ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第五部 ザ・ピリオド・マスターピース
第78話 常夏の楽園


海は、あまりにも青かった。

 

雲ひとつない空の下、太陽の光を浴びた水面が、砕けた宝石のように輝いている。

 

沖合から吹く潮風は熱を含んでいるはずなのに、不思議と不快ではなかった。

 

むしろ、長い冬を越えた者たちを迎え入れるような、穏やかで柔らかな風だった。

 

その海の中心に、島が浮かんでいた。

 

エデン・アイランド。

 

二階堂グループと高円寺コンツェルンが共同開発した、未来都市型リゾート施設。

 

南国の自然と最先端技術を融合させた巨大リゾート島であり、

島内には超高級ホテル、商業エリア、マリーナ、クルーズ船ターミナル、

コンテナ港、ジャングル保護区、そして新技術の研究施設まで存在している。

 

ただの観光地ではない。

 

ひとつの都市だった。

 

海上に造られた楽園。

 

その島へ向かう連絡橋を、一台の黒い車が走っていた。

 

助手席で、朝霧海斗は窓の外を見ていた。

 

黒いアロハシャツに白いインナー。

 

南国らしさを出しているつもりなのかもしれないが、

どこか本人の雰囲気と噛み合っていない。

 

膝の上には、いつもの文庫本が置かれている。

 

運転席の宮川尊徳が横目でそれを見る。

 

「旅行先でも本か」

 

「持ってると落ち着く」

 

「お守りかよ」

 

「そんなところだ」

 

「相変わらず変な奴だな」

 

「うるせぇ」

 

後部座席では、二階堂麗華が小さく笑っていた。

 

隣には二階堂彩が座っている。

 

彩は窓に両手をつき、遠くに見える島を見ながら目を輝かせていた。

 

「お姉様、すごいです。本当に島全体がリゾートなんですね」

 

「ええ。まだ正式オープン前だけれど、

今日は関係者向けの招待日だから、比較的自由に見て回れるわ」

 

「私、きちんと案内役もできます」

 

「頼もしいわね」

 

彩は胸を張った。

 

「いつまでもお姉様の後ろにいるだけではいられませんから」

 

その言葉に、麗華の表情が少しだけ柔らかくなる。

 

以前の彩なら、そんなことは言わなかった。

 

不安があれば麗華の背に隠れ、

危険があれば誰かに守られることを当然のように受け入れていた。

 

だが、今は違う。まだ未熟でも、自分も誰かを支えたいと思っている。

 

尊徳がバックミラー越しに彩を見る。

 

「無理はなさらぬように」

 

「分かっています。でも、頑張ります」

 

「頑張るのと無茶するのは違いますから」

 

「尊徳さんは心配性です」

 

「護衛が心配性じゃなくてどうしましょうか」

 

彩は少し頬を膨らませた。

 

海斗が鼻で笑う。

 

「保護者みたいだな」

 

「お前にだけは言われたくない」

 

「オレは麗華の護衛だ」

 

「本を読みながらな」

 

「読んでねぇ。持ってるだけだ」

 

「余計に意味が分からん」

 

車内に小さな笑いが起こる。

 

平和だった。

 

少なくとも、この瞬間だけは。

 

四年前。

 

命が削られていくような時間があった。

 

誰かを救うために、誰かを諦めなければならないと思い込んだ時間があった。

 

綾小路清隆と朝霧海斗が、

互いの大切な者を守るために銃を向け合った時間があった。

 

堀北鈴音と二階堂麗華の心臓病は、今では完全に治療済みだった。

 

時間はかかった。

 

苦しみもあった。

 

後遺症の不安もあった。

 

だが、彼女たちは生きている。

 

そして今、笑っている。

 

それだけで、十分すぎるほど奇跡だった。

 

島のゲートが見えてくる。

 

白いアーチ状の巨大ゲート。

 

その先に、椰子の並木道と、遠くそびえるガラス張りの高層ホテルが見えた。

 

彩が声を弾ませる。

 

「到着です!」

 

海斗は窓の外を見ながら、ぽつりと言った。

 

「常夏の海、ねぇ」

 

麗華がそれに気づく。

 

「どうしたの?」

 

「いや」

 

海斗は少しだけ笑った。

 

「悪くねぇなと思ってな」

 

麗華は一瞬だけ黙り、それから嬉しそうに微笑んだ。

 

「そうでしょう?」

 

車がホテル前に停まる。

 

扉が開き、熱気と潮風が車内へ入り込んできた。

 

