ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
白銀禁止区域の赤い非常灯が、崩れかけた通路を不規則に照らしていた。
山内春樹との戦いが終わった直後だというのに、空気は少しも軽くならなかった。
むしろ、重くなっていた。
通路の奥では炎が揺れている。
天井の一部は崩れ、剥き出しになった配管からは白い蒸気が噴き出し、
壁の亀裂からは青白い火花が断続的に散っていた。
月城が宣言した自爆シーケンス。
それが冗談でも脅しでもないことは、この施設全体の悲鳴が証明していた。
綾小路清隆は、天沢一夏を見ていた。
天沢は笑っていた。
崩壊する施設の中で。
山内が倒れ、月城が次の試験を告げ、退路が狭まりつつあるこの状況で。
彼女だけが、まるで楽しい放課後にでも遭遇したかのように笑っていた。
「お疲れさまです、綾小路先輩」
天沢は軽い声で言った。
「山内先輩、負けちゃいましたね」
山内は壁際に座らされていた。
少し前まで、ブラックルーム最高傑作として綾小路と海斗を追い詰めていた男。
その山内が、今は沈黙している。
綾小路を見ているのか、床を見ているのか分からないほど、目に焦点がなかった。
月城に捨てられた事実。
自分が最高傑作ではなく、ただの駒にすぎなかったという事実。
それが山内の中の何かを折っていた。
しかし、綾小路は油断していなかった。
山内はまだ生きている。
まだ動ける可能性がある。
そして、月城が山内を完全に切り捨てたとは限らない。
「海斗」
綾小路は短く呼んだ。
海斗は山内から視線を外さずに答えた。
「分かってる」
ショットガンの銃口は山内へ向いている。
だが、海斗の意識の半分は天沢にも向いていた。
「おいおい、次は小悪魔系の殺し屋かよ」
海斗が低く笑った。
「白銀禁止区域ってのは、人材豊富だな」
天沢は海斗を見た。
「あ、あなたが朝霧海斗さん?」
「だったら何だ」
「へぇ」
天沢は興味深そうに海斗を眺めた。
「思ったよりイケメンですね」
海斗が鼻で笑う。
「だろ?よく言われるぜ」
「でも、さっきの山内先輩相手に動けてたのはすごいです」
天沢は口元に指を当てる。
「綾小路先輩の隣に立てるだけはありますね」
その言葉に、海斗の目が少しだけ細くなった。
「隣に立つねぇ」
「違いました?」
「さあな」
海斗は肩をすくめた。
「オレは麗華のボディガードだ。綾小路の隣に立つために来たわけじゃねぇ」
麗華が少し離れた場所から海斗を見ていた。
「海斗」
「分かってる」
海斗は振り返らずに言う。
「無茶すんなって話だろ」
「違う」
麗華は震える声を押さえながら言った。
「絶対戻ってきて」
海斗は一瞬だけ黙った。
それから、小さく笑った。
「了解」
堀北鈴音は麗華の隣で天沢を見据えていた。
天沢一夏。
堀北は彼女の異常性を肌で感じていた。
山内のように機械的ではない。
龍園や宝泉のように暴力的な圧を全面に出しているわけでもない。
だが、もっと危険だった。
天沢は感情で動いている。
しかも、その感情が普通ではない。
綾小路への狂信。
崇拝。
好意。
敵意。
それらが一つに混ざって、歪んだ刃になっている。
坂柳有栖は杖を握ったまま、静かに天沢を観察していた。
「綾小路くん」
「何だ」
「彼女は山内くんとは違います」
「分かっている」
坂柳は微笑まなかった。
「山内くんは作られた駒でした。けれど天沢さんは、自分の意思で駒になっている」
天沢が嬉しそうに坂柳を見る。
「坂柳先輩、さすがですね」
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
「でも一つ違います」
天沢は一歩前へ出た。
「あたしは駒じゃありません」
彼女の視線が綾小路へ戻る。
