ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第52話 白き支配

音が、頭の奥に刺さっていた。

 

耳で聞こえる音ではない。

 

鼓膜を揺らす警報とも違う。

 

もっと深い場所。

 

頭蓋の内側。

 

思考の底。

 

そこへ直接、白い針を差し込まれているような不快感だった。

 

旧格闘訓練施設。

 

地下七階。

 

ホワイトルーム本部の底。

 

そこで全員の動きが止まった。

 

低周波のような振動が、壁から、床から、天井から、身体の中へ染み込んでくる。

 

白い照明が明滅する。

 

赤い警報灯が滲む。

 

倒れていた旧実験体たちが痙攣し、ホワイトルーム精鋭たちも一部が膝をつく。

 

だが、最も異変が大きかったのは、相馬と舞と龍園翔、そして雅樹だった。

 

相馬は片手で頭を押さえていた。

 

普段の冷静な目が揺れている。

 

呼吸は乱れていない。

 

足も止まっている。

 

それでも、その奥で何かが強引に書き換えられていることは分かった。

 

「……下がれ」

 

相馬が低く言った。

 

海斗は眉を寄せる。

 

「相馬?」

 

「下がれ、朝霧海斗」

 

相馬の声は、まだ彼自身のものだった。

 

だが、そこに混ざる硬さが違う。

 

命令を受けた兵士の声。

 

敵を確認した人間の声。

 

「今すぐだ」

 

海斗はツキを背後へ下げた。

 

「何が起きてる」

 

「分からん」

 

相馬は奥歯を噛みしめる。

 

「だが、身体が勝手に判断しようとしている」

 

「判断?」

 

「対象を排除しろ、と」

 

その言葉と同時に、舞が笑った。

 

いつもの笑みではない。

 

もっと危ない。

 

もっと濁った笑みだった。

 

彼女は両手に持ったナイフをゆっくり回しながら、肩を震わせている。

 

「すごい……」

 

ツキが顔をしかめる。

 

「何がですか」

 

舞はツキを見た。

 

「全部が軽くなるの」

 

その声は甘かった。

 

けれど、背筋が冷えるほど危険だった。

 

「我慢しなくていい。遠慮しなくていい。

壊したいものを壊していい。そう言われてるみたい」

 

「最悪ですね」

 

「ええ、最高」

 

舞の視線がツキへ向いた。

 

海斗がその前に出る。

 

「舞」

 

「何?」

 

「ツキを見るな」

 

「無理」

 

舞は笑う。

 

「見ちゃう」

 

その瞬間、海斗の背筋に嫌なものが走った。

 

舞は元々危険だった。

 

好戦的で、相手の心を折ることを楽しむ人間。

 

その根が増幅されている。

 

人格を書き換えられているのではない。

 

本人の奥にある危険な部分だけを、無理やり前面へ引きずり出されている。

 

だからこそ厄介だった。

 

龍園翔もまた、様子が変わっていた。

 

彼は最初から笑っていた。

 

だが今の笑みは、先ほどまでとは違う。

 

視界に映るものの中から、ただ一人だけを見ている。

 

綾小路清隆。

 

その一点だけへ、視線が固定されていた。

 

「綾小路」

 

龍園が低く呼んだ。

 

綾小路は静かに視線を返す。

 

「龍園」

 

「やっとだ」

 

「今はその状況ではない」

 

「知るかよ」

 

龍園の口元が歪む。

 

「ようやく邪魔が消えた」

 

「邪魔は増えていると思うが」

 

「オレには見えてねぇ」

 

龍園は一歩前へ出る。

 

「今は、お前しか見えてねぇ」

 

森下藍が小さく息を呑んだ。

 

「綾小路清隆」

 

「分かっている」

 

綾小路は短く答えた。

 

龍園の執着。

 

綾小路を引きずり出したいという欲求。

 

勝ちたいという意地。

 

超えたいという渇望。

 

