ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

12 / 15
第12話 崩線

月城の放送が校内全域へ冷たく染み渡ったあと、

高度育成高等学校の夜はそれまで以上に明確な悪意を帯び始めた。

綾小路清隆を外へ逃がすことそのものが

新たな敗北条件として全員へ共有されたことで、

追う者たちの足並みはますます揃わなくなったにもかかわらず、

皮肉にも綾小路と堀北へ向けられる圧力だけは一段と濃く、

鋭く、容赦のないものへ変質していた。

 

特別棟と教室棟の間に広がる中庭の縁で一瞬だけ足を止めた綾小路は、

正面にある校門方向の開けた通路、左手に連なる植え込みと仮設資材、

右手の教室棟側から流れてくる複数の足音と叫び声、

そして背後からなお縮まる追跡の気配を、ほとんど同時に頭の中で重ねる。

この学校全体の盤面がいままさに一つの局面から

次の局面へ移り変わる境目にあることを理解していた。

 

それは単なる追跡の延長ではない。

 

人質が固定配置から動かされる。

 

龍園と坂柳は、綾小路を引きずり出すための待ちをやめて、

より直接的に進路を切りにくる。

 

七瀬は月城の更新条件のもとで、

任務を優先するなら綾小路だけでなく逃がす側も止めなければならなくなる。

 

天沢はその歪みを面白がる。

 

宝泉は変わらない。

 

ただ真正面から綾小路を潰すことしか考えない。

 

つまり今から始まるのは、逃走の終盤ではなく、

全員が別々の理由で同じ場所へ集まりながら、

誰一人として同じ勝ち方を見ていない最終局面だった。

 

「動くわよね」

 

堀北が低く言う。

呼吸はまだ完全には整っていない。

だが声は崩れていなかった。

 

「教室棟の音」

「ああ」

 

綾小路は短く答える。

 

「人質を移し始めた」

 

堀北の目がわずかに強くなる。

 

軽井沢、一之瀬、平田、ひより。

 

さっきまで同じ教室にいた面々が、もうその場に留めておく対象ではなく、

運んで使う対象へ変えられた可能性が高い。

 

しかも月城の放送によって、綾小路を逃がす加担者は失格と明言された以上、

堀北自身も人質という立場から半歩外れた。

 

それは自由になったという意味ではない。

 

むしろ、より明確に排除してもいい側へ近づいたということだった。

 

「さっきの放送で、龍園も坂柳もやり方を変える」

 

綾小路が言う。

 

「固定人質から、移動人質に変える」

「わたしたちの進路にぶつけてくる?」

「その可能性が高い」

 

堀北は小さく息を吐いた。

 

「最低ね」

「最初からだ」

 

その返しに、堀北はほんの一瞬だけ苦く笑った。

今さら綺麗ごとを言う場面ではない。

だが、そう言い切られてしまうと逆に冷静になれるのかもしれなかった。

 

その時、背後の特別棟側から非常口が激しく開く音が響き、

次いで龍園の怒声が夜気を裂いた。

 

「散れ!校門を真正面から押さえるな!左右から切れ!」

 

やはりだ、と綾小路は思う。

 

龍園は放送を受けて、単純な一直線追跡を捨てた。

校門を正面から押さえるのは警官隊の視界に入りやすく、

かえって動きが制限される。

 

ならば左右から挟み、

綾小路が警官隊へ飛び込む寸前の位置を切るほうが合理的だ。

 

一方で、その指示に素直に従わない者もいる。

 

宝泉だった。

 

「回り込んでる暇があるかよ!」

 

重い足音が一直線に近づいてくる。

 

「目の前にいるなら叩き潰すだけだろうが!」

「だからそれをやって取り逃がしてんだろうが!」

 

龍園の返しにも、もはや建設的な意味はない。

 

ただ苛立ちが乗っているだけだった。

 

坂柳の声は少し遅れて響く。

 

「龍園くん、怒鳴るたびに位置を教えていますよ」

「うるせえ、分かってんだよ!」

「分かっていて制御できないのが、あなたの限界ですね」

 

