ザ・ダイハード・マスターピース 作:EXTERMINATION
夜のリゾートホテルは、本来なら島で最も美しい場所だった。
海へ張り出すように造られた白亜の高層ホテル。
吹き抜けのロビー。
天井から吊るされた巨大シャンデリア。
海面と一体化して見えるインフィニティプール。
ガラス張りのラウンジ。
海風を受けるテラス。
昼間なら、そこには観光客の笑い声があった。
軽井沢恵がはしゃぎ、一之瀬帆波が笑い、
椎名ひよりが静かに景色を眺めていた。
朝霧海斗は文庫本を片手に本屋へ行こうとし、二階堂麗華に呆れられていた。
森下藍はツキを探して走り回り、ツキは当たり前の顔で目の前にいた。
それが今は違う。
ホテルの外壁には銃痕が刻まれ、白い床にはガラス片が散らばり、
赤い非常灯が楽園を戦場の色に染めていた。
港の方角から上がる黒煙は、夜空へ伸び続けている。
海上では敵の探照灯が波を白く切り裂き、
上空では黒いヘリが低く旋回していた。
島全体が巨大な檻になった。
その中心で、まだ人の温かさを失っていない場所が一つだけあった。
地下シェルターだった。
厚い防爆扉の内側で、避難民たちは身を寄せ合っていた。
小さな子供。
高齢者。
ホテル従業員。
観光客。
二階堂グループの関係者。
誰もが疲れ切っている。
けれど、完全に絶望している者はいなかった。
一之瀬帆波がいたからだ。
「大丈夫です。順番にお水を配りますね」
一之瀬はペットボトルを一人ずつに渡していた。
声は穏やかだった。
銃声が聞こえるたびに肩を震わせる人にも、
泣き出しそうな子供にも、同じ目線で優しく声をかけていく。
「怖いですよね。でも、ここにはみんながいます。一人じゃありません」
その言葉に、避難民の表情が少しずつ緩んでいく。
椎名ひよりは別の一角で、怪我をした従業員の腕に包帯を巻いていた。
「少しきついかもしれません」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「無理はしないでください。痛みが強くなったら、すぐに言ってください」
ひよりの声は静かだった。
だが、その静けさが逆に安心感を与えていた。
軽井沢恵は子供たちの前でしゃがみ込み、両手で変な顔を作っていた。
「ほら、見て見て。これが南国限定の変顔!」
子供の一人が小さく笑う。
「変なの」
「変って言った!?今、恵お姉さんに変って言った!?」
別の子供も笑った。
「もう一回!」
「しょうがないなぁ。特別だよ!」
軽井沢は大げさに頬を膨らませる。
子供たちが笑う。
その笑い声が、地下シェルターの空気を少しだけ明るくした。
一方。
森下藍は避難者リストと格闘していた。
「一、二、三、四、五……」
ツキが横から覗き込む。
「藍」
「なんですか」
「今の方、三回目」
「人気者ですね」
「同じ人です」
「ふむふむ」
森下は納得したように頷いた。
「では三人分働いている可能性があります」
「ない」
「そうなんですか」
「そうだ」
森下はリストを見直す。
「本当でした!」
ツキは無表情で頷く。
「藍は数に弱い」
「弱くありません」
森下は真顔だった。
「数字が私を苦手としているだけです」
「数字に意思はない」
「まだ確認されていません」
「確かに」
森下は続ける。
「緊急時だから混乱しているだけです」
ツキが頷く。
「通常時も迷う」
「今その話をする必要ありますか?」
「あります」
「なぜですか」
「面白いからです」
「理由になってません」
近くにいた軽井沢が吹き出す。
「あはは!森下さんたち本当にブレないね」
森下が真剣な顔で振り向く。
「軽井沢恵、笑い事ではありません」
「うんうん」
「避難者管理は非常に重要です」
「それはそう」
森下は胸を張る。
「だからこそ私は責任重大なのです」
ツキが静かに言う。
「その責任者を私が管理してる」
森下は少し考えた。
「おっしゃる通りです」
「納得するな」
