ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第36話 父と息子

白銀禁止区域の奥へ進むほど、施設の空気は冷たくなっていった。

 

背後では天沢一夏と八神拓也が消えた場所が炎に呑まれ、

赤い非常灯の明滅と警報音がまだ遠くで響いている。

 

だが、目の前に続く廊下は奇妙なほど静かだった。

 

崩壊が始まっている施設の中だというのに、

この区画だけは別の場所のように整っていた。

 

壁は白く、床は磨かれ、照明は落ちていない。

 

まるで、ここから先だけが本当の白銀禁止区域だと言わんばかりだった。

 

綾小路清隆は歩きながら周囲を観察していた。

 

堀北鈴音は坂柳有栖の肩を支え、二階堂麗華は朝霧海斗の背中を見ていた。

 

海斗はいつものように軽く歩いている。

 

ショットガンを肩に担ぎ、口元には薄い笑みさえ浮かべている。

 

だが、麗華には分かっていた。

 

海斗は笑っていない。

 

天沢戦の直後だからではない。

 

傷を負っているからでもない。

 

もっと別のもの。

 

ずっと奥に沈めていた何かが、少しずつ浮かび上がってきている。

 

「海斗」

 

麗華が呼んだ。

 

「何だよ」

 

海斗は振り返らずに答えた。

 

「顔が怖い」

 

「元からだ」

 

「そういう意味じゃない」

 

「じゃあどういう意味だよ」

 

「無理してる時の顔」

 

海斗は一瞬だけ黙った。

 

それから鼻で笑った。

 

「お前は人の顔色ばっか見てんじゃねぇよ」

 

「あなたが分かりやすすぎるだけ」

 

「オレが?」

 

海斗は肩をすくめた。

 

「見る目ねぇな」

 

堀北はその会話を聞きながら、海斗の横顔を見た。

 

普段の彼なら、もっと雑に笑っていたはずだった。

 

麗華をからかい、堀北に軽口を飛ばし、

坂柳には皮肉を言い、綾小路には面倒くさそうに突っかかる。

 

だが今の海斗は、軽口を言いながらも声の底が沈んでいた。

 

「朝霧くん」

 

坂柳が静かに言った。

 

「この先にいるのですね」

 

海斗は足を止めなかった。

 

「誰が」

 

「あなたが、ずっと見ないようにしてきた相手です」

 

海斗は笑った。

 

だが、その笑みは鋭かった。

 

「お嬢様、何でも見透かしたような顔すんなよ」

 

「見透かしてはいません」

 

坂柳は杖をつきながら答えた。

 

「ただ、今のあなたは盤面を壊す人ではなく、

盤面の中心に立たされている人に見えます」

 

海斗は何も言わなかった。

 

綾小路は海斗の歩幅がわずかに変わったことに気付いていた。

 

普段より半歩速い。

 

肩の力は抜けている。

 

だが、指先がわずかに固い。

 

戦闘の前兆。

 

いや、戦闘ではない。

 

決着の前兆だった。

 

廊下の奥で、重い扉が開いていた。

 

その向こうには広い空間がある。

 

訓練場。

 

天井は高く、床は黒い衝撃吸収素材で覆われ、

壁には古い打撃痕が無数に残っている。

 

中央には何もない。

 

ただ一人の男が立っていた。

 

朝霧雅樹。

 

海斗の父。

 

海斗を育てた男。

 

海斗の原型を作った男。

 

そして、海斗がいつか倒すと決めていた男だった。

 

雅樹は黒い戦闘服を着ていた。

 

年齢を感じさせる顔ではある。

 

だが、その身体から老いは感じられない。

 

背筋は伸び、重心は低く、両腕は自然に垂れている。

 

構えていない。

 

それなのに、どこにも隙がなかった。

 

「来たか」

 

雅樹は静かに言った。

 

その声を聞いた瞬間、海斗の足が止まった。

 

麗華は海斗の背中を見た。

 

その背中が、わずかに震えたように見えた。

 

恐怖ではない。

 

怒りでもない。

 

もっと古い感情だった。

 

「久しぶりだな、海斗」

 

雅樹は言った。

 

海斗は口元だけで笑った。

 

「生きてたのかよ、クソ親父」

 

「死んだと思っていたのか」

 

「死んでりゃ楽だった」

 

