ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
白い扉を抜けた瞬間、世界は消えていた。
そこにあったのは、空でも、山でも、道でもない。
ただ白。
視界のすべてを雪が埋め尽くし、数メートル先の輪郭すら溶かしている。
ホワイトアウト。
吹雪が横殴りに走り、頬を刺し、髪を凍らせ、呼吸すら白く奪っていく。
背後では、ホワイトルームが燃えていた。
いや、燃えているという言葉では足りない。
白ノ峰の山腹に埋め込まれていた巨大施設が、内部から裂けていた。
爆発は一度では終わらない。
奥の区画が爆ぜる。
研究棟が膨れ上がる。
管制塔の窓が赤く光り、次の瞬間、内側から吹き飛ぶ。
炎が雪を裂き、黒煙が吹雪の中へ立ち昇る。
白い壁が崩れ、鉄骨が折れ、ガラス片が火の粉と一緒に空へ舞った。
ホワイトルーム。
白い牢獄。
人間を完成させようとした施設。
その白が、今は赤と黒に塗り潰されている。
森下藍は、吹雪の中で一瞬だけその光景を見た。
「……終わるんですね」
ツキも見ていた。
自分と海斗の故郷を奪ったかもしれない場所。
その奥にいた者たち。
その全てが、炎の中へ沈んでいく。
だが、感傷に浸る時間はなかった。
山が鳴った。
最初は低い音だった。
遠くで雷が落ちたような、腹の底を震わせる重い音。
次に、雪面が震えた。
足元の雪が細かく跳ねる。
坂柳有栖が顔を上げる。
「これは……」
綾小路清隆はすぐに斜面を見た。
吹雪の向こう。
白い闇の奥。
山肌の一部が、ゆっくりと動いていた。
いや、動いているのではない。
崩れている。
爆発によって揺さぶられた雪の層が、山腹から剥がれ落ちていた。
最初は一筋。
次に面。
して、斜面全体が白い壁となって流れ出した。
巨大な雪崩だった。
山肌を覆う雪そのものが崩れ落ち、
数十メートルはあろうかという白い津波となって谷を呑み込んでいく。
地鳴りにも似た轟音が雪山全域を震わせ、
空気そのものが唸り声を上げるように揺れていた。
樹木は根元からへし折られ、岩盤さえ巻き込みながら、
白い濁流は圧倒的な質量で斜面を駆け下りる。
舞い上がった雪煙は吹雪と混ざり合い、
天と地の境界を消し去るほどの白い嵐を生み出した。
海斗が叫ぶ。
「車まで走れ!」
誰も聞き返さなかった。
聞き返す余裕などない。
五人は吹雪の中を走った。
綾小路が先に進路を見極める。
海斗は坂柳の腕を掴み、転びそうになる身体を引っ張る。
森下はツキの背中を押す。
ツキは振り返りながらも足を止めない。
背後で、ホワイトルームの一角がさらに爆発した。
炎が雪雲の中へ突き上がる。
その衝撃が、雪崩をさらに大きくした。
白い波が山を飲み込み、木々を折り、
鉄柵を引き剥がし、施設の残骸ごと押し流しながら迫ってくる。
音が違う。
ただの雪ではない。
山そのものが崩れてくる音だった。
崩壊するホワイトルームから噴き上がる紅蓮の火柱が雪煙を赤く染め上げ、
その直後に押し寄せる白い濁流が炎さえ呑み込みながら斜面を蹂躙していく。
爆風で吹き飛ばされたコンクリート片や鋼鉄の残骸が雪崩に巻き込まれ、
巨大な砲弾のように斜面を転がり落ちた。
炎と雪が激突するたびに白煙が爆発的に膨れ上がり、
世界そのものが崩壊しているかのような光景が広がる。
山肌は悲鳴を上げるように裂け、
何百トンもの雪塊が次々と崩れ落ちてさらに雪崩を肥大化させていく。
轟音は雷鳴を何十倍にも増幅したような凄まじさで、
鼓膜だけでなく胸骨の奥まで激しく震わせた。
それはもはや雪崩ではない。
ホワイトルームという巨大な亡骸を飲み込みながら暴走する、終焉そのものだった。
海斗が車のドアを開けた。
「乗れ!」
ツキが後部座席へ飛び込む。
森下が続く。
坂柳は一瞬足を取られたが、綾小路が腕を支えた。
「大丈夫か」
「ええ。最後まで迷惑をかけますね」
「迷惑ではない」
坂柳は小さく笑った。
「そう言っていただけると、少し嬉しいです」
海斗が運転席へ飛び込む。
綾小路は助手席へ乗った。
