ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第61話 未来へ歩く者たち

白ノ峰の事件から数か月後。

 

世間を騒がせた一連の事件は、

表向きには大規模なテロ事件として処理された。

 

だが、その裏側を知る者は少ない。

 

ホワイトルーム。

 

綾小路篤臣。

 

そして白い箱の中で生み出され、傷つき、戦った者たち。

 

その全ては、極秘事項として封印された。

 

新聞にも載らない。

 

ニュースにも流れない。

 

世間は何も知らないまま、今日も平和に回っている。

 

それでいいのだろう。

 

綾小路清隆はそう思った。

 

知らなくていいこともある。

 

知らないまま守られる平穏もある。

 

その平穏を守るために、多くのものが失われた。

 

だからこそ。

 

その平穏は大切にしなければならない。

 

そんなある日だった。

 

綾小路は警察施設の面会室にいた。

 

ガラス越しではない。

 

拘束具もない。

 

普通の応接室だった。

 

だが、そこにいる人物は普通ではない。

 

坂柳有栖。

 

彼女は静かに椅子へ座っていた。

 

以前と変わらない。

 

小柄な身体。

 

穏やかな笑顔。

 

だが、一つだけ違うことがあった。

 

杖がない。

 

坂柳は自分の足でここまで歩いてきた。

 

それが何より大きな変化だった。

 

「久しぶりですね」

 

坂柳が微笑む。

 

綾小路は頷いた。

 

「ああ」

 

しばらく沈黙が続く。

 

気まずさはない。

 

ただ、お互いに何を話すべきか整理していた。

 

先に口を開いたのは坂柳だった。

 

「驚きましたか?」

 

「何にだ」

 

「私が出頭したことです」

 

綾小路は少し考えた。

 

そして首を横に振った。

 

「いや」

 

坂柳は小さく笑った。

 

「そうですか」

 

彼女は窓の外を見る。

 

青空だった。

 

高い空。

 

自由な空。

 

「幸村くんと神崎くんを殺したのは私です」

 

静かな声だった。

 

言い訳はない。

 

誤魔化しもない。

 

「色々な事情はありました。ホワイトルームもありました。篤臣さんもいました」

 

坂柳は続ける。

 

「ですが、それでも私がやったことです」

 

綾小路は黙って聞いていた。

 

「だから認めました」

 

坂柳は微笑んだ。

 

「逃げたくなかったんです」

 

以前の坂柳ならどうだっただろう。

 

分からない。

 

だが今の坂柳は違う。

 

勝敗だけを見ていた少女ではない。

 

誰かと未来を語れる人間になっていた。

 

「罪は消えません」

 

坂柳は言う。

 

「ですが、それで人生まで終わらせたくありませんでした」

 

綾小路は静かに言った。

 

「未来があるからか」

 

坂柳の目が少しだけ揺れた。

 

そして笑った。

 

「覚えていたんですね」

 

「印象的だった」

 

「光栄です」

 

坂柳は嬉しそうだった。

 

本当に。

 

心から。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「私は負けました」

 

チェス。

 

雪山。

 

人生。

 

色々な意味を込めた言葉だった。

 

「でも」

 

坂柳は続ける。

 

「だからこそ未来があります」

 

綾小路は少しだけ目を細めた。

 

ホワイトルームでは教わらなかった考え方。

 

負けた者にも未来がある。

 

失敗した者にも未来がある。

 

罪を背負った者にも未来がある。

 

それは白い箱には存在しなかった価値観だった。

 

「そうか」

 

「ええ」

 

坂柳は頷く。

 

「だから私は歩きます」

 

そう言って立ち上がった。

 

綾小路は思わずその足元を見た。

 

本当に杖がない。

 

かつて自分では歩けなかった少女。

 

それが今は自分の足で立っている。

 

坂柳はそんな視線に気付き、小さく笑った。

 

「見過ぎですよ」

 

「確認だ」

 

「そうですか」

 

「本当に歩けるんだな」

 

坂柳は少しだけ胸を張った。

 

「努力しましたから」

 

その顔は少し誇らしげだった。

 

綾小路は珍しく素直に言った。

 

「すごいな」

 

坂柳は目を丸くした。

 

数秒固まる。

 

やがて吹き出した。

 

「今のは録音しておけばよかったですね」

 

「やめろ」

 

「ふふ」

 

面会時間終了のアナウンスが流れる。

 

坂柳はドアへ向かった。

 

そこで足を止める。

 

振り返る。

 

綾小路を見る。

 

最後の言葉を伝えるように。

 

「綾小路くん」

 

「ああ」

 

坂柳は微笑んだ。

 

柔らかく。

 

穏やかに。

 

未来を見る人間の顔で。

 

「また私とチェスをしてください」

 

綾小路は答える。

 

「難しいな」

 

坂柳は笑う。

 

「またそれですか」

 

「その時になったら考える」

 

「では、その時まで楽しみにしています」

 

坂柳は踵を返した。

 

歩く。

 

自分の足で。

 

誰にも支えられず。

 

誰にも頼らず。

 

未来へ向かって。

 

ドアが閉まる。

 

綾小路はしばらくその扉を見ていた。

 

思えば。

 

龍園。

 

相馬。

 

舞。

 

志朗。

 

雅樹。

 

そして坂柳。

 

多くの人間が、自分の人生を変えた。

 

ホワイトルームだけではない。

 

学校だけでもない。

 

全てが重なって今がある。

 

綾小路は静かに立ち上がった。

 

窓の外には青空が広がっている。

 

白い雪はない。

 

白い部屋もない。

 

あるのは、続いていく日常だけだった。

 

 

春だった。

 

高度育成高等学校の校門前には、桜が咲いていた。

 

風が吹くたびに、淡い花びらが空へ舞い、

制服姿の生徒たちの肩や髪に静かに落ちていく。

 

三年間。

 

長かった。

 

そう思う一方で、振り返れば一瞬だったようにも感じる。

 

入学した日。

 