その一言で、龍園の怒気がさらに増すのが遠くからでも分かった。

追う側は、完全に再編されているようでいて、実際にはさらに分裂している。

 

綾小路にとってそれは好材料だったが、

同時に教室棟側の人質移送が始まっている以上、

単純に相手の崩れを待つだけでは間に合わない。

 

「校門へ真っ直ぐは行かない」

 

綾小路が言う。

 

「一度、教室棟の外周へ寄る」

 

堀北が目を向ける。

 

「人質の流れを見るため?」

「ああ。それと、坂柳の先回りを外す」

「校門が近いのに離れるのね」

「近いからこそ、全員がそこを見てる」

 

堀北は数秒だけ考え、それから頷いた。

 

「分かったわ」

 

その返事の直後、二人は中庭の縁から右へ切り、

教室棟側の外周へ沿う形で低く走り出した。

 

外灯は点いているが、

文化祭準備の資材がところどころに仮置きされているおかげで、

一定間隔で死角が生まれている。

 

掲示用のパネル、未使用の花壇装飾、

木製の屋台板、折りたたみ椅子、テント用の袋詰め支柱。

 

明日の華やかさを作るはずだったものが、

今は誰かの命を数秒だけ延ばすための

遮蔽物になっているという事実が、やけに皮肉だった。

 

二人が教室棟側の外周へ回り込んだ時、

ちょうど反対方向から複数の人影が出てくるのが見えた。

 

龍園側ではない。

坂柳側でもない。

人質の移送班だ。

 

先頭にいるのは橋本と神室、さらにその周囲に二年生数名、

その中央に軽井沢、一之瀬、平田、ひよりの姿がある。

 

完全な拘束ではない。

だが銃口と見張りの位置で、自由がないことは明白だった。

 

綾小路は即座に物陰へ身を滑らせ、堀北も隣へ引き込む。

 

堀北の表情が変わる。

 

「いた……」

 

声は小さかったが、感情は濃かった。

軽井沢は明らかに顔色が悪い。

一之瀬はそんな彼女を支えるように横に立ち、

平田は前へ出すぎない位置で周囲を見ている。

ひよりは俯きがちだが、それでも歩みを止めてはいない。

 

彼らは人質でありながら、ただ壊れて運ばれているだけではなかった。

 

それがかえって痛々しい。

 

「どこへ運ぶ気なの」

 

堀北が低く問う。

綾小路は橋本たちの進行方向を見た。

 

校門へ直結する正面通路ではない。

 

少しずれた、正門脇の花壇広場に近い位置だ。

あそこなら外の警官隊からは見えにくく、

同時に校門へ走る進路に横槍を入れやすい。

 

「校門脇だ」

 

綾小路が言う。

 

「真正面じゃなく、横から切るつもりだ」

 

堀北の目が鋭くなる。

 

「坂柳さんらしいわね」

「龍園もたぶん同じ結論に来る」

「最悪じゃない」

「ああ、最悪だ」

 

その返しに、堀北は短く息を吐いただけで何も言わなかった。

 

その時、移送列の最後尾付近にいたひよりが、

ほんの一瞬だけ顔を上げ、こちらの物陰へ視線を滑らせた。

 

見えたのか、気配を感じたのかは分からない。

だが彼女の足がごくわずかに止まりかける。

 

神室がすぐに低く言う。

 

「止まるな」

 

ひよりは何も言わず、再び歩き出した。

ただ、その短い瞬間だけで十分だった。

 

綾小路が近くにいるかもしれない。

 

そう移送列の誰かが感じれば、列の空気そのものが揺れる。

一之瀬や平田ほどの人間なら、そこから何かを読み取るかもしれない。

 

「助けるの?」

 

堀北が問う。

 

その問いには、責める色も、急かす色もない。

ただ、今ここで綾小路がどちらを優先するのかを確認したいだけの声だった。

 

「今はまだ動かない」

 

綾小路は答える。

 

「列を崩しても、ここじゃ囲まれる」

「ええ」

 