その言葉に、麗華の表情が強張った。

 

堀北も息を呑む。

 

だが雅樹は表情を変えなかった。

 

「相変わらず口が悪い」

 

「育てた奴に似たんだろ」

 

「俺にそんな軽さはない」

 

「そうだな」

 

海斗はゆっくりとショットガンを床に置いた。

 

ハンドガンも外す。

 

ナイフも捨てる。

 

ポケットの中の予備弾倉まで床へ落とす。

 

金属音が訓練場に響いた。

 

麗華が思わず声を上げる。

 

「海斗、何してるの」

 

海斗は振り返らなかった。

 

「こいつ相手に銃はいらねぇ」

 

「いるでしょ!」

 

「いらねぇよ」

 

海斗は短く言った。

 

「これは、そういう話じゃねぇ」

 

雅樹は海斗の動きを見ていた。

 

「いい判断だ」

 

「褒めんな。気色悪い」

 

「武器に頼れば、お前の完成度は測れない」

 

「測る?」

 

海斗の声が低くなる。

 

「まだそんなこと言ってんのか」

 

雅樹は一歩だけ前へ出た。

 

「俺は、お前が真の完成形になったかを見極めに来た」

 

その言葉で、海斗の目つきが変わった。

 

「完成形」

 

「ああ」

 

雅樹は静かに頷いた。

 

「ホワイトルームのように管理された教育ではない。

ブラックルームのように失敗者を再利用する方法でもない。

戦場、護衛、逃走、裏切り、飢え、孤独、責任。

その全てを与え、最後に自分の意思で立つ人間を作る。

それが俺のやり方だった」

 

「ふざけんな」

 

海斗は低く吐き捨てた。

 

「人を作るだの、完成だの、

てめぇらはどいつもこいつも同じことばっか言いやがる」

 

「違う」

 

雅樹の声は冷たかった。

 

「俺はお前を壊すために育てたのではない。完成させるために育てた」

 

「同じだろうが」

 

海斗の拳が握られる。

 

「痛みを与えて、逃げ道を塞いで、守りたいもんを作らせて、

それを奪うぞって脅して、人を都合よく強くする。

言い方が違うだけで、やってることは同じだ」

 

雅樹は海斗を見つめる。

 

「ならば証明してみろ」

 

「あ?」

 

「俺が間違っていたと。お前は俺が作った完成形ではないと。

朝霧海斗は、朝霧雅樹の作品ではないと」

 

海斗の瞳が燃えた。

 

麗華は、初めて見る海斗の表情に息を呑んだ。

 

海斗は普段、怒りを笑いに変える。

 

痛みを冗談に変える。

 

恐怖を軽口に変える。

 

だが今は違う。

 

笑っていない。

 

誤魔化していない。

 

ただ、真正面から雅樹を睨んでいた。

 

「いいぜ」

 

海斗は言った。

 

「ぶっ倒して証明してやる」

 

雅樹は静かに構えた。

 

「来い」

 

その瞬間、海斗が消えた。

 

いや、消えたように見えるほど速く踏み込んだ。

 

訓練場の床が低く鳴る。

 

海斗の右拳が雅樹の顔面へ向かう。

 

重い。

 

速い。

 

迷いがない。

 

しかし雅樹は半歩だけ身体をずらした。

 

紙一重。

 

拳が空を切る。

 

同時に雅樹の左手が海斗の肘へ触れる。

 

受けたのではない。

 

流した。

 

海斗の勢いが横へ逸らされる。

 

だが海斗も止まらない。

 

流された勢いを利用して身体を回転させ、左肘を雅樹のこめかみへ叩き込む。

 

雅樹は腕で受けた。

 

鈍い音。

 

麗華の肩が跳ねる。

 

人間同士がぶつかる音とは思えなかった。

 

海斗は笑わない。

 

雅樹も笑わない。

 

互いの足が床を削る。

 

次の瞬間、雅樹の膝が海斗の腹へ向かった。

 

海斗は腹筋を固めて受ける。

 

衝撃が身体の奥へ沈む。

 

それでも海斗は下がらない。

 

逆に頭突きで距離を潰した。

 

雅樹は顔を逸らす。

 

海斗の額が雅樹の頬をかすめる。

 

わずかに皮膚が切れる。

 

最初の傷は雅樹についた。

 

海斗の口角が少しだけ上がる。

 

