ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第56話 坂柳有栖が歩く日

低周波音が消えた。

 

それまで施設全体を支配していた不快な振動が、

まるで誰かに首を絞められていた空気から

手を離されたように、唐突に途切れた。

 

旧格闘訓練施設に、静寂が落ちる。

 

完全な静寂ではない。

 

警報はまだ鳴っている。

 

遠くでは機械の駆動音が響き、損傷した配管から白い蒸気が漏れ、

赤い非常灯は壊れかけた壁面を何度も照らしている。

 

それでも、先ほどまで頭蓋の奥を掻き回していた白い支配が消えたことで、

その場にいた者たちは一瞬だけ、自分の呼吸を取り戻した。

 

龍園翔は壁に背を預け、荒い息を吐いていた。

 

相馬は血の滲む額を手の甲で拭いながら、

銃を拾って安全装置を確認している。

 

舞は観覧室から下りてきたツキを横目で見て、苦笑した。

 

ツキは海斗に肩を貸されながら歩いている。

 

「無茶しすぎだ」

 

海斗が低く言った。

 

ツキは疲れ切った顔で笑う。

 

「褒めてる?」

 

「怒ってる」

 

「じゃあ元気出た」

 

「出すな」

 

「海斗が怒ると安心するんだよね」

 

「どういう精神構造してんだ」

 

森下藍がその横を歩きながら、いつもの調子で言った。

 

「朝霧海斗の怒りは、ツキにとって帰巣本能のようなものなのでしょう」

 

「勝手に分析すんな」

 

「いえ、かなり分かりやすいです」

 

ツキは小さく頷く。

 

「分かりやすいよね」

 

「お前まで乗るな」

 

そのやり取りを見ながら、綾小路清隆は状況を整理していた。

 

洗脳装置は停止した。

 

相馬、舞、龍園、雅樹への感情増幅は解除された。

 

中央管制区画の封鎖は解除され、篤臣は次の段階へ移行した。

 

つまり、こちらを消耗させる段階は終わったということだ。

 

ここから先は、篤臣が待つ場所へ向かうだけになる。

 

そのはずだった。

 

だが、開いた扉の向こうから現れた男を見て、全員の足が止まった。

 

雅樹だった。

 

黒いコートを着た男は、赤い非常灯を背にして立っている。

 

洗脳の影響はもう消えているのだろう。

 

目に濁りはない。

 

ただし、態度は相変わらずだった。

 

威圧的で、傲慢で、こちらを見下ろすような目。

 

海斗が顔をしかめる。

 

「よくまあ普通に出てこられるな」

 

雅樹は鼻で笑った。

 

「生き残ったなら出てくる。当たり前だろうが」

 

「さっきまで洗脳されて暴れてた奴の態度かよ」

 

「俺が暴れたところで、お前らが死んでいないなら問題ない」

 

「問題しかねえよ」

 

ツキが海斗の横から言う。

 

「雅樹、普通はまず謝る場面だよ」

 

雅樹はツキを見た。

 

「お前も随分偉くなったな」

 

「偉くなったんじゃなくて常識を言ってるの」

 

「常識が通じる場所なら、そもそもここまで来ていない」

 

「それはそうだけど!」

 

森下が静かに言った。

 

「正論で誤魔化す人ですね」

 

雅樹は森下を一瞥する。

 

「お前が森下藍か」

 

「はい。ラブリーエンジェル藍ちゃんです」

 

「清隆についてきた物好き」

 

「面白そうだったので」

 

「なら後悔するな」

 

「今のところ、後悔する暇もありません」

 

雅樹は低く笑った。

 

「肝は据わっているらしい」

 

龍園が壁際から声を投げる。

 

「で、何の用だ。まさか説教しに来たわけじゃねえだろ」

 

雅樹は龍園には答えず、綾小路を見た。

 

「会いたがってる奴がいる」

 

綾小路は表情を変えなかった。

 

だが、その言葉の意味を考えた。

 

ここで自分に会いたがる者。

 

篤臣ではない。

 

志朗でもない。

 

志朗なら自分から現れる。

 

雅樹の口からそう言う必要はない。

 

