ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
残された時間は、三日だった。
その夜の東京は、不自然なほど静かだった。
風は弱く、低く垂れ込めた雲の下で、
街の灯りだけが普段と変わらない輝きを放っている。
道路には車が流れ、ビルの窓には無数の明かりが並び、
人々はそれぞれの日常を過ごしていた。
しかし、その平穏な夜景の下では、すでに一つの戦争が始まっていた。
二階堂グループ医療研究棟。
地上二十二階、地下六階から成る巨大施設であり、
普段は最先端医療や再生医療の研究が行われる場所だった。
だが、今夜に限っては病院でも研究所でもない。
そこは、一基の人工心臓を守るために作り変えられた要塞だった。
敷地の外周には複数の警備車両が配置され、
正面ゲートだけでなく搬入口や非常通路にも武装した特殊部隊員が立っている。
屋上では監視ドローンが旋回し、赤外線カメラによって人間の体温を追跡していた。
施設内部にも生体認証、赤外線センサー、
監視カメラ、防火隔壁、非常用シャッターが張り巡らされている。
通常の警備システムに加え、
海斗が自ら指示した複数のダミー経路と誘導地点まで用意されていた。
そのすべてが守ろうとしているのは、
地下第三区画の低温保管室に収められたN-HEART 01だった。
堀北鈴音を救えるかもしれない人工心臓。
二階堂麗華を救えるかもしれない人工心臓。
世界に一基しか存在しない最後の希望であり、
同時に、綾小路清隆と朝霧海斗が互いへ銃を向ける理由でもあった。
地下警備指令室では、海斗が中央モニターの前に立っていた。
黒いロングコートの腰には二丁のベレッタM92FSが収められ、
背中にはイングラムM11を吊っている。
左右のモニターには外周ゲート、地下搬入口、医療スタッフ専用通路、
非常階段、屋上ヘリポートの映像が同時に表示されていた。
周囲の特殊部隊員たちは、誰も雑談をしていない。
以前の海斗なら、この重苦しい空気を嫌って軽口の一つでも叩いたかもしれない。
しかし今の彼には、周囲を笑わせようとする余裕も、その必要性もなかった。
隊員たちの間で囁かれるようになった呼び名がある。
ロングコートの悪魔。
その呼称は、もはや一部の人間だけが口にする噂ではなくなっていた。
海斗はすべてのモニターへ順番に視線を走らせた後、静かに言った。
「来るぞ」
隣に立っていた特殊部隊の隊長が息を呑む。
「綾小路清隆が、ですか」
「ああ」
「どのルートから侵入するとお考えですか」
海斗はすぐには答えず、外周から地下区画までの施設図を見つめた。
正面ゲート。
南側の搬入口。
屋上。
医療スタッフ通路。
非常階段。
空調設備。
物流用エレベーター。
綾小路が利用できる経路は数多く存在する。
しかし、海斗が警戒しているのは、その中の一つではなかった。
「全部だ」
隊長が眉をひそめる。
「全部、ですか」
「あいつは本命を最初から見せるような真似はしねぇ。
複数の場所で同時に騒ぎを起こして、こっちの人員と判断を分散させる。
その混乱の中で、一番薄くなった場所を通る」
「では、各警報へ即応部隊を送りますか」
「騒ぎに反応するな」
海斗は低い声で言い切った。
「綾小路の目的はオレを倒すことでも、この施設を壊すことでもねぇ。
人工心臓を取ることだ。どこで何が起きても、N-HEART 01から目を離すな」
その時、第一警報が鳴った。
南ゲート付近の映像が自動的に拡大される。
搬入用の黒いトラックが、進入角度を誤ったように警備車両へ接触し、
そのまま横向きになってゲートの大部分を塞いでいた。
運転席から人が降りる様子はない。
隊長が即座に叫ぶ。
「南ゲートで事故発生!」
海斗は動かなかった。
「無視しろ」
「しかし、搬入口が完全に塞がれています」