軽井沢がツッコむ。
森下は真顔で頷く。
「確かに最近はよく管理されています」
ツキも頷く。
「迷子予防」
「私は迷子ではありません」
「昨日は三回」
「二回」
「成長した」
「ありがとうございます」
「褒めてないから!」
軽井沢はお腹を抱えて笑った。
海斗が壁にもたれながらその様子を見ていた。
胸ポケットには、ひよりから渡された文庫本が入っている。
まだ読めていない。
読み始める余裕などない。
それでも、そこに本があるだけで少しだけ落ち着いた。
「お前ら、こんな時でも通常運転だな」
森下がすぐに反応する。
「朝霧海斗もです」
「オレは静かだろ」
ツキが首を振る。
「存在が騒がしいです」
「なんだそれ」
軽井沢が笑う。
「分かる。海斗って黙っててもなんか事件起こしそう」
「理不尽すぎるだろ」
「でも本当にそう見えるんだもん」
「褒めてねぇよな」
「褒めてない」
「即答すんな」
その会話を聞いて、避難民の何人かも小さく笑った。
緊張は消えない。
外には敵がいる。
島は封鎖されている。
だが、笑える。
それだけで、人はまだ折れていない。
綾小路清隆はその様子を少し離れた場所から見ていた。
隣には堀北鈴音が立っている。
「彼女たちは強いわね」
堀北が呟く。
「武器を持っていなくてもできることがある」
綾小路は頷く。
「ああ」
「あなたは昔なら、ああいう強さを見落としていたかもしれないわ」
「そうかもな」
「今は?」
綾小路は一之瀬、ひより、軽井沢、森下、ツキを見る。
「必要な強さだと思う」
堀北は少しだけ表情を緩めた。
「本当に変わったわね」
「よく言われる」
「でしょうね」
その奥では、坂柳有栖が端末を操作していた。
麗華が隣に立ち、施設管理権限を使って
ホテル内部の扉や防火シャッターを切り替えている。
二階堂彩は尊徳と共に、シェルター周辺の案内図を確認していた。
「尊徳さん、こちらの通路を閉鎖すれば、敵は東側からしか入れません」
「だが東側が破られた場合、逃げ道が狭くなります」
「なら、このサービス通路を残しておきます。
従業員用なので地図には一般表示されていません」
尊徳が彩を見る。
「よく覚えてますね」
彩は少しだけ胸を張った。
「お姉様の役に立つために勉強しました」
「十分役に立ってますよ」
彩は一瞬だけ驚き、それから嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます」
麗華はその会話を聞いて、少しだけ微笑んだ。
だが、その微笑みはすぐに消えた。
坂柳の端末が赤く点滅したからだ。
「……来ました」
その一言で、シェルターの空気が変わった。
綾小路が近づく。
「敵か」
「ええ」
坂柳は島内マップを表示する。
ホテルの周囲に、赤い点が一斉に増えていく。
正面玄関。
東棟。
西棟。
搬入口。
非常階段。
屋上。
そして、従業員専用通路。
四方向どころではない。
ホテル全体を同時に押し潰す配置だった。
堀北が険しい顔をする。
「総攻撃ね」
坂柳が頷く。
「はい。ただし、目的はホテルそのものの破壊ではありません」
麗華が画面を見つめる。
「地下シェルターを見つけたの?」
「完全には把握していないでしょう。
しかし、避難民が地下に集まっていることは読まれています」
綾小路は敵の進行ルートを見た。
すぐに意図を理解する。
「追い込み漁か」
海斗が隣へ来る。
「地下を圧迫して、避難民を上へ逃がす。
最終的に屋上へ追い込んでヘリで制圧ってところか」
坂柳は微笑む。
「お二人とも理解が早くて助かります」
「助かる状況じゃねぇけどな」
その瞬間。
館内放送がノイズ混じりに起動した。
『あー、あー、聞こえてるか?』
コマンダーの声だった。
明るい。
陽気。
そして、腹立たしいほど楽しげだった。
『こんばんは、エデン・アイランドにお集まりの皆さん!
今夜は最高の夜だな!右を見れば港の爆炎!
