ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第55話 森下とツキの戦い

一方、旧格闘訓練施設の端では、ツキと森下藍が舞から逃げ続けていた。

 

舞は速かった。

 

ただ速いだけではない。

 

逃げる方向を読んでくる。

 

ナイフを振るう軌道も、逃げ道を塞ぐように調整されている。

 

ツキも森下も戦闘員ではない。

 

まともに戦えば、数秒で終わる。

 

だから逃げるしかなかった。

 

だが、ただ逃げるだけでは捕まる。

 

「森下さん、右!」

 

「分かっています!」

 

森下は倒れた精鋭の盾を蹴り、床を滑らせた。

 

盾が舞の足元へ向かう。

 

舞は軽く跳んでかわす。

 

「惜しい」

 

笑いながら着地する。

 

その動きは軽い。

 

まるで踊っているようだった。

 

だが、次の瞬間にはナイフが森下の袖を切っていた。

 

布が裂ける。

 

皮膚には届いていない。

 

森下は即座に距離を取る。

 

「危なかったですね」

 

「森下さん、冷静すぎませんか!?」

 

「かなり怖いですよ」

 

「そう見えません!」

 

「見えないようにしています!」

 

ツキは息を切らしていた。

 

足が重い。

 

胸が痛い。

 

逃げ続けるだけでも体力を削られる。

 

しかも、舞は遊ぶように追ってくる。

 

捕まえようと思えば、もっと早く来られるのかもしれない。

 

そう考えるだけで嫌だった。

 

「ねぇ」

 

舞がゆっくり歩きながら言った。

 

「いつまで逃げるの?」

 

ツキは背後の柱に手をつく。

 

「そっちが諦めるまで」

 

「私、諦め悪いわよ」

 

「見れば分かります」

 

森下が隣で小声で言う。

 

「ツキさん」

 

「はい」

 

「このままでは追い詰められます」

 

「ですよね」

 

「なので、少しだけ攻めます」

 

「私たちが?」

 

「はい」

 

「無謀では?」

 

「無謀ですが、逃げ続けるよりはましです」

 

ツキは舞を見る。

 

舞は余裕の表情で近づいてくる。

 

完全に獲物を追い詰める側の顔だ。

 

だが、舞は今、洗脳装置の影響を受けている。

 

好戦性と加虐性が増幅されている。

 

つまり、楽しいものに意識が向きやすい。

 

そこを利用する。

 

「森下さん」

 

「はい」

 

「私が囮?」

 

「いえ、私が囮になります」

 

「駄目です」

 

「即答ですね」

 

「戦えないのは同じですけど、森下さんの方が頭使えます」

 

「ツキさんも十分使えますよ」

 

「今は褒め合ってる場合じゃないです」

 

「そうですね」

 

森下は少し笑った。

 

そして、床に落ちていた小型端末を拾う。

 

先ほどの旧実験体制御用のもの。

 

画面は割れているが、音声出力は生きている。

 

「これを使います」

 

「また音?」

 

「はい。ただし今回は少し大きめに」

 

森下は端末を操作した。

 

警告音。

 

大きな電子音が、施設の左側から鳴り響く。

 

舞の視線が一瞬動いた。

 

だが、すぐに戻る。

 

「同じ手は二度効かないわよ」

 

「でしょうね」

 

森下はそう言いながら、端末を反対方向へ投げた。

 

今度は音だけではない。

 

端末が床に落ちた瞬間、旧実験体用の簡易信号が誤作動し、

近くで倒れていた旧実験体の拘束具が小さく動いた。

 

金属音。

 

舞の目が一瞬そちらへ向く。

 

その一瞬に、ツキが動いた。

 

逃げるのではない。

 

舞の足元へ、倒れていたワイヤーを引いた。

 

舞が踏み込む。

 

ワイヤーが足首に絡む。

 

「っ」

 

舞の体勢が一瞬崩れた。

 

森下が盾を押す。

 

ツキも反対側から押す。

 

盾が舞の膝へ当たり、舞がわずかに膝をつく。

 

倒れはしない。

 

だが初めて、舞の動きが止まった。

 

ツキは叫ぶ。

 

「今!」

 

森下が近くの消火器を掴み、ピンを抜いた。

 

白い消火剤が舞へ向かって噴き出す。

 

視界が白く染まる。

 

舞が後退する。

 

「へぇ……」

 

白い煙の向こうから、舞の声がした。

 

「やるじゃない」

 

ツキは森下の手を引く。

 

「逃げますよ!」

 

「はい!」

 