海斗が外へ出ると、すぐに遠くから大声が飛んできた。

 

「海斗ぉぉぉぉぉ!」

 

軽井沢恵だった。

 

麦わら帽子を被り、いかにもリゾートらしい格好で全力で手を振っている。

 

「南国最高ーーー!」

 

「朝からうるせぇな」

 

「いいじゃん!旅行だよ旅行!」

 

軽井沢の後ろから、一之瀬帆波が苦笑しながら歩いてきた。

 

「軽井沢さん、走ると転ぶよ」

 

「大丈夫大丈夫!」

 

「さっきも同じこと言って、段差でつまずいてたけど……」

 

「それはノーカン!」

 

さらに少し後ろから、椎名ひよりが静かに歩いてくる。

 

彼女は周囲の喧騒とは対照的に、落ち着いた足取りだった。

 

手には紙袋を持っている。

 

「朝霧くん」

 

「おう」

 

「島内の文化エリアに、本屋さんがありました」

 

海斗の目が変わった。

 

「どこだ」

 

「三階です」

 

「規模は?」

 

「かなり広かったです」

 

「何冊くらいだ」

 

「案内板には五万冊以上と書かれていました」

 

「行く」

 

即答だった。

 

麗華が呆れたように腰に手を当てる。

 

「海斗」

 

「なんだ」

 

「私との観光は?」

 

「する」

 

「本屋は?」

 

「行く」

 

「どちらが先?」

 

「……難問だな」

 

「難問にしないでちょうだい」

 

ひよりが小さく笑う。

 

「朝霧くんらしいですね」

 

「本屋を見つけた椎名も悪い」

 

「悪いことをしたつもりはないのですが」

 

「褒めてる」

 

「それならよかったです」

 

そのやり取りを見て、軽井沢が目を丸くした。

 

「え、なに?海斗って本の話だとこんなにテンション上がるの?」

 

「上がってねぇ」

 

「いや上がってるって。顔がちょっと少年になってた」

 

「気のせいだ」

 

すると、別方向から慌ただしい足音が近づいてきた。

 

「朝霧海斗」

 

森下藍だった。

 

いつものように、綾小路や海斗をフルネームで呼ぶ彼女は、

なぜか既に疲れた顔をしていた。

 

「ツキがいません」

 

海斗は一秒も驚かなかった。

 

「またか」

 

「またです」

 

麗華が周囲を見回す。

 

「ツキなら、さっきまで一緒だったはずだけど」

 

「気づいたら消えていました」

 

森下は深刻そうに言った。

 

「南国のリゾート島で迷子です。これは大事件です」

 

「大げさだな」

 

「朝霧海斗、あなたはツキを甘く見ています。あの人は三十秒で視界から消えます」

 

「猫かよ」

 

その瞬間。

 

噴水の前で、ストローをくわえたツキが立っているのが見えた。

 

普通にいた。

 

涼しい顔でトロピカルジュースを飲んでいる。

 

「います」

 

森下が指を差す。

 

「いました!」

 

ツキが首だけをこちらへ向ける。

 

「発見された」

 

「成功です」

 

「何が」

 

「かくれんぼです」

 

「してない」

 

「では迷子です」

 

「それも違う」

 

森下は真剣な顔で頷いた。

 

「なるほど」

 

「理解したか」

 

「つまり自主的な迷子ですね」

 

「意味が分からない」

 

ツキはジュースを飲む。

 

「喉が乾いた」

 

「私もです」

 

「買うか」

 

「買います」

 

二人は並んで売店へ向かおうとする。

 

海斗が慌てて止めた。

 

「待て待て待て」

 

二人が同時に振り返る。

 

「何か」

 

「何でしょう」

 

「お前ら今、捜索されてたんだぞ」

 

森下が首を傾げる。

 

「そうなんですか?」

 

「そうだよ!」

 

ツキも少し考える。

 

「では発見されたから解決」

 

「そういう問題じゃねぇ!」

 

森下が感心したように頷く。

 

「確かに解決しています」

 

「お前も納得するな!」

 

ツキがジュースを掲げる。

 

「祝杯」

 

森下も拳を握る。

 

「祝杯です」

 

海斗は額を押さえた。

 

「何でお前らだけ話が終わってるんだよ……」

 

ツキと森下は顔を見合わせる。

 

そして同時に頷いた。

 

「仲良し」

 

「仲良しですね」

 

海斗は思わず吹き出した。

 

「相変わらずだな、お前ら」

 

ツキが海斗を見る。

 

