ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
白い光が、保守通路の奥から滲んでいた。
赤い非常灯と黒煙と火花に満ちた
地下区画を抜けてきた朝霧海斗にとって、その白さは異様だった。
明るいのに温度がない。
安全そうに見えるのに、安心がない。
病院の廊下にも似ていた。
研究施設にも似ていた。
だが最も近いのは、誰かの意志で磨き上げられたチェス盤だった。
床は白く、壁も白く、天井の照明も白い。
ところどころに黒いラインが走っている。
それが床の区画を分け、通路の曲がり角を示し、
監視カメラの死角をわずかに隠している。
海斗は一歩進む前に、麗華を背後へ下がらせた。
「海斗……?」
二階堂麗華は不安げに声を漏らした。
宝泉から逃れた直後の彼女は、まだ足元が安定していなかった。
長時間の拘束。
緊張。
恐怖。
そして、目の前で海斗が傷ついていく光景。
それらが身体の奥に残っている。
それでも麗華は、ただ震えているだけではなかった。
彼女は海斗の背中越しに白い通路を見つめ、唇を結んでいる。
自分が守られるだけの存在ではないと、そう言いたげな目だった。
「ここから先は、走るな」
海斗は短く言った。
「どうして?」
「走らされる場所だからだ」
麗華はその言葉の意味をすぐには理解できなかった。
だが、次の瞬間、理解する必要すらなかった。
通路の奥で、静かな拍手が鳴った。
乾いた音ではない。
嘲笑でもない。
まるで舞台の幕が上がったことを祝うような、ゆっくりとした拍手だった。
「お見事です、朝霧海斗さん」
坂柳有栖の声が響いた。
姿は見えない。
壁面スピーカーからでもない。
通路のどこかに反響している。
いや、複数のスピーカーから同時に流れているのだろう。
声の位置が特定できない。
麗華の肩がわずかに震えた。
海斗は周囲を見た。
監視カメラ。
天井の換気口。
壁面の小さなセンサー。
床の黒いライン。
そのすべてが、ただの設備には見えなかった。
「龍園くんを退け、宝泉くんを突破し、二階堂さんを救出する」
坂柳の声は穏やかだった。
「荒々しい展開ではありましたが、結果だけ見れば美しい進行です」
海斗は無言だった。
「けれど、ここから先は同じようにはいきません」
坂柳は微笑んでいるのだろう。
声だけで分かった。
「暴力は単純です。正面から来る。
壊そうとする。押し潰そうとする。だから、強くても読みやすい」
白い通路の奥で、カチリと音がした。
海斗は麗華の腕を引いた。
直後、壁面の一部が開き、横から非殺傷弾が発射された。
ゴム弾。
だが至近距離で当たれば骨を痛める威力はある。
海斗は麗華を抱えるようにして床へ伏せた。
弾が頭上を通過し、反対側の壁に当たって跳ねる。
一発ではない。
二発。
三発。
角度を変えて撃ち込まれる。
海斗は麗華を壁際へ押し込み、自分の身体で射線を遮った。
「海斗!」
「動くな」
海斗の声は低い。
だが焦ってはいない。
彼は壁の開口部を見た。
そこから銃口は見えない。
遠隔操作式。
しかも一方向ではなく、複数の位置から撃てるようになっている。
「ご安心ください」
坂柳の声が続く。
「殺傷用ではありません。少なくとも、今は」
麗華の表情が強張る。
「今は……?」
「ええ。これは試験ですから」
坂柳は静かに言った。
「あなたが二階堂さんをどれだけ守れるのか。
そして、守るためにどれだけ判断を誤るのか」
海斗は麗華を立たせた。
「行くぞ」
「うん」
二人はゆっくり進み始めた。
走らない。
止まりすぎない。
海斗は床の黒いラインを踏まないように歩いた。
麗華もそれに気づき、海斗の足元を見ながら動く。
「ラインは踏まない方がいいの?」
「おそらく圧力センサーだ」
「全部?」
「全部とは限らない」
「じゃあ……」
「踏ませたい線と、踏ませたくない線が混ざっている」
麗華は息を呑んだ。
その意味が分かったからだ。
単純な罠なら避ければいい。
だが、本物の罠は避けようとする思考すら利用する。
踏んではいけない線。
