ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
綾小路は踏み止まらなかった。
いや、踏み止まることができなかった。
海斗が最後の力を絞り込むように叩きつけた肩は、
ただ体重を預けただけの体当たりではなく、
城門を打ち破る破城槌のような勢いで綾小路の胸元へ突き刺さっていた。
靴底が焦げたアスファルトを削り、綾小路の身体が数歩後退する。
背中には燃え上がる倉庫の熱が迫り、膨れ上がった炎が、
二人をさらに海側へ追い立てようとしているようだった。
綾小路は肺の奥へ入り込んだ煙を吐き出した。
呼吸をするたびに胸が痛み、喉の奥が焼けるように熱い。
しかし、そんなものは今さら問題ではなかった。
海斗も同じだった。
頬には煤が付着し、口元には細い血の跡が残っている。
黒いロングコートの裾は炎によって焦げ、片袖は肩口から大きく裂けていた。
それでも、海斗の目だけは死んでいない。
麗華を救う。
その一点だけで、朝霧海斗はまだ立っていた。
綾小路もまた、同じだった。
堀北鈴音を救う。
その一点だけが、綾小路清隆を倒れることから遠ざけていた。
海斗は荒れた呼吸を整えながら、低い声で問いかける。
「まだやるか」
綾小路は海斗から目を逸らさずに答えた。
「お前が止まるなら、オレも止まる」
「止まるわけねぇだろ」
「なら同じだ」
海斗は笑った。
少なくとも、笑ったように見えた。
だが、それは以前の海斗が見せていた軽口混じりの笑みではない。
白銀禁止区域や雪山で死線を越えた頃にあった、
粗野でありながら周囲を安心させる余裕は、もうほとんど残されていなかった。
笑っていなければ、自分が壊れてしまう。
そんな顔だった。
その時、遠くで複数のサイレンが鳴った。
海風に混じって、いくつものエンジン音が港へ近づいてくる。
倉庫街を包む火災、絶え間なく響いていた銃声、何度も起きた爆発。
これだけ派手に暴れれば、警察や消防だけでなく、
湾岸を警備する部隊まで動き出すのは当然だった。
暗い海面の上を青白いサーチライトが走る。
現れたのは、海上保安庁の湾岸警備隊だった。
二隻の巡視艇と、狭い水路にも入れる複数の小型警備艇が、
燃え上がる倉庫街へ向かってくる。
拡声器から発せられた声が、夜の港へ響き渡った。
『そこの二名、直ちに武器を捨てて停止しなさい!』
綾小路と海斗は、ほとんど同時に海上へ視線を向けた。
敵ではない。
だが、二人にとって止まる理由になる存在でもなかった。
海斗が面倒そうに舌打ちする。
「面倒なのが来やがった」
「この状況なら当然だ」
「お前が倉庫ごと燃やすからだろ」
「先に火種を作ったのはお前だ」
「言うじゃねぇか」
一瞬だけ、二人の間に昔の空気が戻った。
だが、その短い余裕も、炎が爆ぜる音と迫るサイレンによってすぐに掻き消された。
海斗は突然、海側へ背を向けて走り出した。
倉庫街の奥には古い桟橋があり、
港湾関係者が作業に使うモーターボートが数隻係留されている。
黒い海面に揺れる船体の一隻へ、海斗はためらうことなく飛び乗った。
「逃げるのか」
綾小路が言う。
海斗は操舵席の下へ手を入れ、鍵のない点火装置から配線を引き出した。
二本の線を接触させると火花が散り、眠っていたエンジンが低く唸り始める。
「戦場を変えるだけだ。邪魔が入ったままじゃ興ざめだからな」
「海上で続ける気か」
「そうだ」
海斗はスロットルを一気に押し込んだ。
船体が前方へ跳ね、係留ロープが外れ、