「あたしは、綾小路先輩がどこまで特別なのかを確かめに来たんです」
通路の奥で爆発が起きた。
熱風が流れ込み、赤い非常灯の光が激しく揺れる。
それでも天沢は笑っている。
「月城さんの命令もあります。でも、それだけじゃない」
天沢の声は、警報の中でも妙にはっきり聞こえた。
「あたしは先輩を信じています。先輩なら、あたしを乗り越えてくれる。
先輩なら、あたしを壊してでも先へ進める」
堀北の表情が険しくなる。
「あなた、自分が何を言っているのか分かっているの?」
天沢は堀北へ視線だけを向けた。
「分かってますよ」
そしてまた綾小路を見る。
「綾小路先輩のためなら、敵になることにも意味があるんです」
堀北は言葉を失った。
それは理解できない価値観だった。
理解したくもなかった。
綾小路は天沢を見ていた。
天沢は、自分を崇拝している。
だが、従うわけではない。
守るわけでもない。
むしろ敵として立ちはだかる。
自分が敗れることすら、彼女にとっては綾小路を証明するための工程なのだろう。
危険な相手だ。
山内は綾小路を倒すために作られた。
天沢は綾小路を信じているからこそ、殺しに来る。
「天沢」
綾小路が言った。
「そこを退け」
天沢は嬉しそうに笑った。
「嫌です」
即答だった。
「先輩、あたしを避けて進むんですか?」
「必要ならそうする」
「それは少し寂しいですね」
天沢の姿勢が変わった。
軽い。
自然。
どこにも力が入っていない。
だが、次の瞬間にはどこへでも動ける。
海斗が小さく舌打ちした。
「こいつ、山内とは別方向でやべぇな」
「山内より読みやすいが、危険度は低くない」
綾小路が答える。
「読めるのか?」
「感情の向きは読める」
「動きは?」
「速い」
「分かりやすい説明どうも」
海斗はショットガンを構えた。
その瞬間だった。
天沢の右手が、制服の内側へ滑り込んだ。
綾小路の目がわずかに動く。
海斗も反応した。
だが、天沢の動作は速かった。
抜き出されたのは、黒いハンドガン。
小型で、軽く、彼女の細い手に奇妙なほど馴染んでいた。
「……おい」
海斗の声から軽さが消えた。
「小悪魔ちゃん、そういう玩具は危ねぇぞ」
「玩具じゃありませんよ」
天沢は笑ったまま、銃口を下げた状態で立っている。
「月城さんがくれました。あたしにはこれくらい必要だろうって」
「ガキに銃渡す大人は最低だな」
「そうですね」
天沢はあっさり頷いた。
「でも、ここに最低じゃない大人なんていました?」
その言葉に、誰も答えなかった。
通路の奥で再び爆発が起きる。
天井の照明が一つ落ち、火花を散らしながら床に転がった。
赤い光。
白い蒸気。
黒い銃。
その全てが、天沢一夏の笑みを不気味に浮かび上がらせていた。
「綾小路先輩」
天沢はハンドガンの銃口をゆっくり持ち上げた。
「これなら、先輩はもっと本気になってくれますよね」
次の瞬間。
銃声が通路を裂いた。
綾小路は動いていた。
弾丸は彼のいた場所を通り過ぎ、背後の壁に弾痕を作る。
乾いた破裂音。
石片が飛び散る。
堀北が息を呑む。
麗華が肩を跳ねさせる。
坂柳は杖を強く握った。
「伏せろ!」
海斗が叫んだ。
同時にショットガンが火を噴く。
轟音が狭い通路を揺らした。
だが天沢はもうそこにいない。
発砲した直後に身体を沈め、横へ転がり、倒れた配管の陰へ滑り込んでいた。
「速ぇな、クソッ」
海斗は歯を見せて笑った。
「銃持たせたらもっと面倒くせぇじゃねぇか」
「海斗」
綾小路が短く呼ぶ。
「弾数を数えろ」
「ああ」
海斗は頷く。
「今一発」
天沢のハンドガンが再び鳴った。
二発目。
綾小路は壁際へ身を寄せる。
弾丸が床を叩き、火花を散らした。
三発目。
海斗が横へ跳ぶ。
背後のパイプが破裂し、白い蒸気が吹き出した。
視界が一気に悪くなる。
