ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第46話 地下研究棟

地下へ降りるほど、白は薄れていった。

 

ホワイトルーム本部。

 

その上層階は、徹底して白かった。

 

壁も。

 

床も。

 

天井も。

 

照明も。

 

人間の感情を洗い落とすような無機質な白。

 

だが、地下七階に近づくにつれて、その白は少しずつ剥がれていく。

 

塗装の奥から、灰色のコンクリートが覗く。

 

壁には古い配管が走り、天井の照明は一部がちらつき、

床には何度も補修された跡が残っている。

 

清潔な施設というより、隠された施設。

 

完成品を作る場所ではなく、

完成品を作るために埋められた失敗と過去が眠る場所。

 

朝霧海斗は、その通路を走っていた。

 

赤い警報灯が点滅している。

 

耳障りなサイレン。

 

天井スピーカーから流れる機械的な警告。

 

遠くから響く足音。

 

それらが重なり、

地下研究棟全体がひとつの巨大な獣の腹の中のように感じられた。

 

「地下七階ってのは、遠いな」

 

海斗は息を吐いた。

 

疲労はある。

 

肩も痛む。

 

頬には血が滲んでいる。

 

さっきの教官らしき男との戦闘で、腹にも鈍い痛みが残っていた。

 

だが、足は止めない。

 

止める理由がない。

 

ツキがいる。

 

雅樹がいる。

 

そして、自分の過去がそこにある。

 

その事実だけで十分だった。

 

前方にまた扉。

 

電子ロック。

 

横には監視カメラ。

 

そのカメラが、こちらの動きを追っている。

 

海斗は立ち止まると、カメラへ向かって中指を立てた。

 

「見えてんだろ、雅樹」

 

返事はない。

 

「趣味悪いぞ」

 

当然、返事はない。

 

海斗は舌打ちし、扉の横のパネルを開けた。

 

内部の配線を見る。

 

今度は先ほどまでと違う。

 

ロックが二重ではなく三重。

 

しかも、手動解除しようとすると管制側に自動通報が飛ぶ作りになっている。

 

「……面倒くせぇ」

 

工具を取り出す。

 

だが、海斗はすぐに手を止めた。

 

背後から足音。

 

軽い。

 

数は二人。

 

訓練された足音ではあるが、ホワイトルーム生のような無機質さはない。

 

もっと荒い。

 

もっと外の匂いがする。

 

海斗は工具をしまい、ゆっくりと振り返った。

 

通路の奥に、二つの影が立っていた。

 

一人は男。

 

三十代後半ほど。

 

短く刈った髪。

 

鍛えられた体格。

 

黒い戦闘服。

 

立ち姿は静かで、無駄がない。

 

銃を構えてはいない。

 

だが、いつでも抜ける距離にある。

 

もう一人は女だった。

 

長い髪。

 

整った顔立ち。

 

鋭い目。

 

黒いジャケットの下に、身体に沿った戦闘装備を着ている。

 

美人と言っていい。

 

だが、その笑みには甘さよりも危うさがあった。

 

好戦的。

 

楽しんでいる。

 

海斗は二人を見て、目を細めた。

 

ホワイトルームの人間ではない。

 

空気が違う。

 

「誰だ、お前ら」

 

男が静かに答えた。

 

「相馬」

 

女が続ける。

 

「舞」

 

「名字か名前か分かんねぇな」

 

舞が笑った。

 

「どっちでもいいでしょ」

 

海斗は二人を観察した。

 

相馬。

 

冷静。

 

距離を取っている。

 

こちらの怪我、呼吸、重心を見ている。

 

舞。

 

近づきたがっている。

 

指先がわずかに動いている。

 

戦いたくて仕方ないという目。

 

二人とも、ホワイトルーム生ではない。

 

だが、素人ではない。

 

むしろ厄介だ。

 

「雅樹の犬か」

 

海斗が言うと、舞の笑みが深くなった。

 

「犬って言われるの、嫌いじゃないかも」

 

相馬は表情を変えない。

 

「雇われただけだ」

 

「金か」

 

「それもある」

 

「他には?」

 

「故郷の後始末」

 

その言葉で、海斗の目が変わった。

 

「故郷?」

 

相馬は頷いた。

 

「俺たちも禁止区域の出だ」

 

通路の空気が変わる。

 

海斗は黙った。

 

禁止区域。

 

自分とツキがいた場所。

 

壊された場所。

 

忘れたわけではない。

 