Dクラスと告げられた教室。

 

堀北鈴音との出会い。

 

櫛田桔梗。

 

須藤健。

 

平田洋介。

 

軽井沢恵。

 

そして、数え切れないほどの特別試験。

 

勝利。

 

敗北。

 

退学。

 

裏切り。

 

友情。

 

争い。

 

普通の高校生活と呼ぶには、あまりにも歪だった。

 

だが、それでも。

 

確かに、ここは高校だった。

 

綾小路清隆は、卒業式の会場に立っていた。

 

体育館には卒業生が並び、教師たちが壇上の横に控えている。

 

茶柱佐枝は、いつものように背筋を伸ばして立っていた。

 

だが、その表情は少し違った。

 

厳しさだけではない。

 

どこか、安堵に似たものがあった。

 

星之宮知恵は普段通りに見えて、目元が少し赤い。

 

坂上数馬は腕を組み、真嶋智也は静かに卒業生たちを見渡している。

 

それぞれの教師が、それぞれの形で生徒たちを見送っていた。

 

名前を呼ばれる。

 

綾小路清隆。

 

壇上へ上がる。

 

卒業証書を受け取る。

 

紙一枚。

 

それだけのものだ。

 

だが、その一枚に三年間の重みがあった。

 

ホワイトルームには、卒業という概念はなかった。

 

終わりは与えられない。

 

次の課題。

 

次の評価。

 

次の訓練。

 

失敗すれば切り捨てられ、成功すればさらに高い負荷を与えられる。

 

終わりのない白い部屋。

 

そこでは、節目など意味を持たなかった。

 

だが今、綾小路は卒業証書を手にしている。

 

この学校で過ごした三年間に、一区切りがついたのだ。

 

壇上から降りる時、茶柱と目が合った。

 

一瞬だけ。

 

本当に一瞬だけだった。

 

茶柱は何も言わない。

 

だが、その目は言っていた。

 

よく卒業した、と。

 

綾小路は小さく頷いた。

 

卒業式が終わる。

 

体育館の外へ出ると、春の空気が流れ込んできた。

 

冷たさはもうない。

 

白ノ峰の雪山とは違う。

 

痛みを伴う風ではなく、次の季節を運ぶ風だった。

 

校舎前では、生徒たちが写真を撮り合っている。

 

泣いている者もいれば、笑っている者もいる。

 

連絡先を交換する者。

 

教師に挨拶する者。

 

教室へ戻る者。

 

それぞれが、それぞれの終わり方をしていた。

 

堀北鈴音は、校舎を見上げていた。

 

「終わったわね」

 

綾小路は隣に立つ。

 

「ああ」

 

「不思議ね。あれだけ早く終わってほしいと思った時期もあったのに、

いざ終わると実感がないわ」

 

「そのうち湧くだろう」

 

「あなたは最後までそういう言い方なのね」

 

堀北は苦笑する。

 

だが、その表情は穏やかだった。

 

一年生の頃の堀北なら、こんな顔はしなかっただろう。

 

彼女は変わった。

 

孤独に前へ進もうとしていた少女は、

多くの人間と関わり、ぶつかり、認め、支えられることを知った。

 

そして今、自分の足で卒業の日に立っている。

 

「綾小路くん」

 

「何だ」

 

「あなたには、何度も助けられたわ」

 

堀北は前を見たまま言う。

 

「認めたくなかった時期もあるけれど、事実だから言っておく」

 

「そうか」

 

「ええ」

 

少し沈黙。

 

桜の花びらが二人の間を横切った。

 

堀北は小さく息を吐く。

 

「でも、私はあなたに頼りきりだったわけではない」

 

「分かっている」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「ならいいわ」

 

堀北は少しだけ笑った。

 

その時、背後から声がした。

 

「綾小路清隆」

 

振り返ると、森下藍がカメラを構えていた。

 

「何をしている」

 

「卒業記念です」

 

「必要か?」

 

「必要です」

 

森下は即答した。

 

「綾小路清隆の卒業直後の表情は、かなり貴重な観察資料になります」

 

「嫌な記録のされ方だな」

 

「褒め言葉です」

 

「違うだろ」

 

森下はまったく悪びれない。

 

カメラを構えたまま、堀北へ視線を向ける。

 

「堀北鈴音も一緒にどうですか?」

 

「私も?」

 

「はい。卒業後に見返した時、

綾小路清隆がどれだけ表情を変えないか比較できます」

 

「それは写真を撮る理由としてどうなの?」

 

堀北は呆れながらも、断らなかった。

 

森下は満足そうに二人を並ばせる。

 

「もう少し近づいてください」

 

「この距離で十分だろう」

 

「足りません」

 

「何にだ」

 

「絵面です」

 

堀北が小さく笑う。

 

「従った方が早いわよ」

 

綾小路は少しだけ堀北の方へ寄った。

 

森下がシャッターを押す。

 

一枚。

 

また一枚。

 

春の光の中で、時間が切り取られる。

 

それは何気ない一瞬だった。

 

だが、ホワイトルームでは絶対に存在しなかった一瞬でもあった。

 

その後、教室へ戻った。

 

机。

 

椅子。

 

黒板。

 

窓。

 

何も変わっていない。

 

だが、今日を最後にここへ通うことはなくなる。

 

終わる。

 

確かに終わる。

 

だが、それは失うことではない。

 

次へ進むことだ。

 

放課後。

 

校門前。

 

綾小路、堀北、森下の三人は並んで歩いていた。

 

森下が言う。

 

「この後、本当に二階堂邸へ行くんですね」

 

「ああ」

 

堀北が少し緊張した顔をする。

 

「二階堂家って、かなり大きな家なのよね?」

 

「かなり、という言葉では足りないかもしれない」

 

「そんなに?」

 

「見れば分かる」

 

森下は興味深そうだった。

 

「朝霧海斗の生活環境も観察できますね」

 

「観察するな」

 

「無理です」

 

「即答か」

 

「はい」

 