二人は全力で走る。

 

舞の動きは数秒止まっただけだ。

 

だが、その数秒が大きい。

 

観覧室跡へ続く階段。

 

洗脳装置がある場所へ向かうルート。

 

森下はそれを見ていた。

 

「ツキさん、あそこです!」

 

「上!?」

 

「はい!」

 

「高いところ嫌いなんですけど!」

 

「私も好きではありません!」

 

「じゃあ何で行くんですか!」

 

「そこに装置があるからです!」

 

「綾小路清隆みたいな言い方!」

 

「不本意です!」

 

二人は階段へ向かって走った。

 

背後で舞が消火剤を振り払う。

 

その顔には、怒りではなく、さらに深い笑みが浮かんでいた。

 

「いいわ」

 

舞は呟く。

 

「もっと遊びましょう」

 

ツキと森下は観覧室跡へ続く階段を駆け上がっていた。

 

古い金属階段。

 

足元が悪い。

 

手すりは冷たく、ところどころ錆びている。

 

下から舞の足音が迫ってくる。

 

速い。

 

しかも軽い。

 

ツキは息を切らしながら叫んだ。

 

「速すぎ!」

 

森下も呼吸が乱れている。

 

「同感です!」

 

「この先に本当に装置あるんですよね!?」

 

「端末上では!」

 

「端末が嘘だったら!?」

 

「その時は詰みです!」

 

「嫌なことをはっきり言わないでください!」

 

階段の踊り場。

 

森下が足を止める。

 

「ここで一度止めます」

 

「どうやって!?」

 

森下は手すりに引っかかっていた古い清掃用ワイヤーを見つけた。

 

「これを」

 

「切れません?」

 

「切れたら走りましょう」

 

「雑!」

 

「朝霧海斗さん方式です」

 

「最悪!」

 

二人でワイヤーを階段の幅いっぱいに張る。

 

舞の足音が近づく。

 

ツキは息を呑む。

 

舞が階段を駆け上がってくる。

 

速い。

 

来た。

 

ワイヤーに足がかかる。

 

だが舞は転ばなかった。

 

空中で身体を捻り、手すりを掴み、壁を蹴って着地する。

 

「甘いわね」

 

ツキが青ざめる。

 

「無理じゃん!」

 

森下は即座に言う。

 

「第二案です」

 

「あるんですか!?」

 

「ありません」

 

「ないんですか!?」

 

「今作ります」

 

舞が笑いながら迫る。

 

森下は階段脇の非常灯を見た。

 

割れている。

 

配線が露出している。

 

二人は階段をさらに上がった。

 

その先に、古い観覧室が見えた。

 

一部だけ古い観覧席が残っている。

 

その中央。

 

天井から吊るされた白い装置。

 

複数のスピーカー。

 

低周波発生器。

 

配線。

 

モニター。

 

洗脳装置。

 

森下が息を呑む。

 

「ありました」

 

ツキは装置を見る。

 

「どうやって止めるんですか」

 

森下は端末を見た。

 

「分かりません」

 

「え」

 

「でも、止めないと全員まずいです」

 

「ですよね」

 

背後から、舞がゆっくり階段を上がってくる音がした。

 

「見つけた」

 

舞の声。

 

ツキと森下は振り返る。

 

二人が観覧室へ飛び込んだ直後、背後の防火扉が轟音と共に歪んだ。

 

次の瞬間、蝶番ごと吹き飛ばされた鉄板が床に叩きつけられ、

 

観覧室の中へ白い煙と赤い火花が流れ込む。

 

その煙の向こうから、舞が現れた。

 

長い髪は乱れ、手には血のついたナイフ。

 

白い消火剤の粉が肩や髪に付着しているのに、その姿には滑稽さが少しもない。

 

むしろ、赤い警告灯に照らされた彼女は、

壊れた施設の中で最も生き生きとして見えた。

 

「追い付いた」

 

舞は本当に楽しそうに言った。

 

まるで鬼ごっこを楽しむ子供のように。

 

ただし違うのは、捕まったら終わるということだった。

 

ツキは反射的に森下の前へ出た。

 

拾った警棒を両手で構え、舞との距離を測る。

 

正直、自信はない。

 

いや、自信などあるはずがない。

 

舞の強さは分かっている。

 

相馬が特殊部隊仕込みの兵士なら、舞は純粋な戦闘狂だ。

 

しかも、ただ強いだけではなく、人の恐怖や苦痛を見て楽しむ類の危うさがある。

 