それらが、洗脳装置によって一気に増幅されている。

 

雅樹も同じだった。

 

彼は端末の前で歯を食いしばっていた。

 

額には汗。

 

片手でこめかみを押さえ、もう片方の手で端末を握り潰しそうになっている。

 

志朗が彼を見る。

 

「雅樹!」

 

雅樹はゆっくり顔を上げた。

 

目が違っていた。

 

先ほどまでの威圧とも違う。

 

もっと深く、もっと古い執着。

 

ホワイトルームというものに縛られた人間の目。

 

「ホワイトルームは……」

 

雅樹が低く呟く。

 

志朗の表情が硬くなる。

 

「やめろ」

 

「間違っていない」

 

「違う」

 

「違わない」

 

雅樹の声が強くなった。

 

「間違っていたなら、俺たちは何のためにここまで来た」

 

「それを認めるためだ」

 

「違う!」

 

雅樹の怒声が地下に響いた。

 

ツキが肩を震わせる。

 

志朗は動かなかった。

 

雅樹は志朗を睨む。

 

「お前もそうだ、志朗。自由が欲しいと逃げた男が、何を偉そうに語る」

 

「逃げたことは否定しない」

 

「なら黙っていろ」

 

「黙らない」

 

志朗は一歩前へ出た。

 

「お前も縛られている」

 

雅樹の目がさらに鋭くなる。

 

その時、天井スピーカーから篤臣の声が流れた。

 

『外の強者とやらを、互いに潰し合わせる』

 

低く、冷たい声。

 

そこに焦りはない。

 

ただ、実験結果を見るような冷酷さだけがあった。

 

『清隆。お前が外で何を得たのか、ここで証明してみろ』

 

綾小路は天井を見上げた。

 

「相変わらず悪趣味だな」

 

『これは検証だ』

 

「検証という言葉で人間を壊すな」

 

『壊れる程度のものなら、最初から不要だ』

 

龍園が笑った。

 

「いいねぇ、胸糞悪い親父だ」

 

だが、その言葉とは裏腹に、龍園の視線は綾小路から離れない。

 

海斗は相馬を見ていた。

 

相馬は銃を構えていた。

 

まだ撃っていない。

 

だが、指は引き金にかかっている。

 

「相馬」

 

「……」

 

「正気か」

 

「半分は」

 

「じゃあもう半分を戻せ」

 

「無茶を言う」

 

相馬の声は苦しげだった。

 

「命令が上書きされる。対象確認。朝霧海斗。危険度A。排除、または拘束」

 

「お前、自分で喋ってて変だと思わねぇのか」

 

「思っている」

 

「ならやめろ」

 

「止められない」

 

相馬の目が変わった。

 

その瞬間、海斗はツキを突き飛ばすように横へ動かした。

 

銃声。

 

弾丸が海斗の肩先をかすめ、後方の壁に火花を散らす。

 

「相馬!」

 

ツキが叫ぶ。

 

相馬は無言で二発目を撃つ。

 

海斗は横へ跳び、床を転がる。

 

三発目。

 

四発目。

 

射撃が正確すぎる。

 

ホワイトルーム生の射撃とは違う。

 

相馬の銃撃は、訓練された軍人のものだった。

 

追い詰める。

 

逃げ道を塞ぐ。

 

動きの先を撃つ。

 

殺すためだけでなく、相手の選択肢を奪う射撃。

 

海斗は舌打ちした。

 

「やっぱ強ぇなおっさん!」

 

「おっさんではない」

 

返す声は相馬のものだった。

 

だが、銃口は止まらない。

 

「そこだけ反応すんな!」

 

海斗は遮蔽物の陰へ飛び込む。

 

ツキが追おうとするが、その前に舞が立ちはだかった。

 

「行かせない」

 

ツキは足を止めた。

 

舞のナイフが赤い非常灯を受けて光る。

 

「ツキちゃん」

 

