ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第11話 突破

特別棟北側の非常口前に立つ坂柳有栖の姿は、

煙と怒号と銃声が渦巻く今夜の学校の中にあってもなお不自然なほど静か。

その静けさは単なる落ち着きではなく、

この混乱すら自分の盤面の一部として

捉え続けようとする彼女の意思そのもののよう。

綾小路清隆の進路を細く、しかし確実に塞いでいた。

 

坂柳の左右には橋本正義と神室真澄が立つ。

どちらも無駄に前へ出ることはせず、非常口を背にした坂柳の前で、

綾小路が一瞬でも進路を誤れば挟み込める距離を保ちながら、

煙の流れと背後から迫ってくる足音とを同時に気にしているようだった。

 

綾小路は走りながら速度を落としすぎないようにする。

坂柳の立ち位置、橋本の足の開き方、神室の視線の置き方、

そして非常口のノブと鍵の位置を一瞬で見た。

 

ここで止まれば後ろから追いつかれる。

 

だが真正面から当たれば坂柳側に取られる。

 

そしてそのほんの数秒後には龍園と宝泉も合流し、完全な袋小路になる。

 

「やはりこちらへ来ましたか」

 

坂柳が穏やかに言う。

 

「あなたなら、煙に紛れて特別棟の内部をさらに深く潜るより、

最終的には外周へ戻ると考えていました」

「読まれてるのは知ってる」

 

綾小路は短く返した。

 

「ならなおさら、ここは譲れませんね」

 

坂柳はそう言って、わずかに杖を持つ手の位置を変えた。

それだけの小さな動作で、橋本と神室も呼吸を合わせるように重心を調整する。

 

正面から強引に抜くのは難しい。

だが、難しいだけで不可能ではない。

 

問題は時間だ。

 

背後から宝泉の足音がさらに近づく。

一方で龍園の怒声も混ざっている。

 

つまり、残された猶予は数秒しかない。

 

「坂柳」

 

綾小路が言う。

 

「ここでお前がオレを止めても、その直後に龍園か宝泉に奪われる可能性が高い」

「ええ、十分あり得ます」

 

坂柳はあっさりと認めた。

 

「ですが、あなたをここで通してしまえば、その可能性はゼロになります」

「合理的だな」

「そうでもありませんよ」

 

坂柳は薄く笑った。

 

「少しだけ感情も入っていますから」

 

その言葉の意味を問い返す暇はなかった。

 

次の瞬間、坂柳有栖の細い指先が制服の陰へ滑り込み、

ほとんど迷いのない動作で小型拳銃を引き抜いた。

 

発砲。

 

乾いた銃声が至近距離で炸裂する。

綾小路は反射的に身体を捻る。

 

弾丸が頬を掠め、熱を帯びた痛みが皮膚を走った。

 

だが坂柳は止まらない。

 

二発目。

三発目。

 

小型拳銃とは思えないほど正確な連射。

 

しかも急所だけを狙っている。

 

綾小路は横へ滑り込むように回避しながら距離を取ろうとする。

 

橋本正義と神室真澄も無言のまま同時に動いた。

 

橋本は右。

神室は左。

 

互いに言葉すら交わさず、綾小路の逃げ道だけを塞ぐように回り込んでくる。

 

橋本の蹴りが横から飛ぶ。

綾小路は腕で受け流す。

 

だが直後、今度は神室の拳が死角側から突き込まれた。

 

連携が速い。

坂柳が撃つ。

橋本が崩す。

神室が止める。

 

完全に役割分担されていた。

 

綾小路は半歩だけ下がり、神室の拳を内側へ流しながら、

その勢いのまま彼女の肩を押し込む。

 

体勢が崩れる。

 

そこへ橋本がさらに踏み込んでくる。

だが綾小路は逆に神室を壁代わりに使い、橋本の進路を一瞬だけ遮った。

 

「っ――!」

 

橋本が反応を遅らせる。

 

その一瞬。

綾小路の肘が橋本の鳩尾へ深くめり込んだ。

 

鈍い衝撃。

橋本の身体が折れる。

呼吸が止まる。

 

さらに綾小路は振り返りざま、再び踏み込んできた神室の手首を掴み、

そのまま回転を利用して地面へ叩きつけた。

 

神室の身体が床を滑る。

 

だがその直後。

発砲音。

 

坂柳だった。

 

綾小路は咄嗟に身を捻る。

弾丸が左腕を掠める。

焼けるような痛み。

制服が裂け、血が飛ぶ。

 

