ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
龍園翔の拳が、綾小路清隆の頬を掠めた。
拳そのものが直撃したわけではない。
だが、皮膚は薄く裂け、熱を持った痛みが頬の上に走った。
ほんの浅い傷だった。
戦闘に支障はない。
視界も揺れていない。
呼吸も乱れていない。
筋肉の反応にも問題はない。
だが、問題はそこではなかった。
龍園翔の拳が、綾小路清隆に届いた。
その事実そのものが、この戦いの意味を変えていた。
綾小路は一歩下がり、頬に走る痛みを無視して龍園を見た。
龍園もまた、無理に追撃しなかった。
以前の龍園なら、相手が下がった瞬間にさらに前へ出て、
勢いのまま殴り続けようとしただろう。
相手の体勢が崩れていようがいまいが、押し潰すように暴力を重ねる。
それが、かつての龍園翔だった。
だが今は違う。
龍園は追わなかった。
代わりに、数メートルの距離を置いて綾小路を観察していた。
綾小路が何を見ているのか。
自分の攻撃をどう評価したのか。
どの程度の痛みを感じ、どの程度の警戒へ切り替えたのか。
それを確認するように、龍園は笑っていた。
周囲では、なおも戦闘が続いている。
遠くで相馬の銃声が響き、海斗が遮蔽物を蹴り飛ばす音がした。
上階ではツキと森下藍が舞から逃げ、
金属製の階段が揺れる音が断続的に落ちてくる。
志朗と雅樹がぶつかる低い衝撃音も、赤い非常灯の下で何度も反響していた。
それでも、この瞬間だけは別空間だった。
綾小路の視界には、龍園しかいない。
龍園の視界にも、綾小路しかいない。
「避けたな」
龍園が笑った。
その声には、挑発だけではない響きがあった。
喜び。
苛立ち。
執着。
そして、ほんのわずかな満足。
「昔のお前なら、今のは掠りもしなかった」
龍園は口元の血を親指で拭い、ゆっくりと一歩進んだ。
「少なくとも、俺の拳がそこまで届くことはなかった」
綾小路は答えなかった。
龍園は事実を言っている。
かつての龍園なら、この距離で綾小路へ傷をつけることは難しかった。
龍園は強かった。
学校という閉じた環境の中では、暴力と恐怖で十分な支配力を持っていた。
だが、当時の強さはまだ粗かった。
怒りで踏み込む。
力で押す。
相手を威圧し、飲み込み、壊す。
そこに知略はあったが、肉体の戦いそのものは、感情と暴力が中心だった。
今の龍園は違う。
強くなっている。
それも、予想以上に。
綾小路にとって海斗を除けば、恐らくトップの強者になった。
龍園は首を鳴らした。
骨が小さく鳴る音が、妙に静かに聞こえた。
「嬉しいぜ」
龍園は笑った。
本当に楽しそうに。
「ようやく届くようになった」
綾小路は呼吸を整えながら、龍園の全身を観察した。
肩の上下。
足先の向き。
重心の深さ。
視線の置き方。
拳を握る強さ。
呼吸の間隔。
それらを一つずつ拾っていく。
龍園は変わっていた。
怒りはある。
暴力もある。
相手を壊すことへの抵抗の薄さも、かつてと変わらない。
だが、その奥に冷静さがあった。
ただ突っ込むだけではない。
ただ殴るだけではない。
龍園は自分の攻撃が当たる理由と、外れる理由を把握しようとしている。
綾小路がどう動くかを読もうとしている。
綾小路清隆という相手を、ただ憎むのではなく、分析している。
それが実戦経験だった。
死にかけ、生き延び、裏社会を渡り歩き、ホワイトルームの影に利用され、
それでもなお自分の牙を研ぎ続けた男の変化だった。
綾小路は理解する。
龍園翔は、本当に生き残ってきたのだと。
表面だけの成長ではない。
戦いの中で、何度も身体に刻まれた経験が、今の龍園を作っている。
龍園が笑う。
「どうした、綾小路」
返事はない。
「黙ってるってことは、認めてるんだろ」
綾小路は短く答えた。
「強くなったな」
龍園の笑みが止まった。
