ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
夜の空気は冷たく澄んでいたが、
その冷たさは逃げ延びた安堵を与えるものではなく、
むしろ背後から追いかけてくる熱と狂気を際立たせるための対比のように、
綾小路清隆と堀北鈴音の皮膚の上に薄く張り付いていた。
校舎の外へ落下した衝撃は想定内だったとはいえ、
完全に無傷で済むものではなく、綾小路の肩には鈍い痛みが残り、
堀北の呼吸もわずかに乱れているが、
それでも二人とも足を止めるという選択肢を最初から持っていなかった。
背後の窓からは、複数の影がこちらを見下ろしている。
龍園。
坂柳。
宝泉。
天沢。
七瀬。
それぞれの視線が異なる意味を持ちながらも、
ただ一点、綾小路という存在へ収束していることだけは共通していた。
「立てるわ」
堀北が短く言う。
声に迷いはなかった。
だが、その足取りには明確な負荷がかかっている。
「走れるか」
「走るしかないでしょう」
即答だった。
その答えを聞いた瞬間、綾小路は進行方向を決めた。
校舎正面へは行かない。
あそこは最も分かりやすく、同時に最も警戒される場所だ。
向かうのは校舎側面、体育館と教室棟を繋ぐ渡り廊下の下を抜け、
その先にある資材搬入口付近。
文化祭用の大型搬入のため、普段より遮蔽物が多く、
なおかつ校舎内部と外部の導線が複雑に交差している場所だ。
「こっちだ」
綾小路は短く告げ、走り出した。
背後から怒号が響く。
「外に回れ!逃がすな!」
龍園の声。
そのすぐ後に、重い衝撃音。
窓から飛び降りたのだろう。
宝泉の可能性が高い。
その判断は正しかった。
数秒後、背後から地面を叩きつけるような着地音と同時に、
荒い笑い声が夜気を裂いた。
「いいじゃねえか……外のほうが潰しやすい」
宝泉和臣。
追撃の速度が速すぎる。
綾小路は振り返らない。
振り返れば距離を測れるが、その一瞬が命取りになる。
代わりに、地面を蹴る音と呼吸の間隔から距離を読む。
まだ余裕はある。
だが長くは持たない。
「綾小路くん!」
堀北が息を切らしながら呼ぶ。
「分かってる」
短く返す。
説明する時間はない。
渡り廊下の影に滑り込む。
ここは外灯が届きにくく、視界が一気に落ちる。
さらに文化祭用の大型幕と鉄骨フレームが仮置きされており、
直線的な追跡を難しくしている。
綾小路はその間を縫うように進みながら、手近な金属フレームを軽く蹴った。
わざとだ。
音を響かせる。
反響を増やす。
追ってくる側に距離感を誤認させるため。
「ちっ……どこだ!」
宝泉の声がわずかに揺れる。
だが完全には崩れない。
この男は感覚で追う。
音だけでは騙しきれない。
ならば次が必要だ。
綾小路は足元に転がっていた小型の台車を横へ蹴り飛ばした。
車輪が回り、異なる方向へ音が走る。
その直後、反対側へ一気に進路を切り替える。
堀北は一瞬遅れながらも、すぐにそれに追従した。
「今の……」
「後で説明する」
その短い会話の背後で、別の気配が混じった。
軽い足音。
不規則で、しかし迷いがない。
天沢だ。
「逃げ方うまいなあ、ほんと」
背後から聞こえる楽しげな声。
距離はまだある。
だが確実に追いついてくる。
「でもさ、二人で逃げるのって、逆に分かりやすくないですか?」
その言葉には、ただの挑発以上の意味があった。
堀北の存在が、追跡側にとって明確な目印になっているという指摘。
それは事実だった。
