ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第63話 山内の遺産

病院の白い天井は、妙に現実感がなかった。

 

二階堂麗華はゆっくりと目を開けた。

 

視界に最初に入ったのは、見慣れない照明。

 

次に、規則的に鳴る電子音。

 

そして、自分の腕に繋がれた点滴の管だった。

 

「……ここは」

 

声が掠れていた。

 

喉が乾いている。

 

身体が重い。

 

まるで自分のものではないようだった。

 

「お姉様!」

 

すぐ近くで声がした。

 

彩だった。

 

椅子から立ち上がり、麗華の手を握る。

 

その目元は赤い。

 

おそらく、泣いていたのだろう。

 

「彩……」

 

「よかった……本当に……」

 

彩は言葉を詰まらせた。

 

麗華は状況を整理しようとした。

 

自分は執務室にいた。

 

胸に痛みが走った。

 

立ち上がろうとした。

 

そこで意識を失った。

 

そこまでは覚えている。

 

「私は……倒れたのね」

 

「はい」

 

彩は小さく頷いた。

 

「突然でした」

 

麗華は目を閉じた。

 

情けない。

 

そう思った。

 

当主として倒れるなど、許されることではない。

 

だが、そんな言葉を口にする前に、病室の扉が開いた。

 

入ってきたのは海斗だった。

 

その後ろにツキ。

 

さらに二階堂源蔵。

 

全員が同時に麗華を見た。

 

海斗はいつものように軽口を叩かなかった。

 

それが逆に、事態の重さを物語っていた。

 

「麗華」

 

短い声だった。

 

「……大げさね」

 

麗華は無理に笑った。

 

「少し倒れただけでしょう」

 

「少しで済むなら、こんな顔してねぇよ」

 

海斗が言った。

 

その声は低かった。

 

いつもの粗野な軽さはない。

 

麗華は視線を逸らした。

 

「診断は?」

 

誰もすぐに答えなかった。

 

沈黙。

 

それだけで分かった。

 

良くない。

 

「お父様」

 

麗華は父を見る。

 

「説明して」

 

源蔵は静かに頷いた。

 

「医師によれば、心臓機能が著しく低下している」

 

「原因は?」

 

「不明だ」

 

「不明?」

 

麗華の眉が動いた。

 

「二階堂家の病院で?」

 

「そうだ」

 

「専門医は?」

 

「呼んでいる」

 

「検査は?」

 

「可能なものは既に始めている」

 

「なら原因くらい分かるでしょう」

 

源蔵は答えなかった。

 

麗華はそこで初めて、父の表情を見た。

 

冷静だった。

 

いつも通りに見えた。

 

だが、わずかに目の奥が沈んでいた。

 

二階堂源蔵が感情を見せることは少ない。

 

その男が沈黙している。

 

それだけで十分だった。

 

「……そんなに悪いの」

 

彩が震える声で言った。

 

「お姉様は治るんですよね?」

 

源蔵は娘を見た。

 

すぐには答えられない。

 

その間が、答えだった。

 

海斗は拳を握った。

 

「ふざけんなよ」

 

誰に向けた言葉でもなかった。

 

医者でもない。

 

源蔵でもない。

 

運命そのものに向けたような声だった。

 

「原因不明って何だよ」

 

ツキは黙っていた。

 

だが、普段なら海斗を止めるはずの彼女が、何も言わなかった。

 

麗華はそんな全員を見回し、ゆっくり息を吐いた。

 

「取り乱さないで」

 

「お前が一番取り乱せよ」

 

海斗が言った。

 

「倒れた本人が何で一番冷静なんだよ」

 

「当主だからよ」

 

「病人だろ」

 

「二階堂家当主よ」

 

「今は病人だ」

 

海斗は即答した。

 

麗華は一瞬だけ言葉を失った。

 

海斗は続ける。

 

「仕事は全部止めろ」

 

「無理ね」

 

「止めろ」

 

「無理だと言っているでしょう」

 