天沢はその蒸気の向こうから笑っていた。
「いいですね」
声だけが聞こえる。
「先輩、今の避け方、すごく先輩らしかったです」
「感想戦は後にしろ」
海斗が吐き捨てる。
「いや、後があるかも怪しいけどな」
綾小路は通路全体を見ていた。
右手に崩れた配管。
左手に割れた制御盤。
奥には炎。
背後には堀北、麗華、坂柳。
そして壁際にいたはずの山内。
山内はまだ動いていない。
少なくとも、今は。
問題は天沢だ。
彼女は銃を持ったことで単純に危険度を上げただけではない。
天沢は元々、距離を詰める技術が高い。
そこへ中距離の火力が加わった。
近づけば格闘。
離れれば銃撃。
しかも彼女は、綾小路の反応そのものを楽しんでいる。
殺すためだけの銃撃ではない。
追い詰めるため。
測るため。
綾小路清隆という存在を、極限状況で観察するための銃撃だった。
「海斗」
「今度は何だ」
「堀北たちを下げろ」
「お前は?」
「前に出る」
海斗が一瞬だけ綾小路を見た。
「主役様は無茶言うねぇ」
「お前なら対応できる」
「褒めても何も出ねぇぞ」
「褒めてはいない」
「だろうな」
海斗は麗華たちの前へ下がりながら、ショットガンを構え直した。
「おい、お嬢様」
坂柳が目だけを向ける。
「私のことでしょうか」
「他に杖ついたお嬢様がいるかよ」
「随分と雑な呼び方ですね」
「文句は後で聞く。堀北と麗華を連れて、そこの柱の裏まで下がれ」
「分かりました」
坂柳は状況を理解していた。
この場で自分が綾小路たちの足を引っ張ることは、最も避けなければならない。
堀北も麗華も、それを理解して動いた。
「綾小路くん!」
堀北が叫ぶ。
「分かっている」
綾小路は視線を天沢から外さずに答えた。
その短い返答だけで、堀北は唇を噛んで後ろへ下がった。
天沢が配管の影から顔を出す。
「守るんですね」
その声は嬉しそうだった。
「先輩、やっぱり変わりました」
「そうか」
綾小路は無表情で答える。
「変わったオレが不満なら、昔のオレだと思って戦えばいい」
「それはできません」
天沢の銃口が綾小路へ向く。
「あたしは、今の先輩を見たいんです」
四発目。
綾小路は撃たれる前に動いた。
弾丸の軌道を避けたのではない。
銃口の向き、指の動き、肩の角度、呼吸の間。
発砲の前兆を読み、弾が放たれる前に移動していた。
天沢の目が輝く。
「すごい」
五発目。
綾小路は倒れた配管を蹴り、火花の散る制御盤の陰へ入る。
六発目。
制御盤が弾け、火花が爆ぜた。
綾小路の頬を熱が撫でる。
海斗は別角度から撃った。
ショットガンの轟音。
天沢は身を低くし、床を滑るように回避する。
そのまま銃口だけを海斗へ向けた。
七発目。
海斗は柱の裏へ身を引いた。
弾丸が柱を削り、細かな破片が飛ぶ。
「おいおい、女の子がそんな乱暴でいいのかよ」
「朝霧さんに言われたくないです」
「それもそうだ」
海斗は笑いながら、弾を込め直す。
だが、目は笑っていない。
天沢は速い。
そして危険だ。
銃を撃つ姿勢も、素人ではない。
月城がただ渡しただけではない。
撃ち方を教えた。
あるいは、最初から撃てた。
天沢はハンドガンを片手で扱いながら、反動を最小限に抑えている。
軽い身体に似合わない制御力。
それが彼女の異常さを際立たせていた。
「八発」
海斗が言った。
「残りは?」
「銃による」
綾小路は答えた。
「けど、少なくともまだ終わらない」
「だよな」
天沢が笑う。
「数えてるんですね」
「当たり前だろ」
海斗が言った。
「こっちは弾に当たったら痛ぇんだよ」
「痛いで済むんですか?」
「済ませる」
「面白いですね」
天沢の姿が蒸気の中へ消えた。
綾小路はすぐに動いた。
正面にはいない。
右でもない。
音がない。
足音を消している。