海斗も同じことを考えたのか、眉を寄せる。

 

「誰だ」

 

雅樹は答えない。

 

代わりに背後の扉へ視線を向けた。

 

白い医療区画へ続く扉。

 

戦場には不釣り合いなほど清潔な扉が、静かに開いていく。

 

そして、その奥から一人の少女が歩いてきた。

 

誰もが一瞬、言葉を失った。

 

坂柳有栖だった。

 

白い髪。

 

整った顔立ち。

 

静かで余裕のある微笑み。

 

そこまでは以前と変わらない。

 

だが決定的に違うものがあった。

 

杖がない。

 

坂柳有栖は、何にも支えられずに、自分の足で歩いていた。

 

ゆっくりではない。

 

不安定でもない。

 

身体の弱さを隠すような歩き方でもない。

 

確かに、自分の足で床を踏みしめていた。

 

森下が、珍しく言葉を失った。

 

「坂柳有栖……」

 

坂柳は森下を見る。

 

そして、いつものように微笑んだ。

 

「お久しぶりです、森下さん」

 

森下は坂柳の足元を見る。

 

本当に杖がない。

 

杖を忘れたのではない。

 

必要なくなったのだと、歩き方だけで分かる。

 

「驚きました」

 

森下は少しだけ声を低くした。

 

「本当に」

 

坂柳は小さく首を傾げる。

 

「私も驚いています。健康というものは、不思議ですね」

 

「元気になりましたね」

 

「ええ。おかげさまで」

 

森下は数秒黙っていた。

 

高育で見ていた坂柳有栖は、いつも杖と共にいた。

 

病弱という言葉を、誰よりも気高く、誰よりも厄介に扱う少女だった。

 

身体の弱さを隠さない。

 

だが弱者として扱われることを許さない。

 

その矛盾を、優雅に、鋭く、時に残酷なほど堂々と抱えていた。

 

その坂柳が、今、普通に立っている。

 

それは奇跡のようでもあり、同時に妙に自然でもあった。

 

坂柳有栖という人間は、最初からこうして立つべきだったのだと思わせるほどに。

 

森下はようやく小さく笑った。

 

「少し残念です」

 

坂柳が目を細める。

 

「何がですか?」

 

「車椅子で轢かれる心配がなくなりました」

 

「轢いたことはありません」

 

「未遂はありました」

 

「気のせいです」

 

「坂柳有栖の気のせいは、だいたい意図的です」

 

坂柳はくすりと笑った。

 

「相変わらずですね、森下さん」

 

「坂柳有栖も」

 

「私は少し変わりました」

 

「ええ。とても」

 

そのやり取りを、綾小路は静かに見ていた。

 

坂柳は綾小路へ視線を移す。

 

「お久しぶりです、綾小路くん」

 

「生きていたんだな」

 

「第一声がそれですか?」

 

「事実確認だ」

 

「らしいですね」

 

坂柳は少しだけ楽しそうに笑った。

 

「ですが、その通りです。私は生きています」

 

海斗が横から言う。

 

「杖なしで歩いてる時点で、死にかけてた奴には見えねえな」

 

坂柳は海斗を見た。

 

「朝霧さん。あなたにもお会いしたかったです」

 

海斗は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「嫌な予感しかしねえ」

 

ツキが海斗の脇腹を軽く突く。

 

「初対面に近い相手にその顔やめなよ」

 

「このタイプはだいたい面倒を持ってくる」

 

森下が頷く。

 

「それは否定できません」

 

坂柳は微笑んだまま言う。

 

「森下さんまで酷いですね」

 

「事実です」

 

「では、私は面倒な女ということで」

 

海斗が小さく呟く。

 

「自覚あるのが一番厄介なんだよ」

 

雅樹はそのやり取りを遮るように言った。

 

「感動の再会は済んだか」

 

坂柳は少しだけ雅樹を見る。

 

「雅樹さん、もう少し情緒を学んだ方がよろしいかと」

 

「情緒で心臓は動かん」

 

「ですが、人は情緒で未来を見ます」

 

雅樹は何も言わなかった。

 

坂柳は静かに続ける。

 

