ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
図書準備エリアを出た綾小路清隆は、
三階西側の暗い廊下を音もなく進みながら、
この校舎の中に漂い始めた空気の変質を、
目に見えない霧のようなものとして肌で感じ取っていた。
最初の発砲があった直後、この夜の異常はまだ一つの事件だった。
石崎が撃たれ、幸村と神崎が交渉の名の下に切り捨てられたことで、
その事件は制度へ変わった。
そして今はもう、その制度すら崩れ始めている。
誰が狩る側で、誰が怯える側なのか。
誰が月城の命令に従っていて、誰が自分の欲望のために動いているのか。
誰が綾小路を本気で殺したがっていて、誰がそれを利用しようとしているのか。
その境界が、この校舎のあちこちで少しずつ曖昧になってきていた。
綾小路は壁に貼られた文化祭用の案内ポスターを一瞥した。
色鮮やかな文字で「明日開催」と書かれている。
手描きのイラストには笑顔の生徒や模擬店やステージ発表の予定が並んでいた。
わずか数時間前まで、それは確かに現実だった。
今はただ、その明るさだけが異様だった。
綾小路はポスターを剥がした。
紙が乾いた音を立てる。
その裏にある掲示板のピンを一本抜き取り、ポケットに入れる。
使うかどうかは分からない。
だが、この夜においては、役に立たないもののほうが少ない。
三階西端の資料保管スペースは、文化祭のために普段以上に物が溢れていた。
折りたたまれた背景幕、イベント用のパネル、木製フレーム、照明器具、
装飾用の細い針金、結束バンド、空のペットボトル、絵の具の乾いた匂い。
綾小路はしゃがみ込み、整理されていない荷物の山を静かに見渡した。
目的は武器ではない。
誤認と疑念を作るための材料だ。
龍園と坂柳は、今のところ人質を共有しながらも、完全には協力していない。
互いに互いを利用しているだけだ。
一年生側も同じだった。
宝泉は真っ向から綾小路を叩き潰したい。
天沢は傍観して楽しみたい。
七瀬は任務と迷いの間で揺れている。
そのズレを広げるには、「誰かが裏で動いた」と思わせればいい。
綾小路は結束バンドをいくつか取り、空のペットボトルと細い針金も確保した。
それから照明器具のケーブルを一部抜き、巻き取って持つ。
音を立てるため。
足を止めさせるため。
視線をそらすため。
この校舎は、すでに単なる建物ではない。
人の恐怖と猜疑を増幅する巨大な箱だ。
ならば、その箱の中で最も効果的なのは、
直接誰かを撃つことではなく、誰かが誰かを疑う状況を増やすことだった。
綾小路は三階の南端階段へ向かい、踊り場から二階の気配を探った。
人質教室の前には、先ほどより人数が増えている。
龍園側からは石崎を失ったことで逆に強く黙り込んだ数名が立ち、
坂柳側からは橋本と神室のほかに、
見慣れた二年Aクラスの男子が二人ほど合流していた。
そして、その少し離れた位置に、宝泉が壁にもたれるようにして立っていた。
表面上は人質管理の補助。
だがあれは違う。
奪う気だ。
龍園や坂柳に人質を管理させておきながら、
綾小路がそこへ接近した瞬間に力づくで横取りするつもりだろう。
天沢の姿は見えない。
それもまた不気味だった。
七瀬は廊下の角に立ち、周囲の音に神経を張っているように見える。
一人だけ、まだ「守るべき手順」を捨てていない。
この均衡は脆い。
ほんの少し傾けば崩れる。
綾小路は踊り場を離れ、二階とは反対側の三階東端へ向かった。
狙うべきは人質そのものではない。
まずは配置を揺らす。
人質教室から少し離れた場所にある生徒会資料室は、
文化祭運営用の書類や予備鍵が一時保管されているはずだった。
もしそこがまだ無事なら、校内の一部扉を操作できる可能性がある。
もちろん月城が電子ロックごと掌握している以上、万能ではない。
だが、局所的な開閉や、少なくとも鍵束を盾にした行動は取れる。
綾小路は廊下の角を二つ曲がり、生徒会資料室前で立ち止まった。
施錠されている。
だが文化祭前夜である以上、内部には誰かが入っていた可能性がある。
扉の下に光はない。
気配も薄い。
綾小路は耳を当て、数秒待った。
何もない。
それから扉横の小窓を確認する。
中は暗い。
人影もない。