ドアが閉まるより早く、エンジンが唸る。
黒い車が雪を跳ね上げて発進した。
背後では、白い津波が迫っている。
「道は!?」
海斗が叫ぶ。
綾小路は前を見る。
だが、見えない。
吹雪がすべてを消している。
ヘッドライトの光すら白い壁に反射し、逆に視界を奪っていた。
道路もない。
崖もない。
ガードレールもない。
ただ、白い濁流の中を走っているようだった。
「右に十度」
綾小路が言う。
海斗は即座にハンドルを切る。
「十度って言われても感覚だぞ!」
「感覚でいい」
「信用が雑だな!」
「お前ならできる」
海斗は一瞬だけ笑った。
「そう言われると悪い気はしねえな!」
車体が大きく揺れる。
タイヤが雪に取られる。
後部座席で森下が座席を掴んだ。
「朝霧海斗、運転がかなり荒いです」
ツキが即答する。
「いつもよりマシ」
「これでですか?」
「これで」
坂柳は窓の外を見ていた。
ほとんど何も見えない。
だが彼女の目は、雪の流れ、車体の揺れ、斜面の傾き、風の向きを拾っている。
「綾小路くん」
「何だ」
「このまま直進すると、おそらく左側が崩落しています」
「根拠は」
「風の音が左側だけ抜けています。地形が開けている可能性が高い」
綾小路は即座に判断した。
「海斗、右へ寄せろ」
「どれくらい!」
「車幅一台半」
「細けえ!」
「できるだろ」
「やってやるよ!」
海斗はアクセルを緩めずに車を右へ寄せた。
直後、左側の雪が崩れた。
白い斜面が裂け、下の崖へ落ちていく。
もし数秒遅ければ、車ごと飲まれていた。
森下が低く呟く。
「今のは、本当に危なかったですね」
ツキが笑おうとして失敗する。
「笑えないね」
「はい。笑えません」
背後から雪崩が迫る。
サイドミラーには何も映らない。
だが音が近い。
車の後ろで、木が折れる。
鉄柱が倒れる。
何か巨大なものが雪に飲まれ、押し潰される音がする。
轟音は絶え間なく続き、
まるで山全体が崩落しているかのように大地を震わせていた。
雪煙の奥では樹木が次々となぎ倒され、
太い幹さえ紙切れのようにへし折られていく。
爆発で吹き飛んだ施設の残骸が雪の奔流に巻き込まれ、
激しく衝突する金属音が断続的に響いた。
圧倒的な質量を持つ白い濁流は地形そのものを削り取りながら斜面を駆け下り、
進路上にある全てを押し流していく。
振動は車体越しにも伝わり続け、
その圧力だけで背後に迫る災厄の規模が理解できた。
海斗は奥歯を噛んだ。
「追いつかれるぞ!」
綾小路は地図端末を見る。
通信は途切れている。
現在位置も乱れている。
だが、施設へ来る時に覚えた地形がある。
坂柳も同じように、外の情報と車体感覚を組み合わせている。
綾小路が言う。
「200メートル先にヘアピンカーブがある」
坂柳が続ける。
「ですが通常の道を曲がると、雪崩の進路と重なります」
「ショートカットする」
海斗が顔をしかめる。
「どこを?」
綾小路は前を指す。
「正面の雪壁を抜ける」
「道じゃねえだろ!」
坂柳が静かに言う。
「ですが雪壁の向こうは旧管理道路のはずです。角度が合えば抜けられます」
森下が思わず言った。
「失敗したら?」
海斗が笑う。
「その時は派手に埋まる」
ツキが叫ぶ。
「縁起でもないこと言わないで!」
「じゃあ成功する!」
海斗はアクセルを踏み込んだ。
車が唸る。
雪壁が迫る。
白い壁。
硬いのか、柔らかいのかも分からない。
綾小路が短く言う。
「3、2、1、今」
海斗がハンドルを切り、車体の角度を変えた。
黒い車が雪壁へ突っ込む。
衝撃。
窓の外が完全な白になる。
車体が浮く。
タイヤが空転する。
全員の身体が座席へ叩きつけられる。
次の瞬間、車は雪壁を突き抜けた。
視界が開ける。
旧管理道路。
狭いが、まだ走れる。
海斗が叫んだ。
「抜けた!」
だが安心する暇はない。
背後の雪崩も進路を変え、さらに広がっていた。
白い濁流が谷を埋め、道路を食いながら追ってくる。
ホワイトルームの爆炎は、すでに遠くなりつつあった。
それでも炎は見えた。
吹雪の向こうで、赤い光が何度も瞬く。