「ちゃん付けしないでください」

 

「ねぇ、あなたはどこまで耐えられるの?」

 

ツキの表情が強張る。

 

舞は一歩近づく。

 

「海斗くんがあなたを守りたがる理由、知りたいの」

 

「趣味悪すぎです」

 

「よく言われる」

 

「褒めてません」

 

「知ってる」

 

ツキは後退する。

 

戦えない。

 

少なくとも、舞のような相手と正面から戦える力はない。

 

だが、ただ逃げるわけにもいかない。

 

海斗は相馬に抑えられている。

 

綾小路は龍園に向き合っている。

 

志朗は雅樹を見ている。

 

誰もすぐには助けに来られない。

 

その時、森下藍がツキの横に滑り込んだ。

 

「趣味が悪いですね」

 

舞が目を向ける。

 

「あら、あなたが森下藍?」

 

「はい。あなたが舞さんですね」

 

「そうよ」

 

「想像以上に危険な方で安心しました」

 

舞が少しだけ笑う。

 

「安心?」

 

「はい。危険だと分かりやすい方が、まだ対処しやすいので」

 

ツキが森下を見る。

 

「森下さん、戦えるんですか?」

 

「無理です」

 

即答だった。

 

「無理なんですか!?」

 

「はい」

 

「じゃあ何で前に!?」

 

「二人で逃げた方が、少しは時間を稼げます」

 

舞が楽しそうにナイフを構える。

 

「いいわね。二人まとめて遊びましょう」

 

森下は小声でツキに言った。

 

「走りますよ」

 

「どこへ?」

 

「考えながらです」

 

「綾小路清隆みたいなこと言いますね」

 

「不本意ですが、今は仕方ありません」

 

二人は同時に横へ走った。

 

舞が笑いながら追う。

 

その背後で、戦場は完全に分断され始めていた。

 

 

龍園翔が動いた。

 

一歩。

 

それだけで、空気が変わる。

 

綾小路清隆は正面から龍園を見ていた。

 

かつての龍園なら、粗い暴力で押してきただろう。

 

あるいは、罠を張り、周囲を使い、集団で追い詰めようとしただろう。

 

だが、今の龍園は違う。

 

最初の一歩に無駄がない。

 

感情を増幅されているはずなのに、完全に理性を失ってはいない。

 

むしろ、執着だけが研ぎ澄まされている。

 

「綾小路」

 

龍園が笑う。

 

「一度ちゃんとやりたかったんだよ」

 

「今は装置の影響を受けている」

 

「知ってる」

 

「なら止まれ」

 

「止まれるなら苦労してねぇ」

 

龍園は肩を鳴らした。

 

「だがな、綾小路」

 

「何だ」

 

「この衝動は、元々俺の中にあったもんだ」

 

その瞬間、龍園が踏み込んだ。

 

速い。

 

以前より明らかに速い。

 

綾小路は半歩下がり、龍園の拳を外す。

 

だが、龍園の攻撃はそこで終わらない。

 

肘。

 

膝。

 

足払い。

 

手首を狙う動き。

 

単純な殴り合いではない。

 

龍園は実戦を積んでいた。

 

裏社会。

 

傭兵。

 

格闘家。

 

犯罪組織。

 

その経験が、粗暴な暴力に技術を与えている。

 

綾小路は最小限の動きで捌く。

 

だが、龍園は止まらない。

 

「逃げんなよ」

 

「避けているだけだ」

 

「同じだろ」

 

「違う」

 

「なら受けろ」

 

龍園の蹴りが来る。

 

綾小路は腕で受け流す。

 

重い。

 

予想以上に重い。

 

以前の龍園なら、力で押すだけだった。

 

今は重さの乗せ方が違う。

 

身体全体を使い、逃げ場を潰すように打ってくる。

 

「強くなったな」

 

綾小路が言う。

 

龍園の笑みが深くなる。

 