「綾小路くん」
堀北が低く言う。
「足を引っ張るくらいなら――」
「黙って走れ」
即答だった。
躊躇もなく。
「今切り離せば、お前は確実に捕まる」
「それでも――」
「それでもじゃない」
綾小路は一瞬だけ視線を向けた。
「ここで切る理由がない」
その言葉に、堀北はそれ以上何も言わなかった。
理解したわけではない。
だが、今は従うしかないと判断したのだろう。
それでいい。
渡り廊下を抜けた先は、体育館裏の開けた空間だった。
視界が広がる。
同時に、遮蔽物が減る。
ここが最初の分岐点になる。
「右だ」
綾小路が指示する。
体育館側の裏手、資材搬入口へ向かうルート。
だがその瞬間、正面の影が動いた。
人影。
銃口が上がる。
「止まれ!」
一年生の男子だった。
見覚えがある。
だが一瞬なため名前までは出てこない。
手は震えている。
それでも引き金に指はかかっている。
「撃たないでください!」
七瀬の声が遠くから飛ぶ。
だが距離がある。
間に合わない。
男子生徒の呼吸が荒くなる。
視線が揺れる。
綾小路と堀北を交互に見ている。
撃つか。
撃たないか。
その判断が固まる前に。
綾小路は一歩踏み込んだ。
銃口が揺れる。
その差が相手にとって致命的だった。
綾小路は相手の手首を払うように逸らし、銃口を上へ向けさせる。
発砲。
空へ弾が抜ける。
同時に膝を払う。
男子生徒が崩れる。
その手から拳銃を奪い取り、綾小路は足先でそれを遠くへ滑らせた。
殺さない。
今はそれでいい。
だが、その直後だった。
背後から鋭い足音が一直線に迫る。
速い。
しかも迷いがない。
綾小路は振り返るより先に半歩だけ身体をずらした。
次の瞬間、七瀬の拳が空気を裂いて綾小路の頬すれすれを通過する。
鋭い。
力任せではない。
最短距離で急所だけを狙い抜く、止めるための拳だった。
「……もうやめてください!」
七瀬が低く言う。
その声には怒鳴りつけるような激情はない。
むしろ、ここまで崩壊した状況の中でもなお、
制御しようとしている理性が滲んでいた。
だが甘くはない。
七瀬は綾小路へ間を与えず、踏み込みと同時に二撃目を放つ。
今度は腹部。
さらにその勢いを殺さず、低い蹴りが膝へ走る。
綾小路はそれを真正面から受けない。
腹への拳は腕を滑らせるように外へ流し、蹴りは半歩だけ脚を引いて軌道を外す。
七瀬の連撃は止まらない。
拳。
肘。
蹴り。
すべてが急所へ正確に伸びてくる。
だがそのどれにも殺すための迷いのなさがない。
制圧。
拘束。
止めるため。
それが七瀬の戦い方だった。
「あなたはここで止まるべきです!」
七瀬が踏み込む。
鋭い前蹴り。
綾小路は横へ身体を捻って避け、そのまま七瀬の脚を軽く払うように触れる。
だが七瀬は崩れない。
軸足で即座に踏み直し、今度は身体ごとぶつけるように距離を詰め、
至近距離から拳を打ち込んできた。
速い。
そして正確だ。
綾小路は七瀬の拳を受け流しながら、その目を見る。
七瀬は迷っている。
綾小路を止めたい。
だが、本気で壊したいわけではない。
その僅かな躊躇いが、綾小路にとっては十分な差だった。
七瀬の右拳が再び喉元を狙って伸びる。
綾小路はその腕を内側から受け流し、そのまま一歩だけ深く踏み込んだ。
距離がゼロになる。
七瀬の目がわずかに揺れる。
その瞬間にはもう、綾小路の腕が七瀬の身体へ絡んでいた。
柔道の技。
綾小路は七瀬の重心を崩すためだけに腰の位置を半歩ずらし、
そのまま腕を引き込みながら身体を回転させる。