雪山の夜明け前の闇に、白い施設の断末魔が焼き付いている。
その背後では、数十メートル級の雪煙が空へ巻き上がり、
崩れた斜面を覆い尽くしていた。
雪崩は勢いを失うどころか、周囲の雪塊を巻き込みながら肥大化し、
その幅をさらに広げていく。
地鳴りのような轟音は途切れることなく続き、
山全体が崩落しているかのような振動が大地を揺らしていた。
ツキは後部座席からその光景を見た。
「……海斗」
「何だ!」
「帰れるよね」
海斗は前を見たまま答える。
「帰る」
「本当に?」
「麗華に帰るって言った」
ツキは少しだけ目を伏せた。
「そっか」
「だから帰る」
「約束嫌いなのに?」
「嫌いだ」
海斗は笑った。
「でも、今回は例外だ」
ツキは何も言わなかった。
ただ、少しだけ泣きそうな顔をしていた。
森下はそれを見て、静かに視線を前へ戻した。
坂柳は息を整えながら、綾小路へ言う。
「綾小路くん、次の分岐は?」
「300メートル先。右は谷へ下りる。左は尾根沿い」
「谷は雪が流れ込みます。左です」
「同意見だ」
綾小路が言う。
「海斗、左」
「了解!」
車が左へ曲がる。
尾根沿いの道はさらに狭かった。
片側は山肌。
もう片側は白い谷。
ガードレールは雪で埋まり、見えない。
ハンドルを少しでも誤れば落ちる。
だが背後の雪崩はまだ追ってくる。
海斗の額に汗が滲む。
寒さではない。
集中の熱だった。
「くそ、見えねえ……!」
ホワイトアウトはさらに酷くなっていた。
風が雪を巻き上げ、車の正面へ叩きつける。
ライトは役に立たない。
白が光を返し、距離感を狂わせる。
右も左も上も下もない。
まるで白い水の中を走っているようだった。
綾小路は窓を少し開けた。
冷気が車内へ吹き込む。
森下が身を縮める。
「寒っ……」
綾小路は風音を聞いた。
坂柳も同じように目を閉じ、音を拾う。
綾小路が言う。
「左前方に壁」
坂柳が続ける。
「右は開けていますが、落差があります」
海斗が叫ぶ。
「つまりどこ走ればいいんだ!」
二人は同時に言った。
「中央よりやや左」
「中央より少し左です」
海斗が笑う。
「お前ら、息ぴったりだな!」
坂柳が微笑む。
「チェスの後ですから」
綾小路は静かに言う。
「今は盤ではなく道だ」
「似たようなものです」
坂柳は窓の外を見た。
「間違えれば終わる。ですが、正しい手はあります」
その言葉に、海斗の目が前を射抜いた。
「なら指せよ。俺が走らせる」
綾小路が指示を出す。
「3秒後、右へ軽く」
坂柳が続ける。
「その後すぐ戻してください。雪の吹き溜まりがあります」
「3、2、1」
海斗がハンドルを切る。
車が白い段差をかすめる。
戻す。
タイヤが滑る。
海斗はアクセルを抜かず、逆に軽く踏み込んだ。
車体が暴れる。
だが立て直す。
ツキが座席を掴みながら叫ぶ。
「運転、荒い!」
海斗も叫び返す。
「生きてるだけ感謝しろ!」
森下が冷静に言う。
「今のところ感謝はしています」
「今のところって何だ!」
雪崩の音が少し遠ざかった。
だが完全には消えない。
背後では、なおも白い壁が追っている。
ホワイトルームの爆発が引き起こした崩壊は、一つの斜面だけでは終わらなかった。
山のあちこちで雪が割れ、次々と流れ出している。
まるで白ノ峰そのものが、白い牢獄を地上から消そうとしているかのようだった。
一つの雪崩を振り切っても意味がなかった。
山の各所で新たな崩落が発生し、
白い濁流が幾重にも重なりながら谷を埋め尽くしていく。
轟音は四方八方から響き、どこを見ても崩壊の連鎖が続いていた。
白ノ峰全体が巨大な地響きと共に震え、雪と岩と樹木を吐き出し続ける。
それはもはや一つの雪崩ではなく、山そのものによる総崩落だった。
綾小路は背後を見る。
「この先、尾根を越えれば雪崩の進路から外れる」
海斗が言う。
「どれくらい?」
「あと一分」
「一分が長えな!」
坂柳が静かに言う。
「朝霧さんなら大丈夫です」
海斗が少し意外そうにする。
「お嬢様に褒められるとはな」
「褒めているというより、事実を述べています」
