ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
第62話 終わったはずの戦い
春の風が吹いていた。
高度育成高等学校を卒業してから、すでに二年近い歳月が流れている。
あの学校で過ごした三年間。
普通の高校生活とは到底呼べない日々だった。
特別試験。
クラス対抗戦。
退学。
裏切り。
そして――銃声と爆炎。
今となっては信じられないような出来事ばかりだった。
だが、時間というものは残酷だ。
どれほど鮮烈な記憶も、日常の中へ少しずつ溶けていく。
大学のキャンパスを歩く学生たちは、そんな過去など知る由もない。
昼休み。
講義を終えた学生たちが談笑しながら行き交う。
サークル勧誘の声。
キッチンカーの行列。
芝生に座って昼食を取る学生たち。
どこにでもある大学の風景。
その中心を、一人の青年が歩いていた。
綾小路清隆。
高度育成高等学校を卒業した後、国内有数の名門大学へ進学していた。
目的があったわけではない。
将来の夢があったわけでもない。
ただ、選択肢として最も合理的だったから選んだ。
それだけだった。
「綾小路」
背後から声が飛んだ。
綾小路は振り返る。
そこにいたのは堀北学だった。
黒髪。
整った顔立ち。
高校時代と変わらない落ち着いた雰囲気。
今は法学部に所属している。
綾小路より二学年上。
つまり先輩だ。
「珍しいな」
綾小路が言った。
「お前から声をかけてくるとは」
「たまたま見かけただけだ」
学は肩をすくめた。
「昼はどうする」
「まだ決めていない」
「なら学食に付き合え」
「断る理由もないな」
二人は並んで歩き出した。
周囲の学生たちが時折視線を向ける。
堀北学はこの大学でも有名人だった。
成績優秀。
運動神経抜群。
容姿端麗。
その上、人望もある。
高育時代からほとんど変わらない。
学は苦笑した。
「相変わらずだな」
「何がだ」
「お前だ」
綾小路は首を傾げる。
学は続けた。
「大学に入っても変わらん」
「変わる理由がない」
「普通は多少変わる」
「そういうものか」
「そういうものだ」
学は笑った。
綾小路は特に何も言わない。
だが、この男との会話は嫌いではなかった。
余計な駆け引きがない。
必要以上に踏み込まない。
そして、自分を過大評価もしない。
学は数少ない人間だった。
綾小路清隆を綾小路清隆として扱う人間だった。
学食へ向かう途中。
一人の女子学生が小走りで近寄ってきた。
「兄さん!」
堀北鈴音だった。
高校時代よりも少し髪が伸びている。
だが、凛とした雰囲気は変わらない。
「走るな」
学が言う。
「転ぶぞ」
「そんな子供じゃないわ」
鈴音は呆れたように答えた。
そして綾小路を見る。
「いたのね」
「いたら悪いのか」
「別に」
鈴音は視線を逸らした。
高校時代ならここで口論になっていたかもしれない。
だが今は違う。
二人とも少しだけ大人になっていた。
「昼食?」
鈴音が尋ねる。
「ああ」
「なら私も行く」
学は苦笑した。
「結局三人か」
「嫌なら帰るけれど」
「そんなことは言っていない」
三人は学食へ向かった。
学はメニューを見ながら言った。
「今日は俺が奢ろう」
鈴音が少し驚いた顔をする。
「珍しいわね」
「たまには兄らしいことをしようと思ってな」
「そう……」
鈴音は少しだけ表情を緩めた。
学は胸ポケットから財布を取り出す。
黒い財布だった。
そして。
ベリベリベリッ!!
学食の静かな空間に、妙に大きな音が響いた。
周囲の学生が一瞬だけこちらを見る。
鈴音が固まった。
「…………」
学は気にしない。
ベリベリベリッ。
再び閉じる。
ベリベリベリッ。
そして小銭を確認する。
鈴音はゆっくりと頭を抱えた。
「兄さん……」
学が首を傾げる。
「どうした」
「いえ……何でもないわ」
綾小路も鈴音を見る。
「どうした」
「……どうして二人とも平然としていられるの」
「??」
学と綾小路の頭の上に同時に疑問符が浮かんでいるようだった。
学が財布をしまう。
もちろん。
ベリベリベリッ!!