海斗ですら警戒する相手に、自分が正面から勝てるわけがない。

 

だが、ここで下がるわけにはいかなかった。

 

後ろには森下がいる。

 

森下が装置を止められなければ、海斗も、綾小路清隆も、

 

志朗も、相馬も、龍園も、雅樹も、

 

全員がホワイトルームの白い支配に飲み込まれていく。

 

そうなれば、この施設は篤臣の思惑通り、

外の強者同士を潰し合わせる実験場になる。

 

だから止める。

 

勝つ必要はない。

 

舞を倒す必要もない。

 

ただ、森下が装置へ辿り着き、解除するまでの時間を稼げばいい。

 

舞はそんなツキを見て、薄く笑った。

 

「守るの?」

 

「守ります」

 

「無理よ」

 

「知ってます」

 

即答だった。

 

舞の目が少しだけ細くなる。

 

「知ってるのに?」

 

「だから何ですか」

 

ツキは警棒を握り直した。

 

手が震えている。

 

怖い。

 

当たり前だ。

 

だが、逃げる方がもっと怖かった。

 

ここで逃げたら、きっと自分は海斗の隣へ戻れない。

 

物理的な意味ではなく、気持ちの問題として。

 

舞は首を傾げた。

 

「海斗の影響?」

 

「半分くらいです」

 

「残り半分は?」

 

ツキは苦笑した。

 

「私の意地です」

 

舞は嬉しそうに笑った。

 

「嫌いじゃない」

 

その言葉が終わる前に、舞は消えた。

 

そう錯覚するほど速かった。

 

舞が床を蹴った瞬間、五メートル近くあった距離が一気に潰れる。

 

ツキの反応は遅れていなかった。

 

舞が動く直前、肩の沈みと視線の角度で前へ来ることは読めていた。

 

だが、それでも間に合わない。

 

警棒を振る。

 

舞のナイフがそれを横から弾いた。

 

金属音が観覧室に響き、衝撃が手首から肘、肩まで突き抜ける。

 

腕全体が痺れ、警棒を取り落としそうになる。

 

女の腕力ではない、などという考えはすぐに捨てた。

 

これは戦闘慣れした人間の力だ。

 

体格ではなく、踏み込みと重心と腕の振り方で生み出される破壊力。

 

舞は警棒を弾いた勢いを殺さず、そのまま身体を回転させた。

 

後ろ回し蹴り。

 

ツキは両腕を上げた。

 

直撃。

 

防いだはずなのに、防いだ感覚がなかった。

 

強烈な衝撃が腕を貫通し、胸まで届く。

 

身体が浮き、観覧室の椅子列へ吹き飛ばされた。

 

金属製の椅子が何脚もひっくり返る。

 

背中を強く打ち、肺から空気が抜けた。

 

視界が一瞬暗くなり、喉が詰まる。だがツキは、転がったまま床を掴んだ。

 

立つ。

 

立たなければならない。

 

舞は感心したように言った。

 

「思ったより丈夫ね」

 

ツキは息を吸い直し、痛む背中を無視して立ち上がった。

 

「海斗に鍛えられました」

 

「へえ」

 

舞は少し笑った。

 

「かわいそうに」

 

「余計なお世話です」

 

その間に、森下は中央制御端末へ辿り着いていた。

 

観覧室の中央には巨大なモニターと複数の操作盤が並んでいる。

 

かつて訓練を監視するために使われていた場所なのだろう。

 

だが今は、ホワイトルーム全域へ低周波信号を送る

洗脳装置の制御系統がそこへ接続されていた。

 

森下は画面を見た。

 

英数字。

 

管理権限。

 

認証コード。

 

複数のアクセス制限。

 

普通の人間なら、この時点で諦める。

 

だが森下は諦めない。

 

戦闘員ではない。

 

武器もない。

 

身体能力も高くない。

 

それでも彼女には、観察する力がある。

 

画面を見る。

 

構造を見る。

 

設計者の思考を見る。

 

「なるほど」

 

森下は小さく呟いた。

 

ホワイトルームは完璧主義だ。

 

だが完璧主義には癖がある。

 

設計思想が残る。

 

篤臣という男は、自分の知性と管理能力を信じすぎている。

 

だから、重要な機能を分散させない。

 

全てを中央へ集約する。

 

人間を信用しないから、システムもまた一極集中になる。

 

そこに隙がある。

 

森下は端末へ触れた。

 

一つ目の認証は当然弾かれた。

 

二つ目も駄目。

 

三つ目も駄目。

 

だが失敗するたびに、彼女は少しずつ内部構造を掴んでいく。

 

