ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第8話 近圧

特別棟裏口の重い扉が外側から連続して叩きつけらる。

金属板そのものが低く軋みながら震える音を背中で聞きつつ、

綾小路清隆と堀北鈴音は赤い非常灯に染まった

細い廊下を一気に駆け抜けていたが、

その走りはもはや最初の頃のような余裕を残した逃走ではない。

 

肩口を浅く裂かれた綾小路の痛みと、

繰り返された転落と疾走で蓄積した堀北の疲労と、

背後から雪崩れ込んでくる複数勢力の執念。

すべて同時にのしかかり、限界を刻みながらの前進へと確実に変質していた。

 

特別棟の内部は教室棟とは空気が違う。

 

実験室、準備室、視聴覚室、資料保管室、芸術系の専用教室。

そして文化祭準備のために普段より多くの機材が運び込まれた

一時保管エリアが複雑に並び、夜の赤い非常灯の下では、

廊下の先行きが不自然に短く見え、扉の一つ一つが単なる部屋の入口ではなく、

潜伏にも待ち伏せにも転用できる無数の穴に見えた。

 

「どこまで行くの」

 

堀北が呼吸を抑えながら問う。

 

「中央階段までは行かない」

 

綾小路は前を見たまま答えた。

 

「追跡線が集まりやすい」

「ならどこへ」

「理科準備エリアの手前で一度切る」

 

堀北は短く頷いた。

 

彼女の返事は最小限だったが、それ以上は必要なかった。

 

今この状況で、感情を処理する言葉や、

先の見えない不安を共有する余裕はない。

 

必要なのは、次の角を曲がるまで互いが動けることだけだった。

背後でついに裏口のロックが完全に破られる音が響いた。

 

怒号が一気に建物内へ流れ込む。

 

「散れ!二手に分かれろ!」

 

龍園の声がまず響く。

 

正面突破を軸にしながらも、屋外で読み負けたぶん、

今度は棟内で包囲を厚くしようとしているのだろう。

 

その直後に、別の声が重なる。

 

「走る音は中央じゃない!右です!」

 

七瀬だった。

耳がいい。

 

いや、それ以上に、綾小路が今どういう思考で動くかをかなり正確に追っている。

 

「うるせえ、俺が行く!」

 

宝泉の怒声。

そしてそのさらに奥で、楽しそうな笑い声。

 

天沢。

 

この四つの声が同じ建物の中で反響するだけで、

特別棟はもうひとつの密室へ変わっていた。

 

綾小路は次の角で急減速し、堀北を壁の陰へ引き込んだ。

直後、廊下の先をマシンガンの短い掃射が横切った。

 

乾いた連続音。

 

壁に火花が散り、掲示板の表面が裂け、

貼られていた文化祭関連の掲示物がばらばらに吹き飛ぶ。

 

教室棟の外で聞いた時よりも、棟内では音が重い。

 

反響が近く、逃げ場が狭く、

弾の気配が空気そのものを削っていくように感じられる。

 

堀北が壁に背を押しつけながら息を止める。

 

「さっきの銃撃と同じ?」

「たぶんな」

「持ってるのは誰」

「龍園側の誰かだ」

「龍園くん本人じゃないのね」

「龍園は撃つより近づくほうが好きだ」

 

そう答えながら、綾小路は床に落ちた破片の位置と、掃射の来た角度を見た。

 

相手はこの角のさらに先、直線廊下を押さえる位置にいる。

視認して撃ったというより、進路を限定するための制圧射に近い。

 

つまりこちらの正確な位置は見えていない。

 

ならまだ動ける。

 

綾小路は近くの理科準備室の扉へ手をかけた。

 

鍵はかかっていない。

中へ入る。

堀北も続く。

 

扉を静かに閉めると、室内には薬品棚と実験台と洗い場が薄暗く並び、

文化祭用に持ち込まれたらしい追加のパネルと備品箱が奥に積まれていた。

 

