ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第5話 裂目

二階中央廊下に連鎖した発砲と怒号の余韻は、

単に一時的な混乱を残しただけではなく、

辛うじて同じ場所に立っていたはずの

各陣営の足元そのものを少しずつ削り取り、

もはや誰もが自分の隣に立つ相手すら

本当に同じ目的で動いているのか確信を持てない、

不安定でひび割れた空気へと校舎全体を変え始めていた。

 

綾小路清隆は三階踊り場から離れたあと、すぐには人質教室へ戻らず、

あえて西側の特別教室群へ迂回しながら、混乱の波がどの方向へ広がり、

どこで止まり、どこで増幅されているかを耳で拾うように歩いていた。

 

銃声の数は少しずつ減っている。

 

それは状況が鎮まったという意味ではない。

 

むしろ逆だ。

 

撃てる者と、撃てなくなった者と、撃つべきか迷い始めた者が明確に分かれ、

誰もが次の一発が自分に向く可能性を意識し始めたせいで、

場当たり的な暴発の段階から、より危険な狙って撃つ沈黙の段階へ

移りつつあるのだと綾小路は判断していた。

 

文化祭前夜の校舎には、もともと祭の準備のために引かれた電源コードや、

未完成の展示物や、搬入途中の資材や、

仮置きされた机や椅子がそこかしこに残されており、

それらは先ほどまでは単なる障害物にすぎなかったが、

今では視線を切り、射線を遮り、音を反射させ、

誰かの足を止めるには十分すぎる地形へ変わっていた。

 

綾小路は理科準備室前の暗がりに一度身を沈め、

手にした拳銃の残弾を確認し、それから鍵束の位置と、

保健準備室で確保した応急用品の感触を服越しに確かめた。

 

まだ決定打には足りない。

 

だが、必要なのは大きな武器ではなく、

決定的に崩れる寸前の均衡へ指を一本差し込むことだった。

 

人質教室の前では、

先ほどの連鎖的な混乱を受けて配置が確実に変わっているはずだ。

 

龍園は支配を失いたくない。

坂柳は盤面を失いたくない。

宝泉は奪いたい。

天沢は遊びたい。

七瀬は制御したい。

 

そのすべてが同時に成立することはない。

 

だから誰かが何かを優先した瞬間、その優先順位の差が裂け目になる。

 

綾小路は西側の美術準備室に入り、

そこから人質教室のある廊下とほぼ並行する位置へ出られる裏通路を選んだ。

 

この学校の構造は、表から見れば整然としていても、

準備室、倉庫、予備教室、資料室、教員用通路など、

実際には目立たない細い導線が幾重にも存在している。

 

文化祭前夜という条件は、それらの導線の多くを一時的に開放していた。

 

つまり、普段なら教師や一部の役員しか使わない抜け道を、

今夜に限っては生徒も通れる状態になっている場所がある。

 

綾小路はその一つを抜け、二階中央廊下の裏手に近い物置へ辿り着いた。

 

扉の隙間から、薄く赤い光が差し込んでいる。

 

外の気配を探る。

近くに人はいない。

 

しかし少し離れた位置で、低い声がぶつかり合っていた。

 

龍園と橋本だった。

 

「だから言ってんだろ。テメェらの誰かが動いたんじゃねえのか」

「こっちから見れば、あんた方の誰かが不用意に発砲したようにしか見えないが」

「不用意だと?」

 

龍園の声には露骨な苛立ちが滲んでいた。

 

「俺がそんなヘマするように見えるかよ」

「するだろうな、あんたなら」

 

橋本が返す。

 

軽口のようでいて、実際には完全な挑発だった。

 

数秒の沈黙。

 

その沈黙の重さだけで、両者がすでに共闘相手ではなく

先に潰す候補へ近づいていることが分かる。

 

そこへ、坂柳の声が割って入った。

 

「二人とも、その程度で銃口を向け合うのなら、綾小路くんの思う壺ですよ」

「そう仕向けたのはテメェかもしれねえだろ」

「仕向ける価値があるなら、もっと直接的にやるさ」

 

坂柳の声は静かだった。

 

だがその静けさが、龍園の神経をさらに逆撫でする。

 