拒否の仕方。

 

エラーコード。

 

参照先。

 

ログの残り方。

 

そこから、システムが何を守ろうとしているのかが見えてくる。

 

その頃、ツキは二度目の攻防に入っていた。

 

舞が近付く。

 

ゆっくりと。

 

余裕がある。

 

まだ本気ではない。

 

遊ばれている。

 

それは分かる。

 

だが、遊びだからといって危険が減るわけではない。

 

むしろ、舞が楽しんでいる分だけ長引き、心を削られる。

 

「ねぇ」

 

舞が言う。

 

「何ですか」

 

「諦めないの?」

 

「諦めません」

 

「勝てないわよ」

 

「知ってます」

 

舞は笑った。

 

「そればっかり」

 

ツキも笑った。

 

「事実なので」

 

次の瞬間、舞のナイフが閃いた。

 

右から。

 

左から。

 

下から。

 

攻撃の軌道が速すぎて、ツキには刃そのものを追えない。

 

肩の動きと足の踏み込みから予測して警棒を差し込むしかない。

 

防ぐ。

 

弾く。

 

受ける。

 

だが追いつかない。

 

ナイフが肩を掠め、制服が裂け、浅く血が滲む。

 

さらに脇腹、腕、足。

 

致命傷にはならない。

 

だが痛みは確実に蓄積していく。

 

舞は殺していない。

 

殺すつもりなら、とっくに終わっている。

 

これは品定めだ。

 

どこまで耐えるか。

 

どこまで折れないか。

 

どこで目が死ぬか。

 

それを見ている。

 

舞は突然ナイフを止めた。

 

「ねぇ」

 

「今度は何ですか」

 

「海斗のどこがいいの?」

 

ツキは思わず顔をしかめた。

 

「今それ聞きます?」

 

「暇だから」

 

本当に暇そうだった。

 

ツキはため息を吐いた。

 

恐怖と痛みで喉が乾いているのに、こういう会話だけはなぜか自然に出てくる。

 

「変なところです」

 

「変?」

 

「本好きだし」

 

舞は首を傾げる。

 

「それが?」

 

「戦えるのに読書好きなんです。

戦闘の合間に本の話をされると、こっちの感情が追いつきません」

 

「変ね」

 

「でしょう?」

 

ツキは少しだけ笑った。

 

「あと声帯模写も得意です」

 

「もっと変ね」

 

「ですよね」

 

舞は少しだけ吹き出した。

 

殺し合いの最中なのに、ほんの一瞬だけ空気が緩む。

だがその緩みは、次の瞬間には消えた。

 

舞が低く踏み込む。

 

今度は足払い。

 

ツキは跳んだ。

 

そこへナイフが来る。

 

読まれていた。

 

ツキは空中で身体を捻る。

 

完全には避けきれず、肩が切れた。

 

着地した瞬間に足がよろめく。舞が追ってくる。

 

ツキは近くの椅子を蹴った。

 

椅子が回転しながら舞へ飛ぶ。

 

舞は首を傾けるだけで避ける。

 

だがその一瞬で、ツキは距離を取った。

 

本当に少しだけ。

 

だが時間は稼げた。

 

森下を見る。

 

まだ作業中だ。

 

指は止まらず、画面が何度も切り替わっている。

 

解析。

 

解除。

 

侵入。

 

森下もまた戦っていた。

 

拳ではなく、頭脳で。

 

ホワイトルームという巨大な思想と。

 

舞はその様子を見た。

 

「そろそろ邪魔ね」

 

ツキの背筋が冷えた。

 

舞の視線が変わった。

 

獲物を見る目から、目標を見る目へ。

 

森下が狙われる。

 

そう理解した瞬間、ツキは前へ出た。

 

「行かせません」

 

舞は笑った。

 

「本当に?」

 

「本当にです」

 

舞がナイフを握り直す。

 

ツキも警棒を握り直す。

 

観覧室の赤い警告灯が二人を照らしていた。

 

森下は背後で端末を操作している。

 

時間はない。

 

だが、まだ終わっていない。

 

ツキは深く息を吸った。

 

海斗ならどうするか。

 

そんなことを考える。

 

たぶん、考えない。

 

とりあえず突っ込む。

 

そして何とかする。

 

本当に馬鹿だ。

 

だが、だからこそ信じられる。

 

ツキは笑った。

 

「あと少しですから」

 

舞は不思議そうに首を傾げた。

 

「何が?」

 

ツキは警棒を構え直す。

 