堀北は二人のやり取りを見て、少し呆れたように笑った。

 

「あなたたち、いつの間にそんなに自然に話すようになったの?」

 

森下が首を傾げる。

 

「そう見えますか?」

 

「ええ」

 

「なるほど。綾小路清隆との会話慣れが進行しているようです」

 

「病気みたいに言うな」

 

森下は楽しそうだった。

 

校門を抜ける。

 

三年間を過ごした場所が、背後へ遠ざかる。

 

綾小路は一度だけ振り返った。

 

高度育成高等学校。

 

多くのものを得た場所。

 

多くのものを失った場所。

 

そして、ホワイトルームの外にある世界を知った場所。

 

堀北が言った。

 

「寂しい?」

 

「少しはな」

 

森下が驚いたように目を見開く。

 

「今のは記録しておくべき発言ですね」

 

「やめろ」

 

堀北は笑った。

 

綾小路も、否定しなかった。

 

 

数日後。

 

二階堂邸。

 

巨大な門が開いた。

 

長い私道。

 

整えられた庭木。

 

噴水。

 

石畳。

 

奥に見える洋館。

 

堀北鈴音は、その光景を見てしばらく黙っていた。

 

「……本当に個人宅なの?」

 

森下も頷く。

 

「同感です。これはもう小規模な観光地では?」

 

綾小路は答える。

 

「オレも最初はそう思った」

 

門の先では、海斗が待っていた。

 

Tシャツに短パン。

 

片手には缶ジュース。

 

完全に休日の姿だった。

 

「よう」

 

海斗が軽く手を上げる。

 

「卒業おめでとう」

 

綾小路は言う。

 

「お前もな」

 

「やっと終わったな」

 

「ああ」

 

海斗は笑った。

 

心からの笑顔だった。

 

雪山で見た、戦場の笑みとは違う。

 

命を削る時の笑みではない。

 

ただ、日常を楽しむ人間の笑顔だった。

 

玄関の方から麗華が現れる。

 

白いワンピース姿。

 

上品で、涼しげで、相変わらず隙がない。

 

だが、その表情は以前より柔らかかった。

 

「いらっしゃい。皆さん、よく来てくれたわね」

 

堀北が丁寧に頭を下げる。

 

「お招きいただきありがとうございます」

 

森下も続く。

 

「本日はよろしくお願いします」

 

海斗が小さく呟く。

 

「お前ら真面目だな」

 

次の瞬間、メイド姿のツキが横から現れて海斗の脇腹を肘でつついた。

 

「海斗も少しは真面目にしてください」

 

「痛ぇな」

 

「痛くしてます」

 

「性格悪いぞ」

 

「海斗ほどではありません」

 

麗華はそのやり取りを見て笑った。

 

「相変わらずね、二人とも」

 

ツキは少し頬を赤くする。

 

「相変わらずではありません」

 

海斗も言う。

 

「仲良さそうに言うな」

 

二人の声はまた重なった。

 

森下が即座に反応する。

 

「息が合っていますね」

 

「合ってません」

 

「合ってねぇ」

 

また重なる。

 

堀北が小さく笑った。

 

「なるほど。こういう関係なのね」

 

ツキが慌てる。

 

「違います」

 

海斗も言う。

 

「違う」

 

麗華は楽しそうに微笑んだ。

 

「否定が早いほど怪しいわ」

 

森下が頷く。

 

「同感です」

 

ツキが森下を見る。

 

「森下さんまで」

 

「観察結果です」

 

綾小路はその光景を見ていた。

 

二階堂邸。

 

海斗。

 

ツキ。

 

麗華。

 

森下。

 

堀北。

 

それぞれ、本来なら交わらないはずだった人間たち。

 

だが今、同じ場所にいる。

 

戦場ではない。

 

雪山でもない。

 

白い牢獄でもない。

 

日差しの下の屋敷で、笑い合っている。

 

海斗が綾小路の横に並ぶ。

 

「何見てんだ」

 

「別に」

 

「変な顔してたぞ」

 

「していない」

 

「してた」

 

「気のせいだ」

 

海斗は少し笑った。

 

「まあ、いいけどな」

 

そして屋敷の奥を指差す。

 

「プール、準備できてるぞ」

 

堀北が少し驚く。

 

「本当に入るの?」

 

麗華が微笑む。

 

「もちろん。今日はそのために呼んだのだから」

 

森下は静かに言った。

 

「雪山の次がプール。対比としては非常に分かりやすいですね」

 

海斗が笑う。

 

「だろ?今度は常夏の海、とはいかなかったけどな」

 

綾小路は答える。

 

「プールでも十分だろう」

 

「お前、ちょっと楽しみにしてるだろ」

 

「否定はしない」

 

海斗が目を丸くした。

 

「マジか」

 

森下が即座に言う。

 

「今の発言も記録対象ですね」

 

「記録するな」

 

麗華が笑い、ツキが呆れ、堀北が少しだけ安心したように息を吐いた。

 

こうして、彼らは屋敷の奥へ進んでいく。

 

二階堂邸の奥には、広大な屋外プールがあった。

 

ただ泳ぐためだけの場所ではない。

 

白い石材で整えられたプールサイド。

 

水面へ反射する春の陽光。

 

周囲に並ぶデッキチェア。

 

日除けのパラソル。

 

奥には小さなバーカウンターのような休憩スペースまである。

 

風が吹くたびに、庭園の木々が揺れ、水面に細かな波が立った。

 

青い。

 

ただ、青かった。

 

ただ、空と水が混ざったような穏やかな青。

 

それだけで、綾小路清隆は奇妙な感覚を覚えていた。

 

あの雪山から生還した時、海斗は言った。

 

今度は常夏の海か、と。

 

あの時は冗談に聞こえた。

 

だが今、実際にプールサイドへ立っている。

 

ホワイトルームを抜け、雪崩を越え、卒業式を終えた後で。

 

人は本当に、こういう場所へ辿り着くことができるのだと、少しだけ不思議に思った。

 

