ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

64 / 64
第64話 残された時間

時間とは、普段は意識しないものだった。

 

朝起きる。

 

講義へ向かう。

 

食事を取る。

 

誰かと話す。

 

眠る。

 

その繰り返しの中で、時間は当然のように流れていく。

 

一日。

 

一週間。

 

一ヶ月。

 

一年。

 

それらは未来へ向かって積み重なっていくものだと、誰もが無意識に信じている。

 

だが。

 

終わりが見えた瞬間。

 

時間は急に姿を変える。

 

流れていくものではなく。

 

削られていくものになる。

 

堀北鈴音がその感覚を初めて明確に理解したのは、

医師から検査結果を聞かされた時だった。

 

大学病院の特別診察室。

 

白い壁。

 

机。

 

椅子。

 

モニターに映し出された心臓の画像。

 

医師が淡々と説明している。

 

専門用語。

 

数値。

 

検査結果。

 

鈴音はそれを聞いていた。

 

聞いているつもりだった。

 

だが、途中から音が遠くなった。

 

「心筋細胞の壊死が進行しています」

 

その一文だけが、妙にはっきり耳に残った。

 

壊死。

 

進行。

 

その二つの言葉が頭の中で何度も反響する。

 

「現時点では、既存の心筋炎、心筋症、虚血性疾患とは一致しません」

 

医師は続ける。

 

「薬物性の可能性も検討していますが、一般的な毒物反応は出ていません」

 

学は隣で黙って聞いていた。

 

綾小路もいる。

 

二人とも表情は変わらない。

 

だが、鈴音には分かった。

 

悪い話なのだ。

 

とても悪い話。

 

「治療法は?」

 

鈴音は自分で聞いた。

 

声は思ったより冷静だった。

 

医師は一瞬だけ間を置いた。

 

「現時点では、進行を遅らせる処置を中心に行います」

 

「治す方法ではないのね」

 

医師は答えに詰まった。

 

それで十分だった。

 

鈴音は視線を落とす。

 

膝の上で握った手。

 

自分の手。

 

何も変わっていないように見える。

 

だが、その内側で心臓だけが静かに壊れている。

 

そう考えると、奇妙な気分だった。

 

痛みがずっと続いているわけではない。

 

苦しみ続けているわけでもない。

 

意識もある。

 

話せる。

 

歩ける。

 

それなのに、身体の奥では確実に何かが終わりへ向かっている。

 

「どれくらい時間があるの」

 

鈴音は聞いた。

 

学の表情がわずかに動く。

 

「鈴音」

 

「聞いておくべきでしょう」

 

鈴音は兄を見た。

 

「知らないまま過ごす方が怖いわ」

 

医師は深く息を吐いた。

 

「断定はできません」

 

「目安で構わないわ」

 

「進行速度から見て、数ヶ月単位で悪化する可能性があります」

 

数ヶ月。

 

鈴音はその言葉を受け止めた。

 

不思議と、すぐには恐怖が来なかった。

 

現実感が薄い。

 

数ヶ月後に死ぬかもしれない。

 

そんなことを言われても、人間はすぐには理解できないのかもしれない。

 

綾小路が口を開いた。

 

「進行を止める可能性は」

 

「現在、複数の治療法を検討しています。

ただし、原因物質が特定できていないため、根本治療は困難です」

 

「人工心臓や移植は」

 

医師は少し表情を曇らせた。

 

「選択肢として検討はします。しかし通常の移植は時間的に難しい。

人工心臓についても、適合や承認、機器の確保など問題が多い」

 

鈴音は静かに聞いていた。

 

自分の話なのに、どこか他人事のようだった。

 

診察が終わり、病室へ戻る途中。

 

廊下の窓からキャンパスの一部が見えた。

 

学生たちが歩いている。

 

笑っている。

 

スマートフォンを見ながら友人と話している。

 

少し前まで、自分もあちら側にいた。

 

同じように講義を受け、学食で食事をし、兄や綾小路と言葉を交わしていた。

 

その日常が、今はガラスの向こう側にある。

 

手を伸ばしても届かない場所にあるように感じた。

 

「鈴音」

 

学が声をかける。

 

「何」

 

「無理をするな」

 

「分かっているわ」

 

「本当にか」

 

「兄さんは私を何だと思っているの」

 

「昔から無理をする妹だと思っている」

 