ここなら数十秒は切れる。

綾小路は肩口を押さえた。

 

浅いとはいえ、さきほど天沢にかすめられた傷からは

じわじわと熱を帯びた痛みが広がっている。

 

血が大量に出ているわけではない。

だが、動きのたびに肩周りの可動が鈍る。

宝泉のような相手と至近距離でやり合うには、明らかに不利だった。

 

堀北がその手元を見た。

 

「やっぱり見せて」

「時間がない」

「あるわ。今ここで崩れられるほうが困る」

 

その言い方は堀北らしかった。

 

心配をそのまま言わない。

必要性として言う。

 

綾小路は一瞬だけ迷い、それから上着の傷んだ部分をずらした。

 

堀北が息を小さく呑む。

 

傷は深くはないが、制服は裂け、肩口に沿って赤い筋が走っていた。

 

「浅いって言ったわね」

「浅い」

「その割には派手よ」

「見た目ほどじゃない」

 

堀北は保健準備室で綾小路が確保していた応急用品を見つけ、

無言で湿布材と包帯を取り出した。

 

「じっとして」

 

綾小路は何も言わず背を向けた。

堀北の手つきは乱れていなかった。

 

生徒会長として最低限の応急処置を身につけていたのかもしれないし、

単に今この場で乱れることを自分に許していないだけかもしれない。

 

どちらにせよ助かった。

 

「あなた、いつもこういうのも想定して動いてるの」

 

小さく堀北が言う。

 

「全部じゃない」

「でも、かなりの部分は読んでる」

「読めない部分もある」

「たとえば?」

「お前が二階から躊躇なく飛んだこととか」

 

堀北の手が一瞬だけ止まった。

それから包帯を巻きながら、少しだけ鼻で笑う。

 

「あなたに置いていかれるくらいなら、飛ぶしかないでしょう」

「信頼されてるのか、信用されてないのか分からないな」

「両方よ」

 

それだけ言って、堀北は包帯を固定した。

強く締めすぎてはいないが、甘くもない。

 

痛みは残る。

 

だが動きは少しだけましになる。

 

「ありがとう」

 

綾小路が言うと、堀北は意外そうに一瞬だけ目を上げた。

 

「珍しいわね」

「礼を言わないほど余裕がないわけじゃない」

「そう」

 

その短い空気が、ほんの数秒だけ、

学校全体が戦場に変わったことを忘れさせかけた。

 

だが次の瞬間、扉の外を誰かの足音が通り過ぎた。

二人とも即座に沈黙する。

 

足音は一つ。

軽く、速い。

 

天沢ではない。

七瀬か。

 

彼女は扉の前で一度だけ止まり、

それから通り過ぎるのではなく、低い声で廊下の先へ呼びかけた。

 

「この辺りに入ったはずです。撃たないで、まず位置を確かめてください」

 

返ってきたのは龍園の声だった。

 

「そんな悠長なことしてる間に逃がすだろうが」

「だからこそです。棟内で銃撃を続ければ、こちら側の進路まで潰れます」

「それで捕まえ損ねたら意味ねえだろ」

「今のあなたたちは捕まえるより奪うことを優先しているように見えます」

 

七瀬のその一言で、廊下の空気が止まったのが室内にいても分かった。

 

図星だったのだろう。

 

龍園にとっても、坂柳にとっても、宝泉にとっても、

今や最優先は綾小路の排除そのものより、自分が取ることへ移りつつある。

それは追跡線にとっては致命的な歪みだった。

 

「言うじゃねえか、一年坊」

 

龍園が低く笑う。

 

「だがよ、テメェも同じじゃねえのか」

「違います」

 

七瀬は即答した。

 

「わたしは任務を優先しています」

 

その返答は、今この場にいる誰よりも、彼女自身を縛るための言葉のように聞こえた。

 

龍園が何か言い返そうとした、その時だった。

別方向から重い音。

誰かが実験台を蹴り飛ばしたような乱暴な衝撃音が一つ、さらに別の廊下から響く。

 