「綾小路清隆」

 

横から森下の声がした。

 

「何だ」

 

「今、感慨深そうな顔をしていました」

 

「していない」

 

「していました」

 

「気のせいだ」

 

「では、そういうことにしておきます」

 

森下はそう言いながら、明らかに納得していない顔をしていた。

 

プールサイドの更衣室から、堀北鈴音が出てきた。

 

黒を基調にしたビキニの水着に、薄い羽織りをかけている。

 

意外と派手。

 

だが、堀北らしい清潔感があった。

 

本人は少し居心地が悪そうにしている。

 

「……何かしら」

 

森下がじっと見ていた。

 

「いえ。堀北鈴音は水着でも堀北鈴音ですね」

 

「どういう意味?」

 

「真面目です」

 

「褒めているの?」

 

「もちろんです」

 

堀北は少し眉を寄せた。

 

「あなたの褒め言葉は、なぜか毎回疑わしいわ」

 

「よく言われます」

 

続いて麗華が現れた。

 

白い水着に、薄い水色のパレオ。

 

普段の上品さはそのままに、どこか避暑地の令嬢のような雰囲気がある。

 

堀北は思わず視線を向けた。

 

「……似合っているわね」

 

麗華は微笑む。

 

「ありがとう。鈴音も似合っているわ」

 

「私は普通よ」

 

「その普通を綺麗に着られる人は、意外と少ないものよ」

 

堀北は少し照れたように視線を逸らした。

 

その反応を見て、麗華は小さく笑う。

 

「あなた、思っていたより可愛いところがあるのね」

 

「からかわないで」

 

「本心よ」

 

「それが一番困るのだけれど」

 

二人の会話は、最初こそぎこちなかった。

 

堀北は高育でクラスを率いてきた少女。

 

麗華は二階堂家の令嬢として人を動かす側に立ってきた少女。

 

立場も、育ちも、価値観も違う。

 

だが、互いに芯が強い。

 

相手を必要以上に甘やかさない。

 

正面から物を見る。

 

その部分が似ているのか、会話は思いのほか自然だった。

 

少し離れた場所では、水着に着替えたツキが浮き輪を抱えて立っていた。

 

淡い色の水着に、薄手の上着。

 

髪はいつもより少しだけ高い位置で結ばれている。

 

普段の礼儀正しい雰囲気とは違い、年相応の少女らしさがあった。

 

森下はその姿をじっと見ている。

 

「何」

 

ツキが警戒する。

 

「いえ」

 

「絶対何か考えてるよね」

 

「考えてません」

 

「正直すぎない?」

 

「嘘をついてもツキにはバレそうなので」

 

「それ、綾小路様みたいなこと言ってる」

 

「影響を受けたのでしょう」

 

「影響を受ける相手、選んだ方がいい」

 

「朝霧海斗の影響を受けているツキに言われると説得力がありますね」

 

ツキは言葉に詰まった。

 

「……それは否定しづらい」

 

森下は微笑んだ。

 

「ツキは以前よりよく笑うようになりました」

 

ツキは一瞬、返事をしなかった。

 

プールの水面を見る。

 

揺れる青。

 

そこに映る自分の顔。

 

白ノ峰へ向かった時の自分とは、少し違う顔をしているような気がした。

 

「そうかな」

 

「そうです」

 

森下は頷いた。

 

「雪山の時より、ずっと自然です」

 

「雪山で自然に笑ってたら、それはそれで怖いと思うけど」

 

「それもそうですね」

 

少しだけ沈黙が落ちる。

 

周囲では海斗が先にプールへ飛び込み、盛大な水しぶきを上げていた。

 

「生き返る!」

 

ツキが呆れる。

 

「大げさです」

 

「雪山の後だぞ?プールの水なんて天国だろ」

 

「もう何か月も経ってます」

 

「心の傷は長引くんだよ」

 

「海斗にそんな繊細さが?」

 

「あるわ」

 

「見たことないです」

 

「見せてねえだけだ」

 

ツキはため息をついた。

 

だが、その表情は柔らかかった。

 

森下はそんなツキの横顔を見ていた。

 

そして静かに言う。

 

「ツキ」

 

「はい?」

 

「雪山では、ありがとうございました」

 

ツキは目を瞬かせた。

 

「それ、こっちの台詞」

 

「そうですか?」

 

「そう」

 

ツキは浮き輪を抱え直した。

 

「森下さんがいなかったら、私、多分もっと怖かったと思う」

 

森下は少しだけ目を伏せる。

 

「私は戦えませんでした」

 

「でも、見てくれていた」

 

ツキは言う。

 

「綾小路様たちも、海斗も、私も。

状況をちゃんと見て、考えて、言葉にしてくれた」

 

「それくらいしかできませんから」

 

「それができる人って、結構少ない」

 

森下は黙った。

 

ツキは少し照れくさそうに笑う。

 

「だから、ありがとう」

 

森下も小さく笑った。

 

「私も、あなたがいてくれて助かりました」

 

「私が?」

 

「はい」

 

森下はツキを見る。

 

「怖い時に、同じ場所で怖がってくれる人がいるのは、意外と心強いものです」

 

ツキは一瞬固まった。

 

それから、少しだけ視線を逸らす。

 

「森下さんって、たまにすごく素直だね」

 

「普段も素直です」

 

「それは違うと思う」

 

「失礼ですね」

 

二人は笑った。

 

雪山の吹雪の中で交わした言葉。

 

朝焼けの中で交わした友情。

 

その続きが、今ここにある。

 

争いのない場所で。

 

命を賭けなくてもいい場所で。

 

森下とツキは、ただ友達として並んでいた。

 

一方、プールサイドの椅子では、綾小路と海斗が並んで座っていた。

 

海斗は濡れた髪をタオルで拭きながら、缶ジュースを飲んでいる。

 

綾小路は水面を眺めていた。

 

二人の間に、しばらく会話はなかった。

 