「……っ」

 

坂柳は静かだった。

表情も変わらない。

 

まるで試験問題を処理しているかのような冷静さで、

綾小路の動きだけを読み続けている。

 

「橋本くん、下がってください」

 

坂柳が言う。

橋本が荒い息を吐きながら距離を取る。

 

その間に坂柳自身が前へ出た。

 

杖を突きながら。

 

だが、その歩みには迷いがない。

 

綾小路は目を細める。

坂柳は近接戦を避けると思っていた。

 

だが違う。

 

坂柳はむしろ、自分から静かに間合いへ入ってきた。

 

杖を突く音は小さい。

だが、その一歩には迷いがない。

 

「あなたは最後まで読み切る必要がありますから」

 

穏やかな声。

 

その直後、坂柳の杖が横へ流れるように動いた。

 

打撃ではない。

 

綾小路の視線を一瞬だけ上へ誘導するための動き。

杖先が揺れたわずかな瞬間、その陰へ滑り込むように坂柳自身が距離を詰めてくる。

 

速さではない。

タイミングだった。

 

坂柳は綾小路の腕へ正面から力をぶつけない。

触れるか触れないかの位置で手首へ指を添え、そのまま身体を半歩だけ回転させる。

 

重心を崩す。

 

ほんのわずか。

だが、人間が最も不安定になる角度を正確に突いていた。

 

だが半歩だけ回転した直後、坂柳の呼吸がごく浅く乱れる。

それでも彼女は止まらない。

 

綾小路は即座に理解する。

 

――護身術。

 

実戦向けに鍛え上げた格闘技ではない。

力の弱い者が、自分より大きな相手から逃れるための技術。

 

坂柳らしい、と綾小路は思った。

 

彼女の身体では長時間の運動は不可能だ。

まして力比べなど論外。

だからこそ彼女は、最小限の動きだけを磨いている。

 

坂柳は綾小路の腕を引くというより、

流れを変えるように操作し、そのまま足元へ軽く干渉する。

 

倒そうとしているわけではない。

一瞬だけ体勢を崩し、隙を作るため。

 

だが――綾小路は、その瞬間に微かな違和感を覚えた。

 

坂柳は、最初から崩れる位置を限定している。

 

杖で視線を誘導した角度。

手首へ触れた位置。

半歩だけ回転した身体。

そして、綾小路の重心が流れる方向。

 

その全てが、一本の線として繋がっていた。

 

無駄がない。

 

いや。

無駄を削ぎ落としすぎている。

 

坂柳は力で押していない。

腕力で制御しようともしていない。

 

ただ、綾小路が次に選ぶ動きを先回りし、

その選択肢が最も不安定になる瞬間だけを正確に切り取っている。

 

綾小路の視線が僅かに細くなる。

 

その瞬間。

 

坂柳の指先が、綾小路の肘の内側へわずかに触れた。

 

軽い。

 

本当に、触れただけに近い。

 

だが次の瞬間、綾小路の腕から一瞬だけ力が抜ける。

 

神経。

正確には、その近くを制された。

 

致命傷を狙った攻撃ではない。

痛みで制圧するためでもない。

 

ほんの一瞬。

反応速度を鈍らせるためだけの最適解。

 

坂柳は技術を戦闘として学んでいない。

彼女は、自分の身体能力では勝てないことを前提に、

「どうすれば相手の思考を一瞬だけ止められるか」

だけを徹底的に磨いている。

 

それは武術家というより、解析者の発想だった。

 

相手の癖。

重心。

視線。

踏み込み。

呼吸。

 

その全てを観察し、最も小さい動きで最も大きな乱れを起こす。

 

坂柳らしい。

そう思うと同時に、綾小路はわずかな驚きを覚えていた。

 

ここまで計算されているとは思っていなかった。

 

坂柳は綾小路を倒そうとしていない。

 

最初から理解しているのだ。

自分の身体では、綾小路清隆には勝てないと。

 

だからこそ彼女は、勝負そのものを変えていた。

 

一瞬だけ思考を止める。

一瞬だけ反応を遅らせる。

一瞬だけ急所を制し、流れを奪う。

 

その積み重ねで、自分より遥かに強い相手を崩す。

 

まるで終盤のチェスだった。

盤面の駒数は少ない。

だが、だからこそ一手の意味が致命的に重い。

坂柳は最初から、綾小路がどのマスへ逃げるかを限定した上で動いていた。

 

