ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第72話 誰も望まなかった戦争

残された時間は、六日。

 

その数字は、誰の頭からも離れなかった。

 

六日。

 

一週間にも満たない。

 

だが、地獄を始めるには十分すぎる時間だった。

 

二階堂グループ医療研究棟。

 

地下第三区画。

 

そこに、N-HEART 01は保管されていた。

 

世界に一基しか存在しない次世代型人工心臓。

 

堀北鈴音を救うかもしれない装置。

 

二階堂麗華を救うかもしれない装置。

 

そして、綾小路清隆と朝霧海斗を敵同士に変えた装置。

 

低温保管室の周囲には、三重の警備ラインが敷かれていた。

 

第一ライン。

 

研究棟外周。

 

二階堂グループ直属警備部隊。

 

第二ライン。

 

地下搬入口、医療スタッフ専用通路、非常階段、屋上ヘリポート。

 

第三ライン。

 

保管室前。

 

武装警備員。

 

生体認証。

 

監視カメラ。

 

電子ロック。

 

さらに、その警備計画の中心にいるのが朝霧海斗だった。

 

黒いロングコート。

 

無表情。

 

以前なら会議室に入るだけで空気を乱していた男が、

今は逆に空気そのものを凍らせていた。

 

大型モニターに施設図が映し出されている。

 

海斗はその前に立ち、警備責任者たちの報告を聞いていた。

 

「外周の巡回間隔は?」

 

「五分ごとです」

 

「長い。三分にしろ」

 

「了解しました」

 

「地下搬入口は?」

 

「封鎖済みです。搬入用エレベーターも停止しています」

 

「停止するな」

 

警備責任者が顔を上げる。

 

「停止しないのですか?」

 

「停止していたら、綾小路は別ルートを探す。使えるように見せておけ」

 

「罠ですか」

 

「罠だと思わせるための罠だ」

 

会議室が静まる。

 

海斗は続ける。

 

「綾小路は鍵が閉まっている場所へは来ない。

開いている理由を疑う。疑った上で、それでも必要なら使う。だから使わせる」

 

「その場合、突破される危険が」

 

「突破される前提で次を置け」

 

海斗は赤いマーカーで施設図に印を付ける。

 

「地下搬入口を第一誘導点にする。そこで止めるんじゃない。

進ませる。だが進ませる先はこっちが決める」

 

別の責任者が息を呑んだ。

 

「つまり、侵入経路を制御する」

 

「ああ」

 

海斗は低く言った。

 

「綾小路を閉じ込めるんじゃねぇ。歩かせる道をこっちで作る」

 

それは、単なる警備計画ではなかった。

 

狩りだった。

 

しかも相手は、最も危険な獲物。

 

いや、獲物ですらない。

 

同じ狩人だった。

 

「医療スタッフの動線は?」

 

「別棟へ移しています」

 

「駄目だ」

 

「駄目、ですか?」

 

「不自然すぎる」

 

海斗は即答した。

 

「完全に避難させれば、逆に本命の場所が分かる。必要最低限は残せ。

だが本物とダミーを混ぜる。医師、看護師、研究員。全員の認証を二重化しろ」

 

「綾小路が医療スタッフへ偽装する可能性ですか」

 

「可能性じゃねぇ。やるならそこだ」

 

海斗は一瞬だけ目を伏せた。

 

「綾小路は銃を撃つより、相手の前提を壊すのが上手い」

 

警備責任者たちは黙って聞いていた。

 

朝霧海斗は綾小路清隆を知っている。

 

その事実が、二階堂側にとって最大の武器だった。

 

同時に。

 

綾小路側にとって最大の壁だった。

 

会議が終わると、警備員たちは一斉に動き出した。

 

監視カメラの再配置。

 

ダミー認証の生成。

 

偽の隙。

 

本物の隙。

 

誘導ルート。

 

遮断ポイント。

 

