ザ・ダイハード・マスターピース   作:EXTERMINATION

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第9話 破裂

視聴覚準備室前の狭い空間で

綾小路清隆と宝泉和臣が真正面からぶつかり合った瞬間だった。

特別棟の廊下はもはや誰かが静かに移動し、誰かが優位な位置を探し、

誰かが冷静に盤面を読むための場所ではなくなる。

互いの思惑が交差する一点へあらゆる圧力が集中し続けるという、

ひとつの衝突面そのものへと変わっていた。

 

宝泉の踏み込みは相変わらず重く、速く、

そして迷いがなく、綾小路を仕留めるというよりは、

目の前に立つ相手の呼吸ごと圧し潰して前へ進もうとするような暴力の塊である。

その一撃一撃は技巧よりも質量で迫ってくるにもかかわらず、

決して鈍重ではなく、綾小路が半歩でも受け損なえば、

そのまま体勢ごと持っていかれかねない危うさを孕んでいた。

 

綾小路は真正面から受け切ることはしない。

肩の傷へ負担が集中しないよう軸をわずかにずらしながら、

宝泉の力を横へ流し、距離を切る。

また詰め直すという最小限の動きだけで耐えていたが、

それでも廊下の壁へ何度か背中をかすめた。

足元の感覚が少しずつ削られていくのが分かった。

 

宝泉はその抵抗をむしろ歓迎しているようだった。

 

「そうだ、それでいいんだよ……!」

 

低く喉を鳴らすように言いながら、宝泉はさらに一歩深く踏み込み、

拳ではなく肩そのものをぶつけるように前へ出た。

 

綾小路はその圧を真正面で受けず、

体を半身にして宝泉の進行方向をわずかに逸らす。

 

それでも衝撃は重い。

 

床を踏み締める靴底がきしみ、視界の端で赤い非常灯が揺れた。

 

背後では龍園側の生徒がマシンガンを構え直している気配があるが、

宝泉と綾小路の距離が近すぎるせいで撃ち込めない。

 

撃てば巻き込む。

巻き込めば奪われる。

 

その迷いが、今この場にいる全員を苛立たせていた。

 

「おい、下がれ宝泉!」

 

龍園の怒声が飛ぶ。

 

「今そこ塞がれるのが一番邪魔なんだよ!」

「黙ってろ!」

 

宝泉は振り向きもせず怒鳴り返す。

 

「邪魔ならテメェが回れ!」

「回ってる間にテメェが取れなかったら意味ねえだろうが!」

 

この言い争いは、単なる怒鳴り合いではなかった。

そこにはすでに、誰が綾小路を仕留めるかではなく、

誰に綾小路を取らせないかという感情が剥き出しで混ざっていた。

 

坂柳有栖はその数歩後ろ、視聴覚準備室前の歪な交錯を静かに見つめていた。

彼女の声は小さいが、よく通る。

 

「本当に分かりやすいですね」

 

その一言に龍園が舌打ちし、橋本が肩をすくめる気配が伝わる。

 

「どういう意味だよ」

 

龍園が低く問う。

 

「宝泉くんは綾小路くんを倒したい。あなたは宝泉くんに取られたくない。

天沢さんは楽しみたい。七瀬さんは制御したい。

つまり今ここにいる誰も、同じ目的で動いていないという意味です」

 

坂柳の声音は穏やかだったが、

その内容はあまりにも正確で、あまりにも冷たかった。

 

だからこそ誰も即座には反論できない。

 

綾小路はそのやり取りを聞きながら、

宝泉の体重移動の癖を読み続けていた。

 

右足の踏み込みが深い時、次は上から押し潰すような圧になる。

左へ開いた時は距離を潰しながら横方向へ逃がさない意図が強い。

単純に見えて、実際には本能で最適化された追い込み方だ。

 

厄介なのは、こちらの負傷と堀北の存在が、その圧をさらに重くしていることだった。

 

視聴覚準備室の陰に身を置いた堀北は、

綾小路と宝泉の交錯の間合いを見ながら、

いつでも動けるように足を半歩引いたまま立っていた。

 

