ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第35話 最高傑作を超える者

背後では、天沢一夏が消えた通路が炎に呑まれていく。

 

赤い光が揺れる。

 

白い煙が天井へ溜まる。

 

警報が鳴り続ける。

 

白銀禁止区域は、ゆっくりと死に向かっていた。

 

通路の奥で、スピーカーにノイズが走った。

 

ざらついた音。

 

そして、低い笑い声。

 

月城ではない。

 

もっと若い声。

 

もっと乾いた声。

 

『やっと終わったんですね』

 

八神拓也の声だった。

 

海斗が顔をしかめる。

 

「今度は何だよ」

 

綾小路は足を止めない。

 

スピーカーの向こうで、八神は静かに言った。

 

『一夏は、最後まであなたを信じていたみたいですね』

 

綾小路は答えない。

 

『でも僕は違います』

 

声が近づいているように聞こえた。

 

『僕はあなたを信じていない』

 

ノイズ。

 

警報。

 

崩壊音。

 

その全ての向こうで、八神拓也の声だけが鋭く響く。

 

『僕はあなたを超えたい』

 

海斗が低く笑った。

 

「人気者だな、綾小路」

 

「嬉しくはない」

 

「だろうな」

 

綾小路清隆は歩き出した。

 

海斗も隣を歩く。

 

一人は静かに。

 

一人は笑いながら。

 

だが、二人の目は同じ方向を見ていた。

 

赤い非常灯の下で、二人のマスターピースは、さらに深い闇へ進んでいく。

 

爆発の余熱はまだ消えていない。

 

焦げた匂い。

 

砕けた天井材。

 

床に散った金属片。

 

そして、先ほどまで天沢が笑っていた場所。

 

そこだけが、妙に静かだった。

 

堀北鈴音は一度だけ振り返った。

 

理解できない敵だった。

 

綾小路を信じているからこそ敵になる。

 

綾小路に乗り越えられたいからこそ立ちはだかる。

 

その感情は、堀北には最後まで分からなかった。

 

だが、分からないからこそ、胸の奥に重いものが残った。

 

「堀北さん」

 

隣で麗華が声をかけた。

 

「大丈夫?」

 

堀北は前を向いた。

 

「大丈夫よ」

 

「顔、全然大丈夫じゃないけど」

 

「あなたも似たような顔をしているわ」

 

「うん。大丈夫じゃないからね」

 

麗華は正直に言った。

 

「でも、歩ける」

 

「それなら十分よ」

 

二人は並んで歩いた。

 

前方には綾小路と海斗。

 

少し離れて坂柳有栖。

 

山内春樹は、もういない。

 

天沢の爆発による煙と混乱。

 

そのわずかな時間に、壁際に座らされていたはずの山内は姿を消していた。

 

自分で逃げたのか。

 

誰かに回収されたのか。

 

それとも、月城が別の仕掛けを動かしたのか。

 

誰にも分からない。

 

だが、綾小路はその空白を忘れていなかった。

 

「山内の件、気にしてるのか」

 

海斗が横から言った。

 

「気にしていないと言えば嘘になる」

 

「だろうな」

 

海斗はショットガンを肩に担いで、歩きながら周囲を見ている。

 

軽口を叩いているが、警戒は解いていない。

 

「普通なら倒して終わりだ。だがあいつは普通じゃねぇ。

しかも月城が捨てた駒を本当に捨てるかも怪しい」

 

「月城が回収した可能性はある」

 

「最悪だな」

 

「最悪を想定して動くべきだ」

 

「お前といると、人生の教訓が暗すぎるんだよ」

 

海斗はそう言いながらも、前を見る目は鋭かった。

 

通路の奥で、また爆発が起きる。

 

床が揺れ、麗華が一瞬よろけた。

 

海斗は振り返らず、片手だけを後ろへ伸ばした。

 

麗華はその手を掴んだ。

 