宝泉だ。

 

「いたならさっさと出てこいよ!」

 

棟内全体に響く怒号。

その声だけで、位置が読める。

七瀬が舌打ちに近い息を漏らした。

 

「最悪……」

 

その反応を聞いた瞬間、綾小路は決めた。

この棟内で全員を相手に逃げ切るのは難しい。

だが、宝泉だけを一時的に前へ出しすぎれば、

龍園・坂柳・七瀬・天沢の足並みはさらに崩れる。

 

しかも宝泉は、正面からぶつかれば最も危険だが、

最も誘導しやすい相手でもある。

 

綾小路は理科準備室の奥に積まれた備品箱へ視線を向けた。

 

ガラスビーカーの空箱、金属スタンド、長机、バルーン、

そして文化祭用に移動されてきた大型発泡ボード。

 

遮蔽物としては心許ないが、視線を切るには使える。

 

「出る」

 

綾小路が低く言う。

堀北が即座にこちらを見る。

 

「ここから?」

「宝泉を先に引っ張る。お前は俺の後ろを外れるな」

「一人で行くつもりじゃないのね」

「今それをやるほうが危険だ」

 

堀北はわずかに頷いた。

その判断の速さはありがたい。

 

綾小路は扉の小窓から外を確認し、

宝泉がまだやや離れた位置で別の準備室扉を乱暴に開けているのを見た。

 

龍園側は逆方向。

七瀬はその中間。

坂柳と橋本はさらに後ろから全体を見ている。

 

天沢は――見えない。

 

そこだけが不気味だった。

 

綾小路は理科準備室の反対側、小さな通用扉を開けた。

そこは実験廃材の一時搬出用通路になっており、廊下本線より一段低く、暗い。

人が通れなくはないが、走るには狭い。

 

だからこそいい。

 

綾小路は先に入り、堀北も続かせた。

扉を閉める直前、天沢の声が上から降ってきた。

 

「そこ、面白いルートですね」

 

見つかっていた。

綾小路は舌打ちせず、即座に扉を閉めて前へ出た。

 

次の瞬間、扉越しに一発。

弾は貫通こそしなかったが、金属に鈍い衝撃が走る。

 

「ほんと、すぐ逃げる」

 

天沢の笑い声が背後に残る。

 

「でもそういうの嫌いじゃないです」

 

通路の先は、視聴覚準備室裏へ出る。

そこから本廊下へ戻れば、宝泉と正面衝突する可能性が高い。

 

だがそれでいい。

狙い通りなら、そこで他勢力とのズレが最大化する。

通路を抜ける直前、綾小路は堀北へ短く告げた。

 

「出たら右の陰へ入れ。オレが前に出る」

「またあなたが囮になるの」

「囮じゃない。壁だ」

「言い換えても危険なことに変わりないわ」

「知ってる」

 

その一言で会話は終わった。

 

綾小路が扉を押し開ける。

直後、視聴覚準備室前の広めのスペースへ出た。

そしてほぼ同時に、向こう側の角から宝泉が現れた。

 

予想通りだった。

 

宝泉の目が綾小路を捉えた瞬間、

その表情から明確に獲物を見つけたという凶暴な喜色が浮かぶ。

 

「やっと正面かぁ!」

 

距離は十メートルもない。

銃を使うには近すぎる。

 

しかも通路の狭さと堀北の存在を考えれば、

撃ち合いに持ち込むのは悪手だ。

 

綾小路は半歩前へ出た。

宝泉も同時に踏み込む。

 

床が鳴る。

空気が詰まる。

 

次の瞬間、宝泉の拳が一直線に来た。

 

速い。

重い。

 

綾小路は正面で受けず、外へ流す。

だが流してなお腕に重い衝撃が残る。

 

宝泉は一撃で終わらない。

反対の腕、膝、体重移動、押し込み。

 

