ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第32話 怪物の学習

山内春樹が笑っていた。

 

白銀禁止区域の薄暗い通路の中央で、

まるで場違いなほど軽い笑みを浮かべながら、

山内は綾小路清隆と朝霧海斗の二人を見ていた。

 

その笑みは余裕ではない。

 

挑発でもない。

 

もっと異質なものだった。

 

こちらを人間として見ていない。

 

あるいは、自分自身すら人間として扱っていない。

 

綾小路はそう判断した。

 

「おいおい、なんだよその顔」

 

海斗がショットガンを構え直しながら、吐き捨てるように笑った。

 

「久々にクラスメイトと会えたんだろ?

もう少し感動の再会っぽくできねえのかよ」

 

「海斗くん」

 

堀北が背後から鋭く声をかけた。

 

「軽口を叩いている場合?」

 

「叩いてる場合だろ」

 

海斗は視線を山内から外さないまま答えた。

 

「黙ってたら怖くなっちまうからな。

こういう時は口を動かしてるくらいがちょうどいい」

 

「怖いの?」

 

「怖いに決まってんだろ、こんな化け物」

 

その言葉には、茶化しきれない本音が混じっていた。

 

二階堂麗華は堀北の隣で息を呑んでいた。

 

彼女は海斗の横顔を見ていた。

 

いつもの雑な笑み。

 

粗野な態度。

 

どこか人を食ったような声。

 

けれど、その目だけは違っていた。

 

山内を前にした海斗の目は、笑っていなかった。

 

「海斗」

 

麗華が小さく呼ぶ。

 

「大丈夫なの?」

 

「大丈夫にする」

 

海斗は短く答えた。

 

それは麗華にだけ向けた声だった。

 

乱暴ではなく、少しだけ甘い。

 

けれど次の瞬間、海斗の口調はまた元に戻った。

 

「つーわけで、綾小路。お前の元クラスメイトだろ。取扱説明書とかねえのか?」

 

「残念ながらない」

 

綾小路はマシンガンの銃口を山内へ向けたまま、静かに答えた。

 

「オレの知っている山内春樹とは、別人だ」

 

「だよなあ」

 

海斗が舌打ちした。

 

「どう見ても、普通に退学して終わるタイプの顔じゃねえ」

 

山内は笑ったまま、二人の会話を聞いていた。

 

怒らない。

 

焦らない。

 

反応しない。

 

その無反応さが、逆に不気味だった。

 

普通の人間なら、海斗の軽口に多少なりとも表情を動かす。

 

苛立つ。

 

笑う。

 

煽り返す。

 

無視するにしても、そこには何かしらの感情の色が出る。

 

だが山内にはそれがない。

 

まるで入力された音声を処理している機械のように、

こちらの言葉を聞き、分類し、不要と判断したものを捨てている。

 

「来るぞ」

 

綾小路が言った。

 

その一言と同時に、山内の身体が沈んだ。

 

速い。

 

山内は正面から突っ込んできた。

 

銃を構えるでもなく、遮蔽物を使うでもなく、ただ床を蹴って距離を詰めてくる。

 

海斗が先に動いた。

 

ショットガンの銃口が跳ねる。

 

発砲。

 

轟音が通路に叩きつけられた。

 

だが山内はそこにいなかった。

 

撃たれる直前、山内はありえない角度で身体を横へ逃がしていた。

 

回避ではない。

 

予測だった。

 

海斗が撃つ瞬間を読んでいた。

 

山内は壁際へ滑るように移動し、そのまま足を止めずに接近してくる。

 

綾小路がマシンガンを撃った。

 

短い連射。

 

山内の進路を削るように弾幕を置く。

 

山内は止まらない。

 

弾丸の隙間を抜けた。

 

まるで、最初からそこに隙間が生まれることを知っていたかのように。

 

海斗が二発目を撃つ。

 

山内は伏せた。

 

弾丸が頭上を抜ける。

 

そのまま床に片手をつき、身体をひねり、獣のような低姿勢で綾小路へ迫った。

 

狙いは綾小路。

 

最初から海斗ではない。

 

綾小路はその事実を認識した。

 

山内が本当に警戒しているのは海斗の火力ではない。

 

自分だ。

 

「ちっ」

 

海斗が山内の横腹を狙って踏み込む。

 

ショットガンを鈍器のように扱い、銃身で山内の進路を潰そうとした。

 

山内はそれを見ずに避けた。

 

視線は綾小路へ向いたまま。

 

それでも海斗の攻撃を正確に躱した。

 

海斗の眉がわずかに動く。

 

「……見てねえだろ、今」

 

山内は答えない。

 

代わりに、山内の拳が海斗の脇腹へ飛んだ。

 

海斗はギリギリで受けた。

 

衝撃で身体が横へ流れる。

 