モーターボートが白い波を引きながら黒い海面へ滑り出す。
綾小路は桟橋に立ったまま、遠ざかる船体を見つめた。
巡視艇のサーチライトが綾小路を捉える。
『動くな!その場で膝をつけ!』
綾小路は指示に従わず、別のモーターボートへ向かって走った。
このまま海斗を逃がしたとしても、別の岸へ回り込み、
再び陸上で決着を求めることは明らかだった。
それなら、わざわざ海斗が戻るまで待つ理由はない。
背後で銃声に似た破裂音が響いた。
湾岸警備隊の警告射撃ではない。
燃え上がる倉庫の内部に残されていた弾薬が、熱によって暴発した音だった。
続けて爆発が起こり、赤い炎が夜空を照らす。
その光に背中を押されるように、綾小路は船へ飛び乗った。
エンジンキーはない。
しかし、海斗ほど手慣れていないとしても、船の点火構造そのものは理解できる。
必要な配線を選び、点火と燃料供給に必要な手順だけを拾い、
無駄な工程を切り捨てる。
数秒後、エンジンが低い音を上げた。
綾小路は舵を握り、モーターボートを桟橋から離した。
その瞬間、巡視艇のサーチライトが、海斗と綾小路の二隻を同時に追った。
『停止しなさい!繰り返す!直ちに停止しなさい!』
先行していた海斗が振り返る。
夜の海。
背後で燃え上がる倉庫街。
自分を追ってくる綾小路。
さらに後方から迫る湾岸警備隊。
「最高に馬鹿げてるな」
海斗は呟き、今度は少しだけ本当に笑った。
「なあ、綾小路!」
海風とエンジン音の中で、海斗の声が飛ぶ。
「何だ」
綾小路の返答は、激しいエンジン音に掻き消されかけていた。
「お前とこんなことするとは思わなかったぜ!」
「オレもだ」
「だよな!」
海斗はスロットルを限界まで押し込んだ。
モーターボートが波を越えて跳ね、船底を激しく海面へ叩きつける。
白い水飛沫が夜空へ舞い、海斗の黒いロングコートと髪を濡らした。
綾小路も速度を上げる。
二隻のモーターボートが、湾岸の暗い水路を疾走した。
左右には巨大なコンテナ船や作業台船、停泊中の小型貨物船が並び、
その間を黒い岸壁とクレーンの影が埋めている。
遠くには高層ビル群の灯りが浮かび、
背後では燃え上がる倉庫街が赤黒い光を放っていた。
東京湾そのものが、巨大な戦場へ変わったようだった。
海斗は前触れもなく舵を右へ切った。
停泊中の貨物船と岸壁の間にある、船一隻が通れるほどの狭い水路へ突っ込む。
普通なら速度を落とすべき場所だった。
だが、海斗は減速しない。
船体は岸壁と貨物船の船腹すれすれを滑り、反射した波が左右から船内へ降り注ぐ。
綾小路も少し遅れて同じ水路へ入った。
海斗の運転の癖、反応、逃げ方、攻め方を読む。
海斗は直線的に逃げる人間ではない。
必ず障害物の多い場所へ相手を誘い込み、追う側の判断を複雑にする。
綾小路はほんの少しだけ速度を緩めた。
直後、予想通り海斗が左へ舵を切り、
水路脇へ係留されていた小型作業船の間へ飛び込む。
張られたロープ、海上の浮標、積み上げられた資材。
すべてが追跡者を阻む障害物になる。
海斗のボートの船尾が、一本の係留ロープを引っかけた。
だが海斗は瞬時に舵を捻り、船体の角度を変える。
ロープはプロペラへ巻き込まれる寸前で外れ、その反動によって後方へ大きく跳ねた。
綾小路の進路を塞ぐように。
綾小路は即座に選択肢を計算した。
右には作業船。
左には岸壁。
減速すれば海斗との差が開く。
綾小路は速度を落とさず、船体を斜めに滑らせた。
船首でロープを弾き、その上を跳ねるように越える。
