ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第31話 怪物の扉

巨大な隔壁が、白銀禁止区域の奥でゆっくりと開いていく。

 

それは扉というより、封印だった。

 

分厚い鋼鉄。

 

何重にも重なったロック機構。

 

赤い警告灯。

 

床を震わせる低い駆動音。

 

この施設の中で、今まで坂柳有栖が作っていた

白いチェス盤とは明らかに違う空気が流れていた。

 

坂柳の罠は美しかった。

 

冷たく、整っていて、意図が読める。

 

だが、この扉の奥から流れ出してくるものは違った。

 

美しさがない。

 

整然としていない。

 

ただ、重い。

 

暗い。

 

そして、異様だった。

 

堀北鈴音は無意識に息を止めていた。

 

二階堂麗華も、海斗の袖を掴む手に力を込めている。

 

綾小路清隆は表情を変えていない。

 

だが、その目は扉の奥を見据えていた。

 

朝霧海斗はショットガンを肩に担ぐように構え、少しだけ首を鳴らした。

 

「ったく」

 

海斗は低く呟いた。

 

「ようやくお嬢様のチェス遊びが終わったと思ったら、今度は怪物退治かよ」

 

坂柳がわずかに眉を上げた。

 

海斗は続ける。

 

「護衛の仕事ってのは、いつから何でも屋になったんだ?」

 

麗華が緊張した顔のまま、少しだけ呆れたように言った。

 

「海斗、今そういうこと言う場面?」

 

「こういう時だから言うんだよ」

 

「ふざけてるの?」

 

「半分な」

 

「残り半分は?」

 

「足が震えねえようにしてる」

 

その言葉に、麗華は一瞬だけ黙った。

 

冗談のようで、冗談ではなかった。

 

海斗の軽口は、恐怖を消すためのものではない。

 

恐怖を認めたうえで、前へ出るためのものだった。

 

堀北はその横顔を見て、少しだけ目を細めた。

 

「あなた、さっきまでより口が悪くなっていない?」

 

「こっちが通常営業だ」

 

「最初からそれで来られていたら、信用していなかったわ」

 

「今なら信用してるみたいな言い方だな」

 

「最低限はね」

 

「お、出世したな、オレ」

 

「調子に乗らないで」

 

海斗は小さく笑った。

 

その粗野な笑い方は、これまでの冷静な護衛の顔とは違っていた。

 

堀北を護衛していた時も、坂柳の盤面を壊した時にも見せなかった顔。

 

おそらく、それが本来の朝霧海斗だった。

 

荒っぽく、ふざけていて、少し口が悪い。

 

だが、目だけはまったく笑っていない。

 

坂柳有栖はその変化を静かに観察していた。

 

「なるほど」

 

坂柳は言った。

 

「それがあなたの素ですか」

 

「さあな。お嬢様相手には少し上品にしてたつもりなんだが」

 

「十分粗野でしたよ」

 

「なら残念だ。もっと猫かぶるべきだったな」

 

坂柳は微笑む。

 

だが、その微笑みには、先ほどまでの余裕だけではないものが混じっていた。

 

朝霧海斗という人間が、彼女の予想していた護衛役から少しずつ外れていく。

 

冷静な護衛。

 

戦闘に長けた少年。

 

麗華を守るために動く者。

 

それらは間違いではない。

 

だが、それだけではなかった。

 

彼は軽口で空気を変えられる。

 

冗談で恐怖を薄められる。

 

粗野な態度の裏に、異常な観察力と判断力を隠している。

 

坂柳にとって、それは綾小路清隆とは別方向の厄介さだった。

 

綾小路は空気を凍らせる。

 

海斗は空気を崩す。

 

どちらも、盤面の支配者にとっては扱いづらい。

 

綾小路が静かに言った。

 

「海斗」

 

「何だよ、綾小路」

 

「軽口を叩く余裕はあるか」

 

「あるように見えるか?」

 

「見える」

 

「じゃああるんだろ」

 