だが、そこから生き残った人間が他にもいた。

 

その可能性を考えなかったわけではない。

 

しかし、目の前に現れると話は別だった。

 

舞が一歩前へ出る。

 

「会いたかったわ、朝霧海斗」

 

「オレは初対面の美女に会いたかった覚えはない」

 

「あら、美女ってところは否定しないのね」

 

「そこは事実だろ」

 

「気に入った」

 

舞は楽しそうに笑った。

 

「壊したら楽しそう」

 

相馬が短く言う。

 

「舞」

 

「分かってるわよ。今は遊ばない」

 

「恐ろしい女だな」

 

海斗が言うと、舞は肩をすくめた。

 

「よく言われる」

 

「自覚あんのか」

 

「あるわよ。だから何?」

 

舞の目が細くなる。

 

「人がどこまで耐えられるか見るのって、面白いじゃない」

 

海斗の表情から笑みが消えた。

 

「そういう話は嫌いだ」

 

「そう?」

 

「ああ」

 

海斗は一歩前へ出た。

 

「今すぐ黙らせたくなるくらいにはな」

 

舞は嬉しそうに口元を歪めた。

 

「いい顔」

 

相馬が間に入るように手を上げた。

 

「やめておけ」

 

「止めるのかよ、おっさん」

 

海斗が言うと、相馬は少しだけ眉を動かした。

 

「俺はまだ三十代だ」

 

「十分おっさんだろ」

 

「お前から見ればな」

 

海斗は笑った。

 

緊張が一瞬だけ緩む。

 

だが、それは表面だけだった。

 

相馬は強い。

 

海斗には分かる。

 

立ち方。

 

呼吸。

 

視線。

 

無駄がない。

 

ホワイトルーム生のような綺麗な強さではない。

 

戦場で削られて残った強さ。

 

自分と近い。

 

ただし、年季が違う。

 

「特殊部隊か?」

 

海斗が聞く。

 

相馬は少しだけ目を細めた。

 

「なぜ分かる」

 

「匂い」

 

「犬か」

 

「似たようなもんだ」

 

舞が笑う。

 

「この子、面白い」

 

「子供扱いすんな」

 

「18歳でしょ?」

 

「お前よりは若い」

 

「刺すわよ。私もまだ19歳だっての」

 

「やってみろ」

 

二人の間に殺気が走る。

 

相馬が再び止めた。

 

「舞。今は命令が違う」

 

「分かってるって」

 

「朝霧海斗」

 

相馬は海斗へ視線を戻した。

 

「雅樹が待っている」

 

「なら通せ」

 

「通す」

 

海斗は眉を寄せた。

 

「何?」

 

「俺たちの役目は、お前を殺すことではない」

 

「じゃあ何だ」

 

「見ることだ」

 

「何を」

 

「お前が、過去を見た後も前に進めるか」

 

海斗は相馬を睨んだ。

 

「偉そうに」

 

「偉そうにしているつもりはない」

 

「十分偉そうだ」

 

相馬は少しだけ息を吐いた。

 

「俺たちは同じ場所から来た」

 

「だから何だ」

 

「禁止区域の生き残りが、全員お前のように生きられたわけじゃない」

 

その言葉は重かった。

 

相馬は淡々としている。

 

だが、その奥には積み重なったものがある。

 

舞は楽しそうにしているが、彼女の目の奥にも何かが欠けている。

 

海斗はそれを見た。

 

そして、何も言わなかった。

 

「行け」

 

相馬は通路の横へ退いた。

 

舞は不満そうだった。

 

「本当に戦わないの?」

 

「命令だ」

 

「つまらない」

 

「後で機会はある」

 

その言葉に、舞は海斗を見る。

 

「だってさ」

 

「その時までに趣味直しとけ」

 

「嫌よ」

 

「じゃあ殴る」

 

「楽しみにしてる」

 

海斗は二人の間を通り過ぎた。

 

背中は見せる。

 

だが、警戒は解かない。

 

相馬も舞も、今は動かなかった。

 

海斗が扉の前に戻ると、ロックは解除されていた。

 

雅樹の仕業だろう。

 

「最初から開けとけよ」

 

海斗は吐き捨て、扉を押し開けた。

 

その先には、地下研究棟へ続く長い廊下があった。

 

暗い。

 

古い。

 

そして、過去の匂いがする。

 

海斗は振り返らずに歩いた。

 

背後で、舞の声がした。

 

「ねえ、相馬」

 