鍵穴は古い型だった。
文化祭用の一時的な開放に伴い、完全な最新式ではなく、
物理キーとの併用になっているのかもしれない。
綾小路はさきほどポケットに入れた細いピンを取り出した。
数十秒の静かな作業。
やがて、かすかな手応え。
扉がわずかに緩む。
綾小路はすぐに中へ入った。
資料室の中は紙とファイルの匂いに満ちていた。
棚には生徒会の備品一覧や過去行事の記録、各種申請書類が並び、
奥の金属ロッカーには予備の鍵束や
館内設備用のタブレット端末らしきものが保管されている。
綾小路は鍵束を見つけた。
全部ではない。
一部だけだ。
だが、校内各所の物理キーが含まれている可能性は高い。
タブレット端末も起動を試みる。
認証が必要だった。
使えない。
それでも収穫はある。
鍵束を確保し、ついでに生徒会の腕章を一つ手に取る。
変装として完璧ではない。
だが、暗所と混乱の中なら一瞬の誤認は作れる。
その時、資料室の外を慌ただしい足音が通り過ぎた。
二人分。
会話が聞こえる。
「……ほんとに龍園先輩たちの近くに置いといて大丈夫なんですか?」
若い男子の声。
一年生だ。
「大丈夫かどうかじゃありません。今はまだ、あそこが最も目が集まる場所です」
七瀬の声だった。
「でも、宝泉くんはさっきからずっと不満そうで……」
「それは彼の性格です」
「天沢さんもどこにいるか分からないし……」
「分からないから危険なんです」
その短いやりとりだけで十分だった。
一年生側も、龍園と坂柳を信用していない。
いや、むしろ最初から敵対的に見ている。
綾小路は資料室の扉をほんの数ミリだけ開け、二人の後ろ姿を見送った。
七瀬の歩き方は硬い。
疲労と緊張が積み重なっている。
それでも足取りは乱れていない。
彼女は本当にこの夜を任務として処理しようとしているのだろう。
そこが天沢や宝泉との決定的な違いだった。
綾小路は資料室を出ると、廊下の反対側、
つまり人質教室のさらに向こうへ迂回した。
あの周辺に「誰かがこっそり動いた痕跡」を作れればいい。
龍園に坂柳を疑わせ、坂柳に一年生側を疑わせる程度で十分だ。
綾小路は人気のない曲がり角で、
先ほど手に入れたケーブルと空のペットボトルを使い、簡易的な音の罠を作った。
誰かが廊下を横切れば倒れ、乾いた音が不自然に響く。
重要なのは怪我をさせることではなく、「ここに誰かいた」と思わせることだ。
さらに、少し離れた位置の扉のノブへ結束バンドを半端に巻きつける。
一見すると慌てて何かを固定した痕跡に見える。
そして別の位置には、生徒会腕章の切れ端をわざと落とした。
雑だがいい。
雑だからこそ、急いでいた誰かの痕跡に見える。
綾小路がさらに廊下の影へ下がった、その直後だった。
罠が鳴った。
乾いたペットボトルの転がる音。
直後、怒声。
「誰だ!」
龍園だった。
続けて複数の足音が走る。
「そっちだ!」
今度は橋本。
そして少し遅れて、宝泉の苛立ったような声が響く。
「チッ、また逃がしたのかよ」
「逃がしたとは限りませんよ」
坂柳の声は落ち着いていたが、その奥にわずかな硬さが混じっていた。
「この位置は人質教室の死角に近い。
つまり、こちらの動きを近くで見ていた者がいるということです」
「だったら綾小路に決まってんだろ」
龍園の声。
「あるいは、そう見せたい誰か、ですね」
坂柳が言う。
その瞬間、空気が変わった。
龍園は言葉を切った。
橋本も沈黙する。
そこへ、やや離れた位置から七瀬が来る。
「何がありましたか」
「決まってんだろ。誰かがこの辺をうろついてやがる」
龍園が吐き捨てる。
「一年坊、お前らじゃねえのか?」
「違います」
七瀬は即答した。
「こちらは東側の巡回から戻ったところです」
「証拠は?」
「ありません。ですが、あなたにもないはずです」
「ハッ、言うじゃねえか」
龍園が笑う。
だがその笑いは薄かった。
疑いが生まれたからだ。
坂柳が静かに続ける。
「少なくとも、誰かがこの周辺の配置を観察していたのは確かです。
人質を奪う気なのか、こちらの連携を崩したいのか……
いずれにせよ、内部事情をかなり把握している」
「綾小路だろ」
宝泉が低く言う。
「だったらさっさと餌使って引きずり出せばいい」
餌。
その言葉に、人質教室の中から小さなざわめきが起きたのが聞こえた。
