ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
無機質な監禁室で、堀北鈴音と二階堂麗華は向かい合っていた。
部屋にはベッドが二つ。
簡素なテーブル。
水の入ったボトル。
それだけだった。
武器になりそうなものはない。
窓もない。
扉は厚い金属製で、外側からしか開かない。
監視カメラが天井の隅にあり、二人の様子を黙って見下ろしている。
「随分と趣味の悪い部屋ね」
麗華が言った。
「ええ。歓迎されている感じはしないわ」
堀北は冷静に答えた。
麗華はテーブルに置かれたボトルを見た。
手を伸ばす。
しかし、すぐには口をつけなかった。
「飲まないの?」
堀北が尋ねる。
「毒が入っている可能性もあるでしょう」
「その可能性は低いと思うわ」
「根拠は?」
「私たちを殺すつもりなら、もっと簡単にできたはずだから」
麗華は堀北を見た。
「なるほど。あなた、思ったより冷静なのね」
「あなたも十分冷静よ」
「怖がって叫んでも、扉は開かないもの」
麗華はそう言って、ボトルの蓋を開けた。
少しだけ口に含む。
すぐに飲み込まず、
しばらく舌の上で確かめるようにしてから、ようやく喉を通した。
堀北はその様子を見ていた。
「用心深いのね」
「資産家の娘なんてやっていると、嫌でもそうなるわ」
麗華は静かに言った。
「誘拐される可能性くらい、昔から言われ続けてきたもの」
「慣れているようには見えないわ」
「慣れるわけがないでしょう」
麗華の声に、ほんの少しだけ苛立ちが混じった。
だが、それは堀北に向けられたものではなかった。
自分を連れ去った者たちへ。
そして、自分を守れなかった者へ。
あるいは、自分が守られる側でしかなかったことへの苛立ち。
「あなたも、綾小路清隆を誘き出すために連れてこられたのでしょう?」
麗華が尋ねた。
「月城という男から聞いたの?」
「ええ。あなたは綾小路清隆に近い人間だと」
堀北はわずかに眉を動かした。
「近い、ね」
「違うの?」
「説明が難しいわ」
堀北は短く息を吐いた。
「少なくとも、私が一方的に近いと思っているわけではないと思いたいところね」
麗華はその言い方に少しだけ笑った。
「あなたも面倒な関係ね」
「否定はしないわ」
麗華は壁にもたれた。
堀北は素朴な疑問を投げつける。
「彼は強いの?」
「強いわ」
麗華は即答した。
その即答に、堀北は少しだけ興味を覚えた。
「随分と信頼しているのね」
「信頼ではないわ。事実を言っただけ」
麗華は少し不機嫌そうに言った。
「さっきも言ったけど、あの男は普段、どうしようもない怠け者なの。
生意気だし、私を放って読書しているし、
真面目に訓練しているところなんて見たことがない」
「それでボディガードが務まるの?」
「務まってしまうから腹が立つのよ」
麗華の声には、本気の怒りと、それ以上に複雑な感情が混じっていた。
「本当に必要な時だけ動く。
普段は最低でも、誰かが危険に晒された時だけは迷わない。
そして生命を賭けた戦いになれば誰よりも強い」
堀北は静かに聞いていた。
その言葉は、どこかで自分の知る少年にも重なった。
綾小路清隆。
普段は目立たない。
自分から何かを背負おうとはしない。
だが、いざとなれば誰よりも深いところまで踏み込んでいく。
「似ているのかもしれないわね」
堀北が呟いた。
「綾小路清隆と?」
「ええ。ただし、性格は正反対のようだけれど」
麗華は肩をすくめた。
「なら、そちらの方がまだマシかもしれないわね」
「そうとも限らないわ」
堀北は即答した。
「彼はどんな人?」
麗華が何気なく尋ねた。
堀北は少しだけ考えた。
どう説明すればいいのか。
綾小路清隆という人間は、一言では表せない。
「普段は目立たないわ」