「なら前に出ろ」

 

「人使い荒いな、お前」

 

「護衛だろう」

 

「便利な言葉みたいに使うな」

 

海斗はそう言いながらも、一歩前へ出た。

 

綾小路も並ぶ。

 

二人の前に、扉の奥の暗闇が広がっている。

 

坂柳は一歩後ろへ下がった。

 

自分の盤面が崩れたことを認めたからではない。

 

この先は、自分の担当ではないと知っているからだった。

 

白い光の届かない奥。

 

そこで、足音がした。

 

ゆっくり。

 

一定。

 

迷いがない。

 

こつん。

 

こつん。

 

こつん。

 

坂柳の杖の音とは違う。

 

それは靴音だった。

 

硬い床を、誰かが歩いてくる。

 

麗華の手が海斗の袖を強く掴む。

 

海斗は振り返らずに言った。

 

「麗華」

 

「何?」

 

「足は?」

 

「少し痛い」

 

「じゃあ走れ」

 

「心配してるのか雑なのかどっちなの?」

 

「両方だ」

 

麗華は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。

 

この状況で笑えるとは思っていなかった。

 

だが、海斗の声を聞くと、少しだけ呼吸が戻る。

 

それが彼の不思議な力だった。

 

堀北は綾小路の横顔を見る。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「あなたも何か言ったらどう?」

 

「何を」

 

「場を和ませるようなこと」

 

「必要ない」

 

「でしょうね」

 

堀北は呆れながらも、どこか安心していた。

 

綾小路は綾小路のまま。

 

海斗は海斗のまま。

 

だから、この異常な場でも、まだ自分たちは崩れていない。

 

扉の奥から、ついに人影が現れた。

 

背は高くない。

 

体格も、宝泉のように巨大ではない。

 

龍園のような獰猛さもない。

 

坂柳のような優雅さもない。

 

だが、その存在感は異様だった。

 

何もない。

 

表情がない。

 

感情がない。

 

歩き方にも癖がない。

 

まるで、人間から余分なものを削り落としたような影だった。

 

堀北はその人物を見て、眉をひそめた。

 

「誰……?」

 

麗華も知らない顔だった。

 

坂柳は静かに言った。

 

「彼については、私も詳細をすべて知っているわけではありません」

 

海斗が横目で坂柳を見る。

 

「おいおい、ここまで引っ張っておいて説明不足かよ」

 

「私の盤面にも乗せられていない駒ですから」

 

「それを駒って呼ぶの、そろそろやめた方がいいぞ。だいたい面倒なことになる」

 

坂柳は少しだけ笑った。

 

「経験談ですか?」

 

「主に今日のな」

 

綾小路は人影から目を離さなかった。

 

人影は、ようやく赤い非常灯の下に姿を現した。

 

山内春樹。

 

かつて綾小路のクラスにいた男。

 

退学したはずの生徒。

 

だが、今そこにいる山内は、堀北の知る山内春樹ではなかった。

 

ふざけた態度もない。

 

軽薄な笑みもない。

 

誰かに媚びるような目もない。

 

まるで別人だった。

 

堀北の顔色が変わる。

 

「山内……くん?」

 

その名を聞いた瞬間、麗華も驚いたように堀北を見る。

 

海斗は小さく舌打ちした。

 

「知り合いかよ」

 

堀北は答えられなかった。

 

綾小路が静かに言う。

 

「元クラスメイトだ」

 

「元ってことは、今は違うってことか」

 

「ああ」

 

「で、あれは元クラスメイトって顔か?」

 

綾小路は答えなかった。

 

答える必要がなかった。

 

山内はすでに、人間らしい反応を何も見せていなかった。

 

月城の声が施設全体に響いた。

 

『ご対面ですね、綾小路くん』

 

通路の上部モニターに、月城の顔が映る。

 

穏やかな笑み。

 

悪意を隠す気もない、薄い笑み。

 