「私は一度、終わりかけました。身体の内側から、

自分の未来が閉じていく感覚を覚えました。明日があるか分からない。

来月があるか分からない。来年など、最初から考える対象ではありませんでした」

 

その声は穏やかだった。

 

しかし軽くはなかった。

 

「けれど、今は違います。明日も歩けるかもしれない。

来年もこの足で立っているかもしれない。

再来年に何をしているのかを、初めて想像できるようになりました」

 

坂柳は自分の足元を見た。

 

「健康というものは、本当に不思議です。

未来を当然のように持っている人間は、

それがどれほど贅沢なことか、あまり考えません」

 

森下は静かに聞いていた。

 

ツキも、海斗も、龍園も、口を挟まなかった。

 

綾小路は坂柳を見つめる。

 

坂柳は顔を上げ、綾小路へ言った。

 

「だからこそ、やり残したことがあります」

 

綾小路は言った。

 

「オレとの勝負か」

 

「はい」

 

坂柳は微笑む。

 

「今度こそ、誰の介入もなく、不正もなく、純粋なチェスを」

 

綾小路は少しだけ沈黙した。

 

ここはホワイトルーム本部。

 

中央管制区画へ向かう直前。

 

篤臣が待ち、志朗との決着も残っている。

 

本来なら、チェスをしている場合ではない。

 

だが、坂柳有栖にとって、この勝負は単なる遊戯ではない。

 

高育から続く因縁。

 

ホワイトルーム最高傑作と、それを倒そうとした天才。

 

病気に縛られながらも盤面を支配し続けた少女が、

初めて未来を手にした今、過去の未決着へ向き合おうとしている。

 

綾小路は短く答えた。

 

「分かった」

 

坂柳は嬉しそうに微笑んだ。

 

「ありがとうございます」

 

海斗が呆れたように言う。

 

「この状況でチェスかよ」

 

龍園が笑った。

 

「いいじゃねえか。狂ってる場所には狂った余興が似合う」

 

森下が言う。

 

「龍園翔に言われると説得力がありますね」

 

「褒めてんのか?」

 

「分類しています」

 

「やっぱお前ら変人だな」

 

ツキが小声で海斗へ言う。

 

「海斗もその中に入ってるからね」

 

「入れてねえ」

 

「入ってる」

 

「うるせえ」

 

雅樹は壁際の端末を操作した。

 

すると、医療区画の隣にあった扉が開く。

 

そこには小さな休憩室があった。

 

白い机。

 

椅子。

 

非常用の照明。

 

そして、なぜか古いチェス盤が置かれている。

 

海斗が雅樹を見る。

 

「用意良すぎだろ」

 

雅樹は当然のように言った。

 

「こいつが要求した」

 

坂柳は微笑む。

 

「準備は大切ですから」

 

「ここ戦場だぞ」

 

「戦場でも盤面は必要です」

 

「理屈になってねえ」

 

森下が小さく笑った。

 

「坂柳有栖らしいです」

 

一同は休憩室へ入った。

 

扉が閉まり、外の警報音が少しだけ遠くなる。

 

完全に消えたわけではない。

 

だが、戦場の中心に突然生まれた静かな空間だった。

 

綾小路と坂柳は向かい合って座る。

 

チェス盤を挟む。

 

坂柳は白。

 

綾小路は黒。

 

坂柳は駒を丁寧に並べながら言った。

 

「以前の私は、あなたに勝つことに意味を見ていました」

 

「今は違うのか」

 

「今も勝ちたいですよ」

 

坂柳は顔を上げる。

 

「ですが、それだけではありません」

 

「では何だ」

 

「終わらせたいのです」

 

その言葉に、森下が少しだけ目を伏せた。

 

坂柳は続ける。

 

「私の中に残っていた未練を。病気だった頃の私が、

どうしても掴みたかったものを。ここで一度、終わらせたい」

 

綾小路は駒を見た。

 

「勝てなかった場合は?」

 

「満足します」

 

「勝った場合は?」

 

「もっと満足します」

 

海斗が後ろで呟く。

 

「素直なのか面倒なのか分からねえな」

 

ツキが言う。

 

「両方じゃない?」

 

森下が頷く。

 