彼女は今、自分がこの場で最も守られるべき対象であると同時に、

最も戦場の形を制限している要因でもあることを理解していた。

 

だからこそ動かない。

 

だからこそ、声も出さない。

 

それは彼女なりの戦い方だった。

 

だがその静けさを、天沢一夏は見逃さない。

 

「堀北先輩、すごいですね」

 

壁際に寄りかかるように立ちながら、天沢はくすくすと笑った。

 

「普通ならもっと怖がるのに。あ、でも逆にそれが一番怖いのかな」

「黙っててください、天沢さん」

 

七瀬が珍しく強い調子で言う。

 

「今それを煽る意味はないです」

「えー、意味あるよ。だってみんな、堀北先輩がいるから撃てないし、

詰めきれないし、綾小路先輩も無茶しきれないんだもん」

 

その言葉は、この場の誰もが無視したくてもできない事実だった。

綾小路は宝泉の腕を外へ流しながら、一瞬だけ堀北の位置を確認する。

 

まだ動いていない。

 

ならばこの均衡は、ぎりぎり維持できる。

 

だが長くは持たない。

 

龍園も坂柳も、このまま宝泉に場を握らせ続けるとは思えなかった。

 

そしてその予感は、すぐに形になった。

 

「下がれ」

 

龍園が短く命じる。

 

誰に向けた言葉かと一瞬思わせてから、

その直後にマシンガンを持つ部下へ鋭く顎をしゃくる気配があった。

 

撃つ気だ。

宝泉ごとではない。

だが、宝泉の脇をかすめるような位置へ、綾小路の退路だけを潰す意図で。

 

七瀬が即座に気づく。

 

「駄目です!」

 

しかし龍園は止めない。

 

「宝泉、半歩どけ!」

 

その叫びとほぼ同時に、長い掃射が走った。

弾は綾小路たちの真正面ではなく、床と壁の境目をなめるように走り、

火花と破片を散らしながら廊下の空気を一気に削った。

 

宝泉が反射的に舌打ちする。

 

「テメェ、何しやがる!」

「避けられるだろ、テメェなら!」

 

龍園は吐き捨てる。

避けられるかどうかの問題ではない。

 

今の一撃は、宝泉の単独先行を許さず、

同時に綾小路の逃げ道だけを狭めようとした、龍園らしい乱暴な調整だった。

だが、その乱暴さは別のものまで刺激した。

 

坂柳側の橋本が低く言う。

 

「やっぱり撃つよな、あいつは」

 

神室も短く返す。

 

「予想通りすぎる」

 

坂柳は静かに微笑んだ。

 

「では、こちらも準備しましょうか」

 

その言葉の意味を綾小路が正確に読むより早く、廊下のさらに奥、

文化祭準備のために一時的に運び込まれていた照明機材の保管ラック付近で、

何かが倒れる鈍い音が響いた。

 

次の瞬間、白い火花が散った。

 

コードのショート。

 

あるいは、先ほどの掃射の流れ弾が

電源機材の一部を傷つけたのかもしれない。

 

完全な爆発ではない。

 

だが、火花は近くにあった布と紙に一瞬だけ燃え移り、

すぐに消えるはずだった小さな火が、

換気の弱い棟内と散乱した準備資材のせいで、

消え方より先に広がる方向を見せ始めた。

 

誰より先に反応したのは七瀬だった。

 

「火……!」

 

天沢が楽しそうに目を細める。

 

「うわ、最悪。面白いけど」

「面白がってる場合じゃねえ!」

 

龍園が叫ぶが、その声にも一瞬だけ焦りが混ざった。

 

綾小路は理解する。

これが全面炎上に直結するとは限らない。

だが局所的な火と煙は、この狭い特別棟の中では十分すぎる脅威になる。

 

視界が落ちる。

 

判断が鈍る。

 

誰が誰を狙っているのか、さらに分かりづらくなる。

そして何より、まだ教室棟側に人質が残っている状況で、

この火は事故として片づけられない。

 

