ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
坂柳有栖の杖が、白銀禁止区域の搬送ホールに小さく響いた。
こつん。
その音は、銃声よりも静かだった。
爆発音よりも弱かった。
だが、その場にいた四人にとっては、どんな轟音よりも不気味に聞こえた。
坂柳が動いた。
正確には、坂柳自身が動いたわけではない。
彼女が動かしたのは、盤面だった。
床に刻まれていた黒いラインが青白く光り始める。
搬送ホールの天井から低い駆動音が響く。
大型コンテナがレールに沿って横へ滑る。
防火シャッターが一枚ずつ降りていく。
壁面の一部が開き、新たな通路が現れる。
同時に、さっきまで通れたはずの出口が閉じていく。
ホールは、ただの広間ではなくなった。
巨大な箱庭。
あるいは、動く迷宮。
いや、もっと正確に言えば。
坂柳有栖のためだけに作られた、白銀のチェス盤だった。
「随分と大掛かりだな」
海斗が低く言った。
その手には、綾小路から受け取ったショットガンがある。
綾小路は海斗から受け取ったマシンガンを低く構えたまま、床の光を見ていた。
堀北は足首の痛みを隠しながら、麗華の前へ半歩出る。
麗華もまた、海斗の方へ駆け寄りたい衝動を抑え、周囲を確認していた。
坂柳は穏やかに微笑んでいる。
「チェスとは、本来盤面が固定された遊戯です」
彼女は静かに言った。
「けれど、現実の戦いにおいて盤面が固定されているとは限りません。
むしろ勝敗を決めるのは、駒の強さよりも盤面をどちらが支配しているかでしょう」
コンテナがまた動いた。
綾小路と麗華の前に、巨大な鉄の壁が滑り込む。
同時に、海斗と堀北の側にも別のコンテナが迫る。
「海斗」
綾小路が短く呼んだ。
「聞こえている」
「中央へ戻る。三分後だ」
「分かった」
会話はそれだけだった。
だが、坂柳はその一言さえ許さなかった。
彼女の指が端末に触れる。
次の瞬間、分厚い隔壁が二人の間へ落下した。
重い轟音。
鉄の壁。
完全な分断。
綾小路の声も、海斗の声も、もう届かない。
麗華は唇を噛んだ。
「海斗……」
「今は自分のことを考えろ」
綾小路が言った。
その声は冷静だった。
だが、冷たさだけではない。
事実として、今はそれ以外に選択肢がなかった。
一方、海斗は隔壁の向こう側で、坂柳の作った通路を見ていた。
赤い非常灯。
白い壁。
左右に並ぶ無数の扉。
そして天井に並ぶ小型カメラ。
「完全に分けられたわね」
堀北が言った。
「ああ」
「綾小路くんたちと合流できると思う?」
「合流する」
「できるかどうかを聞いたのだけれど」
「できるようにする」
堀北は小さく息を吐いた。
「本当に、あなたたちは似たような言い方をするのね」
海斗は答えなかった。
代わりに、目の前の扉へ近づいた。
見た目は普通の保守扉だ。
ただし、電子ロックではない。
鍵穴がある。
古い形式の機械式ロック。
堀北もそれに気づいた。
「珍しいわね。こんな施設に機械式なんて」
「坂柳の趣味だ」
「趣味?」
「電子ロックなら、綾小路が端末を奪えば開ける可能性がある。
だからあえて古い鍵を混ぜた」
海斗はしゃがみ込んだ。
「複雑な盤面に、単純な鍵を混ぜる。考える人間ほど引っかかる」
「それで、どうするの?」
海斗は制服の袖口から細い金属片を取り出した。
堀北の眉が動く。
「何それ」
「道具だ」
「まさか」
海斗は鍵穴に金属片を差し込んだ。
「開ける」
堀北は数秒間、言葉を失った。
カチ。
小さな音。
カチ。
また小さな音。
海斗の指先はほとんど動いていないように見えた。
だが、彼の表情はわずかに集中している。
銃を構える時とも違う。
拳を握る時とも違う。
目の前の敵を倒すのではなく、構造を読み解く顔だった。
堀北は思わず訊いた。
「あなた、鍵開けができるの?」
「できる」
「どうして?」