「坂柳有栖は、昔からそうです」

 

坂柳は微笑んだ。

 

「聞こえていますよ」

 

「聞こえるように言いました」

 

「森下さんも相変わらずです」

 

「坂柳有栖ほどではありません」

 

静かに、勝負が始まった。

 

坂柳の初手は落ち着いていた。

 

奇をてらわない。

 

だが、盤面の中央へ確実に圧をかける手。

 

綾小路もまた、淡々と応じる。

 

駒が一つ動くたびに、部屋の空気が変わっていく。

 

外ではホワイトルームが崩壊へ向かい、

篤臣が待ち構え、中央管制区画が開いている。

 

だがこの小さな盤上では、別の戦争が始まっていた。

 

坂柳は駒を動かす。

 

綾小路は受ける。

 

坂柳は攻める。

 

綾小路は崩さない。

 

序盤は静かだった。

 

だが静かだからこそ、見ている者には異様だった。

 

海斗は腕を組んで盤面を見ていたが、数手で眉をひそめた。

 

「何が起きてるのか分からねえ」

 

ツキが小声で言う。

 

「海斗、本の虫なのにチェスは分からないの?」

 

「読むのと強いのは別だ」

 

「つまり知識だけ?」

 

「おい」

 

森下が盤面を見つめながら言った。

 

「坂柳有栖は中央を取りにいっています。ただし強引ではありません。

綾小路清隆の受け方を見ながら、少しずつ選択肢を削っています」

 

海斗は森下を見る。

 

「分かるのか」

 

「ある程度は」

 

「じゃあお前も変人側だな」

 

「朝霧海斗に言われる筋合いはありません」

 

龍園は退屈そうに壁へ寄りかかっていたが、目だけは盤面を見ていた。

 

「要するに、殴らずに相手の逃げ道を潰すってことだろ」

 

森下が少しだけ驚いたように見る。

 

「龍園翔、意外と分かりやすい表現をしますね」

 

「喧嘩と同じだ」

 

坂柳は駒を動かしながら言った。

 

「その認識は、意外と間違っていません」

 

龍園は笑う。

 

「天才様のお墨付きか」

 

綾小路は無言で駒を動かした。

 

その一手で、坂柳の攻め筋が一つ消える。

 

坂柳は少しだけ目を細めた。

 

「やはり、そこを潰しますか」

 

「見えていた」

 

「でしょうね」

 

坂柳は嬉しそうだった。

 

拒まれたことを喜んでいる。

 

自分の用意した手が読まれ、塞がれ、それでも次を考えられる相手がいる。

 

それが嬉しいのだろう。

 

中盤に入ると、坂柳の攻めは鋭くなった。

 

白の駒が盤面の中央を支配し、黒の駒を少しずつ後退させる。

 

一見、坂柳が優勢に見えた。

 

海斗にもそれは分かった。

 

「坂柳が押してるのか?」

 

森下は少し考えてから答える。

 

「表面上はそう見えます」

 

「表面上?」

 

「綾小路清隆は押されているのではなく、押させている可能性があります」

 

ツキが顔をしかめる。

 

「性格悪いね」

 

海斗が頷く。

 

「あいつらしい」

 

綾小路は聞こえているはずだが、反応しない。

 

坂柳は微笑んだ。

 

「綾小路くん、外野が好き勝手言っていますよ」

 

「盤面には影響しない」

 

「でしょうね」

 

坂柳はさらに攻める。

 

ナイトを進め、ビショップのラインを開き、クイーンの圧力を中央へ重ねる。

 

綾小路は守る。

 

だが、守るたびに盤面の端で小さな違和感が残る。

 

坂柳はそれに気づいていた。

 

自分が攻めている。

 

間違いない。

 

綾小路は受けている。

 

それも間違いない。

 

だが、自分が攻めるために動かした駒の背後で、黒の駒が少しずつ位置を整えている。

 

罠。

 

いや、罠というほど単純ではない。

 

坂柳の攻めを受け止めた先に、綾小路は別の盤面を作っている。

 

「なるほど」

 

坂柳は小さく呟いた。

 

「やはり、あなたは嫌な人です」

 

綾小路は駒を動かす。

 