鈴音は少しだけ目を伏せた。

 

反論できなかった。

 

綾小路は黙って横を歩いている。

 

鈴音は彼を見た。

 

「あなたも何か言いたそうね」

 

「言っても聞かないだろう」

 

「そうね」

 

「なら言わない」

 

「少しは心配している素振りくらい見せたらどう?」

 

「している」

 

「分かりにくいわ」

 

「そうか」

 

「ええ」

 

鈴音は小さく息を吐いた。

 

そのやり取りは、高校時代と変わらない。

 

変わらないはずなのに。

 

今だけは少し違った。

 

言葉の一つ一つが、妙に重い。

 

次に同じ会話ができる保証など、どこにもない。

 

その事実が、胸の奥に冷たい針のように刺さった。

 

一方。

 

二階堂家系列病院。

 

麗華も同じ説明を受けていた。

 

特別病室ではなく、会議室に近い診察室。

 

麗華はベッドではなく椅子に座っていた。

 

病人として扱われることを嫌ったためだった。

 

医師団は慎重に言葉を選んでいた。

 

目の前にいるのは二階堂家当主。

 

そして患者本人。

 

さらに隣には二階堂源蔵。

 

彩。

 

海斗。

 

ツキ。

 

尊徳。

 

緊張しない方が無理だった。

 

「心筋細胞の壊死が進行しています」

 

医師が説明する。

 

「進行速度は?」

 

麗華は即座に聞いた。

 

その声には動揺がなかった。

 

会議で業績報告を受けているような口調だった。

 

医師は資料を確認する。

 

「現時点では、かなり速いと考えられます」

 

「具体的に」

 

「数ヶ月以内に重篤な心不全へ進行する可能性があります」

 

彩の顔が青ざめる。

 

「そんな……」

 

ツキは無表情のままだった。

 

だが、その指先はわずかに震えていた。

 

海斗は何も言わない。

 

ただ、椅子の肘掛けを強く握っている。

 

麗華は静かに頷いた。

 

「治療法は」

 

「進行を抑えるための投薬、補助循環装置の検討、

人工心臓の可能性などを含めて検討中です」

 

「検討中ではなく、実行可能なものを聞いているの」

 

医師が黙る。

 

麗華はその沈黙だけで理解した。

 

「つまり、現時点ではないのね」

 

「……最善を尽くしています」

 

「それは答えではないわ」

 

麗華の声は冷たかった。

 

だが、それは医師を責めているのではない。

 

自分の状況を正確に把握しようとしているだけだった。

 

源蔵が口を開く。

 

「麗華」

 

「お父様」

 

麗華は父を見る。

 

「二階堂グループの医療部門、海外研究機関、提携病院、全て動かしてください」

 

「既に動かしている」

 

「さらに広げて」

 

「分かった」

 

「私が倒れたことは、外部に漏らさないで」

 

「限界はある」

 

「限界まで隠して」

 

源蔵は娘を見る。

 

「お前は休むべきだ」

 

「当主が突然倒れたと知られれば、株価にも契約にも影響します」

 

「今は会社の話ではない」

 

「会社の話よ」

 

麗華は即答した。

 

「私がいなくなった時、二階堂家が混乱すれば彩に負担がかかる」

 

彩が顔を上げる。

 

「お姉様……」

 

「だから今のうちに整理しておく」

 

海斗が低く言った。

 

「死ぬ前提で話すな」

 

麗華は海斗を見る。

 

「現実的な備えよ」

 

「ふざけんな」

 

「ふざけていないわ」

 

「じゃあ余計に腹立つんだよ」

 

海斗は立ち上がった。

 

「お前は何でそんなに冷静なんだ」

 

「取り乱して治るならそうするわ」

 

「そういう話じゃねぇ」

 

「ではどういう話?」

 

麗華の声も少しだけ強くなった。

 

「泣けばいいの?怖いと言えばいいの?私は死にたくありませんと叫べばいいの?」

 

彩が息を呑む。

 

ツキが目を伏せる。

 

麗華は海斗を睨むように見た。

 

「それで何か変わるの?」

 

海斗は何も言えなかった。

 

麗華は小さく息を吐いた。

 

「私は二階堂麗華よ」

 

その声は静かだった。

 

「泣いても、叫んでも、倒れても、その事実は変わらない。

なら最後まで二階堂麗華としているだけよ」

 

海斗は拳を握る。

 