「老けたな」

 

雅樹は指で頬の血を拭った。

 

「軽いな」

 

次の瞬間、雅樹の拳が海斗の胸へ入った。

 

海斗の身体が浮いた。

 

麗華が叫びかける。

 

だが海斗は空中で体勢を変え、床に足から落ちた。

 

呼吸は乱れている。

 

だが倒れない。

 

「今の効いたか」

 

雅樹が問う。

 

海斗は口の端を拭った。

 

「蚊に刺されたくらいだな」

 

「強がりは変わらない」

 

「教育が悪かったんだろ」

 

海斗が再び踏み込む。

 

今度は正面ではない。

 

斜め。

 

右へ見せて左。

 

足払いを混ぜ、膝を狙い、体勢を崩しにかかる。

 

雅樹は読んでいる。

 

海斗の攻撃を、まるで昔から知っている型のように処理していく。

 

事実、知っているのだ。

 

海斗の動きの原型は雅樹が作った。

 

重心の置き方。

 

踏み込みの癖。

 

殴る前にわずかに肩が沈むこと。

 

本気で蹴る時ほど視線が上へ残ること。

 

雅樹は全てを知っている。

 

だから海斗の攻撃は当たらない。

 

当たる寸前で外される。

 

届く寸前で潰される。

 

潰されるたびに、海斗の身体へ打撃が入る。

 

肩。

 

脇腹。

 

太腿。

 

顎。

 

腕。

 

一発一発は決定打ではない。

 

だが積み重なる。

 

麗華はそれを見ていられなかった。

 

「海斗!」

 

海斗は答えない。

 

答える余裕がないのではない。

 

答えれば、雅樹から目が逸れる。

 

この相手には、それが死に等しい。

 

雅樹の拳が海斗の顔へ迫る。

 

海斗は首をひねって避ける。

 

しかし避けた先に肘がある。

 

雅樹の連撃。

 

海斗は腕で受ける。

 

骨に響く音。

 

海斗の足が一歩下がる。

 

雅樹は追う。

 

二歩。

 

三歩。

 

海斗は防戦に回る。

 

堀北は思わず呟いた。

 

「押されている……」

 

坂柳は静かに答えた。

 

「当然です」

 

「当然?」

 

「海斗くんの動きは、おそらく雅樹さんが作ったものです。

師であり、父であり、設計者でもある。

海斗くんの癖も、強みも、弱みも、全て把握しているのでしょう」

 

堀北は唇を噛む。

 

「それでは勝てないじゃない」

 

「普通なら」

 

坂柳は訓練場を見つめたまま言った。

 

「ですが、海斗くんは普通ではありません」

 

綾小路は何も言わずに見ていた。

 

海斗の動きは悪くない。

 

むしろ山内戦、天沢戦を経てもなお、信じがたいほど動けている。

 

問題は雅樹だった。

 

雅樹は強い。

 

単純な身体能力だけなら、若い海斗に分がある場面もある。

 

だが、経験と読みが違う。

 

雅樹は海斗の先を打っている。

 

拳を避けているのではない。

 

海斗が拳を出す前に、出したくなる場所を消している。

 

これは格闘ではなく、支配だった。

 

海斗が左を出す。

 

雅樹が肘を押さえる。

 

海斗が右膝を上げる。

 

雅樹が軸足を蹴る。

 

海斗が肩からぶつかる。

 

雅樹が半身になり、首元へ掌底を入れる。

 

海斗の身体が揺れる。

 

だが、倒れない。

 

雅樹の目がわずかに細くなる。

 

「しぶといな」

 

「それしか取り柄ねぇんだよ」

 

海斗は息を荒げながら答えた。

 

雅樹はさらに踏み込む。

 

海斗の防御を崩すため、胸倉を取る。

 

その瞬間、海斗は笑った。

 

久しぶりに。

 

しかしそれは軽口の笑みではなかった。

 

獲物が罠にかかった時の笑みだった。

 

海斗は掴まれた胸倉を逆に掴み返し、雅樹の腕を固定した。

 

雅樹の目が動く。

 

海斗は頭突きを入れた。

 

鈍い音。

 

雅樹の額が割れる。

 

同時に雅樹の膝が海斗の腹へ入る。

 

二人は同時に後ろへ下がった。

 