「海斗」

 

「なんだ」

 

「日焼けしています」

 

「島に来たばかりだぞ」

 

「焦げています」

 

「早すぎるだろ」

 

「未来予測です」

 

「嫌な予測すんな」

 

軽井沢が腹を抱えて笑い出す。

 

「なにこの会話!変人しかいないじゃん!」

 

ツキが頷く。

 

「変人です」

 

森下も頷く。

 

「変人ですね」

 

海斗が二人を見る。

 

「おい」

 

軽井沢はさらに笑った。

 

「海斗ってツッコミなんだ」

 

「こんな奴らに囲まれたら誰でもそうなる」

 

「いや、海斗も大概変だよ?」

 

「どこがだ」

 

「本持って南国リゾートに来てるところ」

 

「普通だろ」

 

「普通じゃない!」

 

そこへ、遅れて綾小路清隆と堀北鈴音が歩いてきた。

 

綾小路は薄いシャツに落ち着いた格好。

 

堀北は白を基調とした涼しげな服装だった。

 

四年前よりも、二人の距離は自然だった。

 

隣にいることが当たり前のように見えた。

 

軽井沢が二人に気づいて手を振る。

 

「清隆!堀北さん!」

 

堀北は軽く頷く。

 

「相変わらず元気ね」

 

「旅行だからね!」

 

綾小路は海斗たちを見る。

 

「到着早々、騒がしいな」

 

海斗が肩をすくめる。

 

「主にこいつらのせいだ」

 

森下が反論する。

 

「朝霧海斗も十分原因です」

 

「オレは何もしてねぇ」

 

「存在が原因です」

 

「ひでぇな」

 

ツキが静かに付け加える。

 

「焦げているし」

 

「だから焦げてねぇ」

 

堀北はそのやり取りを見て、少しだけ笑った。

 

「平和ね」

 

綾小路も同じ方向を見る。

 

「ああ」

 

その一言には、重みがあった。

 

ただ騒がしいだけの日常。

 

誰かが迷子になり、誰かが叫び、誰かが呆れ、誰かが笑う。

 

かつてなら、そんなものに意味を見出せなかったかもしれない。

 

だが今は違う。

 

この騒がしさこそが、守るべきものだった。

 

ホテルのロビーへ入ると、そこはまるで巨大な宮殿のようだった。

 

天井は高く、ガラス張りの壁からは海が見える。

 

中央には巨大な水槽があり、色鮮やかな魚が泳いでいた。

 

床は白い大理石で、足音さえ静かに吸い込まれていく。

 

軽井沢が口を開ける。

 

「うわ……すご……」

 

一之瀬も感嘆する。

 

「本当に映画みたいだね」

 

ひよりは水槽を見つめている。

 

「綺麗ですね」

 

森下は周囲をきょろきょろ見回した。

 

「これは迷いますね」

 

ツキが頷く。

 

「既に迷った」

 

「まだロビーですよ」

 

「広いから」

 

「確かに広いですね」

 

海斗はホテルの案内図を見ていた。

 

「本屋は三階か」

 

麗華が隣から覗き込む。

 

「本当に行く気なのね」

 

「五万冊だぞ」

 

「数字で誘惑されないで」

 

「無理だ」

 

その時、ロビー奥の階段から坂柳有栖が現れた。

 

いつものように優雅な足取りだった。

 

「皆さん、お揃いですね」

 

堀北が振り向く。

 

「坂柳さん」

 

「この島、なかなか興味深いですね。

観光地としても、研究施設としても、少し規模が大きすぎます」

 

綾小路が静かに問う。

 

「気になるのか」

 

「ええ。平和な旅行先としては素晴らしいですが、

危機管理の観点から見ると、重要施設が多すぎる」

 

麗華が苦笑する。

 

「耳が痛いわね」

 

「責めているわけではありません。

むしろ、二階堂グループらしい大胆な設計だと思います」

 

「褒めているのかしら?」

 

「半分は」

 

「残り半分は?」

 

「心配です」

 

坂柳は微笑んでいたが、その瞳は島全体を観察しているようだった。

 

綾小路はその視線に気づく。

 

「旅行中でも頭脳担当か」

 

「あなたが頭脳戦をしない分、私が担当するしかありませんから」

 

「オレは休暇中だ」

 

「刑事さんがそれを言いますか?」

 

「休暇中くらい言わせてくれ」

 

堀北が横から言う。

 

「あなたの場合、事件の方から寄ってきそうだけれど」

 

「否定できないな」

 