左を見ればマリーナの黒煙!そして正面には――俺たちだ!』
海斗が眉をひそめる。
「毎回うるせぇな」
『さぁ、今夜の特別イベントを発表するぞ!題して、リゾートホテル占拠戦だ!』
軽井沢が青ざめながらも怒る。
「ふざけんなっての……」
『避難民の皆さん、押し合わず、慌てず、係員の誘導に従って逃げてくれ。
もっとも、その誘導先が安全とは限らないがな!』
東棟が爆発した。
地下にまで衝撃が響いた。
天井から粉塵が落ち、照明が激しく揺れる。
避難民から悲鳴が上がる。
一之瀬がすぐに声を張った。
「みなさん、落ち着いてください!扉から離れて、壁際へ!」
ひよりが子供たちを抱き寄せる。
「大丈夫です。耳を塞いでください」
軽井沢も叫ぶ。
「押さないで!こっち!小さい子を先に!」
森下はリストを抱えて立ち上がる。
「全員確認します。ツキ、手伝ってください!」
ツキが頷く。
「了解」
森下も頷く。
「心強いです」
ツキは静かに言った。
「藍の監視を開始する」
「避難者確認です」
「兼任」
「兼任しなくていいです」
ツキはメモ帳を取り出す。
「迷子回数も記録する」
「記録しないでください」
「既に三ページある」
「そんなにありません」
軽井沢が吹き出す。
「三ページもあるの!?」
森下は真顔で首を振る。
「二ページ半です」
「そこ否定するんだ!?」
ツキが頷く。
「成長しています」
「だから何を基準にですか」
森下は少し考えた。
「では私もツキを監視します」
「どうぞ」
「ジュース買いに行く時は申告してください」
「心の中で申告する」
「却下です」
「厳しい」
「組織ですから」
「避難所だから」
海斗が肩を震わせる。
「もうお前ら漫才コンビだろ」
森下は首を傾げる。
「違います」
ツキも頷く。
「業務です」
「どんな業務だよ」
森下はリストを掲げた。
「避難者確認業務です」
ツキも同じように手を挙げる。
「森下藍確認業務」
「だから私は避難者じゃありません」
空気が少しだけ和らぐ。
綾小路はすぐに指示を出す。
「避難民は地下最深部へ移動。ここが破られた場合に備え、第二シェルターへ移る」
堀北が頷く。
「一之瀬さん、軽井沢さん、ひよりさん、森下さん、ツキさんは誘導。
列を二つに分けて、混雑を避けましょう」
一之瀬が即答する。
「分かった」
軽井沢も頷く。
「任せて」
ひよりは子供を抱きながら言う。
「こちらは私が見ます」
森下が大きく頷く。
「迷子は出しません」
ツキが静かに言う。
「藍を含めて」
「おぎゃあおぎゃあ!」
「藍ちゃんはツキママが見てるからね~」
堀北は坂柳を見る。
「中央管制室は?」
坂柳は端末を操作しながら答える。
「ホテル二階の防災管制室に移れば、扉の制御と監視カメラの一部を直接扱えます」
麗華が言う。
「私の認証があれば、研究施設側のセキュリティとも繋げられるわ」
綾小路が頷く。
「堀北、坂柳、麗華は管制室へ。
尊徳と彩はシェルター入口を守りつつ、避難経路を確保」
尊徳が短く答える。
「了解」
彩も強く頷く。
「はい」
海斗は既にショットガンを手にしていた。
「で、オレたちは?」
綾小路はガバメントを確認する。
「敵を止める」
「分かりやすいな」
「嫌か」
「まさか」
海斗は二丁のベレッタを腰に戻し、アサルトライフルを肩にかけた。
「麗華」
麗華が振り向く。
「なに?」
「管制室に着くまで尊徳から離れるな」
「あなたは?」
「ロビーで騒がしい客を追い返す」
「無茶しないで」
海斗は笑った。
「無茶な客が来てるんだよ」
麗華は言い返そうとしたが、やめた。
代わりに、静かに言う。
「帰ってきて」
「九割七分でな」
「十割」
「……十割で」
麗華は頷いた。
綾小路も堀北を見る。