堀北は静かに言った。
「クラスでも積極的に前へ出るタイプではないし、
自分から何かを主張することも少ない」
「へぇ」
「むしろ、放っておけばずっと後ろにいるような人よ」
麗華は意外そうな顔をした。
「あまり強そうには聞こえないわね」
「実際、そう見えるわ」
堀北は頷く。
「けれど、それは表面だけ」
少しだけ視線を落とした。
これまで何度も見てきた。
誰も解けない問題を解決する姿を。
誰も辿り着けない答えへ到達する姿を。
そして、誰も勝てない相手を打ち破る姿を。
「彼は冷静よ」
堀北は続けた。
「どんな状況でも感情に流されない。常に周囲を見て、最善手を探している」
「完璧主義者?」
「いいえ」
堀北は首を横に振った。
「もっと厄介ね」
麗華が少し笑う。
「何それ」
「必要なら何でもできる人間、という意味よ」
短い沈黙。
そして堀北は静かに言った。
「私も長い間、彼を理解したつもりでいた」
だが、それは違った。
綾小路清隆という人間は、知れば知るほど分からなくなる。
底が見えない。
限界が見えない。
どこまでが本気なのかも分からない。
「けれど」
堀北は麗華を見た。
「一つだけ確かなことがあるわ」
「何?」
「彼は常人には計り知れない能力の持ち主よ」
その言葉には、誇張も冗談もなかった。
堀北鈴音が知る、唯一無二の事実だった。
麗華が顎に手を当てて真面目な顔になる。
「ねえ」
「何かしら」
「結局のところ、どっちの方が強いのかしらね」
堀北は思わず目を瞬かせた。
どちらも簡単には負けそうにない。
「……想像もつかないわね」
堀北は正直に答えた。
麗華はくすりと笑う。
「でしょうね」
「あなたはどう思うの?」
「さあ」
麗華は悪戯っぽく微笑んだ。
「賭けてみない?」
「賭け?」
「ストロベリーパフェ一つ」
堀北は一瞬だけ呆れた顔をした。
だが、不思議と悪くない気もした。
「あら、面白そうね」
堀北の口元がわずかに緩む。
「でしょう?」
「負けても払う気はあるのかしら」
「もちろんよ」
麗華は胸を張った。
「勝つつもりだけれど」
「奇遇ね、私もよ」
堀北も小さく笑った。
二人は顔を見合わせる。
そして、くすりと笑い合った。
ほんの一瞬だけ。
そこには普通の少女たちの時間が流れていた。
監禁された部屋。
脱出口のない空間。
外にいるのは、月城と司馬。
そして、得体の知れない白銀禁止区域。
普通なら不安に押し潰されてもおかしくない状況だった。
だが二人は、互いの話をすることで冷静さを保っていた。
その時だった。
部屋の外で、ロックが動く音がした。
二人は同時に扉を見る。
扉は開かない。
だが、壁のスピーカーから月城の声が響いた。
『お二人とも、随分と落ち着いていますね』
麗華は天井の監視カメラを睨んだ。
「盗み聞きとは品がないわね」
『監視と言っていただきたいところです』
月城の声は穏やかだった。
『ここでは全てが記録されています。会話も、表情も、呼吸も、沈黙も』
「悪趣味ね」
堀北が言った。
『ええ。ですが、悪趣味な場所だからこそ、面白い成果が生まれることもあります』
「成果?」
麗華が眉をひそめる。
『白銀禁止区域は、失敗者たちの受け皿です』
月城は言った。
『高度育成高等学校から退学した者。社会に戻すには都合の悪い者。
才能を持ちながら使い道を失った者。そして、まだ利用価値のある者』
堀北の目がわずかに細くなった。
「退学者を集めているということ?」
『正確には、回収していると言うべきでしょうか』
その表現に、堀北は不快感を覚えた。
人間を物のように扱う言い方。
月城らしい、とも思った。
『彼らは、社会から消えたわけではありません。
少なくとも、我々の管理下では生きています』
「それを安心しろと言いたいの?」