しかし、完全には避けきれず、ロープの端が船尾へ絡んだ。
エンジン音が一瞬だけ鈍る。
海斗が振り返った。
「引っかかったか!」
綾小路は返事をせず、腰のナイフを抜いた。
片手で舵を保持したまま身体を船尾側へ伸ばす。
濡れた船体は波を受けて激しく跳ね、一歩間違えれば海へ投げ出される状況だった。
それでも姿勢を崩さず、刃をロープへ当てる。
繊維が切れ、拘束を失ったエンジンが再び高く唸り始めた。
海斗は楽しそうに笑う。
「やっぱりお前は、そう来るよな!」
二隻の後方では、湾岸警備隊の小型艇が追跡を続けていた。
大型巡視艇は狭い水路へ入れないため、
高機動の小型艇がサーチライトを向けながら距離を詰めてくる。
『危険です!直ちに停止しなさい!』
二人から返答はなかった。
返答の代わりに、海斗のモーターボートが狭い水路を抜け、広い港内へ飛び出した。
港内には貨物船、観光船、タグボート、無人の整備船などが複雑に停泊していた。
夜間作業の照明が残されている船もあり、海斗はそれらの間を縫うように進んでいく。
綾小路も同じ軌道を追った。
二隻の高速艇が生み出す波によって停泊中の小型船が揺れ、
係留ロープが張り詰め、金属が軋む音や警報音が周囲へ広がっていく。
その時、倉庫街から海面へ流れ出した燃料の膜へ、燃えた破片が落下した。
青白い炎が水の上を走る。
海斗が目を見開く。
「マジかよ!」
綾小路も、前方を塞ぐ炎の帯を確認した。
右には停泊中の船。
左にはタグボート。
正面は燃え始めた海面。
海斗は迷わなかった。
タグボートが生み出した横波へ船体を斜めに当て、跳躍台として利用する。
モーターボートが大きく跳ね上がった。
炎の帯を越え、海斗の身体が一瞬だけ宙へ浮く。
着水と同時に船底が海面へ激突したが、海斗は膝で衝撃を吸収し、すぐに舵を戻した。
綾小路も同じ波を利用した。
ただし海斗よりわずかに内側を通り、炎の端を掠める。
熱が頬を焼き、船体側面の塗装が焦げる。それでも炎の帯を越えた。
後続の警備艇は同じ速度では進めず、急減速と回避を余儀なくされる。
一隻が大きく旋回し、別の一隻が横波を受けて傾いたことで、追跡隊形は崩れた。
海斗と綾小路は、その隙に港の奥へ進む。
「一般船を巻き込むな!」
綾小路が叫んだ。
海斗は前を向いたまま返す。
「巻き込まねぇように走ってんだろ!」
「十分に巻き込んでいる」
「だったら早く止めろよ、オレを!」
挑発だった。
同時に、本音でもあった。
止められるなら止めてみろ。
止められない限り、麗華を譲るつもりはない。
綾小路は海斗の後ろを直線で追うことをやめ、大型貨物船の反対側へ回り込んだ。
海斗が右側を通るなら、綾小路は左側から先回りする。
二隻は巨大な貨物船を挟み、互いの姿が見えないまま並走した。
聞こえるのは、船体の向こう側から響くエンジン音だけだった。
どちらも速度を落とさない。
貨物船の船首を抜けた瞬間、二隻は再び互いの視界へ飛び出した。
距離は近い。
海斗は弾倉を交換した二丁のベレッタを抜く。
綾小路もガバメントを構えた。
二人はほとんど同時に発砲した。
海上での射撃は安定しない。
波。
風。
高速で進む船体の揺れ。
それでも、二人の弾丸は互いの身体すれすれを通り、ボートを正確に削った。
綾小路の弾丸が海斗のボートのフロントガラスを砕き、
海斗の弾丸が綾小路の船首へ穴を開ける。
ガラス片、水飛沫、火花が混ざって宙へ舞う。
「本気で殺しに来てるな!」
海斗が叫ぶ。
「そうするしかない」