だが、蒸気の流れがわずかに乱れた。
左上。
壁面。
天沢は配管を足場にしていた。
九発目。
綾小路は床へ沈む。
弾丸が頭上を抜け、背後の非常灯を破壊した。
赤い光が一つ消える。
通路の半分が暗くなった。
天沢は壁を蹴って降下する。
銃撃から格闘への切り替えが速い。
綾小路は受けない。
避ける。
天沢の蹴りが床を叩き、綾小路の腕を狙って銃口が跳ね上がる。
十発目。
綾小路は天沢の手首を掴んで銃口を逸らした。
発砲音。
弾丸は天井へ向かい、配線を切った。
照明がさらに落ちる。
暗闇が増す。
天沢は笑っていた。
至近距離。
綾小路と天沢の目が合う。
「捕まえましたね、先輩」
「捕まえたのは銃だ」
「あたしは?」
「まだだ」
綾小路は天沢の手首を捻る。
天沢は逆らわない。
むしろ捻られる方向へ身体を回し、関節の圧を逃がす。
同時に左手で綾小路の襟を掴む。
引き寄せる。
膝が飛ぶ。
綾小路は半歩だけ下がり、衝撃を逃がした。
だが、完全には外しきれない。
腹部に重い圧が入る。
呼吸がわずかに乱れる。
天沢の目が細くなる。
「効きました?」
「少し」
「正直ですね」
「嘘をつく意味がない」
綾小路は天沢の腕を離さない。
海斗が横から踏み込む。
「邪魔するぜ」
天沢は視線だけを海斗へ向けた。
「本当に邪魔ですね」
「得意分野だって言ったろ」
海斗のショットガンが銃としてではなく、鈍器として振られる。
天沢は綾小路に掴まれたまま、身体を反らして避けた。
不自然な角度。
普通なら腰を痛める。
だが、天沢はそのまま床に片手をつき、綾小路の拘束を軸にして身体を回転させた。
蹴りが海斗の胸元へ飛ぶ。
海斗は腕で受けた。
衝撃。
海斗の身体が後ろへ押される。
「痛ってぇな、マジで」
「痛いで済ませるんですよね?」
「口まで回るのかよ」
海斗が笑う。
だが、天沢の銃はまだ綾小路の手の中で制御されている。
天沢はそれを理解していた。
次の瞬間、彼女はあっさり銃を手放した。
黒いハンドガンが床へ落ちる。
綾小路の判断が一瞬変わる。
武器を失った天沢。
いや、違う。
手放したのは、綾小路の制御から逃れるため。
天沢は自由になった右手で、綾小路の手首を叩く。
同時に体を沈め、床の銃を足で蹴った。
銃が滑る。
海斗の方へではない。
堀北たちの方へでもない。
通路中央の影へ。
天沢はその銃を追うように転がり、拾い上げる。
十一発目。
狙いは綾小路ではなかった。
海斗の足元。
床の配管に弾丸が当たり、火花が散る。
海斗が反射的に下がる。
そこへ天沢が距離を詰める。
銃を撃つ。
格闘で詰める。
また撃つ。
彼女の戦い方は、銃撃戦でありながら格闘戦だった。
離れて撃つだけではない。
接近するために撃つ。
相手の足を止めるために撃つ。
反応を引き出すために撃つ。
銃という武器を持ちながら、天沢の本質は変わっていなかった。
綾小路清隆を見たい。
綾小路清隆に触れたい。
綾小路清隆に乗り越えられたい。
その歪んだ願望が、彼女の全ての動きを支配していた。
「海斗、下がれ」
「またかよ」
「今度は本当に下がれ」
「分かってる」
海斗は即座に下がった。
今度は言葉と動きが一致している。
天沢は一瞬それを見た。
先ほどの逆。
拒否して下がる。
今回は素直に下がる。
海斗の軽口は、天沢の判断を少しずつ狂わせていた。
その一瞬に、綾小路が前へ出る。
速かった。
天沢の銃口が追いつくより早く、綾小路は距離を潰していた。
天沢は笑う。
「来てくれた」
「終わらせる」
「はい」
天沢は嬉しそうに答えた。
十二発目。
至近距離での発砲。
綾小路は銃身に触れ、角度を逸らした。
弾丸は壁へ向かい、制御盤の残骸に命中した。
その瞬間。
小さな爆発が起きた。
炎ではない。
電気系統の破裂。
青白い閃光が通路を満たし、全員の視界を一瞬奪った。