踏まないと進めない線。
踏むことで何も起こらない線。
そして、踏まないことによって作動する罠。
坂柳有栖は、そういう戦い方をしてくる。
海斗は通路の角で足を止めた。
曲がり角の先は見えない。
だが、壁に映った光の揺れで、奥に何かがあることは分かった。
海斗は床に落ちていた小さな破片を拾い、曲がり角の先へ投げた。
破片が床に落ちる。
カツン。
何も起こらない。
麗華がわずかに息を吐いた。
だが海斗は動かなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
その直後、天井から金属製のシャッターが落ちてきた。
破片が落ちた位置ではない。
海斗たちが進もうとしていた手前の位置に。
もしすぐに進んでいれば、二人は分断されていた。
麗華の顔から血の気が引いた。
坂柳の声が笑みを含む。
「慎重ですね」
海斗は冷静に言った。
「今のは分断が目的か」
「ええ」
坂柳は素直に認めた。
「二階堂さんをあなたから切り離せば、あなたは冷静ではいられないでしょう?」
麗華は海斗を見た。
海斗は表情を変えない。
だが、麗華には分かった。
坂柳は正しい。
海斗は自分が危険になることには驚くほど冷静だ。
だが麗華が危険に晒されれば、選択肢は狭まる。
守るという役割は強さであると同時に、弱点にもなる。
坂柳はそこを狙っている。
一方、地下中央制御区画では、
綾小路清隆と司馬の戦いがさらに静かな領域へ入っていた。
派手な音は少ない。
だが危険度は高い。
司馬の拳が綾小路の顔面を狙う。
綾小路は首を傾けるだけで避け、司馬の手首へ指をかけた。
そのまま関節を取る。
司馬は即座に肘を畳み、逆に肩から圧をかける。
綾小路は下がらない。
半歩だけ内側へ入り、司馬の重心を崩そうとする。
だが司馬は崩れない。
膝。
肩。
肘。
視線。
呼吸。
すべてが戦闘のために整っている。
月城はその攻防を見ながら、満足そうに目を細めていた。
「素晴らしいですね」
綾小路は無言で司馬の攻撃を受け流す。
「あなたと司馬先生の戦いは、非常に合理的です。
無駄がなく、美しい。ですが、やはり人間は合理性だけでは動かない」
月城はモニターを見た。
そこには、海斗と麗華が坂柳の罠を避けながら進む姿が映っている。
「朝霧くんは二階堂さんを守るためなら、
合理性を手放す可能性がある。そこが彼の美点であり、弱点です」
綾小路は一瞬だけモニターを見た。
海斗はまだ冷静だ。
麗華も崩れていない。
なら、問題はない。
今、自分がすべきことは堀北を救うことだった。
隔離室の中で、堀北鈴音は指先を動かしていた。
拘束具の一つは緩んだ。
完全には外れていない。
だが右手は少し動く。
床に落ちたプラスチック片を引き寄せ、手首のロック部分へ差し込む。
痛みはある。
指の皮膚が擦れ、爪が軋む。
それでも堀北は表情を変えなかった。
綾小路は戦っている。
海斗は別の場所で麗華を守っている。
自分だけが何もしないまま待つことはできない。
堀北は呼吸を整えた。
月城の視線は綾小路に向いている。
司馬は戦闘に集中している。
監視カメラはある。
だが、拘束具の細かな動きまでは見ていない可能性がある。
ならば、今しかない。
カチリ。
小さな音がした。
右手首の拘束が外れた。
堀北は目だけで周囲を見る。
月城は気づいていない。
いや、気づいていないように見える。
それが罠かどうかは分からない。
だが、止まる理由にはならない。
堀北は左手の拘束へ手を伸ばした。
その瞬間、月城が静かに言った。
「堀北さん」
堀北の動きが止まる。
月城は振り返らずに続けた。
「あなたが何かをしようとしていることくらいは、分かっていますよ」
綾小路の視線がわずかに動いた。
司馬の拳がそこへ差し込まれる。
綾小路は反応が半拍遅れた。
拳が肩口をかすめる。
衝撃。
綾小路は後退しながら体勢を戻した。
月城は笑った。
「やはり、堀北さんは有効ですね」
堀北は唇を噛んだ。
自分の行動が綾小路の隙を作った。
それは理解していた。