龍園が教室の扉を一瞥する。
その目に、露骨な残酷さが宿る。
「確かにな」
綾小路は影の中で、龍園の声を聞きながらわずかに目を細めた。
ここまでは想定内だった。
問題は、誰を使うかだ。
軽井沢か。
堀北か。
一之瀬か。
あるいは、龍園側から裏切り者として人質に回されたひよりか。
そのどれもが綾小路にとって無視しづらい。
だからこそ危険だった。
「待ってください」
止めたのは七瀬だった。
「人質を露骨に動かせば、校内の他の生徒たちもさらに不安定になります。
今はまだ散発的な混乱で済んでいますが、明確な見せ物にすれば、
予測不能な逃走や発砲が増えるはずです」
正しい。
冷静な判断だった。
龍園は気に食わなそうに舌打ちする。
「テメェはつくづくつまらねえな」
「つまらなくて結構です。任務を成功させるなら、そのほうがましです」
坂柳がそこで小さく笑った。
「面白いですね。敵を狩るために、敵以外の恐慌を管理しようとする。
あなたは最後まで手順を捨てないんですね、七瀬さん」
七瀬は何も答えなかった。
その沈黙が、彼女自身の迷いを逆に強く浮かび上がらせていた。
宝泉はそんなやり取りに苛立ったのか、壁を拳で軽く叩いた。
鈍い音が響く。
「くだらねえ。だったら俺が勝手に動くぞ」
「そうすると、先に撃った者勝ちの状況で自分の首を絞めますよ、宝泉くん」
坂柳が淡々と言う。
「あなたが綾小路くんを見つけ、削り、追い込んだとしても、
最後に奪われれば無意味です」
宝泉が坂柳を見る。
その目には敵意があった。
「テメェ、喧嘩売ってんのか」
「事実を述べているだけです」
一触即発だった。
綾小路はそれを確認すると、静かにその場を離れた。
十分だ。
今の短いやり取りだけで、龍園は一年生側に苛立ちを強め、
宝泉は坂柳に対する不信を露わにし、
坂柳は二人を見下したまま掌握しようとしていることが明確になった。
均衡はまだ崩れていない。
だが、亀裂は入った。
次はそれを、人質側の視点でも広げる必要がある。
綾小路は二階へ戻るルートを変え、
南側の非常階段近くにある保健準備室へ向かった。
ここには応急用品がある可能性が高い。
今のところ大きな負傷はない。
だが肩には天沢の投げた椅子がかすめた鈍い痛みが残り、
さきほど宝泉とぶつかった際の衝撃も地味に響いている。
長丁場になるなら、無視はできない。
保健準備室は幸いにも半開きだった。
中へ入る。
棚には包帯、消毒液、湿布、簡易固定具、はさみ、テーピング類が揃っていた。
綾小路は必要最低限だけ確保し、肩へ湿布を当て、上から固定する。
痛みは消えない。
だが動きの妨げを減らすことはできる。
鏡に映った自分の顔は、文化祭準備中の平穏な生徒のそれではなかった。
目だけが、必要以上に静かだった。
その時、保健準備室の外で小さな物音がした。
綾小路は瞬時に照明の死角へ入る。
扉の隙間から覗く。
そこにいたのは、ひよりだった。
見張りの隙を突いて出てきたのか、それとも一時的な移動の途中か。
彼女は壁に手をつき、呼吸を乱していた。
恐怖だけではない。
強い吐き気か、精神的な限界が近いようにも見える。
背後に見張りの姿はない。
一瞬だけ、完全な空白ができていた。
綾小路は逡巡しなかった。
扉をわずかに開ける。
ひよりがびくりと顔を上げる。
目が合う。
その顔に驚愕と安堵と恐怖が同時に浮かんだ。
「……綾小路、くん」
「声を抑えろ」
ひよりは震えながら頷いた。
綾小路は彼女を素早く保健準備室の中へ引き入れ、扉を閉めた。
ひよりはその場でへたり込みそうになったが、なんとか壁に背をつけて立っている。
「見張りは?」
「少しだけ……外して……でも、すぐ戻ります」
声が細い。
それでも意識はある。
「石崎くんが……」
そこで言葉が詰まった。
目を閉じる。
無理もない。
彼女はすぐ近くで見たのだ。
友達は殺せないと口にした石崎が、見せしめとして撃たれた瞬間を。
「ごめんなさい……わたし、何もできなくて……」
「今はそれを考えるな」
「でも……」
「ひより」
名前で呼ばれたことに、彼女は一瞬だけ目を見開いた。
「今、教室の中はどうなってる」
ひよりは呼吸を整えようとしながら、小さく答え始めた。