堀北もそれは理解していた。

 

理解しているからこそ苦しいのだろう。

 

「なら、何を待つの」

「龍園側との衝突だ」

 

その一言で、堀北も先を読んだ。

 

龍園は人質を使うにしても、坂柳に主導権を渡したままではいない。

月城の条件更新で時間が削られた以上、

龍園は必ずもっと露骨で乱暴な形で割って入る。

 

そして宝泉がそれに素直に従うはずもない。

七瀬は制止し、天沢は煽る。

 

ならば、移送列が校門脇へ着く前か、着いた直後に、必ず歪みが生まれる。

その歪みが最大化した瞬間だけが、綾小路にとっての突破口になる。

 

移送列が教室棟外周をゆっくりと進む間、

綾小路と堀北も死角を保ちながら並走するように位置を変えた。

 

正面から追い越さず、距離を詰めすぎず、けれど見失わない。

それはまるで獣道を挟んで別の群れを追うような奇妙な移動だった。

 

遠くではサイレンがさらに近づき、

赤色灯は校門付近の樹木や壁に反射して、

夜の学校に不穏な脈動を作っている。

 

外には確かに警官隊がいる。

 

だがまだ中へ踏み込んでこない。

 

月城がどこまで外を抑えているのかは分からないが、

その数分の猶予こそが、この夜を地獄のまま延命させている元凶だった。

 

そして、予想した通りの声が、やがて校庭の別方向から飛んできた。

 

「おい坂柳!」

 

龍園だった。

 

「勝手に人質動かしてんじゃねえぞ!」

 

移送列が止まる。

 

橋本が振り返る。

神室も銃口を持ち直す。

坂柳は少し遅れて姿を見せた。

彼女は移送列の少し後ろにいたらしい。

 

「勝手に、ではありませんよ」

 

静かな声だった。

 

「あなたが騒がしく追い散らした結果、こちらが動かざるを得なくなっただけです」

「ハッ、言うじゃねえか」

 

龍園は笑う。

 

だがその笑いには刺があった。

 

「人質まで抱えて、テメェ一人で全部取る気かよ」

「あなたよりは丁寧に扱っているつもりですが」

 

その一言で、龍園側の空気がさらに硬くなる。

 

石崎を撃った件、幸村と神崎の件、

そのすべてが龍園側にとってももう笑えない記録になっているのだろう。

 

そこへ宝泉が割り込む。

 

「どっちでもいい、さっさと綾小路を出せ」

「出せと言われて出るなら苦労しませんよ」

 

坂柳が返す。

 

「だったらその餌で釣ればいいだろうが」

 

宝泉の視線が軽井沢たちへ向く。

一之瀬がその視線の意味を察したのか、わずかに前へ出る。

 

平田も動く。

 

だが橋本たちがすぐに押さえる。

 

堀北の表情が変わる。

 

「まずいわね」

「分かってる」

 

綾小路の声も低くなる。

 

龍園は龍園で、宝泉のその言葉に乗るかどうかを測っているようだった。

 

露骨すぎる。

 

だが時間はない。

 

坂柳は反対しそうでいて、その実もっと合理的な使い方を考えるはずだ。

つまり、全員が違う形で人質を切り札にしようとしている。

 

最悪の状況だった。

 

その時、七瀬の声が鋭く響いた。

 

「やめてください!今ここで人質を前に出せば、外からも見える位置になります!」

 

全員の意識が一瞬だけ七瀬へ向く。

それは重要な指摘だった。

 

校門脇の花壇広場は、完全な死角ではない。

位置によっては外の警官隊からも動きが見える。

もし人質を盾のように前へ出せば、

外からも異常性がはっきりし、介入が早まる可能性がある。

 

月城にとっても、それは望ましくないはずだ。

 

龍園が舌打ちする。

 

「面倒くせえな」

「面倒でも事実です」

 

七瀬は一歩も引かない。

 

「あなたたちが思っているより、もう時間がありません」

 

天沢がそこで、楽しそうに首を傾げた。

 