「平気か」

 

「平気じゃない」

 

「だろうな」

 

「でも、ありがと」

 

「礼は帰ってからにしろ」

 

「帰れるんだよね?」

 

海斗は短く笑った。

 

「帰るんだよ。ツキや尊たちも待ってる」

 

麗華はその言葉に頷いた。

 

堀北はそのやり取りを見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。

 

こんな状況でも、二人の間には確かな繋がりがある。

 

それは自分と綾小路の関係とはまるで違う。

 

だが、違うからこそ見えてくるものもあった。

 

綾小路は何も言わずに前を歩いている。

 

表情は変わらない。

 

天沢の死にも。

 

山内の消失にも。

 

月城の自爆宣言にも。

 

感情を揺らした様子は見えない。

 

けれど、堀北はもう知っていた。

 

綾小路清隆という人間は、無感情なのではない。

 

感情を表に出す必要がないと判断しているだけだ。

 

あるいは、出し方を知らないだけかもしれない。

 

「綾小路くん」

 

堀北が声をかけた。

 

綾小路は少しだけ振り向く。

 

「何だ」

 

「天沢さんの言葉、気にしている?」

 

「八神のことか」

 

「ええ」

 

綾小路は前を向いた。

 

「気にしている」

 

意外なほど素直な返答だった。

 

「八神拓也は、天沢とは違う」

 

坂柳が杖をつきながら言った。

 

「天沢さんはあなたを信じていた。

歪んではいても、彼女の中心にはあなたへの信仰がありました」

 

「八神は?」

 

麗華が尋ねる。

 

坂柳は少しだけ目を細めた。

 

「彼にあるのは、憧れと嫉妬と劣等感でしょう」

 

海斗が鼻で笑う。

 

「面倒な感情フルコースだな」

 

「ええ」

 

坂柳は静かに続けた。

 

「ホワイトルーム生にとって、綾小路くんは一つの基準です」

 

綾小路は何も言わない。

 

「最高傑作」

 

坂柳はその言葉を、あえて口にした。

 

「八神くんにとって、あなたは超えるべき壁なのでしょう。

殺したいのではなく、壊したいのでもなく、超えたい。

自分があなたより上だと証明したい」

 

「それって、殺すのと何が違うの?」

 

麗華が眉をひそめる。

 

「結果は同じになり得ます」

 

坂柳は言った。

 

「ですが、動機が違います。動機が違えば、戦い方も違う」

 

海斗が綾小路を横目で見る。

 

「で、どうすんだ」

 

「進む」

 

「それだけかよ」

 

「八神が待っているなら、避ける意味はない」

 

海斗はしばらく黙った。

 

それから、珍しく真面目な声で言った。

 

「綾小路」

 

「何だ」

 

「八神って奴は、お前と同じ場所の人間なんだろ」

 

「ああ」

 

「なら、オレは邪魔しねぇ」

 

堀北が驚いたように海斗を見る。

 

麗華も目を丸くした。

 

「海斗?」

 

海斗は軽く肩をすくめた。

 

「勘違いすんなよ。手抜きするわけじゃねぇ。堀北と麗華とお嬢様は守る」

 

坂柳が微笑む。

 

「お嬢様呼びは変わらないのですね」

 

「呼びやすいからな」

 

海斗は前を見たまま続けた。

 

「だが、八神が綾小路を超えたいってんなら、そこにオレが割り込むのは違うだろ」

 

綾小路は海斗を見た。

 

「珍しくまともなことを言うな」

 

「ぶん殴るぞ」

 

「今はやめておけ」

 

「あとで覚えとけ」

 

麗華が小さく笑った。

 

「海斗、そういうところはちゃんとしてるよね」

 

「普段もちゃんとしてる」

 

「してない」

 

「即答すんな」

 

その軽口で、張り詰めた空気が少しだけ緩む。

 

だが、次の瞬間。

 