「お前にそれを言わせるために生きてたんだよ」

 

「歪んだ生き方だ」

 

「今さらだろ」

 

再び拳。

 

綾小路はそれを捌き、龍園の腕を取ろうとする。

 

だが龍園はあえて崩されるように動き、距離を詰めた。

 

綾小路の手が一瞬遅れる。

 

龍園の額が綾小路の肩へぶつかる。

 

鈍い衝撃。

 

綾小路がわずかに後退する。

 

龍園が笑う。

 

「綺麗に処理できると思ったか?」

 

「思ってはいない」

 

「嘘つけ」

 

龍園の目は完全に綾小路だけを見ていた。

 

洗脳装置の影響で、綾小路への執着が肥大化している。

 

だが、それは同時に龍園の読みも鋭くしていた。

 

余計なものが消え、ただ綾小路を倒すことだけに集中している。

 

厄介だった。

 

森下が遠くから叫ぶ。

 

「綾小路清隆!」

 

綾小路は声の方を見ない。

 

見る余裕はある。

 

だが、視線を外せば龍園に突かれる。

 

「分かっている」

 

「何も言ってません!」

 

「言いたいことは分かる」

 

森下は舞から逃げながら言う。

 

「では、ちゃんと避けてください!」

 

「努力する」

 

龍園が笑う。

 

「好かれてんなぁ、綾小路」

 

「状況を見る限り、好かれているとは言い難い」

 

「そういう返しがつまらねぇんだよ!」

 

龍園が再び踏み込む。

 

戦いは激しさを増していく。

 

 

海斗は相馬の銃撃を避けながら、遮蔽物を利用して距離を詰めようとしていた。

 

だが、相馬は簡単に近づかせない。

 

撃つ。

 

移動する。

 

牽制する。

 

角度を変える。

 

海斗が一歩前へ出ると、その先を潰す。

 

二歩出れば、横へ追い込む。

 

逃げれば、ツキたちの方向へ射線が向きそうになる。

 

「性格悪い撃ち方しやがる!」

 

海斗が叫ぶ。

 

「戦場で性格の良い射撃は役に立たない」

 

相馬の声は冷静だった。

 

だが、その奥には歪んだ命令が混ざっている。

 

「対象、朝霧海斗。接近戦能力高。遠距離から制圧」

 

「自分で解説すんな!」

 

海斗は床に落ちていた盾を蹴り上げる。

 

相馬が撃つ。

 

盾に弾が当たり、火花が散る。

 

その陰から海斗が飛び出す。

 

相馬は読んでいた。

 

銃口が海斗の胸へ向く。

 

海斗は避けない。

 

代わりに、身体をわずかに捻る。

 

弾丸が脇腹をかすめる。

 

痛み。

 

熱。

 

だが致命傷ではない。

 

その一瞬で距離を詰める。

 

「っらあ!」

 

海斗の拳が相馬へ伸びる。

 

相馬は銃を捨て、腕で受ける。

 

重い音。

 

相馬の足が半歩下がる。

 

だが倒れない。

 

「やるな、小僧」

 

「おっさんもな!」

 

「おっさんではない」

 

「この状況でそこ直すな!」

 

相馬の膝が来る。

 

海斗は受ける。

 

痛い。

 

やはり強い。

 

相馬の強さは、ホワイトルーム生とも龍園とも違う。

 

冷静。

 

実戦的。

 

無駄がない。

 

相手を仕留めるための手順を、身体が知っている。

 

相馬は海斗ほど爆発力はない。

 

だが、経験がある。

 

隊長として部隊を率いた人間の判断。

 

一対一でも、周囲を見ている。

 

ツキの位置。

 

舞の位置。

 

龍園と綾小路の距離。

 

全部見ている。

 

「厄介だな」

 

海斗が言う。

 

相馬は答える。

 

「お前ほどではない」

 

「褒めてんのか?」

 