七瀬は即座に耐えようとする。
だが遅い。
綾小路はすでに七瀬の体勢を完全に浮かせていた。
「っ――!」
七瀬の身体が大きく宙を舞う。
鈍い衝撃音。
背中から地面へ叩きつけられる。
空気が抜ける。
七瀬の呼吸が一瞬止まる。
だが綾小路はそこで終わらない。
即座に七瀬の腕を押さえ込み、そのまま地面へ固定する。
逃げられない角度。
完全な制圧。
七瀬は数秒だけ抵抗しようとする。
だが、動けない。
「……っ、く……」
悔しそうに息を漏らす。
それでも七瀬は綾小路を睨み続けていた。
敵意ではない。
止められなかったことへの焦りと、自分の中でまだ終わっていない葛藤。
綾小路はそんな七瀬を押さえ込んだまま、短く息を吐いた。
「お前は甘い」
七瀬の目が揺れる。
「でも、その甘さのおかげで助かってる奴もいる」
その言葉だけを残し、綾小路は七瀬の拘束を解いた。
七瀬は地面へ伏したまま、すぐには立ち上がれなかった。
しかし身体が回復すればまた追ってくるだろう。
彼女はゆっくり顔だけを上げる。
その視線の先で、綾小路が床へ転がっていた備品へ手を伸ばしていた。
文化祭用の装飾資材に混ざって落ちていた、重い鉄製の斧。
舞台大道具用に使われていたものなのか、鈍い銀色の刃が赤黒く光る。
七瀬の表情が強張る。
「……綾小路、先輩……?」
綾小路は何も答えない。
ただ静かに、その鉄斧を拾い上げる。
そして一歩。
また一歩。
七瀬の目の前まで歩み寄る。
逃げようとする。
だが身体が動かない。
疲労。
衝撃。
そして、綾小路の視線。
その静けさが、何より怖かった。
七瀬は息を呑む。
「ま、待っ――」
その瞬間。
綾小路の腕が振り下ろされた。
凄まじい速度。
鉄斧が一直線に七瀬の顔面へ落ちてくる。
「っ――!!」
七瀬が反射的に目を閉じた。
轟音。
床が震える。
鉄斧は七瀬の顔面すれすれ、髪を掠める位置で床へ深々と突き刺さっていた。
砕けた床材が跳ねる。
刃先が七瀬の頬のすぐ横で止まっている。
あと数センチズレていれば、頭部へ直撃していた。
七瀬の呼吸が止まる。
瞳が震える。
恐怖。
その緊張が限界へ達した瞬間、七瀬の身体から力が抜けた。
意識が落ちる。
そのまま気絶した。
綾小路は無言のまま鉄斧から手を離す。
重い金属音。
そして七瀬を一瞥すると、そのまま背を向けた。
「行くぞ」
綾小路が堀北の腕を引く。
だがその直後、左側から強い衝撃が走った。
宝泉だった。
完全に回り込まれている。
「遅えんだよ!」
横からの突進。
綾小路は正面で受けず、体を半歩引いて流す。
だが衝撃は消えない。
肩の痛みが跳ね上がる。
視界が揺れる。
宝泉の腕がさらに伸びる。
「逃がすか!」
その拳を、綾小路は腕で受け、同時に足を踏み替えて距離を作る。
だが完全には離れない。
間合いが近すぎる。
銃を使う距離ではない。
肉体の領域だ。
宝泉は笑っていた。
「やっとだなぁ!」
その一撃は重い。
綾小路は受け流す。
だが完全には殺しきれない。
衝撃が体の芯へ伝わる。
二撃目。
三撃目。
連続。
速い。
そして重い。
綾小路は後退しながら受ける。
完全に打ち合えば押し切られる。
だがここで止まれば終わる。
「綾小路くん!」
堀北の声。
その瞬間、横から別の影が割り込んだ。
天沢だった。
「宝泉くん、下がりなって」
「邪魔すんな!」
宝泉が振り払う。
だがその一瞬で間が生まれる。
綾小路はその隙を逃さなかった。
地面の砂を蹴り上げる。