「ダミーだ」
海斗が言い終わるより早く、第二警報が鳴った。
屋上を飛行していた監視ドローン一機が通信を失い、映像が黒くなる。
続いて第三警報。
地下搬入口の認証端末が不正な入力を検知し、
アクセス履歴が異常な速度で書き換えられていく。
指令室内の空気が一気に張り詰めた。
海斗は笑わなかったが、目だけが鋭く細められる。
「ほらな」
綾小路は来た。
しかも、海斗が予想した通りに複数の地点へ同時に揺さぶりをかけている。
ただし、本当に予想通りなのかは分からない。
綾小路は、海斗がそう考えることまで読んでいるかもしれない。
予想通りに見せること自体が、さらに奥の罠である可能性もある。
そこが厄介だった。
「地下搬入口へ警戒班を二名だけ送れ」
隊長が海斗を見る。
「二名でよろしいのですか」
「多く送るな。人員を動かせば、どこを本命と見ているかを綾小路に教えることになる」
「了解しました」
海斗は地下区画のモニターへ視線を移し、綾小路なら次に何をするかを考えた。
「綾小路、お前なら次は……」
その瞬間、施設全体の照明が落ちた。
完全な停電ではない。
わずか一秒にも満たない暗闇の後、非常電源が作動し、
施設内の廊下や研究室が赤い非常灯に染められた。
隊員が声を上げる。
「主電源系統に異常を確認!」
海斗は舌打ちする。
「やっぱりそこか」
綾小路は正面から突破するつもりではない。
地下搬入口にも屋上にも、本体はいない可能性が高い。
まず施設全体の監視記録を一瞬だけ途切れさせる。
ただし、完全停止させれば隔壁と防火シャッターが自動封鎖され、
施設内部を進みにくくなる。
そのため、落とすのは一瞬だけでいい。
映像と認証記録の連続性を切り、そのわずかな空白の中で別人へ成り代わる。
海斗は即座に指示を飛ばした。
「全監視カメラを生データ表示に切り替えろ。顔認証と動体補正を切れ」
「了解!」
「医療スタッフ専用通路は封鎖するな。そのまま通せ」
隊長が聞き返す。
「通すのですか」
「ああ。そこに来る」
地下二階。
赤い非常灯に照らされた医療スタッフ専用通路を、一人の清掃員がゆっくりと進んでいた。
白い作業服。
帽子。
マスク。
清掃用具を積んだカート。
外見だけなら、この混乱の中でも清掃設備を移動させている職員にしか見えない。
だが、その歩幅と周囲を見る視線は、施設職員のものではなかった。
綾小路清隆。
彼は清掃用カートの下部へスパス12を隠し、作業服の内側にガバメントを携えていた。
警報が鳴っても走らない。
慌てた様子も見せない。
逆に、突然の停電と警報に混乱し、
行き先を見失っている職員たちの流れへ自然に紛れ込んでいた。
赤い光の下を医師や研究員が行き交い、
離れた場所から隊員たちの指示が飛んでいる。
綾小路は顔を動かさず、視線だけで監視カメラ、
隔壁、非常階段、天井の排気口を確認していた。
海斗は誘導している。
医療スタッフ専用通路を、あえて封鎖せずに残している。
罠であることは明白だった。
しかし、重要なのは罠かどうかではない。
罠の中に、本当に使える道がどれだけ残されているかだった。
綾小路はカートを押しながら非常階段前を通過する。
その時、天井のスピーカーから聞き慣れた声が流れた。
『よぉ、綾小路』
綾小路は足を止めない。
『やっぱりそこか。分かりやすくて助かるぜ』
綾小路は小さく呟いた。
「嘘だな」
海斗は、綾小路を分かりやすいとは思っていない。
あえて軽い言葉を投げ、こちらが見つかったと錯覚させ、予定より早く動かそうとしている。
綾小路は通路の中央でカートを止めた。
前方で大型シャッターが降り始める。
ほぼ同時に背後の防火隔壁も閉じ、長い通路の前後が完全に塞がれた。
赤い非常灯が点滅し、スピーカーから再び海斗の声が響く。
『悪いな。ここから先は通行止めだ』