ほんの一瞬だった。
本当に一瞬。
だが確かに、龍園翔の表情から挑発が消えた。
その後、龍園は視線をわずかに逸らした。
「今さら言うな」
声が少し低かった。
綾小路には分かる。
龍園は、それをずっと欲しがっていたのだ。
勝利ではない。
支配でもない。
綾小路清隆からの評価。
それは龍園自身も認めたくない感情かもしれない。
むしろ、認めれば苛立つようなものだろう。
だが確かに存在する。
だから洗脳装置は効いた。
龍園の中にある綾小路への執着を、ホワイトルームは無理やり増幅させた。
勝ちたい。
超えたい。
引きずり出したい。
認めさせたい。
その感情だけが、異常なほど膨れ上がっている。
龍園は頭を振った。
「チッ」
舌打ち。
「今はそういうの、いらねぇ」
そして、踏み込んだ。
速い。
先ほどよりも速い。
綾小路も同時に動いた。
龍園の右拳が飛ぶ。
正面から。
だが、ただの正面ではない。
龍園は拳を放つ直前、わずかに肩を沈めていた。
拳の軌道を読ませるための動き。
読ませた上で、その後の動きを仕込んでいる。
綾小路は右拳を外へ流した。
龍園はそれを読んでいる。
腕を引かない。
流された拳の勢いを利用し、そのまま身体を回転させる。
左肘。
綾小路の側頭部へ向かってくる。
綾小路は左腕を上げた。
肘と腕がぶつかる。
鈍い衝撃が骨へ響いた。
受け切った。
だが、その衝撃は重い。
龍園は止まらない。
膝が来る。
綾小路の腹。
綾小路は半歩下がって直撃を避けた。
だが、龍園はその半歩を許さない。
さらに前へ出る。
距離を潰す。
離さない。
まるで獣だった。
一度噛みつけば離さない。
相手が距離を取ろうとした瞬間、その距離ごと食い潰す。
そういう戦い方。
綾小路は理解する。
龍園は自分を研究している。
綾小路清隆という人間を。
綾小路の戦い方は、基本的に無駄がない。
必要最低限の動き。
必要最低限の力。
相手の力を利用し、相手の隙を突き、最短で無力化する。
だから龍園は、距離を消すことを選んだ。
綾小路に観察する余裕を与えない。
綾小路に最適解を選ばせる前に、身体をぶつけ、
拳を重ね、泥臭い距離へ引きずり込む。
近い。
とにかく近い。
殴り合い。
組み合い。
肩と肩がぶつかる距離。
それが龍園の答えだった。
「正解だ」
綾小路は心の中で思う。
かなり正しい。
少なくとも、学校時代の龍園より遥かに。
龍園の拳が飛ぶ。
綾小路は受け流す。
だが次の瞬間、龍園の手が綾小路の服を掴んだ。
引く。
綾小路の身体がわずかに前へ出る。
そこへ頭突き。
鈍い音。
額へ衝撃が走る。
視界が一瞬だけ揺れた。
龍園は笑う。
「そういう顔もするんだな」
綾小路は龍園の胸を押した。
距離を作る。
だが龍園は離れない。
押し返す。
互いの肩がぶつかった。
力比べ。
普通なら、綾小路はこの状況を選ばない。
力だけの押し合いは効率が悪い。
だが、龍園はそれを理解した上で逃がさない。
組み付く。
肩。
肘。
膝。
近距離戦。
龍園が最も得意な距離。
綾小路は右腕を差し込んだ。
龍園の腕の内側へ入り、肘の動きを制する。
手首を取り、肩の可動域を潰す。
関節を極める。
捻る。
龍園の肩が危険な角度へ入った。
普通なら止まる。
人間は痛みで動きを止める。
関節が壊れかければ、防衛本能が働く。
だが龍園は止まらない。
無理やり踏み込んだ。
肩が悲鳴を上げる。
それでも構わない。
痛みを承知で、綾小路の胸へ拳を打ち込んだ。
衝撃。
綾小路の身体が後退する。
龍園も肩を押さえながら下がった。
「っは……!」
龍園は笑っていた。
呼吸は荒い。
肩はかなり危険な状態だ。
それでも笑っている。
「いいな」
綾小路は少しだけ呆れた。
「痛覚がないのか」
「ある」
龍園は即答した。
「めちゃくちゃ痛ぇ」
「そうは見えない」
「我慢してんだよ」