「でも逆に言うと、もう時間がないから雑になってるんだよね、みんな」

 

その一言は軽いようでいて、本質を突いていた。

 

雑になっている。

 

龍園も、宝泉も、坂柳も、七瀬も、そして綾小路自身も。

 

時間がないことが全員の判断を削っている。

だからこそ、次の一手は派手に崩れる。

綾小路は物陰から移送列と龍園側の間合いを測る。

 

距離は近い。

 

だが、まだ詰めきってはいない。

ここで必要なのは、誰かが最初に不用意に前へ出ること。

 

そしてそれを誘う材料はすでに揃っている。

 

軽井沢、一之瀬、平田、ひより。

 

四人の人質。

龍園の短気。

宝泉の直線性。

坂柳の合理。

七瀬の制止。

天沢の愉快犯性。

 

完璧なほど歪んだ盤面だった。

 

「堀北」

 

綾小路が低く呼ぶ。

 

「次の混線で一之瀬たちの列が崩れる可能性が高い」

「ええ」

「その時、お前は軽井沢じゃなく、一之瀬側を見る」

 

堀北が少しだけ目を見開く。

 

「なぜ?」

「軽井沢はオレが見る。一之瀬が動けば平田も動く。そっちをお前が押さえろ」

 

堀北は一瞬だけ考え、それから強く頷いた。

 

「分かった」

 

ここまで来れば説明は少ないほうがいい。

互いに何を優先するかだけ共有できれば、それで十分だった。

 

その直後、龍園がついに一歩前へ出た。

 

「もういい、坂柳」

 

声が低い。

 

「テメェのやり方は遅え」

 

坂柳は表情を変えない。

 

「あなたのやり方は雑すぎます」

「だったら見てろよ」

 

龍園が笑う。

 

その笑いは、もう抑制の効いたものではなかった。

 

「俺がここで盤面ひっくり返してやる」

 

その言葉が落ちた瞬間、

校門脇の花壇広場に集まった全員の均衡は、ついに音を立てて崩れ始めた。

 

龍園はその言葉どおり、もう坂柳の盤面に付き合う気はない。

 

月城の条件更新で時間が削られ、外の警官隊がさらに近づく。

人質を使った緩やかな誘導や配置の最適化に意味が薄れた今、

龍園にとって必要なのは、理屈でも駆け引きでもなく、

相手が整えるより先に雑でもいいから状況を動かすことだった。

 

「動かせ!」

 

その短い号令と同時に、龍園側の生徒が一斉に前へ出る。

人質へ銃口を突きつけるためではない。

坂柳側の移送列そのものへ割り込むためだった。

 

橋本が即座に反応する。

 

「来るぞ!」

 

神室も一歩前へ出て、

軽井沢たちの列を維持しながら龍園側の進路を切ろうとする。

 

だが龍園の狙いは最初からそこにあった。

人質を奪うことではなく、列を崩すこと。

列が崩れれば、坂柳の管理は乱れる。

乱れた瞬間に、綾小路も動く。

その動いた綾小路を、自分が取る。

 

乱暴だが龍園らしい発想だった。

 

「やめなさい!」

 

七瀬の声が鋭く飛ぶ。

 

「ここで列を崩せば全員が――」

 

最後まで言い切る前に、宝泉が笑った。

 

「だから崩せばいいんだろ」

 

その一言は、あまりにも単純で、だからこそ最悪だった。

 

宝泉は最初から人質管理や細かな配置に価値を置いていない。

綾小路へ繋がるなら、列が乱れようが、包囲が崩れようが構わない。

むしろ、その乱れの中で真正面からぶつかれるなら望むところですらある。

 

坂柳の目が、そこで初めて明確に冷たく沈んだ。

 

「橋本くん、列を維持してください」

「維持って言っても、向こうが――」

「維持です」

 

短いが強い命令だった。

 

橋本は舌打ちを飲み込み、神室とともに軽井沢たちの前へ出る。

一之瀬が平田の腕を軽く押さえるのが、綾小路の位置からでも見えた。

 