『いいえ。ただの説明です』
月城の声は変わらない。
『いずれ分かります。ここがただの収容施設ではないことも』
「ブラックルーム」
堀北が言った。
『ええ』
月城は満足そうに答えた。
『ホワイトルームが教育によって人間を完成させる場所なら、
ブラックルームは失敗者から可能性を探す場所です』
麗華の表情が険しくなる。
「失敗者という言葉、随分と簡単に使うのね」
『成功と失敗は、誰かが定義するものです』
「あなたが?」
『我々が、です』
堀北は静かに息を吐いた。
この男と会話を続けても、感情をぶつけるだけ無駄だ。
月城は人間を人間として見ていない。
完成品。
失敗作。
素材。
成果。
彼の言葉の中に、人の名前はあっても、人の心は存在しない。
『ですが安心してください。お二人はまだ、素材ではありません』
「まだ?」
麗華が低く言った。
『今のところは、大切な人質です』
その言葉を最後に、スピーカーは沈黙した。
部屋に静けさが戻る。
麗華は歯を食いしばっていた。
堀北は扉を見つめる。
月城は二人に恐怖を植え付けようとしている。
だが同時に、情報も与えている。
白銀禁止区域。
退学者。
ブラックルーム。
そして失敗者から可能性を探す場所。
綾小路が来る。
朝霧海斗も来る。
月城はそれを望んでいる。
ならば、この部屋に閉じ込められている自分たちも、
ただ待つだけでは済まされない。
堀北はそう考えていた。
◯
一方。
白銀禁止区域の別区画。
鉄とコンクリートで作られた広い訓練室に、龍園翔はいた。
壁には銃弾の跡。
床には格闘訓練用のマット。
天井には監視カメラ。
普通の学校では絶対に見られない設備だった。
龍園は椅子に深く腰掛け、足を組んでいた。
その顔には苛立ちが浮かんでいる。
だが、それは恐怖ではない。
退屈でもない。
もっと濁った感情。
復讐。
その言葉が一番近かった。
「クク……」
龍園は小さく笑った。
「ようやくか」
部屋の扉が開いた。
入ってきたのは月城だった。
その後ろには司馬がいる。
「ご機嫌はいかがですか、龍園翔くん」
「最悪だな」
龍園は笑いながら答えた。
「こんな場所に閉じ込められて、首輪をつけられて、
犬みてぇに待たされてる。気分がいいわけねぇだろ」
「ですが、あなたは我々の提案を受けた」
「ああ」
龍園は立ち上がった。
「綾小路を引きずり出すって話だったからな」
月城は微笑んだ。
「その点に嘘はありません」
「ならいい」
龍園の目が鋭くなる。
「俺はあいつを潰す。そのためなら、お前らの駒になってやってもいい」
「随分と分かりやすい動機ですね」
「分かりにくい言葉で誤魔化すのは、お前らみたいな連中だけで十分だ」
龍園は月城へ近づいた。
司馬が半歩前へ出る。
だが月城は手で制した。
「綾小路清隆は、あなたにとってそこまで特別ですか」
「特別?」
龍園は笑った。
「違ぇよ」
その笑みは歪んでいた。
「あいつは気に食わねぇだけだ」
言葉は軽い。
だが、そこに含まれた執着は重かった。
綾小路清隆。
自分を上から見下ろした男。
自分の暴力も、策も、執念も、全てを正面から踏み潰した男。
そして前回の事件で、龍園は取り返しのつかない場所まで落ちた。
石崎。
あの名を思い出した瞬間、龍園の笑みが一瞬だけ消えた。
だが、すぐに戻る。
「俺はもう戻れねぇ。
だったら最後に、あいつの顔を歪ませるくらいはやってやらねぇとな」
月城は静かに龍園を見た。
「復讐ですか」
「好きに呼べ」
「いいでしょう」
月城は頷いた。
「あなたには役割があります」
「役割?」
「綾小路清隆を削ることです」
龍園は笑った。
「削るだけでいいのか?」
「殺せるなら、それでも構いません」
その言葉に、龍園の口角が上がった。
「いいぜ。ようやく話が分かるじゃねぇか」
