ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
赤い非常灯に染まった教室の空気は、
先ほどまでの文化祭前夜の浮ついた熱気を完全に失い、
代わりにどこへ逃げればいいのかも分からないまま
閉じ込められた動物たちのような、息苦しく湿った恐怖で満たされていた。
龍園翔が握る拳銃の黒い輪郭は、
ただそこにあるだけで空間の支配権を奪い取り、
誰もが視線を逸らしたくなるにもかかわらず目を離すことができない、
圧倒的な現実として教室の中心に存在していた。
「……誰か、ふざけてるんだろ……?」
池の声はかすれていたが、その問いは誰もが内心で繰り返していたものだった。
しかし床に穿たれた弾痕と、未だに鼻を刺す硝煙の匂いが、
その希望的観測を容赦なく否定していた。
「ふざけてるように見えるか?」
龍園がゆっくりと問い返すと、池は何も言えなくなり、
ただ一歩後ずさるしかなかった。
「これが現実だ。月城が用意した試験……それ以上でも以下でもねえ」
その声音は妙に落ち着いていた。
狂っているのは状況のほうであって、
自分はそれに適応しているだけだとでも言いたげに。
「龍園くん……あなた、本気でそれに乗るつもりなの?」
堀北が静かに問いかける。
その声には怒りも恐怖も含まれていたが、
それ以上に理解できないものを理解しようとする理性があった。
龍園はその問いに対して、
数秒だけ考えるような素振りを見せた後、肩をすくめて笑った。
「逆に聞くが、乗らねえ理由があるか?」
「人を殺すことよ」
「それは理由じゃねえ。感情だ」
即答だった。
迷いは一切なかった。
「この学校に入った時点で、お前らはもう普通じゃねえ。
退学だの人生だのを天秤にかける場所で、
人を殺すのはダメですなんて今さら言ってどうすんだ?」
「それでも一線はあるはずよ」
「ねえよ」
龍園は即座に言い切った。
「線なんてものはな、引かれてる場所じゃなくて、越えたかどうかで決まるんだよ」
教室の空気がさらに冷えた。
それは暴論でありながら、
この学校においてはどこかで聞いたことのある理屈でもあったからだ。
「綾小路を殺せば、Aクラス卒業だ」
龍園はゆっくりと言葉を続けた。
「努力も、試験も、駆け引きも全部すっ飛ばして、確実に上に行ける」
その言葉に、何人かの生徒が息を呑んだ。
恐怖だけではない。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、可能性を考えてしまった者がいた。
その瞬間を、龍園は見逃さなかった。
「ほらな」
口元が歪む。
「もう始まってんだよ、この試験は」
沈黙。
その沈黙の中で、一人だけ明確に顔を歪めた男がいた。
石崎大地だった。
「……ふざけんなよ」
その声は小さかったが、確かに教室に響いた。
龍園の視線がゆっくりと石崎へ向く。
「なんだ?」
「ふざけんなって言ってんだよ……!」
石崎は一歩前に出た。
手は震えていた。
顔も青ざめていた。
それでも、退かなかった。
「綾小路は……確かに何考えてるか分かんねえけど、
龍園さんの退学を阻止してくれたりもした良い奴なんだ……!」
言葉が詰まる。
だが、それでも続ける。
「友達は殺せねえだろ……!」
教室が静まり返った。
その一言は、あまりにも普通だった。
この状況の中で、あまりにも場違いなほどに。
だが、それゆえに重かった。
龍園はしばらく何も言わなかった。
ただ、石崎を見ていた。
その目には、怒りも、呆れも、
そして――わずかな理解のようなものすら浮かんでいた。
だが次の瞬間、それは完全に消えた。
「そうか」
龍園は静かに言った。
「じゃあ、お前は降りろ」
石崎が目を見開く。
「……は?」
「この試験から降りろって言ってんだよ」
龍園は一歩、石崎に近づいた。
「ただし、その代わりに見せしめになってもらう」
「な、何言って……」
その言葉が最後まで続くことはなかった。
乾いた発砲音が教室に響いた。
石崎の体が大きく揺れ、そのまま後ろへ崩れ落ちた。
誰も動けなかった。
誰も声を出せなかった。
赤い非常灯の下で、床に広がる血がゆっくりと形を変えていく。
「これがルールだ」
龍園が言った。
声は淡々としていた。
まるで、本当にただルールを説明しているだけのように。
「逆らえば死ぬ。それだけだ」
その瞬間、龍園クラスの空気が完全に変わった。
それまではまだ仲間だった。
だが今は違う。
誰もが理解した。
龍園に従っているのではない。
従わされているのだと。
「……ひどい」
小さく呟いたのは椎名ひよりだった。
彼女は石崎の倒れた場所を見つめ、震える手で口元を押さえていた。
「こんなの……間違ってます」
龍園の視線がひよりへ向く。
「お前もか」
「当たり前です……!人を殺してまで勝つなんて……
そんなの、読んできたどんな物語よりも醜いです……!」
その言葉には、彼女なりの怒りと悲しみが込められていた。
だが、それはこの場では致命的な弱さでもあった。
龍園は数秒、ひよりを見ていた。
そして、ふっと笑った。
「いいぜ」
意外な言葉だった。
「殺さねえ」
ひよりがわずかに安堵の表情を浮かべかけた、その直後。
「その代わり、向こう側に行け」
「……え?」
「人質だ」
龍園は顎で堀北たちを示した。
「戦えねえ奴は、盾になるしかねえだろ」