沈黙は気まずくない。

 

雪山で背中を預けた時と同じように、言葉がなくても成立する空気があった。

 

海斗が先に口を開く。

 

「平和だな」

 

「ああ」

 

「銃声なし」

 

「ああ」

 

「爆発なし」

 

「ああ」

 

「雪崩なし」

 

「ああ」

 

「最高じゃねえか」

 

「そうだな」

 

海斗は少し笑った。

 

「お前がそういうこと言うと、なんか変な感じするな」

 

「そうか」

 

「前のお前なら、平和を最高とは言わなかっただろ」

 

「言っていない」

 

「似たようなもんだ」

 

海斗は缶を傾ける。

 

氷が音を立てる。

 

「でもさ」

 

「何だ」

 

「こういうのも悪くねえな」

 

綾小路は水面を見る。

 

青い空。

 

陽光。

 

水の音。

 

堀北と麗華の会話。

 

森下とツキの笑い声。

 

海斗の隣にある、戦場ではない時間。

 

ホワイトルームでは、こういう時間に価値はなかった。

 

訓練でもない。

 

成績にもならない。

 

効率もない。

 

ただ過ぎていく時間。

 

だが今は、その無意味に見える時間が、奇妙なほど大切に思えた。

 

「そうだな」

 

綾小路は答えた。

 

海斗が驚いたように顔を向ける。

 

「素直だな」

 

「気分だ」

 

「珍しい日もあるもんだ」

 

海斗は笑う。

 

その笑い声は、雪山の戦場で聞いたものとは違っていた。

 

挑発でもない。

 

覚悟でもない。

 

ただの笑い声だった。

 

少し離れたところで、堀北と麗華がこちらを見ていた。

 

堀北はふと呟く。

 

「不思議ね」

 

麗華が隣で聞く。

 

「何が?」

 

「綾小路くんが、あんなふうに

誰かと並んでいるのを見る日が来るなんて、昔は想像できなかったわ」

 

麗華は海斗と綾小路を見る。

 

「海斗も同じよ」

 

「そうなの?」

 

「ええ。あの人は、誰かの隣にいるようで、ずっと一人で前に出てしまう人だったから」

 

堀北は少しだけ納得した。

 

「似ているのね」

 

「似ていないようで、似ているわ」

 

麗華は微笑む。

 

「だからこそ、互いに気になるのでしょうね」

 

堀北は考える。

 

綾小路清隆。

 

朝霧海斗。

 

ホワイトルームの最高傑作と、外の世界で生き抜いてきた男。

 

似ている。

 

違う。

 

近い。

 

遠い。

 

一言では言い切れない関係だった。

 

その時、堀北の中に一つの疑問が浮かんだ。

 

ずっと聞けなかった疑問。

 

あるいは、聞いてはいけないような気がしていた疑問。

 

だが今なら聞ける。

 

ここは戦場ではない。

 

命を懸ける場所ではない。

 

だからこそ。

 

堀北は麗華を見る。

 

麗華も同じことを考えていたのか、少しだけ口元を上げた。

 

二人はプールサイドの椅子へ歩いていく。

 

綾小路と海斗が同時に視線を向けた。

 

「ねえ」

 

堀北が言う。

 

「前から気になっていたのだけれど」

 

海斗の目が細くなる。

 

「嫌な予感がする」

 

綾小路も言う。

 

「同感だ」

 

麗華が楽しそうに続ける。

 

「結局」

 

堀北と麗華が、ほとんど同時に言った。

 

「あなたたち、どちらの方が強いの?」

 

沈黙。

 

水面の音だけが聞こえる。

 

森下が反応した。

 

「実に興味深いですね」

 

ツキも浮き輪を抱えたまま近づいてくる。

 

「それは気になる」

 

海斗が頭を掻く。

 

「お前ら、平和になった途端に面倒なこと聞くな」

 

堀北は腕を組む。

 

「平和になったから聞けるのよ」

 

麗華も頷く。

 

「以前はそんな余裕なかったもの」

 

森下は真顔で言う。

 

「綾小路清隆と朝霧海斗。ホワイトルームの最高傑作と、外の世界の異物。

両者の純粋な戦闘能力比較は、研究対象として非常に価値があります」

 

「研究するな」

 

綾小路が言う。

 

ツキは海斗を見る。

 

「でも海斗、気にならないの?」

 

「まあ」

 

海斗は綾小路を見る。

 

「気にならないと言えば嘘になるな」

 

綾小路も海斗を見る。

 

「同感だ」

 

堀北が少し呆れる。

 

「やっぱり気になっていたのね」

 

海斗が笑う。

 

「男ってのはそういうもんだ」

 

ツキが即座に言う。

 

「主語を大きくしないで」

 

「じゃあオレはそういうもんだ」

 

「それなら納得」

 

海斗は立ち上がる。

 

綾小路も静かに立つ。

 

二人の目が合う。

 

そして、同時に言った。

 

「オレだ」

 

「オレだろ」

 

一瞬の沈黙。

 

海斗が眉を上げる。

 

「いや、オレだろ」

 

綾小路は平然と返す。

 

「オレだ」

 

「何で即答なんだよ」

 

「事実だからだ」

 

「それはこっちの台詞だ」

 

「判断が甘いな」

 

「お前に言われたくねえ」

 

堀北が額に手を当てる。

 

「子供なの?」

 

麗華は口元を押さえて笑っている。

 

森下は真剣に頷く。

 

「これは貴重な現象です」

 

「何がだ」

 

綾小路が聞く。

 

森下は即答する。

 

「綾小路清隆がここまで明確に自己主張するのは珍しいです」

 

ツキも頷く。

 

「海斗が対抗すると、綾小路様も負けず嫌いになるんだ」

 

「なっていない」

 

「なってます」

 

海斗が笑う。

 

「ほらな。お前も結構負けず嫌いなんだよ」

 

「お前ほどではない」

 

「言ったな?」

 

「言った」

 