「オレもだ!」
会話だけを聞けば、以前の二人と変わらないようにも思えた。
だが、二人とも分かっている。
その余裕は、少しずつ消えている。
親友同士が本気で殺し合うことが、どれほど苦しく、どれほど残酷なのか。
二人には分かりすぎるほど分かっていた。
前方へ一隻の警備艇が回り込み、二人の進路を塞いだ。
強いサーチライトが照射され、拡声器の声が響く。
『停止しなさい!これ以上の航行は危険です!』
海斗は舵を切ろうとした。
右には停泊中の観光船。
左には作業台船。
正面には警備艇。
綾小路は、海斗が減速するつもりがないことを即座に読んだ。
海斗は警備艇の横を強引にすり抜けるつもりだった。
しかし、この速度では警備艇側が回避しきれず、正面衝突する可能性が高い。
綾小路はさらに加速し、海斗の斜め後方へついた。
自分のボートの船首を、海斗の船尾へぶつける。
激しい衝撃が走り、海斗のボートの進路がわずかに横へずれた。
警備艇との衝突コースからは外れた。
その代わり、海斗の船体は停泊中の観光船へ急接近する。
海斗は舌打ちしながら舵を切り、観光船の側面を僅かに削りながら通過した。
火花と金属音が上がり、剥がれた外装の一部が海へ落ちる。
警備艇も急停止した。
その波を受け、後続の小型艇が制御を失う。
一隻が停泊中の作業船へ横から衝突した。
金属が潰れる音の直後、大きな爆発が起きた。
作業船の燃料タンクが損傷し、爆炎が夜空へ噴き上がる。
海面へ赤い光が広がり、周囲の船が衝撃波で大きく揺れた。
「くそっ」
海斗が歯を食いしばる。
綾小路も表情こそ変えなかったが、即座に判断を切り替えていた。
これ以上、船の多い港内で戦えば、本当に無関係な人間が死ぬ。
海斗も同じ結論へ至っていた。
二人の視線が一瞬だけ交差する。
その先に見えたのは、湾岸外れの廃桟橋だった。
再開発から取り残された古い埠頭。
人影はなく、照明も半分以上消えている。
そこなら、まだ戦える。
二人は同時に舵を切った。
湾岸警備隊のライトが背後から追う中、二隻はさらに速度を上げる。
波を切り。
燃える海面を抜け。
停泊船の間を通り。
暗い海を白く裂いて進む。
海斗が先行し、綾小路が追う。
その距離は少しずつ縮まっていった。
海斗は背後を確認した。
綾小路のボートが、すぐ近くまで迫っている。
このままでは追いつかれる。
海斗は一瞬だけ前を見た後、舵から片手を離した。
綾小路はその動きに反応したが、距離が近すぎた。
海斗の船尾が目の前へ迫る。
衝突を避けるため、綾小路が舵を左へ切った。
その瞬間、海斗が自分のボートから跳んだ。
夜の海。
高速で進む二隻の船。
揺れる船体。
わずかな速度差。
普通なら自殺行為だった。
だが、海斗は迷わなかった。
黒いロングコートが風に広がり、次の瞬間には綾小路のモーターボートへ着地していた。
増えた重量によって船体が大きく傾く。
その一方で、海斗が乗り捨てたモーターボートは、
スロットルを全開にしたまま無人で走り続けた。
主を失った弾丸のように、停泊エリアへ一直線に突っ込んでいく。
『危険!右舷方向のボートが制御不能です!』
湾岸警備隊の無線が慌ただしく飛び交う。
警備艇が進路変更を試みる。
しかし遅かった。
暴走したモーターボートは、制御を失ったまま停泊していた
小型作業船の船首へ猛烈な勢いで突っ込んだ。
轟音とともに鋼鉄同士が激しくぶつかり合い、船首は内側へ押し潰され、
甲板を支えていた金属フレームが悲鳴を上げるようにねじ曲がる。