鈴音が深いため息を吐いた。
「兄さん、その財布……」
「財布がどうかしたか」
「どうかしたかって……」
鈴音は言葉を探す。
だが、上手く説明できない。
学は至って真面目な顔だった。
綾小路も同じだ。
「使いやすいぞ」
学が言う。
「開閉が早い」
綾小路も頷く。
「合理的だな」
「そうだろう」
「…………」
鈴音は再び頭を抱えた。
「何なの、この人たち……」
学が首を傾げる。
「鈴音、体調でも悪いのか」
「違うわよ!」
少しだけ声が大きくなる。
すると学は財布を見た。
綾小路も財布を見る。
二人とも数秒考えた。
「?」
「?」
再び同じ反応だった。
「もういいわ……」
学はまだ理解していない。
綾小路も理解していない。
だが、そんな二人を見ているうちに、鈴音は少しだけ笑ってしまった。
「ふふっ……」
学が不思議そうな顔をする。
「どうした」
「何でもないわ」
「そうか」
「ええ」
窓の外には春の青空が広がっていた。
窓際の席。
春の日差しが差し込む。
穏やかな時間だった。
「森下さんから連絡が来ていたわ」
食事を取りながら鈴音が言った。
「森下?」
学が反応する。
「森下藍さんよ」
「別の大学だったな」
「ええ」
鈴音はスマホを操作した。
画面には大量のメッセージ。
その大半が森下藍だった。
『堀北鈴音!』
『綾小路清隆!』
『今度の休みに集まりませんか!?』
『朝霧海斗も呼びましょう!』
『返事をしてください!』
学が思わず吹き出した。
「相変わらずだな」
「ええ」
鈴音も苦笑した。
綾小路も少しだけ口元を緩める。
森下藍は変わっていないらしい。
卒業後も。
大学が別になっても。
相変わらず騒がしい。
「海斗か」
学が呟いた。
「最近はどうしている」
「知らない」
綾小路が答える。
「連絡は取っていない」
「そうか」
学は少し考え込む。
朝霧海斗。
あの男もまた異質だった。
白銀禁止区域。
雪山のホワイトルーム。
数々の死線を共に潜り抜けた。
だが卒業後は自然と会う機会が減った。
お互い別の人生を歩いている。
それが普通だった。
鈴音は窓の外を見た。
青空。
穏やかな春。
何も起きそうにない平和な世界。
「平和ね」
ぽつりと呟く。
学が笑う。
「不満そうだな」
「そういうわけじゃないわ」
「ならいい」
鈴音は再び外を見た。
本当に平和だった。
その頃。
二階堂邸。
都心を見下ろす高台に建つ巨大な屋敷。
かつて以上に厳重な警備。
増設された監視システム。
最新設備。
今や二階堂家を率いるのは一人の若き当主だった。
二階堂麗華。
20歳。
学生ではない。
すでに経営者として表舞台に立っている。
広大な執務室。
机の上には書類の山。
秘書たちが忙しなく出入りしている。
麗華は眉間を押さえた。
「……頭が痛い」
疲労だった。
最近は睡眠時間も短い。
会議。
契約。
投資。
政治家との会談。
当主という立場は想像以上に忙しかった。
そこへ。
ノックもなく扉が開く。
「麗華様」
ツキだった。
相変わらずメイド服。
相変わらず無表情。
そして。
「海斗様を捕獲しました」
「捕獲?」
麗華が顔を上げる。
次の瞬間。
ツキの後ろから海斗が現れた。
「人を野生動物みてぇに言うな」
「読書中に逃走を図りましたので」
「逃走じゃねぇ。移動だ」
「庭園の木の上で読書していました」
「落ち着くんだよ」
「理解できません」
麗華は深いため息を吐いた。
いつもの光景だった。
二年経っても。
三年経っても。
たぶん十年経っても変わらない。
「海斗」
「何だ」
「仕事は?」
「終わった」
「本当に?」
「たぶん」
「確認しなさい」
「嫌だ」
ツキが即座に言う。
「海斗様」
「何だ」
「確認してください」
「嫌だ」
「確認してください」
「嫌だ」
「確認してください」
「嫌だ」
麗華は頭を抱えた。
相変わらず漫才みたいな二人だった。
しかし。
その光景を見ながら。
麗華は少しだけ微笑んでいた。
すると海斗がニヤリと笑った。
「生意気なメイドだな」
ツキが少しだけ眉を動かす。
「何でしょう」
「これは教育が必要だな」
