ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第3話 狩人

赤い非常灯に照らされた廊下は、先ほどまで人が行き交い、

資材が運ばれ、文化祭前夜らしい喧騒を残していた空間とはもはや別物で、

床に落ちた紙片や装飾用の布や開きっぱなしの段ボール箱までもが、

いまや視界を乱し、足を止め、気配を隠し、

逆に誰かの存在を暴き出すための障害物へと性質を変えていた。

 

綾小路清隆は奪った拳銃を片手に、

暗く細長い廊下の角へ背を預けながら、ゆっくりと呼吸を整えていた。

 

さきほど二人の生徒から武器を奪ったことで、

最低限の防御手段は手に入れた。

 

だが、それは有利を得たことと同義ではない。

 

この校舎にはすでに複数の武装勢力が存在している。

 

龍園のように状況へ即応した者。

坂柳のように最初から盤面として処理する者。

 

そして一年生側――宝泉、天沢、七瀬のように、

綾小路清隆という個体そのものに異常な執着、

あるいは命令上の必然を持つ者たち。

 

彼らはただの「参加者」ではない。

 

この夜そのものの推進力だ。

 

遠くで誰かの悲鳴が聞こえた。

 

短く、喉の奥で途切れるような声だった。

 

それが怪我によるものなのか、

仲間の死を見たことによるものなのかは、この距離では判断できない。

 

しかし一つだけ確かなのは、いまこの校舎の中では、

正常な理屈が秒単位で失われているということだった。

 

綾小路は壁際に設置された校内案内図へ視線を向けた。

 

普段なら誰も意識しないような、フロア構成を簡略化しただけの印刷物。

 

だが今は違う。

 

教室棟、特別教室棟、資料室、放送室、生徒会室、体育館へ続く渡り廊下、

そして文化祭準備のため解放されている予備教室や控え室。

 

動ける経路と、封鎖されているはずの防火シャッターの位置を頭の中で重ねる。

 

堀北たちは教室棟二階のあの教室に拘束されている可能性が高い。

 

龍園と坂柳がその場を共有しているのは不自然に見えるが、

綾小路を狩るという目的が一致している限り、互いに人質を共有し、

情報と脅しの材料として使う程度の合理性はある。

 

問題は、それがいつまで保つかだ。

 

報酬は一つしかない。

 

綾小路を殺した者だけが勝者。

 

その条件は、いずれ確実に彼ら同士の衝突を生む。

 

ただし、それを待つだけでは遅い。

 

人質側が先に壊れる。

 

石崎、幸村、神崎。

 

短時間のうちに三人が命を落とした。

 

この事実は校舎全体にまだ正確には伝わっていないだろうが、

局地的な恐怖は確実に広がっている。

 

生徒はパニックになる。

 

誰かが逃げる。

 

誰かが撃つ。

 

そうなれば、理性ではなく偶発で人が死ぬ。

 

そこに坂柳の計算も龍園の支配もなくなる。

 

綾小路は拳銃の重みを確かめるように手の中でわずかに角度を変えた。

 

まだ手に馴染んでいるとは言い難い。

 

ホワイトルームで得た技術が役立たないわけではない。

 

ただし、ここは訓練施設ではない。

 

相手もまた完全な兵士ではなく、生徒であり、素人であり、感情に揺れ、

恐怖に飲まれ、時に躊躇なく線を越える不安定な存在だ。

 

その不安定さこそが最も危険だった。

 

正面からぶつかるべきではない。

 

少なくとも今は。

 

綾小路は足音を殺しながら廊下を進み、

曲がり角の先にある資料準備室の扉へ寄った。

 

中に人の気配はない。

 

扉をわずかに開く。

 

暗い室内には文化祭用の備品が積まれていた。

 

ポスター用の長机、折りたたみ椅子、布幕、プラスチック製の装飾品、

工具、ビニール紐、ガムテープ、延長コード。

 

使えるものは多い。

 

綾小路はガムテープと紐、カッター、そして重めの工具を一つ確保した。

 

武器というより、状況を操作するための道具だ。

 

それから延長コードの一部を抜き取り、小さくまとめて懐へ入れる。

 

使えるかどうかは分からない。

 

だが、何も持たないよりはいい。

 

その時、スピーカーからノイズが走った。

 

綾小路は即座に動きを止めた。

 

数秒後、聞こえてきたのは月城の声ではなかった。

 

『あー、あー。聞こえますかー?』

 

天沢一夏。

 

明るく軽い、場違いなほど無邪気な声だった。

 

『校内のみなさーん、楽しい鬼ごっこしてますかー?