「最後とか言うな」

 

「可能性の話よ」

 

「言うな」

 

「海斗」

 

「言うな!」

 

その声が部屋に響いた。

 

誰も動けなかった。

 

海斗自身も驚いたように目を見開く。

 

怒鳴るつもりはなかった。

 

だが止められなかった。

 

麗華は海斗を見つめる。

 

しばらく沈黙が落ちた。

 

やがて、麗華が言った。

 

「……ごめんなさい」

 

その一言に、海斗の顔が歪んだ。

 

麗華が謝ることなど滅多にない。

 

まして今のは、麗華が悪いわけではない。

 

それなのに謝った。

 

海斗は椅子に座り直す。

 

「悪い」

 

短く言った。

 

「怒鳴るつもりはなかった」

 

麗華は首を横に振った。

 

「いいわ」

 

それ以上、誰も話さなかった。

 

診察室には、ただ医療機器の電子音だけが静かに響いていた。

 

その夜。

 

坂柳有栖は複数の医療機関と連絡を取っていた。

 

海外。

 

国内。

 

非公開研究所。

 

二階堂グループの系列施設。

 

政府関係の裏ルート。

 

使えるものは全て使った。

 

だが、得られる答えはどれも同じだった。

 

未知の心筋細胞壊死。

 

原因物質の特定困難。

 

通常治療では進行阻止困難。

 

移植は時間的に現実的でない。

 

人工心臓についても、汎用品では適合困難。

 

坂柳は机に資料を並べた。

 

その中に一つだけ、異質なファイルがあった。

 

次世代型完全置換人工心臓。

 

開発コード。

 

N-HEART 01。

 

二階堂グループと海外研究機関が共同で開発していた試作機。

 

本来なら数年後に臨床試験へ進む予定だった。

 

しかし現在、実動可能な試作機は一基のみ。

 

しかも、その一基はまだ正式承認されていない。

 

成功する保証もない。

 

だが、理論上は二人の症状に対して唯一効果が期待できる。

 

坂柳は椅子にもたれた。

 

「一基のみ、ですか」

 

嫌な言葉だった。

 

まだ誰にも伝える段階ではない。

 

だが、この情報はいずれ全員に届く。

 

その時、何が起こるか。

 

坂柳には分かっていた。

 

綾小路清隆は堀北鈴音を選ぶ。

 

朝霧海斗は二階堂麗華を選ぶ。

 

どちらも当然だ。

 

どちらも間違っていない。

 

だからこそ、最悪だった。

 

坂柳は目を閉じる。

 

盤面として見れば単純だ。

 

駒は二つ。

 

救える命は一つ。

 

選ばれなかった命は失われる。

 

だがこれはゲームではない。

 

坂柳有栖は、昔ならこの状況を冷静に眺められたかもしれない。

 

美しくない。

 

合理的ではない。

 

そう言って片付けられたかもしれない。

 

だが今は違う。

 

堀北鈴音も。

 

二階堂麗華も。

 

綾小路清隆も。

 

朝霧海斗も。

 

全員、既に盤面上の駒ではなかった。

 

「面倒なものですね」

 

坂柳は小さく呟いた。

 

「人間関係というものは」

 

その声には、珍しく疲労が滲んでいた。

 

翌朝。

 

大学病院。

 

鈴音は病室の窓際に立っていた。

 

本来ならベッドにいるべきだった。

 

だが、横になっているだけでは気が滅入る。

 

病院の中庭が見える。

 

朝の光。

 

患者の散歩。

 

看護師の声。

 

何もかもが静かだった。

 

扉がノックされる。

 

「どうぞ」

 

入ってきたのは学だった。

 

手には紙袋。

 

「朝食を食べていないと聞いた」

 

「食欲がないの」

 

「少しでいい」

 

「兄さんは本当に過保護ね」

 

「今だけだ」

 

学は紙袋を置いた。

 

中には小さなサンドイッチと飲み物。

 

鈴音はそれを見て苦笑した。

 

「昔なら、体調管理も自己責任だと言っていたわ」

 

「昔ならな」

 

「変わったのね」

 

「お互いにな」

 

鈴音は椅子に座る。

 

サンドイッチを一口だけ食べた。

 

味はよく分からなかった。

 

「兄さん」

 

「何だ」

 

「私は死ぬのかしら」

 

学の表情が固まる。

 