そして綾小路がその崩れへ自ら踏み込んだ瞬間、

坂柳が誘導した方向へ、逆に深く入る。

 

「――っ」

 

坂柳の表情が初めてわずかに揺れる。

 

次の瞬間には、綾小路が完全に間合いを潰していた。

 

近すぎる。

 

この距離では、坂柳の技術は機能しない。

 

綾小路は彼女の細い腕を強引に捻ることはせず、

逃げ道だけを塞ぐように身体の位置を入れ替える。

 

坂柳は即座に杖へ手を伸ばそうとする。

 

だが、その前に重心を封じられた。

 

膝が崩れる。

 

杖が床へ落ち、乾いた音を立てる。

 

綾小路はそのまま坂柳を押さえ込んだ。

 

完全な制圧。

 

しかし、乱暴さはない。

坂柳の身体へ負担を掛けすぎないよう、無意識に力を調整している。

 

坂柳の呼吸がわずかに乱れた。

心臓への負荷を隠すように、小さく息を整える。

 

それでも彼女は笑っていた。

 

「……なるほど」

 

静かな声。

 

「やはり、あなたは最後まで想定以上ですね」

 

綾小路は何も返さない。

 

ただ、押さえ込んだまま坂柳の呼吸だけを確認していた。

 

後方の通路から宝泉が飛び出してくる。

そしてそのさらに後ろに龍園。

 

少し遅れて七瀬。

 

姿は見えないが、天沢も近い。

完全な収束だった。

 

「そこどけ!」

 

宝泉の怒声が特別棟一階の廊下全体に響く。

 

「おい坂柳!塞ぐなら取れ!無理なら退け!」

 

龍園も叫ぶ。

 

坂柳はその怒号に対しても振り返らず、ただ綾小路を見たまま言う。

 

「本当に騒がしい人たちですね」

 

その一言で、龍園の苛立ちはさらに増した。

だがその苛立ちが、綾小路にとっては必要だった。

 

龍園が冷静なら、もっと危険だった。

 

次の瞬間、龍園は舌打ちと同時にマシンガンを振り上げ、

ほとんど狙いをつけるより早く引き金を引いた。

 

乾いた連続音が炸裂する。

高回転の掃射。

 

赤い銃口炎が断続的に明滅し、

渡り廊下のガラス壁面へ弾丸が次々と突き刺さるたび、

透明だったはずの壁へ白い亀裂が蜘蛛の巣のように広がっていく。

 

ここはガラス張りの渡り廊下だった。

管理棟と特別棟を繋ぐ、高度育成高等学校でも象徴的な空間。

夜景が見えるはずの透明な通路。

 

だが今は違う。

 

下では校庭の一部が炎上し、遠くでは警察車両の赤色灯が点滅し、

煙と爆炎がガラスへ不気味な赤を映し込んでいる。

 

その地獄の中を、龍園の掃射が横薙ぎに走った。

 

ガラスが悲鳴のような音を立てる。

 

ヒビ。

さらにヒビ。

 

綾小路は低く滑り込みながら射線を外す。

 

だがその瞬間、別方向から発砲音。

 

天沢だった。

 

「ほらほら、止まったら死にますよぉ?」

 

笑い声。

拳銃の連射。

 

龍園のような制圧射撃ではない。

 

こちらは正確だった。

 

綾小路の回避先だけを狙い撃つように、鋭い単発が次々と飛んでくる。

 

ガラス壁面へ弾丸が突き刺さる。

 

白い亀裂がさらに広がる。

 

そしてその直後。

 

頭上から突然、水が降ってきた。

 

スプリンクラー。

 

龍園の掃射で配管が損傷したのだろう。

 

天井から大量の水が一気に噴き出し、

煙と火花に満ちていた渡り廊下の空気を白く濁らせる。

 

床が濡れる。

滑る。

靴底が軋む。

 

龍園が舌打ちした。

 

「チッ、クソが!」

 

だが止まらない。

 

むしろ水飛沫を撒き散らしながらさらに踏み込んでくる。

マシンガンの連射が、今度は低い角度で床を薙ぐように走った。

 

水と火花が同時に弾ける。

 

綾小路は手すり側へ身体を流し、その掃射を紙一重で避ける。

 

その直後。

 

天沢が真正面から踏み込んできた。

 

「もらいます!」

 

拳銃を構えたまま、至近距離へ。

綾小路は即座にその手首を外側へ弾く。

 

発砲。

 

弾丸が真横のガラス壁を撃ち抜き、大きな亀裂が走った。

 

天沢は笑う。

 