「本で読んだ」
「本で読んだだけでできるわけないでしょう」
「練習した」
「どこで?」
「暇な時に」
「……あなた、護衛なのよね?」
「護衛だ」
「護衛の範囲が広すぎない?」
海斗は答えなかった。
三十秒ほどで、鍵穴の奥から小さな抵抗が消えた。
カチリ。
ロックが外れる。
海斗は金属片を抜き、扉を静かに開けた。
堀北は扉と海斗を交互に見た。
「本当に開いた……」
「行くぞ」
「驚く時間くらいくれてもいいじゃない」
「坂柳がくれない」
その言葉に、堀北はすぐ表情を引き締めた。
確かに、その通りだった。
扉の向こうは細い保守通路だった。
床には古い配線が這い、壁には点検用のパネルが並んでいる。
照明は弱く、空気は少し湿っていた。
白く整った坂柳の迷宮とは違う。
施設の裏側。
盤面の下。
駒が通るためではなく、盤面を維持するための通路。
海斗はそこへ入った。
堀北も続く。
背後で扉が閉じる。
同じ頃、綾小路と麗華も別の通路へ追い込まれていた。
こちらは坂柳が意図的に作った白い迷路だった。
壁面には監視カメラ。
床には黒いライン。
ところどころに赤い点滅灯。
麗華は足首を庇いながら、綾小路の後ろを歩いていた。
「ねえ」
「何だ」
「海斗なら、今ごろどうしてると思う?」
「扉を開けている」
「扉?」
「坂柳は電子ロックだけでなく機械式のロックを混ぜているはずだ。
海斗なら、それを使う」
麗華は目を丸くした。
「どうして分かるの?」
「性質だ」
「性質?」
「海斗は正面突破だけの人間じゃない。
隠れた経路を探す。守るためなら、鍵でも声でも使う」
麗華は小さく笑った。
「分かってるんだ」
「必要な範囲ではな」
「それ、あなたなりの評価?」
「そう取って構わない」
麗華は少しだけ安心したように息を吐いた。
綾小路は壁面のカメラを見た。
先ほど奪った端末は、すでに坂柳によって遠隔で無効化されている。
画面は黒い。
使えない。
普通ならそこで詰む。
だが、綾小路は端末を捨てた。
情報を奪われたのなら、別の情報を読むだけだった。
空気の流れ。
床の傾き。
監視カメラの向き。
壁に残る微細な傷。
コンテナが移動した時の駆動音の方向。
それらを繋げれば、出口の候補は絞れる。
麗華はその横顔を見ていた。
海斗が本を読む時の表情に少し似ていると思った。
ただ、海斗はページをめくりながら考える。
綾小路は、世界そのものを本のように読んでいる。
そんな違いがあった。
「こっちだ」
綾小路が言った。
「分かった」
麗華は素直についていく。
足は痛む。
だが、今は止まれない。
一方、坂柳有栖は白い別室でモニターを見ていた。
巨大な画面には、複数の映像が映っている。
綾小路と麗華。
海斗と堀北。
退学者たちの配置。
銃座の稼働状況。
隔壁の開閉履歴。
すべてが坂柳の前に並んでいた。
本来なら、彼女の盤面に穴はない。
少なくとも、普通の生徒ならそうだった。
龍園なら暴力で突破しようとする。
宝泉なら壁を殴る。
七瀬なら正面から向かう。
天沢なら楽しみながら崩しに来る。
八神なら別の意図を重ねる。
だが、朝霧海斗は違った。
坂柳はモニターの一つを拡大する。
そこには、海斗が機械式ロックを開ける映像が映っていた。
「……ピッキングですか」
坂柳は小さく呟いた。
その声には、わずかな驚きがあった。
彼女は海斗を侮っていたわけではない。
龍園を退け、宝泉を突破し、綾小路と拮抗した時点で、
身体能力と護衛判断が優れていることは認めていた。
だが、それはあくまで護衛としての優秀さだった。
守る者。
戦う者。
肉体と判断力で突き進む者。
そう分類していた。
しかし、今の海斗は違う。
盤面の外側を探している。
坂柳が用意した扉ではなく、坂柳が管理するための裏道を開けようとしている。
「なるほど」
坂柳の目が少しだけ細くなる。
「やはり、あなたは盤面の外側から来る人間でしたか」