海斗は腹を押さえない。

 

雅樹も額を押さえない。

 

ただ互いを見る。

 

「今のは教えていない」

 

雅樹が言った。

 

海斗は息を吐く。

 

「そりゃそうだ」

 

「誰に教わった」

 

「誰にも」

 

海斗は床に血を吐いた。

 

「勝手に覚えた」

 

雅樹の目がわずかに変わった。

 

「それがお前の変化か」

 

「ああ?」

 

「俺が与えたものではない動き。俺が読めない癖。俺が作っていない戦い方」

 

雅樹は初めて、ほんの少しだけ笑った。

 

「いいぞ、海斗」

 

海斗の表情が歪む。

 

「褒めんなって言っただろ」

 

「お前は育っている」

 

「黙れ」

 

「真の完成形に近づいている」

 

「黙れ!」

 

海斗が吠えた。

 

次の踏み込みは、今までで一番速かった。

 

だが、それは怒り任せではない。

 

怒りを燃料にして、冷静に踏み込んでいた。

 

雅樹の読みを外すため、海斗は自分の癖を壊し始めた。

 

右拳を出す肩の沈みを消す。

 

蹴る前に視線を残さない。

 

踏み込みの歩幅を半歩変える。

 

呼吸の間をずらす。

 

雅樹が作った海斗ではない。

 

白銀禁止区域で綾小路と並び、山内と戦い、

天沢に邪魔され、麗華を守りながら進んできた海斗。

 

その場で変わる男。

 

戦いながら壊し、戦いながら作り直す男。

 

それが朝霧海斗だった。

 

雅樹の拳が来る。

 

海斗は避けない。

 

受ける。

 

だが、受ける位置を変える。

 

肩ではなく、上腕。

 

衝撃を逃がしながら前へ出る。

 

雅樹の肘が来る。

 

海斗は頭を下げる。

 

そのまま雅樹の胴へ拳を叩き込む。

 

初めて、重い一撃が入った。

 

雅樹の身体がわずかに沈む。

 

麗華が息を呑む。

 

海斗は追撃する。

 

右。

 

左。

 

膝。

 

肘。

 

肩。

 

全身を使った連撃。

 

綺麗な格闘ではない。

 

泥臭い。

 

乱暴。

 

粗野。

 

だが、強い。

 

雅樹は受ける。

 

捌く。

 

流す。

 

しかし、完全には処理しきれない。

 

海斗の攻撃が、雅樹の知る海斗から少しずつ外れていく。

 

「そうだ」

 

雅樹が低く言った。

 

「それでいい」

 

海斗の拳が雅樹の頬を打つ。

 

「喜んでんじゃねぇ!」

 

雅樹の蹴りが海斗の膝へ入る。

 

海斗の体勢が崩れる。

 

雅樹はその一瞬を逃さない。

 

掌底。

 

海斗の顎が跳ねる。

 

視界が揺れる。

 

続けて腹。

 

さらに胸。

 

海斗の身体が後ろへ飛ぶ。

 

床を転がり、壁際まで滑った。

 

麗華が駆け出そうとした。

 

だが綾小路が腕で制した。

 

「止めるな」

 

麗華が睨む。

 

「でも!」

 

「今行けば、海斗の戦いを壊す」

 

麗華は唇を噛む。

 

悔しい。

 

苦しい。

 

だが、分かっていた。

 

これは海斗の戦いだ。

 

海斗が逃げ続け、笑って誤魔化し、それでも心の奥でずっと向き合っていた戦い。

 

誰も代わってやれない。

 

海斗は床に片膝をついた。

 

呼吸が乱れている。

 

視界も定まっていない。

 

雅樹はゆっくり近づく。

 

「限界か」

 

「まだだ」

 

海斗は立とうとする。

 

膝が笑う。

 

それでも立つ。

 

「まだ終わってねぇ」

 

「なぜそこまで立つ」

 

雅樹が問う。

 

「俺を倒すためか」

 

「そうだ」

 

海斗は即答した。

 

「お前を倒す」

 

「それだけか」

 

海斗は雅樹を睨んだ。

 

「それだけで十分だろ」

 

「違う」

 

雅樹は静かに首を振った。

 

「それだけでは、お前は私を超えられない」

 

「何だと」

 