全てが海斗の指示で組み上がっていく。

 

その様子を、ツキは会議室の隅で見ていた。

 

海斗は優秀だった。

 

それは分かっている。

 

昔からそうだった。

 

ふざけているように見えて、観察力がある。

 

粗野に見えて、判断が速い。

 

軽口を叩きながら、誰よりも状況を読んでいる。

 

だが今は違う。

 

その能力が、全て戦争のために使われている。

 

麗華を守るため。

 

人工心臓を守るため。

 

綾小路を止めるため。

 

ツキはそれが怖かった。

 

「朝霧様」

 

警備責任者の一人が言う。

 

「万が一、綾小路清隆が保管室まで到達した場合は」

 

海斗は振り返る。

 

「オレが止める」

 

「単独で?」

 

「ああ」

 

「しかし」

 

「他の奴が出ても邪魔だ」

 

その言い方は冷たかった。

 

だが、事実だった。

 

綾小路清隆を止められる人間は限られている。

 

そして今、この場でそれができる可能性があるのは海斗だけだった。

 

ツキは拳を握った。

 

本当にそうなのか。

 

止めるとは何なのか。

 

撃つことなのか。

 

殺すことなのか。

 

その問いだけが、喉の奥で消えた。

 

同じ頃。

 

大学病院。

 

堀北鈴音の病室。

 

鈴音はベッドの上で書類を読んでいた。

 

大学の課題ではない。

 

病状報告書でもない。

 

二階堂グループ医療研究棟の概要だった。

 

綾小路が持ってきたものではない。

 

学が厳選して、最低限の情報だけを渡した。

 

本人が知るべきだと判断したからだった。

 

鈴音は静かに資料をめくる。

 

「地下第三区画……」

 

声が小さく漏れる。

 

そこに人工心臓がある。

 

自分を助けるかもしれないもの。

 

麗華を助けるかもしれないもの。

 

一基しかないもの。

 

鈴音は資料を閉じた。

 

胸が重い。

 

身体の不調だけではない。

 

この紙の向こうで、綾小路と海斗が本格的に戦争を始めようとしている。

 

その事実が重かった。

 

扉が開く。

 

綾小路が入ってきた。

 

「起きていたのか」

 

「眠れると思う?」

 

「思わない」

 

「なら聞かないで」

 

鈴音は少しだけ笑った。

 

だがすぐに真顔になる。

 

「あなた、二階堂側の施設を調べているわね」

 

「ああ」

 

「侵入するつもり?」

 

「必要なら」

 

「必要なら、ね」

 

鈴音は資料を机に置く。

 

「あなたはそうやって、いつも言葉を曖昧にする」

 

「曖昧ではない」

 

「いいえ。曖昧よ」

 

鈴音は綾小路を見る。

 

「人工心臓を奪うつもりなのでしょう」

 

綾小路は答えなかった。

 

沈黙。

 

それが答えだった。

 

鈴音は目を伏せる。

 

「やっぱり」

 

「まだ決めたわけではない」

 

「でも選択肢にはある」

 

「ああ」

 

「綾小路」

 

鈴音の声が少し震える。

 

「私は、あなたに盗んでほしいなんて言っていない」

 

「分かっている」

 

「海斗さんと戦ってほしいとも言っていない」

 

「分かっている」

 

「ならなぜ」

 

「堀北を助けるためだ」

 

即答だった。

 

鈴音は唇を噛む。

 

「私が助かれば、麗華さんは死ぬかもしれない」

 

「ああ」

 

「それを分かっていて?」

 

「ああ」

 

「あなたは平気なの?」

 

「平気ではない」

 

綾小路は静かに言った。

 

「だが、それでもオレはお前を助ける」

 

鈴音は何も言えなかった。

 

嬉しいわけではない。

 

嬉しくないわけでもない。

 

その矛盾が胸を締め付ける。

 

自分は助かりたい。

 