『坂柳さんの盤面を突破したことは称賛しましょう。

ですが、ここから先は知略ではありません』

 

海斗がぼそりと言った。

 

「だったら最初からそうしろよ。回りくどいジジイだな」

 

麗華が小声で言う。

 

「海斗、聞こえてるよ」

 

「聞こえるように言ってる」

 

月城は笑みを崩さない。

 

『朝霧くん、あなたも想定以上でした。

龍園くん、宝泉くん、坂柳さん。三つの障害を越えた。実に素晴らしい』

 

「褒めるなら帰してくれ」

 

『それはできません』

 

「だろうな。言ってみただけだ」

 

月城は続けた。

 

『では紹介しましょう』

 

モニターの中の月城が、ゆっくりと言った。

 

『山内春樹。ブラックルーム最高傑作です』

 

堀北の呼吸が止まる。

 

麗華も目を見開く。

 

坂柳ですら、わずかに表情を変えた。

 

海斗は一瞬だけ黙った。

 

そして、綾小路を見た。

 

「おい」

 

「何だ」

 

「お前の学校、退学した奴がラスボスになる仕様なのか?」

 

「知らない」

 

「知らないで済む話かこれ」

 

「少なくとも、オレの知る山内春樹ではない」

 

「だろうな」

 

海斗はショットガンを構え直した。

 

さっきまでの軽口は残っている。

 

だが、声の温度が下がった。

 

麗華はそれに気づいた。

 

海斗がふざけている時は、まだ余裕がある。

 

海斗が口数を減らした時は、本当に危険だ。

 

そして今、海斗の目は少しずつ無言の方へ傾いていた。

 

山内はゆっくりと首を動かし、四人を見る。

 

堀北。

 

麗華。

 

坂柳。

 

海斗。

 

そして最後に、綾小路。

 

山内の視線が綾小路で止まった。

 

「綾小路」

 

声が出た。

 

低い。

 

平坦。

 

かつての山内の声ではある。

 

だが、そこに感情はほとんどなかった。

 

堀北は思わず一歩前に出かけた。

 

「山内くん、あなた――」

 

「下がれ、堀北」

 

綾小路の声がそれを止めた。

 

堀北は足を止める。

 

「でも」

 

「あれは今、お前の知っている山内春樹じゃない」

 

その言葉は残酷だった。

 

だが、必要だった。

 

山内は動いた。

 

予備動作がなかった。

 

踏み込む気配も、肩の揺れもない。

 

気づいた時には、山内が綾小路の前にいた。

 

速い。

 

海斗が即座に反応する。

 

ショットガンを撃つのではなく、銃身を横に滑らせて山内の進路を遮る。

 

山内の手が銃身に触れる。

 

その瞬間、海斗は嫌な感覚を覚えた。

 

押されたのではない。

 

捻られた。

 

わずかな接触だけで、武器の支点を奪われた。

 

「ちっ」

 

海斗は即座に銃を手放しかけ、逆に銃床を使って山内の腕を払う。

 

山内は避けない。

 

受ける。

 

だが、衝撃を殺している。

 

まるで、最初からそこへ力が来ることを知っていたように。

 

綾小路が横から入る。

 

マシンガンを撃つのではなく、

肩にかけたまま身体を滑り込ませ、山内の脇へ打撃を入れる。

 

山内の身体がわずかに揺れる。

 

だが、倒れない。

 

山内の拳が綾小路の顔面へ向かう。

 

綾小路は避ける。

 

避けた先に、山内の膝が来ていた。

 

読まれている。

 

綾小路は半歩下がる。

 

その瞬間、海斗が横から山内の肩へ体当たりを入れた。

 

「おらっ!」

 

山内の身体が一歩だけずれる。

 

その一歩で、堀北と麗華への射線が切れる。

 

海斗の狙いは攻撃ではない。

 

守る位置を作ることだった。

 

「麗華、堀北、下がれ!」

 

「分かった!」

 

麗華が堀北の腕を引く。

 