「海斗が来るまでです」

 

舞の笑みが深くなった。

 

「それは楽しみ」

 

そして、三度目の激突が始まった。

 

今度の舞は速かった。

 

さっきまでの舞は遊んでいた。

 

試していた。

 

品定めしていた。

 

だが今は違う。

 

獲物を仕留める速度だった。

 

ツキは警棒を構える。

 

防御。

 

回避。

 

反撃。

 

何を選ぶか。

 

迷う暇はない。

 

舞の身体が視界から消える。

 

次の瞬間には目の前だった。

 

横薙ぎのナイフ。

 

ツキは反射的に身を沈めた。

 

髪が数本宙を舞う。

 

避けた。

 

だが終わらない。

 

舞は最初から二撃目を準備している。

 

回転。

 

逆手。

 

斜め下からの切り上げ。

 

ツキは警棒を差し込んだ。

 

金属音。

 

火花。

 

警棒が軋み、腕が痺れる。

 

骨にまで響くような衝撃に、歯が勝手に鳴った。

 

舞は女だ。

 

体格も海斗より小さい。

 

相馬より細い。

 

だが強い。

 

純粋な戦闘能力だけなら、海斗が警戒する理由がよく分かる。

 

ツキは後ろへ飛び、観覧室の椅子列へ飛び込んだ。

 

椅子を蹴り、一列まとめて舞へ倒す。

 

普通の相手なら足止めになる。

 

だが舞は違った。

 

倒れてくる椅子の隙間に身体を滑り込ませ、速度をほとんど落とさずに抜けてくる。

 

「反則でしょ……!」

 

思わず本音が漏れた。

 

舞は笑う。

 

「そう?」

 

「そうです!」

 

「褒め言葉?」

 

「嫌な意味でです!」

 

舞の目は笑っていない。

 

その視線は森下へ向いている。

 

ツキは理解する。

 

舞はもう自分を倒したいわけではない。

 

森下を止めたい。

 

だから自分は邪魔だ。

 

ただそれだけ。

 

そして、舞ほどの実力者にとって、邪魔なものは排除する対象でしかない。

 

その頃、森下は巨大端末の前に座り込んでいた。

 

周囲の戦闘音は聞こえている。

 

ツキの叫び声も、金属音も、衝撃音も聞こえている。

 

だが意識の大半は画面へ向いていた。

 

ホワイトルーム中央制御システム。

 

複数の認証。

 

複数の権限。

 

複数の監視。

 

完全に外部侵入を想定している。

 

だが森下は諦めない。

 

綾小路清隆の話を思い出す。

 

ホワイトルーム。

 

篤臣。

 

教育方針。

 

管理思想。

 

そこから逆算する。

 

「見えてきました」

 

森下は小さく呟いた。

 

ホワイトルームは人間を信用しない。

 

だから権限を分散させない。

 

だが、自分たちのシステムは信用している。

 

つまり、最終停止権限は必ず存在する。

 

事故や暴走の際に止めるための緊急停止プロトコル。

 

それがないはずはない。

 

森下は画面を切り替えた。

 

アクセス権限。

 

管理ログ。

 

あった。

 

洗脳装置停止プログラム。

 

問題は解除キー。

 

あと一歩。

 

本当にあと一歩だった。

 

ツキは床を転がった。

 

舞の蹴りは直撃ではない。

 

腕で受けた。

 

それでも吹き飛ばされ、観覧室後方の壁へ叩きつけられた。

 

肺から空気が抜け、視界が滲む。

 

立てるか。

 

立てる。

 

立たなきゃいけない。

 

ツキは歯を食いしばって立ち上がった。

 

舞が感心したように言う。

 

「しぶといわね」

 

「よく言われます」

 

「海斗にも?」

 

「一番言われます」

 

舞は少し笑った。

 

「なるほど」

 

そして容赦なく踏み込んできた。

 

ツキは警棒を振る。

 

舞は避ける。

 

振る。

 

避ける。

 

振る。

 

避ける。

 

全く当たらない。

 

距離感、速度、経験、全部が違う。

 

ツキは理解していた。

 

もしここにいるのが海斗なら、もう少し戦える。

 

もし綾小路清隆なら、もっと少ない動きで舞を止める方法を見つけるだろう。

 

でも自分は違う。

 

弱い。

 

戦闘の専門家じゃない。

 

だから、別の方法で戦う。

 

ツキは突然、後ろへ走った。

 

舞が追う。

 

当然だ。

 

逃げたように見える。

 

だが、ツキの狙いは別だった。

 