綾小路はカートの下へ手を伸ばし、スパス12を引き出した。
「最初から、この通路を最後まで使うつもりはない」
横の壁には、医療廃棄物を下層へ送るための小型搬送リフトが設置されている。
本来、人間が乗ることは想定されていないが、綾小路は施設図から存在を把握していた。
ガバメントを抜き、扉の電子ロックを撃ち抜く。
鋭い金属音と火花が飛び、リフトの扉がわずかに開いた。
その直後、天井の収納口が左右に開き、二機の警備ドローンが降下した。
搭載されているのは機銃ではなく、非致死性の制圧弾だった。
しかし直撃すれば筋肉が一時的に麻痺し、動きを止められる。
綾小路は身体を沈め、スパス12を構えた。
轟音。
一機目が空中で大きく弾かれ、壁へ激突する。
すぐに銃口を返して二発目。
もう一機も散弾を受け、天井の配線を引き千切りながら床へ落下した。
火花と煙が赤い通路へ広がり、警報音がさらに激しく鳴る。
綾小路は迷わず搬送リフトへ身体を滑り込ませ、扉を閉じた。
その映像を指令室で見ていた海斗は、わずかに口元を緩めた。
「そこを使うかよ」
隊長が別のモニターへ目を向ける。
「搬送リフトが地下三階へ向かっています!」
「いや」
海斗は即座に否定し、シャフトの内部映像へ切り替えた。
「途中で降りる」
その予測は正しかった。
リフトは地下三階へ到達する前に急停止した。
綾小路は内部パネルを開け、非常停止装置を操作すると、
天井の点検口からシャフト内部へ出た。
狭い縦穴には赤い非常灯が点々と並び、下方から昇降機の駆動音が響いている。
綾小路は壁面の梯子へ手を掛け、地下第三区画へ向けて下り始めた。
だが、シャフト最下部にも特殊部隊が待機していた。
海斗は、綾小路がリフトを途中で捨てることまで読んでいる。
綾小路は下方にいる隊員たちの気配を察し、静かに息を吐いた。
「やはりな」
地下第三区画へ続くメイン通路では、複数の特殊部隊員が配置についていた。
彼らはいずれも訓練を受けたプロだった。
それでも緊張を隠すことはできない。
今夜の相手は、通常の武装侵入者ではない。
綾小路清隆。
そして、その綾小路を止めるため、通路の先では朝霧海斗が待っている。
自分たちは本当に必要なのか。
むしろ、二人の間へ入れば邪魔になるだけではないか。
口には出さなくても、同じことを考えている隊員は多かった。
その時、頭上の通気口が内側から吹き飛んだ。
金属製の格子が床へ落下し、白い煙幕が一気に通路へ噴き出す。
隊員たちは一斉に銃を構えた。
「来たぞ!」
煙の中から綾小路が姿を現した。
身体を低く保ち、右手にガバメントを握っている。
発砲。
一人目の隊員が構えていた銃の側面へ弾丸が命中し、武器が手から弾き飛ばされる。
続けて二発目。
二人目の銃に取り付けられていたライトが砕け、視界が暗転する。
三発目は、三人目の隊員の足元へ撃ち込まれた。
石床が弾け、隊員は反射的に後方へ退く。
殺さない。
だが、確実に動きを止め、進路から退かせる。
その精度が異常だった。
隊員たちが反撃する。
銃声が狭い地下通路で何重にも反響し、赤い非常灯が発射炎によって白く塗り潰される。
綾小路は壁際へ滑り込み、スパス12を横方向へ向けた。
狙ったのは隊員ではない。
通路脇の消火設備だった。
轟音とともに配管が破裂し、大量の白い消火剤が勢いよく噴き出した。
煙幕と消火剤が混ざり、通路全体が真っ白に覆われる。
隊員たちは咳き込み、照準を合わせられなくなった。
綾小路はその中を走った。
足音を極力抑え、壁際を選んで進み、隊員たちの間をすり抜けていく。
気配さえ消したような動きだった。
しかし。
海斗は待っていた。
通路の奥。
赤い非常灯の下。
白い消火剤の霧の向こうに、黒いロングコートの男が立っている。
両手にはベレッタM92FS。
朝霧海斗。
「よう」
海斗が言った。