すべてが前へ前へと圧をかけてくる。

まるで相手を壊すまで減速を知らない鈍重な機械のようだった。

綾小路は後退しながら受け、逸らし、壁際へ寄せられないよう角度を変える。

 

背後には堀北がいる。

 

ここで押し込まれるわけにはいかない。

宝泉の足が近い。

踏み込みの重さが一定ではない。

力任せに見えて、実際には相手が引いた瞬間を潰す感覚を持っている。

 

厄介だ。

 

「どうしたよ、綾小路パイセンよう!」

 

宝泉が笑う。

 

「逃げねえのか!」

「逃げる必要がないからだ」

 

綾小路が返した瞬間、宝泉の表情がわずかに変わった。

挑発だと理解したのだろう。

だが理解しても止まれないのが宝泉だ。

怒りと興奮がさらに踏み込みを強くする。

 

そこが綾小路には読みやすかった。

 

二撃、三撃、四撃。

 

綾小路は受け流しながら、徐々に宝泉を廊下の中央からずらしていく。

 

目的は倒すことではない。

位置を動かすこと。

 

宝泉がさらに踏み込む。

綾小路はその圧を正面から受けない。

 

半歩下がる。

 

だが逃げるためではない。

背後、視聴覚準備室の扉横に立てかけられていた黒い暗幕ロールへ、

綾小路の指が伸びた。

 

文化祭の演出用に運び込まれていたものだ。

 

厚手の布。

重い芯材。

 

そして、廊下に置かれたままになっている長い黒の幕。

 

宝泉の拳が飛ぶ。

 

綾小路はその拳を紙一重でかわしながら、暗幕の端を掴んで一気に引いた。

黒い布が鞭のように広がり、宝泉の腕と肩へ絡みつく。

 

「ッ――!」

 

宝泉の視界が一瞬塞がる。

拳の軌道が乱れる。

 

綾小路はその隙に横へ回り込む。

 

だが宝泉は止まらない。

 

「布切れで止まるかよ!」

 

怒号と同時に、宝泉は暗幕ごと腕を振り抜いた。

 

厚手の布が裂ける。

 

固定されていたロール芯が勢いよく倒れ、床へ激突して重い音を響かせた。

 

それでも十分だった。

ほんの一瞬、宝泉の視界と拳の軌道が崩れた。

 

綾小路はそこへ踏み込む。

 

宝泉の脇腹へ短く一撃。

続けて膝の外側へ蹴りを入れる。

宝泉の巨体が半歩だけ沈む。

 

完全には倒れない。

 

だが、完全に前へも出られない。

その背後で龍園が舌打ちする。

 

「小細工すんな……!」

 

綾小路は裂けた暗幕の黒い切れ端を床へ落としながら、低く答えた。

 

「使えるものを使っているだけだ」

 

龍園の声が宝泉へ飛んだ。

 

「おい!一人で抱え込むな!」

 

宝泉が舌打ちした。

 

「うるせえ、これは俺の獲物だ!」

「テメェのじゃねえよ!」

 

宝泉の拳が壁を抉る。

コンクリート片が飛び散る。

 

綾小路の視線が廊下の端へ向いた。

 

文化祭の発表で使用する予定だった大型プロジェクター。

金属製の移動台車へ固定されたまま、視聴覚準備室前へ置かれている。

 

綾小路はそこへ駆け寄った。

 

宝泉が追う。

 

「逃げんなぁ!」

 

怒号。

 

綾小路は台車のロックを足先で外した。

 

カチッ。

小さな音。

 

次の瞬間、両手で台車を思い切り押し出す。

重量のある機材がキャスターを鳴らしながら一直線に加速した。

 

狭い廊下へ金属音が響く。

 

宝泉が眉をひそめる。

 

「チッ!」

 

だが避けない。

真正面から蹴り飛ばそうとした。

 

 

刹那、綾小路は台車の側面を蹴る。

 

進路が変わる。

 