綾小路が横から言う。
「それはオレの台詞に近い」
坂柳は微笑む。
「影響を受けたのかもしれません」
森下が後ろで言う。
「綾小路清隆の影響を受ける人、多すぎませんか」
ツキが言う。
「海斗の影響も大概だよ」
「それは否定できません」
一瞬だけ、車内に人間らしい空気が戻った。
その直後、前方の雪面が崩れた。
道が消える。
海斗が叫ぶ。
「嘘だろ!」
綾小路は即座に判断する。
「止まるな」
「落ちるぞ!」
「右の斜面を使え」
坂柳がすぐに補足する。
「角度をつければ滑り降りられます。正面から落ちるより生存率が高いです」
森下が言う。
「その表現、安心できません」
海斗は歯を見せた。
「上等だ!」
車が右へ飛び出す。
道路ではない。
雪の斜面。
タイヤが沈み、車体が横滑りする。
海斗はハンドルを切り、ブレーキを細かく使い、車を滑らせながら制御する。
落ちるのではない。
滑る。
雪崩の前を、雪の上で走る。
白い斜面を黒い車が斜めに切り裂いた。
背後から迫る雪の濁流。
前方に見える尾根の切れ目。
そこへ向かって、海斗は車を押し込む。
綾小路が言う。
「左、今」
坂柳が続ける。
「そのまま維持」
海斗が叫ぶ。
「分かってる!」
車体が大きく跳ねた。
一瞬、四輪すべてが浮いた。
全員の身体が宙に浮く。
次の瞬間、車は雪面へ叩きつけられた。
衝撃。
だが止まらない。
エンジンが唸る。
タイヤが雪を噛む。
車は尾根の切れ目を越えた。
その直後。
背後を雪崩が通過した。
白い壁が、轟音と共に横を流れていく。
もし数秒遅れていれば、五人はその中に消えていた。
車は尾根の反対側へ滑り降り、ようやく平坦な道へ出た。
海斗はハンドルを握ったまま、しばらく何も言わなかった。
誰も言わなかった。
ただ、荒い呼吸だけが車内に響いていた。
やがて海斗が呟く。
「……生きてるか?」
ツキが後ろから弱々しく答える。
「たぶん」
森下が続く。
「一応」
坂柳が静かに言う。
「私も無事です」
綾小路は前を見た。
「まだ止まるな。二次雪崩の可能性がある」
海斗は笑った。
「最後まで冷静だな、お前」
「必要だからな」
「そういうとこ、嫌いじゃねえよ」
黒い車は、雪山を下り続けた。
やがて吹雪は少しずつ弱くなった。
真っ白だった世界に、少しずつ輪郭が戻る。
黒い木々。
灰色の空。
遠くの山脈。
そして、背後の白ノ峰。
そこには、もうホワイトルームの姿ははっきりとは見えなかった。
だが先ほどまでのホワイトアウトとは、明らかに質が違っていた。
世界を完全に塗り潰していた白い暴風は少しずつ勢いを失い、
フロントガラスの向こうには、雪煙に滲む黒い針葉樹の影や、
切り立った岩肌の輪郭や、遠くへ連なる尾根の線が、
まるで失われた現実が少しずつ戻ってくるように浮かび上がり始めていた。
車内に言葉はなかった。
海斗はハンドルを握ったまま前だけを見ている。
綾小路は助手席から背後の山を見ている。
後部座席では、ツキがようやく背もたれへ身体を預け、
森下が深く息を吐き、坂柳は静かに目を閉じていた。
疲労。
喪失感。
安堵。
それらが混ざり合い、誰も言葉にできない沈黙となって車内に沈んでいた。
長かった。
本当に長かった。
白銀禁止区域から続いた因縁。
雪山の奥で待っていた白い部屋。
失ったものは少なくない。
それでも、五人は生きている。
その事実だけが、今は確かだった。
海斗が、ハンドルを握ったまま小さく呟いた。
「終わったな」
その声は、いつもの軽口ではなかった。
疲れ切った人間が、ようやく息を吐くような声だった。
誰も否定しなかった。
綾小路も、すぐには返さなかった。
ただ、背後で燃える白ノ峰を見ていた。
その時だった。
山の奥から、低く、長い轟音が響いた。
最初は、崩落の残響かと思った。
ホワイトルームがさらに崩れた音。
あるいは、遠くの斜面で起きた二次雪崩。
だが違った。
音は近づいていた。
地を這うのではなく、空を裂いて近づいてくる。
海斗の目が鋭くなる。
「……何だ?」
綾小路も顔を上げた。