だが、そのために綾小路が何かを失うのが怖い。

 

それでも、助けると言われると、縋りたくなる自分がいる。

 

それが嫌だった。

 

「私は弱いわね」

 

鈴音が呟く。

 

「そうか?」

 

「ええ」

 

彼女は窓の外を見る。

 

「本当に強ければ、私のことはいいから麗華さんを助けてと言えたのかもしれない」

 

「それは強さではない」

 

「そう?」

 

「ああ」

 

「なら何?」

 

綾小路は少し黙った。

 

「逃避かもしれない」

 

鈴音は目を丸くした。

 

そして、少しだけ笑った。

 

「あなた、本当に容赦ないわね」

 

「嘘は嫌いだろう」

 

「そうね」

 

笑みはすぐに消える。

 

鈴音は静かに言った。

 

「でも、私も逃げたい」

 

「……」

 

「生きたいと言ったことからも、麗華さんの命と並べられていることからも、

あなたと海斗さんが戦うことからも、全部逃げたい」

 

心電図の音が響く。

 

鈴音は続ける。

 

「でも逃げられない。私はここから動けない。だから見ていることしかできない」

 

綾小路は言った。

 

「見ている必要はない」

 

「いいえ」

 

鈴音は首を横に振った。

 

「見なければ駄目よ。私の命のために何が起きるのか、目を逸らしたくない」

 

その言葉に、綾小路は何も返せなかった。

 

その頃。

 

坂柳有栖は研究棟とは別の部屋で、最後の調査を続けていた。

 

机の上には医学論文、ブラックルームの残存資料、

N-HEARTの設計図、そして二人の病状データが並んでいる。

 

彼女の目の下には薄い疲労が見えた。

 

それでも手は止まらない。

 

「心筋細胞壊死を逆転させる手段……」

 

独り言のように呟く。

 

再生医療。

 

細胞移植。

 

遺伝子治療。

 

薬剤中和。

 

人工心臓以外の選択肢。

 

全て検討した。

 

全て潰れた。

 

それでも、まだ完全に諦めることはできない。

 

ノックもなく扉が開く。

 

森下藍だった。

 

「坂柳有栖」

 

「森下さん」

 

坂柳は顔を上げる。

 

「珍しいですね。あなたが静かに入ってくるとは」

 

「今は騒げません」

 

森下は部屋の中を見る。

 

資料の山。

 

空のカップ。

 

徹夜の痕跡。

 

「寝てないんですか」

 

「多少は」

 

「嘘ですね」

 

「あなたに見抜かれるとは、私も落ちたものです」

 

坂柳は少しだけ微笑む。

 

森下は笑わなかった。

 

「まだ方法はありますか?」

 

坂柳は答えなかった。

 

森下は拳を握る。

 

「答えてください」

 

「探しています」

 

「それは答えじゃありません」

 

「ええ」

 

坂柳は目を伏せる。

 

「現時点では、人工心臓以外の根本治療は見つかっていません」

 

森下の顔が歪む。

 

「じゃあ本当に、どちらか一人なんですか」

 

「そうなる可能性が高い」

 

「嫌です」

 

森下は首を横に振る。

 

「嫌です。そんなの嫌です。堀北鈴音も麗華さんも、どっちも死んじゃ駄目です。

綾小路清隆と朝霧海斗が殺し合うのも駄目です」

 

坂柳は静かに聞く。

 

森下の声は震えていた。

 

「私、何もできないんです」

 

「……」

 

「怒鳴ることしかできない。やめろって言うことしかできない。

でも誰も止まらない。綾小路清隆も、朝霧海斗も、誰も」

 

坂柳は机の上の資料を見た。

 

「私も同じです」

 

「坂柳有栖が?」

 

「ええ」

 

坂柳は小さく笑った。

 

「盤面を読むことはできます。可能性を計算することもできます。

ですが、彼らを止める一手が見つからない」

 