「麗華」

 

海斗の声が低くなる。

 

「お前が死んだら、仕事どころじゃねぇだろ」

 

病室が静まり返った。

 

彩が息を呑む。

 

ツキが海斗を見る。

 

源蔵ですら、わずかに眉を動かした。

 

麗華は海斗を見つめた。

 

死。

 

その言葉を、海斗は避けなかった。

 

避けられる状況ではないと理解していた。

 

「……縁起でもないことを言わないで」

 

「縁起で済む話なら言わねぇよ」

 

海斗はそう吐き捨てた。

 

それ以上は言わなかった。

 

言えば、何かが壊れそうだった。

 

一方。

 

同じ頃。

 

大学病院。

 

堀北鈴音もまた、白い病室で目を覚ました。

 

彼女の場合は、講義中だった。

 

突然胸を押さえ、机に手をつき、そのまま倒れた。

 

周囲の学生が騒ぎ、教授が救急車を呼び、大学病院へ運ばれた。

 

目を覚ました時、隣にいたのは堀北学だった。

 

「兄さん……」

 

「目が覚めたか」

 

学は椅子に座っていた。

 

表情は落ち着いている。

 

だが、その手には強く握られたスマートフォンがあった。

 

鈴音はそれを見て、状況の悪さを察した。

 

「私、倒れたのね」

 

「ああ」

 

「情けないわ」

 

「今はそんなことを言う場面ではない」

 

「原因は?」

 

学はすぐには答えなかった。

 

鈴音はわずかに眉を寄せる。

 

「兄さん」

 

「心臓機能に異常が出ている」

 

「心臓?」

 

「ああ」

 

「私は心臓病ではないわ」

 

「分かっている」

 

「ならなぜ」

 

「分からない」

 

その言葉に、鈴音は黙った。

 

堀北学が分からないと言う。

 

それは単なる情報不足ではない。

 

既に調べた上で、分からないという意味だった。

 

「検査は?」

 

「進めている」

 

「大学は?」

 

「しばらく休め」

 

「そんなわけにはいかないわ」

 

「鈴音」

 

学の声が強くなった。

 

「休め」

 

鈴音は兄を見た。

 

高校時代なら反発していたかもしれない。

 

だが今の兄の表情を見て、鈴音は何も言えなかった。

 

その時。

 

病室の扉が開いた。

 

綾小路清隆が入ってきた。

 

「綾小路」

 

鈴音が目を細める。

 

「どうしてここに」

 

「兄から連絡を受けた」

 

「兄さん」

 

鈴音は学を見る。

 

学は悪びれもせず言った。

 

「必要だと思った」

 

「大げさよ」

 

「大げさで済めばいい」

 

綾小路はベッドの横に立った。

 

鈴音の顔色を確認する。

 

呼吸。

 

表情。

 

指先。

 

首元。

 

無意識に観察していた。

 

高校時代から染みついた癖だった。

 

「体調は」

 

「最悪ではないわ」

 

「良くもないな」

 

「見れば分かるでしょう」

 

「分かる」

 

鈴音は小さく息を吐いた。

 

「あなたまで深刻な顔をしないで」

 

「オレはいつもこんな顔だ」

 

「そうね」

 

少しだけ沈黙が落ちる。

 

それは不思議な時間だった。

 

高校時代なら、鈴音が倒れたとしても、

綾小路はもっと距離を置いていたかもしれない。

 

だが今は違う。

 

距離が近いという意味ではない。

 

関係性が変わったというより、積み重ねた時間があった。

 

それだけだった。

 

「医者は何と」

 

綾小路が学に聞いた。

 

「原因不明の心機能低下。検査では既知の疾患と一致しない」

 

「毒物反応は」

 

「一般的な検査では出ていない」

 

「遺伝性疾患は」

 

「現時点では否定的だ」

 

「発症のタイミングは」

 

「今日の講義中だ。だが、本人によれば数日前から胸の違和感はあったらしい」

 

綾小路は鈴音を見る。

 