だが、同時に綾小路も理解していた。
堀北が動かなければ、この状況は変わらない。
月城はそれを利用している。
綾小路は淡々と言った。
「続けろ、堀北」
堀北は目を見開いた。
月城もわずかに眉を上げた。
「良いのですか?」
「構わない」
綾小路は司馬から目を離さずに言った。
「そのために来た」
堀北の胸に、熱いものが走った。
助けられるだけではない。
信じられている。
それは綾小路らしくない言葉ではなかった。
むしろ、彼らしい計算だった。
だが、堀北にはそれで十分だった。
「分かったわ」
堀北は小さく答えた。
そして、左手の拘束へ手を伸ばした。
白い通路では、海斗と麗華が次の区画へ到達していた。
そこは広い円形のホールだった。
中央に黒い床。
周囲に白い壁。
天井にはいくつもの照明。
そして壁面には、複数の扉があった。
扉には番号が振られている。
一番。
二番。
三番。
四番。
五番。
六番。
どの扉が出口なのか分からない。
坂柳の声が響く。
「さて、朝霧さん」
ホールの中央に、立体映像のように坂柳有栖の姿が浮かび上がった。
実体ではない。
ホログラム。
杖を手に、穏やかな笑みを浮かべている。
「ここで問題です」
海斗は麗華を背後に置いたまま、ホログラムを見た。
「六つの扉のうち、出口は一つだけです」
坂柳は続ける。
「二つは行き止まり。二つは退学者の待ち伏せ。
一つは防火シャッターによる分断。そして一つが正解」
麗華が息を呑む。
「選べってこと……?」
「はい」
坂柳は微笑んだ。
「ただし、時間制限があります」
ホールの壁にカウントダウンが表示された。
五分。
「五分以内に選ばなければ、ホール内の酸素濃度が低下します」
麗華の顔色が変わった。
「そんな……!」
「もちろん、すぐに命に関わる濃度ではありません」
坂柳は穏やかに言った。
「けれど、朝霧さんの判断力を鈍らせるには十分です」
海斗はホール全体を見た。
扉の配置。
床のライン。
天井のセンサー。
換気口。
監視カメラ。
壁の傷。
扉の下から漏れる空気。
音。
温度。
匂い。
情報は多い。
だが、坂柳が用意した情報は多すぎる。
多すぎる情報は、時に無情報と同じになる。
麗華は海斗の横に並ぼうとした。
海斗はそれを制止しようとする。
だが麗華は小さく首を振った。
「私も見る」
「危険だ」
「見ているだけならできる」
海斗は一瞬だけ彼女を見た。
麗華の目は震えていた。
だが逃げてはいなかった。
「分かった」
海斗は短く言った。
「扉の下を見ろ。風の流れ、埃の動き、音。違和感があれば言え」
麗華は頷いた。
二人は別々に情報を拾い始めた。
坂柳のホログラムは楽しそうにそれを見ている。
「良いですね」
坂柳が言った。
「守られる側が、守る側の判断に参加する。実に興味深い」
海斗は無視した。
一番扉。
扉の下に埃が溜まっていない。
空気が流れている。
だが、流れが強すぎる。
換気経路か、誘導か。
二番扉。
取っ手にかすかな傷。
最近開閉された跡。
だが傷が目立ちすぎる。
見せるための痕跡かもしれない。
三番扉。
完全に無音。
不自然なほど静か。
防音処理。
あるいは、向こう側に何もない。
四番扉。
床の黒いラインが手前で途切れている。
その途切れ方が規則的すぎる。
センサー回避を誘う罠か。
五番扉。
扉下からわずかに冷気。
冷却区画へ繋がる可能性。
だがこの施設では冷却系統が異常を起こしている。
六番扉。
壁に非常灯の反射。
扉の向こうに曲がり角があるのかもしれない。
麗華が小さく言った。
「海斗」
「何だ」
「三番だけ、扉の下に光がない」
「光?」
「他の扉は、少しだけ向こう側の明かりが漏れてる。でも三番だけ真っ暗」
海斗は三番扉を見た。
確かにそうだった。
だがそれは、三番が行き止まりだからかもしれない。
待ち伏せがいるから照明を消しているのかもしれない。
あるいは、あえて正解の通路だけ暗くしているのかもしれない。
坂柳はその程度の推理は読んでいる。
海斗は考える。
坂柳有栖なら、何を選ばせたいか。