平田は飛び出したいのを抑えている。

軽井沢は呼吸が浅い。

ひよりは顔を上げていない。

 

だが、その列の全体がすでに運ばれるだけの列ではなくなりつつあった。

 

龍園側が前へ出た瞬間、誰もが「次に何が起こるか」を想像してしまったからだ。

 

堀北は物陰の中で、その崩れかけた列をじっと見ていた。

 

表情は硬い。

 

だが視線は一点に固定されていない。

 

軽井沢、一之瀬、平田、ひより、橋本、神室、

龍園、宝泉、坂柳、七瀬、天沢、その全員の置かれ方を短い時間で追っている。

生徒会長として、この夜の中で最も正常に近い判断をしようとしている目だった。

 

綾小路は低く言う。

 

「もう始まる」

 

堀北が小さく返す。

 

「ええ」

「列が切れたら、一之瀬と平田を見る」

「軽井沢さんはあなた」

「ああ」

「椎名さんは?」

 

その問いに、綾小路は一瞬だけ沈黙した。

 

「状況次第だ」

 

堀北はそれ以上聞かなかった。

それが冷たい判断だと理解しつつ、今はそれ以外にないと分かっていたのだろう。

 

その直後、龍園が本当に盤面をひっくり返しにいった。

 

「撃つな、押せ!」

 

その命令は、先ほどまでの龍園なら出さなかった種類のものだった。

銃で脅すのではなく、物理的に前へ出て列を崩す。

つまり、人質に当てない範囲での乱戦を作るという判断だ。

 

龍園側の生徒が前へ出る。

橋本が押し返す。

神室も位置をずらす。

 

その瞬間、列の中央にいた軽井沢が肩を揺らし、

一之瀬がそれを支えるために半歩横へ動く。

 

たったそれだけの小さなズレが、移送列全体の軸を狂わせた。

 

「そこ動かないで!」

 

七瀬が叫ぶ。

 

だが遅い。

 

宝泉が前へ出る。

 

龍園もさらに踏み込む。

 

坂柳は一歩も退かないが、そのぶん橋本と神室への負荷が一気に増える。

 

天沢が楽しそうに笑う。

 

「うわ、ほんとに壊しにいった」

 

次の瞬間、校門脇の花壇広場で二つの力が正面からぶつかった。

 

龍園側の押し込みと、坂柳側の維持。

 

そこへ人質の動揺が重なる。

 

完全な乱戦ではない。

 

だが、管理された移送列としては終わった。

 

綾小路はその瞬間に動いた。

物陰から一直線に飛び出す。

 

堀北も同時に逆側へ動く。

狙いは共有済みだった。

 

龍園も坂柳も、

最初の一秒では綾小路の接近より目の前の崩れへ意識を取られる。

 

その一秒がすべてだった。

 

綾小路は列の右側へ入り込む。

 

軽井沢の顔が上がる。

目が合う。

 

彼女の表情は恐怖と信じられないものを見た驚きで一瞬止まるが、

綾小路は言葉をかけない。

 

今は説明の時間ではない。

 

橋本が気づく。

 

「綾小路――!」

 

だがその前に、龍園側の生徒が横から割り込み、橋本の動きを一拍だけ止める。

 

狙い通りの混線だった。

 

綾小路は軽井沢の腕を掴み、列の外側へ引く。

軽井沢はよろめくが、足をもつれさせながらも倒れない。

その反対側では、堀北が一之瀬の肩を押し、平田へ短く叫んでいた。

 

「平田くん、動いて!」

 

平田は一瞬だけ目を見開き、それから迷いなく一之瀬の側へ回る。

 

この状況でその判断ができるのは、やはり平田だった。

 

だがすべてがうまくいくわけではない。

神室が堀北へ手を伸ばす。

橋本も体勢を戻しかける。

龍園は綾小路を視認して笑う。

 

「やっと出たな!」

 

宝泉も同時に動く。

 

「そこだ!」

 

最悪のタイミングだった。

だが同時に、綾小路が待っていた最大の歪みでもあった。

 