「復讐だけで動くなら、お前は俺の掌の上だ。

俺を憎み、俺を倒したいと思い、俺を基準に生きる。

それは結局、俺が作ったお前でしかない」

 

海斗の呼吸が止まった。

 

雅樹の言葉は、拳より深く刺さった。

 

「俺を倒すことだけを目的にするなら、お前は一生俺の子だ」

 

麗華は海斗の背中を見た。

 

海斗は動かない。

 

雅樹は続ける。

 

「お前は何のために勝つ」

 

沈黙。

 

警報音が遠くで鳴っている。

 

施設の崩壊音が低く響く。

 

白い訓練場の中央で、海斗だけが止まっていた。

 

何のために勝つのか。

 

雅樹を倒すため。

 

それが海斗の答えだった。

 

ずっとそうだった。

 

自分を育てた男。

 

自分に痛みを教えた男。

 

守ることの重さを叩き込んだ男。

 

弱さを許さず、甘えを壊し、何度も何度も地面に叩きつけてきた男。

 

倒す。

 

いつか倒す。

 

それだけが、海斗の奥にあった。

 

だが今。

 

それだけでは足りない。

 

海斗はゆっくりと麗華を見た。

 

麗華は何も言わなかった。

 

言えば、海斗の答えを誘導してしまう気がしたから。

 

海斗は次に綾小路を見た。

 

綾小路も何も言わない。

 

堀北も。

 

坂柳も。

 

誰も答えを与えない。

 

海斗は笑った。

 

小さく。

 

本当に小さく。

 

「そうかよ」

 

海斗は呟いた。

 

「オレは、まだてめぇを見てたのか」

 

雅樹は黙っている。

 

海斗は拳を握った。

 

「ムカつくな」

 

そして顔を上げる。

 

「なら、変えてやる」

 

海斗は一歩前へ出た。

 

「オレはてめぇを倒す」

 

もう一歩。

 

「でも、それはてめぇのためじゃねぇ」

 

さらに一歩。

 

「麗華を連れて帰るためだ」

 

麗華の目が揺れた。

 

海斗は続ける。

 

「堀北も坂柳のお嬢様も、ついでに綾小路も、ここから出す」

 

「ついでか」

 

綾小路が静かに言った。

 

海斗は笑った。

 

「文句あんのかよ」

 

綾小路は少しだけ目を細めた。

 

「ない」

 

海斗は雅樹へ視線を戻した。

 

「オレはもう、てめぇを倒すためだけに生きてねぇ」

 

その言葉を聞いた瞬間、雅樹の表情がわずかに変わった。

 

「そうか」

 

雅樹は構え直した。

 

「ならば来い」

 

海斗も構えた。

 

今度の構えは、さっきまでと違った。

 

粗野ではある。

 

だが、無駄がない。

 

怒りはある。

 

だが、怒りだけではない。

 

守るものがある。

 

帰る場所がある。

 

隣に並ぶ相手がいる。

 

だから海斗は立っていた。

 

雅樹を倒すためだけではなく。

 

自分が自分であるために。

 

二人が同時に動いた。

 

衝突。

 

拳と拳。

 

肘と膝。

 

肩と胸。

 

打撃がぶつかり合う音が訓練場に響く。

 

もはや一方的ではなかった。

 

雅樹が読み、海斗が外す。

 

海斗が崩し、雅樹が立て直す。

 

雅樹が先を打ち、海斗がさらにその先で噛みつく。

 

綺麗な勝負ではない。

 

だが、拮抗していた。

 

海斗の拳が雅樹の脇腹へ入る。

 

雅樹の肘が海斗の頬を打つ。

 

海斗の膝が雅樹の太腿を潰す。

 

雅樹の掌底が海斗の胸を打つ。

 

二人とも下がらない。

 

どちらかが倒れるまで終わらない。

 

麗華は手を握りしめていた。

 

堀北も息を詰めている。

 

坂柳は静かに見ている。

 

綾小路だけが、海斗の変化を正確に捉えていた。

 

海斗はもう雅樹を追っていない。

 

雅樹の動きを基準にしていない。

 

自分の中にある答えで動いている。

 

だから雅樹の読みが遅れる。

 

ほんのわずか。

 

だが、そのわずかが勝敗を分ける。

 

雅樹の拳が海斗の顔へ迫る。

 

海斗は避けない。

 

頬で受けた。

 