「それで、あなたは何を優先するんですか、龍園くん」

「……あ?」

「人質ですか。綾小路くんの追跡ですか。それとも、こちらの排除ですか」

 

坂柳は一つずつ確認するように言った。

 

「どれも取ろうとすれば、どれも中途半端になりますよ」

 

その問いには罠がある。

 

龍園が人質を優先すると言えば、綾小路を恐れていることになる。

追跡を優先すると言えば、人質管理を坂柳側へ譲ることになる。

坂柳側の排除を優先すると言えば、綾小路を取り逃がす。

 

つまり、どの答えを選んでも弱みになる。

 

龍園は短く笑った。

 

「相変わらず陰険だな、坂柳」

「褒め言葉として受け取っておきます」

 

綾小路はそのやり取りを聞きながら、人質教室の内部へ意識を向けた。

 

教室内の気配は重い。

 

先ほどまで断続的に上がっていた悲鳴や泣き声は少し落ち着いているが、

それは安心したからではなく、恐怖が一定量を超えて、

かえって声にならなくなりつつあるからだろう。

 

それが最も危険だった。

 

追い詰められた人間は、ある段階までは泣く。

 

その先では、急に無言になる。

 

そして、その無言の中で突然壊れる。

 

綾小路は物置を出て、人質教室の斜め後方に位置する空き教室へ移動した。

 

扉は開いている。

 

中には発表用のパネルや脚立、模擬店で使う予定だった木箱が積まれている。

窓際から人質教室側を見ると、廊下を横切る影が断続的に見えた。

龍園側の見張りが一人減り、代わりに一年生側の男子が一人増えている。

坂柳側は橋本と神室が教室前に残り、

坂柳自身は内部と外を行き来しているようだった。

 

人手が足りなくなっている。

 

いや、正確には、互いに互いを信用しないせいで、

人員の置き方が非効率になっている。

 

そこへ綾小路はさらに耳を澄ませた。

 

教室の中から、一之瀬の声が聞こえた。

 

「……大丈夫、呼吸を整えて。吸って、吐いて」

 

彼女の声は小さいが、落ち着かせようとする意志が明確だった。

 

誰かの過呼吸か、パニックに近い状態を抑えているのだろう。

 

続いて平田の声。

 

「みんな、今は急に動かないで。外の様子が変わってる。余計に刺激したら危ない」

 

堀北は何も言っていない。

 

その沈黙は、諦めではない。

観察しているのだ。

 

どこが薄いか、誰が最も焦れているか、綾小路がもし近くにいるならどの瞬間を狙うか。

 

ひよりの声もかすかに聞こえた。

 

「……軽井沢さん、水を少しだけ」

 

軽井沢の返事は聞こえない。

 

おそらく極限まで張り詰めている。

 

龍園が軽井沢をどういう意味で有効な人質として認識しているかは、

もはや説明不要だった。

 

その時、教室前の空気がまた動いた。

 

宝泉が近づいてくる。

足音が重い。

隠す気もない。

 

「おい、いつまで囲ってんだ」

 

龍園が睨み返す気配が伝わる。

 

「テメェに指図される筋合いはねえぞ」

「指図じゃねえ。手際が悪いって言ってんだ」

 

宝泉の声には露骨な軽蔑が混じっていた。

 

「人質なんざ抱えてたって、綾小路が都合よく飛び出してくるとは限らねえだろ」

「だから餌にするって話だろうが」

「ならさっさとやれよ」

 

空気がぴりつく。

 

橋本が一歩前へ出る気配。

 

神室もそれに合わせて位置を変える。

 

七瀬の声が入る。

 

「宝泉くん、刺激しないでください」

「うるせえ。テメェは黙ってろ」

「今ここで内輪揉めを起こせば、最も喜ぶのは綾小路先輩です」

「だから何だ。あいつを引っ張り出せりゃ結果は同じだろ」

 

その乱暴な理屈に対し、七瀬はすぐには返さなかった。

反論しても意味がないと判断したのか、それとも反論の言葉を探していたのか。

 

だが、沈黙より先に龍園が動いた。

 

「テメェ、さっきからうるせえんだよ」

 

低い声だった。

 

次の瞬間、龍園の拳が宝泉の頬へ叩き込まれた。

 

鈍い音。

 