綾小路は軽井沢を自分の背後へ回し、前へ出る。

 

宝泉の進路を切る形だ。

 

宝泉は止まらない。

そのまま踏み込んでくる。

綾小路は真正面から受けず、半歩だけ角度を切る。

 

宝泉の肩が花壇の縁石へかすめる。

 

完全には崩れない。

 

だが進路がわずかに逸れる。

 

その間に、軽井沢が外側へ逃げる余地が生まれる。

 

「走れ」

 

綾小路が低く言う。

 

軽井沢は声も出せず、ただ頷くように体を震わせながら、

一之瀬たちのいる方向ではなく、綾小路が作った外周側の隙間へ走った。

 

一方、堀北側では状況がさらに複雑だった。

 

一之瀬は動ける。

平田も補助できる。

だがひよりが列の外側に取り残されかけている。

 

彼女は崩れた列の中央で、どちらへ動けばいいか一瞬だけ判断が遅れた。

 

坂柳はそれを見ていた。

龍園も見ていた。

天沢も、七瀬も。

 

その一瞬の取り残されは、この夜において致命的だった。

 

「椎名さん!」

 

一之瀬が叫ぶ。

 

平田がそちらへ手を伸ばそうとする。

だが神室が先に動く。

ひよりを列へ戻そうとする意図だ。

 

堀北はそこへ割って入った。

 

「こっち!」

 

その一声に、ひよりの顔が上がる。

視線が堀北を捉える。

迷いが生まれる。

 

その迷いの一拍こそが危険だったが、同時に突破口でもあった。

 

ひよりが堀北側へ一歩だけ寄る。

 

神室がさらに手を伸ばす。

 

そこへ、七瀬が叫んだ。

 

「そこ、撃たないで!」

 

誰に向けた声かは明白だった。

 

龍園側だ。

 

列が崩れたことで、何人かが咄嗟に銃を上げかけたのだろう。

 

今ここで撃てば、人質も味方も混ざる。

 

七瀬はそれを止めた。

 

つまり、七瀬の中ではまだ任務の成功のほうが衝動的な制圧より上にある。

 

そのことは綾小路にとって重要だった。

 

綾小路は宝泉の二撃目を受け流しながら、横目で全体を見る。

 

軽井沢は外周へ抜けた。

 

一之瀬と平田も、堀北の誘導で半歩ずつ列から外れ始めている。

 

ひよりはまだ中間。

 

ここで必要なのは、もう一段大きな崩れだ。

 

その崩れを起こせるのは、やはり龍園しかいない。

 

案の定、龍園は笑っていた。

 

状況が綺麗にまとまらなくなればなるほど、

この男は自分の得意な土俵へ引きずり込めると信じる。

 

「いいぜ、そうこなくっちゃな」

 

そして次の瞬間、龍園はついに自分で前へ出た。

 

橋本を押しのけるように進み、列の中央ではなく、

綾小路と宝泉の交差する戦場の中心へ踏み込む。

 

「俺も混ぜろよ、綾小路」

 

龍園翔がそう言いながら前へ踏み出した瞬間、

それまで宝泉の突進と綾小路の迎撃によって

辛うじて一本の軸だけで保たれていた花壇広場の均衡は、完全に崩壊した。

 

宝泉が横目で龍園を睨む。

 

「邪魔すんな」

「テメェ一人にやらせる気はねえって言ってんだよ」

「だったら先に潰れろ」

 

吐き捨てるような会話。

だが、その直後にはもう龍園は宝泉の制止など完全に無視していた。

 

龍園は背後にいた武装班の一人からマシンガンを乱暴にひったくると、

そのまま肩へ引き寄せ、ほとんど構え切るより早く引き金を引いた。

 

乾いた連続音が炸裂する。

高回転の掃射。

 

マシンガン特有の鋭い連射音が夜気を切り裂きながら一気に花壇広場へ広がり、

赤い銃口炎が断続的に明滅するたび、

煙に濁った空気がストロボのように照らし出される。

 

弾丸は一直線ではない。

 