視界を遮る。
そして一気に距離を取る。
「チッ……!」
宝泉が舌打ちする。
だが完全には追えない。
その背後で天沢が笑っている。
「もうちょっとだったのにー」
綾小路は堀北とともに、さらに奥へと走る。
資材搬入口のシャッターが見える。
半開きだ。
通れる。
だがその先は――。
綾小路は一瞬だけ外を見た。
遠くに、赤色灯が見える。
はっきりと。
そして、かすかにサイレンの音も近づいている。
警察。
確実に動いている。
だが、まだ届かない。
この距離は、救いではなく希望の錯覚だ。
「行くぞ」
綾小路は迷わなかった。
シャッターをくぐる。
堀北も続く。
その瞬間、背後から複数の足音が一斉に加速した。
龍園。
坂柳側。
宝泉。
天沢。
全員が外へ出る決断をした。
つまり。
この戦場は、校舎の内側から外側へと完全に拡張された。
そしてその中心にいるのは――依然として、綾小路だ。
資材搬入口の半開きのシャッターをくぐって外へ出た瞬間だった。
綾小路と堀北を包んだのは、
校舎内の赤い非常灯とはまったく性質の異なる、
夜の屋外特有の湿った冷気と、
遠くから断続的に近づいてくるサイレンの音が運んでくる、
まだ届かない救助と、しかし今すぐには何も変えてくれない現実との距離感だった。
校舎の外は中よりも広く、視界も開けているはずなのに、
文化祭前夜の搬入のために仮置きされた大型パネルや、
折りたたまれたテント骨組みや、資材用の台車や、飲料ケースの段ボール。
屋台用の木枠や、未設置の照明機材がそこかしこに積まれているせいで、
実際には通れる道が細く切られ、影が不規則に生まる。
どこから誰が現れても不思議ではない、屋内とは別種の迷路へと変質していた。
綾小路はシャッターを抜けてすぐ、
堀北の肩を軽く押して大型テントの資材の陰へと滑り込ませた。
「一度しゃがめ」
堀北は反論せず、すぐに従った。
その判断ができるだけで十分だった。
彼女の髪には落下の際に触れた埃がわずかに残り、
制服の裾にも擦れた跡があるが、目だけはまだしっかりと状況を追っていた。
「肩は?」
堀北が小さく問う。
「お前よりは動ける」
「答えになっていないわね」
「今はそれで問題ない」
短い会話だった。
だが、そのやり取りだけでも、
二人ともこの状況を情の整理に使うつもりがないことは明白だった。
背後のシャッターの内側では、すでに複数の足音と怒声が反響している。
龍園は押し切るつもりで出てくるだろう。
宝泉は止まらない。
天沢は楽しみながら追う。
七瀬は制御しようとするが、全体を止め切れる段階ではない。
坂柳は最も遅く、そして最も冷静に出てくるはずだ。
その順番を頭の中で組みながら、綾小路は周囲の導線を確認した。
右に進めば体育館裏の暗がりと搬入用通路。
左へ切れば校舎外周に沿って正面玄関側へ回るルート。
正面には開けたスペースがあり、
その先に文化祭用の仮設ステージ資材が並んでいる。
一見すると左が安全に見える。
だが、追う側もそう考える。
ならば取るべきは一度右へ切ってから、遮蔽物を利用して進路をずらすことだ。
「立てるか」
綾小路が問うと、堀北は短く頷いた。
「ええ。ただし全力疾走は長くは持たないわ」
「それで大丈夫だ」
その瞬間、シャッターの内側から金属音が響き、最初の影が外へ飛び出した。
宝泉だった。
落下の時と同じように勢いだけで空間を支配するような出方で、
周囲の様子を確認するより先に獲物の姿を探し、