海斗が鼻で笑う。

 

「お前がいる時点で平和な旅行って感じがしねぇ」

 

「お前も同じだろ」

 

「オレは護衛だ」

 

「護衛がいる時点で平和とは言いにくい」

 

「違いねぇ」

 

二人は軽く笑った。

 

かつて本気で撃ち合った二人とは思えないほど、今の距離は穏やかだった。

 

その後、一行は各部屋へ荷物を置き、島内の見学へ向かった。

 

エデン・アイランドは、ただ広いだけではなかった。

 

 ホテル前の商業エリアには高級ブランド店、カフェ、劇場、

映画館、書店、ゲームセンター、レストラン街が並んでいる。

 

さらにその奥には人工運河が流れ、水上タクシーが人々を運んでいた。

 

軽井沢はあちこちを指差して騒いだ。

 

「ねぇねぇ!あそこ見て!ジェラート!」

 

一之瀬が笑う。

 

「あとで食べようか」

 

「絶対!」

 

森下が案内板を見る。

 

「こっちがマリーナで、あっちがジャングル保護区……広すぎませんか?」

 

ツキが静かに言う。

 

「迷うために作られてるから」

 

海斗は三階の書店に向かおうとしていたが、麗華に腕を掴まれていた。

 

「海斗」

 

「少しだけだ」

 

「さっきから少しだけって言ってるわ」

 

「五分でいい」

 

「五分で済むの?」

 

「……十分」

 

「増えたわよ」

 

ひよりが助け舟を出す。

 

「私も少しだけ見たいです」

 

麗華はひよりを見て、少し笑った。

 

「ひよりさんに言われると断りづらいわね」

 

「すみません」

 

「いいのよ。海斗よりずっと穏やかなお願いだから」

 

海斗が不服そうに言う。

 

「オレも穏やかだろ」

 

ツキが首を振る。

 

「本を見る時だけ獣です」

 

「どんな獣だ」

 

森下が真面目に言う。

 

「本の獣ですね」

 

「そのまますぎるだろ」

 

結局、全員で文化エリアへ向かうことになった。

 

巨大書店は、海斗とひよりにとって楽園だった。

 

天井まで続く本棚。

 

島の歴史、海洋学、サバイバル、文学、ミステリー、海外小説、漫画、専門書。

 

ひよりは目を輝かせた。

 

「すごいですね」

 

「ああ」

 

海斗は珍しく真面目に頷く。

 

「ここは危険だ」

 

「危険?」

 

「時間が溶ける」

 

「分かります」

 

麗華が呆れる。

 

「二人とも戻ってこなくなりそうね」

 

軽井沢が小声で森下に言う。

 

「本好きってすごいね」

 

森下も小声で返す。

 

「朝霧海斗と椎名ひよりの周囲だけ空気が違います」

 

ツキがさらに小声で言う。

 

「結界です」

 

「結界!?」

 

ひよりは一冊の本を手に取った。

 

「朝霧くん、この作家さんは読んだことがありますか?」

 

「ああ。文章は静かだけど、終盤で一気に刺してくる」

 

「分かります。優しいのに痛いんですよね」

 

「そういう本は残る」

 

「はい」

 

二人の会話は穏やかだった。

 

海斗は軽口が多いが、本の話をする時だけ、少しだけ違う顔になる。

 

ひよりはそれを自然に受け止める。

 

麗華はその様子を見て、少しだけ微笑んだ。

 

嫉妬ではなかった。

 

海斗に穏やかに話せる相手がいる。

 

それが嬉しかった。

 

四年前の海斗は、もっと張り詰めていた。

 

守るために生きているような男だった。

 

今も護衛ではある。

 

だが、今の彼は本を読み、冗談を言い、仲間と旅行している。

 

それだけで、麗華には十分だった。

 

2時間後、研究施設の一角では、麗華が高円寺六助と向き合っていた。

 

高円寺は白いスーツ姿で、相変わらず現実離れした雰囲気を漂わせていた。

 

「麗華君、素晴らしい島だ」

 

「ありがとうございます。

高円寺コンツェルンの協力がなければ、ここまではできませんでした」

 

「当然だ。私が関わる以上、凡庸な施設にはならない」

 

「そこは否定しません」

 

高円寺は窓の外を見る。

 

そこからは島の全景が見えた。

 

「リゾート、研究、物流、観光、自然保護。欲張りな島だ」

 

「必要なものを詰め込みました」

 

「欲張りは美徳だよ。退屈より遥かにいい」

 