観覧室中央にある巨大スクリーン。

 

その支柱の近くに、非常停止レバーがある。

 

ツキはそこへ飛び付き、思い切り引いた。

 

警報が鳴る。

 

天井から防火シャッターが降り始める。

 

舞の眉がわずかに動いた。

 

ツキは笑う。

 

「嫌がらせです!」

 

「性格悪いわね」

 

「海斗の影響です!」

 

「納得した」

 

防火シャッターが降りる。

 

舞は止まらない。

 

降り切る前に滑り込んできた。

 

だが、ほんの数秒。

 

数秒だけ時間を稼げた。

 

ツキの狙いは最初からそれだった。

 

森下は画面を睨んでいた。

 

解除キーまであと少し。

 

だが最後が遠い。

 

ホワイトルームの設計者は優秀だった。

 

ここまで来ても、停止キーそのものには辿り着けない。

 

森下は唇を噛み、篤臣ならどう作るかを考えた。

 

綾小路清隆ならどう読むかを考えた。

 

そして、ふと気付いた。

 

「そういうことですか」

 

ホワイトルームは人を信用しない。

 

だから認証も信用しない。

 

解除キーは、表の停止プログラムの中にはない。

 

管理者ログの中に隠されている。

 

人間が押すキーではなく、事故時にシステムが自動で参照する内部キー。

 

森下は管理者ログへ潜った。

 

解析率が上がっていく。

 

72。

 

75。

 

78。

 

81。

 

まだ足りない。

 

その間に、舞はシャッターを越えてきた。

 

「今の意味あった?」

 

ツキが思わず笑うと、舞は髪についた埃を払って答えた。

 

「ちょっと面白かった」

 

「それは良かったです」

 

「でも邪魔」

 

次の瞬間、舞の拳が飛んだ。

 

ナイフではない。

 

拳。

 

それだけで十分だった。

 

ツキは警棒を差し込む。

 

だが威力が違う。

 

警棒ごと胸へ叩き込まれ、身体が浮いた。

 

椅子列を何列も巻き込みながら吹き飛び、床へ転がる。

 

視界が滲む。

 

立て。

 

立て。

 

立て。

 

身体が言うことを聞かない。

 

舞はゆっくり近付く。

 

今度は本当に終わらせるつもりだった。

 

森下まで残り十メートル。

 

九メートル。

 

八メートル。

 

ツキは必死に腕を伸ばした。

 

動け。

 

立て。

 

まだ終わっていない。

 

海斗との約束。

 

禁止区域。

 

故郷。

 

全部思い出す。

 

そして海斗の顔が浮かんだ。

 

『危なくなったら逃げろ』

 

そんなことを言う。

 

絶対に言う。

 

だが、今は無理だ。

 

逃げられない。

 

だからツキは笑った。

 

「後で怒られるな……」

 

そして、震える足で立ち上がった。

 

舞が止まった。

 

初めて、少しだけ驚いた顔をした。

 

「まだ立つの?」

 

ツキは息を切らしながら答えた。

 

「海斗が来たら、自慢したいので」

 

舞は数秒沈黙した。

 

そして、少しだけ笑った。

 

「変な子ね」

 

「よく言われます」

 

舞はナイフを握り直した。

 

ツキも折れかけた警棒を握り直す。

 

森下の解析率は89%。

 

あと少し。

 

本当にあと少し。

 

そして舞は理解していた。

 

次の攻防で決める。

 

ツキも理解していた。

 

次の攻防が限界だ。

 

舞が本気の殺意を解放した瞬間、観覧室の空気が変わった。

 

今まであった余裕や遊びが消え、舞の視線は完全に森下へ向いている。

 

森下の端末には【解析率 91%】という数字が表示されていた。

 

あと少し。

 

だから舞は理解した。

 

ここで終わらせなければならない。

 

ツキも理解した。

 

ここから先は、時間稼ぎではない。

 

本当に止めなければならない。

 

舞が一歩前へ出る。

 

たった一歩。

 

それだけなのに、観覧室の空気が重くなった。

 

ツキは折れかけた警棒を握り直した。

 

手が震えている。

 

腕も痛い。

 

肩も痛い。

 

脇腹も痛い。

 

身体中が痛い。

 

それでも、足だけは前へ出た。

 

舞は小さく息を吐いた。

 

「正直ね」

 

「何がです?」

 

「もう限界でしょう」

 

図星だった。

 

限界だ。立っているのが不思議なほど。

 

だがツキは答えた。

 

「そうですね」

 