そして龍園は、血の混じった唾を床へ吐いて言った。
「お前もだろ」
綾小路は答えなかった。
確かに痛い。
肩も。
額も。
腹も。
少しずつダメージは蓄積している。
一撃ごとの損傷は小さい。
だが、龍園はそれを積み上げている。
綾小路の処理速度を落とすため。
動きを鈍らせるため。
完全な一撃ではなく、小さな傷を何度も刻むため。
戦い方が変わっている。
龍園は勝つために、暴力の使い方を覚え直した。
お互い無傷ではない。
そして、まだ本当の勝負は始まったばかりだった。
龍園が構える。
綾小路も構える。
二人の間に流れる空気が変わった。
先ほどまでの探り合いではない。
互いの強さを確認した。
互いの成長を確認した。
その上で、本気の領域へ踏み込もうとしている。
遠くで爆発音が響いた。
だが二人は振り向かない。
龍園は笑う。
「行くぞ」
綾小路は静かに答えた。
「ああ」
次の瞬間、二人は同時に床を蹴った。
距離は五メートルもない。
その五メートルが一瞬で消える。
龍園の右拳。
綾小路の左手。
ぶつかる。
正確には違う。
綾小路は受けていない。
龍園の拳が伸び切る直前、拳ではなく手首へ触れた。
ほんのわずか。
数センチ軌道を逸らす。
それだけで龍園の拳は綾小路の肩横を通過した。
普通の相手なら、ここで終わりだった。
攻撃の軌道を逸らされ、身体が流れ、無防備な側面を晒す。
だが龍園は違う。
拳が外れた瞬間に理解している。
避けられたのではない。
誘導された。
だから止まらない。
右拳の勢いをそのまま利用する。
身体を回す。
左肘。
綾小路の顎を狙う。
綾小路は身体を沈めた。
肘が頭上を通過する。
その瞬間、綾小路の掌底が龍園の鳩尾へ向かった。
最短。
最速。
最小限。
ホワイトルームで磨かれた技術。
龍園は咄嗟に腕を下げた。
鳩尾は守れた。
だが衝撃は殺し切れない。
鈍い音。
龍園の身体が半歩下がる。
呼吸が乱れる。
肺が痙攣する。
普通なら止まる。
だが、龍園は止まらない。
苦しそうに笑った。
「やっぱ痛ぇな」
綾小路は追撃する。
龍園が息を整える前に終わらせる。
一歩。
二歩。
三歩。
距離を詰める。
拳ではない。
蹴りでもない。
肩。
体当たりに近い。
龍園の重心を崩すための接触。
龍園は腕を差し込んだ。
受ける。
だが完全には止められない。
二人の身体がぶつかる。
衝撃。
龍園の足が床を滑る。
綾小路はさらに押す。
龍園の背後には鉄骨がある。
そこへ叩きつけるつもりだった。
龍園も理解している。
だから笑った。
綾小路は違和感を覚えた。
遅い。
反応が遅い。
龍園なら、もっと抵抗する。
そう思った瞬間、龍園の右足が綾小路の足首へ絡んだ。
引っ掛ける。
単純。
だが効果的。
綾小路の重心が崩れる。
龍園は待っていた。
綾小路が押し込む瞬間を。
綾小路の力を利用する。
柔道とも違う。
競技格闘技とも違う。
実戦で覚えた崩し。
綾小路の身体がわずかに浮く。
龍園は肩をぶつけた。
衝撃。
今度は綾小路が後退する。
龍園は笑う。
「やっとだ」
荒い息。
血の混じった口元。
それでも笑う。
「一発返した」
綾小路は体勢を立て直した。
予想以上だった。
今のは綺麗だった。
運ではない。
狙っていた。
龍園は戦いながら学んでいる。
綾小路の癖。
動き。
呼吸。
視線。
全部見ている。
龍園は首を回した。
骨が鳴る。
「知ってるか」
綾小路は黙っている。
龍園は構わず続けた。
「俺な」
一歩。
「お前が嫌いだった」
また一歩。
「今も嫌いだ」
綾小路は短く答える。
「そうか」
「当たり前だろ」
龍園は笑った。
「何でも持ってやがる」
拳を握る。
「頭」
一歩。
「力」
また一歩。
「才能」
さらに一歩。
「全部だ」
龍園の目が細くなる。
「だから嫌いだった」
綾小路は静かに聞いていた。
龍園がこんな話をするのは珍しい。