麗華は少しだけ眉を動かす。

 

「高円寺さんらしいですね」

 

「人生とは退屈との戦いだ。平穏も結構。だが、刺激のない平穏は人を鈍らせる」

 

「私は、平穏が欲しいです」

 

「君はそうだろうね」

 

高円寺は麗華を見る。

 

「死にかけた者ほど、平穏を美しく感じる」

 

「……否定はしません」

 

「だが、平和を守るには力がいる」

 

「分かっています」

 

「ならばいい」

 

高円寺は楽しげに笑った。

 

「この島が楽園であり続けるかどうかは、君たち次第だ」

 

その言葉に、麗華は小さな違和感を覚えた。

 

だが、高円寺の言葉はいつもそうだった。

 

真意が見えない。

 

冗談なのか、警告なのか、単なる退屈しのぎなのか。

 

判断しづらい。

 

 

夕方。

 

全員はビーチへ集まった。

 

白い砂浜にテーブルが並べられ、バーベキューの準備が整えられていた。

 

夕陽が海に沈み始め、空は少しずつ橙色に染まっていく。

 

一之瀬が料理を並べる。

 

「はい、野菜もちゃんと食べてね」

 

軽井沢が肉の皿を持ちながら言う。

 

「えー、旅行中くらい肉多めでよくない?」

 

「野菜も大事だよ」

 

「帆波ちゃんってお母さんみたい」

 

「えっ、そうかな?」

 

ひよりは静かにサラダを取り分けていた。

 

「バランスは大事です」

 

海斗は肉を焼いている。

 

ツキが横から鉄板を見つめる。

 

「朝霧海斗」

 

「なんだ」

 

「焦げています」

 

「肉か?」

 

「あなたです」

 

「まだ言うか」

 

「肉もです」

 

「先に肉って言え」

 

森下が慌ててトングを持つ。

 

「朝霧海斗、貸してください。私が焼きます」

 

「お前、料理できるのか?」

 

「できます」

 

数秒後。

 

森下は真剣な顔で肉を裏返そうとして、勢い余って皿に飛ばした。

 

軽井沢が爆笑する。

 

「森下さん、豪快すぎ!」

 

「違います。これは作戦です」

 

ツキが頷く。

 

「肉の脱出です」

 

「脱出させないでください」

 

海斗がため息をつく。

 

「お前ら、飯くらい普通に食わせろ」

 

麗華が笑いながら海斗に飲み物を渡す。

 

「楽しそうじゃない」

 

「どこがだ」

 

「顔が笑ってるわ」

 

「笑ってねぇ」

 

「笑ってる」

 

「……少しな」

 

麗華は満足そうに笑った。

 

少し離れた場所では、彩が尊徳に飲み物を渡していた。

 

「尊徳さん、どうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

「私、今日ちゃんと役に立てていますか?」

 

「十分ですよ」

 

「本当ですか?」

 

「はい。少なくとも、海斗たちよりは落ち着いていますね」

 

「それは比較対象が悪い気がします」

 

「正論ですね」

 

彩は笑った。

 

そして、少し真面目な顔になる。

 

「私、お姉様に負けたくないんです」

 

「麗華様に?」

 

「はい。お姉様みたいに強くはなれないかもしれません。

でも、支えられるだけじゃなくて、私も誰かを支えたいんです」

 

尊徳は彩を見た。

 

「もう支えていますよ」

 

「え?」

 

「麗華様も、海斗も、彩様が笑っているだけで救われています」

 

彩は少し照れた。

 

「そうでしょうか」

 

「はい」

 

「では、もっと頑張ります」

 

「ですから無理はなさらないように……」

 

「はい!」

 

尊徳は小さく笑った。

 

ビーチ全体に笑い声が広がっていく。

 

綾小路はその光景を少し離れた場所から見ていた。

 

堀北が隣に立つ。

 

「何を見ているの?」

 

「全員が笑ってる」

 

「そうね」

 

「不思議だな」

 

「何が?」

 

「少し前まで、こういう未来は想像できなかった」

 

堀北は黙る。

 

波の音が二人の間を通り過ぎる。

 

「でも、今はあるわ」

 

「ああ」

 

「なら、それでいいんじゃない?」

 

「そうだな」

 

堀北は綾小路の横顔を見る。

 

「あなたは変わったわ」

 

「よく言われる」

 

「悪い意味じゃないわ」

 

「分かってる」

 

綾小路は静かに言った。

 

「オレは、ここにいる全員を守りたいと思ってる」

 