通路の奥の照明が一斉に消えた。

 

警報音が一段低くなる。

 

闇。

 

赤い非常灯すら一瞬消える。

 

そして、奥の暗闇から声がした。

 

「待っていました」

 

静かな声。

 

落ち着いていて、整っていて、それでいて底に燃えるものを隠しきれていない声。

 

八神拓也だった。

 

非常灯が再び点滅する。

 

赤い光の中に、八神の姿が浮かび上がった。

 

制服は乱れていない。

 

髪も整っている。

 

崩壊する施設の中にいるには、あまりにも場違いなほど清潔だった。

 

その立ち姿には、山内のような無機質さも、天沢のような狂気もない。

 

だが、もっと深い執着があった。

 

「綾小路清隆」

 

八神は名前を呼んだ。

 

その声には、長い時間をかけて煮詰められた感情が宿っていた。

 

「ようやく、あなたと向き合える」

 

綾小路は前へ出た。

 

海斗は一歩下がった。

 

宣言通り、介入しない位置へ移動する。

 

だが銃口は下げない。

 

八神が堀北や麗華へ狙いを変えた瞬間に撃てる距離。

 

観戦に回ると言っても、守ることを放棄したわけではない。

 

八神はその動きを見て、少しだけ笑った。

 

「朝霧海斗さんは、手を出さないんですね」

 

「お前が綾小路とやりたいんだろ」

 

海斗は言った。

 

「なら邪魔しねぇよ」

 

「意外です」

 

「よく言われる」

 

「ですが、もし僕が堀北先輩たちを狙ったら?」

 

「その時は撃つ」

 

即答だった。

 

「なるほど」

 

八神は満足したように頷く。

 

「分かりやすい人だ」

 

「お前らホワイトルーム組は、いちいち面倒くせぇな」

 

八神の目が少しだけ細くなった。

 

「僕たちは面倒なのではありません」

 

「じゃあ何だ」

 

「必要だったんです」

 

八神は綾小路へ視線を戻す。

 

「綾小路清隆という存在を超えるために」

 

その言葉で、空気が変わった。

 

八神の目的は明確だった。

 

月城の命令ではない。

 

学校の試験でもない。

 

復讐でもない。

 

信仰でもない。

 

ただ、超えること。

 

ホワイトルーム生として。

 

最高傑作と呼ばれ続けた綾小路清隆を超え、自分の存在を証明すること。

 

「僕はずっと、あなたの影を見てきました」

 

八神は静かに話し始めた。

 

「直接会ったことがなくても、あなたはそこにいた」

 

綾小路は黙っている。

 

「記録の中に、教官の言葉の中に、達成できない基準の中に。

そして、僕たち自身の劣等感の中に」

 

八神の声は少しずつ熱を帯びていく。

 

「あなたは基準でした、あなたは頂点でした、

あなたは、僕たちがどれだけ積み上げても届かない完成形だった」

 

海斗は黙って聞いていた。

 

いつもの軽口はない。

 

麗華も堀北も、八神の言葉に息を呑んでいる。

 

坂柳は静かに目を細めていた。

 

八神の言葉は、坂柳にとっても興味深かった。

 

人工的な天才を否定しようとする彼女にとって、八神は山内とは違う証拠だった。

 

山内は作り替えられた怪物。

 

八神は教育の中で育った怪物。

 

そしてその怪物は、綾小路という基準に人生を歪められている。

 

「八神」

 

綾小路がようやく口を開いた。

 

「お前がオレをどう見ていたかは分かった」

 

八神の視線が鋭くなる。

 

「それだけですか」

 

「ああ」

 

「あなたらしいですね」

 

八神は笑った。

 

「そうやって、僕の感情さえも情報として処理する」

 

「感情で動けば隙が生まれる」

 

「ええ」

 

八神は頷いた。

 

「だからこそ、僕は感情を武器にしました」

 

次の瞬間。

 