堀北が腕で顔を庇う。
麗華が坂柳を支える。
海斗は舌打ちしながら姿勢を低くした。
綾小路は目を閉じていなかった。
視界を奪われることも計算に入れていた。
天沢も同じだった。
二人は閃光の中で動いた。
銃声。
十三発目。
綾小路の肩をかすめる。
布が裂け、衝撃だけが走る。
致命傷ではない。
だが、距離は近い。
天沢は本気で当てにきている。
いや、違う。
本気で殺しにきている。
「綾小路くん!」
堀北の声。
綾小路は答えない。
答える余裕がないわけではない。
今、声を返せば天沢の意識がそちらへ向く。
それを避けた。
天沢は笑っていた。
「先輩」
その声は、どこか泣きそうにも聞こえた。
「もっとです」
十四発目。
海斗が撃った。
天沢の弾ではない。
海斗のショットガンが火を噴き、天沢の進路を塞ぐ。
天沢は避ける。
避けた先に、綾小路がいる。
綾小路は読んでいた。
海斗が何を撃つか。
天沢がどこへ逃げるか。
その先で、自分が何をすべきか。
綾小路は天沢の銃を持つ手ではなく、肘を狙った。
手首では逃げられる。
肩では遅い。
肘。
銃口の向きを決める中継点。
そこを押さえる。
天沢の銃口が下がる。
海斗が一歩踏み込む。
「今だろ、綾小路」
「まだだ」
「まだかよ!」
天沢が笑う。
「慎重ですね」
「お前はまだ何かを隠している」
綾小路が言った。
天沢の笑みが深くなる。
「本当に嫌になりますね」
その瞬間、天沢の左手が腰へ伸びた。
二丁目。
小型の拳銃。
海斗の目が見開かれる。
「マジかよ」
十五発目。
二丁目の銃が火を噴いた。
狙いは綾小路ではない。
海斗でもない。
天井のスプリンクラー。
弾丸が金属を破壊し、直後に水ではなく、薬剤混じりの白い噴霧が降り始めた。
視界が白く濁る。
床が濡れる。
足場が悪くなる。
天沢はそれを狙っていた。
軽い身体。
滑る床。
視界不良。
彼女に有利な環境。
「うわ、最悪だな」
海斗が毒づく。
「ここまで来ると、もはや性格悪いってレベルじゃねぇぞ」
「朝霧さんほどじゃありません」
「さっきからそればっかだな!」
天沢の姿が白い霧の中へ消える。
銃声。
十六発目。
海斗の脇を弾が抜ける。
十七発目。
綾小路の足元。
十八発目。
堀北たちの近くの壁。
わざと外している。
いや、追い込んでいる。
天沢は全員の位置を動かしていた。
堀北たちを柱の裏へ固定し、海斗を右へ押し、綾小路を中央へ誘導する。
最後に、綾小路と自分だけの間合いを作るために。
「先輩」
霧の向こうから声がする。
「あたし、先輩と二人で戦いたかったんです」
「なら海斗を撃つ必要はない」
「必要ありますよ」
声が近い。
「朝霧さんは、先輩を人間にしてしまう側の人ですから」
綾小路は動きを止めなかった。
霧の中で、音を聞く。
水滴。
火花。
崩落音。
海斗の呼吸。
堀北の息遣い。
麗華が坂柳を支える衣擦れ。
そして天沢の足音。
足音はしない。
だが、水面が乱れる音がある。
左。
違う。
天沢はわざと音を立てた。
本命は右上。
綾小路は振り返る前に身を沈めた。
十九発目。
弾丸が頭上を抜ける。
綾小路はそのまま床を蹴った。
天沢の腕を掴む。
今度は銃ではない。
身体そのもの。
天沢の細い腕に、綾小路の指が食い込む。
「捕まえた」
綾小路が言った。
天沢は笑った。
「はい」
その笑みを見た瞬間、綾小路は理解した。
捕まえさせた。
天沢は綾小路に拘束されることまで計算していた。
次の銃声。
二十発目。
天沢ではない。
海斗が撃った。
天沢の背後の配管へ。
破裂した配管から高圧の蒸気が噴き出し、天沢の動線を切った。
天沢の計算が崩れる。
綾小路に捕まえられた状態で、背後の逃げ道を失う。
一瞬だけ、天沢の目が海斗へ向いた。
「邪魔……」