堀北もすぐに動く。

 

二人はコンテナの陰へ下がった。

 

坂柳はその動きを見ていた。

 

山内春樹。

 

ブラックルーム最高傑作。

 

月城がそう呼んだ存在。

 

その動きは、龍園とも宝泉とも違う。

 

龍園は読ませまいとする。

 

宝泉は読まれても押し潰す。

 

山内は違う。

 

読んでいる。

 

相手の動きを先に。

 

しかも、感情の揺らぎなく。

 

「これは……」

 

坂柳は小さく呟いた。

 

「駒というより、演算装置ですね」

 

海斗が聞こえたのか、聞こえていないのか、舌打ちした。

 

「お嬢様、解説してる暇があるなら出口でも開けろ」

 

坂柳は少しだけ目を細める。

 

「あなたにお嬢様と呼ばれるのは、少し不本意ですね」

 

「悪いな。こっちは育ちが悪いんだ」

 

「でしょうね」

 

「否定早いな」

 

海斗は軽口を叩きながらも、山内から目を離していない。

 

山内は再び動いた。

 

今度は海斗へ。

 

海斗はショットガンを捨てた。

 

武器が邪魔になる。

 

それほど近い。

 

山内の拳が来る。

 

海斗は受けない。

 

横へ流す。

 

だが、山内の腕が途中で軌道を変えた。

 

海斗の肩を狙う。

 

海斗は肘で受ける。

 

重い。

 

宝泉ほどの重量ではない。

 

だが、無駄がない。

 

一撃に余計な感情がないため、防ぎづらい。

 

「面白くねえ殴り方しやがる」

 

海斗は低く言った。

 

「喧嘩ってのはな、もうちょいムカつく顔でやるもんだろ」

 

山内は答えない。

 

拳。

 

肘。

 

足払い。

 

掴み。

 

次々と来る。

 

海斗はそれを捌く。

 

時に受け流し、時に弾き、時に距離をずらす。

 

だが、徐々に押されている。

 

龍園の時は心理で揺さぶれた。

 

宝泉の時は環境を利用できた。

 

坂柳の時は盤面の外を開けた。

 

だが山内には、軽口が効かない。

 

挑発が通らない。

 

感情の隙がない。

 

海斗の顔から、少しずつ笑みが消えていく。

 

麗華はそれを見て、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 

「海斗……」

 

堀北も見ていた。

 

彼が軽口を叩かなくなった時、何が起こるのかを。

 

綾小路が再び入る。

 

山内の背後へ回る。

 

二対一。

 

普通なら有利。

 

だが、山内はそれを前提に動いていた。

 

海斗の攻撃を半歩で外し、その動きの先に綾小路の進路を塞ぐ。

 

綾小路が攻撃に移る瞬間、山内は身体を沈める。

 

海斗と綾小路の攻撃線が一瞬交差する。

 

二人は即座に止めた。

 

止めなければ、互いにぶつかっていた。

 

「面倒くせえな」

 

海斗が吐き捨てる。

 

「おい綾小路」

 

「何だ」

 

「お前、こういう面倒事に好かれすぎだろ」

 

「否定はしない」

 

「そこは否定しろよ。巻き込まれてるこっちの身にもなれ」

 

「お前も十分巻き込む側だ」

 

「言うようになったじゃねえか」

 

海斗は笑った。

 

一瞬だけ。

 

本当に一瞬だけ。

 

その軽口で呼吸を整えた。

 

だが、次の瞬間には表情を消す。

 

山内が動いたからだ。

 

今度は堀北と麗華の方へ向かった。

 

速い。

 

狙いを変えた。

 

海斗と綾小路を倒すより、守るべき対象を狙った方が二人は崩れる。

 

そう判断したのだ。

 

「させるかよ」

 

海斗の声が低くなる。

 

完全に軽さが消えた。

 

彼は山内の進路へ飛び込む。

 

真正面からではない。

 

斜め前。

 