その時、無線が鳴った。
『第三班、東区画の封鎖を完了しました』
退学者の声だった。
坂柳はいつものように答える。
「そのまま待機してください」
『了解』
通信が切れる。
坂柳は端末へ手を伸ばそうとした。
だが、数十秒後。
再び無線が鳴った。
『第三班です』
同じ声。
同じ息遣い。
同じ癖。
坂柳の指が止まった。
『坂柳さんの指示変更です。北区画へ移動。
繰り返します。第三班は北区画へ移動』
坂柳は沈黙した。
声は同じだった。
だが、指示は出していない。
「……誰ですか?」
坂柳が静かに問う。
無線の向こうで、一瞬だけ沈黙があった。
そして通信が切れた。
坂柳はモニターを確認する。
第三班が動いている。
東区画の封鎖が外れた。
北区画へ向かっている。
誰かが、彼らを動かした。
誰かが、彼らの仲間の声を完璧に真似た。
坂柳はゆっくりと、海斗の映像を見た。
画面の中で、海斗は無線機を置いていた。
堀北が隣で驚いた顔をしている。
坂柳はわずかに目を見開いた。
「声帯模写」
彼女はそう呟いた。
「そこまでできますか」
その頃、保守通路の中で、堀北は海斗を見ていた。
「今の、あなたなの?」
「ああ」
「別人の声だったわ」
「ああ」
「ああ、じゃないわよ」
堀北は思わず声を荒げた。
「声を真似たの?」
「そうだ」
「どのくらい似ていたの?」
「動いたなら十分似ていたんだろう」
「あなた、本当に何者なの?」
海斗は少しだけ考えた。
そして言った。
「護衛だ」
堀北は呆れたように息を吐いた。
「護衛って、ピッキングも声帯模写も必要なの?」
「必要になることはある」
「普通はないわ」
「普通の護衛ならな」
堀北は何も言えなかった。
その一言は、軽く聞こえた。
だが、海斗が歩いてきた世界の異常さを感じさせるには十分だった。
彼は高校生の形をしている。
けれど、ただの高校生ではない。
綾小路清隆が学園の中に紛れ込んだ異物なら。
朝霧海斗は別の領域から歩いてきたような護衛だった。
堀北はそれを言葉にはしなかった。
代わりに、前を向いた。
「それで、次はどうするの?」
「東区画の封鎖が外れた。そこを抜ける」
「坂柳さんは気づいているわよ」
「だろうな」
「罠かもしれない」
「罠でも、盤面は少し崩れた」
海斗は保守通路の先へ進んだ。
その背中を見ながら、堀北は思った。
綾小路なら、相手の罠ごと利用する。
海斗も似たことをする。
だが、海斗の行動には常に誰かを連れて帰るという目的がある。
そこが違う。
その違いが、今の堀北には少しだけ頼もしかった。
保守通路の先には、重い鉄扉があった。
今度は電子ロック。
横に小さな音声認証装置が付いている。
堀北が顔をしかめる。
「声紋認証?」
「そうだな」
「さっきの声帯模写で突破できる?」
「相手の声紋が分からない」
「じゃあ無理?」
海斗は認証装置を見た。
そして、壁の点検パネルに目を移す。
「表からはな」
「また壊すの?」
「開ける」
海斗はパネルの隙間に指をかけた。
だが、簡単には外れない。
固定用の特殊ネジが使われている。
堀北は周囲を探す。
「工具は?」
「ない」
「なら」
海斗はポケットから、さっき使った金属片とは別の細い部品を取り出した。
「ある」
「あなたの袖口、どうなってるの?」
「秘密だ」
「そこだけ妙に人間らしく隠すのね」
海斗は返答せず、固定ネジに道具を当てた。
力任せではない。
角度を合わせる。
抵抗を見る。
音を聞く。
ほんのわずかな手応えで、内部の構造を判断している。
堀北はその横顔を見ながら、彼がただの実戦派ではないことを理解していく。
彼は知識を持っている。
しかも、その知識を自分の手で使える形にしている。
「読書が趣味なの?」
堀北が訊いた。
「そうだ」
「意外ね」
「よく言われる」
「何を読むの?」
「推理小説。兵法書。古典。あとは、麗華が途中で飽きた本」