「わ、危なっ!」

 

そのまま膝蹴り。

綾小路は腕で受け流しながら、逆に肩を押し込んで距離を潰す。

 

そこへ龍園が突っ込んでくる。

 

「避けてんじゃねえ!」

 

マシンガンを捨てる。

もう射線が邪魔だった。

 

龍園はそのまま格闘へ移行し、

濡れた床を蹴りながら綾小路へ体当たり同然の勢いで飛び込む。

 

綾小路は半歩だけ横へ。

 

だが水で滑る。

 

完全には避け切れない。

 

龍園の肩がぶつかる。

 

衝撃。

 

ガラス壁へ身体が叩きつけられる。

 

ヒビがさらに広がる。

 

間を置かず、天沢の拳銃が再び火を吹く。

 

至近距離。

 

綾小路は龍園の身体を掴み、そのまま無理やり射線へ押し込む。

 

「っ、おい!」

 

龍園が怒鳴る。

 

弾丸が肩を掠め、ガラスへ突き刺さる。

 

爆ぜるような音。

渡り廊下全体が軋む。

 

そして更に遠くから、重い足音。

水飛沫を踏み砕くような突進音。

 

綾小路の目が細くなる。

 

来る。

 

「おおおおおぉぉぉぉッ!!」

 

宝泉和臣だった。

 

血と煤に塗れたまま、それでもなお止まらず、一直線に渡り廊下へ突っ込んでくる。

 

「まだ終わってねぇだろぉ!!」

 

咆哮。

 

そのまま減速なし。

龍園も天沢も反射的に振り返る。

 

だが遅い。

 

宝泉の巨体が真正面から綾小路へぶつかる直前、

綾小路は咄嗟に身体を捻り、逆に宝泉の勢いをガラス側へ流した。

 

凄まじい破砕音。

ガラス壁が耐えきれず、一気に崩壊した。

無数の破片が夜空へ散る。

 

冷たい外気と炎の熱風が同時に吹き込む。

宝泉の身体が半ばガラスを突き破る形で外側へめり込み、

龍園も巻き込まれるように床へ転がる。

 

天沢が笑う。

 

「うわぁ、最高!」

 

だが渡り廊下そのものが限界だった。

 

ヒビは天井側まで達している。

 

スプリンクラーの水がなお降り続け、

崩れたガラスの隙間から吹き込む風が火災の煙を内部へ巻き込み始める。

 

そしてその崩壊寸前の通路の中心で、綾小路はなお立っている。

 

宝泉が一直線に来る。

龍園はその後ろから押し込む。

七瀬は止めようとしている。

 

つまりこの非常口前は、今から一瞬だけ、全員の利害がもっとも悪い形で重なる。

 

綾小路はそこを待っていた。

 

「堀北」

 

低く呼ぶ。

 

綾小路の少し後ろ、壁際に身を寄せていた堀北がわずかに顔を上げる。

 

「三歩だけ前に出ろ」

「何をする気?」

「道を作る」

 

堀北は一瞬だけ険しい顔になったが、聞き返さなかった。

 

その判断の速さがありがたい。

 

同時に宝泉が詰める。

龍園も前へ出る。

坂柳側は非常口前を維持したまま迎え撃つ構えを崩さない。

その瞬間、綾小路は真正面ではなく、

坂柳の右側、橋本寄りの角度へ半歩だけ踏み出した。

 

橋本が即座に反応する。

 

「来るぞ!」

 

綾小路は橋本へ向かったように見せながら、途中で体の向きを切り替え、

足元に転がっていた細いパネル支柱を蹴り飛ばした。

 

金属の棒が宝泉の進路へ滑る。

宝泉はそれを踏み砕くように進むが、その一拍がほんのわずかに遅れる。

 

そのズレの中へ、今度は龍園が前へ出ようとする。

だが宝泉の巨体が邪魔をして通れない。

 

「チッ、どけ!」

「テメェこそ引っ込んでろ!」

 

怒鳴り合い。

 

そこへ綾小路がもう一段、角度を深く切る。

橋本と神室は綾小路への対応で一瞬だけ左右へ開く。

 

坂柳が気づく。

 

「しまっ――」

 

言葉が最後まで続く前に、堀北が指示通り三歩だけ前へ出た。

その存在が、坂柳側にとっては一瞬の躊躇を生む。

綾小路はその躊躇の中央を抜いた。

完全に非常口のノブへ手をかける。

 

鍵は不要。

 

内側からの押し開けだけ。

 