山内の足運びを止める位置。

 

海斗の肩が山内の胸元へぶつかる。

 

山内は止まらない。

 

海斗の身体が押される。

 

だが、海斗は床に足を食い込ませるように踏ん張った。

 

「麗華を狙うなら」

 

海斗の声は静かだった。

 

「オレを倒してからにしろ」

 

山内の目が海斗を見る。

 

初めて、ほんの少しだけ。

 

興味のようなものが動いた気がした。

 

だが、すぐに消える。

 

山内の拳が海斗の腹部へ入る。

 

海斗の身体がわずかに折れる。

 

麗華が声を上げかける。

 

だが、海斗は倒れない。

 

逆に山内の腕を掴む。

 

「捕まえたぞ、無表情野郎」

 

その瞬間、綾小路が動いた。

 

海斗が作った一瞬の固定。

 

山内の動きが止まったわずかな隙。

 

綾小路の掌底が山内の肩へ入る。

 

山内の身体が横へ流れる。

 

さらに海斗が膝で軸足を崩す。

 

山内が初めて、明確に体勢を崩した。

 

だが倒れない。

 

手を床につく。

 

そこから即座に跳ねるように戻る。

 

異常な回復。

 

海斗は舌打ちする。

 

「化け物かよ」

 

綾小路は冷静に言う。

 

「反応速度が通常じゃない」

 

「見りゃ分かる」

 

「なら対処しろ」

 

「簡単に言うな」

 

「できるだろう」

 

海斗は一瞬だけ綾小路を見た。

 

そして笑った。

 

「お前、だんだんオレの扱い雑になってねえか?」

 

「信頼している」

 

「それっぽい言葉で誤魔化すな」

 

だが、海斗の口元はわずかに上がっていた。

 

信頼。

 

綾小路がその言葉を使った。

 

本気かどうかは分からない。

 

だが、今この場では十分だった。

 

坂柳はそのやり取りを見て、静かに息を吐いた。

 

「不思議ですね」

 

彼女は言った。

 

「綾小路くんと朝霧さん。似ていないのに、噛み合っている」

 

綾小路は答えない。

 

海斗が代わりに言った。

 

「似てねえから噛み合うんだろ。似た奴が二人並んでも暑苦しいだけだ」

 

「あなたの場合、十分暑苦しいですが」

 

「うるせえな、お嬢様」

 

「またそれですか」

 

その瞬間、山内が三度目の突進を仕掛けた。

 

今度はさらに速い。

 

海斗は軽口をやめる。

 

綾小路も構える。

 

二人の呼吸が揃う。

 

正面から受ければ崩される。

 

横へ避ければ、麗華と堀北へ抜けられる。

 

ならば、止める。

 

二人同時に前へ出た。

 

海斗が下。

 

綾小路が上。

 

海斗が山内の足運びを潰し、綾小路が上半身の軸をずらす。

 

一瞬だけ山内の動きが止まる。

 

その瞬間、坂柳が端末を操作した。

 

床の黒いラインが再び光る。

 

「なっ……!」

 

堀北が気づく。

 

床が動く。

 

山内を中心に、周囲の床が分割される。

 

綾小路と海斗の足場が左右へ引き離される。

 

坂柳の最後の介入だった。

 

「悪いですが」

 

坂柳は静かに言った。

 

「まだ終わらせるわけにはいきません」

 

海斗と綾小路の連携が崩れる。

 

山内がその隙を突く。

 

拳が海斗へ向かう。

 

海斗は避けきれない。

 

だが、その直前。

 

麗華が叫んだ。

 

「海斗、右!」

 

海斗はその声に反応した。

 

右へ転がる。

 

山内の拳が空を切る。

 

その先には、移動してきたコンテナの角。

 

山内の拳がコンテナに叩き込まれ、金属音が響いた。

 

海斗は床を転がりながら起き上がる。

 

「助かった、麗華!」

 

「今のは考えて言ったから!」

 

「上出来だ!」

 