月城がそこまで計算していたのか、

それとも今この場の誰かの愚かさが偶発的に引き起こしたのか。

 

どちらにせよ、最悪の方向へ状況が一段階進んだことだけは確かだった。

 

「下がってください!」

 

七瀬が再び強い声を上げる。

 

「このまま撃てば、火が広がる!」

「だったら綾小路をここで止めろよ!」

 

龍園が吠える。

 

「止めるために無茶をしてるのはあなたのほうです!」

 

この応酬は、ついに七瀬の中の苛立ちが表面へ出た瞬間でもあった。

 

彼女はずっと制御しようとしてきた。

 

龍園の衝動も、宝泉の暴走も、天沢の遊びも、校内全体の崩壊も。

 

だが、もう抑えきれなくなりつつある。

 

その裂け目を、綾小路は見逃さない。

 

宝泉の視線が一瞬だけ、火の上がった方向へ流れた。

ごくわずかな横向き。

しかし今の綾小路にとっては、そこに割り込む余地が生まれた。

綾小路は宝泉の腕の外側へ潜り込み、

体勢を崩すのではなく、軸だけを半歩ずらす。

 

宝泉の体が壁際へ寄る。

完全には崩れない。

だが、次の踏み込みの角度が変わる。

そこへ綾小路は低く告げた。

 

「後ろを見ろ」

 

宝泉は本能的に反応しかける。

それ自体が隙になる。

振り向くほどではない。

 

だが意識が割れた一瞬で、綾小路はさらに横へ抜け、

堀北の位置との間へ自分の体を入れた。

 

「綾小路くん!」

 

堀北の声が近い。

綾小路は短く言う。

 

「今のうちに下がれ」

「でも――」

「今だ」

 

その声に、堀北は反論を飲み込んで陰から一歩引いた。

 

次の瞬間、火花が激しく噴き散っていた電源ユニットの内部で

何かが限界を迎えたように甲高い破裂音が重なり、

その直後、圧縮されていた熱と電流が

一気に解放される形で巨大な爆発が棟内を揺さぶった。

 

赤白い閃光が通路全体を一瞬で塗り潰し、

爆炎は狭い空間を逃げ場なく膨れ上がりながら前方へ押し出され、

吹き飛んだ金属パネルと砕けた照明機材の破片が

火の尾を引いて宙を舞い、壁と床へ凄まじい勢いで叩きつけられる。

 

爆発の衝撃で空気そのものが殴りつけるように押し寄せ、

綾小路たちの髪と服を激しく煽り、

熱風が肺の奥まで焼くような感覚を残したまま通路を一直線に駆け抜けていく。

 

さらに遅れて、爆炎に巻き込まれたケーブル束が次々とショートを起こし、

青白いスパークが蛇のように壁面を走ったかと思うと、

周囲に積まれていた暗幕用の布や木製パネルへ一気に燃え移り、

赤橙色の炎が通路の半分を呑み込む勢いで燃え盛った。

 

轟音と火花と煙が完全に視界を潰したことで、

さきほどまで追撃していた龍園側の武装班でさえ反射的に足を止めざるを得ず、

棟内は一瞬にして銃撃戦の通路から、

爆炎に支配された灼熱の地獄へ姿を変えていた。

 

天沢が笑みを消し、七瀬が完全に火元へ意識を向け、

橋本と神室が反射的に後退し、龍園側の生徒が一瞬だけマシンガンを下げる。

 

そして宝泉だけが、その混乱の中でもなお綾小路しか見ていなかった。

 

「逃がすかよ」

 

低く、笑いの消えた声だった。

綾小路はその言葉を聞いた瞬間、

この男はもう周囲の混乱や火や

他勢力との奪い合いを半ば切り捨てていると理解した。

 

純粋に綾小路を叩き潰すことしか見えていない。

 

だから危険だ。

 

だが同時に、だからこそ利用しやすい。

 

宝泉をさらに前へ出させれば、坂柳も龍園も撃ちづらくなる。

 

七瀬は止めざるを得ない。

天沢は近くで見たがる。

 

つまり戦場の中心が、綾小路と宝泉の間合いに固定される。

 