堀北は思わず小さく笑った。
「二階堂さん、飽きるの?」
「飽きる。だが、買う」
「あなたが読むのね」
「ああ」
海斗はネジを外した。
パネルが開く。
内部に配線が見える。
「密室ものは役に立つ」
「密室?」
「閉ざされた部屋には、たいてい抜け道がある。
なければ、抜け道に見えるものを作る」
堀北は少しだけ眉を上げた。
「坂柳さんの盤面も、密室だと言いたいの?」
「そうだ」
海斗は配線を見た。
「密室なら、犯人は出入りした。なら経路がある」
堀北はその言葉を聞き、壁の向こう側を見た。
「探偵みたいね」
「探偵じゃない」
海斗は配線を切らず、別の接点に触れた。
認証装置が一瞬だけ誤作動を起こす。
赤いランプが黄色に変わる。
そして、緑に変わった。
扉が開く。
「探偵は犯人を追う」
海斗は言った。
「オレは依頼人を守る」
堀北はその言葉に、しばらく返事をしなかった。
それは格好つけた台詞ではなかった。
彼にとっての事実なのだろう。
だからこそ、重かった。
一方、綾小路と麗華もまた、別の密室に直面していた。
白い通路の先に、三つの扉が並んでいる。
一つは赤。
一つは白。
一つは黒。
麗華は眉をひそめた。
「また選べってこと?」
「そう見せている」
「違うの?」
「どれを選んでも坂柳の用意した経路だ」
綾小路は扉を見ず、天井を見た。
換気口。
ただし、さっき海斗たちが使ったものより細い。
人が通れる幅ではない。
だが、空気は流れている。
その先に広い空間がある。
麗華は綾小路の視線を追った。
「また天井?」
「いや」
綾小路は床へ視線を落とす。
「下だ」
床の一部に、わずかな継ぎ目がある。
麗華には最初分からなかった。
だが、近づいて見ると確かに違う。
白い床の一部だけ、ほんのわずかに色が違う。
「よく分かるね……」
「海斗も分かる」
「また海斗」
「読書家なら、こういう仕掛けは疑う」
「あなたも読むの?」
「必要なら」
麗華は少し笑った。
「海斗は必要じゃなくても読むよ。
夜中に難しい顔して本を読んでる。
私が寝落ちしても、まだ読んでることがある」
「そうか」
「でも、時々変な本も読んでる」
「変な本?」
「鍵開けとか、心理学とか、発声法とか」
綾小路は一瞬だけ沈黙した。
「なるほど」
「何?」
「今回の坂柳には、相性が悪いな」
「坂柳が?」
「ああ」
綾小路は床の継ぎ目に手をかけた。
「盤面を用意する相手は、盤面の外を読む人間を嫌う」
床板が外れる。
下には狭いメンテナンス用の空間があった。
麗華は感心したように息を吐いた。
「あなたも十分、盤面の外を読んでると思うけど」
「オレの場合は、読むというより削るだけだ」
「削る?」
「不要な選択肢を消す」
麗華はそれを聞いて、海斗との違いをまた感じた。
海斗は本を読むように状況を読み、登場人物の心まで見ようとする。
綾小路は問題を解くように状況を分解し、不要なものを削ぎ落とす。
どちらも恐ろしく優秀だ。
だが、まったく同じではない。
二人は狭い床下へ降りた。
麗華は少し顔をしかめる。
「狭い……」
「足は?」
「痛い。でも行ける」
「なら進む」
「もう少し優しく言ってもいいのに」
「海斗なら言うだろう」
「うん」
麗華は少しだけ笑った。
「でも今は、あなたの言い方でも大丈夫」
綾小路は答えなかった。
だが歩く速度をわずかに落とした。
麗華はそれに気づいた。
言葉にはしなかった。
同じ頃、坂柳は二つの映像を見比べていた。
海斗は保守経路から音声認証を迂回した。
綾小路は三択の扉を無視して床下へ降りた。
別々の場所。
別々の判断。
だが、どちらも坂柳が用意した正規の選択肢を選んでいない。
「二人とも、扉を選びませんか」
坂柳は小さく笑った。
それは怒りではなかった。
むしろ、楽しんでいた。
ただし、余裕だけでもない。
坂柳の盤面は崩され始めている。
それは事実だった。