それでも倒れない。

 

足を踏ん張り、無理やり体勢を戻す。

 

「重っ」

 

海斗が笑った。

 

「宝泉より嫌な重さしてやがる」

 

「海斗くん!」

 

堀北の声が響く。

 

「下がりなさい!」

 

「無理言うな、堀北ちゃん」

 

海斗は口の端を上げた。

 

「下がったら、こいつ綾小路に行くだろ」

 

その瞬間、山内が海斗の言葉に反応した。

 

わずかに目が動いた。

 

綾小路はそれを見逃さなかった。

 

山内は感情で動いていない。

 

命令で動いているだけでもない。

 

戦闘中の情報を拾っている。

 

言葉。

 

視線。

 

呼吸。

 

足の向き。

 

武器の角度。

 

こちらの思考の癖。

 

それらを高速で読み取り、次の行動に反映している。

 

「海斗」

 

綾小路は短く呼んだ。

 

「今の攻防、もう一度できるか」

 

「は?」

 

「同じ形で仕掛けろ」

 

「正気か?今の、普通に読まれてたぞ」

 

「だからだ」

 

海斗は一瞬だけ綾小路を見た。

 

その目には疑問があった。

 

だがすぐに笑った。

 

「分かったよ、司令塔」

 

海斗はショットガンを握り直し、山内へ向かって踏み込んだ。

 

「おら、ブラックルーム産の山内くんよ。もう一回遊ぼうぜ」

 

山内は動いた。

 

先ほどと同じように、海斗が右から圧をかける。

 

綾小路が左後方から弾幕を置く。

 

山内は一拍早く身体を落とし、海斗の射線から消えた。

 

やはり同じだ。

 

山内は海斗の動きを覚えている。

 

そして同じ状況が再現された瞬間、最適解を選んだ。

 

海斗の攻撃は届かない。

 

綾小路の弾も当たらない。

 

山内は最短距離で綾小路へ迫る。

 

だが綾小路は撃たなかった。

 

撃てた。

 

撃つタイミングはあった。

 

しかし撃たない。

 

山内の目がわずかに揺れた。

 

想定と違ったからだ。

 

綾小路はその瞬間を見た。

 

山内は完璧ではない。

 

異常な反応速度を持つ怪物ではない。

 

異常な予測速度を持つ怪物だ。

 

ならば、予測を外せばいい。

 

「海斗、止まれ」

 

綾小路が言った。

 

「止まれだぁ?」

 

海斗は文句を言いながらも、即座に足を止めた。

 

その判断は早かった。

 

口では反発する。

 

だが本気の場面では、綾小路の指示を疑わない。

 

山内の身体が一瞬だけ空白を作った。

 

海斗が進む前提で組み立てられた回避。

 

綾小路が撃つ前提で組み立てられた接近。

 

その二つが同時に消えたことで、山内の次の動きが半拍遅れた。

 

海斗の目が細くなる。

 

「……今、止まったな」

 

「止まったんじゃない」

 

綾小路は冷静に言った。

 

「学習した行動が外れた」

 

山内が初めて、綾小路を真っ直ぐ見た。

 

その目には感情らしい感情はない。

 

だが、認識が変わったのは分かった。

 

標的。

 

障害物。

 

排除対象。

 

それまで山内が綾小路をどう分類していたのかは分からない。

 

だが今、山内は明確に綾小路清隆を見た。

 

「なるほど」

 

山内が小さく言った。

 

「やっぱり、綾小路は違うんだ」

 

その声は、かつて教室にいた山内春樹の声に似ていた。

 

けれど、中身はまったく違った。

 

綾小路は山内を見た。

 

「月城に何をされた」

 

「何をされた?」

 

山内は首を傾げた。

 

「違うよ。俺は完成したんだ」

 

「完成?」

 

堀北が息を呑んだ。

 

麗華の表情も強張る。

 

海斗は鼻で笑った。

 

「完成ねえ。随分とまあ、雑な完成品だな」

 

山内は海斗を見た。

 

「朝霧海斗。君は強い」

 

「お、褒められた。麗華、聞いたか?オレ褒められたぞ」

 

「今それを喜ぶ場面ではないでしょう」

 

麗華が呆れたように返す。

 

海斗は笑った。

 

だがその笑みは一瞬で消えた。

 

山内が続けたからだ。

 

「でも、君は攻略できる」

 

その言葉の直後、山内が動いた。

 

今度は海斗へ向かってきた。

 

海斗がショットガンを撃つ。

 

山内は避ける。

 

同じように見えた。

 

だが違う。

 

山内は海斗の右肩の動きを先に見ていた。

 

発砲より前に、引き金を引く角度を読んでいた。

 

海斗が銃口を戻すより早く、山内の手が伸びる。

 

ショットガンの銃身を掴まれた。

 