鈴音は静かに続けた。

 

「責めているわけじゃない。怖がらせたいわけでもない。ただ、聞きたいの」

 

学は妹を見つめた。

 

高校時代から、鈴音は強くあろうとしていた。

 

兄に認められたくて。

 

クラスを導くために。

 

自分の弱さを隠すために。

 

だが今、目の前にいる鈴音は違う。

 

強がりながらも、確かに恐怖を抱いている。

 

それを隠しきれていない。

 

学は静かに答えた。

 

「死なせない」

 

「答えになっていないわ」

 

「それが答えだ」

 

「兄さんらしくない」

 

「そうかもしれない」

 

学は視線を落とした。

 

「だが、今の俺にはそれしか言えない」

 

鈴音は兄の横顔を見た。

 

堀北学。

 

完璧な兄。

 

ずっと遠くにいた存在。

 

追いつこうとして、何度も失敗した存在。

 

その兄が今、妹を前にして無力さを隠せずにいる。

 

鈴音の胸が少し痛んだ。

 

病気の痛みとは違う。

 

もっと人間らしい痛みだった。

 

「ごめんなさい」

 

鈴音が言った。

 

「兄さんにそんな顔をさせるつもりはなかった」

 

学は首を横に振る。

 

「謝るな」

 

「ええ」

 

しばらく沈黙が流れた。

 

鈴音は窓の外を見る。

 

「私、大学に入ってから少し楽しかったの」

 

学は黙って聞く。

 

「高校ではずっと戦っていた気がする。

クラスのため。自分のため。兄さんに追いつくため。誰かに負けないため」

 

鈴音は小さく笑った。

 

「でも大学では、少しだけ普通だった」

 

普通。

 

その言葉は、今の鈴音には眩しすぎた。

 

「講義を受けて、課題に追われて、学食に文句を言って、

森下さんの連絡に呆れて、あなたや綾小路と話して」

 

鈴音は目を伏せる。

 

「そういうの、悪くなかった」

 

学は言った。

 

「これからも続く」

 

「断言するのね」

 

「続ける」

 

「兄さん」

 

鈴音は少しだけ微笑んだ。

 

「ありがとう」

 

学は何も言わなかった。

 

その言葉を受け取るには、まだ早すぎると思った。

 

同じ頃。

 

二階堂家系列病院。

 

麗華は病室で資料を読んでいた。

 

当然、医師からは止められている。

 

だが、麗華は聞かなかった。

 

「お姉様」

 

彩が困ったように言う。

 

「休んでください」

 

「休んでいるわ」

 

「資料を読んでいます」

 

「座っているもの」

 

「それは休んでいるとは言いません」

 

麗華はページをめくる。

 

「彩」

 

「はい」

 

「あなたには、二階堂家の仕事を少しずつ覚えてもらう必要がある」

 

彩の表情が曇る。

 

「そんなことを今言わないでください」

 

「今だから言うのよ」

 

「嫌です」

 

彩にしては珍しく、はっきりした拒絶だった。

 

麗華は顔を上げる。

 

「彩」

 

「嫌です」

 

彩はもう一度言った。

 

「お姉様がいなくなる前提の話なんて聞きたくありません」

 

「前提ではないわ」

 

「同じです」

 

彩の目に涙が浮かぶ。

 

「私はお姉様の代わりになんてなれません」

 

麗華は静かに妹を見る。

 

彩は震える声で続ける。

 

「お姉様みたいに強くない。人前で堂々と話せない。

大きな会社を動かすこともできない。怖い人たちと交渉することもできない」

 

「最初からできる人間はいないわ」

 

「お姉様はできました」

 

「できるように見せていただけよ」

 

彩は言葉を失う。

 

麗華は資料を閉じた。

 

「私も怖かったわ」

 

その言葉に、彩は目を見開いた。

 

「え……」

 

「当主になった時、何度も逃げたいと思った。

お父様のように振る舞おうとして、失敗して、

誰にも弱音を吐けなくて、毎晩一人で考えていた」

 

麗華は少しだけ笑った。

 

「海斗には偉そうにしていたけれど」

 

「……お姉様が?」

 

「意外?」

 

「はい」

 

彩は正直に答えた。

 

麗華は苦笑する。

 

「でしょうね」

 

そして、妹の手を取った。

 

「彩。あなたは私になる必要はないわ」

 

「でも」

 