同じ頃。
別の訓練室では、宝泉和臣が壁に向かって拳を叩き込んでいた。
一発。
また一発。
壁に設置された衝撃吸収板が鈍い音を立てる。
普通の人間なら拳を痛める。
だが宝泉は気にしない。
痛みさえ楽しんでいるようだった。
「つまんねぇ」
宝泉は吐き捨てた。
「いつまで待たせんだよ」
背後に人の気配。
宝泉は振り向きもせずに言った。
「月城か?」
「違いますよ」
答えたのは坂柳有栖だった。
杖をつきながら、ゆっくりと訓練室へ入ってくる。
その表情には微笑がある。
こんな場所でも、坂柳は坂柳だった。
「相変わらず品がないですね、宝泉くん」
「あ?」
宝泉が振り向いた。
「足引きずってる奴が、わざわざ喧嘩売りに来たのか?」
「いいえ。ただ、騒がしい音が聞こえたので」
坂柳は壁の衝撃吸収板を見た。
「随分と単純な時間の潰し方ですね」
「テメェは相変わらず口だけは達者だな」
「口だけではありませんよ」
坂柳は微笑んだ。
「私は私の目的のために、ここにいます」
「目的?」
「綾小路清隆という存在の否定です」
宝泉は眉をひそめた。
「意味分かんねぇな。倒してぇなら倒す。それだけだろ」
「あなたにとってはそうでしょうね」
坂柳は静かに言った。
「ですが、私にとって彼は思想そのものです」
「思想?」
「人工的な環境。管理された教育。選別と淘汰。その果てに生まれた天才」
坂柳の声は穏やかだった。
しかし、その奥には強い感情があった。
「私は、それを認めたくありません」
宝泉は鼻で笑った。
「難しいこと言ってるが、要はあいつに負けたくねぇだけだろ」
「ええ」
坂柳はあっさり認めた。
「その通りです」
宝泉の表情が少しだけ変わった。
坂柳は続ける。
「私は綾小路くんを倒したい。彼の存在を否定したい。
人間は、教育だけで神に近づけるわけではないと証明したい」
「ハッ……」
宝泉が笑った。
「結局、テメェも同じじゃねぇか」
「同じ?」
「綾小路とやりてぇだけだろ」
坂柳は少し考えたあと、微笑んだ。
「そうかもしれませんね」
その時、訓練室の扉が再び開いた。
入ってきたのは天沢一夏だった。
軽い足取り。
楽しそうな笑み。
この場所の異常さを楽しんでいるかのようだった。
「あー、怖い怖い。みんな殺気立ってるね」
「天沢さん」
坂柳が名前を呼ぶ。
天沢はひらひらと手を振った。
「でも分かるよ。先輩、来るんでしょ?」
その声色だけが、少し変わった。
「綾小路先輩」
天沢の目に、歪んだ光が宿る。
「会いたいなぁ。すごく会いたい」
宝泉は不快そうに舌打ちした。
「気色悪ぃ女だな」
「うん。よく言われる」
天沢は笑った。
「でも仕方ないよ。先輩は特別だから」
「なら味方しとけよ」
「違う違う」
天沢は首を振った。
「特別だから、敵として立つんだよ」
坂柳は天沢を見た。
その言葉の意味を理解していた。
狂信。
憧れ。
執着。
それらが混ざり合った感情。
天沢にとって綾小路は、守る対象ではない。
崇拝する対象でもない。
もっと厄介なもの。
自分の存在理由を確認するために、どうしてもぶつからなければならない相手。
「それで、八神くんは?」
坂柳が尋ねた。
天沢は肩をすくめた。
「さあ?いつも通り、どこかで静かに燃えてるんじゃない?」
その頃、別の部屋。
八神拓也は一人で資料を読んでいた。
白銀禁止区域の内部構造。
警備配置。
綾小路清隆の行動予測。
朝霧海斗に関する断片的な資料。
その全てを無言で確認していた。
彼の表情は静かだった。
だが、ページをめくる指先だけが、わずかに強く紙を押さえていた。
「綾小路清隆」
八神は低く呟いた。
その名を口にするだけで、胸の奥に熱が生まれる。
憎しみではない。
憧れでもない。
劣等感。
対抗心。