坂柳が目を開く。
森下が窓の外へ視線を向ける。
ツキの指が座席を掴んだ。
吹雪の向こう。
黒煙の向こう。
白と灰色に濁った空の奥から、一つの黒い影が飛び出した。
細長い機体。
鋭く伸びた主翼。
雪煙を切り裂く噴射光。
戦闘機だった。
「嘘……」
ツキの声が震えた。
戦闘機は白ノ峰の裏側から急上昇し、
燃え続けるホワイトルームの上空を大きく旋回した。
機体の腹には、白い識別番号がまだ残っている。
ホワイトルームの機体。
そして操縦しているのは、おそらく旧実験体。
施設崩壊の直前、最後に残された兵器として空へ逃がされたのだろう。
綾小路はすぐに理解した。
ホワイトルーム最後の牙。
篤臣が残した、最後の執念。
戦闘機は大きな弧を描いた後、ゆっくりと機首をこちらへ向けた。
海斗の顔から笑みが消える。
「冗談だろ」
「来る」
綾小路が短く言う。
海斗はアクセルへ足を乗せた。
「嫌な予感しかしねえ!」
その予感は、すぐに現実になった。
戦闘機の機体下部が開く。
ハッチの中から、細長い影が覗いた。
綾小路が叫ぶ。
「海斗!」
同時に、白煙が走った。
一発。
二発。
三発。
ミサイルだった。
空気を裂き、白い尾を引きながら、三本の死が一直線に車へ迫ってくる。
海斗はアクセルを床まで踏み抜いた。
エンジンが咆哮する。
車体が雪道の上で跳ね、タイヤが白い路面を噛み、
黒い車は弾かれるように加速した。
その先に、巨大な橋が見えた。
ホワイトルーム建設時に資材搬入のため造られた代物。
深い谷を跨ぐ、鋼鉄製の全長7.2キロの長大橋だった。
左右は断崖絶壁。
逃げ場はない。
引き返すこともできない。
前へ進むしかない。
「全員、掴まれ!」
海斗の声が飛ぶ。
一発目のミサイルが迫る。
近い。
速い。
避ける余地などない。
刹那、車の後方十数メートルで爆発が起きた。
鋼鉄の床が内側から吹き飛び、巨大な火柱が空を赤く染める。
爆炎が橋の上を舐め、熱風が車体を押し、衝撃が鋼鉄の床面を震わせた。
大量の雪が吹き飛び、橋の手すりが捻じ曲がり、車体が一瞬浮く。
「うわあああっ!」
ツキが悲鳴を上げた。
坂柳が座席の端を掴む。
森下の身体が前へ投げ出されかける。
海斗はハンドルを握りしめ、歯を食いしばった。
「まだだ!」
二発目が来た。
今度は橋脚付近に直撃した。
爆発と同時に、橋の下から重い金属音が響き上がる。
巨大な支柱が裂け、床面が斜めに歪み、橋の一部が谷底へ崩れ落ちた。
鉄骨が落下し、暗い谷の奥へ吸い込まれていく。
轟音が遅れて返ってきた。
車が横滑りする。
海斗は即座にハンドルを切り、滑る車体を強引に前へ向ける。
タイヤが悲鳴を上げる。
車の右側は、すでに崩れた橋の縁ぎりぎりだった。
ツキが叫ぶ。
「落ちる!」
「落ちてねえ!」
海斗が怒鳴り返す。
「まだ走ってる!」
三発目。
最後のミサイルは、橋の中央へ命中した。
瞬間、世界が赤く弾けた。
橋の中央部が爆発で持ち上がり、同時に、鋼鉄が内側から裂けるように吹き飛んだ。
凄まじい爆風が車体を横から殴り、黒い車が横滑りしながら浮き上がる。
床面が沈む。
橋桁が折れる。
車体が傾き、右側のタイヤがすでに橋の崩落した縁にかかっている。
海斗はハンドルを全力で切り、アクセルを床まで踏み抜いた。
車が咆哮を上げて前へ跳ねる。
その背後で、橋が本格的に崩れ始めた。
鉄骨が次々と折れ、コンクリートが砕け、巨大な鋼鉄の残骸が谷底へ落下していく。
轟音が連続する。
橋はもはや道ではなく、崩れ落ちる巨大な鉄の骸だった。
更に戦闘機は低空を這うように降下しながら、機銃を連射した。
曳光弾の赤い線が雪面を無数に切り裂き、車のすぐ横を掠め、
鋼鉄の橋桁に雨のように突き刺さる。
橋全体が激しく震え、手すりが次々と千切れて谷底へ落ちていく。
「くそったれ!」
海斗が叫ぶ。
だが戦闘機は、なおも上空で旋回していた。
終わらない。
まだ終わらせる気がない。
黒い機体は雪雲の中を切り裂いて再び高度を取り、
燃える白ノ峰を背に、もう一度こちらへ機首を向ける。
機体下部のハッチが再び開いた。