「なぜ言わなかった」

 

「疲れだと思ったのよ」

 

「麗華も同じことを言って倒れた」

 

その言葉に、空気が変わった。

 

鈴音が目を見開く。

 

学の表情もわずかに硬くなる。

 

「麗華さんも?」

 

「ああ」

 

綾小路は続けた。

 

「昨日、二階堂麗華が倒れた。症状は心臓機能の異常低下。原因不明」

 

病室に沈黙が落ちた。

 

偶然。

 

そう片付けるには、あまりにも不自然だった。

 

鈴音と麗華。

 

二人に直接的な共通点は少ない。

 

家柄も違う。

 

生活環境も違う。

 

大学も違う。

 

だが、一つだけある。

 

白銀禁止区域事件。

 

ブラックルーム崩壊。

 

あの場にいたという共通点。

 

学が低く言った。

 

「綾小路」

 

「ああ」

 

綾小路は既に同じ結論に近づいていた。

 

「偶然ではない可能性がある」

 

鈴音は二人を見る。

 

「何を考えているの」

 

綾小路は答えた。

 

「過去だ」

 

その言葉は、妙に重かった。

 

同日夜。

 

二階堂家系列病院の特別会議室。

 

長いテーブル。

 

壁一面のモニター。

 

医師団、研究者、二階堂家の顧問、そして関係者が集まっていた。

 

麗華は病室で安静。

 

その代わりに源蔵が出席している。

 

海斗。

 

ツキ。

 

彩。

 

尊徳。

 

そして、別回線で坂柳有栖。

 

画面の向こうの坂柳は、以前と変わらぬ優雅な微笑みを浮かべていた。

 

だが、その目は笑っていなかった。

 

「状況は理解しました」

 

坂柳が言った。

 

「二階堂麗華さんと堀北鈴音さん。ほぼ同時期に心臓機能の異常低下。

原因不明。既知の疾患とは一致しない。一般毒物検査も陰性」

 

「そうだ」

 

源蔵が答える。

 

「率直に聞く。君ならどう見る」

 

坂柳は少しだけ目を伏せた。

 

「偶然と考えるのは、あまりにも楽観的です」

 

海斗が舌打ちする。

 

「やっぱりか」

 

「ええ」

 

坂柳は続ける。

 

「問題は二人の共通点です。生活環境、食事、家系、大学、接触者。

どれも一致しません。しかし一つだけ、大きな共通点があります」

 

尊徳が言った。

 

「白銀禁止区域か」

 

「正確には、その最終局面です」

 

坂柳の声が静かに沈む。

 

「ブラックルーム崩壊時。山内春樹が破壊した研究施設」

 

その名前が出た瞬間。

 

会議室の温度が下がったように感じた。

 

山内春樹。

 

死んだはずの男。

 

ブラックルーム最高傑作。

 

最後の最後まで、綾小路と海斗を苦しめた男。

 

ステルス戦闘機で襲撃し、禁止区域を地獄に変えた男。

 

その名は、今でも彼らの中に棘のように残っていた。

 

海斗は低く呟いた。

 

「死んでまで迷惑かけやがる」

 

ツキは何も言わなかった。

 

彩は山内を直接知らない。

 

だが、その名前が持つ意味だけは理解した。

 

源蔵が問う。

 

「特殊薬剤の可能性か」

 

坂柳は頷いた。

 

「ブラックルームは人体強化、神経制御、精神干渉、

薬物耐性、あらゆる研究を行っていました。

山内が破壊した設備の中に、遅効性の細胞破壊物質が

含まれていたとしても不思議ではありません」

 

「遅効性?」

 

彩が震える声で聞いた。

 

「数年後に発症するということですか」

 

「可能性としては」

 

坂柳は淡々と答えた。

 

「ただし、通常の毒物ではありません。既存の検査で発見できないなら、

体内で代謝され、特定条件下でのみ発動する設計だった可能性があります」

 

海斗の目が細くなる。

 