綾小路の回避先そのものを潰すように、花壇の縁石、植え込み、

校門脇の看板、地面、そのすべてへ扇状にばら撒かれ、

コンクリート片と土と葉が激しく噴き上がる。

 

「伏せて!」

 

堀北の叫び。

だが綾小路は伏せない。

伏せれば射線に固定される。

 

むしろ前へ出る。

 

連射の切れ目を読む。

龍園は力任せに撃っているようでいて、

実際には綾小路の逃げる角度を限定しながら距離を詰めようとしていた。

 

そのやり方は龍園らしい。

 

暴力的だが、ただ乱暴なだけではない。

 

綾小路は横へ滑る。

 

弾丸が背後の支柱を叩き、火花が散る。

さらに次の掃射。

 

今度は低い。

 

地面を薙ぐように走った弾がコンクリートを削り、

白い粉塵と破片を噴き上げながら綾小路の足元を舐めていく。

 

その圧を真正面から浴びながら、綾小路は右手の拳銃を引き抜いた。

 

発砲。

乾いた単発。

 

龍園は即座に首を振る。

 

弾丸が頬を掠め、背後のフェンスへ突き刺さって甲高い音を返す。

 

「ハッ、やるじゃねえか!」

 

龍園は笑いながらさらに掃射を重ねる。

 

マシンガンの連射が看板の残骸を食い破り、

砕けた木片と金属片が爆ぜるように周囲へ飛び散る。

 

綾小路は走る。

遮蔽物を使わない。

 

左右へ細かく角度を変えながら、

龍園の射線そのものへ入り込むように距離を詰めていく。

 

普通なら自殺行為だ。

 

だが龍園のマシンガンは近距離になるほど扱いが難しくなる。

 

だから綾小路は撃たせながら近づく。

龍園もそれに気づく。

 

「チッ……!」

 

舌打ち。

さらに長い掃射。

 

銃口炎が荒々しく暴れ、夜の空気が震える。

だがその瞬間、綾小路は花壇の縁石を蹴って低く滑り込み、

一気に龍園の懐へ飛び込んだ。

 

「っ――!」

 

龍園の反応は速い。

即座に銃口を下げ、至近距離から押し込むように撃とうとする。

だが、その前に綾小路の左手がマシンガンの銃身を外側へ弾き飛ばしていた。

 

発砲。

連射音。

 

だが弾丸は二人の横を裂き、

校門脇のライト支柱へ命中して火花を噴き上げる。

 

距離がゼロになる。

もう銃の間合いではない。

 

龍園はすぐに理解した。

 

だから迷わずマシンガンそのものを振り回す。

金属の塊として。

 

綾小路は半歩だけ身体を捻ってそれを避ける。

 

風圧が頬を掠める。

その瞬間、綾小路の拳が龍園の腹へ突き刺さった。

 

鈍い衝撃。

龍園の身体が僅かに沈む。

 

だが龍園も止まらない。

肘を振り上げる。

綾小路は肩で受け流し、そのままさらに踏み込む。

 

距離を離させない。

龍園は近距離でも獰猛だ。

 

だからこそ、呼吸を与えない。

綾小路の右拳が今度は龍園の顎を捉える。

 

鋭い衝撃。

龍園の視界が揺れる。

 

それでも倒れない。

 

むしろ笑う。

 

「面白れぇ……!」

 

次の瞬間、龍園は頭突きのように前へ出る。

綾小路はその軌道を読んでいた。

 

半歩だけ横へ。

 

龍園の勢いが空を切る。

 

その瞬間だった。

綾小路のストレートが、真正面から龍園の顔面へ叩き込まれる。

 

鈍い衝撃音。

龍園の頭が大きく跳ねる。

そのまま身体ごと後方へ吹き飛び、花壇脇の金属フェンスへ激突した。

 

フェンスが大きく軋む。

 

マシンガンが手から離れ、火花を散らしながら地面を滑る。

 

龍園は数秒、そのまま動かなかった。

完全に決まった。

誰の目にもそう見えた。

 

だが――

 

「……っ、ハ……」

 