「遅かったな」
綾小路は数メートル手前で足を止めた。
白い霧が二人の間を流れ、赤い光が互いの輪郭を不規則に照らしている。
「待っていたのか」
「ああ」
「人工心臓は」
「この先だ」
「オレを通す気は」
海斗はわずかに笑った。
「あると思うか?」
綾小路はガバメントを下げないまま答えた。
「ないな」
「分かってんじゃねぇか」
通路の両側では、武器を取り直した隊員たちが動けずにいた。
誰も二人の間へ入ることができない。
どちらへ銃口を向けるべきか迷っているのではない。
一歩でも踏み込めば、二人の戦いへ巻き込まれると理解しているからだった。
海斗が二丁のベレッタを持ち上げる。
綾小路もガバメントを正面へ向けた。
互いの銃口が一直線に向き合う。
「ここでやるのか」
綾小路が聞いた。
海斗は首を横に振る。
「いいや。ここじゃ狭すぎる」
「なら、どこでやる」
「ついてこい」
海斗は銃口を下げないまま、ゆっくりと後方へ下がった。
その動きに合わせて、通路奥の大型扉が開く。
扉の先に広がっていたのは、地下施設とは思えない巨大な空間だった。
かつて二階堂グループが海外施設から移築した、旧礼拝堂を模した石造りの記念ホール。
高く伸びた天井。
左右へ並ぶ巨大な石柱。
中央に並べられた長椅子。
天井付近を走る保守用通路。
壁面には、古いステンドグラスを模した色鮮やかな装飾パネルが取り付けられている。
そして最奥部には、青白い照明に包まれた冷却保管ユニットが設置されていた。
教会ではない。
しかし、あまりにも教会に似ていた。
かつて二人が初めて本気で銃を向け合った場所を思わせる、皮肉すぎる舞台だった。
海斗はホール中央へ歩いていく。
「ここなら派手にやれる」
綾小路も大型扉の向こうへ入った。
背後で扉が閉まる。
表面上は二人きりだった。
だが正確には、監視カメラの向こう側で全員が見ていた。
坂柳有栖。
堀北学。
宮川尊徳。
ツキ。
二階堂彩。
森下藍。
二階堂源蔵。
それぞれ別の場所にいながら、同じ映像を見つめている。
誰も声を出せなかった。
最後の決闘が始まろうとしていた。
海斗はホール中央で立ち止まる。
「綾小路」
「何だ」
「ここで止まれ」
綾小路は迷わず答えた。
「無理だ」
「だろうな」
海斗は苦笑する。
「一応、聞いただけだ」
綾小路も返す。
「お前こそ退け」
「無理だ」
「そうだな」
次の瞬間、二人は同時に動いた。
海斗の二丁のベレッタが火を吹く。
綾小路は床を蹴って横へ飛び、弾丸は背後の石柱を削った。
着地するより早く、綾小路もガバメントを撃ち返す。
海斗はロングコートを翻しながら柱の陰へ滑り込んだ。
銃声が連続して響く。
広いホール全体で何度も反響し、まるで巨大な鐘の内部で撃ち合っているようだった。
海斗は二丁拳銃を使い、左右から絶え間なく弾丸を放つ。
綾小路は一発ずつ狙いを定め、海斗の移動先と足場を正確に撃ち抜く。
戦い方は対照的だった。
海斗は嵐。
綾小路は針。
海斗は空間全体を弾丸で支配しようとし、
綾小路はその嵐の中へ一本の致命的な線を通そうとする。
どちらも危険だった。
海斗が柱の陰から飛び出す。
走りながら撃ち、床を滑り、反対側の柱へ移動しながら再び撃つ。
黒いロングコートが翼のように広がった。
綾小路はスパス12を構える。
轟音。
散弾が石柱の角を粉砕し、鋭い破片が海斗の頬を掠めた。
それでも海斗は怯まない。
走りながら空になった弾倉を落とし、ロングコートの内側から新しいマガジンを抜く。
跳躍しながら装填を終え、床へ着地した瞬間には発砲していた。
弾丸が綾小路の肩口を掠め、服を細く裂く。
直撃ではない。
だが、わずかでも動きが遅ければ肩を貫かれていた。
海斗が叫んだ。
「今の避けんのかよ!」
綾小路は答えず、ガバメントを撃つ。