「だから言ったろ」
海斗は笑っていた。
「邪魔すんのが仕事なんだよ」
綾小路はその一瞬を逃さなかった。
天沢の銃を持つ手を壁に叩きつける。
銃が落ちる。
二丁目も蹴り飛ばす。
床を滑った銃を、海斗が足で止めた。
「はい、没収」
海斗が銃を蹴って遠ざける。
「小悪魔ちゃんに銃は早ぇよ」
天沢はそれでも笑っていた。
息が乱れている。
腕も震えている。
だが、笑っている。
「すごい」
彼女は綾小路を見た。
「先輩、やっぱりすごいです」
「もう終わりだ」
綾小路は言った。
「これ以上やれば、お前は死ぬ」
「それでいいです」
即答だった。
堀北の顔が強張る。
麗華も言葉を失う。
坂柳だけが、静かに目を伏せた。
天沢は続ける。
「好きだから、先輩が本物だって証明したい」
「好きだから、あたしを殺してでも進んでほしい」
海斗の表情から笑みが消えた。
「お前、それ本気で言ってんのか」
「はい」
天沢は即答した。
「重すぎんだろ」
海斗は低く吐き捨てた。
「綾小路、こういう女は早めに距離取っとけ」
「今それを言う状況か」
「今だから言ってんだよ」
天沢が笑う。
「朝霧さん、邪魔です」
「だろうな」
海斗はショットガンを構え直す。
「でも邪魔すんのが仕事なんでね」
天沢が一気に踏み込んだ。
銃を失っても、彼女の危険度は消えていない。
狙いは海斗ではない。
麗華だった。
海斗が動く。
だが、綾小路も同時に動いた。
天沢は海斗の護衛反応を狙っていた。
麗華を狙えば海斗が出る。
海斗が出れば綾小路との連携が切れる。
山内も使った手だ。
だが、天沢は山内よりも感情的にそれを使う。
綾小路はそこを読んでいた。
海斗は麗華の前へ出る。
天沢はその背後を取ろうとする。
しかし綾小路が天沢の進路へ入る。
天沢の目が輝く。
「やっぱり」
綾小路が来ることを望んでいた。
それが罠だった。
天沢は袖の内側から、最後の武器を抜いた。
小型のハンドガン。
三丁目。
海斗が叫ぶ。
「綾小路!」
銃口は綾小路の胸元へ向いていた。
距離は近い。
避けきるには遅い。
だが、綾小路は表情を変えなかった。
彼は踏み込んだ。
逃げるのではなく、前へ。
銃口の内側へ。
発砲の角度を潰す。
天沢の指が引き金を引く。
銃声。
弾丸は綾小路の身体を外れ、背後の壁へ逸れた。
綾小路の手が天沢の手首を抑えていた。
同時に、海斗が横から銃床を叩き込む。
天沢の体勢が崩れる。
それでも彼女は銃を離さない。
綾小路はその手を完全に制圧する。
海斗は叫ぶ。
「離せ!」
天沢は笑う。
「嫌です」
次の瞬間、通路の奥で大きな爆発が起きた。
衝撃波が走る。
床が揺れる。
天井から破片が落ちる。
全員の体勢が崩れた。
天沢はその揺れを利用した。
綾小路の制御が一瞬だけ緩む。
天沢は銃口を持ち上げる。
狙いは、今度こそ麗華でも海斗でもない。
堀北だった。
綾小路を動かすために。
綾小路に選ばせるために。
「先輩」
天沢は微笑んだ。
「守ってください」
発砲。
綾小路は堀北の前へ入った。
同時に海斗も麗華を押し倒すように伏せさせた。
弾丸は綾小路の肩をかすめ、背後の壁に突き刺さった。
堀北の息が止まる。
「綾小路くん!」
「問題ない」
綾小路は短く答えた。
だが、その声に普段よりわずかな硬さがあった。
天沢はそれを見て、恍惚としたように笑った。
「やっぱり、先輩は守るんですね」
綾小路はゆっくりと天沢を見た。
その目に、怒りはなかった。
憎しみもなかった。
ただ、決定だけがあった。
「天沢」
「はい」
「お前はここで止める」
「嬉しいです」
天沢は銃を構えた。
「先輩に止めてもらえるなら」
次の瞬間、綾小路と海斗が同時に動いた。
海斗は撃たない。
撃てば堀北たちに危険が及ぶ。
だから彼は走った。