綾小路せんぱい、聞こえてますよね?』

 

綾小路は黙ったまま天井のスピーカーを見上げた。

 

放送室を押さえたか。

 

あるいは坂柳側が制御権を握った上で、一時的に使わせているのか。

 

どちらにせよ、よくない。

 

『先輩って、ほんとに逃げるの上手ですよねえ。

でもでも、あんまり女の子を待たせるのは良くないと思いますよ?

あたし、けっこう本気で会いたいんですから』

 

軽く笑う声。

 

その裏にあるものを知らない生徒が聞けば、

ただの悪趣味な放送にしか聞こえないかもしれない。

 

だが綾小路にとって、その声音は危険信号だった。

 

天沢は楽しんでいる。

 

命令で動いているだけではない。

 

この状況の中に、自分の欲望や遊びを混ぜている。

 

『それとー、逃げ回ってる人たちにひとつだけアドバイスです。

綾小路せんぱいを見つけたら、ちゃんとすぐ撃ってくださいね?

見つめ合っても、説得しても、たぶん無駄なので』

 

そこで一度、放送が途切れた。

 

すぐに別の声が割り込む。

 

低く、太い声だった。

 

『おい綾小路パイセン』

 

宝泉和臣。

 

スピーカー越しでも分かる、押し潰すような威圧感。

 

『逃げんのはいいが、あんまりつまんねえ真似すんなよ。

見つけたら今度こそ真正面から潰してやる』

 

背後で笑い声がした。

 

おそらく天沢だ。

 

次に聞こえたのは、七瀬翼の声だった。

 

『……綾小路先輩。聞こえているなら、どうか軽率に動かないでください』

 

その声だけが、奇妙なほど静かだった。

 

『今の校舎は、もう普通の学校ではありません。

あなたが知っている人たちも、知っているままではいられないかもしれない』

 

そこで一瞬、七瀬は言葉を切った。

 

何かを飲み込んだような沈黙。

 

『……どうか、見誤らないでください』

 

放送は切れた。

 

綾小路はゆっくりと息を吐いた。

 

七瀬はまだ完全には壊れていない。

 

だが、敵であることに変わりはない。

 

それに、彼女の言葉には別の意味もあった。

 

「知っている人たちも、知っているままではいられない」

 

すでに誰かが撃った。

 

誰かが死んだ。

 

そして、今もなお、線を越えつつある者たちがいる。

 

綾小路は資料室を出て、廊下の奥へ進んだ。

 

進行方向の先にあるのは、二階東端に近い予備教室群だ。

 

文化祭準備のため、各クラスが一時的に荷物置き場や

更衣スペースとして使用している部屋が並ぶ区域で、

普段より人の出入りが多く、その分だけ死角も増えている。

 

気配があった。

 

綾小路はすぐに壁際へ身を寄せ、扉の影へ沈む。

 

足音は三人分。

 

一人は靴音が軽い。

一人は無駄に大きい。

 

もう一人は神経質なほど慎重だ。

 

会話が聞こえる。

 

「……ほんとにこのへんにいるのかよ」

 

男子生徒の声だった。

 

一年生だろう。

 

「いるかもしれない、ってだけです。

でも放送後にこの辺の気配が一度消えています。

逆に言えば、まだ近くに潜んでいてもおかしくないです」

 

七瀬。

 

落ち着いた声音。

 

「じゃあ俺が先に行く」

 

宝泉。

 

躊躇がない。

 

「待ってください。一直線に行けば、あなたが一番先に狙われます」

「そりゃ上等だろ」

「上等ではありません。今の目的は倒すことではなく見つけることです」

「細けえな」

 

会話の位置からして、三人はちょうど綾小路の隠れている角へ向かってきていた。

 

あと数歩で視界に入る。

 

綾小路は廊下の脇に積まれた段ボール箱へ視線を走らせた。

 

中身は軽い。

 

使える。

 

足音が近づく。

 

綾小路は一つの箱を静かに持ち上げ、

逆方向の曲がり角へ向けて滑らせるように放った。

 

箱は廊下を滑り、壁に当たって大きな音を立てた。

 

反射的に宝泉の足音がそちらへ向く。

 

「いたか!」

 

その一瞬の乱れ。

 

綾小路は角を回り、七瀬のすぐ横をすり抜けるように低く踏み込んだ。

 

七瀬が息を呑む。

視線が合う。

 

彼女は撃たなかった。

 

その一瞬の躊躇を置き去りにし、

綾小路は宝泉の背中へ向けて箱の陰から工具を投げた。

 

当てるためではない。

 

視線を切るためだ。

 

宝泉が振り返る。

 