衝撃で船体の外板が大きく裂け、
破断した燃料配管からガソリンが霧状になって夜の空気へ噴き出した。
次の瞬間、激突によって飛び散った火花がその燃料へ触れ、
一瞬の静寂を挟んで巨大な爆発が湾内を震わせた。
白く閃いた爆光は瞬く間に灼熱の火球へ変わり、
十数メートルにも達する火柱が夜空を突き抜けるように噴き上がる。
爆風は停泊していた船を大きく揺さぶり、
係留ロープを引きちぎる勢いで周囲へ叩きつけ、
海面には円を描くように高い波が幾重にも広がっていった。
吹き飛んだ鉄板や木片は燃えながら夜空を舞い、
火の粉を撒き散らしながら海へ降り注ぐ。
漏れ出した燃料にも次々と炎が燃え移り、
黒い海面には赤い火の帯が蛇のように広がり、
湾岸一帯を不気味な紅蓮の光で照らし始めた。
爆炎は周囲のコンテナやクレーンの鋼鉄を赤く染め上げ、
夜風に乗った黒煙は巨大な柱となって空へ立ち昇る。
『消火班、急げ!』
『二次爆発に注意しろ!』
『周辺船舶を退避させろ!』
警備隊の声が飛び交うが、混乱は収まらない。
爆発した作業船の破片が隣接する船へ降り注ぎ、窓ガラスや手すりを破壊した。
海面へ漏れ出した燃料に燃えた残骸が落下し、
まるで海そのものが燃え始めたように炎が水面を走っていく。
再び湾岸地区が巨大な火災現場へ変わる中、
綾小路と海斗は同じ一隻のモーターボートの上で激突していた。
二人に周囲を見る余裕はない。
二人の世界には、互いしか存在していなかった。
海斗が着地した反動で船体が大きく傾く。
綾小路は片手で舵を握ったまま、海斗の膝蹴りを前腕で受け止めた。
衝撃によって船が跳ねる。
海斗は片手で船縁を掴み、もう片方の拳を振った。
綾小路は頭を下げて避け、海斗の拳は後方の金属フレームへ当たった。
「やっと追いついたな!」
海斗が言う。
「お前が勝手に来たんだろう」
綾小路は海斗の腕を掴み、肘関節を極めようとする。
海斗は肩を抜くように身体を回転させ、拘束から逃れた。
狭い船上には逃げ場がない。
床は海水で濡れ、船体は高速で走り続けている。
重心を少しでも誤れば、暗い海へ落下する。
それでも、二人は格闘をやめなかった。
海斗の膝。
綾小路の肘。
海斗の拳。
綾小路の掌底。
船体の揺れによって僅かにずれた攻撃を、二人は瞬時に補正して打ち込んでいく。
綾小路は片手で舵を保持していた。
海斗はその腕を狙う。
舵を奪えば、船は制御を失う。
綾小路はそれを分かった上で、あえて腕を差し出した。
海斗が掴む。
その瞬間、綾小路は舵から手を離した。
無人の舵が大きく右へ回り、船体が急激に横へ流れる。
足元を崩された海斗の腹部へ、綾小路が膝を叩き込んだ。
海斗が息を吐く。
それでも倒れず、逆に綾小路の肩を掴んで船縁へ押し込んだ。
背中が金属へぶつかり、跳ね上がった海水が顔を濡らす。
「落ちろ!」
海斗が叫ぶ。
「断る」
綾小路は海斗の足首を踏み、重心を崩した。
身体を捻り、海斗を船の中央へ投げ返す。
海斗は床を転がりながらベレッタを抜こうとする。
綾小路の蹴りが手首へ入り、銃が夜の海へ飛んだ。
海斗はすぐにもう一丁を構える。
綾小路もガバメントの銃口を向けた。
距離は二メートルもない。
高速で走り、波によって激しく揺れるモーターボートの上。
外せば弾丸は海へ消える。
当たれば終わる。
そんな距離だった。
しかし、二人は躊躇しなかった。
ほとんど同時に引き金を引く。
綾小路のガバメントが火を吹き、海斗のベレッタも連続して閃光を放つ。