車内に、絶望的な沈黙が落ちた。
今度こそ打つ手がない。
車には対空兵器などない。
橋は崩壊寸前。
前方の道もいつまで保つか分からない。
綾小路でさえ、即座に選べる手を持っていなかった。
その時だった。
「……あ」
森下が、何かを思い出したように懐へ手を入れた。
全員の視線が一瞬だけ彼女へ向く。
森下が取り出したのは、小さな銀色の装置だった。
手のひらに収まるほどの大きさ。
赤いランプ。
複雑な端子。
ツキの目が見開かれる。
「それ!」
森下はいつもの真顔で言った。
「舞さんたちの洗脳を解除する時、興味深かったので回収していました」
「何で!?」
「面白そうだったので」
「理由になってない!」
海斗が叫ぶ。
「お前、そういうとこ本当に森下だな!」
「そんなに褒められると照れちゃいます」
「褒めてねえ!」
森下は続ける。
「ただし、使い方は分かりません」
「そこが一番大事だろ!」
綾小路は無言で装置を受け取った。
戦闘機は再び降下してくる。
時間はない。
数秒。
それだけ。
綾小路は装置を見た。
構造。
回路。
信号系。
制御端子。
ホワイトルーム製ならば、根本思想は分かる。
人間を管理するための道具。
脳へ干渉するための装置。
洗脳を施すなら、逆方向の信号も存在する。
解除ではなく、強制的な不整合を起こす。
綾小路は指を動かした。
赤いランプが点く。
電子音が鳴る。
海斗が横目で見る。
「使えんのか?」
綾小路は戦闘機を見上げた。
そして、静かに言った。
「イピカイエー……」
一瞬、海斗が吹き出した。
「お前、またそれ言うのかよ!」
綾小路は構わず続けた。
「最後に勝つのはオレだ」
スイッチを押した。
高周波が放たれる。
空気が震えた。
次の瞬間、戦闘機が激しく揺れた。
操縦席の旧実験体が、突然頭を抱える。
叫ぶ。
身を捩る。
洗脳が剥がれていく。
封じ込められていた記憶。
感情。
恐怖。
痛み。
命令として上書きされていた人格が崩れ、膨大な情報が一気に脳へ流れ込む。
操縦桿が乱れる。
機体が傾く。
上昇できない。
照準がずれる。
ミサイルは発射されない。
戦闘機は制御を失い、白い山肌へ向かって落ちていった。
数秒後。
巨大な火柱が吹き上がった。
山が震えた。
紅蓮の爆炎が雪面を赤く染め、燃料が誘爆し、
黒煙と火の粉が吹雪の中へ噴き上がる。
だが、終わらない。
燃料タンクが誘爆し、二次爆発、三次爆発、四次爆発。
山肌が抉れ、雪が蒸発するほどの熱量が広がり、新たな雪崩を誘発する。
炎と雪と鉄片と岩が混じり合った地獄の濁流が、谷全体を埋め尽くしていく。
橋はもはや耐えきれず、残った支柱が次々と折れ、
鋼鉄の残骸が赤く燃えながら谷底へ落下し続ける。
轟音が途切れることなく山々に反響し、
白ノ峰全体が燃え、崩れ、叫んでいるかのようだった。
爆風が押し寄せる。
熱風。
衝撃波。
炎の壁。
すでに傷ついていた橋の最後の支柱が、
その圧力に耐えきれず、低い音を立てて折れ始める。
鋼鉄の梁が赤く照らされ、無数の火花を散らしながら捻じ曲がっていく。
床面には亀裂が走り、車の後方から順にアスファルトと鉄板が谷底へ剥がれ落ちた。
吊り下げられていたケーブルが一本、
また一本と千切れ、橋全体が大きく沈み込む。
爆炎に押された雪煙が橋の上を這うように流れ、
視界の後ろ半分を赤と白で塗り潰した。
もう橋は道ではなく、崩れ落ちる直前の細い足場に過ぎなかった。
海斗の目が見開かれる。
「まずい!」
前方の橋が沈む。
後方は崩れている。
左右は谷底。
残された道は、目の前の数十メートルだけだった。
海斗はアクセルをさらに踏み込んだ。
エンジンが限界の音を上げる。
車体が震える。
背後から爆炎が迫る。
橋が落ちる。
鋼鉄が裂ける。
雪と火の粉が車体を叩く。
海斗が叫んだ。
「飛べぇぇぇぇぇぇ!!」
黒い車は、崩落する橋の端から宙へ飛び出した。
谷の上。
下には何もない。
背後には紅蓮の爆炎。
足元では鋼鉄の橋が崩れている。
一秒。
二秒。
それが永遠にも感じられた。
そして。