八神が動いた。

 

速い。

 

天沢のような軽さではない。

 

山内のような直線的な最適化でもない。

 

八神の動きは、綾小路に似ていた。

 

無駄がない。

 

必要最低限。

 

相手の反応を誘い、次の手を置く。

 

綾小路が半歩下がる。

 

八神の拳が目の前を通過する。

 

綾小路は腕を取ろうとする。

 

八神はそれを読んでいた。

 

手首を返し、逆に綾小路の肘を狙う。

 

綾小路はかわす。

 

床を踏む音が重なる。

 

一瞬の攻防。

 

それだけで、堀北には分かった。

 

これは今までの戦いと違う。

 

派手ではない。

 

山内戦のような怪物同士の激突ではない。

 

天沢戦のような狂気と軽さでもない。

 

もっと静かで、もっと速く、もっと深い。

 

一手一手が、相手の思考へ直接触れているような戦いだった。

 

八神が踏み込む。

 

綾小路が受ける。

 

受けながら流す。

 

八神は流される前に力を抜き、角度を変える。

 

綾小路が追う。

 

八神が距離を取る。

 

二人はほとんど表情を変えない。

 

だが、空気だけが張り詰めていく。

 

海斗は壁際で見ていた。

 

ショットガンを下げている。

 

だが、目は真剣だった。

 

「海斗」

 

麗華が小さく呼ぶ。

 

「本当に手を出さないの?」

 

「ああ」

 

「綾小路くんが危なくても?」

 

「死にそうなら別だ」

 

海斗は答えた。

 

「でも今は違う」

 

「分かるの?」

 

「分かる」

 

海斗は二人の戦いから目を離さない。

 

「これは綾小路の喧嘩だ」

 

麗華はそれ以上何も言わなかった。

 

堀北は拳を握っていた。

 

綾小路が強いことは知っている。

 

だが、八神も異常だった。

 

ホワイトルーム生。

 

その言葉の意味が、今ようやく目の前で形を持っている。

 

八神は強い。

 

単純な戦闘力だけではない。

 

綾小路の動きに近い。

 

考え方に近い。

 

そして何より、綾小路を超えるために綾小路を研究し尽くしている。

 

八神の拳が綾小路の肩を掠めた。

 

布が裂ける。

 

堀北が息を呑む。

 

八神が笑う。

 

「届きましたよ」

 

綾小路は肩を見ない。

 

「掠っただけだ」

 

「ええ」

 

八神の目が熱を帯びる。

 

「でも、届いた」

 

八神は再び踏み込む。

 

今度は連続攻撃。

 

拳。

 

肘。

 

膝。

 

足払い。

 

綾小路はすべて処理する。

 

だが、八神は一手ごとに角度を変えてくる。

 

綾小路が取るだろう最適解を予測し、その先に自分の攻撃を置く。

 

まるで、綾小路自身の思考を模倣しているようだった。

 

「似ている」

 

坂柳が呟いた。

 

堀北が聞き返す。

 

「何が?」

 

「八神くんは、綾小路くんを模倣している」

 

「模倣?」

 

「ええ」

 

坂柳は静かに続ける。

 

「けれど、完全ではありません」

 

「どういうこと?」

 

「八神くんは綾小路くんを超えたいあまり、綾小路くんを見すぎている」

 

その言葉は、山内戦の敗因にも通じていた。

 

綾小路を見すぎる。

 

綾小路を基準にしすぎる。

 

綾小路を超えたいという意識が、逆に自分の自由を奪う。

 

だが、八神は山内ほど単純ではない。

 

彼はその危険も理解している。

 

理解した上で、それでも超えようとしている。

 

八神が距離を取った。

 

息は少し上がっている。

 

綾小路の呼吸も、わずかに深くなっていた。

 

「あなたは本当に嫌な人ですね」

 

八神が言った。

 

「何がだ」

 