舞は少しだけ目を細めた。

 

「認めるの?」

 

「限界なのは事実ですから」

 

「なら退けばいい」

 

ツキは笑った。

 

「嫌です」

 

即答だった。

 

舞は肩を竦めた。

 

「頑固ね」

 

「海斗ほどじゃないです」

 

「それは同意する」

 

ほんの一瞬だけ、二人は笑った。

 

だが次の瞬間には消える。

 

舞が動いた。

 

今までで最速だった。

 

視界から消える。本当に消えたように見えた。

 

ツキは反射で警棒を振る。

 

空振り。

 

背後。

 

気付いた時には遅い。

 

舞の肘が背中へ入った。

 

衝撃。

 

呼吸が止まる。

 

身体が前へ吹き飛び、床を転がる。

 

痛い。

 

苦しい。

 

立てない。

 

それでも、立つ。

 

舞がわずかに驚いた顔をした。

 

「本当に立つのね」

 

ツキは血を拭いながら笑った。

 

「言ったじゃないですか」

 

警棒を構える。

 

腕が震える。

 

「海斗が来るまでです」

 

舞は小さく笑った。

 

「そう」

 

そして今度は真正面から来た。

 

ナイフ。

 

拳。

 

蹴り。

 

連続。

 

ツキは防ぐ。

 

受ける。

 

流す。

 

だが追いつかない。

 

肩へ一撃、腹へ一撃、脚へ一撃。

 

次々に削られる。

 

舞は強い。

 

圧倒的に。

 

相馬が軍人なら、舞は純粋な戦闘狂だった。

 

相手を倒すための技術。

 

相手を壊すための技術。

 

それだけを磨き続けた人間。

 

ツキが勝てる相手ではない。

 

だから、勝つ必要はない。

 

時間だけ稼げばいい。

 

ツキは舞の蹴りを受けながら椅子へ突っ込んだ。

 

椅子が倒れ、舞も一瞬だけ足を止める。

 

その一秒だけでいい。

 

森下へ視線を送る。

 

【解析率 94%】

 

まだだ。

 

森下は画面を見つめていた。

 

戦闘音は聞こえる。

 

ツキの苦しそうな呼吸も聞こえる。

 

それでも手は止めない。

 

94。

 

95。

 

96。

 

あと少し。

 

だが最後が遠い。

 

森下は画面を睨み、篤臣ならどう作るか、

綾小路清隆ならどう読むか、そして自分なら何を見るかを考えた。

 

ふと、ログの中に不自然な空白を見つけた。

 

「そういうことですか」

 

本当の解除キーは、管理者権限ではなく、

緊急停止時の自動復旧ログに隠されていた。

 

人間を信用しないホワイトルームらしい。

 

人間が解除するのではなく、システムが自分で復旧するための鍵。

 

森下は管理者ログへ潜った。

 

97。

 

98。

 

あと少し。

 

本当にあと少しだった。

 

その時だった。

 

床へ転がった小型の銀色の装置が視界の端に映る。

 

先ほど龍園たちの洗脳に使われていた機器の一つだった。

 

森下は一瞬だけそれを見つめる。

 

「後で調べれば面白そうですね」

 

誰にも聞こえない声で呟き、片手でそれを拾い上げると、

何事もなかったように服の内ポケットへ滑り込ませた。

 

そして再び端末へ視線を戻す。

 

99。

 

その直後、ツキは再び吹き飛ばされた。

 

今度は観覧室後方の壁へ叩きつけられた。

 

背中が痛む。

 

視界が滲む。

 

立ち上がろうとしても、脚に力が入らない。

 

舞が近付く。

 

ゆっくり。

 

もう終わりだと思っている。

 

実際、普通なら終わっている。

 

だが、ツキは笑った。

 

「最悪ですね」

 

舞が首を傾げる。

 

「何が?」

 

「海斗に絶対怒られます」

 

「どうして?」

 

「無茶しすぎって」

 

舞は吹き出した。

 

「確かに言いそう」

 

「でしょう?」

 

ツキも笑った。

 

不思議だった。

 

怖いはずなのに。

 

痛いはずなのに。

 

なぜか笑えた。

 

たぶん、信じているからだ。

 

海斗を。

 

森下を。

 

綾小路清隆を。

 

みんなを。

 

だから、まだ折れない。

 

ツキは立ち上がった。

 

舞の表情が変わる。

 

今度は驚きではない。

 

敬意だった。

 

「あなた、弱いのに強いわね」

 

ツキは苦笑した。

 