「っ、こいつ」

 

海斗は即座に手を離しかけた。

 

だが山内はそれも読んでいた。

 

銃身を引くのではなく、押し込む。

 

海斗の姿勢が崩れる。

 

山内の膝が海斗の腹部へ入る。

 

海斗は息を詰めた。

 

それでも倒れない。

 

片足で床を踏み、山内の肩を掴み返す。

 

「調子に乗んなよ、元クラスの賑やかし」

 

海斗が低く言った。

 

その声から軽さが消えた。

 

山内の腕を固定し、頭突きを叩き込む。

 

山内の顔がわずかに逸れる。

 

初めて海斗の攻撃が触れた。

 

だが次の瞬間、山内はもう対応していた。

 

海斗の掴みを外し、身体を沈め、足払いを仕掛ける。

 

海斗は跳んだ。

 

普通なら間に合わない。

 

それでも海斗は間に合わせた。

 

反射ではない。

 

戦場勘。

 

場数。

 

理屈になる前の危険察知。

 

山内が学習する怪物なら、海斗は壊れた現場で生き残る怪物だった。

 

坂柳の視線が綾小路へ向く。

 

「綾小路くん」

 

「分かっている」

 

綾小路は短く答えた。

 

山内は海斗を攻略している。

 

一手ごとに精度が上がっている。

 

初見では対応できなかった海斗の癖も、二度目には読まれる。

 

三度目には潰される。

 

四度目には利用される。

 

これは単純な戦闘能力ではない。

 

山内春樹という人間の中に、

戦闘中の学習と反映を極限まで高める何かが組み込まれている。

 

ブラックルーム。

 

そこでは、才能のない人間をどう鍛えるかではなく、

人間をどこまで道具として再構成できるかが試されていた。

 

山内は天才ではない。

 

だからこそ恐ろしい。

 

天才ではない人間を、天才を殺すための道具にした。

 

月城が投入した意味を、綾小路は理解し始めていた。

 

「綾小路」

 

海斗が低く呼んだ。

 

「そろそろ説明しろ。こいつ、殴るたびに賢くなってんぞ」

 

「賢くなっているわけじゃない」

 

「じゃあ何だよ」

 

「最適化している」

 

「同じだろ」

 

「違う」

 

綾小路は山内から目を離さずに言った。

 

「山内は考えてから動いていない。考える前に、入力と出力を繋げている」

 

海斗は眉をひそめた。

 

「悪い。読書家設定のオレでも、それは分かりにくい」

 

「お前の右肩が上がる。山内はそれを見て、次に撃つ方向を出す。

オレの足が半歩引く。山内はそれを見て、オレが撃たない可能性を出す。

堀北が息を呑む。麗華が視線を動かす。坂柳が杖を握る。その全部を拾っている」

 

「人間やめてんな」

 

「人間としての判断を捨てているだけだ」

 

山内が笑った。

 

「正解だよ、綾小路」

 

山内の声は穏やかだった。

 

「やっぱり君は分かるんだね」

 

「分かりたくはなかった」

 

「でも分かる。だから君は危険なんだ」

 

山内の視線が綾小路へ固定される。

 

「月城さんが言ってた。朝霧海斗は壊せる。堀北鈴音は利用できる。

二階堂麗華は餌になる。坂柳有栖は盤面を作る。でも、綾小路清隆だけは違う」

 

麗華の顔がわずかに青ざめる。

 

堀北が山内を睨む。

 

坂柳は表情を変えない。

 

海斗だけが、低い声で笑った。

 

「へえ。オレは壊せる扱いか」

 

「怒ったの?」

 

山内が言う。

 

「いや」

 

海斗は静かに答えた。

 

「覚えただけだ」

 

その声に、先ほどまでの軽口はなかった。

 

綾小路は海斗を横目で見た。

 

本気になると無口になる。

 

その傾向は聞いていた。

 

だが今の海斗は、無口になる前の段階を越えていた。

 

言葉が減り、無駄な動きが消え、呼吸の間隔すら変わっている。

 

海斗は怒っている。

 

だが怒りに呑まれていない。

 

怒りを燃料として、戦闘に必要な熱だけを取り出している。

 

それは海斗の強さだった。

 

「海斗」

 

綾小路は言った。

 

「次から右を撃つな」

 

海斗は視線だけを向ける。

 

「は?」

 

「左だけ撃て」

 

「理由は」

 

「山内はお前の右から崩す癖を覚えた」

 

「左だけ撃ったら、そっちも覚えるだろ」

 

「覚えさせる」

 

海斗は一瞬だけ沈黙した。

 

そして口の端をわずかに上げた。

 

「悪趣味だな、綾小路」

 

「必要なだけだ」

 

「そういうとこ、嫌いじゃねえよ」

 