扉が開く。

 

夜気が流れ込む。

 

外だ。

 

だがその瞬間、宝泉が腕を伸ばした。

 

距離が遠い。

 

それでも届きかける。

 

綾小路は扉を押しながら体を半回転させ、

その腕をぎりぎりで外へ流し、同時に堀北の背を扉の外へ押し出した。

 

「行け!」

 

堀北が外へ出る。

 

綾小路も続く。

 

だが最後の一歩のところで、今度は横から天沢の声がした。

 

「それ、ちょっとずるいですよ」

 

いつの間にか、彼女は廊下の外側寄りへ回り込んでいた。

 

発砲音が一発。

 

綾小路は反射的に身を低くし、扉のフレームへ体を寄せる。

 

弾は非常口の金属板を叩き、鈍い反響を返した。

完全に進路を断つためではない。

足を止めるための一発だった。

 

だが十分に危険だった。

 

その一瞬で坂柳側が前へ詰める。

宝泉もさらに押し込む。

龍園は怒鳴りながら宝泉の横を抜こうとする。

完全な混線だった。

 

七瀬が叫ぶ。

 

「撃たないで!外はもっと開けてる!」

 

だが誰も完全には従わない。

綾小路は扉の外へ半身を出したまま、内側の混線を見た。

 

ここで自分だけ出れば堀北は生き残る確率が上がる。

だがその直後に、堀北が外で再拘束される可能性もある。

 

一方、ここでもたつけば全員に囲まれる。

必要なのは、あと一瞬の乱れだった。

その時、外側から堀北の声が飛んだ。

 

「綾小路くん!」

 

外へ出た彼女は、非常口脇の消火器収納ボックスを開けていた。

そのまま一本を掴み、ためらわずに扉の内側、つまり追ってくる側の足元へ滑らせる。

 

乱暴な投擲ではない。

 

床を滑る角度で、ちょうど龍園と宝泉の間へ入る位置だ。

金属の重い筒が床で跳ね、足元へ入り込む。

龍園が反射的に足を止め、宝泉が苛立って蹴り飛ばそうとする。

その瞬間、神室が思わず一歩下がり、

橋本が体勢を崩し、坂柳が杖でバランスを取る。

 

十分だった。

 

綾小路はその乱れに乗り、外へ飛び出した。

 

扉を引く。

 

完全には閉まらない。

だが、宝泉の腕と龍園の踏み込みが一瞬でも詰まるならそれでいい。

綾小路は外へ出るとすぐ堀北の腕を掴み、非常口脇の壁沿いへ走らせた。

 

「今のは予想外だった」

 

走りながら綾小路が言う。

堀北は息を切らしながらも、少しだけ険しい笑みを浮かべる。

 

「あなたばかりに助けられているのも癪だから」

「助かった」

「素直すぎて気持ち悪いわね」

「そうかもな」

 

ほんの短いその応酬が、逆に二人の緊張をわずかだけ支えた。

 

だが余裕は続かない。

 

背後で非常口が再び開かれる音。

 

龍園の怒声。

宝泉の重い足音。

そして坂柳の冷静な声が再び外へ流れ出す。

 

「校門側へは一直線に行かないはずです。外周を使って右へ切ります」

 

読まれている。

 

やはり坂柳は厄介だった。

 

「聞かれてるわよ」

 

堀北が低く言う。

 

「聞かせてるんだろ」

 

綾小路は即答した。

 

「龍園と宝泉に先回りの意識を持たせたい」

「つまり?」

「正面を見てる相手ほど、横から崩れる」

 

その言葉どおり、背後ではさっそく龍園と宝泉の足並みがずれ始めていた。

 

龍園は校門方向への最短を押さえたがる。

宝泉は綾小路だけを見て一直線に来る。

坂柳はその両方を利用しようとする。

七瀬は分断を嫌う。

天沢は混ざって楽しむ。

 

結局、誰一人として同じ追い方をしない。

 

それこそが、綾小路の唯一の道だった。

 

二人は特別棟外周の壁沿いを低く走り、

植え込みと資材置き場の狭い隙間を抜ける。

 

ここは校舎の正面からは見えづらいが、完全に隠れられるわけでもない。

 

遠くには赤色灯がさらに近く見える。

 

サイレンも、もう明確だった。

 

校門方向では外の警官隊が配置を詰め始めているのだろう。

だが同時に、そのせいで校門付近はもっとも視線が集まる場所にもなっている。

 

「本当に近いわね」

 