麗華が息を呑む。

 

だが、海斗は倒れない。

 

拳を受けながら、雅樹の腕を掴んだ。

 

「捕まえた」

 

海斗が言った。

 

雅樹の目が動く。

 

海斗は引き寄せる。

 

雅樹は膝を上げる。

 

海斗はそれを自分の膝で潰す。

 

鈍い音。

 

両者の体勢が崩れる。

 

だが、海斗は崩れながらも前へ出た。

 

頭突き。

 

雅樹が受ける。

 

さらに肘。

 

雅樹が流す。

 

さらに拳。

 

雅樹が避ける。

 

その避けた先に、海斗の左があった。

 

完全な読み勝ち。

 

拳が雅樹の顎を打ち抜いた。

 

雅樹の身体が揺れる。

 

初めて、明確に。

 

海斗は止まらない。

 

右拳。

 

腹。

 

左肘。

 

肩。

 

最後に、全体重を乗せた拳。

 

雅樹の胸へ叩き込む。

 

雅樹の身体が後方へ飛ぶ。

 

床を滑り、膝をついた。

 

静寂。

 

警報音さえ遠く感じた。

 

海斗は肩で息をしていた。

 

立っているのが不思議なくらいだった。

 

雅樹は片膝をついたまま、ゆっくりと顔を上げる。

 

「見事だ」

 

海斗は歯を食いしばった。

 

「まだ終わってねぇだろ」

 

雅樹は立とうとした。

 

その瞬間、海斗も動いた。

 

最後の一撃。

 

雅樹も同時に拳を出す。

 

二人の拳が交差する。

 

雅樹の拳は海斗の頬を捉えた。

 

海斗の拳は雅樹の胸を捉えた。

 

一瞬、二人は止まった。

 

そして。

 

倒れたのは雅樹だった。

 

海斗は膝をつきかけた。

 

だが倒れなかった。

 

片膝だけで踏み止まり、荒い息を吐く。

 

勝った。

 

ギリギリだった。

 

本当に、紙一重だった。

 

麗華が駆け寄った。

 

「海斗!」

 

海斗は顔を上げた。

 

「うるせぇな……聞こえてる」

 

「馬鹿!」

 

麗華は怒鳴った。

 

「本当に馬鹿!」

 

「勝っただろ」

 

「そういう問題じゃない!」

 

麗華は泣きそうな顔で海斗の腕を掴んだ。

 

海斗は困ったように笑った。

 

「泣くなよ」

 

「泣いてない!」

 

「じゃあ怒ってんのか」

 

「怒ってる!」

 

「ならいつも通りだな」

 

麗華は言葉を失い、次の瞬間、海斗の胸を軽く叩いた。

 

海斗は痛そうに顔をしかめた。

 

「そこマジで痛ぇ」

 

「知らない!」

 

綾小路は倒れた雅樹へ近づいた。

 

雅樹は仰向けに倒れ、天井を見ていた。

 

まだ息はある。

 

だが、もう戦えない。

 

雅樹は綾小路を見た。

 

「綾小路清隆か」

 

「ああ」

 

「お前は、海斗をどう見る」

 

綾小路は少しだけ考えた。

 

「完成品ではない」

 

雅樹は目を細める。

 

「なぜだ」

 

「完成していたら、ここで変われない」

 

雅樹はしばらく沈黙した。

 

そして、低く笑った。

 

「なるほど」

 

海斗が麗華に支えられながら近づく。

 

「勝手に納得してんじゃねぇよ」

 

雅樹は海斗を見た。

 

「海斗」

 

「あ?」

 

「お前は、俺の完成形ではなかった」

 

海斗は黙った。

 

雅樹は続ける。

 

「俺の想定を超えた。俺が作った枠を壊し、自分の意思で立った」

 

「だから何だよ」

 

「それでいい」

 

海斗の表情が歪む。

 

「最後まで父親面か」

 

「父親だ」

 

「笑わせんな」

 

雅樹は静かに言った。

 

「俺は間違えた」

 

海斗の呼吸が止まる。

 

麗華も、堀北も、坂柳も、その言葉に反応した。

 

雅樹は天井を見たまま続ける。

 

「お前を強くすることだけを考えた。だが、強さだけでは人は完成しない」

 

海斗は何も言わない。

 