「あなたはあなたのままでいい」

 

麗華の声は優しかった。

 

「二階堂家に必要なのは、強い当主だけではない。人を信じられる人間も必要よ」

 

彩は涙を拭った。

 

「そんな話、今しないでください」

 

「今しかできないかもしれない」

 

「お姉様」

 

「ごめんなさい」

 

麗華はそう言った。

 

「でも聞いて」

 

彩は唇を噛む。

 

聞きたくない。

 

だが、聞かなければならない。

 

その二つの感情の間で揺れていた。

 

扉の外。

 

海斗はその会話を聞いていた。

 

入るつもりだった。

 

だが、足が止まった。

 

麗華が怖かったと言った。

 

初めて聞いた。

 

いつも強く。

 

冷静で。

 

偉そうで。

 

負けず嫌いで。

 

何でも背負って。

 

それが二階堂麗華だと思っていた。

 

だが違った。

 

彼女も怖かったのだ。

 

怖いまま立っていた。

 

海斗は静かに拳を握る。

 

「何で今さら言うんだよ」

 

誰にも聞こえない声で呟いた。

 

もっと早く聞いていれば。

 

もっと違う言葉をかけられたのかもしれない。

 

もっと麗華を楽にできたのかもしれない。

 

そんな意味のない後悔が胸に溜まっていく。

 

そこへ、ツキが近づいてきた。

 

「入らないのか」

 

「今はやめとく」

 

「珍しい」

 

「空気くらい読む」

 

「本当に珍しい」

 

「おい」

 

いつもならそこで軽口が続いた。

 

だが海斗は笑わなかった。

 

ツキもそれ以上は言わなかった。

 

海斗の横顔を見て、静かに言う。

 

「海斗」

 

「何だ」

 

「顔が怖い」

 

「元からだ」

 

「違う」

 

ツキは首を横に振る。

 

「今の顔は、戦う前の顔だ」

 

海斗は黙った。

 

「誰と戦うつもりだ」

 

「まだ分からねぇ」

 

「敵はいない」

 

「そうだな」

 

「山内は死んでいる」

 

「ああ」

 

「なら誰と戦う」

 

海斗は病室の扉を見た。

 

その向こうに麗華がいる。

 

「運命ってやつかもな」

 

ツキは眉を寄せた。

 

「似合わない」

 

「だろうな」

 

「海斗はそんな言葉を使わない」

 

「じゃあ何て言えばいい」

 

ツキは答えられなかった。

 

海斗も答えを持っていなかった。

 

ただ一つだけ分かっていた。

 

麗華を失う未来だけは認められない。

 

そのためなら、自分が何になるかなど、どうでもよかった。

 

夕方。

 

病院の屋上。

 

綾小路は一人で立っていた。

 

遠くに街が見える。

 

夕日がビルの隙間へ沈みかけている。

 

風が冷たい。

 

スマートフォンが鳴る。

 

相手は坂柳。

 

「何か分かったか」

 

『複数の治療法を当たっていますが、状況は厳しいですね』

 

「人工心臓は」

 

『候補があります』

 

綾小路の目がわずかに動いた。

 

「使えるのか」

 

『可能性はあります』

 

「問題は」

 

『まだ詳細確認中です』

 

坂柳はそこで言葉を濁した。

 

綾小路はそれに気付く。

 

「隠しているな」

 

『確定前の情報を伝えるのは危険ですので』

 

「坂柳」

 

『……一基のみです』

 

風の音が強く聞こえた。

 

綾小路は黙った。

 

坂柳は続ける。

 

『次世代型人工心臓。現時点で理論上使用可能な試作機は一基だけです』

 

「適合者は」

 

『堀北鈴音さん。そして二階堂麗華さん』

 

沈黙。

 

長い沈黙だった。

 

綾小路は夕日を見ている。

 

表情は変わらない。

 

だが、その内側で何かが冷たく沈んでいく。

 

一基。

 

二人。

 

それが意味するところは明白だった。

 

「海斗は知っているのか」

 

『まだです』

 

「伝えるな」

 

『いずれ分かります』

 

「今は伝えるな」

 

坂柳は少し黙った。

 

『綾小路くん』

 

「何だ」

 

『あなたは何を考えていますか』

 

「治療法を探す」

 

『それだけですか』

 

「それだけだ」

 

『本当に?』

 

綾小路は答えなかった。

 