「そんな……」

 

「最も確実なのは、二人とも助けることです」

 

「でも」

 

「その方法が見つからない」

 

沈黙。

 

森下は涙を拭う。

 

「それでも探してください」

 

「もちろんです」

 

「最後まで」

 

「ええ」

 

坂柳は資料へ目を戻した。

 

「最後まで探します」

 

その声は、いつもの余裕ある坂柳ではなかった。

 

それでも、確かに強かった。

 

二階堂側では、戦争の準備がさらに進んでいた。

 

地下保管室前。

 

海斗は警備配置を直接確認していた。

 

銃を持つ警備員たち。

 

監視カメラ。

 

赤外線センサー。

 

二重扉。

 

生体認証。

 

全てを見て回る。

 

その足取りに迷いはない。

 

だが、海斗の頭の中では常に綾小路が動いていた。

 

ここへ来るならどうする。

 

正面から来るか。

 

来ない。

 

地下搬入口か。

 

誘導できる。

 

医療スタッフ偽装か。

 

可能性が高い。

 

なら逆に偽の医療チームを使うか。

 

いや、綾小路はそこも読む。

 

読むなら、読ませる情報を用意する。

 

海斗は立ち止まった。

 

保管室の扉を見る。

 

この向こうに人工心臓がある。

 

麗華の命。

 

堀北の命。

 

綾小路との戦争の中心。

 

「朝霧様」

 

警備員が声をかける。

 

「最終防衛ラインの武装許可ですが」

 

海斗は振り返る。

 

「非致死弾は?」

 

「用意しています」

 

「駄目だ」

 

警備員が息を呑む。

 

「実弾にしろ」

 

「しかし」

 

「綾小路相手に半端な装備は意味がない」

 

「殺傷許可、ということですか」

 

海斗は一瞬黙った。

 

その言葉は重かった。

 

殺傷許可。

 

綾小路を殺す可能性。

 

海斗は低く言った。

 

「撃たなきゃ死ぬ時だけだ」

 

「了解しました」

 

警備員は敬礼して下がる。

 

海斗は扉を見つめ続けた。

 

自分は今、どこまで来たのか。

 

本当に麗華のためなのか。

 

それとも、自分の恐怖のためなのか。

 

答えは出ない。

 

だが、止まる理由にもならない。

 

「海斗」

 

声がした。

 

ツキだった。

 

「また来たのか」

 

「来た」

 

「止めに?」

 

「見に来た」

 

「何を」

 

「海斗がどこまで行くのか」

 

海斗は苦笑した。

 

「嫌な見物だな」

 

「面白くない」

 

「だろうな」

 

ツキは保管室を見る。

 

「ここで綾小路清隆を待つのか」

 

「ああ」

 

「本当に撃つのか」

 

「必要なら」

 

「その必要を作っているのは海斗ではないのか」

 

海斗は黙った。

 

ツキは続ける。

 

「綾小路清隆が来ると分かっていて、罠を作って、

戦場を整えて、それで必要なら撃つと言うのは違う」

 

「……」

 

「それは、撃つための理由を作っている」

 

海斗の表情が硬くなる。

 

「ツキ」

 

「何だ」

 

「お前、本当に容赦ねぇな」

 

「海斗が聞かないからだ」

 

「そうだな」

 

海斗は保管室の扉に手を当てた。

 

冷たい金属。

 

その向こうの人工心臓。

 

「でもな」

 

彼は静かに言う。

 

「それでも守らなきゃならない」

 

「麗華様を?」

 

「ああ」

 

「それとも、海斗自身を?」

 

海斗は答えなかった。

 

ツキはそれ以上言わなかった。

 

答えを求めたわけではない。

 

ただ、海斗自身に気付いてほしかった。

 

夜。

 

綾小路は図書館の個室で、施設情報を整理していた。

 

モニターには二階堂グループ医療研究棟の立体図。

 