ショットガンを捨てるように背中へ回し、腰のハンドガンを抜く。
だが撃たない。
銃口で天沢の視線を誘導するだけ。
天沢の目が海斗の銃へ向く。
その一瞬に、綾小路が真正面から踏み込む。
天沢は綾小路を撃とうとする。
しかし海斗の銃口が視界の端にある。
撃てば、海斗に撃たれる。
撃たなければ、綾小路に捕まる。
判断の猶予は一瞬。
天沢は笑った。
彼女は綾小路を選んだ。
海斗を無視し、綾小路へ銃口を向ける。
それこそが、綾小路の読みだった。
天沢は綾小路を見すぎている。
最後の最後まで。
綾小路は発砲より先に銃口を外した。
海斗の銃が鳴る。
乾いた一発。
天沢の手から銃が弾き飛ばされた。
同時に綾小路の拳が天沢の鳩尾へ入る。
天沢の身体が折れる。
さらに海斗が肩を押さえ、綾小路が腕を制する。
完全に動きを止めた。
天沢は膝をついた。
息を吐く。
苦しそうなのに、まだ笑っていた。
「すごい」
天沢はかすれた声で言った。
「二人とも、すごいです」
海斗は低く言った。
「黙って寝てろ」
「嫌です」
天沢は顔を上げた。
その視線は綾小路だけを見ていた。
「先輩」
「何だ」
「あたしは、先輩の敵になれましたか?」
綾小路は少しだけ沈黙した。
天沢の問いは、あまりにも歪んでいた。
だが、そこに嘘はなかった。
天沢一夏は最後まで、自分の意思でここに立っていた。
「なれた」
綾小路は答えた。
天沢の表情が、初めて少女のように緩んだ。
「よかった」
その瞬間。
床の下から低い振動が響いた。
自爆シーケンスがさらに進行したのだ。
通路の奥で隔壁が落ちる。
炎が走る。
天井の一部が崩れ、巨大な破片が落下した。
海斗が麗華を抱えるように引き寄せる。
堀北は坂柳の肩を支える。
綾小路は天沢を見た。
天沢のすぐ背後。
崩れた制御盤から火花が散っていた。
そこに、先ほど弾丸が当たった薬剤管が破裂しかけている。
危険だった。
爆発する。
綾小路は天沢へ手を伸ばした。
「立て」
天沢は動かなかった。
「天沢」
「先輩」
天沢は笑った。
「あたしは、ここまでです」
「勝手に決めるな」
「いいんです」
天沢の声は穏やかだった。
「あたし、先輩に止めてもらえました」
次の瞬間、制御盤が破裂した。
爆炎ではなく、白い閃光と衝撃が通路を満たした。
綾小路は前へ出ようとした。
だが、海斗が腕を掴んだ。
「無理だ!」
「離せ」
「行ったらお前も巻き込まれる!」
綾小路は海斗を見た。
その一瞬で、判断した。
天沢までの距離。
炎の広がり。
落下する天井。
背後の堀北たち。
助けられる可能性。
助けに行くことで失うもの。
全てを計算した。
結論は、残酷だった。
届かない。
天沢はその答えを分かっていたように笑っていた。
炎と白い煙の向こうで、彼女の姿が揺れる。
「綾小路先輩」
声が聞こえた。
「先へ進んでください」
それが、天沢一夏の最後の言葉だった。
次の爆発で、通路の一部が完全に崩落した。
炎が壁のように立ち上がり、白い煙が全てを覆った。
堀北が口元を押さえる。
麗華は海斗の腕を掴んでいた。
坂柳は静かに目を閉じる。
海斗は歯を食いしばっていた。
綾小路は、炎の向こうを見ていた。
天沢一夏は、もう見えなかった。
銃声も、笑い声も、足音もない。
ただ、崩壊する施設の轟音だけが響いていた。
「……死んだの?」
麗華が小さく言った。
誰もすぐには答えなかった。
やがて綾小路が言った。
「ああ」
声は静かだった。
だが、堀北はその静けさの奥にあるものを感じ取った。
怒りではない。
悲しみとも少し違う。
もっと深い場所で、何かを押し殺しているような声だった。
天沢一夏は敵だった。
綾小路を殺そうとした。
堀北たちを利用し、海斗を挑発し、この場をさらに危険にした。
それでも、最後の瞬間まで彼女は一人の人間だった。