海斗はショットガンを構え直した。

 

山内はその会話を聞いていた。

 

聞いていた上で、動かない。

 

警戒している。

 

海斗の火力ではなく、綾小路の指示を。

 

山内はすでに理解していた。

 

戦闘の主導権が変わり始めている。

 

海斗が山内へ向かう。

 

左から撃つ。

 

山内は避ける。

 

もう一度、左。

 

山内は避ける。

 

三度目も左。

 

山内は避ける。

 

海斗の攻撃は当たらない。

 

だが、綾小路はそれでいいと判断していた。

 

山内は学習する。

 

ならば、学習させる情報を偏らせればいい。

 

右を消す。

 

左だけを見せる。

 

海斗が左を選ぶ確率を、山内の中で極端に上げる。

 

そして、山内の予測を強制的に固定する。

 

「海斗くん、左だけでは読まれるわ!」

 

堀北が叫んだ。

 

「読ませてんだよ!」

 

海斗が叫び返す。

 

「たぶんな!」

 

「たぶんなの!?」

 

「綾小路がそういう顔してる!」

 

堀北は一瞬、綾小路を見た。

 

綾小路は否定しなかった。

 

麗華が小さく息を吐く。

 

「海斗、無茶しないで」

 

「無茶はいつものことだ」

 

海斗は一瞬だけ麗華に笑った。

 

「でも、今回はちょい賢く無茶する」

 

山内が加速した。

 

左だけを見せ続ける海斗に対し、山内は完全にタイミングを合わせ始めていた。

 

海斗が撃つ前に避ける。

 

避けながら近づく。

 

近づきながら攻撃を重ねる。

 

海斗の腕に山内の拳が当たる。

 

海斗の肩が揺れる。

 

足元を払われそうになる。

 

海斗は耐える。

 

だが押されている。

 

誰の目にも分かるほど、海斗が追い込まれている。

 

「綾小路くん」

 

坂柳が静かに言った。

 

「彼を餌にしていますね」

 

「必要な工程だ」

 

「朝霧さんは、それを分かった上で動いている」

 

「ああ」

 

「面白い関係です」

 

坂柳は目を細めた。

 

「盤面破壊者が、あなたの盤面に乗っている」

 

「本人は認めないだろうがな」

 

「でしょうね」

 

山内がさらに踏み込む。

 

海斗の左撃ちを完全に読んだ。

 

山内は海斗の左側へ誘導するように身体を流し、次の発砲を潰しにかかる。

 

その瞬間、綾小路は言った。

 

「海斗」

 

短い呼びかけ。

 

それだけで十分だった。

 

海斗は撃たなかった。

 

左を撃つはずだった。

 

山内はそう読んでいた。

 

だから、その回避動作に入っていた。

 

だが海斗は撃たない。

 

代わりに、ショットガンを捨てた。

 

金属音が床に響く。

 

山内の目がわずかに開く。

 

予測と違う。

 

その一瞬。

 

海斗の右拳が飛んだ。

 

右を撃つな。

 

綾小路はそう言った。

 

右を使うな、とは言っていない。

 

海斗の拳が山内の頬を捉えた。

 

山内の身体が初めて横へ弾かれた。

 

通路の空気が止まった。

 

堀北が目を見開く。

 

麗華が息を呑む。

 

坂柳が微笑む。

 

綾小路は動かない。

 

海斗は拳を引き、低く息を吐いた。

 

「悪いな」

 

海斗が言った。

 

「オレ、銃だけの男じゃねえんだわ」

 

山内はゆっくりと顔を戻した。

 

頬に薄く赤みが差している。

 

大きな損傷ではない。

 

決定打でもない。

 

だが、それは確かに当たった。

 

山内春樹に。

 

ブラックルーム最高傑作と呼ばれた怪物に。

 

初めて、こちらの一手が届いた。

 

山内は綾小路を見た。

 

海斗ではない。

 

自分を殴った海斗ではなく、その一手を用意した綾小路を見た。

 

「なるほど」

 

山内が呟いた。

 

「気付いたんだね、綾小路」

 

「ああ」

 

綾小路は静かに答えた。

 

「お前は反射で避けているんじゃない」

 

山内は笑った。

 

「続けて」

 

「お前は相手の行動を予測している。その精度が異常なだけだ。

だから初見の完全な不規則行動には遅れる」

 

「でも、人間は完全に不規則には動けない」

 

「そうだ」

 

綾小路は一歩前に出た。

 

「だから、こちらで規則を作る」

 

山内の笑みが深くなる。

 

「作った規則を、壊す」

 

「そういうことだ」

 

海斗が肩を回しながら笑った。

 

「つまり、オレは綾小路の言う通りに踊ってりゃいいわけだ」

 

「踊れるのか」

 

「誰に言ってんだ」

 