二人の間に、静かな熱が生まれていた。

 

それは危険な熱ではない。

 

敵意ではない。

 

殺気でもない。

 

だが、確かな闘志だった。

 

その時。

 

プールサイドの奥から、低い笑い声が聞こえた。

 

全員が振り返る。

 

宮川尊徳が立っていた。

 

腕を組み、どこか面白そうに二人を見ている。

 

「それなら簡単だ」

 

海斗が顔を向ける。

 

「何がだよ」

 

尊徳は笑った。

 

「海斗の訓練も兼ねて、二人で手合わせしてみるか?」

 

空気が変わった。

 

一瞬で。

 

堀北が目を見開く。

 

麗華は楽しそうに目を細める。

 

森下は明らかに興味を示す。

 

ツキは半分呆れ、半分諦めたような顔をする。

 

「やっぱりこうなるんだ……」

 

海斗は首を回した。

 

軽い音が鳴る。

 

「面白い」

 

綾小路も一歩前へ出る。

 

「いいだろう」

 

堀北が慌てて言う。

 

「本当にやるの?」

 

「やる」

 

「やる」

 

声が重なる。

 

麗華が笑った。

 

「息が合っているわね」

 

ツキがため息をつく。

 

「こういう時だけね」

 

森下はプールサイドの椅子へ座り直した。

 

「観戦位置を確保します」

 

「止める気ないの?」

 

堀北が聞く。

 

森下は真顔で答える。

 

「ありません」

 

「即答なのね」

 

「むしろ止める理由がありません」

 

麗華も頷く。

 

「私も見てみたいわ」

 

堀北は呆れながらも、結局引き下がった。

 

彼女も本当は気になっている。

 

綾小路清隆と朝霧海斗。

 

二人が本気でぶつかった時、どちらが上なのか。

 

その答えは、ずっと曖昧だった。

 

白銀禁止区域や雪山では共闘した。

 

ピンチの時に背中を預けた。

 

だが、純粋に向かい合ったわけではない。

 

尊徳が軽く手を叩く。

 

「場所は庭の訓練スペースを使え。プールサイドで暴れられると壊れる」

 

海斗が笑う。

 

「壊していいんじゃねえの?」

 

麗華が即答する。

 

「駄目に決まっているでしょう」

 

「ケチ」

 

「当然です」

 

綾小路は海斗を見る。

 

「準備は?」

 

「いつでも」

 

「そうか」

 

二人は庭の方へ歩き出す。

 

青空の下。

 

白い雪はない。

 

赤い警報灯もない。

 

銃声もない。

 

ただ、暖かい風と、見守る仲間たちがいる。

 

かつてホワイトルームで作られた男。

 

かつて外の地獄を生き抜いた男。

 

二人は並び、やがて向かい合う。

 

海斗が笑う。

 

「負けても言い訳すんなよ」

 

綾小路は静かに返す。

 

「それはこっちの台詞だ」

 

「言うようになったな」

 

「お前の影響かもしれない」

 

「絶対そうだ」

 

森下が小さく呟く。

 

「やはり、どちらも興味深いですね」

 

ツキが隣で笑う。

 

「でも私は海斗」

 

森下が即答する。

 

「私は綾小路清隆です」

 

「海斗」

 

「綾小路清隆」

 

「海斗」

 

「綾小路清隆」

 

堀北と麗華は顔を見合わせ、同時に苦笑した。

 

尊徳は腕を組み、満足そうに笑っている。

 

そして、綾小路と海斗が同時に構えた。

 

その瞬間。

 

空気がわずかに張り詰める。

 

だが、それは恐怖ではない。

 

戦場の緊張ではない。

 

未来へ続く、新しい遊びの始まりだった。

 

答えは、まだ出ない。

 

どちらが強いのか。

 

それは、これから何度でも確かめればいい。

 

命を懸ける必要はない。

 

誰かを失う必要もない。

 

ただ、互いにぶつかり合い、笑い合い、また次を約束すればいい。

 

ホワイトルームが最後まで理解できなかったもの。

 

勝敗の先にある関係。

 

敗北しても終わらない未来。

 

その全てが、今ここにあった。

 

綾小路清隆は一歩踏み込む。

 

朝霧海斗も同時に前へ出る。

 

青い空の下。

 

仲間たちの笑い声に包まれながら。

 

2人のマスターピースの新しい勝負が、始まろうとしていた。




■あとがき
第三部「ザ・ホワイトアウト・マスターピース」完結です。
クライマックスの雪崩と戦闘機の戦いは最初のプロットでは雪崩だけでした。
監修を手伝ってくれた友人は戦闘機を出すのに否定的だったのですが、
僕はせっかくならド派手に行こうと決断し、あのクライマックスになりました。
森下とツキは是非共演させたいなと思っていたので実現できてよかったです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