堀北は何も言わず、ただ彼の目を見た。
「帰ってきなさい」
「ああ」
「努力する、ではなく」
綾小路は少しだけ間を置く。
「帰ってくる」
堀北は満足そうに頷いた。
「それでいいわ」
次の爆発が起きた。
西棟。
ホテル全体が揺れる。
綾小路と海斗は同時に走り出した。
地下から一階ロビーへ向かう階段を駆け上がる。
上へ近づくほど、銃声が大きくなる。
硝煙の匂い。
焦げたカーペットの匂い。
スプリンクラーの水音。
そして、敵の怒号。
綾小路は階段の途中で足を止め、上の踊り場を確認した。
影が三つ。
敵兵。
海斗は何も言われずに反対側へ回る。
綾小路が一発、非常灯を撃った。
赤いランプが砕け、踊り場が暗くなる。
敵兵が一瞬、視界を失う。
その隙に海斗が飛び出した。
ショットガンの轟音。
一人目の盾が吹き飛ぶ。
綾小路が二人目のライフルを撃ち落とし、三人目の膝元を撃つ。
敵が倒れる。
海斗が接近し、銃床で二人を気絶させる。
綾小路は残る一人を壁に押さえつけ、手首を拘束した。
「何人入っている」
敵兵は答えない。
海斗が横から言う。
「答えなくてもいい。だいたい分かってる」
敵兵が唾を吐こうとした瞬間、海斗は軽く頭を壁に押しつける。
「態度が悪いな。リゾートホテルだぞ」
綾小路は奪った無線を確認する。
通信が混線している。
『正面部隊、ロビー進入』
『搬入口、抵抗あり』
『東棟爆破完了』
『屋上降下準備』
『地下入口を探せ』
綾小路は無線を切った。
「屋上降下部隊がいる」
「ヘリか」
「ああ」
「先にロビーだな」
二人は一階へ出た。
ロビーは既に原形を失いつつあった。
巨大なシャンデリアは半分傾き、大理石の床にはガラス片が散乱している。
中央の噴水は銃弾で削られ、水が床に広がっていた。
高級ソファは遮蔽物として横倒しにされ、観葉植物は粉々になっている。
正面玄関の向こうから、敵兵が雪崩れ込んでいた。
数は十五以上。
さらに外には武装車両の影。
敵の一人が二人に気づく。
「いたぞ!」
一斉射撃。
弾丸が柱を削る。
ガラスの破片が雨のように降り注ぐ。
綾小路は右の柱へ滑り込み、海斗は左のカウンター裏へ飛び込む。
海斗が叫ぶ。
「多いな!」
「数えるな」
「前にも聞いたぞ!」
「なら覚えろ」
「覚えた上で言ってる!」
海斗はショットガンを構え、敵の盾持ちへ撃つ。
轟音。
盾の表面が歪み、敵が後退する。
綾小路はその隙に短い連射で敵の武器を撃ち落としていく。
肩口。
腕。
足元。
ライフルのストック。
弾倉。
致命傷を避けながら、戦力だけを削る。
だが敵も慣れている。
すぐに散開し、左右から回り込もうとする。
海斗がベレッタ二丁を抜いた。
「左右来るぞ!」
「右は任せる」
「左も来てる!」
「なら両方やれ」
「護衛を便利に使うな!」
海斗は言いながらも動いていた。
二丁拳銃が別々の方向へ火を噴く。
右から回り込んだ敵の銃が弾かれる。
左から来た敵の足元に弾が撃ち込まれ、敵が転倒する。
海斗はカウンターを乗り越え、敵の腕を掴んで壁へ叩きつけた。
「チェックインは済ませたか?」
敵が呻く。
海斗は肩をすくめる。
「済ませてねぇなら帰れ」
綾小路は正面の敵へ閃光弾を投げた。
白い光がロビーを埋める。
敵の動きが止まる。
その瞬間、二階吹き抜けからロープが垂れた。
上空から降下部隊。
ホテル屋上から内部へ降りてきたのだ。
海斗が顔を上げる。
「ホテルでロープ降下かよ!」
綾小路が言う。
「撃て」
「言われなくても!」
海斗のベレッタが連続で火を噴く。
ロープが切れる。
敵兵が途中でバランスを崩し、吹き抜けの装飾幕に絡まりながら落下する。
別の敵が空中から撃ってくる。
綾小路は柱の陰から一発。