「僕がどれだけ積み上げたかを、何も知らない顔で受け止める」

 

「知る必要がない」

 

八神の表情が少し歪む。

 

「そうです」

 

「あなたはそういう人だ」

 

「だから超えたい」

 

八神の声が低くなる。

 

「あなたに認められたいわけじゃない、あなたに褒められたいわけでもない。

ただ、あなたより上に立つ、それだけが、僕が僕である証明なんです」

 

綾小路は静かに言った。

 

「証明する相手を間違えている」

 

八神の目が鋭くなる。

 

「何?」

 

「お前が自分を証明したいなら、オレを基準にする必要はない」

 

その言葉に、八神の表情が初めて明確に崩れた。

 

怒り。

 

屈辱。

 

拒絶。

 

「簡単に言いますね」

 

八神の声が震えていた。

 

「あなたは、最初から頂点だったから」

 

「違う」

 

綾小路は即座に否定した。

 

「オレは頂点にいたかったわけじゃない」

 

「それが腹立たしいんです」

 

八神が叫ぶように言った。

 

「あなたが望んでもいない場所を、僕たちは目指させられた。

あなたが興味もない称号を、僕たちは欲しがらされた。

最高傑作、完成品、基準、その全てがあなたに与えられて、

あなた自身はそれをどうでもいいもののように扱う」

 

八神の足が床を蹴った。

 

再び攻撃。

 

先ほどより速い。

 

感情が混ざったことで、動きは荒くなっている。

 

だが同時に、読みにくくもなっていた。

 

綾小路は受ける。

 

八神の拳が綾小路の腕に当たる。

 

鈍い音。

 

綾小路が半歩下がる。

 

八神がさらに踏み込む。

 

「僕は」

 

拳。

 

「あなたを」

 

肘。

 

「超えるために」

 

蹴り。

 

「ここまで来た」

 

綾小路は最後の蹴りを流し、八神の腕を取った。

 

八神はそれを読んでいた。

 

逆に綾小路の手首を取り返す。

 

二人の腕が絡む。

 

関節の取り合い。

 

体勢の奪い合い。

 

ほんの数秒の中で、何度も優位が入れ替わる。

 

海斗が低く呟いた。

 

「化け物同士の将棋かよ」

 

麗華が不安そうに見る。

 

「どっちが勝ってるの?」

 

「今は互角に見える」

 

海斗は正直に言った。

 

「でも、綾小路はまだ奥を見てる」

 

「奥?」

 

「八神の攻撃じゃねぇ」

 

海斗の目が細くなる。

 

「あいつが何に縛られてるかだ」

 

八神が綾小路の制御を外し、距離を取る。

 

額に汗が浮かんでいた。

 

綾小路も完全に無傷ではない。

 

肩。

 

腕。

 

脇腹。

 

細かな打撃は入っている。

 

だが、致命的な崩れはない。

 

八神はそれを見て、笑った。

 

「やっぱり届かない」

 

その笑みは楽しげではなかった。

 

「これだけやっても、まだ届かない」

 

「八神」

 

綾小路が言った。

 

「お前はオレを見すぎている」

 

八神の表情が止まる。

 

「山内先輩にも似たようなことを言いましたね」

 

「ああ」

 

「僕を彼と同じにしないでください」

 

八神の声に怒りが混じる。

 

「僕は、あんな作り替えられた失敗作とは違う」

 

「違う」

 

綾小路は認めた。

 

「お前は山内より強い」

 

八神の目がわずかに揺れる。

 

「だが、敗因は似ている」

 

八神の顔から笑みが消えた。

 

「お前はオレを超えるために、オレを基準にした」

 

綾小路は一歩前に出る。

 

「オレの動きを研究した、オレの思考を模倣した。

オレが取りそうな選択肢を先回りした、だからここまで戦えた」

 

八神は黙っている。

 

「だが、それはお前自身の戦いじゃない」

 