その前に綾小路は廊下の反対側へ走り、近くの空き教室へ飛び込んだ。

 

「綾小路ィ!」

 

宝泉の怒声。

 

銃声はなかった。

 

七瀬が制したか、天沢が面白がって撃たせなかったか。

 

どちらにせよ助かった。

 

綾小路は空き教室の扉を閉め、机の列を利用して窓際へ移動した。

 

文化祭用の装飾途中の教室だった。

 

紙花、未完成の看板、暗幕、画鋲、ペンキの匂い。

黒板には明日の予定がまだ途中まで書かれている。

 

その日常の痕跡が、かえって異様だった。

 

外の廊下を宝泉が通り過ぎていく気配がする。

 

勢いがある分、追跡は直線的だ。

 

一方で七瀬の足音は少し遅れ、教室ごとの配置を確認するように丁寧だった。

 

天沢は――気配を殺している。

 

そのことが一番厄介だった。

 

綾小路は教室後方の掃除用具入れに目を向けた。

 

狭い。

 

だが一時的な遮蔽にはなる。

 

使うかどうかを判断する前に、廊下側の窓にふっと影が映った。

 

天沢だった。

 

教室の小窓越しに、にこにことこちらを覗き込んでいる。

 

見つかった。

 

だが彼女はすぐには開けなかった。

 

口元だけで笑う。

 

それから、人差し指を唇に当てて見せた。

 

遊んでいる。

 

綾小路は即座に教室後方の扉へ向かった。

 

その瞬間、前方の扉が勢いよく開いた。

 

宝泉が入ってくる。

 

「見つけたぜ!」

 

綾小路は横へ飛んだ。

 

直後、宝泉の腕が机を掴み、そのまま力任せに薙ぎ払う。

机が床を滑り、椅子が弾かれ、教室の静寂が一瞬で破壊される。

 

拳銃を向ける距離ではない。

宝泉は撃つより先に殴りに来る。

 

綾小路は倒れた机を踏み台にし、反対側へ回り込んだ。

 

宝泉の巨体が近い。

真正面から受ければ終わる。

 

だが教室は狭い。

障害物は多い。

 

それは宝泉にとっても同じだ。

 

綾小路は暗幕を引き寄せ、宝泉の視界へ投げつけた。

 

一瞬、視界が遮られる。

 

その隙に間合いを切る。

 

しかし直後、横から椅子が飛んできた。

 

天沢。

 

笑いながら教室後方の扉から入ってきていた。

 

「先輩、冷たーい。会いに来たのに」

 

椅子は直撃こそ避けたが、綾小路の肩をかすめ、壁へ当たって鈍い音を立てた。

 

挟まれた。

 

正面に宝泉。

後方に天沢。

廊下には七瀬。

 

ここで撃ち合えば、人質側への接近はさらに遠のく。

 

綾小路は一瞬だけ床を見る。

さっき倒れたペンキ缶が転がっていた。

 

綾小路はそれを足で蹴り上げる。

缶は宝泉の足元で倒れ、中身が床に広がる。

 

宝泉が踏み込み、わずかに体勢を崩した。

 

その瞬間、綾小路は前へ出た。

 

宝泉の横を抜ける。

 

肩がぶつかる。

衝撃は重い。

 

だが止まらない。

 

宝泉が振り向くより先に、綾小路は教室の外へ出た。

 

廊下には七瀬がいた。

銃口が上がる。

 

二人の視線がぶつかる。

七瀬は撃てる位置にいた。

それでも、やはり殺意が無いのか一瞬だけ遅れた。

綾小路はその間に彼女の懐へ入り、手首を逸らし、銃口を床へ向けさせる。

 

発砲音。

 

弾は床を削った。

 

七瀬が歯を食いしばる。

 

「先輩……!」

 

綾小路は彼女を突き飛ばしたわけではない。

 

そこに割り込む余地が生まれた。

 

ただ進路から外した。

 

そのまま渡り廊下方面へ走る。

 

後ろで宝泉の怒声が響く。

 

「逃がすんじゃねえ!」

 

だが追い詰めるには廊下が狭い。

 

文化祭用の荷物が邪魔をする。

 

その雑然さが綾小路を助けた。

 

渡り廊下の手前で、綾小路は一度足を止めた。

 

ガラス張りの通路の向こうに、体育館棟へ続く暗い影が見える。

 

だがそこへ向かう前に、教室棟二階の人質側の状況を確認しておく必要がある。

 

さきほどの教室へ直接戻るのは危険だが、

真上や斜め位置からなら様子を探れるかもしれない。

 

綾小路は渡り廊下へは進まず、階段脇の小さな作業スペースへ身を滑り込ませた。

 