敵のライフルの銃身を撃ち、射線を逸らす。
その弾丸が天井の照明を砕き、火花が散った。
落ちた照明が床で破裂する。
ロビーの一部がさらに暗くなる。
海斗が笑う。
「いい雰囲気になってきたな」
「悪趣味だ」
「お前に言われたくねぇ」
その時、正面玄関の外でエンジン音が唸った。
二人が振り向く。
黒い装甲車が、ガラス張りの正面入口へ突っ込んできた。
「伏せろ!」
綾小路が叫ぶ。
巨大ガラスが砕け、装甲車がロビーへ突入する。
床の大理石を削りながら、中央噴水へ向かって突っ込んでくる。
敵兵たちが歓声を上げる。
装甲車上部の機関銃が旋回する。
海斗が舌打ちする。
「ホテルに車で来んなよ!」
綾小路は周囲を見た。
噴水。
水浸しの床。
壊れた照明。
倒れた金属製オブジェ。
そして装甲車の前輪。
「海斗、右へ寄せろ」
「またか!」
「今度は近い」
「嫌な予感しかしねぇ!」
海斗は走りながら、装甲車の側面へ弾を撃ち込む。
傷はつくが止まらない。
だが敵の注意は海斗へ向いた。
綾小路はその隙に手榴弾を取り出し、低い軌道で投げる。
狙いは車体ではない。
前輪の真下。
次の瞬間。
爆炎が床を吹き上げた。
装甲車の前輪が跳ね上がり、車体が大きく横滑りする。
制御を失った装甲車は中央噴水へ突っ込み、噴水の石柱を粉砕した。
噴き上がる水。
飛び散る石片。
その直後、内部の弾薬箱に引火した。
二度目の爆発がロビー全体を叩いた。
水柱と火柱が同時に噴き上がる。
白い蒸気、黒煙、赤い炎が混ざり合い、巨大なシャンデリアが激しく揺れた。
爆風で敵兵が床を転がり、ソファやテーブルが紙のように吹き飛ぶ。
海斗は柱の裏で腕をかばいながら叫んだ。
「派手にやったな!」
綾小路は冷静に答える。
「前輪を狙った」
「結果が爆発なら一緒だろ!」
「偶然だ」
「絶対嘘だな!」
爆煙の向こうから、まだ敵が来る。
第二波。
二十人近い。
ロビーの奥、搬入口側、二階回廊から同時に現れる。
敵は爆発に怯んでいない。
むしろ、この混乱を利用して距離を詰めてきた。
綾小路は床を見る。
爆発で噴水の水が広がり、床は滑りやすくなっている。
壁際には破損した厨房用ガスラインの警告表示。
ロビー奥のレストラン街へ続く配管だ。
海斗も気づいた。
「ガスか」
「少量だ。爆発規模を制御できる」
「普通は制御って言わねぇ」
「できる範囲でやる」
「やるんだな」
綾小路は配管のバルブを撃ち抜いた。
シューッという音。
ガスが低く流れ出す。
敵が気づく前に、綾小路は海斗へ視線を送った。
海斗はニヤリと笑い、ベレッタを構える。
「火種だな」
一発。
弾丸が床を掠め、火花を散らす。
その刹那。
ロビー奥が爆炎に包まれた。
爆発は横方向へ走り、敵の進行方向を炎の壁で塞いだ。
天井の装飾板が剥がれ落ち、ガラスの壁が連鎖的に砕け散る。
レストランのテーブルが吹き飛び、燃え上がったカーテンが夜風に煽られる。
爆風を受けた敵兵たちは次々と床に転がり、隊列は完全に崩れた。
海斗は熱風に顔をしかめながら笑った。
「本当、映画映えするな!」
綾小路は少しだけ口元を緩めた。
「ああ」
「認めたな」
「状況に必要だった」
「便利な言い方だな」
その頃、二階の防災管制室では、
堀北、坂柳、麗華が必死にホテル制御を続けていた。
防火シャッターを降ろす。
避難扉を開く。
監視カメラを切り替える。
敵の進行ルートを遮断する。
しかし、敵のハッキングも激しかった。
麗華の指が端末を走る。
「東棟の制御が奪われかけているわ」
坂柳がすぐに別の回線を開く。
「なら東棟は捨てます。西棟と中央棟を守りましょう」
堀北が問う。
「東棟の避難民は?」
「先ほどの誘導でほぼ移動済みです。