力で突破できる相手ではない。
ならば、坂柳の目的を読む必要がある。
彼女は海斗を殺したいのではない。
少なくとも今は違う。
月城の盤面上で、朝霧海斗という駒の性質を測っている。
守る者としての判断。
麗華を抱えた状態での選択。
焦り。
信頼。
そして、綾小路清隆との違い。
海斗はホログラムの坂柳を見た。
「この問題の正解は、扉を選ぶことじゃないな」
坂柳の笑みがわずかに変わった。
麗華が海斗を見る。
「どういうこと?」
海斗は答えた。
「六つの扉は全部、坂柳が管理している。どれを選んでも、次の罠へ進むだけだ」
「じゃあ……」
「出口は扉じゃない」
海斗は天井を見た。
換気口。
このホールの換気口は、他の通路よりも大きい。
酸素濃度を下げると言った以上、換気システムはこのホールに接続されている。
つまり、空気の流れがある。
そこに保守経路がある可能性が高い。
坂柳は静かに見ていた。
海斗は壁際へ移動し、非常用消火ホースの収納箱を開けた。
ホースを取り出す。
麗華が意図を察する。
「上に行くの?」
「そうだ」
「私も?」
「一緒に行く」
海斗はホースを天井の配管へ引っかけた。
そして、麗華を先に持ち上げる。
麗華は必死に換気口の縁へ手をかけた。
海斗が下から支える。
「怖いか」
「怖い」
麗華は正直に答えた。
「でも、行く」
その言葉に、海斗は小さく頷いた。
麗華が換気口へ入り込む。
続いて海斗も上がろうとする。
その瞬間、坂柳の声が響いた。
「素晴らしい解答です」
直後、ホールの一番扉と二番扉が開いた。
退学者たちが現れる。
銃を持っている。
殺傷用ではない。
だが、ここで足止めされれば終わる。
海斗はホースを片手で掴んだまま、床に降りた。
「先に進め」
麗華が換気口から顔を出した。
「海斗!」
「すぐ行く」
「嘘つかないで」
海斗は一瞬だけ動きを止めた。
麗華の声は震えていた。
だが、怒っていた。
「すぐ行くって言って、いつも自分だけ残るじゃない」
海斗は答えに詰まった。
銃口が向く。
時間はない。
それでも、麗華の言葉は海斗の胸に届いていた。
守るということは、相手を遠ざけることではない。
生かすために離すことでもある。
だが、それを繰り返せば、守られる側は置き去りになる。
麗華はそれを分かっていた。
だから言った。
「一緒に来て」
海斗は短く息を吐いた。
そして、退学者たちへ向き直る。
「三十秒だけ待て」
「待てない!」
「なら十秒だ」
海斗は床に落ちていた破片を蹴った。
退学者の一人が反射的に撃つ。
弾は破片に当たり、軌道を変え、壁に弾かれる。
その音で一瞬、全員の意識が散った。
海斗は走った。
一人目の銃を持つ腕を払う。
二人目の足を蹴る。
三人目の胸を押して、後続の進路を塞ぐ。
倒すのではない。
進ませない。
撃たせない。
それだけに絞った動きだった。
十秒。
海斗はホースを掴み、身体を引き上げた。
麗華が中から手を伸ばす。
海斗はその手を掴んだ。
白いホールの床で、退学者たちが再び銃を構える。
だが遅い。
海斗の身体は換気口へ消えた。
直後、ホールに白いガスが流れ込む。
視界が遮られる。
坂柳のホログラムだけが、霞の中で微笑んでいた。
「合格です、朝霧さん」
その声は、楽しげだった。
「ですが、次はもう少し難しくしましょう」
換気ダクトの中で、麗華は海斗の手を強く握っていた。
狭い。
暗い。
冷たい。
だが、ホールよりは安全だった。
少なくとも今は。
麗華は前を進みながら、小さく言った。
「ねえ、海斗」
「何だ」
「さっき、私を置いて行こうとしたでしょ」
「……必要ならそうした」
「必要じゃない」
麗華は振り返らずに言った。
「私は、あなたに守られたい。でも、あなたがいなくなるのは嫌」
海斗は黙った。
麗華は続ける。
「だから、次は一緒に逃げて」
海斗はしばらく答えなかった。
そして、短く言った。
「分かった」
麗華は少しだけ安心したように息を吐いた。
だが、その会話を、坂柳は聞いていた。
換気ダクトの先に設置された小型マイク。