弾丸が互いの顔のすぐ横を通過した。
海斗が上半身を捻り、綾小路の弾丸が耳元を掠めて後方の船体へ突き刺さる。
綾小路も頭を傾け、海斗の弾丸が頬を掠めて細い血を飛ばした。
それでも止まらない。
二人は至近距離のまま連射した。
発射炎が夜の海を断続的に照らし、耳をつんざく銃声と、
排出された薬莢が船上を跳ねる音が重なる。
海斗は身体を低くしながら撃ち、綾小路は半身になって射線を外す。
海斗の弾丸がフロントガラスを砕き、綾小路の弾丸が海斗の肩口の布を引き裂いた。
互いに、あと数センチ。
ほんの少し反応が遅ければ、その場で決着していた。
そんな死線が何度も連続する。
海斗は荒く息を吐きながら笑った。
「相変わらず化け物だな!」
「お前もだ」
綾小路も声を張り、即座に撃ち返す。
海斗は船縁を蹴って身体を浮かせ、綾小路の弾丸を足元へ通過させた。
空中からさらに二発撃つ。
綾小路は反射的に身を沈め、弾丸は背後の操舵盤を吹き飛ばした。
二人に、もはや躊躇いはない。
相手を止めるため、本気で引き金を引いている。
しかし、互いを知りすぎているからこそ、その殺意さえ読み合ってしまう。
綾小路なら、ここで頭を下げる。
海斗なら、この瞬間に重心を左へ逃がす。
何百、何千もの判断が、一瞬の間に交差する。
だからこそ、当たらない。
その間にも、操舵盤を失った船は暴走していた。
前方に廃桟橋の太い支柱が迫る。
最初に気付いたのは綾小路だった。
海斗もほぼ同時に察した。
このままでは正面から衝突する。
二人は同時に銃を下げ、舵へ手を伸ばした。
二人の手が重なる。
どちらが主導権を握るかという争いではない。
今だけは舵を切らなければ、二人とも死ぬ。
二人は同時に力を加えた。
船体が横方向へ滑り、支柱を紙一重でかわす。
しかし、船尾が鉄柱へ接触した。
凄まじい衝撃が船全体を揺らし、エンジン周辺から火花が飛ぶ。
燃料の匂い。
警告音。
海斗が舌打ちする。
「終わったな」
「まだだ」
「いや、これは終わった!」
海斗は綾小路の胸元を掴んだ。
「飛べ!」
二人はほぼ同時に船を蹴った。
直後、制御を失ったモーターボートが、廃桟橋を支える古い鉄柱へ真正面から激突した。
船首が金属の壁へ叩きつけられ、船体前部が一瞬で内側へ押し潰される。
激突の反動によってフロントガラスが粉々に砕け、
無数の破片が炎の光を反射しながら夜の海へ散った。
船体中央部まで衝撃が走り、外装が大きく裂けると、
破損した燃料配管から大量のガソリンが霧状になって噴き出した。
次の瞬間、エンジン周辺で生じた火花が、その燃料へ引火した。
白に近い閃光が一度だけ走り、
遅れて腹の底まで響く爆発音が湾岸一帯を揺らした。
巨大な火球が船体を包み込み、潰れた船首と外装の一部を内側から吹き飛ばす。
燃え上がった金属片が回転しながら四方へ飛散し、
廃桟橋の鉄骨や海面へ次々と降り注いだ。
爆風は海面を円形に押し広げ、黒い水を白い壁のように持ち上げる。
漏れ出した燃料にも炎が移り、
モーターボートの周囲では海そのものが燃え始めたかのように、赤い火が水面を這った。
空中へ跳んでいた綾小路と海斗も衝撃波に背中を殴られ、
進行方向とは異なる角度へ大きく押し飛ばされた。
綾小路の身体が海面へ落下しかけた瞬間、
視界の端に廃桟橋から垂れ下がる一本のロープが入る。
彼は反射的に腕を伸ばし、指先が離れる寸前でそれを掴んだ。
落下の勢いが肩と腕へ一気に掛かり、
関節が引き千切られそうな激痛が走ったが、それでも手を離さなかった。