「そうか」

 

「褒めています」

 

「褒め言葉には聞こえない」

 

「では、そういう褒め方です」

 

森下が横で呟く。

 

「坂柳有栖は昔から、褒め言葉に棘を混ぜます」

 

坂柳は盤面から目を離さず言う。

 

「森下さんも、人のことは言えません」

 

「自覚はあります」

 

「なら結構です」

 

数十分が過ぎた。

 

誰も退屈しなかった。

 

不思議な空間だった。

 

外では警報が鳴り続けている。

 

ホワイトルームの中枢へ向かう時間は削られている。

 

それでも、この勝負を止める者はいなかった。

 

なぜなら、ここで行われているのは単なるチェスではないからだ。

 

坂柳有栖が、病気に縛られていた自分と決着をつけるための儀式。

 

綾小路清隆が、過去に自分へ挑み続けた少女の意地を受け止める時間。

 

そして森下藍にとっては、同じ学校で見ていた病弱なクラスメイトが、

初めて未来へ歩き出す姿を確認する時間だった。

 

終盤。

 

坂柳の表情から余裕が少しずつ消えた。

 

焦りではない。

 

集中だ。

 

綾小路の黒い駒が、少しずつ白の王へ近づいている。

 

坂柳は気づいている。

 

序盤から自分が作った攻め筋。

 

中盤で得たはずの優位。

 

それらが、いつの間にか綾小路の計算の中へ組み込まれていた。

 

自分は押していた。

 

だが押していたからこそ、戻る道を失っている。

 

坂柳は息を吐いた。

 

「ここまでですか」

 

綾小路は答えない。

 

坂柳は一手を指した。

 

まだ粘れる手。

 

最善ではないかもしれない。

 

だが、最も坂柳らしい手だった。

 

最後まで盤面を支配しようとする一手。

 

綾小路は少しだけ駒を見つめた。

 

そして、黒の駒を動かした。

 

静かな音。

 

チェック。

 

坂柳は盤面を見る。

 

逃げ道を探す。

 

一つ。

 

潰れている。

 

二つ。

 

潰れている。

 

三つ。

 

最初からそこへ誘導されていた。

 

坂柳はしばらく黙っていた。

 

そして、微笑んだ。

 

「……負けました」

 

その声は、本当に穏やかだった。

 

悔しさがないわけではない。

 

負けたのだから、悔しい。

 

けれど、それ以上に満足があった。

 

坂柳は背もたれに身を預け、盤面を見下ろす。

 

「強いですね、綾小路くん」

 

「お前も強かった」

 

「それは慰めですか?」

 

「事実だ」

 

坂柳は少しだけ目を細めた。

 

「なら、受け取っておきます」

 

森下が静かに言った。

 

「満足そうですね」

 

坂柳は森下を見る。

 

「はい」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

坂柳は自分の手を見た。

 

駒を動かした手。

 

以前なら、長時間の勝負の後には疲労が強く残った。

 

体調を気にしなければならなかった。

 

心臓の鼓動を気にしなければならなかった。

 

だが今は違う。

 

疲れている。

 

けれど、それは健康な人間が集中した後に感じる疲れだった。

 

坂柳はその感覚を噛みしめるように微笑んだ。

 

「ようやく決着しました」

 

綾小路は盤面を片づけずに見ている。

 

坂柳は続けた。

 

「私はずっと、あなたに勝ちたかった。

ホワイトルーム最高傑作と呼ばれるあなたを倒せば、

私の存在が証明されるような気がしていました」

 

「今は違うのか」

 

「完全には違いません。私は負けず嫌いですから」

 

坂柳は笑う。

 

「ですが今は、負けても明日があります。

次に何をするかを考えられます。

以前の私なら、負けることはもっと重かった。

時間が限られていると思っていましたから」

 

森下は静かに坂柳を見ていた。

 

坂柳は言う。

 

「不思議ですね。未来があると、敗北も少し軽くなる」

 

龍園が壁際で鼻を鳴らした。

 

「負けを軽く言えるのは強ぇ奴だけだ」

 

坂柳は龍園を見る。

 

「あなたに言われると、説得力がありますね」

 