大型プロジェクターを載せた台車が横滑りしながら龍園側の射線へ突っ込んだ。

 

「な――!」

 

龍園側の生徒が慌てて飛び退く。

マシンガンを構えていた男子生徒も巻き込まれ、射線が完全に乱れる。

 

台車はそのまま壁へ激突した。

 

破裂音。

 

プロジェクターが吹き飛ぶ。

レンズが砕ける。

内部回路が露出し、激しい火花が散った。

 

青白い閃光が廊下を照らす。

さらに衝撃で電源ケーブルが引き千切られ、

近くに設置されていたスクリーンが落下する。

 

巨大な白布が龍園側の生徒たちへ覆い被さった。

 

「どけっ!」

「見えねぇ!」

 

怒号。

混乱。

射線が消える。

 

その隙を逃さず綾小路が動く。

 

宝泉の懐へ飛び込む。

宝泉が拳を振り下ろす。

 

綾小路はそれを紙一重でかわしながら低く言った。

 

「文化祭の備品は大切に使え」

「誰のせいだ!」

 

宝泉の怒声が廊下へ響き渡った。

 

横から短い連射が走る。

龍園側の生徒がまた撃ったのだ。

 

だが宝泉が前へ出すぎているせいで、射線が通りきらない。

弾は壁と床に散り、誰にも当たらない。

さらに、その流れ弾のいくつかが文化祭装飾として

天井付近へ大量に吊るされていた色付きバルーンへ突き刺さった。

 

パンッ!

 

乾いた破裂音。

 

続けざまに、

 

パン!パンパンッ!

 

赤、青、黄色のバルーンが次々と弾け飛び、破片が火花と一緒に廊下へ舞い散る。

 

破裂した風圧で細い装飾テープが千切れ、

紙吹雪用に吊るされていた銀色のフィルムがひらひらと落下する。

 

まるで文化祭そのものが銃撃に耐えきれず崩れていくような光景だった。

 

七瀬が即座に怒鳴る。

 

「撃つなって言ってるでしょう!」

 

宝泉がさらに踏み込む。

 

床が鳴る。

視聴覚準備室前の空気そのものが押し潰されるような圧。

 

綾小路は真正面から受けない。

半歩だけ横へ流れる。

 

しかし、やはり宝泉は止まらない。

 

「逃げてばっかじゃ勝てねえぞ!」

 

怒号と共に拳が飛ぶ。

綾小路はそれをかわしながら後退する。

 

そして、またその視線が廊下脇へ向いた。

 

理科準備室。

 

搬入口近くの洗い場から延びていた長い水道ホース。

文化祭準備で使われていたのか、蛇口へ繋がったまま床へ放置されている。

綾小路は宝泉の拳を流した勢いのまま、そのホースを掴んだ。

 

宝泉が眉をひそめる。

 

「今度は何だ!?」

 

返答はない。

 

綾小路は蛇口を全開に捻った。

 

勢いよく水が噴き出す。

ホースが暴れた。

冷たい水流が廊下へ広がる。

 

床を濡らす。

 

文化祭装飾の紙片。

破裂したバルーンの残骸。

散乱したフィルムテープ。

 

それらが一気に水へ流されていく。

 

「小細工ばっかしやがって!」

 

宝泉が突進する。

その足が濡れた床へ乗る。

 

ズッ――。

 

わずかだった。

ほんの数センチ。

 

だが怪力を乗せた踏み込みほど、その数センチが致命的になる。

 

宝泉の重心が僅かに流れる。

綾小路はそこを逃さない。

 

肩へ掌を当てる。

押すのではない。

 

流す。

 

宝泉の巨体が横へずれた。

 

 

直後、龍園側の生徒が再び発砲する。

 

連射。

 

乾いた銃声が廊下へ響く。

だが濡れた床へ散った弾丸の火花が水飛沫を巻き上げる。

 

白い霧。

反射光。

視界が乱れる。

 

さらに銃弾が理科準備室前の金属スタンドへ命中した。

 