周囲の生徒たちが一斉に息を呑む。

宝泉の顔がわずかに横へ流れる。

 

だが、それだけだった。

宝泉は倒れない。

むしろ口元を歪める。

 

「今、俺を殴ったか?」

「殴られて初めて分かるのかよ。ゴリラは頭悪ぃな」

 

龍園は笑っていた。

だが、その笑みの奥には明確な苛立ちがある。

 

宝泉が一歩前へ出る。

七瀬が鋭く叫んだ。

 

「やめてください!」

 

だが遅い。

宝泉の拳が龍園へ飛んだ。

 

龍園は完全には受けない。

身を沈め、肩で流し、横へずれる。

拳が壁へ叩き込まれ、コンクリートの粉が落ちた。

 

龍園はその隙を逃さず、宝泉の脇腹へ一発入れる。

さらに続けて、顎先へ短い拳を叩き込む。

 

二撃。

 

どちらも急所を狙った鋭い打撃だった。

龍園は苛立っていても、まだ冷静さを失い切ってはいない。

 

喧嘩慣れした動き。

相手の力を真正面から受けず、隙間だけを刺すやり方。

 

だが、相手が悪すぎた。

 

宝泉は一歩も下がらない。

脇腹を打たれても、顎を弾かれても、ただ笑みを深くするだけだった。

 

「その程度かよ」

 

次の拳は、龍園の回避より速かった。

宝泉の拳が龍園の腹部へめり込む。

 

空気が潰れる音。

龍園の身体が折れる。

それでも龍園は膝をつかない。

 

宝泉の腕を掴もうとする。

だが宝泉はその手ごと力任せに振り払い、

今度は肩からぶつかるように龍園を壁へ叩きつけた。

 

重い衝撃。

壁が鳴る。

 

龍園の背中が強く打ちつけられ、息が漏れる。

 

「ぐ……っ」

 

宝泉は止まらない。

さらに胸倉を掴み、引き寄せる。

 

龍園はそこで頭突きを狙った。

だが宝泉はそれも読んでいたように顔をずらし、逆に額を押し返すように叩きつける。

 

龍園の視界が揺れる。

それでも笑おうとする。

 

「ハッ……単細胞が……」

「まだ減らず口叩けんのかよ」

 

宝泉の拳が再び振り上がる。

このままでは、内輪揉めでは済まない。

 

七瀬が踏み込もうとする。

しかし、その前に乾いた銃声が響いた。

 

一発。

 

弾丸が宝泉の頬を掠め、背後の壁へ突き刺さる。

 

白い破片が散った。

宝泉の動きが止まる。

廊下全体が凍りつく。

 

銃を構えていたのは坂柳だった。

その表情は穏やかだったが、目だけは冷たい。

 

「そこまでです」

 

坂柳は静かに言った。

 

「綾小路くんを追う前に、あなたたち同士で潰し合うつもりですか」

 

宝泉は龍園の胸倉を掴んだまま、ゆっくりと坂柳を見る。

 

頬から細く血が伝う。

だがその目には怯えなどない。

あるのは、純粋な怒気だけだった。

 

「……次、邪魔をするならテメェでも容赦しないぜ」

 

宝泉は低く吐き捨てる。

坂柳は銃口を下ろさない。

 

「覚えておきます」

 

その返答は静かだった。

宝泉は数秒だけ坂柳を睨みつけ、それから乱暴に龍園を突き放した。

 

龍園は壁にもたれながら呼吸を整える。

 

口元に血が滲んでいた。

だが、それでも笑っていた。

 

「ハッ……やっぱゴリラだな、テメェ」

 

宝泉は返さない。

廊下には再び、歪んだ沈黙が落ちた。

共闘など、最初から存在していなかった。

ただ綾小路清隆という獲物を前にして、かろうじて同じ方向を向いていただけ。

 

その事実が、この短い殴り合いによって全員の前へ露わになった。

 

だが、そのわずかな沈黙を埋めるように、

天沢の声がどこからともなく滑り込んできた。

 

「じゃあさ、試してみればいいじゃないですか」

 

全員の意識が一瞬そちらへ向いたのが、空気の変化で分かった。

 

天沢は壁際に寄りかかるように立っていた。

 

いつの間にそこにいたのか分からないほど自然に、

しかしそれ自体が不自然なくらい気配なく。

 

「だって、みんな口では色々言ってるけど、結局確かめたいんでしょ?