別画面には警備会社の過去データ。

 

机には手書きのメモ。

 

彼は静かに情報を組み替えていく。

 

二階堂側の警備は強固だ。

 

だが、強固であるほど意図が見える。

 

海斗が中心にいるなら、守り方には必ず彼の思考が反映される。

 

一見すると隙がある地下搬入口。

 

不自然に通常通り残された医療スタッフ動線。

 

ダミー車両。

 

複数の搬送予定。

 

全てが罠。

 

だが、罠であることを見せている罠。

 

海斗らしい。

 

綾小路は画面を見つめる。

 

「そう来るか」

 

声に出す。

 

小さく。

 

誰もいない部屋で。

 

海斗は綾小路を施設内へ誘導しようとしている。

 

なら、誘導される価値はある。

 

問題はどこで主導権を奪い返すか。

 

保管室では遅い。

 

地下搬入口でも早すぎる。

 

医療スタッフ動線が鍵になる。

 

綾小路はメモに線を引いた。

 

その時、スマートフォンが震える。

 

堀北学からだった。

 

『今いいか』

 

「ああ」

 

『坂柳から聞いた。二階堂側の警備が大幅に変更された』

 

「知っている」

 

『分かっていると思うが、向こうはお前を待っている』

 

「ああ」

 

『それでも行くのか』

 

「必要なら」

 

『またそれか』

 

学の声に疲労が滲む。

 

『鈴音は、お前に戻ってほしいと思っている』

 

「分かっている」

 

『それでも行く』

 

「ああ」

 

沈黙。

 

学は小さく息を吐いた。

 

『俺には止める資格がない』

 

「そうか」

 

『鈴音を助けたいと思っているからな』

 

綾小路は目を閉じた。

 

誰も綺麗な場所にいない。

 

学も。

 

鈴音も。

 

麗華も。

 

海斗も。

 

自分も。

 

全員が矛盾を抱えている。

 

『綾小路』

 

「何だ」

 

『生きて戻れ』

 

綾小路は少し黙った。

 

「約束はできない」

 

『そう言うと思った』

 

通話が切れる。

 

綾小路は再び画面を見る。

 

人工心臓の奪取。

 

海斗との衝突。

 

六日という時間。

 

全てが一点へ向かっている。

 

その夜。

 

森下藍は二つの病院を回った。

 

最初に鈴音の病室。

 

次に麗華の病室。

 

どちらにも花を持っていった。

 

どちらにも、同じように笑おうとした。

 

だが、どちらでもうまく笑えなかった。

 

鈴音はそれを見て言った。

 

「無理しなくていいわ」

 

麗華も同じように言った。

 

「泣きそうな顔ね」

 

森下は二人に同じことを言った。

 

「死なないでください」

 

それだけだった。

 

それしか言えなかった。

 

鈴音も麗華も、すぐには答えられなかった。

 

生きたい。

 

だが、相手にも死んでほしくない。

 

その矛盾が、二人の間にも重く横たわっていた。

 

夜遅く。

 

二階堂家本邸。

 

彩は一人で姉の部屋にいた。

 

麗華が使っていた机。

 

本棚。

 

紅茶のカップ。

 

書類。

 

まだ全てがそのままだった。

 

彩は椅子に座る。

 

姉の席。

 

重すぎる席。

 

「お姉様……」

 

声が震える。

 

姉を助けたい。

 

それは本心。

 

だが、そのために堀北鈴音が死ぬのかもしれない。

 

その事実を考えると、胸が苦しくなる。

 

でも。

 

それでも。

 

姉に死んでほしくない。

 

彩は机に顔を伏せた。

 

「ごめんなさい……」

 

誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。

 

堀北鈴音にか。

 

麗華にか。

 

自分自身にか。

 

もう分からなかった。

 

翌朝。

 

残り五日。

 

二階堂グループ医療研究棟では、

人工心臓移送を想定した最終シミュレーションが始まった。

 