前輪が地面を捉えた。
凄まじい衝撃が車体を貫く。
続いて後輪。
車体が跳ねる。
サスペンションが悲鳴を上げる。
フロントが沈み、後部が浮き、全員の身体が座席へ叩きつけられる。
その背後では、橋を呑み込んだ爆炎が
巨大な火柱となって夜明け前の空へ突き上がっていた。
崩落する鋼鉄の残骸が次々と炎の中へ落下し、
無数の火花と共に谷底へ吸い込まれていく。
紅蓮の光は雪山の斜面を赤く染め上げ、
白ノ峰そのものが燃えているかのような錯覚すら生み出していた。
ホワイトルーム最後の断末魔は、
爆発と崩落の轟音となって山々に反響し続けていた。
それでも、車は止まらなかった。
海斗はハンドルを握り続け、蛇行する車体を必死に押さえ込み、
さらに数十メートル、百メートルと走らせてから、ようやくブレーキを踏んだ。
車は雪を巻き上げながら停止した。
誰も喋らなかった。
荒い呼吸だけが車内に響いている。
背後では、橋が完全に崩落していた。
鋼鉄の残骸が谷底へ落ち、爆炎がその跡を赤く照らし、
黒煙が朝を迎えようとする空へ昇っていく。
ホワイトルーム最後の牙は砕けた。
最後の執念も、谷の底へ消えた。
長い沈黙の後、海斗がハンドルに額を預けるようにして呟いた。
「……今度こそ」
ツキが小さく笑った。
森下も、疲れ切った顔で頷いた。
坂柳は静かに目を閉じ、深く息を吐いた。
綾小路は燃え落ちる橋を見つめた。
そして、穏やかな声で言った。
「ああ」
白い牢獄は消えた。
雪山に残るのは、炎と黒煙と、夜明け前の静けさだけだった。
「今度こそ、本当に終わった」
東の空が、淡く滲む。
暗い青が薄れ、雪雲の隙間から橙色の光が差し込む。
朝焼けだった。
海斗は車を止めた。
誰もすぐには降りなかった。
体が重い。
心も重い。
けれど、生きている。
その事実だけが、静かに車内へ満ちていた。
最初にドアを開けたのはツキだった。
冷たい空気が入る。
だが、先ほどまでの吹雪とは違う。
鋭いが、穏やかな朝の空気だった。
ツキは車から出て雪の上に立ち、遠くの空を見た。
森下も隣に降りる。
坂柳は綾小路に軽く支えられながら外へ出た。
海斗は車にもたれ、白い息を吐く。
「半年くらい休暇があっても罰は当たらないぜ……」
綾小路は少し離れた場所から白ノ峰を見た。
「少なくとも、ここでの戦いは終わった」
「そういう言い方するなよ。続編が始まりそうだろ」
森下が言う。
「綾小路清隆の場合、実際始まりそうなのが怖いです」
坂柳が微笑む。
「ですが、今は終わったことにしておきましょう」
ツキは森下の横に立っていた。
しばらく二人は黙って朝焼けを見ていた。
白い雪原が、少しずつ金色に染まっていく。
ホワイトルームの白とは違う。
冷たく閉じた白ではない。
朝に照らされて、次の一日へ続いていく白だった。
ツキが静かに言った。
「森下さん」
「はい」
「あなたと友達になれてよかった」
森下は少しだけ目を見開いた。
いつものように軽口を返そうとして、
返せなかった。
少し間を置いてから、森下は微笑んで彼女の両手を握る。
「私もです、ツキ」
ツキも笑った。
海斗の前では見せる、少し毒のある笑みではない。
安心したような、柔らかい笑顔だった。
「綾小路様を、これからも支えてあげて」
森下は綾小路を見る。
綾小路は聞こえていないふりをしている。
森下は小さく笑った。
「そうですね。観察対象としては、まだまだ興味が尽きませんので」
ツキが眉を寄せる。
「支えるってそういう意味じゃないんだけど」
「分かっています」
森下は今度こそ真面目に言った。
「できる範囲で、そうします」
ツキは頷いた。
森下もツキを見る。
「そちらも、朝霧海斗を離しちゃだめですよ」
ツキは一瞬固まった。
そして、顔を少し赤くした。
「べ、別にそういうのじゃ……」
「そういうのとは言っていません」
「森下さん、そういうところ綾小路様に似てきてる」
「光栄です」
「褒めてないです」
少し離れた場所で、海斗がくしゃみをした。
「誰かオレの悪口言ったか?」
ツキが即答する。