その言葉は、八神に深く刺さった。

 

「黙れ」

 

八神が低く言った。

 

「黙れ、綾小路」

 

彼が踏み込む。

 

今までで最速。

 

怒りで荒れた動きではない。

 

むしろ、すべての感情を一点に凝縮したような動き。

 

綾小路を超える。

 

その一点だけに絞った攻撃。

 

綾小路は受けた。

 

八神の拳が迫る。

 

綾小路は半歩だけずれる。

 

八神は読んでいる。

 

その半歩も予測済み。

 

追撃が来る。

 

綾小路はそこで、予測の外へ出た。

 

退かない。

 

受けない。

 

流さない。

 

前へ出た。

 

八神の目がわずかに見開かれる。

 

綾小路は八神の間合いの内側へ入り、肩で攻撃の軌道を潰す。

 

八神が反応する前に、腕を制御する。

 

足を払う。

 

重心を落とす。

 

八神は踏み止まろうとする。

 

だが、その踏み止まりも読まれていた。

 

綾小路の拳が八神の腹部へ入った。

 

重い音。

 

八神の呼吸が止まる。

 

綾小路は追撃しない。

 

八神は膝をつきかけ、必死に耐えた。

 

「まだ……」

 

八神が呟く。

 

「まだ終わっていない」

 

彼は立ち上がろうとする。

 

だが身体が言うことを聞かない。

 

それでも立とうとする。

 

綾小路は見ていた。

 

「八神」

 

「黙れ」

 

「お前は強い」

 

「黙れ」

 

「だが、オレを超えるためだけに戦う限り、オレを超えられない」

 

八神の目が大きく見開かれる。

 

その言葉は、敗北以上に残酷だった。

 

八神にとって、綾小路を超えることがすべてだった。

 

そのすべてが、超えられない理由だと言われた。

 

八神は笑った。

 

壊れたような笑いではない。

 

悔しさに震える笑みだった。

 

「本当に……」

 

彼は顔を上げた。

 

「あなたは最後まで、嫌な人だ」

 

綾小路は何も言わない。

 

八神は膝をついた。

 

完全に。

 

敗北。

 

堀北は息を吐いた。

 

麗華も肩の力を抜く。

 

海斗はショットガンを下げたまま、八神を見ていた。

 

「終わったか」

 

「戦闘はな」

 

綾小路が答える。

 

その時。

 

八神の手が、床に落ちていた小型端末へ伸びた。

 

海斗が即座に銃口を向ける。

 

「動くな」

 

八神は笑った。

 

「朝霧さん」

 

「何だ」

 

「あなたは本当に、今日は観客なんですね」

 

「綾小路の戦いだからな」

 

「羨ましいです」

 

八神の声は静かだった。

 

「あなたは、自分の理由でそこに立っている」

 

海斗は答えない。

 

八神は端末に触れた。

 

綾小路は動かなかった。

 

端末は起爆装置ではなかった。

 

八神が起動したのは、通路の隔壁制御だった。

 

遠くで重い音が響く。

 

「退路を一つ開けました」

 

堀北が驚く。

 

「なぜ……」

 

八神は薄く笑った。

 

「勝者には、先へ進む権利があります」

 

綾小路は八神を見る。

 

「月城の命令に背くのか」

 

「僕は月城さんの駒ではありません」

 

八神は言った。

 

「最後まで、あなたを超えようとしただけです」

 

その声は弱くなっていた。

 

施設の振動がさらに大きくなる。

 

天井から粉塵が落ちる。

 

坂柳が前へ出る。

 

「八神くん」

 

八神は坂柳を見る。

 

「あなたは、綾小路くんを見すぎた」

 

「ええ」

 

八神は素直に認めた。

 

「ですが、見ずにはいられなかった」

 

坂柳は目を伏せた。

 

「それもまた、人工的な天才の悲劇ですね」

 