「特定条件って何だよ」

 

「分かりません」

 

坂柳は即答した。

 

「年齢、性別、遺伝子型、免疫反応、過去の投薬歴、

あるいはブラックルームの研究対象に近い特定の生体条件。

条件はいくらでも考えられます」

 

尊徳が腕を組む。

 

「その場にいた全員が発症していない理由か」

 

「ええ」

 

坂柳は続ける。

 

「綾小路くん、朝霧海斗さん、森下藍さん、ツキさん、他の関係者。

全員が同じ場所にいたわけではありませんが、

少なくとも汚染環境に近かった者は複数いる。それでも発症者は現時点で二人だけ」

 

「堀北鈴音と二階堂麗華」

 

海斗が言った。

 

「だからこそ、二人だけに一致する条件があるはずです」

 

坂柳は画面越しに海斗を見た。

 

「朝霧海斗さん」

 

「何だ」

 

「あなたは冷静でいてください」

 

「冷静だ」

 

「今のあなたは冷静ではありません」

 

海斗は黙った。

 

坂柳はさらに言う。

 

「この件は、感情で動いた者から順に失敗します」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「分かってるっつってんだろ」

 

声が荒くなる。

 

ツキが海斗を見る。

 

「朝霧様」

 

海斗は息を吐いた。

 

「悪い」

 

短く謝った。

 

普段の海斗なら、ここで軽口を挟んだはずだった。

 

だが、今日はなかった。

 

それに気付いたツキの表情が、わずかに曇る。

 

一方。

 

大学病院の別室。

 

綾小路、堀北学、森下藍がいた。

 

森下は知らせを聞いて駆けつけた。

 

最初はいつものように騒がしかった。

 

だが、鈴音の病状を聞いた瞬間、表情が変わった。

 

「……何ですか、それ」

 

森下の声は震えていた。

 

「原因不明って何ですか」

 

学が説明する。

 

麗華も同じ症状で倒れたこと。

 

既知の病気ではないこと。

 

過去の事件との関連が疑われること。

 

森下は聞き終えると、拳を握った。

 

「山内春樹……」

 

その名前を憎々しく呟く。

 

「まだ終わってなかったんですか」

 

綾小路は窓の外を見ていた。

 

夜の大学病院。

 

暗いガラスに、自分の顔が映っている。

 

表情は変わらない。

 

だが内側では、既に複数の可能性を計算していた。

 

病気。

 

薬剤。

 

潜伏。

 

二人だけの発症。

 

人工的に作られたものなら、必ず目的がある。

 

山内が意図して残したものなのか。

 

それとも、施設崩壊による偶発的漏出なのか。

 

どちらにせよ、結果は同じだった。

 

鈴音が倒れた。

 

麗華が倒れた。

 

そして、時間は限られている可能性が高い。

 

森下が綾小路を見る。

 

「綾小路清隆」

 

「何だ」

 

「助かりますよね」

 

綾小路は答えなかった。

 

森下は一歩近づく。

 

「答えてください」

 

「分からない」

 

「分からないじゃ困ります!」

 

森下の声が大きくなった。

 

「堀北鈴音が倒れて、麗華さんも倒れて、

原因が山内春樹の残したものかもしれなくて、それで分からないって何ですか!」

 

「森下」

 

学が制止する。

 

だが森下は止まらない。

 

「嫌です」

 

その声は怒りではなく、恐怖だった。

 

「もう嫌です。誰かが死ぬかもしれないとか、誰かが撃たれるとか、

誰かが爆発に呑まれるとか、そういうのはもう嫌なんです」

 

綾小路は森下を見た。

 

森下の目には涙が浮かんでいた。

 

「やっと普通になったじゃないですか」

 

その言葉は、重かった。

 

やっと普通になった。

 

本当にその通りだった。

 

卒業して。

 

大学へ進んで。

 

別々の生活を始めて。

 

過去が少しずつ遠ざかって。

 

ようやく、普通の日常に手が届きかけていた。

 