洗脳の影響もあるのだろう。
増幅された感情。
押さえ込んでいた本音。
それが漏れている。
しかし、漏れているからこそ分かる。
龍園の言葉には嘘がない。
綾小路清隆を嫌っている。
それは事実。
だが、その嫌悪の奥には、綾小路自身へ向けた興味と執着がある。
龍園は続ける。
「けどな」
そして笑った。
「もっと嫌いな奴らがいた」
綾小路は分かる。
ホワイトルーム。
篤臣。
裏社会。
自分より強い理不尽。
人を素材として扱う者。
他人を駒としてしか見ない者。
龍園はその全てに噛みつきながら、ここまで来た。
龍園が踏み込む。
速い。
先ほどより速い。
今度はフェイントがない。
真正面。
右拳。
綾小路は避ける。
龍園も読んでいる。
左拳。
綾小路は腕で受ける。
龍園は受けさせた。
本命はそこではない。
綾小路の腕が上がる。
視界が一瞬塞がる。
その瞬間、龍園の膝が綾小路の腹へ入った。
直撃。
鈍い音。
綾小路の身体が後退する。
龍園は追う。
追いながら叫ぶ。
「だから見たかった!」
拳。
綾小路が避ける。
「外へ出たお前を!」
肘。
綾小路が受ける。
「ホワイトルームじゃねぇ!」
蹴り。
綾小路が流す。
「今のお前を!」
龍園の攻撃が激しくなる。
洗脳の影響。
執着の増幅。
だがそれだけではない。
龍園自身の意思だ。
ずっと戦いたかった。
ずっと確かめたかった。
綾小路清隆は何者なのか。
ホワイトルーム最高傑作は、外へ出て何になったのか。
綾小路は龍園の拳を掴んだ。
近い。
息がかかる距離。
龍園の目は真っ直ぐだった。
狂気もある。
執着もある。
だが嘘はない。
綾小路は静かに言った。
「変わった」
龍園の動きが止まる。
「何?」
「オレは変わった」
龍園の拳が止まった。
ほんの一瞬。
だが、それだけで十分だった。
綾小路は龍園の腕を引く。
龍園の身体が前へ出る。
肩を入れる。
崩す。
龍園の足が浮く。
投げ。
今度は綺麗に入った。
龍園の身体が宙を舞う。
床へ叩きつけられる。
鈍い音。
呼吸が止まる。
視界が揺れる。
それでも龍園は笑った。
床へ倒れたまま、本当に楽しそうに。
「そうかよ」
血を吐く。
だが笑う。
「だったら」
龍園は立ち上がる。
足が震えている。
呼吸も荒い。
それでも立つ。
「見せろ」
綾小路は構えた。
龍園も構える。
赤い非常灯。
警報。
遠くの爆発音。
すべてが遠ざかる。
今の二人には関係なかった。
龍園翔。
綾小路清隆。
学校時代から続く因縁。
ようやく始まった本当の勝負。
龍園が一歩前へ出た。
構えが変わっていた。
重心がさらに低い。
肩の力が抜けている。
視線も鋭い。
さっきまでの龍園とも違う。
「驚いたか?」
綾小路は答えない。
龍園は続ける。
「お前みたいな化け物を追いかけるならな」
一歩。
「色々覚える」
また一歩。
「嫌でも覚える」
さらに一歩。
「負け続けるとな」
綾小路は理解した。
龍園は本当に変わった。
勝つために。
生き残るために。
強くなるために。
プライドを捨てた。
それが今の龍園だった。
龍園が踏み込む。
速い。
だが先ほどとは違う。
一直線ではない。
斜め。
綾小路の死角へ入る角度。
綾小路は身体を回す。
龍園はさらに動く。
右。
左。
右。
細かいステップ。
まるで別人だ。
綾小路が追う。
龍園は追わせる。
その瞬間、龍園の身体が沈んだ。
低い。
極端に低い。
綾小路の膝を狙う。
綾小路は跳ぶ。
読まれている。
そう思った瞬間、龍園の本命が来た。
跳んだ綾小路の着地点。
そこへ拳。
空中では方向転換できない。
綾小路は腕を交差させた。
衝撃。
龍園の拳が腕へめり込む。
鈍い音。
綾小路の身体が後ろへ飛ばされた。
床を滑る。
三メートル。
四メートル。
ようやく止まる。
龍園が笑った。
「当たった」
綾小路はゆっくり立ち上がる。
腕が痺れている。