「評価だ」

 

「ホワイトルームみたいなこと言うな」

 

その言葉に、相馬の目が一瞬揺れた。

 

海斗はそれを見た。

 

「相馬」

 

「……」

 

「お前、戻れるぞ」

 

相馬は拳を振る。

 

海斗は受ける。

 

「命令がある」

 

「命令なんか知るか」

 

「兵士は命令で動く」

 

「今のお前は兵士じゃねぇだろ」

 

相馬の動きが一瞬だけ鈍る。

 

海斗は逃さない。

 

腹へ拳。

 

相馬が耐える。

 

だが、目が揺れた。

 

「お前は雅樹に雇われた傭兵だろ」

 

海斗は続ける。

 

「ホワイトルームの犬じゃねぇ」

 

相馬の拳が海斗の頬をかすめる。

 

「黙れ」

 

「嫌だね」

 

「黙れ!」

 

相馬の声が荒れた。

 

洗脳が感情を揺さぶっている。

 

冷静な相馬の中にある任務遂行本能。

 

戦場で培った命令への依存。

 

それを利用されている。

 

海斗は理解した。

 

殴って倒すだけでは駄目だ。

 

相馬自身に、自分が何者かを思い出させる必要がある。

 

「面倒くせぇな」

 

海斗は笑った。

 

「説教はツキだけで十分なんだが」

 

 

ツキと森下は、舞から逃げていた。

 

旧訓練施設の壁際。

 

倒れた遮蔽物。

 

壊れた訓練器具。

 

その間を縫うように走る。

 

舞は追ってくる。

 

速い。

 

笑いながら。

 

遊ぶように。

 

それが余計に怖かった。

 

「ツキ、左です!」

 

森下が叫ぶ。

 

ツキは即座に左へ曲がる。

 

舞のナイフが直前までいた空間を切った。

 

「いい反応」

 

舞が笑う。

 

「逃げるの上手ね」

 

「褒められても嬉しくありません!」

 

ツキが叫ぶ。

 

森下は息を切らしながら言った。

 

「褒めているというより、楽しんでいますね」

 

「分かってます!」

 

「では、次は右へ」

 

「何で分かるんですか!?」

 

「視線です」

 

舞は本当に楽しんでいた。

 

ツキを壊したい。

 

森下を追い詰めたい。

 

そういう感情が、洗脳装置によって強制的に増幅されている。

 

だが、完全に理性を失っているわけではない。

 

だから厄介だった。

 

森下は走りながら周囲を見る。

 

舞に勝つことは不可能。

 

正面から戦えば数秒で終わる。

 

なら、逃げるしかない。

 

逃げながら、時間を稼ぐ。

 

そして、舞の注意を海斗たちから逸らす。

 

「森下さん!」

 

ツキが叫ぶ。

 

「はい!」

 

「これ、いつまで逃げればいいんですか!」

 

「できるだけ長くです!」

 

「答えになってません!」

 

「綾小路清隆なら、もう少し上手く言うかもしれませんね!」

 

「海斗ならもっと雑に言います!」

 

「朝霧海斗さんなら?」

 

ツキは一瞬で答えた。

 

「死ぬ気で逃げろ、です!」

 

「分かりやすいですね!」

 

「腹立ちますけどね!」

 

舞が後ろで笑う。

 

「いいわね、あなたたち」

 

「良くありません!」

 

ツキ。

 

「本当に良くありません!」

 

森下。

 

舞は跳んだ。

 

一気に距離を詰める。

 

森下はツキの腕を引き、倒れた旧実験体の拘束具を蹴った。

 

拘束具が舞の足元へ転がる。

 

舞はそれを軽く避ける。

 

だが、その一瞬でツキと森下は遮蔽物の裏へ飛び込んだ。

 

舞が足を止める。

 

「頭を使う子、好きよ」

 

森下が遮蔽物の裏で小声で言う。

 