それなのに。

 

過去は、終わっていなかった。

 

「助ける」

 

綾小路が言った。

 

森下が顔を上げる。

 

「助ける方法を探す」

 

それは保証ではなかった。

 

慰めでもなかった。

 

だが、綾小路清隆が口にした言葉としては、十分すぎるほど重かった。

 

学もまた静かに頷いた。

 

「俺も全力を尽くす」

 

森下は唇を噛んだ。

 

「……お願いします」

 

翌日。

 

坂柳有栖は都内の研究施設にいた。

 

彼女の前には複数の資料が並んでいる。

 

ブラックルーム関連の残存データ。

 

二階堂家が回収した断片。

 

政府関係者から秘密裏に流れた報告書。

 

そして、白銀禁止区域事件の最終局面に関する記録。

 

「山内春樹……」

 

坂柳はその名前を小さく呟いた。

 

愚か者。

 

そう切り捨てるのは簡単だった。

 

しかし、あの男は単なる愚者ではなかった。

 

歪んでいた。

 

壊れていた。

 

だが、白銀禁止区域の中で作られた怪物だった。

 

その怪物が最後に何を壊したのか。

 

そこに答えがある。

 

坂柳は資料をめくる。

 

施設崩壊時の化学物質漏出リスト。

 

大半は焼失。

 

一部は不明。

 

その中に、気になるコードがあった。

 

「BR-CM-13……?」

 

心筋細胞関連の研究。

 

細胞再生。

 

適合拒絶反応。

 

人工臓器補助。

 

そして失敗例。

 

坂柳の指が止まる。

 

失敗例。

 

心筋細胞の不可逆壊死。

 

潜伏期間不定。

 

発症後進行性。

 

既存検査では検出困難。

 

坂柳の表情から、初めて余裕が消えた。

 

「……最悪ですね」

 

その時、電話が鳴った。

 

相手は綾小路だった。

 

『何か分かったか』

 

「断定はできません」

 

坂柳は資料を見つめたまま答える。

 

「ですが、かなり悪い情報です」

 

『聞こう』

 

「ブラックルームには、人工臓器適合のための薬剤研究がありました。

その副産物として、心筋細胞に不可逆的な障害を与える物質が

作られていた可能性があります」

 

『目的は』

 

「本来は拒絶反応の抑制実験だったようです。しかし失敗した。

細胞を保護するどころか、特定条件下で心筋細胞を破壊する」

 

『それが漏れた可能性があるのか』

 

「ええ」

 

坂柳は短く息を吐く。

 

「山内春樹が破壊した設備から」

 

電話の向こうで沈黙があった。

 

綾小路は何も言わない。

 

だが坂柳には分かった。

 

彼の中で、情報が繋がっている。

 

『治療法は』

 

「現時点では不明です」

 

『進行速度は』

 

「資料上では、発症後はかなり速い」

 

『どれくらいだ』

 

「数ヶ月」

 

短い沈黙。

 

坂柳は続けた。

 

「最悪の場合は、それより短い可能性もあります」

 

綾小路は少しだけ息を吐いた。

 

それは動揺ではない。

 

感情を奥へ押し込む音だった。

 

『海斗には』

 

「まだ伝えていません」

 

『伝えろ』

 

「よろしいのですか?」

 

『隠しても意味がない』

 

「そうですね」

 

坂柳は目を伏せた。

 

「綾小路くん」

 

『何だ』

 

「これは、あなた一人で抱える問題ではありません」

 

『分かっている』

 

「本当に?」

 

坂柳は昨日、海斗にも同じことを言った。

 

冷静でいてください。

 

だが今、綾小路にも同じ危うさを感じていた。

 

海斗は感情が表に出る。

 

綾小路は出ない。

 

それだけの違いで、本質は同じだった。

 

『坂柳』

 

「はい」

 

『助かる可能性が一パーセントでもあるなら探せ』

 

「当然です」

 

『ゼロなら』

 