甲高い音。

火花。

飛び散った水滴が青白く輝く。

 

まるで小さな雷雨だった。

 

「だから撃つなって言ってるでしょう!」

 

また七瀬が怒鳴る。

 

「うるせぇ!」

 

龍園も怒鳴り返す。

 

混乱。

怒号。

射線の崩壊。

 

その中心で宝泉だけが立っていた。

制服は濡れ、床は滑り、周囲は火花と水煙で霞んでいる。

 

それでも宝泉は笑う。

 

「面白ぇじゃねえか」

 

彼は理科準備室の洗い場そのものへ拳を叩き込んだ。

 

陶器が砕ける。

蛇口が吹き飛ぶ。

金属管が歪む。

 

そして――。

 

破裂した配管から大量の水が噴き出した。

 

「なっ……!」

 

七瀬が目を見開く。

 

廊下一面へ水が流れ出す。

床は完全に水浸しになり、散乱した文化祭装飾が濁流に押し流されていく。

 

宝泉はその中心に立っていた。

 

制服は濡れている。

髪から水滴が落ちる。

だが気にしない。

 

「小細工するならよ」

 

宝泉が拳を握る。

 

「全部ぶっ壊しゃいいんだろ?」

 

その時だった。

濁流に押し流されていた大型発泡ボードが倒れる。

 

文化祭用の巨大看板。

水を吸って重量を増したそれが、堀北のいた壁際へ倒れ込んだ。

 

「堀北!」

 

綾小路が叫ぶ。

堀北が振り向く。

 

だが間に合わない。

 

倒れる。

巨大な板。

 

その時、宝泉が片腕で看板を掴んだ。

看板が途中で止まる。

 

堀北が目を見開く。

 

宝泉は綾小路を睨んだまま笑った。

 

「勘違いすんなよ」

 

看板を放り捨てる。

壁へ激突。

破片が飛び散る。

 

「お前を潰す前に女が死んだらつまんねぇだけだ」

 

水浸しの床。

散らばるバルーンの破片。

倒れたスクリーン。

砕けたプロジェクター。

 

それらすべてを踏み潰しながら、宝泉は真正面から綾小路へ突っ込んできた。

 

「潰れろ、綾小路!」

 

拳が来る。

綾小路は受けない。

濡れた床を利用して、ほんの半歩だけ横へ滑る。

 

宝泉の拳は空を切り、そのまま背後にあった大型スピーカーラックへ直撃した。

 

金属製のラックが大きく歪む。

積まれていた大型スピーカーが一斉に揺れ、固定ベルトが千切れた。

 

「っ……!」

 

堀北が息を呑む。

ほぼ同時に、ラック全体が傾いた。

ギギギ、と金属の軋む音が廊下に響く。

そして耐えきれなくなった棚板が外れ、スピーカーが次々と床へ落下した。

 

重い衝撃音。

 

一台目。

二台目。

三台目。

 

落下したスピーカーが床の水を跳ね上げ、黒い筐体が割れ、内部の配線が露出する。

 

その配線へ、さきほどの銃撃で散った火花が触れた。

 

青白い閃光。

 

スピーカーの一つが耳障りなノイズを吐き出した。

割れた音響機材から、文化祭リハーサル用に残っていた

音源が途切れ途切れに漏れ、歪んだ音楽が銃声と怒号の中へ混ざる。

 

楽しげなはずのメロディが、

壊れた機械を通すことで不気味な断末魔のように廊下へ響いた。

 

さらにラックが完全に倒れる。

 

鉄骨が床へ叩きつけられ、視聴覚準備室前の通路を半分塞いだ。

 

龍園側の射線がまた潰れる。

坂柳側の生徒も進路を失う。

 

七瀬が叫ぶ。

 

「下がってください!感電します!」

 

だが宝泉は気にしない。

濡れた床と火花と壊れたスピーカーの中で、なお綾小路だけを見ていた。

 