監視カメラ。
熱感知センサー。
すべてが二人の動きを追っている。
白い別室で、坂柳有栖は椅子に座っていた。
膝の上に杖を置き、目の前の複数のモニターを眺めている。
その横には、数名の退学者が控えていた。
銃を持っている者。
端末を操作する者。
扉の開閉を管理する者。
だが、坂柳自身は一歩も動いていない。
彼女は盤面を動かしているだけだった。
「なるほど」
坂柳は楽しそうに呟いた。
「朝霧さんは、綾小路くんとは違う形で厄介ですね」
モニターの一つには、管制室の綾小路が映っている。
司馬と戦いながらも、堀北の動きを計算に入れている。
もう一つには、換気ダクトを進む海斗と麗華。
坂柳は二つの映像を交互に見た。
「綾小路くんは、必要なものを選びます」
坂柳は静かに言った。
「朝霧さんは、失いたくないものを守ります」
それは似ているようで違う。
同じ合理性に見えて、根本が違う。
だからこそ、入れ替えれば面白い。
坂柳は端末に手を伸ばした。
白い指先が画面をなぞる。
すると、施設の一部の扉が切り替わった。
換気ダクトの出口。
保守通路。
中央制御区画への連絡通路。
隔離室の緊急経路。
それらが、静かに組み替えられていく。
「では、少し配置を変えましょう」
坂柳は微笑んだ。
「二階堂さんを綾小路くんの元へ」
別の画面で、通路のルートが変わる。
「堀北さんを朝霧さんの元へ」
さらに別のロックが解除される。
「守る相手が変わった時、あなた方はどう動くのでしょうね」
その頃、中央制御区画では、堀北がついに左手の拘束も外していた。
両手が自由になった。
足の拘束はまだ残っている。
だが、緊急解除レバーには届く。
堀北は壁際へ身体を伸ばした。
指先がレバーに触れる。
その瞬間、月城が振り返った。
「そこまでです」
月城が端末を操作する。
隔離室の床が動いた。
堀北の椅子ごと、床の一部が後方へ滑る。
「なっ……!」
堀北は思わず声を上げた。
隔離室の背面が開く。
その先に、暗い非常通路が現れた。
月城は微笑んだ。
「申し訳ありません。堀北さんには、少し別の場所へ移動していただきます」
綾小路が動こうとする。
だが司馬が立ちはだかる。
司馬の拳が綾小路の進路を塞ぐ。
綾小路は司馬の腕を払う。
しかし、月城はすでに操作を終えていた。
隔離室の背面扉が閉じる。
堀北の姿が消える。
綾小路の目がわずかに細くなった。
月城は楽しそうに言った。
「ご心配なく。堀北さんの移動先には、朝霧くんが向かっています」
綾小路は月城を見た。
「坂柳の提案か」
「ええ」
月城は素直に認めた。
「彼女は非常に興味深いことを考えます。
あなたが二階堂さんを守り、朝霧くんが堀北さんを守る。
少しだけ盤面を変えるだけで、人間の本質は見えやすくなる」
綾小路は何も言わなかった。
だが、状況は理解していた。
月城と坂柳は、単に人質を利用しているわけではない。
自分たちの判断を観察している。
どこで焦るか。
どこで切り捨てるか。
どこで信じるか。
そして、誰を守る時に最も弱くなるか。
司馬が再び踏み込む。
綾小路はその攻撃を避けながら、頭の中で新しい配置を組み直した。
堀北が海斗側へ移動。
麗華がこちら側へ誘導される。
ならば、自分がすべきことは変わる。
堀北を追うのではない。
麗華を確保し、海斗が堀北を保護できる時間を作る。
それが最も合理的だった。
一方、換気ダクトを進んでいた海斗と麗華は、突然床の傾きに気づいた。
「海斗、これ……」
「ルートが変わった」
足元のダクトが振動し、分岐の一つが閉じる。
別の分岐が開く。
明らかに遠隔操作だった。
海斗は麗華の腕を掴み、滑り落ちないように支えた。
だが、その直後、ダクトの床板が一部開いた。
麗華の足元。
「麗華!」
海斗は手を伸ばした。
麗華も手を伸ばした。
指先が触れる。
だが、床板の角度が急すぎた。
麗華の身体が下へ滑る。
海斗は彼女の手首を掴んだ。
ダクトの縁に片腕をかけ、全身で支える。
麗華の身体は宙に浮いている。
下には別の通路が見える。