歪んでいても。
理解できなくても。
彼女自身の意思で、綾小路清隆の前に立った。
海斗が長く息を吐いた。
「胸糞悪ぃな」
誰も否定しなかった。
「殺したのは月城だ」
綾小路が言った。
海斗は綾小路を見る。
「分かってる」
綾小路は続けた。
「天沢は自分で選んだ。だが、あの状況を作ったのは月城だ」
「なら、どうする」
海斗の声は低かった。
綾小路は炎の向こうから視線を外した。
「進む」
その言葉に迷いはなかった。
「月城を止める」
海斗は少しだけ笑った。
「いいねぇ」
その笑みは、いつもの軽い笑みではなかった。
「ようやく主役っぽいこと言うじゃねぇか」
「茶化すな」
「悪いな。癖なんだよ」
堀北は綾小路の横顔を見た。
肩をかすめた傷。
煤で汚れた制服。
それでも、綾小路清隆は倒れていない。
天沢はそれを見たかったのだろう。
どれほど撃たれても。
どれほど追い詰められても。
誰かを守ることで弱くなったように見えても。
それでも前へ進む綾小路清隆を。
「綾小路くん」
堀北が言った。
「肩は?」
「動く」
「答えになっていないわ」
「問題ないという意味だ」
「あなたの問題ないは信用できないのだけれど」
海斗が横から言った。
「安心しろ、堀北。こいつの問題ないはだいたい問題ある」
「海斗、あなたも人のこと言えないわ」
麗華が睨む。
「さっき腕、まともに食らってたじゃん」
「見てたのか」
「見てたわよ」
「惚れ直したか?」
「馬鹿」
麗華は顔を赤くしながらも、海斗の袖を離さなかった。
海斗は一瞬だけ笑う。
「歩けるか」
「歩ける」
「強がりか?」
「半分」
「正直でよろしい」
坂柳が静かに咳き込んだ。
堀北が支える。
「坂柳さん」
「大丈夫です」
坂柳は炎の向こうを見た。
「天沢さんは、最後まで綾小路くんしか見ていませんでしたね」
「そうだな」
綾小路は答えた。
坂柳は目を細める。
「だからこそ負けた。けれど、だからこそ届いたものもあるのかもしれません」
海斗が肩をすくめる。
「難しい話は後にしてくれ、お嬢様。今はここ、普通に燃えてる」
「それもそうですね」
坂柳は薄く笑った。
その時、海斗がふと壁際を見た。
「……おい」
綾小路も同時に気付いた。
山内春樹がいない。
壁際に座らせていたはずの山内が、消えていた。
そこには血の跡も、争った跡もない。
ただ、山内がいた場所だけが空白になっていた。
堀北が顔を強張らせる。
「いつの間に……」
坂柳が目を細めた。
「天沢さんの銃撃と爆発に紛れたのでしょうね」
麗華が不安そうに周囲を見る。
「自分で逃げたの?」
「あるいは誰かが回収した」
綾小路は静かに言った。
海斗が舌打ちした。
「最高傑作ってのは、負けても手間かけさせるんだな」
山内が消えた。
それは単なる逃亡ではない。
この後の戦いに、必ず影を落とす。
綾小路はそう判断した。
海斗はショットガンを担ぎ直した。
「で、どうする」
「進む」
綾小路は答えた。
「山内を追わないのか?」
「今は堀北たちを連れて脱出する方が優先だ」
「ま、そうだな」
海斗は麗華を見た。
「歩けるか」
「歩けるって言ったでしょ」
「なら行くぞ」
麗華は頷いた。
堀北は坂柳を支えながら、綾小路の隣へ並んだ。
「綾小路くん」
「何だ」
「無理をしているなら、言いなさい」
「言ってどうする」
「怒るわ」
「それは困るな」
堀北はわずかに眉を寄せた。
「今、冗談を言ったの?」
「海斗の影響かもしれない」
海斗が振り返る。
「おい、何でもオレのせいにすんな」
麗華が即座に言った。
「だいたいあなたのせいでしょ」
「ひでぇな」
その軽いやり取りの中にも、全員の足は止まらなかった。
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