しかし、綾小路と海斗の戦いはこれで終わりではありません。
ええ、第四部があるんです。
その名も「ザ・ファイナル・マスターピース」。

【挿絵表示】

最終話はバッドエンドとグッドエンドの両方を用意しました。
2人のマスターピースの次なるドラマにご期待ください。

途中までですが、第1話「終わったはずの戦い」の試し読みをどうぞ。



春の風が吹いていた。

高度育成高等学校を卒業してから、すでに二年近い歳月が流れている。

あの学校で過ごした三年間。

普通の高校生活とは到底呼べない日々だった。

特別試験。

クラス対抗戦。

退学。

裏切り。

そして――銃声と爆炎。

今となっては信じられないような出来事ばかりだった。

だが、時間というものは残酷だ。

どれほど鮮烈な記憶も、日常の中へ少しずつ溶けていく。

大学のキャンパスを歩く学生たちは、そんな過去など知る由もない。

昼休み。

講義を終えた学生たちが談笑しながら行き交う。

サークル勧誘の声。

キッチンカーの行列。

芝生に座って昼食を取る学生たち。

どこにでもある大学の風景。

その中心を、一人の青年が歩いていた。

綾小路清隆。

高度育成高等学校を卒業した後、国内有数の名門大学へ進学していた。

目的があったわけではない。

将来の夢があったわけでもない。

ただ、選択肢として最も合理的だったから選んだ。

それだけだった。

「綾小路」

背後から声が飛んだ。

綾小路は振り返る。

そこにいたのは堀北学だった。

黒髪。

整った顔立ち。

高校時代と変わらない落ち着いた雰囲気。

今は法学部に所属している。

綾小路より二学年上。

つまり先輩だ。

「珍しいな」

綾小路が言った。

「お前から声をかけてくるとは」

「たまたま見かけただけだ」

学は肩をすくめた。

「昼はどうする」

「まだ決めていない」

「なら学食に付き合え」

「断る理由もないな」

二人は並んで歩き出した。

周囲の学生たちが時折視線を向ける。

堀北学はこの大学でも有名人だった。

成績優秀。

運動神経抜群。

容姿端麗。

その上、人望もある。

高育時代からほとんど変わらない。

学は苦笑した。

「相変わらずだな」

「何がだ」

「お前だ」

綾小路は首を傾げる。

学は続けた。

「大学に入っても変わらん」

「変わる理由がない」

「普通は多少変わる」

「そういうものか」

「そういうものだ」

学は笑った。

綾小路は特に何も言わない。

だが、この男との会話は嫌いではなかった。

余計な駆け引きがない。

必要以上に踏み込まない。

そして、自分を過大評価もしない。

学は数少ない人間だった。

綾小路清隆を綾小路清隆として扱う人間だった。

学食へ向かう途中。

一人の女子学生が小走りで近寄ってきた。

「兄さん!」

堀北鈴音だった。

高校時代よりも少し髪が伸びている。

だが、凛とした雰囲気は変わらない。

「走るな」

学が言う。

「転ぶぞ」

「そんな子供じゃないわ」

鈴音は呆れたように答えた。

そして綾小路を見る。

「いたのね」

「いたら悪いのか」

「別に」

鈴音は視線を逸らした。

高校時代ならここで口論になっていたかもしれない。

だが今は違う。

二人とも少しだけ大人になっていた。

「昼食?」

鈴音が尋ねる。

「ああ」

「なら私も行く」

学は苦笑した。

「結局三人か」

「嫌なら帰るけれど」

「そんなことは言っていない」

三人は学食へ向かった。

学はメニューを見ながら言った。

「今日は俺が奢ろう」

鈴音が少し驚いた顔をする。

「珍しいわね」

「たまには兄らしいことをしようと思ってな」

「そう……」

鈴音は少しだけ表情を緩めた。

学は胸ポケットから財布を取り出す。

黒い財布だった。

そして。

ベリベリベリッ!!

学食の静かな空間に、妙に大きな音が響いた。

周囲の学生が一瞬だけこちらを見る。

鈴音が固まった。

「…………」

学は気にしない。

ベリベリベリッ。

再び閉じる。

ベリベリベリッ。

そして小銭を確認する。

鈴音はゆっくりと頭を抱えた。

「兄さん……」

学が首を傾げる。

「どうした」

「いえ……何でもないわ」

綾小路も鈴音を見る。

「どうした」

「……どうして二人とも平然としていられるの」

「??」

学と綾小路の頭の上に同時に疑問符が浮かんでいるようだった。

学が財布をしまう。

もちろん。

ベリベリベリッ!!