ひよりの顔から血の気が引いた。
だが、抵抗はできなかった。
石崎の血が、すぐそこにある。
それがすべてを物語っていた。
神室が無言でひよりの腕を掴み、堀北たちのほうへ押し出した。
ひよりはよろめきながらその列に加わる。
その目には涙が滲んでいた。
「……最悪ですね」
坂柳の声が静かに響いた。
だがその言葉に感情はほとんど乗っていなかった。
「龍園くん、あなたはやはり分かりやすい」
「何が言いてえ」
「恐怖で支配するのは簡単です。しかし、それは長くは持ちません」
「十分だろ。夜明けまで持てばな」
坂柳は小さく笑った。
「そうですね。その程度であれば」
その視線が人質側へ向く。
そして、ゆっくりと歩み寄る。
「さて」
その声は穏やかだった。
「無駄な抵抗はやめてください。
皆さんが大人しくしていれば、少なくとも今すぐ死ぬことはありません」
その言葉に、わずかな安堵が広がる。
だがそれは一瞬で砕かれる。
「……だったら」
前に出たのは幸村輝彦だった。
「話をしよう」
その声は震えていなかった。
理性で立っている人間の声だった。
「このままじゃ被害が増えるだけだ。条件があるなら、それを聞いて――」
隣に神崎隆二も並ぶ。
「交渉の余地はあるはずだ」
二人は同時に前へ出た。
その姿は、この狂った空間の中で、最後のまともな行動に見えた。
だからこそ。
坂柳は迷わなかった。
拳銃を受け取り、ためらいなく引き金を引いた。
二発。
ほとんど間を置かず。
幸村と神崎の体が、その場で崩れ落ちた。
教室が凍りつく。
「交渉は成立しません」
坂柳は静かに言った。
「これは試験ですから」
その微笑みは、あまりにも穏やかだった。
それが、何よりも恐ろしかった。
そんな張り詰めた空気の中で、ただ一人だけ異質な存在がいた。
高円寺六助だった。
彼は教室後方、人質として床へ座らされている生徒たちの列から
半歩だけ外れた位置に腰を下ろし、
周囲の悲鳴や怒号や銃声など最初から存在していないかのように、
小さな手鏡を片手で優雅に掲げながら、
自分の前髪を指先で丁寧に整えていた。
非常灯の赤い光が、その金色の髪へ不気味な艶を与えている。
「……まったく、湿度が高すぎるねぇ」
高円寺はため息混じりにそう呟くと、
周囲の恐怖など意に介さず、乱れた毛先を軽く払って再び鏡を覗き込む。
「せっかく整えていたというのに、こう騒がれては髪型が崩れるじゃないか」
誰も返事をしない。
返せる空気ではない。
だが高円寺だけは、本当に興味がなかった。
綾小路が狙われていようと、学校が戦場になろうと、
自分が人質になっていようと、その程度のことでは彼の世界は揺らがない。
その異様な落ち着きが、逆に教室内の恐怖を際立たせていた。
龍園でさえ一瞬だけ高円寺へ視線を向ける。
「……お前、本当にブレねえな」
高円寺は鏡越しに龍園を見る。
「当然だろう?」
口元に薄く笑みが浮かぶ。
「私は私の美しさを守るので忙しいのでね。君たちの野蛮なゲームに興味はない」
その言葉に何人かの生徒が凍りつく。
普通なら、こんな状況でそんな態度を取れば即座に撃たれてもおかしくない。
だが龍園は、高円寺を見ながら逆に低く笑った。
「ハッ……相変わらず変人だな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
高円寺はそう言うと、また何事もなかったように髪を整え始める。
その異様な光景のすぐ近くでは、
教師たちもまた人質として壁際へ集められていた。
茶柱は腕を後ろで拘束されたまま、
それでも視線だけは鋭く龍園と坂柳を睨み続けている。
その表情には怒りがあった。
だが同時に、自分たち教師ですら
完全に主導権を失っている現実への苦い理解も滲んでいる。
「……お前たち、自分が何をしているのか分かっているのか?」
茶柱が低く言う。
龍園は肩をすくめる。
「分かってるからやってんだろ」
「これはもう試験なんてものじゃない。立派な犯罪だ」
「月城は試験って言ってたぜ?」
龍園のその返しに、茶柱は言葉を失う。
反論したい。
だが、実際に月城はそう宣言してしまった。
そして学校側はまだ誰一人として止められていない。
その現実が、教師という立場の無力さを残酷なほど突きつけていた。
星之宮は壁際へ座らされながら、珍しく笑みを消していた。
普段の軽薄さはなく、ただ静かに教室全体を見渡している。
「……冗談じゃないわねぇ、本当に」
小さく呟く。
だが、その声には明確な焦りがあった。
彼女もまた理解している。
これはもう、生徒同士の揉め事などではない。
本物の殺意と、本物の武器が学校の中へ入り込んでしまっている。
真嶋もまた、壁際で拘束されたまま低く舌打ちした。
「月城め……最初からここまでやる気だったのか」
その声には、教師としての怒りだけではなく、
教育機関として完全に一線を越えてしまった学校そのものへの嫌悪が混じっていた。
だが、そんな教師たちの存在すら、今の教室では人質の一部でしかない。
龍園も坂柳も、教師だからといって特別扱いはしていなかった。
むしろ、生徒も教師も関係なく盤面の駒として扱っている。
それこそが、この夜の狂気だった。
そして、その狂気の中心には――
いまだ姿を見せない綾小路清隆がいる。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。