そして、超えなければならないという強迫。
ホワイトルームで生まれた者にとって、綾小路清隆は基準だった。
頂点。
完成形。
到達点。
八神は、その全てが気に入らなかった。
なぜ自分ではないのか。
なぜあの男だけが特別なのか。
なぜ誰もが、最後には綾小路清隆へ行き着くのか。
「超える」
八神は資料を閉じた。
「殺すだけでは足りない」
綾小路清隆を倒す。
ただ倒すのではない。
理解し、上回り、完全に否定する。
そのためにここへ来た。
月城の駒になったつもりはない。
利用しているだけだ。
そう考えている時点で、月城に読まれている可能性もある。
だが、それでも構わなかった。
白銀禁止区域という舞台は、八神にとっても好都合だった。
学校のルールもない。
監視の目も、ここでは別の意味を持つ。
勝てばいい。
それだけではない。
綾小路清隆を超えたと、誰の目にも分かる形で勝つ。
それだけが、八神拓也の目的だった。
同じ施設内の廊下。
七瀬翼は一人で歩いていた。
足取りは重い。
顔には迷いがあった。
彼女もまた、ここにいる理由を持っている。
だが、他の者たちとは違った。
復讐。
否定。
決着。
狂信。
超越。
そういった言葉で割り切れる感情ではない。
七瀬は自分の手を見た。
この場所に来てから、何度も思った。
自分は何をしているのか。
月城の計画に加担している。
堀北鈴音と二階堂麗華を人質にしている。
綾小路清隆を誘き出すために。
朝霧海斗を誘き出すために。
それが正しいことなのか。
答えは出ていた。
正しくない。
だが、引き返すこともできない。
ここまで来てしまった。
自分はまた、誰かの正義に利用されているのではないか。
そう思うと、胸が苦しくなった。
「七瀬さん」
声をかけられた。
振り向くと、月城が立っていた。
「随分と暗い顔ですね」
「……いえ」
七瀬は視線を落とした。
「問題ありません」
「本当に?」
「はい」
月城は微笑んだ。
「あなたは優しい人です。だからこそ、迷う」
七瀬は何も言えなかった。
「ですが、迷いは時に役立ちます」
「役立つ?」
「ええ」
月城は静かに言った。
「綾小路清隆くんは、迷う人間を見捨てない」
その言葉に、七瀬は顔を上げた。
「あなたは、私を餌にするつもりですか」
「人聞きが悪いですね」
月城は微笑んだ。
「適材適所です」
七瀬は唇を噛んだ。
その反応を見て、月城は満足したように歩き出した。
一人残された七瀬は、しばらくその場に立っていた。
迷いは消えない。
むしろ強くなる。
綾小路清隆が来る。
朝霧海斗も来る。
その時、自分は何を選ぶのか。
七瀬にはまだ分からなかった。
◯
一方。
白銀禁止区域へ向かう山道。
黒い車が夜の道路を走っていた。
運転席には宮川尊徳。
助手席には朝霧海斗。
後部座席には、二階堂家から持ち出した装備が積まれていた。
海斗は窓の外を見ていた。
片手には文庫本。
だが、読んではいない。
尊徳は横目でそれを見た。
「読まないならしまえよ」
「持ってると落ち着く」
「お守りか」
「そんなところだ」
尊徳は呆れたように笑った。
「お前がそんなこと言うと気持ち悪いな」
「うるせぇ」
車内に短い沈黙が落ちる。
尊徳はハンドルを握りながら言った。
「父親がいるんだな」
「ああ」
海斗は短く答えた。
「会いたかったのか」
「さあな」
「お前にしては珍しく歯切れが悪いな」
海斗は本を閉じた。
「親父のことは、よく分からねぇ」
「恨んでるのか」
「別に」
「会いたくないのか」
「別に」
「じゃあ何だ」
海斗は少しだけ考えた。
「見てみたい」
「何を」
「今のオレを見たあいつが、何て言うのか」
尊徳は黙った。
朝霧雅樹。
海斗の父親。
彼を育て上げた、戦場を渡り歩いてきた男。
詳しい事情を知る者は少ない。