そこからなら、遠回りで人質教室の近くへ再接近できる。

 

その時だった。

 

低く押し殺した泣き声が聞こえた。

 

階段下の陰に、女子生徒が二人うずくまっていた。

 

二人とも見覚えのある二年生だった。

 

どちらも顔面蒼白で、手には端末を握っているが

圏外表示の画面を見つめたまま動けずにいる。

 

綾小路の気配に気づくと、二人はびくりと肩を震わせた。

 

「……綾小路くん?」

「静かに」

 

短く言う。

 

二人は必死に頷いた。

 

「撃たないで……」

「撃つつもりはない。ここにい続けるほうが危険だ。

西側の資料室に行け。扉は閉めて、中から机で塞げ」

「で、でも……」

「走れ。今ならまだ見つかっていない」

 

綾小路の声には感情を乗せなかった。

 

恐怖に飲まれている相手には、慰めより指示のほうが機能する。

二人は互いに支え合うように立ち上がり、小さく頷くと震える足で走っていった。

 

助けられる人数には限界がある。

 

それでも、放置すれば偶然の犠牲になる。

 

その判断だけはできる。

 

綾小路は再び移動を始めた。

 

階段を半階分だけ上がり、三階の踊り場から下を見下ろす。

人質教室のある二階廊下が斜めに見える位置だ。

赤い非常灯の下、教室前には龍園クラスと坂柳クラスの生徒が数名ずつ立っている。

 

完全な共同管理ではない。

 

距離がある。

 

互いに互いを信用していない配置だ。

 

予想通りだった。

 

そして、教室の中。

 

扉の小窓から一瞬だけ見えた。

 

壁際に座らされている複数の生徒。

 

堀北、一之瀬、軽井沢、平田、そしてひよりの姿もある。

ひよりはうつむいたまま動かない。

 

石崎の件が響いているのだろう。

 

堀北は周囲を観察していた。

表情は硬いが、目はまだ死んでいない。

 

一之瀬は隣の女子に何か囁いている。

恐怖で崩れかけている者たちを支えようとしているのが分かった。

 

その時、教室の中へ坂柳が入っていくのが見えた。

彼女はゆっくりとした足取りで人質たちの前へ進み、何かを告げた。

窓越しなので内容までは分からない。

 

だが、その直後、軽井沢が明らかに怯えた様子で身を縮めた。

 

平田が前へ出ようとして、背後の見張りに押し戻される。

 

堀北が坂柳を睨む。

ひよりは顔を上げない。

 

坂柳は微笑んだまま、教室の中央で静かに立っていた。

あれは脅しているのではない。

 

「納得させている」のだ。

 

理屈と現実で、逃げ場がないことを。

 

龍園のやり方とは違う。

恐怖で押しつぶすのではなく、絶望を理解させて黙らせる。

 

厄介なのは後者だ。

 

綾小路は視線を外し、別方向へ耳を澄ませた。

 

足音が来る。

上階からだ。

 

軽い足音が一つ。

そして、迷いのない足音がもう一つ。

 

天沢と誰か。

 

綾小路はすぐに踊り場から離れ、三階の空き教室へ移動した。

 

扉を閉める直前、廊下を横切る声が聞こえる。

 

「んー、やっぱり先輩って人質のとこ気にしますよね」

 

天沢だった。

 

「だったら近くに来るはずなんです。

そういうところ、ほんとに優しいんだか冷たいんだか分かんないですけど」

 

返事はない。

 

もう一人は七瀬ではない。

 

足音の重さが違う。

 

「喋れよ」

 

低い声。

 

宝泉ではない。

 

もっと冷たい。

 

橋本正義か、あるいは坂柳側の誰かか。

 

「別にー?ただ、あんまり追い込みすぎると面白くないなって思ってるだけです」

「遊びじゃねえ」

「でも、つまんないよりはいいでしょ?」

 

通り過ぎる足音。

 

綾小路は扉から離れ、教室奥へ下がった。

空き教室の中は薄暗く、窓の外から校庭の黒い輪郭が見えた。

 

その向こうには、かすかに赤色灯の反射のようなものが見える。

 

警察か。

 

あるいは学校側の車両か。

 

まだ分からない。

 

だが、少なくとも校外も何かしら異常を察知している可能性がある。

 

それでも突入が起きないのは、内部事情に政治的な力が働いているからか、

あるいは単純に校舎内の情報が遮断され、正確な判断ができていないからか。

 

月城なら前者も後者も両方用意しているはずだ。

 

その時、空き教室の窓ガラスに、別の影が映った。

 

細い影。

 