坂柳は静かに言う。

 

『この情報は、あなたと朝霧海斗さんの関係を壊します』

 

「分かっている」

 

『分かっていても止められないかもしれません』

 

「それも分かっている」

 

『それでも?』

 

綾小路は夕日から目を逸らさなかった。

 

「オレは堀北を助ける」

 

坂柳は何も言わなかった。

 

その一言だけで十分だった。

 

まだ戦いは始まっていない。

 

だが、最初の線は引かれた。

 

夜。

 

堀北鈴音は病室で眠れずにいた。

 

胸の奥に時折痛みが走る。

 

強い痛みではない。

 

だが、不快だった。

 

自分の身体の中に、知らない何かがいるような感覚。

 

ベッドの横には、学が持ってきた本。

 

森下が置いていった果物。

 

そして綾小路が無言で置いていった飲み物。

 

鈴音はそれを見て小さく笑った。

 

「分かりにくい人」

 

窓の外を見る。

 

夜の街。

 

無数の灯り。

 

その一つ一つの中に、誰かの日常がある。

 

自分の日常はどうなるのだろう。

 

大学へ戻れるのか。

 

兄とまた学食へ行けるのか。

 

森下の騒がしい連絡に呆れることができるのか。

 

綾小路と、どうでもいい会話ができるのか。

 

考えるほど、胸が苦しくなる。

 

死にたくない。

 

その言葉が、初めてはっきり浮かんだ。

 

鈴音は目を閉じる。

 

高校時代、何度も負けたくないと思った。

 

退学したくないと思った。

 

クラスを守りたいと思った。

 

だが、死にたくないと思ったことは、ほとんどなかった。

 

死が遠すぎたからだ。

 

今は違う。

 

死が、自分のすぐ横に座っているような気がした。

 

「……私は」

 

声が震える。

 

誰もいない病室で。

 

堀北鈴音は初めて、弱音を零した。

 

「まだ、生きたい」

 

その声は、夜の静けさに溶けて消えた。

 

同じ夜。

 

二階堂麗華もまた眠れずにいた。

 

病室の照明は落とされている。

 

彩は隣の控室で休んでいる。

 

源蔵はまだどこかで交渉を続けている。

 

ツキは廊下。

 

海斗もおそらく近くにいる。

 

麗華は天井を見つめる。

 

死ぬ。

 

その可能性を、頭では受け入れていた。

 

当主として必要な手配も考えている。

 

彩への引き継ぎ。

 

会社の安定。

 

源蔵への報告。

 

海斗とツキの今後。

 

やるべきことはいくらでもある。

 

だが。

 

心は追いついていなかった。

 

麗華は布団を握る。

 

怖い。

 

認めたくないが、怖かった。

 

二階堂麗華としてではなく。

 

一人の人間として。

 

まだ見たいものがある。

 

まだやりたいことがある。

 

彩の成長を見たい。

 

ツキともっと話したい。

 

海斗のくだらない軽口に呆れたい。

 

また庭園で紅茶を飲みたい。

 

もっと普通の日を過ごしたい。

 

「……嫌ね」

 

麗華は小さく呟いた。

 

「今さら、こんなことを思うなんて」

 

涙は出なかった。

 

出せなかった。

 

泣き方を忘れてしまったようだった。

 

その時、扉の向こうから小さな音がした。

 

誰かがいる。

 

麗華はすぐに分かった。

 

「海斗」

 

扉の向こうが静かになる。

 

「いるのでしょう」

 

しばらくして、扉が少し開いた。

 

海斗が顔を出す。

 

「起きてたのか」

 

「眠れないの」

 

「そうか」

 

「あなたこそ寝なさい」

 

「眠れねぇ」

 

「でしょうね」

 

海斗は病室に入った。

 

椅子に座る。

 

いつものように足を組まない。

 

ふざけた態度も取らない。

 

ただ静かに座っている。

 

麗華はそれを見て、少しだけ寂しくなった。

 

「軽口は?」

 

「今言ったら怒るだろ」

 

「怒るわね」

 

「だろ」

 

短い会話。

 

それだけでも少しだけ楽になった。

 

麗華は海斗を見る。

 

「怖い?」

 

海斗は一瞬黙った。

 

「怖い」

 

正直な答えだった。

 

麗華は驚いた。

 

「あなたがそんなことを言うのね」

 

「嘘ついてもバレるからな」

 