堀北が前方を見ながら言う。

 

「ああ」

「なのに遠い」

 

その言葉には、感情がにじんでいた。

 

今まで抑え続けてきた焦燥と、

ようやく出口が見えてきたことへの苛立ちに近い感情だった。

 

綾小路はそれに返答しなかった。

 

代わりに進路を切り替える。

校門へ一直線には向かわず、いったんケヤキモール側に近い外周路へ振る。

 

それを坂柳は読むだろう。

だが読むことと、追いつくことは別だ。

 

その時、校内放送のスピーカーが、特別棟の外壁上部から突然ノイズを吐いた。

 

二人とも反射的に上を見る。

 

そして次の瞬間、月城の声が夜の学校全体へ流れ出した。

 

『皆さん、どうやら予定より少し早く、外部の介入が近づいているようですね』

 

穏やかすぎる声だった。

 

まるで本当に少し予定が早まった文化祭の進行でも告げるような口調。

 

堀北の顔が強張る。

 

綾小路は無言で聞く。

 

『ですので、試験条件を一つだけ更新します』

 

最悪の響きだった。

 

『綾小路清隆くんを校門外へ出すことに加担した生徒は、

その時点で全員失格と見なします』

 

堀北が息を呑む。

 

背後の追手たちにも、その言葉は確実に届いただろう。

 

つまり今の放送は、綾小路を狩る者たちだけでなく、

仮に中立に近い立場の生徒が外へ逃がそうとする可能性さえ潰したことになる。

 

『逆に言えば、校門内で決着をつければ良いのです』

 

月城の声は微笑んでいるようにすら聞こえた。

 

『引き続き、健闘を期待しています』

 

放送が切れる。

 

夜は一瞬、異様な沈黙を作った。

その沈黙を破ったのは、龍園の笑いだった。

遠くからでも分かる、刺々しい笑い。

 

「ハッ……そういうことかよ」

 

坂柳の声は聞こえない。

だが、沈黙そのものが彼女の思考の速さを示しているようだった。

七瀬はおそらく今の条件更新を最悪だと受け取ったはずだ。

天沢は面白がるだろう。

宝泉には関係ない。

 

そして綾小路にとって最も重かったのは、堀北の立場がさらに悪くなったことだった。

今の放送を聞いた以上、堀北は「外へ逃がす側」と明示的に見なされる。

 

つまり、彼女自身も狩る対象へ近づいた。

堀北は走りながら、低く言った。

 

「最悪ね」

「ああ」

「これで私は完全に人質じゃなくなったわ」

「分かってる」

「なら、次はもっと切りやすいでしょうね」

 

綾小路はそこで初めて、はっきりと彼女を見た。

 

「切らない」

「放送を聞いたでしょう」

「聞いた上で言ってる」

 

堀北は何も言わなかった。

 

だがその沈黙は、さっきまでとは少し違っていた。

 

不安を押し殺す沈黙ではなく、覚悟を受け取った側の沈黙に近かった。

 

その時、教室棟側から別の騒ぎが起きる音が聞こえた。

 

複数の悲鳴。

怒鳴り声。

そして移動する大勢の足音。

 

綾小路は振り返らずとも理解した。

 

人質側が動かされた。

 

おそらく今の放送を受けて、龍園か坂柳か、その両方が、

教室内に残していた人質を固定しておく意味を失ったと判断したのだ。

 

移送が始まる。

どこへか。

 

おそらく、より外へ近い場所、あるいは綾小路の進路を制限できる地点へ。

 

堀北もそれに気づいたのだろう。

 

顔色が変わる。

 

「みんなが……」

「まだ終わってない」

 

綾小路が言う。

 

「だから先に進む」

 

それは励ましではない。

 

事実だった。

今は戻れない。

戻れば全滅する。

 

ならばまず、校門へ至る道を開けるしかない。

 

二人は外周路を抜け、特別棟と教室棟の間にある開けた中庭の縁へ出た。

 

そこから先へ進めば、いよいよ校門側の広い通路が見えてくる。

 

だが同時に、そこは隠れる場所も減る。

 

綾小路は足を止め、前方の影と後方の足音と、

教室棟側で動かされ始めた人質の流れとを一つに重ねて考えた。

 

もう終盤だ。

 

誰もが分かっている。

 

ここから先は、逃走ではない。

 

校門へ辿り着くための、最後の突破になる。

 

そしてその直前、学校全体の戦線は、

人質の移送と月城の条件更新によって、さらに最悪な形で再編されようとしていた。




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