綾小路先輩が誰にどこまで反応するのか」

「……天沢さん」

 

七瀬が低く制した。

 

だが天沢は気にしない。

 

「軽井沢先輩でも、堀北先輩でも、一之瀬先輩でも、椎名先輩でもいいですよ。

ちょっとだけ教室から出してみて、反応を見る。ね、簡単」

 

教室の中で、空気が凍るのが分かった。

軽井沢が小さく息を呑んだ。

 

一之瀬は何か言いかけたが、外から聞こえる位置ではなかった。

 

堀北はおそらく表情一つ変えていないだろう。

 

だが、その沈黙はむしろ濃くなっていた。

 

坂柳がゆっくりと口を開く。

 

「合理的ですね」

 

龍園が笑う。

 

「気が合うじゃねえか、天沢」

「でしょ?」

 

七瀬だけが明確に反対の気配を見せた。

 

「駄目です。今その段階へ進めば、配置が崩れます」

「もう崩れてるよ、七瀬ちゃん」

 

天沢は笑う。

 

「だったら、その崩れた中で一番おいしい瞬間を取らなきゃ損じゃない?」

 

それは完全に遊びの理屈だった。

 

だが危険なのは、その遊びの理屈が、

この場では最も人を動かしやすいということだった。

 

龍園は考えるふりすらしなかった。

 

「軽井沢を出せ」

 

教室の中で、誰かが小さく悲鳴を漏らした。

 

平田が前へ出ようとする気配。

 

「やめろ!」

 

須藤の声も重なる。

 

すぐに誰かに抑え込まれたのだろう、物音がした。

 

綾小路の目がわずかに細くなる。

 

予想より早い。

 

だが、動くには十分だった。

 

天沢が面白そうに笑う。

 

「わあ、分かりやすい。やっぱりそこなんだ」

「黙って見てろ」

 

龍園が言い捨てる。

 

その時、坂柳が一つ咳払いをした。

 

「待ってください」

 

龍園の苛立ちがさらに強くなる。

 

「今度はなんだ」

「軽井沢さんでは、あまりに露骨すぎます」

 

坂柳は静かに言った。

 

「綾小路くんにとって分かりやすすぎる人選は、かえって読みやすい。

彼が近くにいても、罠として見抜く可能性が高いでしょう」

「じゃあ誰だ」

 

坂柳は一拍置いて答えた。

 

「堀北さんです」

 

教室内の空気が変わる。

 

今度は軽井沢とは別の意味で。

 

堀北鈴音。

 

クラスリーダーであり、生徒会長であり、綾小路と最も長く近くにいる存在の一人。

 

露骨すぎず、しかし無視しづらい。

確かに合理的だった。

 

龍園が低く笑う。

 

「なるほどな。悪くねえ」

 

一之瀬がそこで声を上げた。

 

「やめて!そんなことをしても――」

「黙ってください」

 

坂柳の声は静かだったが、

その一言だけで教室の空気を押し潰すだけの冷たさがあった。

 

「あなたたちに拒否権はありません」

 

綾小路は窓際から下がった。

 

もう待てない。

 

堀北を教室外へ引き出せば、配置は確実に動く。

そして、その移動の瞬間が最も危険であり、同時に最も狙いやすい。

 

綾小路は空き教室を出ると、

人質教室と反対側の渡り廊下へ向かうふりをして、一度だけ大きく足音を立てた。

 

すぐに誰かが反応する。

 

「そっちだ!」

 

龍園側の男子の声。

続けて二人分の足音が離れる。

 

見張りが減った。

 

さらに綾小路は、曲がり角の先にあった文化祭用の看板をわざと倒した。

 

派手な音が響く。

 

今度は宝泉が動く。

 

「綾小路ィ!」

 

怒声と共に、重い足音がそちらへ向かった。

 

七瀬の制止が飛ぶ。

 

「待って!一人で行けば――」

 

だが宝泉は止まらない。

 

これでさらに薄くなる。

 