彼女は端末を操作する。
退学者たちの配置を変更する。
だが、その前に、また無線が乱れた。
『第四班、待機してください』
声は坂柳側の指揮員のものだった。
第四班が止まる。
坂柳はすぐに気づく。
また海斗だ。
「厄介ですね」
坂柳は初めて、少しだけ本音を漏らした。
「朝霧さん」
その声が施設内スピーカーへ乗った。
海斗と堀北は通路の途中で足を止めた。
綾小路と麗華も床下で動きを止める。
坂柳の声が響く。
「あなたを少し誤解していました」
海斗は無言でスピーカーを見た。
「私はあなたを、守るために前へ出る人だと思っていました。
龍園さんや宝泉さんを突破したことからも、戦闘と護衛判断に優れた人間だと」
坂柳は少し間を置いた。
「ですが、違いますね」
堀北が海斗を見る。
海斗は表情を変えない。
「あなたは盤面の上で戦う駒ではありません。盤面そのものを壊す人です」
坂柳の声は楽しげだった。
「綾小路くんとは違う形で、非常に危険です」
海斗は短く答えた。
「褒め言葉として受け取っておく」
「ええ。褒めています」
坂柳は笑った。
「だからこそ、次からは遠慮しません」
その瞬間、通路の照明が消えた。
完全な暗闇。
堀北の呼吸がわずかに乱れる。
海斗はすぐに彼女の腕を引き、壁際へ寄せた。
「動くな」
「見えないわ」
「なら音を聞け」
暗闇の中で、何かが動いている。
足音。
一人ではない。
複数。
退学者たちだ。
夜目に慣れた者を配置したのか。
あるいは暗視装置か。
海斗はショットガンを構えた。
だが撃たない。
暗闇で撃てば、位置を晒す。
堀北が小さく囁く。
「どうするの?」
海斗は答えず、床に落ちていた小さなボルトを拾った。
それを反対側の壁へ投げる。
金属音。
退学者の足音がそちらへ向く。
海斗は動かない。
一秒。
二秒。
三秒。
相手の呼吸。
靴底の擦れる音。
銃の金具が鳴る音。
それらを聞く。
そして、海斗は小さく声を出した。
ただし、それは海斗の声ではなかった。
「待て、撃つな」
退学者の一人の声だった。
堀北は目を見開いた。
暗闇の向こうで、相手の動きが止まる。
「坂柳さんの指示が変わった。対象は奥だ」
完全な声帯模写。
暗闇。
混乱。
無線ではなく、目の前から聞こえる仲間の声。
退学者たちは一瞬だけ判断を誤った。
その一瞬で十分だった。
海斗は堀北の手を引いて移動する。
敵の横をすり抜ける。
一人が違和感に気づき、振り返る。
だが遅い。
海斗の肘が相手の腕を打ち、銃を落とさせる。
堀北が床のボルトを蹴り、もう一人の足元へ転がす。
相手が踏んで体勢を崩す。
海斗はその横を抜け、非常扉へ到達した。
「開けられる?」
堀北が囁く。
「開ける」
「また?」
「まただ」
暗闇の中で、海斗の指が鍵穴を探る。
堀北は背後を警戒する。
自分にできることを探す。
足は万全ではない。
格闘では海斗に及ばない。
それでも、目と頭は使える。
退学者の一人が立ち上がる。
堀北は壁の非常灯カバーを外し、床へ投げた。
赤いカバーが転がり、わずかに光を反射する。
退学者の視線がそちらへ向く。
海斗の手元から、カチリと音がした。
扉が開く。
「行くぞ」
「ええ」
二人は暗闇から抜けた。
一方、綾小路と麗華も床下通路を進んでいた。
突然、上部から衝撃音が響く。
退学者が床板を開けようとしている。
麗華が息を呑む。
「見つかった?」
「誘導された」
「どうするの?」
綾小路はマシンガンを構える。
だが、ここでも人へは向けない。
床下の配管固定具へ向け、短く撃つ。
固定具が外れ、配管が落ちる。
上から開けようとしていた退学者の手が止まる。
その隙に、綾小路は麗華を先へ進ませた。
「急げ」
「うん」
麗華は進む。
狭い。
膝が痛い。
足首も痛む。
だが、止まらない。
自分は守られるだけでは終わらない。
海斗にそう言った。
堀北に促されて動いた。