「ツキに?」

 

「お前にも」

 

麗華は小さく笑った。

 

その笑顔は弱かった。

 

海斗は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 

「麗華」

 

「何」

 

「死ぬな」

 

あまりにも単純な言葉だった。

 

命令でもなく。

 

願いでもなく。

 

叫びに近かった。

 

麗華は海斗を見る。

 

「努力するわ」

 

「努力じゃ足りねぇ」

 

「ではどうしろと?」

 

「分からねぇ」

 

海斗は悔しそうに言った。

 

「分からねぇけど、死ぬな」

 

麗華は目を伏せた。

 

「海斗」

 

「何だ」

 

「もしもの時は」

 

「聞かねぇ」

 

「聞きなさい」

 

「嫌だ」

 

「子供ね」

 

「子供でいい」

 

海斗は言った。

 

「今だけは聞かねぇ」

 

麗華はしばらく黙った。

 

そして、諦めたように微笑んだ。

 

「本当に、面倒な人」

 

「お前に言われたくねぇよ」

 

今度は少しだけ、いつもの海斗だった。

 

麗華は目を閉じる。

 

「少し眠るわ」

 

「ああ」

 

「そこにいて」

 

海斗は動きを止めた。

 

麗華は目を閉じたまま言う。

 

「命令よ」

 

海斗は静かに答えた。

 

「了解、当主様」

 

麗華は少しだけ笑った。

 

そして、ゆっくり眠りに落ちていった。

 

海斗はその寝顔を見ていた。

 

朝まで。

 

一度も目を逸らさなかった。

 

翌日。

 

坂柳有栖は最終的な中間報告書を作成した。

 

病名はまだ存在しない。

 

原因物質も完全には特定されていない。

 

だが、仮称だけが記された。

 

BR-CM症候群。

 

通称。

 

山内の遺産。

 

発症者。

 

堀北鈴音。

 

二階堂麗華。

 

進行性心筋細胞壊死。

 

推定残存期間。

 

数ヶ月。

 

根本治療。

 

未確立。

 

唯一の有力候補。

 

次世代型人工心臓。

 

使用可能数。

 

一基。

 

坂柳は報告書の最後の行を見つめた。

 

その一行は、まるで死刑宣告のようだった。

 

まだ誰にも正式には伝えていない。

 

だが、いつまでも隠せるものではない。

 

綾小路清隆は既に知っている。

 

いずれ朝霧海斗も知る。

 

その時。

 

友情は試される。

 

いや。

 

試されるのではない。

 

壊される。

 

坂柳は静かに目を閉じた。

 

この物語には、黒幕がいない。

 

誤解もない。

 

洗脳もない。

 

あるのは。

 

二つの命と。

 

一つの希望。

 

そして。

 

残された時間だけだった。




モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

ようこそ暗殺者の卵がいる教室へ(作者:塩安)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

暗殺教室の潮田渚スペックのオリ主が、よう実世界を好き勝手に楽しむ話▼アンチ・ヘイトは念の為


総合評価:8188/評価:8.7/連載:27話/更新日時:2026年05月31日(日) 18:08 小説情報

ようこそ百合至上主義のハーレムへ(作者:らっきー(16代目))(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

無貌の神様のお陰でよう実の世界にTS転生した?ならばやるのはただ1つ──ハーレム作りだ。▼弱みを握ったり借金を背負わせたりしながら百合ハーレムを作る話。▼※造花で作った百合の花なのでもしかしたらタイトルをとせがらハーレムとかに変えるかもしれません


総合評価:11463/評価:8.92/完結:51話/更新日時:2026年06月24日(水) 07:03 小説情報

いつからここが尸魂界だと錯覚していた? (作者:yvrararara)(原作:ようこそ実力至上主義の教室へ)

「私が天に立つ(※友達たくさんできるかな。)」▼現代日本で平凡な生活を送っていたはずが、目を覚ますと『BLEACH』の絶対的ラスボス・藍染惣右介(5歳)に転生していた。▼霊力も斬魄刀もない『よう実』の世界で彼に与えられたのは、完璧な肉体と頭脳、そして普通の言葉が勝手にラスボス風ポエムに変換される理不尽な呪いだった。▼※Geminiを利用して加筆修正しています…


総合評価:15960/評価:8.4/連載:135話/更新日時:2026年08月07日(金) 21:59 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>