綾小路はすぐに逆方向へ引き返し、教室の裏手に近い非常口脇へ滑り込んだ。

残ったのは坂柳側の数名と、七瀬、天沢、そして教室内外を行き来する坂柳本人。

 

龍園はまだ近いが、意識は散っている。

 

その一瞬が盤面を崩した。

 

教室の扉が開いた。

 

堀北が出される。

 

両腕を後ろで拘束されているわけではないが、左右を二人に挟まれている。

 

坂柳側の男子生徒と、龍園側の男子生徒。

 

共同管理。

 

つまり互いに互いを信用していない証拠でもある。

 

堀北は外へ出された瞬間も取り乱さなかった。

背筋を伸ばし、状況だけを見ている。

その姿が逆に痛々しいほどだった。

 

「ここで五分待ちます」

 

坂柳が穏やかに告げる。

 

「綾小路くんが姿を現さなければ、次の段階へ進みます」

 

その言葉は教室の中にも外にも向けられていた。

 

堀北は何も言わない。

 

ただ、一度だけ、ほんの一瞬だけ廊下の暗がりへ視線を流した。

綾小路が近くにいる可能性を、彼女も考えていたのだろう。

 

綾小路は非常口脇の影の中で、距離と人数と導線を即座に組み立て直した。

 

正面から奪うのは不可能ではない。

 

だが成功率は高くない。

 

失敗すれば堀北が危険に晒される。

必要なのは瞬間的な分断だ。

 

二人の見張りを同時に切るか、もしくは一方に別の脅威を向けさせる。

 

その時、天沢が笑った。

 

「ほんとに来るかなあ、先輩」

 

七瀬が鋭く返す。

 

「余計なことをしないでください」

「だって気になるじゃん。

堀北先輩って、先輩にとってどれくらい優先なんだろうって」

 

その言葉は、狙って神経を撫でていた。

 

七瀬は天沢を睨むが、天沢は気にせず、

むしろ楽しそうに堀北へ近づこうとする。

 

その瞬間、綾小路は動いた。

非常口脇に置かれていた消火器を廊下の反対側へ滑らせる。

 

金属音。

 

硬い床を転がった消火器が壁へぶつかり、重い音を響かせた。

 

全員の視線が、ほんの一瞬だけそちらへ向く。

綾小路はその一瞬で距離を詰めた。

狙いは、堀北の左側に立っていた山田アルベルトだった。

 

巨体。

圧。

そして手には拳銃。

 

堀北を押さえるには、あまりにも厄介な相手だった。

綾小路が懐へ入るより早く、アルベルトの銃口が動いた。

巨体に似合わない反応速度だった。

 

発砲。

 

綾小路は首をわずかに傾けるだけでそれを外す。

弾丸が背後の掲示板を撃ち抜き、紙片と木片が散った。

アルベルトは銃を撃った直後、そのまま腕を引かない。

むしろ拳銃を持つ手を鈍器のように振り下ろし、綾小路の側頭部を狙ってくる。

 

銃撃と格闘の切り替えが速い。

綾小路は上体を沈める。

拳銃の金属部分が髪を掠め、背後の壁へ叩きつけられた。

 

鈍い音。

 

そのままアルベルトの左拳が飛ぶ。

ヘビー級ボクサーのような重い打撃。

 

綾小路は受けない。

肩をずらす。

半歩だけ外へ流す。

 

拳が空を切り、近くの木箱へ直撃して板材を割った。

綾小路はその隙に踏み込み、アルベルトの鳩尾へ鋭い一撃を入れる。

 

確かに入った。

だが浅い。

 

アルベルトの分厚い肉体が衝撃を受け止め、巨体はほとんど揺れなかった。

 

「……っ」

 

綾小路は即座に理解する。

普通の相手なら呼吸を奪える位置。

だが、アルベルトには足止め程度にしかならない。

 

アルベルトのサングラスごしの目が細くなる。

次の瞬間、彼はさらに前へ出た。

 

拳銃を構え直す。

 

発砲。

 

綾小路は身体を横へ滑らせる。

弾丸が堀北のすぐ近くの壁を抉り、彼女が思わず息を呑む。

 

さらにアルベルトが踏み込む。

 

右拳。

左拳。

 

そして肩からの押し込み。

綾小路は最小限の動きで全てをかわし続ける。

 