低い笑い声。

龍園の肩が小さく震える。

 

血の混じった息を吐きながら、ゆっくりと顔を上げる。

 

「やっぱテメェ……最高だな……!」

 

口元には笑み。

 

だが身体は明らかに限界に近い。

それでも龍園は立ち上がろうとする。

 

その執念だけで。

 

綾小路はそんな龍園を見下ろしながら、短く息を吐いた。

 

坂柳もそれを見て、初めてわずかに眉を動かす。

さすがの彼女も、この崩れ方は好ましくないのだろう。

 

「橋本くん、下がってください。今は列よりも――」

 

そこまで言ったところで、天沢がぱっと明るい声を上げた。

 

「わ、すごい。ほんとに全員ばらばら」

 

その言葉の軽さが、この場の異常さを逆にはっきりと浮かび上がらせた。

 

全員ばらばら。

 

まさにそうだった。

 

龍園は綾小路を取りたい。

宝泉は綾小路を叩き潰したい。

坂柳は綾小路を通したくない。

七瀬は任務を壊したくない。

天沢は壊れる様子を見たい。

堀北は人を逃がしたい。

綾小路は道を開きたい。

人質たちは生き残りたい。

 

それぞれの方向が違いすぎて、

もう誰一人として同じ戦場の同じゲームをしていなかった。

 

その歪みの中央で、綾小路はついに次の決断を下す。

 

「堀北!」

 

声が飛ぶ。

堀北が振り向く。

 

すでに一之瀬と平田を外周へ寄せつつ、ひよりへもう一歩手を伸ばしかけていた。

 

「全員は無理だ!」

 

綾小路が言う。

 

その一言は冷酷だった。

 

だが、今ここで必要な冷酷さだった。

 

堀北の表情が一瞬だけ揺れる。

 

ひよりを見る。

一之瀬を見る。

平田を見る。

 

軽井沢はすでに外周側へ抜けつつある。

 

全員を同時に抱えるには、広場は狭すぎ、敵は多すぎ、時間はなさすぎた。

 

「一之瀬さん、平田くん、行って!」

 

堀北が叫ぶ。

 

その声には迷いも痛みもあった。

 

だが、止まってはいない。

 

一之瀬がひよりを見た。

 

ひよりも彼女を見る。

 

その一瞬の視線の交差があまりにも苦しかったが、

それでも一之瀬は平田に押されるように外周側へ走った。

 

平田も続く。

 

ひよりだけが、その場に残る。

神室がひよりの腕を掴みかける。

 

そこへ、綾小路が宝泉の圧を横へずらし、その勢いを利用して一気に前へ出た。

 

「放せ」

 

短い声だった。

神室が反応する。

だが綾小路のほうが速い。

 

ひよりの腕を掴み、列の外へ引く。

 

神室は追おうとする。

 

しかし、その前へ龍園が半歩割り込んだ。

 

意図的ではない。

 

綾小路へ詰めようとした結果、進路が被ったのだ。

 

神室が苛立つ。

龍園も舌打ちする。

宝泉はさらに怒る。

坂柳は冷たい目でそれを見ている。

 

完璧だった。

 

最悪なほどに歪んだ盤面が、今だけ綾小路に味方していた。

 

「走れ!」

 

綾小路がひよりへ言う。

 

ひよりは目を見開き、泣きそうな顔のまま、それでも頷いて外周側へ走り出した。

これで軽井沢、一之瀬、平田、ひよりの四人が列から外れた。

 

全員を安全圏へ送れたわけではない。

 

だが、坂柳の移送人質という形は完全に壊れた。

 

そしてその壊れた瞬間、校門の向こうから拡声器の声が、

これまでで最もはっきりと響いた。

 

『校内の人員へ告げる!武器を捨てて、その場で動くな!』

 

警官隊だった。

 

ついに外が、明確な形で校内へ呼びかけを始めたのだ。

 

その声が夜の学校全体へ届いた瞬間、

校門脇の花壇広場にいた全員の時間が、ほんの一拍だけ止まった。




モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。