女子生徒。

 

綾小路が振り返るより先に、声がした。

 

「……やっぱり、ここにいましたか」

 

七瀬だった。

 

いつの間にか教室後方の扉から入っていた。

 

銃口は向いている。

 

だが手はわずかに揺れている。

 

「追いつくのが早いな」

「あなたが、あまり人を見捨てないからです」

 

七瀬の声は低かった。

 

疲れている。

 

だが目はまだ逸らしていない。

 

「人質の近くへ戻ると思いました」

「それで一人か」

「いいえ。少し時間を稼いでいます」

 

正直な答えだった。

 

綾小路は七瀬を見つめた。

 

彼女は撃てる距離にいる。

 

だが彼女自身、その状況を望んでいないことも分かる。

 

「先輩」

 

七瀬が口を開く。

 

「今夜のこれは、あなたが思っているより、ずっと大きいものです。

龍園先輩や坂柳先輩が乗っているから危険なのではありません。

最初から、あなたをここで終わらせるために作られたんです」

「知っている」

「だったら、どうして逃げるだけなんですか」

「逃げているように見えるか」

 

七瀬は少しだけ唇を噛んだ。

 

「……見えます」

「なら、そう見せる必要がある」

 

その答えに、七瀬の表情が揺れた。

 

綾小路は続ける。

 

「この校舎にいる全員が、同じ方向を向いているわけじゃない。

追う側も、人質を持つ側も、命令する側も、それぞれ思惑が違う。

なら、今は正面から壊すより、歪ませたほうが早い」

 

七瀬は沈黙した。

その沈黙は、理解しかけている沈黙だった。

 

だが直後、彼女はわずかに首を振る。

 

「それでも、わたしはあなたを見逃せません」

「だろうな」

「……すみません」

 

その謝罪が終わるより早く、教室の外から宝泉の足音が近づいてきた。

 

七瀬の目が一瞬だけ揺れる。

 

ここで撃てば、少なくとも宝泉に先手は渡さない。

 

撃たなければ、綾小路はまた消える。

 

その迷いの間に、綾小路は教卓の陰へ滑り込み、机を倒した。

 

大きな音が響く。

 

宝泉の足音が加速する。

 

七瀬が思わずそちらを見る。

 

その一瞬で十分だった。

 

綾小路は窓際へ走り、カーテンを引きちぎるようにずらし、

隣室との仕切りになっている可動壁のわずかな隙間へ身体を滑り込ませた。

 

宝泉が扉を蹴破るように入ってくる。

 

「いたか!」

 

七瀬の返答は聞こえなかった。

 

綾小路は可動壁の裏を通り、隣の準備室へ抜けた。

 

狭い。

暗い。

 

だが出口はある。

 

そのまま別の廊下へ出る。

 

背後で宝泉が怒鳴る。

天沢の笑い声も混じる。

七瀬の声は聞こえない。

 

綾小路は立ち止まらず、そのまま三階西側の図書準備エリアへ向かった。

 

人質を救出するにはまだ足りない。

 

武器も、人数も、情報も。

 

だが一つだけ、はっきりしてきたことがある。

 

この校舎では、すでに複数の勢力が綾小路を追っているようでいて、

実際には互いを監視し合い、奪い合い、利用し合っている。

 

その歪みは、放っておいても広がる。

 

ならばそこへ楔を打ち込めばいい。

 

坂柳に龍園を疑わせる。

龍園に一年生側を警戒させる。

天沢の遊びを宝泉の苛立ちへ変える。

七瀬の躊躇を、命令系統の乱れへ変える。

 

夜はまだ長い。

 

そして校舎は広い。

 

文化祭前夜のために開かれた扉、積み上げられた資材、

乱れた導線、途切れた日常の痕跡。

 

それらすべてが、今夜だけは綾小路にとっての地形になる。

 

綾小路は図書準備エリアの窓際で一度だけ足を止め、暗い校庭を見た。

 

遠くで、確かに赤い光が瞬いている。

 

校外は動き始めている。

 

だが、その手が届く前に、校内ではもっと多くのものが壊れるだろう。

 

人間関係。

理性。

信頼。

 

そして命。

 

それでも、まだ終わらせるわけにはいかなかった。

 

堀北たちが人質でいる限り。

 

龍園と坂柳が狩る側でいる限り。

 

そして、この夜を仕組んだ者たちが、

綾小路清隆という存在の終わりを完成形だと考えている限り。

 

綾小路は奪った拳銃の位置を確かめ、静かに廊下へ戻った。

 

次に動くのは、逃げるためではない。

 

狩られる獲物から、盤面を壊す側へ移るためだった。

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