弾丸が海斗の足元へ撃ち込まれ、進路を塞いだ。
海斗は止まらず、横に置かれていた長い作業台へ跳び乗る。
そのまま走りながら二丁拳銃を撃ち下ろし、綾小路の周囲へ連続して火花を散らした。
綾小路は身体を低くして作業台の下へ滑り込み、スパス12を支持脚へ向ける。
発砲。
金属製の脚が内側へ折れ、作業台全体が大きく傾いた。
海斗の身体が宙へ放り出される。
しかし、海斗は空中で身体を捻り、体勢を変えながら発砲した。
綾小路の背後にあった冷却用パイプへ弾丸が命中し、
破裂した配管から白い蒸気が一気に噴き出した。
視界が白く閉ざされる。
海斗は床へ転がり、すぐに片膝を立てて起き上がった。
「やっぱりお前、化け物だな!」
蒸気の向こうから、綾小路の声が返る。
「お前もな」
次の瞬間、白い蒸気を裂くようにスパス12の銃口が現れた。
轟音。
海斗は床を蹴て横へ飛ぶ。
散弾は海斗の背後にあった装飾壁へ命中し、ステンドグラス風のパネルを粉々に砕いた。
赤、青、緑の破片が、蒸気とともにホールへ降り注ぐ。
その色を見た瞬間、海斗の表情がわずかに歪んだ。
「またかよ」
綾小路も目を細めていた。
二人とも思い出している。
鳩が舞った教会。
砕けたステンドグラス。
雨。
互いへ向けた銃口。
あの夜から、二人の関係は何一つ元へ戻っていない。
むしろ、さらに遠い場所まで来てしまった。
海斗は背中のイングラムM11を抜いた。
「悪いな」
綾小路はその動きを見た瞬間、最も近い柱の陰へ飛び込んだ。
海斗が引き金を引く。
凄まじい連射音とともに弾幕が走り、石柱の表面が削られる。
床の金属板が跳ね、冷却ユニットの外装へ複数の弾丸が当たり、火花が連続して散った。
綾小路は身を低くし、弾丸の流れに合わせて移動する。
途中にあった長椅子を蹴り倒し、即席の遮蔽物として押し出した。
だが、イングラムの弾幕は長椅子を容赦なく削り取っていく。
木片が爆ぜ、取り付けられていた金属部品が空中へ弾き飛ばされた。
冷却ユニットのセンサーが衝撃を検知し、鋭い警告音が鳴り始める。
監視室で坂柳が通信を入れた。
『冷却ユニットに弾を当てないでください!人工心臓が破損します!』
その声は海斗にも綾小路にも届いていた。
しかし、どちらも止まらない。
止まりたくないのではない。
もう止まり方が分からなくなっていた。
海斗はイングラムの弾倉を撃ち尽くした。
連射音が途切れる。
綾小路は、その瞬間を待っていた。
柱の陰から飛び出し、一気に距離を詰める。
ガバメントの銃口が海斗へ向く。
海斗は空になったイングラムを捨て、ベレッタへ持ち替えようとする。
間に合わない。
綾小路の方が速い。
銃口が海斗の胸を捉える。
だが、海斗は笑った。
足元に転がっていた金属トレイを蹴り上げる。
回転しながら宙へ上がったトレイへ、綾小路の弾丸が命中した。
火花が散り、弾道がわずかに逸れる。
同時に、海斗のベレッタが火を吹いた。
綾小路は首を傾け、弾丸を紙一重で避ける。髪の一部が弾かれ、数本が宙へ舞った。
距離が近すぎる。
二人はそのまま至近距離へ入った。
銃撃戦は、一瞬で格闘戦へ変わる。
海斗がベレッタの銃把を横方向へ振る。
綾小路は前腕で受け止める。
綾小路が膝を突き上げる。
海斗は腰を捻って回避し、反対側の肘を返す。
綾小路は肩で打撃を受けながら海斗の手首を掴み、そのまま床へ投げようとする。
海斗は綾小路の足へ自分の足を絡め、逆に体勢を崩した。
二人はもつれるように床へ転がる。
だが、どちらも倒れたままにはならない。
すぐに離れ、落とした銃を拾い、再び互いへ向けた。
呼吸は荒くなっている。
額には汗が滲み、服には細かな傷が増えていた。
それでも、二人の目だけは死んでいない。
海斗が言った。
「なあ、綾小路」
「何だ」
「お前、堀北を助けたら、その後どうするつもりだ」
綾小路は答えない。