なら、今も動くべきだった。
「綾小路くん」
麗華が振り返らずに言う。
「何だ」
「右側の壁、音が違う」
綾小路は立ち止まる。
麗華が手で壁を叩いたのだろう。
確かに、そこだけ反響が違う。
空洞がある。
「よく気づいたな」
「海斗が前に言ってた。壁の裏に空間がある時は、音が軽いって」
「そうか」
綾小路はその壁を押した。
動く。
隠し扉だった。
「役に立った?」
麗華が聞く。
「ああ」
綾小路は短く答えた。
麗華は少しだけ嬉しそうにした。
「ならよかった」
二人は隠し扉を抜けた。
その先は、広い中央管理通路だった。
海斗と堀北も、別方向からほぼ同時に現れた。
四人の視線が交わる。
今回は、坂柳が用意した合流地点ではない。
二組がそれぞれ盤面の裏を抜け、自力で辿り着いた場所だった。
坂柳のモニターにも、その光景が映っていた。
彼女はしばらく沈黙した。
そして、ゆっくりと笑った。
「見事です」
声が通路に響く。
「今の合流は、私の予定にありませんでした」
堀北は小さく息を吐いた。
「ようやく一矢報いたわけね」
麗華も海斗の隣へ戻る。
「無事?」
「無事だ」
「今度は一緒に逃げた?」
「堀北に引き上げられた」
麗華は少し驚いた顔をしてから、堀北を見た。
「ありがとう」
堀北は少しだけ照れたように視線を逸らした。
「礼を言われるほどのことじゃないわ」
綾小路は海斗を見る。
「声帯模写を使ったな」
「そっちは床下か」
「そうだ」
「読んだか」
「読んだ」
二人の会話は短い。
だが、それだけで十分だった。
互いが何をしたのか。
どこを抜けたのか。
どう考えたのか。
すべてではなくとも、必要な部分は理解している。
坂柳はその様子を見ていた。
「綾小路くん」
彼女の声が響く。
「あなたは合理性で盤面を削る」
次に。
「朝霧さん」
坂柳の声は少しだけ弾んでいた。
「あなたは護衛技術と読書による知識で盤面の外側を破る」
そして。
「堀北さん、二階堂さん」
坂柳は続ける。
「あなた方も、ただ守られる駒ではなくなりつつある」
通路の奥で、白い扉が開く。
坂柳有栖が再び姿を現した。
杖をつきながら。
穏やかに。
だが、その瞳には先ほどまでとは違う光があった。
「私の負け、と言いたいところですが」
坂柳は微笑む。
「残念ながら、まだゲームは終わっていません」
綾小路は無言で坂柳を見る。
海斗もまた、静かに構える。
坂柳は端末を取り出した。
「あなた方は、私の盤面を壊しました」
指が端末に触れる。
「なら、次は盤面の外から来るものを相手にしていただきます」
白銀禁止区域の奥深く。
今まで閉じられていた巨大な隔壁が、ゆっくりと動き始めた。
地鳴りのような音。
施設全体が震える。
堀北が身構える。
麗華が海斗の袖を掴む。
綾小路の目が細くなる。
海斗の表情も変わった。
今の音は、坂柳の罠とは違う。
もっと重い。
もっと深い。
施設の中枢に隠されていた何かが、目を覚ます音だった。
坂柳は静かに言った。
「月城さんが、最後まで温存していたものです」
綾小路は問い返さない。
海斗も口を開かない。
ただ、二人とも理解していた。
ここから先は、坂柳の知略戦ではない。
別の地獄が始まる。
隔壁の向こう。
暗闇の中で、誰かが立っている。
まだ名前は見えない。
顔も見えない。
ただ、その影だけで異様だった。
坂柳の声が、静かに通路へ落ちる。
「さて」
彼女は微笑んだ。
「盤面破壊者の次は、怪物の番です」
巨大な扉が、さらに開いた。
白銀禁止区域の空気が変わる。
綾小路清隆は一歩前へ出た。
朝霧海斗も、一歩前へ出た。
堀北鈴音と二階堂麗華は、その背中を見た。
坂柳有栖のチェス盤は崩れた。
だが、崩れた盤面の奥から。
もっと深い闇が、静かに姿を現そうとしていた。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。