「褒めてます?」

 

「褒めてる」

 

「なら嬉しいです」

 

舞はナイフを握り直した。

 

「だからこそ終わらせる」

 

次の瞬間、舞が森下へ向かった。

 

ツキではない。

 

森下だ。

 

一直線。

 

最短距離。

 

森下まで残り五メートル。

 

四メートル。

 

三メートル。

 

ツキの身体は勝手に動いていた。

 

走る。

 

痛みなんて関係ない。

 

転びそうになりながら。

 

血を流しながら。

 

飛び込む。

 

舞の腰へ、身体ごと。

 

衝撃。

 

舞の身体がわずかにずれる。

 

本来なら森下へ届いていた一撃が逸れ、ナイフが端末を掠めた。

 

火花が散り、モニターの端が割れる。

 

だが端末は生きている。

 

森下も生きている。

 

ツキは舞へしがみついた。

 

腕で、脚で、全身で。

 

離さない。

 

舞が振り払おうとする。

 

肘が背中へ入る。

 

痛い。

 

苦しい。

 

それでも離さない。

 

「放して」

 

舞が言う。

 

「嫌です」

 

「痛いでしょう」

 

「痛いです」

 

「じゃあ放して」

 

「嫌です」

 

舞は思わず笑った。

 

「本当に面倒ね」

 

ツキは必死にしがみつく。

 

海斗なら絶対笑うだろう。

 

みっともないって。

 

格好悪いって。

 

でもいい。

 

格好良さなんていらない。

 

守れればいい。

 

それだけだ。

 

森下の指が止まる。

 

画面が切り替わる。

 

解除キー。

 

見つけた。

 

本当に最後の最後。

 

篤臣の思考。

 

ホワイトルームの思想。

 

全部逆算して辿り着いた。

 

森下は小さく笑った。

 

「綾小路清隆」

 

誰にも聞こえない声で呟く。

 

「少しだけ褒めてください」

 

そして、エンターキーを押した。

 

画面が変わる。

 

【洗脳装置停止プログラム起動】

 

電子音。

 

警告音。

 

認証完了。

 

森下は迷わない。

 

停止を選ぶ。

 

指がボタンへ触れる。

 

そして、押した。

 

次の瞬間だった。

 

施設全体を支配していた低周波音が途切れた。

 

ブツッ、と。

 

まるで電源を抜いたように。

 

静寂。

 

完全な静寂。

 

舞の身体が止まる。

 

目が揺れる。

 

ナイフが落ちる。

 

金属音が観覧室に響いた。

 

ツキも息を呑んだ。

 

舞が頭を押さえる。

 

苦しそうに。

 

「……ああ」

 

声が漏れる。

 

洗脳が解けていく。

 

増幅されていた衝動が消えていく。

 

数秒の沈黙。

 

そして舞はゆっくり目を開いた。

 

そこにいたのは、殺意に支配された舞ではない。

 

本来の舞だった。

 

危険で、好戦的で、趣味の悪い女。

 

それでも、今は自分の意思で立っている舞だった。

 

舞はツキを見た。

 

しがみついている。

 

ボロボロになりながら。

 

離さないまま。

 

舞は苦笑した。

 

「勝手に放していいわよ」

 

ツキは数秒考えた。

 

そして力が抜け、そのまま床へ倒れた。

 

「もう無理です……」

 

舞は思わず笑った。

 

森下も小さく笑った。

 

観覧室。

 

赤い警報灯。

 

止まった低周波音。

 

三人だけの静かな空間。

 

だがそれも束の間だった。

 

天井スピーカーから篤臣の声が響く。

 

『よくやった』

 

冷たい声。

 

感情のない声。

 

『だから次へ進め』

 

警報が鳴る。

 

モニターが切り替わる。

 

【中央管制区画 解放】

 

【最終フェーズ移行】

 

舞は天井を睨んだ。

 

「本当に趣味が悪い」

 

森下は頷く。

 

「同感です」

 

ツキは床に寝転んだまま言った。

 

「5分だけ休みたいです」

 

その瞬間、観覧室の扉が開いた。

 

そこに立っていたのは、朝霧海斗だった。

 

ツキは思わず笑った。

 

「遅い」

 

海斗はボロボロのツキを見て、顔をしかめた。

 

「無茶しやがって」

 

ツキは笑う。

 

「怒りました?」

 

海斗はため息を吐いた。

 

「当たり前だ」

 

その言葉に、ツキは満足そうに笑った。

 

守れた。

 

間に合った。

 

それだけで十分だった。




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