「言ってない」
「今の間は言ってたな」
「言ってない」
「絶対言ってた」
森下が横から言う。
「朝霧海斗、意外と勘が鋭いですね」
「意外とって何だ、意外とって」
坂柳はそのやり取りを見て、楽しそうに笑った。
「本当に、騒がしい方々ですね」
綾小路は静かに言う。
「悪くない」
坂柳は彼を見る。
「ええ。悪くありません」
朝日が少しずつ昇る。
白い山の端が金色に染まる。
遠くで、ホワイトルームだったものが静かに煙を上げている。
綾小路清隆はその光景を見た。
篤臣、志朗、龍園、相馬、舞、雅樹。
白い部屋、敗北、勝利、自由、未来。
全てが一つの場所へ収束し、そして崩れていった。
だが、何かが完全に消えたわけではない。
過去は消えない。
ホワイトルームで育った事実も。
そこで作られた自分も。
そこで失われたものも。
けれど、それだけが全てではない。
坂柳が言った未来。
志朗が求めた自由。
龍園が最後に選んだ道。
海斗が見せた外の強さ。
森下の観察。
ツキの言葉。
それらは、ホワイトルームでは生まれなかったものだ。
綾小路は朝焼けを見つめたまま、静かに息を吐いた。
海斗が隣へ来る。
「なあ、綾小路」
「何だ」
「今度は常夏の海か?」
綾小路は少しだけ考える。
「さて、どうなることやら」
海斗は笑った。
「水着でバカンスといきたいね」
ツキがすぐに言う。
「海斗が言うと、ただの現実逃避に聞こえる」
「いいだろ現実逃避。雪山よりマシだ」
森下が頷く。
「私も賛成です。次は遭難しない旅行がいいですね」
坂柳が微笑む。
「その場合でも、皆さんと一緒なら何か起こりそうです」
海斗が肩をすくめる。
「じゃあ綾小路のせいだな」
綾小路は答える。
「お前のせいでもある」
「オレは平和主義者だ」
ツキが即答する。
「嘘」
森下も続ける。
「嘘ですね」
坂柳も穏やかに言う。
「説得力はありませんね」
海斗は空を仰いだ。
「全員敵かよ」
その声に、五人の間に小さな笑いが生まれた。
大きな笑いではない。
疲れ切った体で、それでもようやく出せた笑いだった。
朝日が昇る。
雪原が輝く。
背後の白ノ峰は、もうただの山になろうとしていた。
白い牢獄は崩れた。
白い部屋は終わった。
そして、それぞれの場所へ帰る時間が来る。
綾小路清隆は、高度育成高等学校へ。
森下藍もまた、彼のいる日常へ。
朝霧海斗とツキは、二階堂邸へ。
坂柳有栖は、自分の足で歩く未来へ。
全員が同じ場所へ行くわけではない。
同じ道を歩き続けるわけでもない。
だが、一度交わった道は消えない。
吹雪の中で繋いだものは、朝焼けの中でも残っている。
海斗が車のドアを開けた。
「帰るぞ」
ツキが頷く。
「うん」
森下が綾小路を見る。
「綾小路清隆」
「何だ」
「帰ったら、少し休みましょう」
「そうだな」
「本当に休めますか?」
「努力する」
「信用できませんね」
坂柳が笑う。
「では、私も証人になります」
海斗が運転席から言う。
「おい、早く乗れ。寒い」
ツキが呆れる。
「さっき常夏の海とか言ってたのに」
「だから寒いんだよ」
「はいはい」
五人は車へ乗り込んだ。
エンジンがかかる。
黒い車が、朝焼けの雪道をゆっくりと走り出す。
背後に、白ノ峰が遠ざかる。
崩壊したホワイトルームも、黒煙も、炎も、やがて小さくなっていく。
だが、そこにあったものを忘れることはない。
忘れなくていい。
過去は消えない。
けれど、未来はある。
坂柳有栖がチェス盤の前で言った言葉。
それが、今になって綾小路清隆の中で静かに形を変えていた。
負けても、失っても、終わっても。
それでも次がある。
次を選べる。
その自由こそ、ホワイトルームが最後まで理解できなかったものだった。
朝日が、車のフロントガラスを照らす。
白い世界が、金色に変わっていく。
ホワイトアウトの夜は終わった。
ザ・ホワイトアウト・マスターピース。
そのドラマは、白い朝の中で静かに幕を下ろした。
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