そこで言葉が途切れた。

 

坂柳は待った。

 

綾小路は数秒後に言った。

 

『ゼロだと分かるまで探せ』

 

坂柳は小さく笑った。

 

「あなたらしいですね」

 

電話は切れた。

 

坂柳は再び資料へ目を落とす。

 

山内の遺産。

 

それは爆弾でも銃弾でもなかった。

 

もっと静かで。

 

もっと残酷で。

 

時間そのものを奪う呪いだった。

 

同日夜。

 

二階堂家系列病院。

 

海斗は病室の外にいた。

 

中では麗華が眠っている。

 

彩も疲れ果てて隣の控室で休んでいた。

 

ツキは廊下の壁際に立っている。

 

「海斗様」

 

「何だ」

 

「少し休んだ方がいい」

 

「眠くねぇ」

 

「昨日も同じことを仰っていました」

 

「昨日も眠くなかった」

 

「嘘だ」

 

「嘘じゃねぇ」

 

「目が赤い」

 

「読書のしすぎだ」

 

「本を開いていません」

 

海斗は黙った。

 

ツキは静かに近づいた。

 

「海斗」

 

その呼び方に、海斗は少しだけ反応した。

 

ツキが仕事ではなく、個人として話す時の呼び方だった。

 

「怖いのか」

 

海斗は笑おうとした。

 

だが笑えなかった。

 

「怖くねぇよ」

 

「嘘だ」

 

「お前、最近嘘判定厳しくねぇか」

 

「海斗が嘘ばかり吐くからだ」

 

海斗は壁に背を預けた。

 

天井を見る。

 

白い照明。

 

病院の匂い。

 

嫌な場所だった。

 

銃弾なら避けられる。

 

敵なら撃てる。

 

罠なら壊せる。

 

爆炎なら走って逃げる。

 

だがこれは違う。

 

見えない。

 

撃てない。

 

壊せない。

 

麗華の中で、何かが進んでいる。

 

それを止める術がない。

 

「ツキ」

 

「何だ」

 

「オレは役に立つのか」

 

ツキは黙った。

 

海斗は自嘲気味に笑った。

 

「銃を持って、敵を撃って、走って、逃げて、壊して、そういうのならできる。でもな」

 

声が少しだけ沈む。

 

「病気相手に何ができるんだよ」

 

ツキは海斗を見つめた。

 

そして言った。

 

「傍にいることはできる」

 

「それだけか」

 

「それだけではない」

 

ツキは続けた。

 

「麗華様は、海斗がいると少し安心する」

 

「そうか?」

 

「そうだ」

 

「本人が言ったのか」

 

「言わない」

 

「だろうな」

 

「でも分かる」

 

ツキは淡々と言った。

 

「私には分かる」

 

海斗は少しだけ目を伏せた。

 

その時、スマートフォンが鳴った。

 

坂柳からだった。

 

海斗は画面を見て、すぐに出る。

 

「何か分かったのか」

 

『ええ』

 

坂柳の声は静かだった。

 

『ですが、悪い話です』

 

海斗の表情が消える。

 

「話せ」

 

坂柳は説明した。

 

ブラックルームの研究薬剤。

 

心筋細胞の破壊。

 

山内が破壊した設備。

 

発症後の進行性。

 

残された時間。

 

海斗は最後まで黙って聞いた。

 

途中で怒鳴らなかった。

 

遮らなかった。

 

ただ聞いていた。

 

それが逆に危うかった。

 

『朝霧さん』

 

坂柳が呼ぶ。

 

「何だ」

 

『冷静でいてください』

 

「それ昨日も聞いた」

 

『今日は昨日以上に必要です』

 

海斗は短く笑った。

 

乾いた笑いだった。

 

「山内の野郎が残した毒で、麗華の心臓が壊れてるってことか」

 

『断定にはまだ早いですが、可能性は高いです』

 

「治せんのか」

 

『探しています』

 

「今の時点では?」

 

沈黙。

 