麗華の表情が少しだけ明るくなる。

 

一方、堀北も綾小路に叫んだ。

 

「左の床、次に沈む!」

 

綾小路は即座に左足を引いた。

 

直後、その床がわずかに沈み、バランスを崩す罠が作動した。

 

綾小路はそれを避け、逆に沈んだ床を踏み台にして山内の側面へ回る。

 

「助かった」

 

綾小路が言う。

 

堀北は一瞬だけ驚いた。

 

「……珍しいわね」

 

「今は必要な礼だ」

 

「そういうところよ」

 

だが、堀北の口元もわずかに緩んでいた。

 

守られるだけではない。

 

自分たちも戦いに参加している。

 

その実感があった。

 

山内は四人を見た。

 

感情のない目。

 

だが、その目がわずかに動く。

 

綾小路。

 

海斗。

 

堀北。

 

麗華。

 

四人が、それぞれの役割を持ち始めている。

 

坂柳の盤面すら、完全には彼らを縛れなくなっている。

 

月城の声が再び響く。

 

『素晴らしい。ですが、まだ足りません』

 

モニターの中で、月城が微笑む。

 

『山内くんはまだ調整段階です。本来の性能を出していない』

 

海斗が顔をしかめる。

 

「調整?人間に使う言葉じゃねえだろ」

 

月城は笑う。

 

『人間ですか。興味深い表現ですね』

 

海斗の目が冷えた。

 

今度は軽口が出なかった。

 

麗華はそれに気づいた。

 

海斗が本当に怒った時。

 

彼はふざけない。

 

ただ静かになる。

 

「海斗……」

 

麗華が声をかける。

 

海斗は振り返らずに言った。

 

「大丈夫だ」

 

その声は穏やかだった。

 

だが、さっきまでの軽さはない。

 

山内が再び構えた。

 

今度は明らかに雰囲気が違う。

 

身体の力が抜ける。

 

呼吸が消える。

 

存在感が薄れる。

 

そして次の瞬間。

 

山内の姿がぶれた。

 

海斗と綾小路が同時に動く。

 

だが間に合わない。

 

山内は二人の間を抜けた。

 

狙いは麗華でも堀北でもない。

 

坂柳だった。

 

坂柳の目がわずかに見開かれる。

 

自分の盤面に乗らない駒。

 

いや、盤面の制御すら超えて動く怪物。

 

山内の手が坂柳へ伸びる。

 

その瞬間、海斗が横から飛び込んだ。

 

「お嬢様!」

 

坂柳を庇うように突き飛ばす。

 

坂柳の身体が後方へ倒れる。

 

海斗は山内の腕を受けた。

 

衝撃。

 

海斗の身体が横へ吹き飛ぶ。

 

コンテナに背中を打ちつける。

 

鈍い音。

 

麗華が悲鳴を上げる。

 

「海斗!」

 

海斗はすぐには立ち上がらなかった。

 

だが、意識はある。

 

口元に苦笑が浮かぶ。

 

「……ったく」

 

海斗は咳き込みながら言った。

 

「敵のお嬢様まで守るとか、今日のオレは働きすぎだろ」

 

坂柳は床に手をつきながら、海斗を見た。

 

初めて、言葉を失っていた。

 

「なぜ……」

 

海斗はゆっくり立ち上がる。

 

「護衛の癖だ」

 

「私は敵ですよ」

 

「知ってる」

 

「なら」

 

「目の前でやられたら、寝覚めが悪い」

 

坂柳は黙った。

 

その言葉に、彼女は何も返せなかった。

 

海斗は山内へ視線を向ける。

 

「しかし妙だな」

 

麗華も頷く。

 

「ええ」

 

二人は顔を見合わせた。

 

「綾小路」

 

海斗が呼ぶ。

 

「何だ」

 

「なんでコイツ、坂柳を狙ったんだ?」

 

麗華も首を傾げる。

 

「確かに不自然ね。綾小路くんや海斗を狙うなら分かるけれど」

 