海斗は山内を睨む。

 

「お嬢様のチェス盤で暴れた男だぞ、こっちは」

 

坂柳が小さく笑う。

 

「それは少し誇張がありますね」

 

「うるせえ、お嬢様。細けえことは気にすんな」

 

堀北が呆れたように息を吐く。

 

「あなた、本当に緊張感がないわね」

 

「あるぞ」

 

海斗は短く言った。

 

「だから喋ってんだ」

 

その言葉を最後に、海斗は黙った。

 

空気が変わる。

 

海斗の軽口が消えた瞬間、場に残ったのは呼吸と足音だけだった。

 

山内もそれを感じ取った。

 

表情は変わらない。

 

だが、構えがわずかに低くなる。

 

海斗が本気になる。

 

綾小路が読みを組み立てる。

 

山内が学習する。

 

三つの異なる怪物性が、狭い通路の中で噛み合い始めていた。

 

「堀北」

 

綾小路は背後へ声をかけた。

 

「二階堂を連れて、もう少し下がれ」

 

「あなたたちは?」

 

「ここで止める」

 

「勝てるの?」

 

堀北の問いに、綾小路はすぐには答えなかった。

 

勝てるかどうかではない。

 

勝てる形に持っていく。

 

それが今の自分の役割だった。

 

「勝つ」

 

綾小路はそう言った。

 

堀北は何かを言いかけたが、飲み込んだ。

 

「分かったわ」

 

麗華は海斗を見た。

 

海斗は振り返らない。

 

それでも、麗華は小さく言った。

 

「海斗」

 

海斗は答えない。

 

だが、右手を軽く上げた。

 

それだけだった。

 

麗華はそれを見て、堀北と共に後退した。

 

山内は追わない。

 

標的は明確だった。

 

綾小路清隆。

 

そして、その前に立つ朝霧海斗。

 

山内は嬉しそうに頷く。

 

「凡人を怪物にして、怪物を殺す。すごいと思わない?」

 

海斗がわずかに眉を動かした。

 

だが喋らない。

 

綾小路も表情を変えない。

 

「すごいとは思わない」

 

綾小路は言った。

 

「哀れだとは思う」

 

山内の笑みが、ほんの少しだけ固まった。

 

それは初めて見せた感情の揺れだった。

 

綾小路はそれも見逃さない。

 

山内春樹は完全な機械ではない。

 

奥底には、かつての山内が残っている。

 

その残滓が戦闘にどう影響するのか。

 

それもまた、攻略材料になる。

 

「哀れ?」

 

山内が聞き返す。

 

「ああ」

 

「上から目線だね、綾小路」

 

次の瞬間、山内が動く。

 

今度は速さが違った。

 

怒りが混ざった。

 

感情が混ざった。

 

それは山内の精密さをわずかに乱した。

 

同時に、危険性を上げた。

 

予測しにくい。

 

山内自身の中に、制御されていない揺れが生じたからだ。

 

「海斗」

 

綾小路が言った。

 

海斗が動く。

 

言葉はいらない。

 

海斗は山内の進路へ入り、真正面から受ける。

 

拳と銃身がぶつかる。

 

山内の攻撃を海斗が逸らす。

 

綾小路が横から短く撃つ。

 

山内は避ける。

 

避けた先に、海斗の蹴りがある。

 

山内はそれも読む。

 

だが半拍遅い。

 

綾小路が作った規則。

 

海斗が壊す規則。

 

山内が学習する速度を、綾小路が逆利用する。

 

山内が海斗の左を読む。

 

海斗は左を見せる。

 

山内が右を警戒する。

 

海斗は撃たない。

 

山内が綾小路の射線を読む。

 

綾小路は撃たない。

 

撃たないことで、山内に別の選択肢を強制する。

 

その選択肢を、海斗が潰す。

 

二人の動きは、最初から息が合っていたわけではない。

 

だが、戦いながら噛み合っていく。

 

綾小路は海斗の能力を把握し、海斗は綾小路の意図を荒っぽく読み取る。

 

細かい説明はいらない。

 

必要なのは、一瞬の判断と、相手を使う覚悟だった。

 

海斗は駒ではない。

 

だが、自分から駒になることができる。

 

綾小路はそれを理解した。

 

そして海斗もまた、綾小路が自分を単なる駒として扱っていないことを理解していた。

 

だから動ける。

 

だから従える。

 

だから壊せる。

 

山内の頬を、再び海斗の攻撃が掠めた。

 

今度は浅い。

 

だが、山内の表情が変わった。

 

笑みが消える。

 

「……面倒だな」

 

山内が呟いた。

 

海斗が初めて、低く笑った。

 

「ようやく普通の感想が出たな、山内」

 

山内は海斗を見た。

 

「君は邪魔だ」

 