「お前が勝った理由は、俺を憎んだからではない。守るものを持ったからだ」

 

海斗は拳を握った。

 

「今さら……」

 

声が震えていた。

 

「今さらそんなこと言うんじゃねぇよ」

 

雅樹は海斗を見た。

 

「そうだな」

 

その声は、初めて父親らしい疲れを帯びていた。

 

「遅すぎた」

 

海斗は顔を背けた。

 

麗華は海斗の腕を強く握った。

 

綾小路はそれ以上何も言わなかった。

 

この会話に、自分が入り込む余地はない。

 

これは朝霧海斗と朝霧雅樹の問題だった。

 

雅樹はゆっくりと手を伸ばした。

 

海斗へ。

 

海斗は動かなかった。

 

触れさせもしない。

 

握り返しもしない。

 

ただ見下ろしていた。

 

雅樹の手は途中で止まり、床へ落ちた。

 

「行け」

 

雅樹は言った。

 

「月城はこの先だ」

 

海斗は低く答えた。

 

「言われなくても行く」

 

「七瀬という少女を見つけろ」

 

綾小路の目が動く。

 

「七瀬?」

 

「あの子はまだ戻れる」

 

雅樹は短く息を吐いた。

 

「ブラックルームに染まり切っていない。責任感でここにいるだけだ」

 

海斗は舌打ちした。

 

「最後に情報屋かよ」

 

「役に立つだろう」

 

「ムカつくな」

 

雅樹はわずかに笑った。

 

「海斗」

 

「何だ」

 

「麗華を守れ」

 

海斗の目が鋭くなる。

 

「てめぇに言われるまでもねぇ」

 

「そうか」

 

雅樹は満足そうに目を閉じた。

 

海斗は背を向けた。

 

麗華が支えようとする。

 

海斗は一度拒もうとして、やめた。

 

そのまま麗華の肩を借りる。

 

「重い」

 

麗華が小さく言った。

 

「我慢しろ」

 

「普段偉そうなのに、こういう時だけ頼るんだ」

 

「うるせぇ。特別サービスだ」

 

「何それ」

 

麗華は少しだけ笑った。

 

泣きそうな顔のまま。

 

海斗はそれを見ないように前を向いた。

 

堀北は雅樹を一度だけ振り返った。

 

「置いていくの?」

 

海斗は答えなかった。

 

代わりに綾小路が言った。

 

「今は進むしかない」

 

堀北は唇を結んだ。

 

坂柳は静かに言った。

 

「朝霧さん」

 

海斗は振り返らない。

 

「何だよ、お嬢様」

 

「あなたは盤面破壊者ではなく、盤面から降りた人だったのですね」

 

海斗は少しだけ笑った。

 

「意味分かんねぇ」

 

「褒めています」

 

「なおさら分かんねぇ」

 

坂柳は薄く微笑んだ。

 

訓練場の扉が開く。

 

その先には、さらに暗い通路が続いていた。

 

月城。

 

司馬。

 

八神。

 

七瀬。

 

山内。

 

まだ戦いは終わらない。

 

海斗は一度だけ足を止めた。

 

背後に倒れる雅樹を見ることはしなかった。

 

ただ、小さく言った。

 

「勝ったぞ」

 

誰に向けた言葉なのか。

 

雅樹か。

 

麗華か。

 

自分自身か。

 

それは誰にも分からなかった。

 

だが、麗華だけは海斗の腕を強く握った。

 

「うん」

 

麗華は答えた。

 

「勝った」

 

その言葉で、海斗はようやく前へ進んだ。

 

父を倒した。

 

過去を倒した。

 

完成形という呪いを倒した。

 

だが、朝霧海斗は完成などしていない。

 

壊れて、迷って、怒って、守って、また変わる。

 

それこそが、雅樹の想定を超えた答えだった。

 

綾小路清隆は、海斗の背中を見ていた。

 

自分とは違う完成品。

 

いや。

 

完成品ではない男。

 

朝霧海斗。

 

その男は、父を越えてなお、まだ先へ進もうとしている。

 

白銀禁止区域の闇は深い。

 

だが、その闇の中で、海斗の足取りは確かだった。

 

傷だらけで。

 

血に濡れて。

 

それでも、麗華を連れて帰るために。

 

そして、自分が自分であるために。

 

朝霧海斗は、再び戦場へ歩き出した。




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