海斗はベレッタの銃口を下げずに続けた。
「麗華が死んで、彩が泣いて、ツキがオレを見なくなって、それでもお前は堀北と普通に生きるのか」
綾小路はしばらく沈黙した。
やがて、静かに答える。
「生きるしかない」
「それしか言えねぇのか!」
海斗が発砲する。
綾小路は横へ避けた。
綾小路も撃ち返しながら問う。
「なら、お前はどうだ」
海斗が柱の陰へ入る。
「麗華を助けて、堀北が死んで、学や森下が壊れて、それでも生きるのか」
海斗は一瞬、言葉を失った。
自分が綾小路へ突きつけた問いが、そのまま自分へ返される。
長い沈黙の後、海斗は絞り出すように答えた。
「生きる」
声が震えていた。
「麗華が生きるなら、オレは生きる」
「そうか」
「でもな」
海斗は苦しげに笑った。
「たぶん一生、堀北の名前を忘れねぇ」
綾小路の表情が、ほんのわずかに動いた。
海斗は続ける。
「最悪だろ。勝っても負けても地獄だ」
「ああ」
「なら、せめて勝つ」
海斗は再び走り出した。
綾小路も正面から前へ出る。
二人の銃声が重なり、冷却ユニットの前で火花が散った。
天井の照明が次々と撃ち抜かれる。
一つ目が消える。
続いて二つ目。
三つ目。
ホールの光が少しずつ失われ、最後には赤い非常灯だけが残った。
赤い光の中で、二人の影が石壁へ巨大に伸びる。
ロングコートの悪魔。
孤高の天才。
二人は何度も撃ち、何度も避け、距離を詰めては離れ、遮蔽物を挟んでは再び前へ出た。
互いを殺したいわけではない。
しかし、相手を止めるには、殺す覚悟を持たなければならない。
その矛盾が、銃声となって保管ホール全体を満たしていた。
やがて、海斗のベレッタのスライドが後退したまま止まった。
弾切れ。
ほぼ同時に、綾小路のガバメントも空になる。
スパス12にも、もう弾は残っていない。
二人は同時にそれを理解した。
銃声が止んだ。
残ったのは警告音と、破裂した配管から噴き出す蒸気の音だけだった。
赤い光の中を、砕けた装飾パネルの破片がゆっくりと落ち続けている。
海斗は空になったベレッタを床へ落とした。
綾小路もガバメントを下げる。
「終わりか」
海斗が聞いた。
綾小路は首を横に振る。
「まだだ」
二人は同時に前へ出た。
今度は銃ではない。
拳。
蹴り。
肘。
膝。
銃を失った二人は、ついに素手で正面からぶつかった。
海斗の拳が綾小路の頬を掠める。
綾小路の蹴りが海斗の腹部へ入り、海斗の身体が数歩後退する。
それでも止まらない。
海斗は苦しみを噛み潰すように笑った。
「やっぱ強ぇな」
綾小路も乱れた呼吸の中で答える。
「お前もだ」
二人は再び距離を詰めた。
拳が交錯する。
床に散っていた薬莢が靴底で押し潰され、砕けたガラス片が足元で跳ねる。
冷却装置から噴き出す白い蒸気が二人を包み、
赤い非常灯がその輪郭を不規則に照らしていた。
監視カメラの向こうで、森下が泣きながら叫んでいる。
「もうやめてください!」
ツキは拳を強く握り締めていた。
彩は涙で画面をまともに見られない。
学は奥歯を噛み、妹を助けたいという願いと、
綾小路を止めたいという思いの間で動けずにいた。
坂柳は震える手で杖を握り、尊徳は今にも監視室を飛び出しそうな顔をしている。
だが、誰も止められない。
最後の決闘は、完全に二人だけのものになっていた。
海斗が綾小路の胸倉を掴む。
「退け!」
綾小路も海斗の腕を掴み返す。
「お前が退け」
「麗華が死ぬ!」
「堀北もだ!」
綾小路の声が、初めて荒くなった。
海斗の目が見開かれる。
綾小路自身も、自分の口から出た声に一瞬だけ驚いたように息を止めた。
しかし、もう止まることはできない。
綾小路が拳を振るう。
海斗は腕で受ける。
海斗が頭突きを入れ、綾小路の身体がよろめく。
二人とも限界に近づいていた。
それでも倒れない。