龍園と坂柳は同じ教室を使っているが、互いの生徒を完全には混ぜていないこと。
人質の中でも、堀北と一之瀬を中心に
綾小路が反応しそうな者を前へ出す案が出ていること。
軽井沢が明らかに目をつけられていること。
平田が何度か人質たちを落ち着かせようとして、
そのたびに龍園側に黙らされていること。
坂柳は直接脅すより、状況を説明して絶望を理解させるように話していること。
そして――。
「坂柳さんが……言ってました」
ひよりの声がさらに小さくなる。
「もし綾小路くんが夜のうちに姿を現さなければ、
夜明け前に順番に価値を試すって……」
綾小路の目がわずかに細くなった。
価値を試す。
遠回しな言い方だが、意味は明白だった。
人質の中から綾小路にとって優先度の高い者を選び、
反応を見るつもりなのだろう。
あるいは、そう思わせる。
どちらにしても悪質だ。
「時間は?」
「はっきりとは……でも、龍園くんはもっと早く動きたがってました……」
龍園ならそうだろう。
待つより、反応を引き出すほうを好む。
「ひより」
綾小路は短く言った。
「今すぐ戻れ」
「え……?」
「見張りが戻って、ここにいないと分かれば、お前が最初に疑われる」
ひよりは唇を震わせた。
「でも……綾小路くんは」
「オレは動く」
それが限界だった。
ひよりは数秒迷い、それから小さく頷いた。
扉の前で足を止め、振り返る。
「……死なないでください」
「努力はする」
ひよりは泣きそうな顔で、それでもほんの少しだけ笑った。
そして、静かに保健準備室を出ていった。
扉が閉まる。
綾小路は数秒だけ動かなかった。
人質側に残された時間は想定より短い。
このまま盤面の歪みを育てるだけでは間に合わない可能性が高い。
誰かをすぐに救出するのは難しい。
だが、少なくとも順番に価値を試すという段階へ移る前に、
あの教室の管理状態を崩す必要がある。
龍園は性急だ。
坂柳は冷静すぎる。
宝泉は奪いたがっている。
天沢は遊んでいる。
七瀬は制御したがっている。
ならば、その全部が同時にぶつかる瞬間を作ればいい。
綾小路は保健準備室の棚からもう一つだけ物を取った。
使い捨てのホイッスル。
校内行事の誘導用だろう。
今夜の用途は違う。
綾小路はそれをポケットに入れ、鍵束と拳銃の位置を確かめた。
人質教室のある二階中央付近。
あそこへ複数方向から同時に気配を作り、誰が何を優先するかを暴き出す。
その混乱の中で、誰か一人でも引き離せれば十分だ。
たとえ救出に至らなくても、配置を崩せれば次に繋がる。
保健準備室を出た綾小路は、再び赤い非常灯の下へ戻った。
校舎はまだ静かだった。
だがその静けさは、均衡の上に辛うじて乗っているだけの薄い膜だ。
触れれば破れる。
そして今、その膜を最初に破る準備が、綾小路の側で静かに整いつつあった。
遠くで、誰かの怒鳴り声が聞こえた。
別の場所では、泣き声がまだ止まない。
夜は深まっている。
文化祭前夜だったはずの学校は、もはや祭の準備をする場所ではなく、
理性と狂気と欲望が互いの喉元を探り合う、巨大で冷たい密室へ変わっていた。
その中心にある教室へ向けて、綾小路はゆっくりと歩き出す。
次に崩れるのは均衡そのものだと、すでに決めていた。
赤い非常灯だけに支配された二階中央廊下は、
先ほどまで辛うじて保たれていた静寂を内側から軋ませながら、
今まさに何かが決定的に崩れる直前の張り詰めた空気を孕んでいた。
龍園と坂柳、そして一年生側が互いを牽制しながら
人質教室を囲むという構図は、一見すれば均衡を保っているように見えたが、
その実態はわずかな疑念と衝動によって
いつでも破裂する不安定な状態でしかなかった。
綾小路は、その均衡を壊すために、廊下の三方向に仕掛けを終えていた。
一つは東側廊下の曲がり角に設置した音の罠。
一つは西側の教室扉に残した不自然な痕跡。
そしてもう一つは、中央廊下の天井付近に引き回した
ケーブルとホイッスルを組み合わせた即席の誘導装置だった。
目的は単純だ。
誰が最初に反応するか。
誰がどこへ動くか。
そして誰が、誰を疑うか。
その順番を可視化すること。
綾小路は三階の踊り場から下を見下ろし、タイミングを計った。
人質教室前には、龍園、橋本、神室、そして数名の二年生。
少し離れた位置に宝泉。