鈴音が深いため息を吐いた。

「兄さん、その財布……」

「財布がどうかしたか」

「どうかしたかって……」

鈴音は言葉を探す。

だが、上手く説明できない。

学は至って真面目な顔だった。

綾小路も同じだ。

「使いやすいぞ」

学が言う。

「開閉が早い」

綾小路も頷く。

「合理的だな」

「そうだろう」

「…………」

鈴音は再び頭を抱えた。

「何なの、この人たち……」

学が首を傾げる。

「鈴音、体調でも悪いのか」

「違うわよ!」

少しだけ声が大きくなる。

すると学は財布を見た。

綾小路も財布を見る。

二人とも数秒考えた。

「?」

「?」

再び同じ反応だった。

「もういいわ……」

学はまだ理解していない。

綾小路も理解していない。

だが、そんな二人を見ているうちに、鈴音は少しだけ笑ってしまった。

「ふふっ……」

学が不思議そうな顔をする。

「どうした」

「何でもないわ」

「そうか」

「ええ」

窓の外には春の青空が広がっていた。

窓際の席。

春の日差しが差し込む。

穏やかな時間だった。

「森下さんから連絡が来ていたわ」

食事を取りながら鈴音が言った。

「森下?」

学が反応する。

「森下藍さんよ」

「別の大学だったな」

「ええ」

鈴音はスマホを操作した。

画面には大量のメッセージ。

その大半が森下藍だった。

『堀北鈴音!』

『綾小路清隆!』

『今度の休みに集まりませんか!?』

『朝霧海斗も呼びましょう!』

『返事をしてください!』

学が思わず吹き出した。

「相変わらずだな」

「ええ」

鈴音も苦笑した。

綾小路も少しだけ口元を緩める。

森下藍は変わっていないらしい。

卒業後も。

大学が別になっても。

相変わらず騒がしい。

「海斗か」

学が呟いた。

「最近はどうしている」

「知らない」

綾小路が答える。

「連絡は取っていない」

「そうか」

学は少し考え込む。

朝霧海斗。

あの男もまた異質だった。

白銀禁止区域。

雪山のホワイトルーム。

数々の死線を共に潜り抜けた。

だが卒業後は自然と会う機会が減った。

お互い別の人生を歩いている。

それが普通だった。

鈴音は窓の外を見た。

青空。

穏やかな春。

何も起きそうにない平和な世界。

「平和ね」

ぽつりと呟く。

学が笑う。

「不満そうだな」

「そういうわけじゃないわ」

「ならいい」

鈴音は再び外を見た。

本当に平和だった。

その頃。

二階堂邸。

都心を見下ろす高台に建つ巨大な屋敷。

かつて以上に厳重な警備。

増設された監視システム。

最新設備。

今や二階堂家を率いるのは一人の若き当主だった。

二階堂麗華。

20歳。

学生ではない。

すでに経営者として表舞台に立っている。

広大な執務室。

机の上には書類の山。

秘書たちが忙しなく出入りしている。

麗華は眉間を押さえた。

「……頭が痛い」

疲労だった。

最近は睡眠時間も短い。

会議。

契約。

投資。

政治家との会談。

当主という立場は想像以上に忙しかった。

そこへ。

ノックもなく扉が開く。

「麗華様」

ツキだった。

相変わらずメイド服。

相変わらず無表情。

そして。

「海斗様を捕獲しました」

「捕獲?」

麗華が顔を上げる。

次の瞬間。

ツキの後ろから海斗が現れた。

「人を野生動物みてぇに言うな」

「読書中に逃走を図りましたので」

「逃走じゃねぇ。移動だ」

「庭園の木の上で読書していました」

「落ち着くんだよ」

「理解できません」

麗華は深いため息を吐いた。

いつもの光景だった。

二年経っても。

三年経っても。

たぶん十年経っても変わらない。

「海斗」

「何だ」

「仕事は?」

「終わった」

「本当に?」

「たぶん」

「確認しなさい」

「嫌だ」

ツキが即座に言う。

「海斗様」

「何だ」

「確認してください」

「嫌だ」

「確認してください」

「嫌だ」

「確認してください」

「嫌だ」

麗華は頭を抱えた。

相変わらず漫才みたいな二人だった。

しかし。

その光景を見ながら。

麗華は少しだけ微笑んでいた。

すると海斗がニヤリと笑った。

「生意気なメイドだな」

ツキが少しだけ眉を動かす。

「何でしょう」

「これは教育が必要だな」

「教育……?」

「麗華に頼んで、メイド服をミニスカートにしてもらうぞ」

ツキが固まった。

「…………」

海斗が畳みかける。

「いいだろ?」

麗華も一瞬想像した。

ツキ。

ミニスカート。

そして。

「ツキのミニスカート……ごくりっ!」

麗華が思わず小さく唾を飲み込む。

ツキが小さく鳴いた。

「ぴいっ」

海斗が目を丸くする。

そしてニヤリと笑った。

「お?麗華も興味あるみてぇじゃねえか」

ツキがゆっくりと麗華を見る。

ジトーッ。

「ちょっと、麗華様……」

「ち、違うわよ!?」

麗華が慌てる。

「そんなこと考えてないわ!」

海斗は腕を組んだ。

「本当かぁ?」

「本当よ!」

「顔が赤いぞ」

「赤くないわ!ガーターチラチラだなんて思ってないっ!」

言った瞬間。

部屋が静まり返った。

海斗がぽかんとする。

ツキもぽかんとしている。

数秒後。

海斗が吹き出した。

「ぶはっ!おいおい、オレよか麗華のがよっぽどスケベじゃねえか」

「ち、違うって言ってるでしょう!?」

ツキは無表情のまま少しだけ俯いた。

「これは再就職……」

麗華が慌てて立ち上がる。

「ちーがーうー!!辞めないでツキ!!勘違いだから!!」

海斗が大笑いする。

「はははっ!今日一番面白ぇぞ、麗華!」

「誰のせいよっ!!」

ツキは二人を見つめた。

そして小さく息を吐く。

「やれやれです」

そんな三人の声が、広い二階堂邸に穏やかに響いていた。

それが今の日常だった。

失われたはずの日常。

守り抜いた日常。

そして。

まだ誰も知らない。

この日常が、もう長くは続かないことを――。

この平和が跡形もなく壊れることを。

綾小路清隆と朝霧海斗が。

二度と元には戻れない場所まで進むことになるのを。



二階堂邸の午後は慌ただしかった。

当主である麗華が執務を終えるまで、まだ数時間はかかる。

秘書たちは会議資料を抱えて走り回り、電話は鳴り続け、
電子端末には次々と報告書が送られてくる。

20歳の若さで巨大な二階堂グループを率いるというのは、
決して簡単なことではなかった。

麗華自身もそれは理解している。

だから弱音は吐かない。

吐くつもりもない。

しかし。

「……疲れたわ」

誰もいない執務室でだけは、小さく本音が漏れた。

その瞬間だった。

コンコン。

ノックの音。

「入りなさい」

扉が開く。

入ってきたのは彩だった。

二階堂彩。

麗華の妹。

長い髪。

落ち着いた雰囲気。

姉ほどの威圧感はないが、人を安心させる不思議な空気を持っている。

「お姉様」

彩は微笑んだ。

「お茶をお持ちしました」

「ありがとう」

麗華の表情が少しだけ柔らかくなる。

彩は昔からそうだった。

誰かを支えることが自然にできる。

当主向きではない。

しかし人に好かれる。

麗華にはない才能だった。

彩は紅茶を置いた。

「無理をなさらないでくださいね」

「無理はしていないわ」

「していらっしゃいます」

即答だった。

麗華は苦笑する。

「あなたも案外遠慮がなくなったわね」

「海斗さんとツキさんの影響かもしれません」

「最悪ね」

「ふふっ」

彩は笑った。

その笑顔を見ていると、不思議と肩の力が抜ける。

麗華は紅茶を一口飲んだ。

温かい。

少しだけ心が落ち着く。

「海斗は?」

「庭園です」

「やっぱり」

「今日は木の上ではなくベンチでした」

「成長したわね」

「そうでしょうか」

「かなり」

二人は小さく笑った。

その頃。

庭園。

海斗は本を読んでいた。

快晴。

春風。

最高の読書日和だった。

「海斗様」

聞き慣れた声。

海斗は顔も上げない。

「何だ」



最後まで書かれた完全版は明日の午前0時に投稿します。
よろしくお願いします。
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