八神は笑った。

 

「あなたらしい言い方です」

 

その瞬間、通路の奥から銃声が響いた。

 

一発。

 

八神の身体が揺れた。

 

堀北が悲鳴を飲み込む。

 

海斗が即座に銃口を向ける。

 

綾小路も振り向く。

 

暗闇の奥に、司馬の影があった。

 

無表情。

 

銃を下ろす。

 

月城の声がスピーカーから流れる。

 

『残念です、八神くん』

 

『あなたは最後に、試験の進行を乱しました』

 

八神は床に崩れ落ちる。

 

綾小路が近づこうとする。

 

しかし、司馬の銃口がそれを制する。

 

海斗が低く言った。

 

「撃つぞ」

 

司馬は動かない。

 

月城の声が続く。

 

『綾小路くん、進みなさい』

 

『八神くんは、もう試験を終えました』

 

八神はかすかに笑った。

 

「綾小路……清隆」

 

綾小路は八神を見た。

 

八神の目は、まだ消えていない。

 

「僕は……あなたを超えられませんでした」

 

綾小路は答えない。

 

八神は最後の力で言った。

 

「でも……一度だけでも……あなたと戦えた。

それで……十分だったとは、言いたくないですね」

 

八神の手が床に落ちる。

 

目が閉じる。

 

その身体はもう動かなかった。

 

堀北は唇を噛んだ。

 

麗華は顔を青ざめさせていた。

 

坂柳は静かに目を伏せる。

 

海斗は小さく舌打ちした。

 

「胸糞悪い終わり方だな」

 

綾小路は司馬を見た。

 

司馬は何も言わない。

 

ただ銃を構えたまま、ゆっくりと後退していく。

 

追えば戦闘になる。

 

だが今は、堀北たちを連れて脱出する必要がある。

 

八神が開けた退路は、まだ使える。

 

綾小路は判断した。

 

「行くぞ」

 

堀北が顔を上げる。

 

「でも……」

 

「今は進む」

 

堀北は八神を見た。

 

そして、目を伏せた。

 

「分かったわ」

 

海斗が綾小路の横に並ぶ。

 

「大丈夫か」

 

「問題ない」

 

「嘘つけ」

 

綾小路は海斗を見る。

 

海斗は珍しく茶化さなかった。

 

「今のは、お前の喧嘩だった」

 

「ああ」

 

「だからオレは口出ししねぇ」

 

海斗はショットガンを担ぎ直す。

 

「でも、月城のジジイは別だ」

 

綾小路は前を見る。

 

「分かっている」

 

通路の奥では、八神が開けた隔壁がゆっくりと閉じかけていた。

 

時間はない。

 

一同は走り出す。

 

背後には、八神拓也が倒れている。

 

ホワイトルーム生として、最高傑作を超えることだけを望んだ少年。

 

彼は綾小路に敗れた。

 

そして月城に切り捨てられた。

 

だが最後に、勝者のために道を開けた。

 

それが誇りだったのか。

 

敗北を認めた証だったのか。

 

綾小路には分からない。

 

ただ一つだけ確かなことがある。

 

八神拓也は、月城の駒として死んだのではない。

 

最後まで、綾小路清隆を超えようとした一人のホワイトルーム生として倒れた。

 

赤い非常灯の奥で、爆炎がまた噴き上がる。

 

白銀禁止区域は崩壊を続けている。

 

天沢は死んだ。

 

八神も死んだ。

 

山内は消えた。

 

次に待つのは、月城か。

 

司馬か。

 

それとも、海斗の父である雅樹か。

 

海斗は走りながら、低く呟いた。

 

「親父……」

 

その声は誰にも届かなかった。

 

だが綾小路だけは聞いていた。

 

次の戦いは、おそらく海斗の番だ。

 

綾小路はそう判断した。

 

白銀禁止区域の終盤戦は、さらに深い場所へ進もうとしていた。




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