「何だ」

 

「あの子、壊れにくそうね」

 

「壊れないさ」

 

相馬は静かに言った。

 

「だから雅樹は呼んだ」

 

海斗はその言葉を聞いていた。

 

だが、止まらなかった。

 

 

同じ頃。

 

模擬市街地の地下通路。

 

綾小路清隆、森下藍、志朗の三人は、管制区画へ向かっていた。

 

階段を下りるにつれ、模擬市街地の人工的な街並みは背後に遠ざかっていく。

 

かわりに現れたのは、狭いコンクリートの通路だった。

 

上層階の白い壁とは違う。

 

灰色。

 

無機質。

 

古い。

 

蛍光灯が等間隔に並び、時折ちらつく。

 

どこか学校の地下通路にも似ていた。

 

だが、ここには教育施設らしさなどない。

 

隠すための通路。

 

逃がさないための通路。

 

森下は壁に指を触れた。

 

「上と雰囲気が違いますね」

 

「古い区画だ」

 

志朗が答える。

 

「ホワイトルーム本部は増築を繰り返している。上は新しい。下は古い」

 

「古いものを白で隠していたんですね」

 

「そういうことだ」

 

森下は小さく笑った。

 

「人間と同じですね」

 

志朗が振り返る。

 

「どういう意味だ?」

 

「表面を整えても、奥には古い傷や都合の悪いものが残っている、という意味です」

 

志朗は少しだけ沈黙した。

 

「鋭いな」

 

「よく言われます」

 

綾小路は周囲を警戒していた。

 

先ほどの階段下の影。

 

あの声。

 

低い笑い。

 

龍園翔。

 

そう思った。

 

だが、確証はない。

 

死んだと思われていた。

 

少なくとも、前の戦いではそう見えた。

 

だが、この施設には「死んだはずの人間」がいてもおかしくない。

 

ホワイトルーム。

 

ブラックルーム。

 

白銀禁止区域。

 

人間を記録から消す場所は、すでに見てきた。

 

「綾小路清隆」

 

森下が声をかける。

 

「何だ」

 

「さっきの声、心当たりがありますね」

 

「なぜそう思う」

 

「表情です」

 

「変わっていない」

 

「変わっていないように見せる時点で、何かあります」

 

志朗が少し笑った。

 

「本当に鋭いな」

 

「ありがとうございます」

 

森下は綾小路を見る。

 

「聞いても答えませんか?」

 

「今はな」

 

「では後で聞きます」

 

「聞くなとは言っていない」

 

「珍しく許可が出ました」

 

「出していない」

 

「実質的に出ました」

 

「その解釈はやめろ」

 

森下は楽しそうだった。

 

だが、目は笑っていない。

 

彼女も分かっている。

 

この通路の奥に、普通ではないものが待っていることを。

 

志朗が足を止めた。

 

前方に分岐がある。

 

左は管制区画。

 

右は地下研究棟。

 

壁の案内表示は一部が剥がされている。

 

「分かれるのか」

 

綾小路が聞く。

 

志朗は首を振った。

 

「今は管制区画が先だ」

 

「海斗は地下だろう」

 

「朝霧海斗なら辿り着く」

 

「随分信用しているな」

 

「信用ではない。評価だ」

 

志朗は言った。

 

「彼は止まらない。止まらない人間を止めるのは難しい」

 

森下が頷く。

 

「朝霧海斗らしいですね」

 

「森下は海斗をどこまで知っている」

 

綾小路が聞くと、森下は少し考えた。

 

「よく知っているわけではありません」

 

「ならなぜそう言える」

 

「綾小路清隆がそういう目で見ているからです」

 

「オレが?」

 

「はい」

 

森下はあっさり言った。

 

「綾小路清隆は朝霧海斗を、危なっかしいけれど信頼できる人間として見ています」

 

「勝手な分析だな」

 

「外れていますか?」

 

綾小路は答えなかった。

 

森下は小さく笑う。

 

「沈黙しました」

 

「数えていた」

 

「何をですか」

 

「反論の数だ」

 

「いくつありました?」

 

「少なかった」

 

「つまり当たりですね」

 

面倒だった。

 

本当に面倒だった。

 

だが、彼女の観察は外れていない。

 

海斗は危なっかしい。

 

だが、必要な時に動く。

 

自分が守りたい者がいるなら、必ず行く。

 

なら、こちらがすべきことは管制区画を押さえることだ。

 

施設のロック。

 