「嫌味か?」

 

「褒め言葉です」

 

「お前も大概だな」

 

海斗が小さく言う。

 

「この場、変な奴しかいねえ」

 

ツキが即座に言った。

 

「海斗も含めてね」

 

「含めるな」

 

森下が頷く。

 

「朝霧海斗を除外すると、分類に誤差が出ます」

 

「何の分類だよ」

 

坂柳はそのやり取りを見て、楽しそうに笑った。

 

「賑やかですね」

 

綾小路は静かに言った。

 

「以前よりもな」

 

坂柳はその言葉に、少しだけ目を細める。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「あなたも変わりましたね」

 

綾小路は答えない。

 

坂柳は続ける。

 

「以前のあなたなら、この勝負を受けたとしても、

もっと機械的だったかもしれません。今は違います」

 

「そう見えるか」

 

「はい」

 

坂柳は穏やかに言った。

 

「外へ出た成果でしょうか」

 

綾小路は少しだけ考えた。

 

「分からない」

 

「では、そういうことにしておきます」

 

その時、休憩室の外で足音がした。

 

静かで、迷いのない足音。

 

全員の視線が扉へ向く。

 

扉が開く。

 

そこに立っていたのは志朗だった。

 

白い施設の光を背に、彼は綾小路を見ていた。

 

「終わったか」

 

綾小路は立ち上がる。

 

「待たせたな」

 

志朗は首を振った。

 

「必要な時間だったんだろう」

 

坂柳はチェス盤に視線を落とし、それから志朗を見た。

 

「あなたが、綾小路くんの同期生ですね」

 

志朗は坂柳を見る。

 

「そうだ」

 

「では、次はあなたの番ですか」

 

志朗は少しだけ笑った。

 

「そうなる」

 

海斗が椅子の背に寄りかかりながら言った。

 

「チェスの次はまた化け物同士の殴り合いか」

 

龍園が笑う。

 

「いいじゃねえか。見応えある」

 

ツキが呆れる。

 

「みんな元気すぎ」

 

森下が静かに言った。

 

「ですが、避けられないのでしょうね」

 

綾小路は志朗を見る。

 

志朗もまた、綾小路だけを見ていた。

 

坂柳との勝負は終わった。

 

彼女の過去との決着はついた。

 

だが綾小路清隆には、まだ終わっていないものがある。

 

ホワイトルーム。

 

篤臣。

 

そして、志朗。

 

自由を求めて先に外へ出た男。

 

外へ出た綾小路を待っていた男。

 

二人の決着が、次に来る。

 

坂柳は椅子から立ち上がった。

 

杖はない。

 

自分の足で立っている。

 

そして綾小路へ微笑んだ。

 

「行ってください、綾小路くん」

 

綾小路は短く答えた。

 

「ああ」

 

坂柳は少しだけ楽しそうに付け加える。

 

「ただし、帰ってきたらもう一局お願いします」

 

海斗が即座に言う。

 

「おい、まだやる気か」

 

坂柳は微笑む。

 

「未来がありますから」

 

その言葉に、誰もすぐには返せなかった。

 

未来がある。

 

坂柳有栖がそう言えること。

 

それだけで、この場にいる何人かにとっては十分だった。

 

綾小路は扉へ向かう。

 

志朗がその隣へ並ぶように歩き出す。

 

二人の背中を、坂柳は静かに見送った。

 

そして森下が小さく言う。

 

「本当に元気になりましたね、坂柳有栖」

 

坂柳は微笑んだ。

 

「ええ」

 

少しだけ胸に手を当てる。

 

鼓動は穏やかだった。

 

「悪くありません」

 

白い施設の中で、警報はまだ鳴っている。

 

ホワイトルームとの決着は近い。

 

だがその前に、ひとつの決着が確かに終わった。

 

坂柳有栖は敗北した。

 

けれど、彼女は満足していた。

 

負けても明日がある。

 

次の勝負を望める。

 

それは、かつての彼女が持てなかった自由だった。

 

そして綾小路清隆は、次の決着へ向かう。

 

志朗との戦いへ。

 

ホワイトルームの奥へ。

 

自分自身の過去へ。




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