少し離れた場所では、海斗も別のロープへしがみつき、
燃え上がる海面の上で激しく揺れていた。
二人の下では爆発したモーターボートの残骸が赤い炎を噴き続け、
頭上では老朽化した廃桟橋の鉄骨が爆風と熱に耐えきれずに軋んでいた。
遠くからは警備隊のサイレンと怒号が近づき、サーチライトが海面を走っていた。
二人は同時にロープを登った。
濡れた手。
焦げた服。
痛む身体。
それでも腕を動かし、廃桟橋の上へ転がり込む。
二人は同時に片膝をつき、荒い息を吐いた。
背後では、爆発炎上したモーターボートの残骸が海面で燃え続けている。
周囲の船にも火が移り、警備隊の多くは消火と救助へ回っていた。
サーチライトは二人を探していたが、崩れかけた廃桟橋の影が姿を隠していた。
海斗が先に立ち上がる。
綾小路も続いた。
互いに残された銃は一丁だけで、弾もほとんど残っていない。
身体も限界に近づいていた。
それでも、戦いは終わっていない。
海斗は濡れた髪をかき上げた。
「綾小路」
「何だ」
「今のは、少し楽しかったな」
綾小路はわずかに息を吐いた。
笑ったわけではない。
だが、海斗にはそれで十分だった。
「否定はしない」
「だろ」
海斗が一歩前へ出る。
綾小路も一歩前へ出た。
燃え上がる海と遠ざかるサイレンを背に、二人は崩れかけた桟橋を歩く。
濡れた靴音が鉄板の上へ響き、やがて桟橋を渡り切って再び陸へ上がった。
焦げたアスファルト。
煤。
海風。
炎の赤い光。
そして、止まれない理由だけが二人の間に残っていた。
二人は再び距離を詰めた。
海斗の拳を綾小路が受け、綾小路の肘を海斗がかわす。
海斗が膝を突き上げ、綾小路が身体を捻る。
綾小路の前蹴りを海斗が足首から掴み、そのまま身体を回転させて海側へ投げようとする。
綾小路は空中で体勢を変え、逆に海斗の肩を掴んだ。
二人の身体が同時に崩れ、砂利を巻き上げながら地面へ転がる。
海斗が上になる。
振り下ろされた拳を、綾小路は両腕で受けた。
一発。
二発。
三発。
四発。
衝撃が腕へ蓄積し、痺れが広がる。
綾小路は海斗の胸元へ両足を当て、力任せに蹴り飛ばした。
海斗の身体が後方へ飛び、地面を滑る。
しかし、すぐに立ち上がる。
綾小路も同時に立った。
二人とも肩で息をしていた。
限界は近い。
それでも止まれない。
海斗が正面から突進する。
綾小路も逃げずに前へ出た。
互いに回避を選ばず、真正面から拳を振るう。
拳と拳が同時に激突した。
鈍い音と衝撃が走り、二人の顔が痛みに歪む。
それでも退かない。
海斗が頭突きを放ち、綾小路の額へ直撃させた。
視界が大きく揺れる。
海斗自身も額の痛みに顔をしかめるが、綾小路はその隙を逃さなかった。
海斗の腹部へ拳を叩き込む。
海斗の身体が折れたところへ、さらに膝蹴りを入れる。
海斗は数歩後退し、呼吸を乱しながらも笑っていた。
「やっぱ強ぇな」
綾小路も息を吐く。
「お前もだ」
海斗は口元の血を拭い、綾小路も頬を伝う血を手の甲で拭った。
背後で、燃え続けていた倉庫が崩れた。
轟音とともに火柱が上がり、熱風が二人へ襲いかかる。
赤い炎が夜空を染める光景は、かつて白銀禁止区域で迎えた最終局面を思わせた。
二人は燃え盛る倉庫を背に、再び向かい合う。
敵として。
それでも、最後まで敵になりきれないまま。
海斗が小さく呟いた。
「本当に最悪だな」
「ああ」
「こんな相手と戦うことになるとは思わなかった」
海斗は疲れ切った顔で笑った。
「同感だ」
二人は再び拳を握った。