さらにその外側に七瀬。
天沢は見えない。
坂柳は教室の中にいる。
配置は確認済み。
問題は、この状態をどこまで一気に崩せるかだ。
綾小路はホイッスルを口に当てた。
そして一度だけ、短く鋭く吹いた。
甲高い音が廊下に響いた。
その瞬間、三方向に設置された罠がほぼ同時に反応した。
東側でペットボトルが転がる乾いた音。
西側で扉のノブが外れかけたような鈍い音。
そして中央廊下でケーブルが引かれ、ホイッスルとは別の音が遅れて響く。
完全な同時ではない。
そこに割り込む余地が生まれた。
「どこだ!」
龍園が即座に反応した。
視線が東へ向く。
同時に橋本が西を見る。
神室は教室側へ視線を残したまま一歩前へ出る。
宝泉は中央を睨んだ。
七瀬だけが、一瞬遅れて全方向を見た。
判断が最も遅く、最も広い。
それが彼女の特徴だった。
「分散してる……?」
七瀬が低く呟く。
その言葉が空気を歪めた。
誰か一人ではない。
複数の可能性。
つまり――裏切り。
「おい、テメェら」
龍園が坂柳側へ視線を向けた。
「何仕込んだ」
橋本が即座に言い返す。
「こっちの仕込みじゃない。むしろそっちじゃないか?」
「ふざけんな」
宝泉が低く笑う。
「面白えな。お互いに裏で動いてんじゃねえのか?」
その一言で、完全に空気が変わった。
「……いいでしょう」
教室の中から坂柳が出てきた。
ゆっくりとした足取り。
だがその目は鋭い。
「ここまで露骨な同時発生は、単独では難しい。つまり――」
坂柳は龍園を見る。
「少なくとも一方は関与していない」
「だからなんだ」
「関与していない側は、関与した側を排除する理由が生まれる、ということです」
沈黙。
龍園が笑った。
「なるほどな」
その笑いは完全に戦闘前のそれだった。
「じゃあ、まずはテメェらから潰してもいいってことか」
「どうぞ」
坂柳は一歩も引かなかった。
「ただし、その間に綾小路くんを取られても構わないのであれば」
その言葉に、龍園の動きが一瞬止まる。
宝泉が舌打ちした。
「ちっ……どっちにしろクソみてえな状況だな」
そしてその瞬間だった。
東側廊下から悲鳴が上がった。
「ひっ……!」
誰かが転倒した音。
そして――発砲。
一発。
乾いた音が廊下に響いた。
誰が撃ったのかは見えない。
だが、撃たれた可能性はある。
「誰だ今のは!」
龍園が叫ぶ。
橋本が東へ走る。
同時に、別の場所でさらに発砲音。
今度は二発。
連続。
完全に連鎖が始まった。
「やめてください!無闇に撃たないで!」
七瀬の声。
だが止まらない。
恐怖は伝染する。
一人が撃てば、もう一人が撃つ。
それが自衛なのか誤認なのかは関係ない。
この校舎はもう、そういう段階に入っていた。
人質教室の中でも悲鳴が上がる。
「いや……やめて……」
軽井沢の声だった。
ひよりがその肩を支える。
平田が前へ出ようとして押さえつけられる。
堀北は歯を食いしばりながら、外の状況を見ていた。
坂柳はその場を動かない。
ただ観察している。
すべてを。
「……やってくれましたね」
小さく呟く。
誰に向けた言葉かは分からない。
だが、その視線は廊下の奥――つまり綾小路がいるであろう方向を捉えていた。
綾小路は三階からその一連の流れを見下ろしていた。
計算通り。
いや、それ以上だった。
ここまで早く発砲が連鎖するとは思っていなかった。
だが、それは悪くない。
むしろ理想に近い。
龍園はすでに坂柳側を疑っている。
坂柳は冷静を保ちながらも、龍園を危険視し始めている。
宝泉は苛立ちを隠せない。
七瀬は制御できない状況に入った。
そして人質側は――限界が近い。
次の一手が必要だ。
綾小路は静かに踊り場を離れた。
狙うのは人質の移動。
今の混乱の中で、一人でも位置がずれれば、それは決定的な隙になる。
そしてその隙を、誰が奪うかで、この夜の流れはさらに加速する。
廊下ではまだ銃声が響いていた。
誰かが怒鳴り、誰かが逃げ、誰かが撃つ。
文化祭前夜だったはずの学校は、完全に別の場所へと変わっていた。
そしてその中心で、綾小路清隆はようやく逃げるだけの存在から、
壊す側の存在へと完全に移行していた。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。