骨まではいっていない。
だが重い。
龍園は本気だった。
綾小路も理解する。
これは学校の延長ではない。
本当の戦いだ。
龍園は肩で息をしながら笑う。
「どうだ」
綾小路は答えた。
「いい動きだ」
龍園は鼻で笑った。
「また褒めるのか」
「事実だ」
「ムカつくな」
そう言いながらも、嬉しそうだった。
龍園は構える。
綾小路も構える。
互いに距離を詰める。
今度は綾小路からだった。
床を蹴る。
最短距離。
無駄がない。
龍園の視界から一瞬消える。
龍園の目が開く。
速い。
だが龍園も反応する。
腕を上げる。
間に合わない。
綾小路の拳が胸へ入る。
衝撃。
龍園の身体が浮く。
呼吸が止まる。
だが倒れない。
綾小路は追撃する。
拳。
掌底。
肘。
膝。
連続。
龍園は受ける。
流す。
それでも被弾する。
肩。
胸。
腹。
少しずつ削られる。
龍園は歯を食いしばった。
強い。
やはり強い。
綾小路は別格だった。
龍園自身が一番理解している。
それでも、だからこそ、龍園は笑った。
「それだ」
綾小路の拳を受けながら言う。
「その感じだ」
さらに被弾。
頬が揺れる。
血が飛ぶ。
それでも笑う。
「それを見たかった」
綾小路は少しだけ眉を動かした。
龍園の目は洗脳の狂気だけではなかった。
純粋だった。
本当に、ただ知りたかっただけなのだ。
綾小路清隆が、今どこにいるのか。
龍園は拳を振るう。
綾小路は受け流す。
龍園は蹴る。
綾小路はかわす。
だが龍園は止まらない。
ボロボロになりながら。
前へ出る。
一歩。
また一歩。
綾小路は気付く。
龍園はもう勝敗だけを見ていない。
確認している。
確かめている。
だから戦っている。
その時だった。
施設全体を揺らしていた低周波音が乱れた。
龍園の身体が止まる。
目が揺れる。
頭を押さえる。
「っ……!」
苦しそうな声。
洗脳装置。
観覧室。
ツキと森下。
綾小路は理解した。
止まり始めている。
龍園も気付いた。
「はは……」
苦笑。
「やったか」
綾小路は龍園を見る。
龍園の目が戻り始めている。
執着はある。
だが狂気が薄れている。
龍園は額を押さえた。
「本当に」
息を吐く。
「面倒だな」
綾小路は静かに言った。
「ああ」
龍園は笑う。
今度の笑みは違った。
洗脳された龍園ではない。
いつもの龍園。
「綾小路」
「何だ」
「一つだけ聞く」
綾小路は答えない。
龍園は続けた。
「外はどうだった」
短い質問。
だが重かった。
綾小路は少しだけ考える。
そして答えた。
「面白い」
龍園は笑った。
心底嬉しそうに。
「そうか」
その答えだけで十分だった。
龍園はふらつきながらも立ち上がる。
そして綾小路へ背を向けた。
「勝負は預ける」
綾小路は言った。
「ああ」
龍園は歩き出す。
数歩進み、振り返らずに言った。
「次は負けねぇ」
綾小路は小さく答える。
「そうか」
龍園は笑った。
その瞬間、施設全体から低周波音が完全に消えた。
静寂。
洗脳装置停止。
相馬。
舞。
雅樹。
全員が解放される。
だが同時に、天井スピーカーから篤臣の声が流れた。
『よくやった』
冷たい声。
感情がない。
『だから次へ進め』
警報が鳴る。
赤いランプ。
モニターが切り替わる。
【中央管制区画 解放】
【最終フェーズ移行】
龍園は舌打ちした。
「やっぱりな」
綾小路もモニターを見る。
篤臣はまだ終わっていない。
ホワイトルームも終わっていない。
だが、龍園との決着は少しだけ近づいた。
そして、ホワイトルーム最深部への道が開いた。
綾小路は静かに歩き出した。
龍園も並ぶ。
今は敵ではない。
倒すべき相手は別にいる。
二人は警報の鳴り響く地下施設を進み始めた。
ホワイトルームとの決着へ向かって。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。