大きく避ければ堀北から離れる。

離れれば救出の機会を失う。

だから、逃げる幅は数センチでいい。

 

拳が頬を掠める。

銃口が胸元を通過する。

 

肩が壁へ押し込まれそうになる。

それでも綾小路は崩れない。

 

アルベルトの攻撃は重い。

だが重い分、踏み込みの瞬間に必ず軸が固定される。

 

そこが隙だった。

 

アルベルトがもう一度、拳銃を至近距離で向けようとした瞬間。

綾小路は銃口の内側へ入った。

 

撃てない距離。

 

アルベルトが腕を引こうとする。

 

遅い。

 

綾小路の第一撃が、アルベルトの手首へ入る。

骨ではなく神経を狙った鋭い打撃。

 

拳銃を握る力が一瞬抜ける。

 

第二撃。

 

脇腹の下、肋骨の隙間へ短く突き込む。

アルベルトの呼吸が止まる。

 

第三撃。

 

膝の外側。

体重を支える軸へ、正確に叩き込む。

 

「――ッ……!」

 

アルベルトの巨体が初めて大きく揺れた。

 

拳銃が手から落ちる。

 

金属音。

床を滑る。

 

アルベルトはなお立とうとした。

だが急所へ連続して入った痛みが遅れて全身へ回り、巨体が膝から沈む。

 

声にならない呻き。

彼は片膝をつき、手首と脇腹を押さえながらうずくまった。

 

綾小路は追撃しない。

足先で拳銃を遠くへ蹴り飛ばす。

それから堀北の肩を掴み、手前へ引いた。

 

「来い」

 

堀北は一瞬だけアルベルトを見た。

だがすぐに視線を戻し、綾小路に従って動いた。

 

「綾小路くん!」

 

堀北が息を呑む。

右側の坂柳側生徒が反応する。

 

だがその前に、七瀬が動いた。

 

「撃たないで!」

 

その声は坂柳側生徒へ向けられていた。

 

一瞬の制止。

 

それだけで流れは変わった。

綾小路は堀北を背後へ庇いながら、近くの教室脇へ飛び込む。

 

宝泉の怒声が遠くから戻ってくる。

 

「やっぱり来やがったかぁ!」

 

龍園も叫ぶ。

 

「追え!」

 

坂柳の声だけが冷静だった。

 

「生かしたまま囲んでください。今撃てば、堀北さんごと外します」

 

廊下が一気に動く。

 

綾小路は教室脇の窪みに堀北を押し込み、短く告げた。

 

「しゃがめ」

「あなた……」

「説明は後だ」

 

堀北は食い下がらなかった。

こんな状況でも、感情より状況を優先している。

それは彼女の強さであり、同時に今この瞬間の救いでもあった。

 

綾小路は角の向こうの足音を聞く。

 

龍園側、坂柳側、宝泉、一年生。

 

全員が来る。

 

一人だけ助けて逃がすには、まだ距離が足りない。

だが、ここで堀北を取り返されれば次はない可能性が高い。

 

綾小路は拳銃を構え、角の先へ向けた。

 

撃つためではない。

止めるためだ。

足音が近づく。

 

最初に現れたのは龍園側の男子生徒だった。

 

綾小路は床すれすれへ一発だけ撃つ。

 

火花と破片が散り、相手が反射的に足を止める。

 

そこまでが限界だった。

 

その背後から龍園が舌打ちする。

 

「チッ……!」

 

さらに別方向から天沢の声。

 

「うわ、ほんとに助けに来た。やっぱり優しいんだ」

 

七瀬が鋭く言う。

 

「今は感想を言っている場合じゃない!」

 

坂柳の声が重なる。

 

「左右から回ってください。正面は囮で構いません」

 

綾小路はその指示を聞いた瞬間、

堀北の腕を掴み、教室脇の窓際へ移動した。

 

窓は施錠されている。

 

だが、物理キーなら――。

 

鍵束を取り出し、最も近い型を差す。

 

合わない。

二本目。

外れる。

三本目。

 

手応えがあった。

 

開く。

 

夜気が流れ込む。

 

二階だ。

 

飛び降りれば無事では済まない。

 

だが、廊下に留まるよりはましな可能性がある。

 

堀北が窓の外を見て、すぐに理解した。

 