堀北の目が少し揺れる。

 

「それ、昔のあなたなら絶対に言わなかったわね」

 

「そうかもな」

 

「刑事になった影響?」

 

「それもある」

 

「他には?」

 

「お前たちの影響だ」

 

堀北は一瞬だけ言葉を失い、それから視線を逸らした。

 

「本当に、今日は素直ね」

 

「休暇中だからな」

 

「便利な言葉ね」

 

その時、坂柳が近づいてきた。

 

「お二人とも、良い雰囲気ですね」

 

堀北が少しだけ表情を引き締める。

 

「からかわないで」

 

「事実を言っただけです」

 

坂柳は海の方を見る。

 

「ですが、本当に美しい夕暮れです」

 

「あなたが素直に景色を褒めるなんて珍しいわね」

 

「私だって景色くらい楽しみます」

 

坂柳は微笑んだ。

 

「ただ、少しだけ気になることがあります」

 

綾小路の目が変わる。

 

「何だ」

 

「島の外周警備が、昼より増えています」

 

堀北が反応する。

 

「警備?」

 

「ええ。観光客には分からないように配置されていますが、

港側の監視ドローンが増えました。マリーナ付近の警備員も動きが硬い」

 

「何かあったのか?」

 

「まだ分かりません」

 

坂柳は穏やかな表情のままだったが、声は少しだけ低かった。

 

「ただの警戒ならいいのですが」

 

綾小路は海へ視線を向ける。

 

夕陽に染まる水平線。

 

穏やかな波。

 

何も異常はないように見える。

 

だが、刑事としての感覚が、微かに反応していた。

 

何かが近づいている。

 

そう感じた。

 

その張り詰めた空気とは対照的に、

少し離れた場所では妙に平和な光景が広がっていた。

 

「彩様」

 

ツキが彩の後ろへ回る。

 

「髪、綺麗ですね」

 

彩は少し照れながら笑う。

 

「ありがとうございます」

 

森下も興味津々で近づいた。

 

「本当ですね……すごくさらさらです」

 

「そんなにですか?」

 

「触ってもいいですか?」

 

彩が頷く。

 

「もちろんです」

 

「失礼します!」

 

森下は両手で彩の長い髪をそっと持ち上げた。

 

「わあ……すごいです。本当に絹みたいです」

 

ツキも横から毛先を摘まむ。

 

「手入れが行き届いています」

 

「毎日、お姉様と一緒に頑張っていますから」

 

「なるほど」

 

ツキは器用に髪を三つ編みにし始めた。

 

「少し遊びます」

 

「えっ?」

 

数秒後。

 

「できました」

 

彩が首を傾げる。

 

「どんな感じですか?」

 

森下が吹き出す。

 

「ツキ。左右だけ三つ編みにして真ん中そのままって、すごく独特ですね」

 

「芸術」

 

「芸術なんですか?」

 

「はい」

 

むふーっと得意げに鼻息を荒くするツキ。

 

森下は負けじと髪を結び始めた。

 

「じゃあ私は……」

 

数十秒後。

 

「完成しました」

 

彩が鏡代わりにスマートフォンを見る。

 

頭の上で髪が二つ小さく丸められ、後ろのロングヘアはそのまま流れている。

 

「これは……」

 

森下は満足そうに頷く。

 

「かわいいです」

 

ツキが冷静に評価する。

 

「藍、リゾートというより宇宙人」

 

「ガビーン」

 

「古っ。でも少し面白い」

 

「褒めてるんですか?」

 

「半分」

 

彩は鏡を見つめたあと、小さく笑い出した。

 

「ふふっ……なんだか新鮮ですね」

 

森下も嬉しそうに笑う。

 

「気に入ってもらえました?」

 

「はい。少し恥ずかしいですけど」

 

ツキは彩の後ろ髪を指先で整えながら言う。

 

「長い髪は遊び甲斐があります」

 

「遊び甲斐って……」

 

「次はポニーテールも試します」

 

「まだあるんですか!?」

 

「今日は時間があります」

 

森下が目を輝かせる。

 

「私も手伝います」

 

「共同制作ですね」

 

「なんだか文化祭みたいです」

 

三人の楽しそうな笑い声が、穏やかな浜辺へ響いた。

 

その光景を見た海斗が苦笑する。

 

「完全に美容室じゃねぇか」

 

麗華も微笑む。

 

「彩、楽しそうね」

 

尊徳は腕を組みながら小さく笑った。

 

「彩様、すっかり人気者ですね」

 