監視。

 

誘導。

 

敵の配置。

 

それらを制御している場所を押さえれば、海斗側にも影響を与えられる。

 

「行こう」

 

綾小路が言う。

 

三人は左へ進んだ。

 

通路の先には、分厚い扉があった。

 

管制区画前のセキュリティゲート。

 

カード認証。

 

生体認証。

 

暗証番号。

 

その三つが並んでいる。

 

森下はそれを見て、少しだけ首を傾げた。

 

「綾小路清隆、開けられますか?」

 

「時間があれば」

 

「朝霧海斗なら?」

 

「もっと早いかもしれない」

 

「ピッキングですか」

 

「おそらく」

 

「犯罪者ですね」

 

「本人は否定するだろうな」

 

「否定しても犯罪者です」

 

志朗がカードを取り出した。

 

「ここは俺が開ける」

 

「持っているのか」

 

「一応な」

 

カード認証。

 

暗証番号。

 

最後に志朗が手のひらを生体認証装置へ置いた。

 

短い電子音。

 

扉が開く。

 

森下が少し目を細める。

 

「志朗は、かなり内部に近い立場なんですね」

 

「近くなければ案内はできない」

 

「それはそうですが」

 

「信用できないか?」

 

「はい」

 

森下は即答した。

 

志朗は笑った。

 

「正直だな」

 

「綾小路清隆ほどではありません」

 

「清隆は正直か?」

 

「嘘をつく時も、嘘をついていることは正直に顔へ出ません」

 

「それは正直なのか?」

 

「分かりにくい正直です」

 

綾小路はため息をついた。

 

「分析するな」

 

「趣味です」

 

「悪趣味だ」

 

「雅樹さんや舞さんほどではないと思います」

 

志朗が反応した。

 

「舞を知っているのか?」

 

森下は首を振る。

 

「名前だけです。先ほど管制端末の一覧に一瞬だけ表示されていました。相馬、舞、と」

 

綾小路は森下を見た。

 

「見ていたのか」

 

「はい」

 

「いつ」

 

「模擬市街地の壁面モニターです」

 

志朗の表情が少し変わる。

 

「相馬と舞が出ているなら、雅樹も本気だな」

 

「何者だ」

 

綾小路が聞く。

 

志朗は少しだけ考えた。

 

「禁止区域の出身者だ」

 

森下の表情から軽さが消えた。

 

「朝霧海斗と同じ?」

 

「ああ」

 

「敵ですか?」

 

「雇われている以上、敵になる可能性は高い」

 

志朗は続ける。

 

「相馬は元特殊部隊隊長。冷静で、強い。海斗ほど無茶はしないが、経験がある」

 

「舞は?」

 

志朗は少しだけ嫌そうな顔をした。

 

「好戦的な女だ」

 

「それだけですか?」

 

「相手の心を折るのが好きなタイプだ」

 

森下は黙った。

 

綾小路も表情を変えなかった。

 

だが、内心では理解していた。

 

海斗側に、ホワイトルーム生とは違う敵が現れた可能性がある。

 

禁止区域出身。

 

実戦経験。

 

雅樹が雇った傭兵。

 

海斗の過去と向き合わせるには、あまりにも都合のいい配置だった。

 

「急ぐぞ」

 

綾小路が言う。

 

三人は管制区画へ入った。

 

 

地下七階。

 

映像記録室の前で、ツキは立ち尽くしていた。

 

古い映像を見た後、足に力が入りにくくなっていた。

 

壊される前の故郷。

 

自分が歩いた道。

 

海斗といた場所。

 

そこに黒い車両が入り、白い煙が広がり、人々が倒れ、建物が壊れていく。

 

音のない映像だった。

 

だからこそ、余計に現実味がなかった。

 

まるで自分の記憶が、誰かの手によって資料に加工されているようだった。

 

「ツキ」

 

雅樹が低く呼んだ。

 

「立て」

 

「立っています」

 

「顔色が悪い」

 

「放っておいてください」

 

「放っておくつもりなら、最初からここへ入れていない」

 

ツキは雅樹を睨んだ。

 

「あなた、本当に腹が立ちますね」

 

「それでいい」

 

「良くありません」

 

「怒っていろ。泣くよりは動ける」

 

「泣きません」

 

「なら怒れ」

 

雅樹は扉を開ける。

 

「海斗が近い」

 

その言葉に、ツキの身体が反応した。

 

会いたい。

 

でも会いたくない。

 