ただ、従業員が一名取り残されている可能性があります」
堀北は即座に無線を入れる。
「一之瀬さん、聞こえる?」
『聞こえます』
「東棟三階に従業員が一名残っている可能性があるわ」
一之瀬は一瞬沈黙し、それから言った。
『私が確認に行きます』
堀北の表情が険しくなる。
「危険よ」
『でも、残っているなら助けないと』
軽井沢の声も入る。
『私も行く!』
ひよりが続く。
『私も行きます。怪我をしている可能性があります』
森下も叫ぶ。
『わ、私も!』
ツキが静かに言う。
『藍が迷子になるので同行します』
『ならないって言ってるでしょう!』
堀北は一瞬迷った。
しかし、止めても彼女たちは動く。
ならば、指示を明確にするべきだ。
「分かったわ。ただし、単独行動は禁止。東棟三階を確認したら即撤退」
一之瀬が答える。
『了解』
堀北は端末を操作する。
「今、東棟への安全ルートを開ける。四分以内に戻って」
『分かった』
坂柳が横から言う。
「四分三十秒が限界です」
堀北は訂正しない。
「四分よ」
坂柳は小さく笑った。
「厳しいですね」
「甘くする場面じゃないわ」
東棟連絡通路。
一之瀬、軽井沢、ひより、森下、ツキが走っていた。
赤い非常灯。
煙。
スプリンクラーの水。
遠くから響く銃声と爆発音。
軽井沢が息を切らしながら言う。
「ちょっと、普通の旅行どこ行ったの!?」
森下が叫ぶ。
「私に訊かれても困ります」
ツキが静かに答える。
「旅行は終了しました」
「冷静に言わないで!」
ひよりが前を見ながら言う。
「三階の従業員室です」
一之瀬が頷く。
「急ごう」
彼女たちは武器を持っていない。
それでも、できることをするために走る。
三階に到着すると、煙が濃くなっていた。
従業員室の扉が歪んで開かない。
中から弱い声が聞こえる。
「誰か……」
一之瀬が扉を叩く。
「助けに来ました!」
軽井沢が焦る。
「開かない!」
森下が周囲を見る。
「何か使えるものは……」
ツキが消火器を持ってきた。
「これです」
「いつの間に」
「そこにありました」
ひよりも手を添える。
「みんなで押しましょう」
五人で力を合わせる。
消火器をてこにして、歪んだ扉を少しずつ開ける。
金属が嫌な音を立てる。
ようやく隙間ができた。
中には足を負傷した男性従業員が倒れていた。
一之瀬がすぐに肩を貸す。
「立てますか?」
「すみません……」
ひよりが足を見る。
「捻挫かもしれません。無理に体重をかけないでください」
軽井沢が廊下を見張る。
「早く戻ろう!」
その時、遠くの角から敵兵の影が見えた。
森下が息を呑む。
「来ました!」
ツキが消火器を構える。
軽井沢が驚く。
「え、戦うの!?」
ツキは無表情で言った。
「煙幕です」
消火器が噴射される。
白い粉が廊下を埋め、敵の視界が奪われた。
森下が叫ぶ。
「今です」
一之瀬たちは従業員を支えながら走る。
軽井沢が後ろを振り返りながら叫んだ。
「ツキ、意外とやるじゃん!」
ツキが答える。
「メイドですので」
森下がニヤリと言う。
「なるほど、戦闘メイドというやつですね」
「海斗は私が育てた」
五人はギリギリで防火シャッターを抜けた。
背後でシャッターが降りる。
敵の銃弾が金属板を叩く。
間に合った。
一之瀬は息を切らしながら笑った。
「助かった……」
軽井沢は床に座り込みそうになりながら言う。
「心臓に悪すぎ……」
森下はツキを見る。
「あなた、意外と頼りになりますね」
ツキは頷く。
「藍よりは」
森下は腕を組む。
「なるほど」
「理解したか」
「私がいるから優秀に見えるんですね」
「縁の下の力持ち」
「重要な役割ですね」
「重要」
全ての人員が奮戦している。
それでも、相手との戦力差は明白った。