「髪で遊ばれてますけどね」

 

「本人が笑ってるなら問題ありません」

 

一方、堀北、坂柳、軽井沢、一之瀬、ひよりの五人は花火を楽しんでいた。

 

「やっぱり夏は花火だよね!」

 

軽井沢が元気よく笑う。

 

一之瀬も嬉しそうに頷いた。

 

「こういう時間って大切だね」

 

ひよりは静かに線香花火へ火をつける。

 

小さな火玉がゆっくり育ち、静かに揺れていた。

 

「綺麗ですね」

 

坂柳も隣で線香花火を見つめる。

 

「派手な花火も好きですが、この儚さも悪くありません」

 

堀北は少し微笑みながら火花を見つめていた。

 

「……平和ね」

 

その平和をぶち壊したのは、もちろん軽井沢だった。

 

「ねぇねぇ!もっと派手なのやろうよ!」

 

そう言うと、軽井沢は花火の袋を漁り始める。

 

「あった!」

 

「何をする気ですか?」

 

ひよりが首を傾げる。

 

軽井沢はニヤリと笑った。

 

「線香花火って一本じゃ物足りなくない?」

 

坂柳が嫌な予感しかしないという表情になる。

 

「まさか……」

 

軽井沢は線香花火を一本、二本、三本と束ね始める。

 

「十本!」

 

「軽井沢さん?」

 

「二十本!」

 

「ちょっと待ちなさい」

 

堀北が止めようとする。

 

「危ないわよ」

 

「大丈夫大丈夫!」

 

「四十本!」

 

「まだ増やすのですか……」

 

「五十本!」

 

「軽井沢さん、それは線香花火ではなくなっています」

 

一之瀬が苦笑する。

 

「もうお祭り屋さんもびっくりだよ」

 

「七十本!」

 

「軽井沢さん」

 

「やめた方が――」

 

「九十本!」

 

「聞いてください」

 

「百本!!」

 

ついに軽井沢は満足そうに巨大な束を掲げた。

 

「完成!」

 

堀北は額へ手を当てた。

 

「何が完成なのよ……」

 

坂柳も思わず笑ってしまう。

 

「発想だけは天才ですね」

 

ひよりが困ったように笑う。

 

「線香花火の概念が変わりました」

 

軽井沢は胸を張る。

 

「名付けて!」

 

大きく掲げる。

 

「元気玉線香花火!!」

 

一之瀬が吹き出した。

 

「そのネーミングなの!?」

 

「いっくよー!」

 

軽井沢がライターを近づける。

 

シュボッと、百本近い火薬へ一斉に火が回った。

 

「きゃあああああっ!!」

 

想像の何倍もの火柱が上がった。

 

普通の線香花火とは思えないほど巨大な火花が四方八方へ噴き出す。

 

軽井沢は慌てて振り回す。

 

「熱い熱い熱い熱い!!」

 

堀北が思わず笑ってしまう。

 

「だから言ったでしょう!」

 

一之瀬もお腹を抱えて笑う。

 

「もう普通の打ち上げ花火だよ!」

 

坂柳は肩を震わせながら笑う。

 

「ふふっ……元気玉というより太陽ですね」

 

ひよりも珍しく声を上げて笑っていた。

 

「すごい火花です……!」

 

軽井沢は火柱を振り回しながら浜辺を走る。

 

「誰か取ってぇぇぇ!」

 

堀北が呆れながら追い掛ける。

 

「振り回さない!」

 

一之瀬も追う。

 

「こっちに来ないで!」

 

「こんな花火大会は初めてです」

 

ひよりも涙を浮かべながら笑っている。

 

その賑やかな笑い声は、夕暮れの海風に乗って遠くまで流れていく。

 

綾小路もその賑やかな様子を横目で見た。

 

事件を乗り越えたからこその、何気ない日常。

 

守りたかった時間。

 

その笑顔を見ていると、不穏な胸騒ぎすら一瞬だけ遠のく。

 

しかし――。

 

潮風が、わずかに変わった。

 

綾小路の視線は再び水平線へ向く。

 

夕陽の向こう。

 

まだ誰も気づいていない、小さな黒い影がゆっくりと近づいていた。

 

 

その頃、島の反対側。

 

巨大コンテナ港の管制室では、職員たちが慌ただしく動いていた。

 

「所属不明船団、進路変更なし」

 

「通信に応答しません」

 

「警備部門へ連絡。マリーナ側も警戒態勢へ」

 

「距離は?」

 

「約二十海里。なお接近中」

 