「知ってる」

 

「でも、君を見ていると綾小路が見えない」

 

「最高の褒め言葉だな」

 

海斗は構えた。

 

「ボディガードってのは、そういう仕事だ」

 

その一言に、麗華の表情がわずかに揺れた。

 

離れた場所で、彼女は胸元を握りしめる。

 

海斗は振り返らない。

 

けれどその言葉は、確かに麗華にも届いていた。

 

山内が呼吸を整える。

 

綾小路は、そのわずかな変化を見た。

 

山内は次で切り替える。

 

海斗攻略から、綾小路への直接突破へ。

 

予測ではなく、強引な突破。

 

学習能力を持つ怪物が、学習に頼らず力で押す。

 

それが一番危険だった。

 

「海斗」

 

綾小路は言った。

 

「次は止めるな」

 

海斗は答えない。

 

「流せ」

 

海斗の目が動く。

 

理解した。

 

山内が突っ込む。

 

速い。

 

真っ直ぐに綾小路へ来る。

 

海斗が前に出る。

 

止めない。

 

受け止めない。

 

山内の肩に触れ、その力を横へ流す。

 

だが山内は強い。

 

海斗の身体ごと押し切ろうとする。

 

海斗の靴底が床を削る。

 

それでも海斗は踏み止まらない。

 

踏み止まらず、流す。

 

山内の重心がわずかにずれる。

 

その瞬間、綾小路は踏み込んだ。

 

銃ではない。

 

拳でもない。

 

山内の腕を取り、関節の動きを制限する。

 

完全に決める必要はない。

 

一瞬止めればいい。

 

山内の目が見開かれる。

 

綾小路が初めて、自分から山内の間合いに入った。

 

山内はそれを予測していなかった。

 

綾小路清隆は後方で読む。

 

朝霧海斗が前で壊す。

 

その構図を山内は学習していた。

 

だからこそ、綾小路自身が前に出る一手が刺さった。

 

「海斗」

 

綾小路が言う。

 

海斗が動く。

 

無言で。

 

拾い上げたショットガンの銃床が、山内の脇腹へ叩き込まれる。

 

山内の身体が折れる。

 

綾小路はすぐに離れた。

 

深追いしない。

 

山内はまだ倒れない。

 

倒せない。

 

だが、崩した。

 

明確に崩した。

 

山内は膝をつきかけ、片手で床を押さえた。

 

通路に静寂が落ちる。

 

海斗が荒く息を吐く。

 

綾小路は呼吸を乱していない。

 

だが、その目だけは山内を捉え続けていた。

 

「……そうか」

 

山内が呟いた。

 

「君は、そこまで見えてるんだ」

 

綾小路は答えない。

 

「朝霧海斗を攻略するんじゃない」

 

山内はゆっくり立ち上がる。

 

「朝霧海斗を使って、俺に攻略されたと思わせる」

 

山内の笑みが戻った。

 

だが、先ほどとは違う。

 

今度の笑みには、はっきりとした警戒があった。

 

「やっぱり危険なのは君だよ、綾小路清隆」

 

海斗が肩で息をしながら言った。

 

「おいおい。今殴ったのオレなんだが?」

 

山内は海斗を見ない。

 

「君は強い。でも、君だけなら壊せる」

 

海斗は鼻で笑った。

 

「言ってろ」

 

山内は綾小路だけを見ていた。

 

「でも、綾小路がいると壊し方が変わる。

壊そうとした瞬間、その手順を利用される」

 

綾小路は静かに山内を見返す。

 

月城が山内を投入した理由は理解した。

 

山内は、綾小路を殺すための怪物ではない。

 

綾小路の周囲を攻略し、綾小路を孤立させるための怪物だ。

 

海斗を壊す。

 

堀北を乱す。

 

麗華を餌にする。

 

坂柳の盤面を無効化する。

 

そうして最後に綾小路を一人にする。

 

そのための最高傑作。

 

だが月城は一つだけ見誤っている。

 

綾小路清隆は、一人で戦うことだけを選ぶ人間ではなくなっていた。

 

そして朝霧海斗は、壊されるだけの護衛ではなかった。

 

「海斗」

 

綾小路は言った。

 

「次でさらに崩す」

 

海斗は血の混じらない笑みを浮かべた。

 

「了解」

 

短い返事。

 

軽口はない。

 

山内が構える。

 

その視線は、もう海斗を軽く見ていない。

 

だが同時に、海斗だけを見てもいない。

 

綾小路を見る。

 

海斗を見る。

 

堀北を見る。

 

麗華を見る。

 

坂柳を見る。

 

すべてを拾う。

 

すべてを学習する。

 

その怪物を前に、綾小路は思考をさらに深く沈めた。

 

山内の学習は早い。

 

ならば、こちらは学習させる情報そのものを操作する。

 