山内の視線が坂柳へ向けられていた。

 

まるで憎悪そのものだった。

 

綾小路は少しだけ沈黙した。

 

そして静かに答える。

 

「恨みだ」

 

海斗が眉を上げる。

 

「恨み?」

 

「山内は一度、退学に追い込まれている」

 

麗華が目を見開いた。

 

「退学?」

 

綾小路は頷く。

 

「そして、その原因を作ったのが坂柳だ」

 

海斗と麗華が同時に坂柳を見る。

 

坂柳は否定しなかった。

 

静かに目を閉じる。

 

「正確には、私が仕組みました」

 

麗華が息を呑む。

 

「仕組んだ……?」

 

坂柳は小さく微笑んだ。

 

「山内くんは利用されやすい人でしたので」

 

海斗が呆れた顔になる。

 

「お前、サラッと言うな」

 

「事実ですから」

 

坂柳は続ける。

 

「私は彼を追い詰めました。退学へ至る流れも誘導しました。

彼にとって私は人生を壊した相手と言ってもいいでしょう」

 

海斗は再び山内を見る。

 

山内の拳は震えていた。

 

怒りか。

 

悔しさか。

 

あるいはその両方か。

 

綾小路が静かに言う。

 

「山内にとって坂柳は、オレ以上に憎い相手だ」

 

麗華はようやく理解した。

 

「だから狙ったのね……」

 

坂柳は自嘲気味に笑った。

 

「当然の報いかもしれません。

私は彼を盤上の駒として扱いました、その結果がこれです」

 

海斗は鼻を鳴らす。

 

「面倒くせぇな」

 

坂柳が視線を向ける。

 

「そうでしょうか」

 

「ああ」

 

海斗は即答した。

 

「確かにお前は性格悪い」

 

「否定しません」

 

「でもよ」

 

海斗は肩をすくめる。

 

「だからって撃たれていい理由にはならねぇだろ」

 

坂柳は少しだけ目を見開いた。

 

海斗は続ける。

 

「恨むのは勝手だ、ぶん殴るのもまあ分かる。

でも、今ここで死なれたら後味悪すぎんだよ」

 

坂柳は思わず小さく笑った。

 

それはこの状況では不釣り合いなほど穏やかな笑みだった。

 

綾小路はそんな二人を一瞥すると、再び山内の前へ立った。

 

海斗も再び並ぶ。

 

ただし、今度は肩で息をしている。

 

ダメージは明らかだった。

 

それでも、海斗は笑った。

 

「おい綾小路」

 

「何だ」

 

「これ、普通にキツいぞ」

 

「見れば分かる」

 

「分かるなら優しい言葉の一つでもかけろ」

 

「倒れるな」

 

「雑だな」

 

「十分だろう」

 

海斗は笑った。

 

そして、構えた。

 

「まあな」

 

山内は無表情で二人を見る。

 

月城はモニターの向こうで笑っている。

 

坂柳は床に座ったまま、海斗の背中を見つめている。

 

堀北と麗華は、それぞれ自分の位置で息を整えながら次の動きを探している。

 

盤面は崩れた。

 

だが怪物はまだ立っている。

 

海斗の軽口は戻った。

 

しかし、その奥には確かな覚悟があった。

 

綾小路の冷静さも崩れていない。

 

だが、その隣にいる海斗の存在が、戦いの形を変えている。

 

山内春樹。

 

ブラックルーム最高傑作。

 

月城の切り札。

 

その怪物を相手に、綾小路清隆と朝霧海斗は並び立つ。

 

白銀禁止区域の奥で、次の衝突が始まろうとしていた。

 

海斗は口元の血を袖で拭い、軽く笑った。

 

「さて」

 

その声は粗く、ふざけていて、それでいて鋭かった。

 

「怪物退治の続きといくか」

 

綾小路は静かに頷いた。

 

「行くぞ」

 

二人が同時に踏み込んだ。




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