レーダー画面に、複数の点が映っている。

 

一つではない。

 

十でもない。

 

それ以上。

 

大型輸送船。

 

武装艇。

 

ヘリ搭載艦。

 

明らかに通常の民間船団ではなかった。

 

そして、その中心。

 

先頭の艦船の甲板に、一人の男が立っていた。

 

巨大な体。

 

無言。

 

肩には弓。

 

腰には巨大なサバイバルナイフ。

 

風を受けても、男は微動だにしない。

 

ジャンボー。

 

ジャングルの支配者と呼ばれる傭兵だった。

 

その隣で、葉巻をくわえた別の男が豪快に笑う。

 

筋肉の鎧のような体。

 

重火器を背負い、サングラス越しに島を見ている。

 

コマンダー。

 

元コマンドー部隊隊長。

 

重火器の専門家。

 

要塞そのもののような男だった。

 

「最高のバカンスだな」

 

コマンダーは笑った。

 

「歓迎が熱烈すぎるぜ」

 

ジャンボーは何も言わない。

 

ただ、島を見ていた。

 

しばらくして、低く呟く。

 

「……風が変わった」

 

「詩人だな、お前」

 

「自然は全てを見ている」

 

「なら自然に見せてやろう。最高のショーをな」

 

コマンダーは通信機を手に取った。

 

「全隊へ。島を封鎖する。港、マリーナ、通信施設、研究棟。全部押さえろ」

 

そして、笑う。

 

「休暇中の連中を起こしてやれ」

 

【挿絵表示】

 

その頃、ビーチでは、まだ笑い声が続いていた。

 

軽井沢がジュースを掲げる。

 

「じゃあ、みんなで乾杯しよ!」

 

一之瀬が頷く。

 

「うん」

 

麗華もグラスを持つ。

 

「改めて、来てくれてありがとう」

 

ひよりが微笑む。

 

「こちらこそ、招待していただいて嬉しいです」

 

森下が大きく頷く。

 

「南国です、リゾートです、迷子です」

 

ツキが静かに言う。

 

「既に三回迷いました」

 

海斗が呆れる。

 

「お前ら、乾杯くらい普通にしろ」

 

軽井沢が笑う。

 

「じゃあ海斗が音頭取ってよ」

 

「なんでオレだ」

 

「面白そうだから」

 

「理由が雑だな」

 

麗華が期待するように見る。

 

「海斗」

 

「……分かったよ」

 

海斗は面倒くさそうにグラスを持ち上げた。

 

そして、少しだけ間を置く。

 

「まぁ……色々あったけどな」

 

その場が少し静かになる。

 

海斗は海を見た。

 

「こうして全員で飯食って、馬鹿みてぇに騒げるなら、それで十分だ」

 

麗華が目を細める。

 

綾小路も海斗を見る。

 

海斗は照れ隠しのように続けた。

 

「次は事件なしで頼む」

 

軽井沢が笑う。

 

「それフラグじゃん!」

 

「言うな」

 

綾小路が静かにグラスを上げる。

 

「全員で帰るために」

 

堀北も続く。

 

「ええ」

 

麗華が頷く。

 

「今度こそ」

 

一之瀬が優しく言う。

 

「みんなで」

 

ひよりが微笑む。

 

「帰りましょう」

 

グラスが軽く触れ合う。

 

澄んだ音が、夕暮れの海へ溶けていった。

 

その瞬間。

 

遠くで、低い音が響いた。

 

最初は雷のようにも聞こえた。

 

だが、空は晴れている。

 

次の瞬間、港の方角から黒い煙が上がった。

 

笑い声が止まる。

 

綾小路の目が鋭くなる。

 

海斗もグラスを置いた。

 

「……始まりやがったか」

 

堀北が息を呑む。

 

「何が起きたの?」

 

坂柳が水平線を見る。

 

「どうやら、平和な休暇はここまでのようですね」

 

海の向こう。

 

黒い船団が、確実に島へ近づいていた。

 

四年かけて取り戻した日常。

 

ようやく手に入れた平穏。

 

それを奪うように、戦火の影が常夏の楽園へ迫ってくる。

 

だが。

 

四年前とは違う。

 

今度は誰か一人が背負う戦いではない。

 

誰かを救うために、誰かを諦める戦いでもない。

 

綾小路清隆。

 

朝霧海斗。

 

堀北鈴音。

 

二階堂麗華。

 

そして、ここにいる全員。

 

今度こそ。

 

全員で帰るための戦いが始まろうとしていた。




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