山内が見ているもの。

 

山内が拾っているもの。

 

山内が信じているもの。

 

そのすべてに、偽の規則を混ぜる。

 

そして最後に、その規則を破壊する。

 

山内春樹を倒す鍵は、火力ではない。

 

身体能力でもない。

 

山内に正解を覚えさせ、その正解を罠に変えること。

 

その役割を実行できるのは海斗だけだった。

 

自分の指示を理解しきらなくても、身体で反応できる。

 

危険を承知で前に出られる。

 

そして何より、山内の予測を狂わせるだけの粗さと強さを持っている。

 

「海斗」

 

綾小路は言った。

 

「ここから先、お前は自由に動け」

 

海斗がわずかに目を細める。

 

「指示は?」

 

「必要な時だけ出す」

 

「つまり?」

 

「山内に、オレがお前を制御していると思わせる」

 

海斗は一瞬黙った。

 

そして、声を殺して笑った。

 

「性格悪いな、お前」

 

「否定はしない」

 

「最高だ」

 

海斗は一歩前に出た。

 

山内がそれを見た。

 

綾小路もまた、一歩だけ位置を変えた。

 

たったそれだけで、山内の目が動く。

 

山内は考えている。

 

いや、処理している。

 

朝霧海斗が自由に動く。

 

しかし綾小路清隆が指示を出す可能性がある。

 

どこまでが自由で、どこからが誘導なのか。

 

その境界が曖昧になる。

 

学習する怪物にとって、入力の意味が揺らぐことは致命的だった。

 

海斗が突っ込む。

 

今度は雑だった。

 

左でも右でもない。

 

撃つでも殴るでもない。

 

途中で止まり、笑い、低く構え、また進む。

 

山内が動きを読む。

 

読んだ瞬間、海斗は別の動きをする。

 

その変化は洗練されていない。

 

むしろ乱暴で、粗く、理屈に合わない。

 

だが、そこに綾小路の視線が混ざる。

 

山内は海斗だけを見ていられない。

 

綾小路の指示があるかもしれない。

 

銃撃が来るかもしれない。

 

堀北たちへ狙いを変えられるかもしれない。

 

坂柳が何かを仕掛けるかもしれない。

 

情報が増える。

 

処理が増える。

 

山内の反応が、わずかに鈍る。

 

「そこだ」

 

綾小路が言った。

 

海斗が踏み込む。

 

山内は避ける。

 

だが避けた先に、綾小路の射線があった。

 

山内はさらに避ける。

 

その先に、海斗の肘が置かれていた。

 

偶然ではない。

 

綾小路が誘導した。

 

海斗が合わせた。

 

山内の肩に衝撃が入る。

 

山内の身体が壁へ流れる。

 

海斗は追わない。

 

追わずに、綾小路の次の指示を待つ。

 

その一瞬の静止もまた、山内にとっては読みにくい。

 

動くはずの人間が止まる。

 

止まるはずの人間が動く。

 

撃つはずの人間が撃たない。

 

撃たないはずの人間が前に出る。

 

山内の中で積み上がった正解が、少しずつ罠に変わっていく。

 

山内は壁に片手をつき、ゆっくり笑った。

 

「すごいよ」

 

その声には、初めて焦りに似たものが混じっていた。

 

「本当にすごい。綾小路、君はやっぱりホワイトルームの最高傑作だ」

 

綾小路は答えない。

 

山内は続ける。

 

「でも、だからこそ壊さないといけない」

 

山内の姿勢が変わった。

 

今までとは違う。

 

低く、深く、余計な力が抜けている。

 

綾小路は瞬時に理解した。

 

山内は次の段階へ入る。

 

学習した情報を捨てるのではない。

 

すべてを前提にした上で、力ずくで盤面ごと破壊しに来る。

 

海斗が小さく息を吐いた。

 

「来るぞ」

 

「分かっている」

 

綾小路は答えた。

 

山内が床を蹴った。

 

視界から消えるほどの加速。

 

海斗が前に出る。

 

綾小路が横へ動く。

 

山内の狙いは海斗ではない。

 

綾小路でもない。

 

背後の麗華だった。

 

「麗華!」

 

海斗が叫んだ。

 

その声には、初めて明確な焦りが混じった。

 

山内は見抜いていた。

 

海斗を崩す最短手。

 

麗華を狙うこと。

 

海斗は迷わず進路を変えた。

 

それを山内は待っていた。

 

海斗が麗華を守るために動く瞬間、綾小路との連携が切れる。

 

山内の狙いはそこだった。

 

だが。

 

「海斗、止まるな」

 

綾小路の声が飛ぶ。

 

海斗は止まらない。

 

麗華の前に入る。

 

山内がその背中を狙う。

 

綾小路が撃つ。

 