「教育……?」
「麗華に頼んで、メイド服をミニスカートにしてもらうぞ」
ツキが固まった。
「…………」
海斗が畳みかける。
「いいだろ?」
麗華も一瞬想像した。
ツキ。
ミニスカート。
そして。
「ツキのミニスカート……ごくりっ!」
麗華が思わず小さく唾を飲み込む。
ツキが小さく鳴いた。
「ぴいっ」
海斗が目を丸くする。
そしてニヤリと笑った。
「お?麗華も興味あるみてぇじゃねえか」
ツキがゆっくりと麗華を見る。
ジトーッ。
「ちょっと、麗華様……」
「ち、違うわよ!?」
麗華が慌てる。
「そんなこと考えてないわ!」
海斗は腕を組んだ。
「本当かぁ?」
「本当よ!」
「顔が赤いぞ」
「赤くないわ!ガーターチラチラだなんて思ってないっ!」
言った瞬間。
部屋が静まり返った。
海斗がぽかんとする。
ツキもぽかんとしている。
数秒後。
海斗が吹き出した。
「ぶはっ!おいおい、オレよか麗華のがよっぽどスケベじゃねえか」
「ち、違うって言ってるでしょう!?」
ツキは無表情のまま少しだけ俯いた。
「これは再就職……」
麗華が慌てて立ち上がる。
「ちーがーうー!!辞めないでツキ!!勘違いだから!!」
海斗が大笑いする。
「はははっ!今日一番面白ぇぞ、麗華!」
「誰のせいよっ!!」
ツキは二人を見つめた。
そして小さく息を吐く。
「やれやれです」
そんな三人の声が、広い二階堂邸に穏やかに響いていた。
それが今の日常だった。
失われたはずの日常。
守り抜いた日常。
そして。
まだ誰も知らない。
この日常が、もう長くは続かないことを――。
この平和が跡形もなく壊れることを。
綾小路清隆と朝霧海斗が。
二度と元には戻れない場所まで進むことになるのを。
◯
二階堂邸の午後は慌ただしかった。
当主である麗華が執務を終えるまで、まだ数時間はかかる。
秘書たちは会議資料を抱えて走り回り、電話は鳴り続け、
電子端末には次々と報告書が送られてくる。
20歳の若さで巨大な二階堂グループを率いるというのは、
決して簡単なことではなかった。
麗華自身もそれは理解している。
だから弱音は吐かない。
吐くつもりもない。
しかし。
「……疲れたわ」
誰もいない執務室でだけは、小さく本音が漏れた。
その瞬間だった。
コンコン。
ノックの音。
「入りなさい」
扉が開く。
入ってきたのは彩だった。
二階堂彩。
麗華の妹。
長い髪。
落ち着いた雰囲気。
姉ほどの威圧感はないが、人を安心させる不思議な空気を持っている。
「お姉様」
彩は微笑んだ。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
麗華の表情が少しだけ柔らかくなる。
彩は昔からそうだった。
誰かを支えることが自然にできる。
当主向きではない。
しかし人に好かれる。
麗華にはない才能だった。
彩は紅茶を置いた。
「無理をなさらないでくださいね」
「無理はしていないわ」
「していらっしゃいます」
即答だった。
麗華は苦笑する。
「あなたも案外遠慮がなくなったわね」
「海斗さんとツキさんの影響かもしれません」
「最悪ね」
「ふふっ」
彩は笑った。
その笑顔を見ていると、不思議と肩の力が抜ける。
麗華は紅茶を一口飲んだ。
温かい。
少しだけ心が落ち着く。
「海斗は?」
「庭園です」
「やっぱり」
「今日は木の上ではなくベンチでした」
「成長したわね」
「そうでしょうか」
「かなり」
二人は小さく笑った。
その頃。
庭園。
海斗は本を読んでいた。
快晴。
春風。
最高の読書日和だった。
「海斗様」
聞き慣れた声。
海斗は顔も上げない。
「何だ」
「仕事は終わりましたか」
「終わった」
「嘘ですね」
「なぜ分かる」
「海斗様だからです」
「酷ぇ理由だな」
ツキは無表情だった。
だが長年付き合っている海斗には分かる。
少し呆れている。
「麗華様がお呼びです」
「今いいところだ」
「三十分前も同じことを仰っていました」
「本当にいいところだったんだ」
「現在も同じことを仰っています」
「本当にいいところなんだよ」
「その本は推理小説です」