見つけた瞬間に潰すことしか考えていない足取りだった。
「どこだ!」
怒声が夜気を裂く。
その直後、天沢が滑るように出る。
天沢は宝泉ほど荒々しくはないが、そのぶん視線が速い。
外の遮蔽物の配置を一目で楽しむように見回し、
まるで本当に夜の遊び場へ放り出された子供のような無邪気さで笑っていた。
「外のほうがいいですねえ。先輩、かくれんぼ得意そうだし」
その後ろから、立ち上がった七瀬が出てくる。
彼女だけは最初に空を見た。
遠くの赤色灯とサイレンを認識したのだろう。
それからすぐに周囲の遮蔽物と進路を確認し、
宝泉や天沢がただ前へ出るのとは違う、
包囲線の穴を埋めるような動きを取ろうとしていた。
さらに遅れて龍園が姿を見せ、
シャッターの脇で状況を一瞥したあと、すぐに舌打ちした。
「外かよ。余計に面倒になったな」
「面倒かどうかは、扱う人間次第ですよ」
その少し後ろ、坂柳有栖が橋本と神室を伴って現れる。
彼女は屋外に出たことに焦りを見せるどころか、
むしろ視界が開けたことで一段と盤面を見やすくしたような、
静かな観察の目をしていた。
「綾小路くんはまだ近いでしょうね」
坂柳が言う。
「堀北さんを連れたまま遠くへは行けません」
「だったら近くから潰せばいいだろ」
宝泉が吐き捨てる。
「それをあなたがやって、先ほど取り逃がしたのでは?」
坂柳の返しは冷静だったが、十分すぎるほど挑発的だった。
宝泉が振り向く。
「テメェ……」
「落ち着いてください!」
七瀬が間に入る。
「今ここで争えば、本当に追跡線が崩れます」
「さっきからそればっかだな、七瀬」
龍園が笑う。
「崩れる崩れるってよ。もうとっくに崩れてんだろ」
それは半分事実だった。
綾小路は資材の陰からそのやり取りを見ながら、
追う側の配置が屋内よりもさらに歪んでいることを確信していた。
屋外では、閉じられた廊下や教室のように
「この位置を押さえればここを通る」という単純な支配が効かない。
広い分だけ、各自の判断の差が露骨に表へ出る。
龍園は正面から追い込みたい。
坂柳は堀北を連れている以上遠くへは行けないと読んでいる。
宝泉は近距離で叩き潰したい。
天沢は先に見つけたい。
七瀬は包囲したい。
ならば、そのズレをさらに拡大させればいい。
綾小路は堀北へ身を寄せ、小声で告げた。
「今から三十秒で位置がずれる。
オレが右へ音を出す。お前はその逆へ二歩だけ動け」
「その後は?」
「オレを見るな。見た方向へ追われる」
堀北は一瞬だけ目を細めたが、すぐに理解したらしい。
「分かったわ」
それ以上の確認はしない。
その潔さは今この瞬間、何よりありがたかった。
綾小路は足元にあった細い鉄パイプを取り、
少し離れた場所に積まれていた木枠へ向けて投げた。
金属と木がぶつかる硬い音が夜に響く。
全員の視線が一瞬そちらへ向く。
宝泉が真っ先に反応した。
「いたか!」
走る。
単純だが速い。
それに龍園側の男子が二人釣られる。
同時に綾小路は堀北の背を軽く押し、逆方向の大型パネルの列へ滑り込ませた。
自分はさらに別の影へ移る。
天沢の声が飛ぶ。
「違う違う、そっちじゃないって」
だが笑っているだけで止める気配はない。
彼女にとっては、誰がどちらへ動こうが面白ければいいのだ。
坂柳は動かなかった。
代わりに橋本へ短く指示を出す。
「右は囮の可能性が高い。二手に分かれたほうがいいな」
七瀬もほぼ同じ結論に辿り着いていたようで、龍園側に向けて声を上げた。
「正面の音だけ追わないで!