それが答えだった。

 

海斗は目を閉じた。

 

「分かった」

 

『分かっていないと思います』

 

「分かってる」

 

『朝霧さん』

 

「坂柳」

 

海斗の声が低くなる。

 

「麗華は助かるんだよな」

 

坂柳はすぐに答えなかった。

 

海斗はそれ以上聞かなかった。

 

答えを聞きたくなかったわけではない。

 

答えがまだ存在しないと分かったからだ。

 

通話を切る。

 

廊下に静寂が戻る。

 

ツキは海斗を見ていた。

 

「海斗」

 

「山内の遺産だとよ」

 

海斗は呟いた。

 

「死んだ後まで、あいつは人の人生を壊しに来やがった」

 

ツキは何も言わない。

 

海斗は病室の扉を見る。

 

その向こうで麗華が眠っている。

 

いつもなら偉そうに命令する。

 

海斗を叱る。

 

無理をするなと言えば、あなたに言われたくないと返す。

 

そんな麗華が、今は静かに眠っている。

 

その事実が、海斗には耐え難かった。

 

「守ったはずだったんだけどな」

 

小さな声だった。

 

ツキには聞こえた。

 

「何を」

 

「全部だよ」

 

海斗は笑わなかった。

 

「禁止区域も抜けた。雪山も抜けた。ホワイトルームも潰した。

麗華も助けた。ツキも戻った。全部終わったと思ってた」

 

そこで言葉が止まる。

 

「終わってなかった」

 

ツキは海斗の横に立った。

 

「まだ終わっていない」

 

「そうだな」

 

海斗は顔を上げる。

 

その目は暗かった。

 

「まだ終わってねぇ」

 

その声に、ツキは不安を覚えた。

 

戦う相手がいる時の海斗の声だった。

 

だが今、敵はいない。

 

死んだ山内しかいない。

 

それでも海斗の中で、何かが静かに動き始めていた。

 

数日後。

 

堀北鈴音と二階堂麗華の検査結果は、さらに悪化していた。

 

心筋細胞の壊死。

 

進行性。

 

一般的な治療への反応は極めて弱い。

 

原因物質は体内からほとんど検出できない。

 

だが、細胞レベルでは確実に破壊が進んでいる。

 

坂柳はその報告書を読み、静かに机へ置いた。

 

「猶予は長くありませんね」

 

隣にいた尊徳が言った。

 

「治療法は」

 

「既存の投薬治療では無理でしょう」

 

「移植は?」

 

「条件が悪すぎます。進行速度、適合問題、待機期間。現実的ではありません」

 

「人工心臓は」

 

坂柳は目を細めた。

 

「可能性としてはあります」

 

尊徳はその言葉に反応した。

 

「あるのか」

 

「ええ。ただし、まだ希望と呼ぶには早い」

 

「どういう意味だ」

 

坂柳は資料を一枚取り出す。

 

「次世代型人工心臓。

二階堂グループと海外研究機関が共同開発していた未承認機です。

通常の補助人工心臓ではなく、完全置換型に近い」

 

「使えるのか」

 

「理論上は」

 

「問題は」

 

「一基しかありません」

 

尊徳の表情が硬くなる。

 

「一基?」

 

「ええ」

 

坂柳は静かに言った。

 

「そして現時点で適合可能性があるのは、

堀北鈴音さんと二階堂麗華さんの二人です」

 

部屋が静まり返った。

 

まだ、その言葉は誰にも伝えられていない。

 

綾小路にも。

 

海斗にも。

 

鈴音にも。

 

麗華にも。

 

だが、運命は既に次の段階へ進み始めていた。

 

山内の遺産。

 

それは二人の命を奪うだけではなかった。

 

生き残る可能性すら、一つだけに絞ろうとしていた。

 

そしてその一つを巡って。

 

綾小路清隆と朝霧海斗は。

 

やがて、互いの銃口を向け合うことになる。

 

まだ誰も、その未来を止める方法を知らなかった。




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