「そうだ」
「犯人はもう分かっています」
「ネタバレするな!」
海斗が飛び起きた。
ツキは僅かに口元を動かした。
たぶん笑っている。
たぶん。
「お前な」
「何でしょう」
「最低だぞ」
「ありがとうございます」
「褒めてねぇ」
いつものやり取りだった。
高校時代から何も変わらない。
ツキは少しだけ空を見上げた。
青空。
穏やかな春。
平和な時間。
昔なら考えられなかった。
禁止区域で生きていた頃。
ホワイトルームの影に怯えていた頃。
こんな日常は想像できなかった。
「海斗」
「何だ」
「平和だね」
海斗は少しだけ目を細めた。
珍しい。
ツキがこんなことを言うのは。
「そうだな」
「退屈か」
「全然」
即答だった。
「本読めるし」
「それだけか」
「十分だろ」
ツキは黙った。
少しだけ安心したような顔をしていた。
海斗は気付かない。
いや。
気付いていても言わない。
それが二人だった。
一方。
大学。
講義を終えた綾小路は図書館へ向かっていた。
いつもの習慣。
本を読む。
静かな場所にいる。
それだけだ。
だが。
図書館の入り口で。
聞き慣れた声が飛んだ。
「綾小路清隆!」
綾小路は立ち止まる。
聞き間違えようがない。
森下藍だった。
「やっぱりいた!」
森下は満面の笑みだった。
別大学のはずだ。
なぜいる。
「何をしている」
綾小路が聞く。
「遊びに来ました!」
「そうか」
「冷たくないですか!?」
「普通だ」
森下はむっとした。
相変わらず騒がしい。
大学が違っても変わらない。
「堀北鈴音は?」
「知らん」
「堀北学は?」
「知らん」
「朝霧海斗は?」
「知らん」
「役に立ちませんね!」
「帰れ」
森下は笑った。
綾小路も少しだけ口元を緩める。
高校時代を思い出す。
あの頃と同じ空気。
同じ日常。
少しだけ懐かしかった。
森下は急に真面目な顔になった。
「でも」
「何だ」
「みんな元気で良かったです」
綾小路は答えなかった。
だが。
その言葉は少しだけ胸に残った。
元気で良かった。
本当にそうだった。
あれだけの死線を潜り抜けた。
それでも皆生きている。
少なくとも今は。
夕方。
二階堂邸。
麗華は最後の会議を終えた。
疲労は限界に近い。
しかし満足感もあった。
当主として。
少しずつだが前へ進んでいる。
そんな実感があった。
立ち上がろうとした。
その時。
違和感。
胸だった。
「……?」
心臓の辺りが少しだけ痛む。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
麗華は眉を寄せた。
疲れだろう。
そう結論づける。
最近は忙しかった。
寝不足も続いている。
それだけだ。
そう思った。
だが。
胸の奥に残った小さな違和感は。
まるで何かの予兆のように消えなかった。
西の空が赤く染まり始める。
二階堂邸の広大な庭園もまた、橙色の光に包まれていた。
海斗はベンチに腰掛けていた。
読書は終わっている。
正確には、途中で飽きた。
本を閉じ、空を見上げる。
平和だった。
驚くほどに。
昔なら考えられないほどに。
銃声もない。
爆発もない。
ホワイトルームもない。
ブラックルームもない。
誰かが誘拐されることもない。
追われることもない。
殺し合うこともない。
ただ本を読み。
飯を食い。
たまに麗華に怒られ。
ツキと漫才をする。
そんな日々。
海斗はそれを悪くないと思っていた。
むしろ好きだった。
「海斗」
後ろから声。
ツキだった。
「何だ」
「麗華様がお疲れのようです」
「そりゃそうだろ」
海斗は肩をすくめる。
「当主なんて面倒臭ぇ仕事やってんだから」
「心配ではないのか」
「してる」
即答だった。
ツキは少しだけ目を丸くした。
海斗は続ける。
「だから仕事減らせって言ってんだよ」
「聞いてくださらないのですか」
「全然」
「そうか……」
「全然聞かねぇ」
二人は苦笑した。
麗華は昔からそうだった。
頑固。
負けず嫌い。
責任感が強い。
自分一人で抱え込む。
海斗もツキも何度も見てきた。
「彩は?」
海斗が聞く。
「お姉様の夕食を確認しています」