堀北先輩がいる以上、別方向を取っているはずです!」
その判断は正しい。
だからこそ危険だった。
綾小路はすぐに進路を変え、
仮設ステージの骨組みが積まれた細い通路へ入った。
ここは遮蔽物が多いが、そのぶん一度入れば横からの視線を切りやすい。
堀北もすぐ後ろについてきている。
呼吸は乱れているが、足は止まらない。
「思ったより……外も安全じゃないわね」
小さく吐くように堀北が言う。
「安全な場所なんて最初からない」
「夢のない返答ね」
「夢を見ている余裕があるなら、まだましだ」
その言葉の直後、右後方で銃声が一発響いた。
乾いた音。
すぐに別方向から怒鳴り声。
「撃つなって言ってんだろうが!」
龍園の声だった。
おそらく龍園側の生徒が誤認で発砲したのだろう。
屋外は視界が開ける分、逆に影の誤認が起きやすい。
しかも文化祭資材で陰影が複雑になっている今はなおさらだ。
「このままどこへ向かうの」
堀北が問う。
「正面玄関側には行かない」
「警察が来ているかもしれないのに?」
「来ていても、今の段階で飛び込めばそこで止められる。
事情を説明する前に、銃を持った生徒たちごと
包囲に巻き込まれる可能性のほうが高い」
堀北は短く息を飲んだ。
その可能性は理解していたのだろう。
遠くのサイレンは救いに見える。
だが、まだ救いではない。
少なくとも今この瞬間の綾小路たちにとっては。
進む先に、文化祭用の大型暗幕がロール状に積まれているのが見えた。
その陰に一時的に入れる。
綾小路はそこへ滑り込み、堀北も引き入れた。
二人の間に落ちる沈黙は短い。
しかしその短さの中に、むしろ校舎内にはなかった種類の圧迫があった。
閉鎖空間から出たはずなのに、追う側も外へ出てきたことで、
逃走ではなく野外の包囲戦へ変わったのだ。
堀北が低く言う。
「教室に残ったみんなは」
「まだ動かせない」
即答だった。
「今戻れば、お前もオレも捕まる。結果的に全員詰む」
「分かっているわ」
堀北の声に感情は強く乗っていなかった。
だが、その抑え方そのものが、彼女の内側で焦燥が膨らんでいる証拠でもあった。
「でも、軽井沢さんは危ない」
「分かってる」
「椎名さんも、一之瀬さんも、平田くんも……」
「分かってる」
二度目の返答で、堀北は口を閉ざした。
責めるために言ったわけではないのだろう。
ただ確認したかっただけだ。
綾小路が、そこを見捨てていないことを。
その時、暗幕の向こう側を誰かの影が横切った。
細い影。
足音は軽い。
天沢だった。
彼女は立ち止まる。
笑っている気配がある。
「ねえ先輩」
声だけが近い。
「そこにいるんでしょ」
綾小路は答えない。
堀北も息を殺す。
「返事してくれなくてもいいですけど、わたし、けっこう分かるんですよね。
人が今、逃げるか、隠れるか、諦めるか」
暗幕の端が、わずかに持ち上がる気配。
その瞬間、反対側から七瀬の声が飛んだ。
「天沢さん!」
天沢が舌打ちに近い吐息を漏らす。
「なに?」
「そっちは後。宝泉くんが単独で前へ出すぎています」
「へえ」
「本当です。今戻らないと、また勝手に突っ込む」
その呼びかけには、単なる任務上の連携以上の意図があった。
七瀬は、今ここで天沢が綾小路を見つけることを良しとしていない。
なぜか。
横取りを嫌っているのか。
それとも、堀北を巻き込んだ近距離の衝突を避けたいのか。
綾小路にはまだ断定できなかった。
だが、使えるズレではある。
天沢は少しだけ残念そうに笑った。
「じゃあ、また後で遊びましょうか」
足音が遠ざかる。
綾小路は数秒待ち、完全に気配が離れたのを確認してから暗幕の陰を出た。
堀北も続く。
「今のは」
「七瀬が止めた」
「なぜ?」
「まだ分からない」
それ以上は言わなかった。
分からないものは、今はそのままにしておくしかない。
二人はさらに校舎外周へ沿って移動し、
特別棟と教室棟の間にある植え込みの陰へ入った。
ここは比較的暗く、外灯の角度の関係で人影が浮きにくい。
同時に、校門方向も少しだけ見える。
そしてそこに、ようやくはっきりと確認できるものがあった。