警備員たちが持ち場に着く。

 

ダミー車両が動く。

 

医療チームが移動する。

 

監視室では複数の映像が表示される。

 

海斗は中央で見ていた。

 

その姿は、完全に指揮官だった。

 

「第三ルート、遅い」

 

「修正します」

 

「医療スタッフB班、動線が不自然だ。もっと普通に歩かせろ」

 

「了解」

 

「外周三番カメラ、死角ができてる」

 

「すぐ調整します」

 

次々と指示が飛ぶ。

 

無駄がない。

 

冷静。

 

正確。

 

そこに昔の軽口はない。

 

警備員たちの間では、すでにあの呼び名が広がっていた。

 

ロングコートの悪魔。

 

誰も本人の前では言わない。

 

だが、否定する者もいない。

 

一方。

 

綾小路も動き始めていた。

 

彼は施設へ直接向かわない。

 

まず外堀から崩す。

 

医療機器搬入業者の記録。

 

警備会社の勤務交代。

 

研究棟の電力系統。

 

近隣道路の工事情報。

 

非常用発電設備。

 

全てを確認する。

 

銃撃戦で海斗を倒す。

 

それは最終手段。

 

まずは、海斗の作った戦場そのものをずらす。

 

綾小路は静かに計画を組み上げる。

 

誰にも見せない。

 

誰にも全ては話さない。

 

孤独な作業。

 

孤高の天才。

 

そう呼ばれるなら、これほど皮肉なことはなかった。

 

誰かを助けるために動いているのに。

 

最後の一手だけは、誰にも共有できない。

 

昼。

 

坂柳は二人の動きを把握し、静かに拳を握った。

 

「始まりましたね」

 

隣の尊徳が言う。

 

「ああ」

 

「止められるか」

 

坂柳は少しだけ目を伏せる。

 

「止めたいですね」

 

「君らしくない言い方だ」

 

「ええ」

 

坂柳はモニターを見る。

 

二階堂側の警備強化。

 

綾小路側の情報収集。

 

二つの動きが、少しずつ近づいている。

 

「彼らはもう、互いを相手として見ています」

 

「敵としてか」

 

「いえ」

 

坂柳は首を横に振る。

 

「敵より厄介です」

 

尊徳が見る。

 

坂柳は静かに言った。

 

「理解できる相手として見ている。だからこそ、手を抜かない」

 

夜。

 

綾小路は大学病院の屋上にいた。

 

海斗は二階堂グループ本社屋上にいた。

 

二人は別々の場所で、同じ街の夜景を見ていた。

 

互いの姿は見えない。

 

だが、互いが何を考えているかは分かる。

 

海斗は呟く。

 

「来いよ、綾小路」

 

綾小路も呟く。

 

「待っていろ、海斗」

 

その声は、誰にも聞こえない。

 

風だけが運んでいく。

 

残された時間は五日。

 

誰も望まなかった戦争は、もう止まらない。

 

ロングコートの悪魔は、人工心臓を守るために戦場を作る。

 

孤高の天才は、その戦場を壊すために一人で歩き出す。

 

鈴音は病室で祈ることしかできない。

 

麗華は病室で止める言葉を失っている。

 

学は妹を助けたい自分を責める。

 

彩は姉を救いたい願いに怯える。

 

ツキは海斗を止める覚悟を固める。

 

森下は泣きながら、それでも二人に叫ぶ準備をしている。

 

坂柳は最後の治療法を探し続ける。

 

尊徳は、最悪の時に誰を止めるべきかを考え始めている。

 

誰も望んでいない。

 

誰も正しくない。

 

誰も悪くない。

 

それでも。

 

戦争は始まっていた。

 

たった一つの人工心臓を巡って。

 

二つの命を巡って。

 

そして。

 

かつて背中を預け合った二人の男を、完全に引き裂くために。




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