燃え上がる炎。
冷たい海風。
煙。
血。
汗。
それらすべてを背負いながら、
綾小路清隆と朝霧海斗は残された力を振り絞ってぶつかり合った。
勝つためだけではない。
負けないためだけでもない。
守りたい人間がいるから。
そして何より、目の前の相手も自分と同じなのだと理解していたからだった。
やがて二人は再び距離を取った。
呼吸は荒く、視界は滲み、拳は血に濡れていた。
肩はもう十分に上がらず、足も小刻みに震えている。
立っていること自体が奇跡に近かった。
それでも、海斗は拳を握る。
綾小路も握った。
海斗が一歩前へ出る。
綾小路も同時に一歩前へ出た。
足元はふらついている。
海斗の頬を血が伝い、綾小路の額からも赤い筋が流れていた。
満身創痍だった。
だが、二人の目だけは死んでいない。
守るべきものがある。
譲れない理由がある。
だから前へ出る。
海斗は苦しそうに笑った。
「本当にしつけぇな」
綾小路も息を吐きながら返す。
「お前ほどじゃない」
海斗は拳を構えた。
綾小路も構える。
あと一撃。
あと一発。
どちらかが倒れるまで。
あるいは、二人とも倒れるまで。
それでも前へ出ようとした。
その時。
二人のスマートフォンが、ほとんど同時に鳴った。
綾小路の端末。
海斗の端末。
二人は動きを止めた。
このタイミングで、同時に鳴る電話。
嫌な予感がした。
綾小路は画面を確認する。
堀北学。
海斗も画面を見る。
ツキ。
二人は互いの顔を見た後、同時に通話へ出た。
綾小路の耳へ、学の声が届く。
『綾小路』
その声は、これまでに聞いたことがないほど沈んでいた。
海斗の耳には、震えるツキの声が届いている。
『海斗』
綾小路が聞く。
「何があった」
海斗も同時に問いかけた。
「麗華か」
一秒ほどの沈黙があった。
その時間が、永遠のように長く感じられた。
やがて学が言う。
『鈴音が危篤だ』
ほとんど同時に、ツキも告げた。
『麗華様が、危篤だ』
世界が止まった。
燃え上がる炎の音も。
冷たい海風も。
遠くのサイレンも。
何も聞こえなくなった。
綾小路はスマートフォンを強く握り締めた。
海斗も端末を握ったまま動かない。
二人は互いの顔を見る。
勝敗など、その瞬間に消えた。
人工心臓を奪い合う意味さえ崩れ始めていた。
二人が戦っている間に。
二人が命を懸けて守ろうとした相手は。
同じ時に、死へ近づいていた。
海斗が掠れた声で呟く。
「嘘だろ……」
綾小路は何も言えなかった。
燃え盛る東京湾を背に、二人は立ち尽くす。
勝者はいない。
敗者だけが残った。
決着はつかなかった。
だが、勝敗などすでに意味を失っていた。
海斗は崩れるように片膝をつく。
「結局……」
その声は震えていた。
「何してんだよ、オレたち」
綾小路は拳を握り締めた。
答えはない。
守るために戦った。
だが、二人が戦っている間に、守るべき相手が消えようとしている。
これ以上の皮肉はなかった。
遠くでサイレンが響いている。
夜明けは近い。
灰色だった空が、わずかに白み始めていた。
綾小路清隆と朝霧海斗の最後の決闘は、何一つ決めなかった。
ただ、二人へ一つの現実を突きつけただけだった。
どちらも勝つことはできない。
そして、堀北鈴音と二階堂麗華の命は、
もう誰の手にも届かない場所へ向かい始めている。
それが。
二人に与えられた、決着なき勝敗だった。
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