怒られる。

 

間違いなく怒られる。

 

そして、たぶん心配された顔をされる。

 

それが一番堪える。

 

ツキは資料を抱え直した。

 

「海斗に、これを見せるんですか」

 

「見せる」

 

「壊れませんか」

 

雅樹はツキを見た。

 

「お前は海斗を何だと思っている」

 

「……」

 

「壊れ物か?」

 

「違います」

 

「なら信じろ」

 

「あなたに言われると腹が立ちます」

 

「だろうな」

 

雅樹は歩き出した。

 

ツキは後に続く。

 

廊下の先から、足音が近づいていた。

 

速い。

 

迷いがない。

 

海斗の足音だった。

 

ツキには分かる。

 

長い付き合いだからではない。

 

あの足音は、いつも同じだからだ。

 

面倒くさそうで。

 

乱暴で。

 

それでも、絶対に止まらない。

 

角の向こうから海斗が現れた。

 

頬に血。

 

袖は裂けている。

 

肩に雪の名残。

 

地下まで来たというのに、防寒具には白い氷がこびりついていた。

 

ツキは思わず声を出した。

 

「海斗……」

 

海斗は足を止めた。

 

数秒。

 

二人は向かい合った。

 

何を言うべきか。

 

ツキには分からなかった。

 

謝るべきなのは分かっている。

 

でも、言葉が出ない。

 

海斗は無言で歩いてきた。

 

ツキの前に立つ。

 

そして、まず頭を軽く叩いた。

 

強くはない。

 

だが、十分痛い。

 

「痛っ」

 

「馬鹿」

 

第一声がそれだった。

 

ツキは少しだけ唇を尖らせた。

 

「もう少し言い方ないのか?」

 

「あるか」

 

「ないの?」

 

「ない」

 

「本当に雑」

 

「雑で済ませてやってんだよ」

 

海斗の声は低かった。

 

怒っている。

 

本気で。

 

ツキは目を伏せた。

 

「……ごめん」

 

海斗は黙った。

 

ツキは続ける。

 

「黙って来て、ごめん」

 

「本当に馬鹿だな」

 

「二回言った」

 

「百回言いたい」

 

「それは嫌」

 

「なら二回で済ませてやる」

 

ツキは小さく笑いそうになった。

 

だが、笑えなかった。

 

海斗の目が笑っていないからだ。

 

「無事か」

 

海斗が聞く。

 

「うん」

 

「怪我は」

 

「ない」

 

「飯は」

 

「今それ聞く?」

 

「大事だろ」

 

「食べてない」

 

「帰ったら食え」

 

「命令?」

 

「命令」

 

「雑」

 

「うるせぇ」

 

そのやり取りを、雅樹は少し離れた場所で見ていた。

 

目は冷たい。

 

だが、どこか観察しているようでもあった。

 

海斗はようやく雅樹を見る。

 

「おい」

 

「来たな、海斗」

 

雅樹の声は低い。

 

威圧感がある。

 

「遅かったじゃないか」

 

「途中で変なのに絡まれた」

 

「相馬と舞か」

 

「お前の趣味か」

 

「雇っただけだ」

 

「舞って女、怖いぞ」

 

「知っている」

 

「知ってて雇うな」

 

「使える駒は使う」

 

海斗の目が細くなる。

 

「駒扱いか」

 

「嫌いか」

 

「嫌いだな」

 

雅樹は笑った。

 

「なら覚えておけ。ここでは、人間を駒として扱う奴らが山ほどいる」

 

「だから潰すって話だろ」

 

「簡単に言う」

 

「難しく言う趣味はねぇ」

 

海斗はツキが抱えている資料に目を向けた。

 

「それか」

 

ツキの手が震える。

 

「海斗」

 

「見せろ」

 

「でも」

 

「見せろ」

 

声が低かった。

 

ツキは迷った。

 

けれど、海斗の目を見て、逃げられないと分かった。

 

いや。

 

逃げてはいけないと分かった。

 

ツキは資料を差し出した。

 

海斗は受け取る。

 

ページをめくる。

 

旧居住区。

 

建設候補地。

 

計画変更。

 

処理。

 

住民リスト。

 

移送対象。

 

破壊記録。

 

海斗の表情は変わらなかった。

 

ただ、ページをめくる指だけが止まった。

 

そこに古い写真があった。

 

幼い自分。

 

幼いツキ。

 

壊れる前の故郷。

 