それほど高くはない。
だが、落とされる場所が問題だった。
海斗は引き上げようとした。
しかし、同時にダクト内に警告音が鳴る。
背後からシャッターが迫ってくる。
このままでは二人とも潰される。
麗華は海斗を見上げた。
「手を離して」
「駄目だ」
「下、そんなに高くない。私なら大丈夫」
「駄目だ」
「海斗!」
麗華の声が強くなる。
「一緒に逃げるって言ったでしょ!」
海斗の表情が揺れた。
離せば、麗華は落ちる。
離さなければ、二人とも閉じ込められる。
坂柳の罠。
選ばせる罠。
守る者に、守るための犠牲を選ばせる罠。
海斗は歯を食いしばった。
そして、麗華の手を離した。
ただし、落としたのではない。
最後の瞬間、手首を押し、落下の角度を変えた。
麗華の身体は真下ではなく、斜め下の緩衝マットのような資材の上へ落ちた。
痛みはあるだろう。
だが大きな怪我はない。
麗華は咳き込みながらも、すぐに顔を上げた。
「海斗!」
シャッターが閉じる。
二人の間が遮断される。
海斗は拳を握った。
だが、すぐに動いた。
立ち止まっている時間はない。
麗華は別ルートへ送られた。
なら、彼女の先に誰がいるのか。
海斗は分かっていた。
綾小路清隆。
坂柳がそう配置したなら、麗華は綾小路の元へ向かう。
同時に、自分の先には別の誰かがいる。
海斗はダクトの先へ進んだ。
数十秒後、彼は別の通路へ降り立った。
そこは赤い非常灯の通路だった。
白い坂柳の区画とは違う。
中央制御区画へ繋がる緊急搬送路。
その奥に、椅子ごと移動させられた堀北鈴音がいた。
足の拘束はまだ残っている。
だが両手は自由になっている。
堀北は海斗を見た。
海斗も堀北を見た。
一瞬、二人の間に沈黙が落ちた。
互いに、相手がここにいる理由を理解した。
「朝霧海斗さんね」
堀北が言った。
「堀北鈴音だな」
海斗は周囲を確認しながら近づいた。
「綾小路は?」
「月城と司馬先生の相手をしているわ」
「麗華は?」
「おそらく綾小路くんの方へ回された」
堀北は短く答えた。
海斗は頷いた。
その頃、別の通路では、二階堂麗華が立ち上がっていた。
足首に痛みがある。
だが折れてはいない。
彼女は周囲を見た。
白い通路ではない。
赤い非常灯の通路。
壁には中央制御区画への表示。
そして、その先から戦闘音が聞こえる。
麗華は息を整えた。
「海斗……」
不安はある。
だが、今は進むしかない。
麗華が壁に手をつきながら歩き出した時、通路の先に人影が現れた。
綾小路清隆だった。
彼は司馬との戦闘を一時的に離脱したのか、
あるいは坂柳の配置転換を読んで先回りしたのか、
何事もなかったようにそこに立っていた。
麗華は驚いたように目を見開く。
「綾小路……清隆」
「怪我は?」
綾小路は短く聞いた。
「足を少し。でも走れる」
「なら問題ない」
麗華は思わず苦笑しそうになった。
海斗なら、まず大丈夫かと聞いた。
綾小路は走れるかどうかを聞いた。
冷たい。
だが、状況判断としては正しい。
「海斗は?」
麗華が聞いた。
「堀北の方へ向かった」
「無事?」
「少なくとも、今は」
麗華は唇を噛んだ。
綾小路は彼女の表情を見た。
「心配するなとは言わない」
麗華は綾小路を見る。
「海斗は堀北を守る。オレはお前を守る。それが今の最適解だ」
その言葉は、優しくはなかった。
だが、不思議と安心できた。
綾小路清隆は感情で励まさない。
できないことをできるとも言わない。
だからこそ、彼が言う「守る」は軽くなかった。
麗華は頷いた。
「分かった」
綾小路は通路の奥を見た。
「行くぞ」
その瞬間、白銀禁止区域の中で、盤面が完全に入れ替わった。
朝霧海斗は堀北鈴音を守る。
綾小路清隆は二階堂麗華を守る。
坂柳有栖は、その変化を静かに見つめていた。
「さて」
坂柳はモニター越しに微笑んだ。
「ここからが本当の中盤戦です」
そして、白いチェス盤の上で、次の駒が動き始めた。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。