「困りましたね。好かれました」

 

ツキも小声で返す。

 

「最悪ですね」

 

「はい」

 

「森下さん、何か策あります?」

 

「今考えています」

 

「綾小路清隆みたい」

 

「不本意ですが、今は褒め言葉として受け取ります」

 

二人は息を整える。

 

舞の足音が近づいてくる。

 

逃げ場は少ない。

 

だが、完全にないわけではない。

 

ツキは床に落ちている端末を見つけた。

 

旧実験体の制御用か、精鋭の装備か分からない。

 

「森下さん」

 

「はい」

 

「これ、使えます?」

 

森下は端末を受け取る。

 

画面は割れている。

 

だが、電源は入っている。

 

「……使えるかもしれません」

 

「何に?」

 

「音を出せます」

 

ツキは少しだけ笑った。

 

「舞さん、音にも反応します?」

 

「人間なので、多少は」

 

「じゃあ」

 

森下も頷いた。

 

「囮にしましょう」

 

舞が遮蔽物の向こうから声をかける。

 

「相談終わった?」

 

ツキが返す。

 

「まだです!」

 

「待ってあげようか?」

 

「結構です!」

 

「残念」

 

舞が動いた瞬間、森下は端末を別方向へ投げた。

 

端末から警告音が鳴る。

 

舞の視線が一瞬だけそちらへ向く。

 

その隙にツキと森下は逆方向へ走った。

 

舞は笑った。

 

「本当に面白い」

 

 

志朗と雅樹は、旧訓練施設の中央から少し離れた場所で向き合っていた。

 

周囲では戦闘が続いている。

 

だが、二人の間だけ別の空気が流れていた。

 

「雅樹」

 

志朗が言う。

 

「洗脳装置に抗え」

 

雅樹は低く笑った。

 

「抗っている」

 

「なら止まれ」

 

「止まれないから抗っていると言っている」

 

雅樹の声には怒りがあった。

 

ホワイトルームへの執着。

 

過去への執着。

 

自分が関わってきた計画への執着。

 

それが増幅されている。

 

「志朗」

 

雅樹が言う。

 

「お前は逃げた」

 

「そうだ」

 

「自由が欲しいなどという幼稚な理由でな」

 

「そうだ」

 

「ホワイトルームから逃げたお前に、何が分かる」

 

志朗は静かに答えた。

 

「逃げたから分かることもある」

 

「戯言だ」

 

雅樹が踏み込む。

 

拳。

 

志朗は受け流す。

 

雅樹の動きは鋭い。

 

単なる研究者ではない。

 

戦える。

 

しかもかなり強い。

 

ホワイトルームを知り、裏側で生きてきた男。

 

その身体には、相応の技術が刻まれていた。

 

志朗は距離を取る。

 

「お前も縛られている」

 

「黙れ」

 

「ホワイトルームが正しかったと思いたいんだろう」

 

雅樹の拳が止まらない。

 

「黙れと言った」

 

「禁止区域を壊したことも、旧実験体を生んだことも、

自分が関わってきたものが全部間違いだったと認めたくない」

 

「黙れ!」

 

雅樹の蹴りが志朗の脇腹をかすめる。

 

志朗は痛みに顔をしかめるが、倒れない。

 

「だから、篤臣の装置に利用されている」

 

雅樹の目がさらに歪む。

 

「違う」

 

「違わない」

 

「俺は利用されていない」

 

「されている」

 

志朗は一歩踏み込む。

 

「ホワイトルームに縛られている者ほど、自分は自由だと思い込む」

 

雅樹が激しく殴りかかる。

 

志朗はそれを受け、流し、かわす。

 

「お前に何が分かる!」

 

「分かる」

 

志朗は言った。

 

「オレもそうだった」

 

その言葉に、雅樹の動きが一瞬だけ鈍る。

 

志朗はその隙に距離を取った。

 

「だから戻せる」

 

 