「真面目だな」
「二階堂彩様ですので」
「それもそうか」
穏やかな時間だった。
その頃。
執務室。
麗華は最後の書類へサインしていた。
ペン先が止まる。
再び。
胸。
痛み。
今度は先ほどより強い。
「……っ」
思わず息が詰まる。
数秒。
だが確実だった。
心臓。
胸の奥。
何かがおかしい。
麗華はゆっくりと椅子へ身体を預けた。
疲労。
寝不足。
ストレス。
理由はいくらでも思いつく。
だが。
本能が違うと告げていた。
何かがおかしい。
「お姉様?」
彩だった。
食事の時間になり様子を見に来たらしい。
麗華はすぐに表情を戻す。
「どうしたの」
「顔色が悪いです」
「少し疲れているだけよ」
「本当に?」
「ええ」
彩は納得していない。
しかしそれ以上は追及しなかった。
「夕食にしましょう」
「そうね」
麗華は立ち上がった。
その瞬間。
世界が揺れた。
視界が歪む。
足元が消える。
心臓が大きく脈打った。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
呼吸が苦しい。
空気が足りない。
「お姉様!」
彩の声。
遠い。
身体が言うことを聞かない。
机へ手を伸ばす。
届かない。
床が近づく。
違う。
自分が倒れている。
そう理解した時には。
意識が闇へ沈んでいた。
「麗華様!」
「医療班を呼べ!」
「救急搬送だ!」
「急げ!」
邸内が騒然となる。
海斗とツキが駆け込んできた。
床に倒れる麗華。
青ざめた顔。
荒い呼吸。
海斗の表情から笑みが消える。
「麗華!」
返事はない。
彩は泣きそうな顔だった。
「突然だったんです……」
海斗は麗華を見た。
信じられなかった。
さっきまで普通だった。
元気だった。
文句も言っていた。
それなのに。
「救急車は」
「もう向かっています!」
海斗は舌打ちした。
こんなことは初めてだった。
敵に撃たれたわけじゃない。
毒でもない。
事故でもない。
それなのに。
得体の知れない不安だけが膨らんでいく。
数時間後。
大学。
綾小路は自室へ戻っていた。
スマートフォンが鳴る。
珍しい。
発信者。
堀北鈴音。
綾小路は応答した。
「どうした」
『暇?』
「少しな」
『なら話がある』
「何だ」
『学食のカレーライスが不味かった』
沈黙。
綾小路は少し考える。
「そうか」
『反応薄いわね』
「何を求めている」
『知らない』
少しだけ笑い声。
穏やかな時間だった。
高校時代にはなかったような。
そんな会話。
だが。
鈴音の声が少しだけ掠れていた。
「体調が悪いのか」
綾小路が聞く。
電話の向こうが静かになる。
『……少しだけ』
「病院へ行け」
『大げさよ』
「そうか」
『少し疲れてるだけ』
鈴音はそう言った。
麗華と同じように。
疲れているだけ。
そのはずだった。
深夜。
病院。
海斗は廊下に座っていた。
ツキ。
彩。
尊徳。
源蔵。
全員がいる。
誰も眠っていない。
やがて。
診察室の扉が開いた。
医師が出てくる。
表情は重い。
海斗は立ち上がった。
「どうなんだ」
医師は少し迷った。
そして言う。
「原因が分かりません」
海斗の眉が動く。
「は?」
「心臓機能が異常に低下しています」
「病気か」
「それも分かりません」
「冗談だろ」
「我々も初めて見る症例です」
空気が凍った。
彩が息を呑む。
ツキの顔から血の気が引く。
源蔵だけが静かだった。
「命に関わるのか」
源蔵が聞く。
医師は答えた。
「現時点では何とも言えません」
しかし。
誰も安心できなかった。
医者がそう言う時。
大抵の場合。
事態は良くない。
海斗は病室の窓を見た。
夜景。
無数の灯り。
静かな街。
「やっと平和になったと思ってたんだがな……」
翌週。
大学の講義中。
堀北鈴音もまた。
同じように倒れることになる。
麗華と全く同じ症状で。
そして。
『ヤツ』が最後に残した呪いが。
数年の時を経て。
ついに牙を剥くことになるのだった。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。