「本気なの」

「他にいい案があるか」

「……ないわね」

 

その答えが返ってきた瞬間、綾小路はほんのわずかに安堵した。

彼女が今ここで躊躇しないなら、まだ動ける。

 

背後から足音が迫る。

 

龍園の笑い声が混じる。

 

「面白ぇ。そこから落ちる気かよ」

 

宝泉も迫る。

 

「やってみろよ、綾小路パイセン」

 

坂柳の足音は遅い。

 

だが確実に近づいてくる。

 

七瀬の気配もある。

 

天沢は――楽しんでいる。

 

綾小路は一瞬で計算した。

 

この窓からはすぐ下に文化祭用の大型布幕と資材が仮置きされている。

 

着地点としては最悪ではない。

 

ただし、二人同時に飛べば衝撃は大きい。

 

足首か肩をやる可能性はある。

 

それでも選ぶしかない。

 

「先に行け」

 

綾小路が言う。

 

堀北は一瞬だけこちらを見る。

 

「あなたは?」

「後で降りる」

「嘘ね」

「今はいい」

 

次の瞬間、教室脇へ龍園側の男子が顔を出した。

 

綾小路は壁へ向けて二発撃つ。

反響と破片で相手が下がる。

その隙に堀北が窓枠へ足をかけた。

 

夜風が髪を揺らす。

 

その背中は震えていた。

 

だが、折れてはいなかった。

 

「綾小路くん」

「行け」

 

堀北は歯を食いしばり、そのまま身を投げた。

外で布と資材が大きく揺れる音がする。

 

続けざまに怒号が上がる。

 

綾小路もすぐに窓枠へ手をかけた。

だがその瞬間、横から強い衝撃が走る。

 

宝泉だった。

 

完全には間に合っていない。

 

それでも腕が届いた。

 

綾小路の肩に重い衝撃がぶつかり、身体が窓枠に叩きつけられる。

 

視界が揺れる。

 

拳銃が手から滑りかける。

 

「捕まえたぞ!」

 

宝泉の声がすぐ近くで響いた。

 

そこへ七瀬の叫びが飛ぶ。

 

「撃たないで!距離が近すぎます!」

 

天沢の笑い声。

龍園の苛立った舌打ち。

坂柳の静かな指示。

 

すべてが一瞬で重なる。

 

綾小路は窓枠を掴んだまま体勢をずらし、

宝泉の力を真正面から受けずに横へ流した。

 

だが衝撃は消えない。

 

肩に鋭い痛みが走る。

 

次の瞬間、綾小路は自ら窓の外へ身体を落とした。

 

二階からの落下。

 

短い浮遊感。

 

すぐに、布幕と木箱と資材が衝撃を受け止める重い音が全身へ返ってきた。

 

息が詰まる。

視界が白くなる。

だが意識は飛ばない。

 

上では怒号が続いている。

 

「外に回れ!」

「逃がすな!」

「堀北先輩もいる!」

「囲んで!」

 

綾小路は痛む肩を押さえながら身を起こした。

数メートル先、堀北も資材の山に倒れ込んでいたが、意識はある。

顔をしかめながらも、すぐに立とうとしている。

 

「立てるか」

 

綾小路が問う。

 

「……なんとか」

 

その返答を聞くと同時に、校舎外のさらに遠くから、微かにサイレンの音が聞こえた。

 

まだ遠い。

だが確かに近づいている。

 

校外は動いている。

 

それでも今、この二人を助ける者はまだ誰もいない。

 

綾小路は堀北へ手を差し出した。

堀北はそれを掴み、立ち上がる。

夜の校舎の外気は冷たかった。

 

だが、それ以上に、背後の窓から注がれる視線が熱かった。

 

龍園。

坂柳。

宝泉。

天沢。

七瀬。

 

全員が、今この瞬間、校舎の内側から綾小路と堀北を見下ろしている。

 

人質教室の均衡は壊れた。

 

だが、その代償として、追跡はさらに露骨で直接的なものへ変わる。

 

そして綾小路は理解していた。

 

ここから先は、もはや誰を救うかだけではない。

 

救い出した者を、どう生かしたまま逃がすか。

 

その新しい局面へ、夜は確実に踏み込んでいた。




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