綾小路は倒れたラックを一瞥し、低く言った。

 

「文化祭実行委員に謝れ」

 

宝泉の額に青筋が浮かぶ。

 

「テメェが避けたからだろうが!」

 

その怒声と共に、宝泉は壊れたスピーカーを片手で掴み、

邪魔な瓦礫みたいに横へ投げ捨てた。

 

黒い筐体が壁へ激突し、砕けた部品と水飛沫が廊下へ散った。

 

宝泉は止まらない。

むしろ、壊れた音響機材と水煙と火花の中で、さらに凶暴さを増していた。

 

坂柳の冷たい声が重なる。

 

「だから申し上げたはずです。近接中に連射を混ぜるのは愚策だと」

 

龍園がさらに苛立つ。

 

「チッ……!」

 

綾小路はその一瞬の混乱を逃さず、

宝泉の腕を内側へ流し、肩をぶつけて体勢をずらした。

 

完全には崩せない。

だが一歩分だけ押し返せる。

 

その一歩が大きい。

宝泉がよろめく。

その隙に綾小路は堀北へ短く叫ぶ。

 

「右へ!」

 

堀北が即座に動く。

視聴覚準備室の陰へ入る。

宝泉がそれに気づき、咄嗟に視線をそちらへ向ける。

 

綾小路はその瞬間を待っていた。

 

腹部ではなく胸の中心でもなく、

体幹の軸がわずかにぶれた位置へ、最短の一撃を入れる。

 

宝泉の体が半歩だけ下がる。

その衝撃が流れを変えた。

 

「この……!」

 

宝泉が吠える。

だが次の瞬間、今度は天沢が横から現れた。

 

「わ、すご。ほんとに止めてる」

 

楽しげな声。

しかし立ち位置は悪質だった。

彼女がそこに立つだけで、宝泉も龍園も坂柳側も、誰もが不用意に撃てなくなる。

 

「邪魔だ天沢!」

 

龍園が叫ぶ。

 

「えー、でも今一番面白いとこですよ?」

「遊んでんじゃねえ!」

「遊んでないよ~。観察、観察」

 

その言い方に、坂柳がほんの少しだけ笑った気配があった。

 

「あなたの観察癖は時々有用ですね、天沢さん」

「でしょ?」

 

この二人まで会話を交わすのかと、龍園の苛立ちはほとんど爆発寸前だった。

 

綾小路は理解する。

 

今この場は、誰もが綾小路を取りたいと思っているにもかかわらず、

互いが互いの射線と手を邪魔しているせいで、

逆に誰も決定打を打てない状態へ入っている。

 

そして、その中心にいるのが宝泉だ。

ならば、このままさらに前へ出させればいい。

 

綾小路は半歩下がるふりをした。

宝泉が当然のように詰めてくる。

 

その背中側に龍園の射線。

 

横には天沢。

後ろには坂柳側。

七瀬は制止しようとする。

 

完璧な歪みだった。

 

「来いよ、宝泉」

 

綾小路が低く言う。

その一言で、宝泉の目の色が変わった。

 

「言われなくても行くんだよ!」

 

完全に乗った。

次の瞬間、宝泉が真正面から突っ込む。

 

綾小路も逃げない。

二人の距離が一気に潰れる。

 

拳と肘と肩がぶつかる音が狭い廊下に重く響き、

視聴覚準備室前の空気そのものが衝撃で震えるようだった。

 

綾小路は受けながら、押し返しながら、明確に理解していた。

 

ここから先は、単なる逃走ではない。

この特別棟の内部で、一度、本気でこの怪力を止める必要がある。

 

そうしなければ、堀北を連れたまま先へ進む道は開かない。

そしてそのことは、宝泉和臣の側もまた、本能的に察していた。

 

彼はもう笑っていない。

 

獲物を追う喜びではなく、ようやく真正面から壊しにいける相手を前にした、

純粋な闘争の圧だけが、その全身から溢れていた。




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