倒れれば、守れないからだった。
その時、冷却ユニットの警告音が一段階強くなった。
赤いランプが激しく点滅し、制御盤に複数の異常表示が現れる。
坂柳の声が通信機から響いた。
『戦闘を停止してください!人工心臓の保管環境が不安定になっています!』
それでも二人は動きを止めなかった。
海斗が綾小路を床へ押し倒そうとする。
綾小路は腰を捻り、体勢を入れ替える。
二人はもつれたまま冷却ユニットの手前へ倒れ込み、身体が外装へ激突した。
金属が大きく鳴る。
警告音がさらに激しくなり、白い蒸気が一気に噴き出した。
『このままではN-HEART 01が破損します!』
その一言で、二人の動きが止まった。
人工心臓が壊れる。
そうなれば、鈴音も麗華も救えない。
どちらが勝つかという話ではなくなる。
二人とも、守るべき相手を失う。
綾小路と海斗は、ほとんど同時に互いから手を離した。
床へ片膝をつき、荒い呼吸を繰り返しながら相手を見る。
海斗は苦しげに笑った。
「結局、これかよ」
綾小路も静かに答える。
「まだ終わらないらしい」
「最悪だな」
「ああ」
二人はゆっくりと立ち上がった。
銃は空。
体力もほとんど残っていない。
人工心臓はすぐそばにある。
しかし、強引に奪えば冷却装置が壊れる。
戦いを続けても壊れる。
守るために戦っているはずなのに、戦えば戦うほど、
守るべきものを失う可能性が高くなっていく。
その矛盾が、二人をその場へ縛りつけた。
次の瞬間、保管ホールの隔壁が強制的に解除された。
大型扉が開き、尊徳が最初に飛び込んでくる。
続いて学。
ツキ。
森下。
特殊部隊員たち。
全員がホール内へ入った。
尊徳が叫ぶ。
「終わりだ!」
海斗は振り返る。
「まだ終わってねぇ」
ツキが前へ出た。
「終わりだ、海斗」
「ツキ」
「これ以上続けるなら、私が止める」
ツキの目は本気だった。
海斗は、その視線を受けて動けなくなる。
森下も涙を流しながら叫んだ。
「綾小路清隆!朝霧海斗!もうやめてください!
二人とも、いったい何を守っているんですか!
こんな戦いを、堀北鈴音も麗華さんも望んでいません!」
学は綾小路を見る。
「鈴音は、お前に生きて戻れと言っていた」
綾小路は目を伏せた。
尊徳も海斗へ視線を向ける。
「麗華も同じだ」
海斗は拳を握り締める。
誰の言葉も正しい。
だが、正しい言葉を聞くだけで止まれるなら、二人は最初からここまで来ていなかった。
坂柳の声が通信機から響く。
『N-HEART 01は緊急点検に入ります。今夜の移植準備は不可能になりました』
その言葉が、ホールにいる全員へ重く落ちた。
今夜の決闘は、何も決めなかった。
人工心臓は奪われなかった。
どちらも勝たなかった。
それでも、綾小路と海斗の身体と心は、確実に壊れ始めていた。
海斗は綾小路を見る。
「次で最後だな」
綾小路も海斗の目を見返した。
「ああ」
「今度は邪魔の入らない場所で」
「そうだな」
ツキが叫ぶ。
「海斗!」
海斗は振り返らなかった。
綾小路も、学の制止を聞こうとはしない。
二人はそれぞれ反対方向へ歩き出した。
傷だらけの身体。
撃ち尽くされた銃。
砕けた保管ホール。
白い蒸気。
点滅する赤い警告灯。
床へ散らばった無数の薬莢。
そして、辛うじて残された一基の人工心臓。
最後の決闘は、終わらなかった。
ただ、次の戦いへ先送りされただけだった。
誰も勝っていない。
誰も救われていない。
それでも、綾小路清隆と朝霧海斗は理解していた。
次に会う時こそ、本当に最後になる。
その時には、どちらかが人工心臓を手にする。
そして、もう一人は。
守りたかったものも。
大切な相手も。
友人だった男も。
すべてを失うことになる。
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