ばした。
金属音が響き、拳銃は棚の奥へ滑り込んでいく。
アルベルトはなお立ち上がろうとする。
だが腕の激痛で身体が言うことを聞かない。
「…………ッッ!」
苦悶の声が漏れる。
綾小路はそんなアルベルトを静かに見下ろした。
「悪いな」
短くそう言い残す。
そして踵を返すと、そのまま再び資材室の外へ走り出した。
背後ではなお、工業用ミシンの駆動音と、
アルベルトの荒い呼吸だけが、暗い資材室の中へ重く残り続けていた。
しかし綾小路が部屋から出た瞬間、背後から銃声が一発だけ響いた。
単発。
階段上からだ。
宝泉ではない。
誰か別の追手が撃った。
どうやら戦闘の音に気づいてやってきたのだろう。
弾は壁に当たり、白い欠片を散らす。
綾小路は振り返らない。
一階廊下を北側外周出口へ向かって走る。
視界の先に、非常口の緑色の表示が見えた。
その先へ行ければ、一度校舎外周へ戻れる。
だが、その扉の前に、すでに一つの影が立っていた。
坂柳有栖だった。
彼女は杖をついたまま、扉の前に静かに立ち、
まるで最初からそこにいたかのような落ち着きで綾小路を見ていた。
「やはり、こちらへ抜けますよね」
綾小路は走りながら減速しない。
坂柳も動じない。
「どいてもらえるか」
「それは難しい相談です」
彼女の左右には橋本と神室がいる。
完全な壁ではない。
だが十分に邪魔だ。
しかも背後からは宝泉と龍園側が来る。
挟まれる。
その瞬間、屋外のさらに向こうから、サイレンが一段とはっきり聞こえた。
近い。
かなり近い。
坂柳もそれを聞いたのだろう、ほんのわずかに目を細めた。
「時間がありませんね」
「お互いにな」
「ええ」
その短いやり取りの背後で、また足音が重なる。
龍園、宝泉、七瀬、天沢。
すべてが収束しつつある。
特別棟の煙と混乱を抜けた先で、ついに出口の前そのものが戦場になる。
綾小路は理解していた。
ここが次の分岐点だ。
この扉を抜けられるかどうかで、校門側へ辿り着くまでの道筋が完全に変わる。
そして坂柳有栖もまたそのことを理解しきった目で、
静かに綾小路の進路を塞いでいた。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。