だが、海斗がその男にだけ妙な執着を見せることを、尊徳は知っていた。
海斗は過去に囚われる男ではない。
復讐もしない。
後悔もしない。
基本的に、起きたことは起きたこととして流してしまう。
そんな男が、雅樹の名を聞いた時だけ少し変わる。
「決着をつけるつもりか」
尊徳が尋ねた。
「分からねぇ」
海斗は正直に答えた。
「でも、向こうが来いって言うなら行く」
「麗華様の救出が先だ」
「分かってる」
海斗の声が少しだけ低くなった。
「麗華は助ける。そのついでに親父もぶっ飛ばす」
「順番が雑だな」
「分かりやすいだろ」
尊徳は笑った。
「本当にお前は変わらないな」
「変わったらつまんねぇだろ」
「それを麗華様が聞いたら怒るぞ」
「いつものことだ」
尊徳は前方の暗い山道を見据えたまま、低く言った。
「だが厄介だな」
「あ?」
「麗華様を攫った理由だ」
海斗は窓の外を見たまま、答えなかった。
尊徳は続ける。
「二階堂家の娘であり、源蔵様の後継でもある。人質としての価値が高すぎる」
「だから攫われたんだろ」
「それだけじゃない」
尊徳の声が少し硬くなった。
「二階堂家の資金。お前という護衛。さらに雅樹。
月城たちは、その三つを同時に利用している」
海斗の目がわずかに細くなる。
「麗華様を攫えば、源蔵様を揺さぶれる。
二階堂家の財力を盾にできる。そして、お前を必ず引きずり出せる」
「……」
「おまけに雅樹がいる。あの男がお前を試したがっているなら、麗華様以上の餌はない」
海斗は文庫本を閉じた。
「つまり麗華は、金とオレと親父をまとめて動かすための札ってわけか」
「そういうことだ」
尊徳はハンドルを握る手に力を込めた。
「だから余計に厄介だ。これはただの誘拐じゃない。
二階堂家への脅迫であり、海斗を白銀禁止区域へ呼び込むための罠でもある」
海斗は短く笑った。
「上等だ」
「笑うところじゃない」
「罠なら踏み潰せばいい」
「お前は本当に単純だな」
「分かりやすいだろ」
「それと、もう一人いる」
尊徳が運転しながら言った。
「もう一人?」
「高度育成高等学校の生徒だ。綾小路清隆」
その名前を聞いて、海斗は少しだけ目を細めた。
「綾小路清隆……」
「知ってるのか?」
「名前だけな」
海斗は窓の外を見たまま答えた。
「麗華様を連れ去った連中が、その男も呼び出してる。
月城とかいう男の本命は、たぶんそいつだ」
「本命?」
「ホワイトルームの最高傑作だとさ」
尊徳は短く言った。
海斗は本を閉じた。
「最高傑作ねぇ」
その声に、わずかな興味が混じった。
「面白そうな奴だな」
「遊びに行くんじゃないぞ」
「分かってる。麗華を助けるのが先だ」
海斗はそう言ってから、少しだけ笑った。
「ただ、その綾小路って奴にも会ってみたい。
月城がそこまで欲しがる男なら、退屈はしなさそうだ」
車は山道を進む。
やがて、遠くの山の影に白い光が見えてきた。
白銀禁止区域。
海斗は目を細めた。
「見えてきたな」
「ここから先は警備網があるはずだ」
「なら降りる」
「正面突破する気か?」
「まさか」
海斗は笑った。
「ピッキングは得意なんだ」
尊徳はため息をついた。
「お前の得意は、だいたい犯罪の匂いがするな」
「便利ならいいだろ」
「よくない」
車が停まった。
海斗はドアを開ける。
夜の空気が流れ込む。
彼は腰の拳銃を確認し、バッグを肩にかけた。
尊徳は窓を開けた。
「無茶するなよ」
「無茶しに行くんだろ」
「麗華様を連れて帰れ」
「ああ」
海斗は歩き出した。
数歩進んでから、振り返らずに言った。
「ヘリ、用意しとけ」
尊徳は苦笑した。
「了解」
海斗は闇の中へ消えた。
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