旧訓練施設は四つの戦場に分かれていた。

 

綾小路清隆と龍園翔。

 

朝霧海斗と相馬。

 

ツキと森下藍、そして舞。

 

志朗と雅樹。

 

それぞれが、洗脳装置によって増幅された感情と向き合っている。

 

倒すだけでは足りない。

 

殺すわけにもいかない。

 

正気を取り戻させる必要がある。

 

だが、その余裕をホワイトルームは与えない。

 

天井スピーカーから篤臣の声が流れる。

 

『抵抗は無意味だ』

 

その声と同時に、低周波音がさらに強くなった。

 

相馬の動きが鋭くなる。

 

舞の笑みが深くなる。

 

龍園の拳が重くなる。

 

雅樹の怒りが増す。

 

綾小路は龍園の攻撃を受け流しながら、状況を分析していた。

 

装置を止める必要がある。

 

だが、ここからでは位置が分からない。

 

森下は舞から逃げている。

 

ツキも同じ。

 

海斗は相馬に抑えられている。

 

志朗は雅樹を止めている。

 

自分は龍園に足止めされている。

 

つまり、篤臣の狙い通りだった。

 

分断。

 

消耗。

 

共倒れ。

 

「綾小路!」

 

龍園が叫ぶ。

 

拳が迫る。

 

綾小路はそれをかわす。

 

だが、龍園のもう片方の手が服を掴んだ。

 

初めて、完全に捉えられる。

 

龍園の顔が近い。

 

「今度こそ」

 

低い声。

 

「お前を引きずり出す」

 

綾小路は静かに答えた。

 

「もう十分出ていると思うがな」

 

「足りねぇよ」

 

龍園の膝が入る。

 

綾小路は受ける。

 

衝撃。

 

身体が後ろへ下がる。

 

龍園は追う。

 

その目は燃えていた。

 

洗脳装置が、龍園翔の執念をさらに深く燃やしている。

 

海斗は相馬の拳を受けながら叫んだ。

 

「綾小路!こっちも長くは持たねぇぞ!」

 

綾小路は返す。

 

「こちらも同じだ」

 

「珍しく弱音か?」

 

「事実だ」

 

「笑えねぇ!」

 

その時、森下の声が響いた。

 

「綾小路清隆!」

 

綾小路は一瞬だけ視線を動かす。

 

森下は舞から逃げながら、拾った端末を掲げていた。

 

「装置の位置、分かるかもしれません!」

 

「どこだ」

 

「この旧訓練施設の上部、観覧室跡です!」

 

海斗が叫ぶ。

 

「上かよ!」

 

ツキが言う。

 

「でも行ける道あります!」

 

「どこ!」

 

「舞さんの後ろ!」

 

舞が笑う。

 

「通さないわよ?」

 

森下が息を切らしながら微笑む。

 

「でしょうね」

 

綾小路は上を見た。

 

観覧室跡。

 

古い足場。

 

そこに洗脳装置がある。

 

止めるには誰かが上へ行く必要がある。

 

だが全員が足止めされている。

 

その瞬間。

 

龍園の拳が迫った。

 

綾小路は避ける。

 

しかし、今度は完全には避けきれなかった。

 

頬を拳がかすめる。

 

痛み。

 

龍園が笑う。

 

「余所見してんじゃねぇよ」

 

「そうだな」

 

綾小路は体勢を立て直す。

 

「まずはお前を止める必要がある」

 

龍園の笑みが深くなる。

 

「やっとその気になったか」

 

その声と同時に、低周波音がさらに強くなる。

 

四つの戦闘は、さらに激しさを増していく。

 

洗脳装置を止めなければ、誰かが倒れる。

 

倒すだけでは終わらない。

 

戻さなければならない。

 

ホワイトルームが発した白き支配の中で。

 

綾小路清隆、朝霧海斗、志朗は、それぞれの因縁と向き合うことになった。




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