山内は避ける。

 

避けた先に、堀北がいた。

 

堀北は怯まなかった。

 

事前に綾小路の視線を読んでいたわけではない。

 

ただ、自分が何をすべきか判断した。

 

手元にあった金属片を、山内の足元へ投げる。

 

武器ですらない。

 

小さな妨害。

 

だが十分だった。

 

山内の足が一瞬だけずれる。

 

海斗が振り返る。

 

無言。

 

本気の海斗に、もう軽口はない。

 

ショットガンの銃床が山内の腕を弾く。

 

綾小路が前に出る。

 

山内の進路を塞ぐ。

 

二人の動きが重なる。

 

山内は回避する。

 

だが、完全ではない。

 

山内の頬に、綾小路の拳が入った。

 

軽い一撃だった。

 

海斗ほど重くない。

 

だが意味が違った。

 

綾小路清隆自身が、山内春樹に届いた。

 

山内の身体がわずかに止まる。

 

その目が大きく開かれる。

 

「……綾小路」

 

山内は低く呟いた。

 

綾小路は拳を引いた。

 

「お前は強い」

 

山内を見据えたまま言う。

 

「だが、まだオレを見すぎている」

 

山内の笑みが消えた。

 

「見すぎている?」

 

「ああ」

 

綾小路は静かに続けた。

 

「オレを倒すために作られたせいで、オレを基準にしすぎている」

 

山内の表情が固まる。

 

「だから、海斗を読み違える」

 

海斗が麗華の前から一歩出る。

 

息は荒い。

 

肩も揺れている。

 

だが目は死んでいない。

 

むしろ、山内を射抜くように鋭かった。

 

「聞いたかよ、山内」

 

海斗がようやく笑った。

 

「お前、オレのこと舐めすぎなんだってさ」

 

山内は海斗を見た。

 

今度は、はっきりと見た。

 

初めて、朝霧海斗を単なる障害物ではなく、攻略対象として認識した。

 

しかしその瞬間こそ、綾小路の狙いだった。

 

山内の意識が分散する。

 

綾小路だけを見れば海斗が崩す。

 

海斗だけを見れば綾小路が刺す。

 

麗華を狙えば海斗が狂う。

 

堀北を無視すれば足元を掬われる。

 

坂柳を放置すれば盤面の外から観察される。

 

山内の学習能力は異常だ。

 

だが、学習する対象が増えすぎれば、処理は鈍る。

 

怪物にも限界はある。

 

「山内」

 

綾小路は言った。

 

「お前の攻略法は見えた」

 

山内は静かに笑った。

 

「そう。なら、次はこっちの番だね」

 

山内が構える。

 

その姿は、先ほどまでよりもさらに危険だった。

 

追い詰められたわけではない。

 

むしろ、ようやく本気でこちらを殺しに来る段階へ入った。

 

海斗はショットガンを構え、綾小路はマシンガンを構えた。

 

堀北は麗華を守る位置へ移動し、坂柳は静かに盤面を見ていた。

 

山内春樹は笑わない。

 

綾小路清隆も笑わない。

 

朝霧海斗だけが、かすかに口の端を上げた。

 

「さて」

 

海斗が低く言った。

 

「ようやく、元クラスメイト同窓会の本番か」

 

堀北が呆れたように言う。

 

「本当に最悪の同窓会ね」

 

「だろ?」

 

海斗は山内を見たまま答えた。

 

「でも安心しろよ、堀北ちゃん」

 

「何を?」

 

「二次会はねえ」

 

その軽口を最後に、海斗は再び沈黙した。

 

綾小路は山内を見据えた。

 

勝ち筋は見えた。

 

だが、まだ勝ってはいない。

 

山内は強い。

 

海斗でも見抜けない異常性を持ち、

こちらの動きを学習し、最適化し、壊そうとしてくる。

 

けれど、完璧ではない。

 

学習するということは、覚えるということ。

 

覚えるということは、信じるということ。

 

信じた正解は、罠にできる。

 

綾小路は静かに息を吸った。

 

ここから先は、山内に何を覚えさせるかの戦いになる。

 

そして、その嘘を現実に変える役目は、海斗にしかできない。

 

山内が一歩踏み出す。

 

綾小路も一歩踏み出す。

 

海斗が横に並ぶ。

 

二人の間に言葉はない。

 

必要なかった。

 

山内春樹の目が、初めて二人を同時に捉えた。

 

綾小路清隆を警戒し。

 

朝霧海斗を警戒し。

 

その上で、山内は静かに告げた。

 

「君たち二人を、まとめて壊す」

 

綾小路は答えた。

 

「やってみろ」

 

海斗が笑った。

 

「その前に、こっちが壊してやるよ」

 

白銀禁止区域の闇の中で、三人の怪物が再び動き出した。




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