赤色灯。
数台分。
道路を塞ぐように停車している車両。
遠巻きに動く人影。
警察か、あるいは機動隊に近い装備の隊員か。
まだ距離はある。
だが確実にいる。
堀北もそれを見た。
「本当に来てるのね」
「ああ」
「なら――」
「まだ飛び込むな」
綾小路が制す。
「今はまだ、向こうも中の状況を把握しきれてない。
無線も届かない距離で、こちらだけが走り込めば、
外の包囲と内側の追跡の間に挟まれる」
堀北は唇を引き結んだ。
反論したいわけではない。
ただ、そこに出口が見えているのに、まだ手を伸ばせないことが苦しいのだろう。
綾小路自身も同じだった。
校外の包囲は、物語の終わりではなく、新しい条件にすぎない。
今必要なのは、そこへ辿り着けるだけの空白時間を作ることだ。
追う側の足を止める時間。
あるいは、互いに食い合う時間。
その時、校舎側からまた怒鳴り声が響いた。
宝泉と龍園だ。
「テメェら遅えんだよ!」
「うるせえな。正面しか見えてねえ奴に言われたくねえよ」
「見つけたら俺が潰す。それで終わりだろうが」
「その見つけたらができてねえんだろ」
完全に衝突し始めていた。
坂柳の声がそこへ重なる。
「二人とも声を抑えてください。位置を教えているようなものです」
「だったらテメェが見つけろよ」
龍園が吐き捨てる。
「見つけるだけなら、もうしていますよ」
その一言で空気が止まる。
宝泉も龍園も、次の言葉を待つように沈黙した。
「綾小路くんは、校門方向を見ているはずです」
坂柳が静かに続ける。
「外の包囲を認識した以上、最終的にはそこへ近づくしかない。
今の彼は逃げるよりそこへ辿り着くまでの道を作ることを優先しているでしょう」
綾小路の目がわずかに細くなる。
読まれている。
しかも正確に。
堀北もそれを聞いたのだろう、小さく息を詰めた。
「すごいわね」
「厄介だ」
「感心している場合ではないでしょうけど」
「してない」
だが、正直に言えば感心はしていた。
坂柳有栖はやはり坂柳有栖だった。
龍園や宝泉や天沢のような分かりやすい圧ではなく、
こちらの思考そのものを丁寧に剥がしていく種類の敵。
だからこそ厄介で、同時に、この状況においては最も危険でもある。
「なら、どうするの」
堀北の問いに対し、綾小路は少しだけ視線をずらし、
校門と校舎外周と植え込みの位置関係を見直した。
一直線には行けない。
坂柳がそれを読んだ以上、読まれた前提で動くしかない。
つまり、いったん逆へ振る。
「一度、特別棟側へ戻る」
「校門から離れるの?」
「離れるからこそ、最後に近づける」
堀北はすぐには納得しきれない顔をしたが、それでも頷いた。
「分かったわ」
その返答を受けた瞬間、綾小路は立ち上がった。
同時に、少し離れた位置で足音が枝を踏む。
七瀬だ。
彼女もまた、植え込みのこちら側へ近づきつつあった。
完全に見つかったわけではない。
だが近い。
綾小路は堀北の手首を掴み、低く告げる。
「走るぞ」
「ええ」
次の瞬間、二人は植え込みの影から飛び出し、
校門とは逆方向――特別棟側へ向けて一気に駆け出した。
それを見つけたのは、やはり七瀬が最初だった。
「いた!」
その声で全員が動く。
龍園。
宝泉。
天沢。
坂柳側の生徒たち。
そして坂柳本人。
追跡線が再びこちらへ収束する。
だが、それでいいと綾小路は判断していた。
一度全員を校門から遠ざける。
そのうえで、誰がどこまで深追いし、誰がどこで切り替えるかを見る。
外へ出たことで戦場は広がった。
だが広がったからこそ、追う側の性格差は屋内よりもさらに鮮明になる。
そしてその差こそが、綾小路と堀北が生き延びるための、唯一の裂け目だった。
夜はまだ終わらない。
サイレンは近づいている。
だが救いはまだ遠い。
校舎の内側で始まった狩りは、
今や学校全体を取り囲む夜の包囲戦へと形を変え、
その中心を走る二つの影を、執念と計算と狂気と欲望が
それぞれの速度で追い続けていた。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。