海斗はそれをしばらく見ていた。

 

ツキは何も言えない。

 

雅樹も黙っている。

 

やがて海斗は資料を閉じた。

 

「これだけか」

 

雅樹が目を細める。

 

「何?」

 

「こんな紙で終わりかって聞いてんだ」

 

海斗の声は静かだった。

 

静かすぎた。

 

ツキはその方が怖かった。

 

「映像もある」

 

雅樹が言う。

 

「見るか」

 

「見る」

 

ツキが反射的に言った。

 

「海斗」

 

海斗はツキを見た。

 

「お前は見たんだろ」

 

「うん」

 

「ならオレも見る」

 

「……大丈夫?」

 

「大丈夫じゃなくても見る」

 

ツキは黙った。

 

それが海斗だった。

 

雅樹は映像記録室の扉を開ける。

 

「来い」

 

三人は中へ入った。

 

暗い部屋。

 

モニター。

 

古い再生機。

 

雅樹が再生を始める。

 

映像が映る。

 

壊れる前の故郷。

 

海斗は黙って見ていた。

 

ツキは隣に立つ。

 

今度は一人ではない。

 

それだけで、少しだけ呼吸が楽だった。

 

映像の中に、幼い二人が映る。

 

ツキは目を伏せそうになる。

 

その時、海斗が小さく言った。

 

「お前、昔からちっせぇな」

 

ツキは一瞬、固まった。

 

「今それ言う?」

 

「思ったから」

 

「最低」

 

「お前も変わってねぇな」

 

「海斗もね」

 

海斗は少しだけ笑った。

 

でも、その目は画面から逸れていなかった。

 

黒い車両。

 

白い煙。

 

倒れる人々。

 

破壊。

 

炎。

 

ツキの呼吸が浅くなる。

 

海斗は何も言わず、片手でツキの手首を掴んだ。

 

強くはない。

 

ただ、そこにいると伝えるように。

 

映像が終わる。

 

部屋が暗くなる。

 

沈黙。

 

長い沈黙。

 

やがて海斗は言った。

 

「雅樹」

 

「何だ」

 

「誰がやった」

 

「命令を出した奴か。実行した奴か。黙認した奴か」

 

「全部だ」

 

雅樹は笑わなかった。

 

「その答えを知りたいなら、さらに奥へ来い」

 

「篤臣か」

 

雅樹は答えない。

 

だが、否定もしなかった。

 

海斗は拳を握った。

 

「そうか」

 

ツキが不安そうに見上げる。

 

「海斗」

 

「あ?」

 

「怒ってる?」

 

「怒ってる」

 

「だよね」

 

「でも」

 

海斗はツキを見た。

 

「お前には後で怒る」

 

「今じゃないの?」

 

「今は先に殴る相手がいる」

 

「……雑」

 

「いつものことだろ」

 

ツキは少しだけ笑った。

 

涙は出なかった。

 

たぶん、出せなかった。

 

でも、海斗が隣にいる。

 

それだけで、先ほどより世界が少しだけ形を取り戻した。

 

雅樹が扉へ向かう。

 

「来い。地下研究棟の中心へ案内する」

 

「罠か?」

 

海斗が聞く。

 

「罠だ」

 

「正直だな」

 

「だが、お前は来る」

 

「分かってんじゃねぇか」

 

海斗は歩き出す。

 

ツキも続く。

 

その時、背後のモニターが一瞬だけノイズを映した。

 

そこに、黒いコートの男の影が映った。

 

海斗が足を止める。

 

「今の」

 

雅樹が鋭く言った。

 

「見るな」

 

「知ってる奴か」

 

「まだ早い」

 

「お前、さっきからそればっかだな」

 

雅樹は海斗を睨んだ。

 

「早すぎる登場は、盤面を壊す」

 

「盤面ねぇ」

 

海斗は鼻で笑った。

 

「好きに壊せばいいだろ」

 

雅樹は低く笑った。

 

「お前らしいな」

 

警報が鳴る。

 

遠くで銃声。

 

上層では綾小路清隆たちが管制区画へ進んでいる。

 

地下では海斗とツキが真実へ近づいている。

 

そして、死んだはずの影が、白い牢獄の中を歩き始めている。

 

ホワイトルームは、少しずつ崩れ始めていた。

 

まだ崩壊していない。

 

壁も残っている。

 

管制も生きている。

 

篤臣も座している。

 

だが、確かに。

 

この場所の終わりは、もう始まっていた。




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