綾小路は一歩退く。

宝泉が追う。

さらに退く。

また追う。

 

視聴覚準備室前から少しずつ、

火の上がった照明機材保管ラックとは逆側の廊下へ位置をずらしていく。

 

そこは音楽準備室と家庭科準備室の間の細い通路で、

横幅はさらに狭く、左右から一気に手を出しづらい形になっていた。

 

龍園が気づく。

 

「おい、そっちへ行かせんな!」

 

だが遅い。

宝泉は止まらない。

 

龍園は前に出ようとするが、そこへ坂柳が静かに言葉を落とした。

 

「行かせたのは、あなたの銃撃ですよ」

 

龍園が振り向く。

 

「何だと?」

「焦って撃つから、彼の誘導に乗ったんです」

 

坂柳は笑っていなかった。

むしろ淡々としていた。

 

それが余計に龍園の神経を逆撫でする。

 

「テメェも見てただけだろうが」

「ええ。見ていました。あなたがどこで手を誤るかを」

「……上等だ」

 

龍園の声が低く沈む。

 

「だったら次は、テメェの前で俺が取る」

 

その殺気は、もはや綾小路だけへ向いているものではなかった。

坂柳に対しても、明確に牙を剥き始めている。

七瀬が火元の確認と、棟内の煙の広がりを同時に見ながら、焦りを隠せずにいた。

 

「誰か消火器を……!」

 

だが今ここにいる誰も、綾小路狩りを中断して消火へ回るほどには正常ではない。

 

それがこの夜の恐ろしさだった。

 

火そのものはまだ局所的だ。

けれど、誰もそれを止めることを最優先にしない。

全員が、自分の狙いを手放したくないからだ。

綾小路は細い通路へ後退しながら、その事実を冷静に見ていた。

 

この火はまだ背景だ。

 

だが背景としては十分すぎる。

煙が少しずつ天井付近に溜まり始めている。

非常灯の赤と火花の白が混じって視界に落ち着かない明滅を作っている。

 

声も位置も読みづらくなる。

 

この中で勝つのは、最も強い者ではない。

 

最も早く崩れない者だ。

 

宝泉が通路へ踏み込んでくる。

もうそこには龍園の射線も、坂柳側の横槍も入りにくい。

だが逆に言えば、綾小路にとっても後ろは堀北しかいない。

 

ここで止めるしかない。

 

宝泉が肩を回す。

 

その動作だけで通路の空気が狭くなるようだった。

 

「ようやく邪魔が減ったなぁ」

 

綾小路は答えない。

代わりに呼吸を整える。

 

肩の痛み。

体幹の疲労。

堀北を後ろに置いたまま戦う負荷。

 

そのすべてを自覚しながら、それでも前へ出る角度だけは失わない。

 

背後で堀北が小さく息を呑むのが聞こえた。

彼女も分かっているのだろう。

ここから先は、逃げながら捌く段階ではない。

一度、本当にこの男を正面から止めなければ、誰も先へ進めない。

 

火の明滅が通路の壁を揺らす。

 

遠くで龍園と坂柳の声がまだぶつかっている。

 

七瀬の指示が飛ぶ。

 

天沢の笑いがかすかに混じる。

 

だが、そのすべてが少しずつ遠ざかっていくように、

綾小路の意識は目の前の宝泉だけへ絞られていった。

 

そして次の瞬間、宝泉はためらいなく前へ出た。

 

綾小路もまた、その圧を正面から受けるために、半歩だけ前へ踏み込んだ。

 

特別棟の細い通路の中で

綾小路と宝泉和臣が真正面から対峙した瞬間、

それまで周囲で渦巻いていた銃声や怒号や

火花の散る音や七瀬の制止や龍園と坂柳の言い争いは、

すべて遠くへ押しやられるように薄れた。

まるでこの狭い空間そのものが二人のためだけに切り取られたような、

異様に密度の高い沈黙が一瞬だけ成立する。

 

宝泉はその沈黙を嫌うように、あるいはむしろ楽しむように、

低く息を吐きながらゆっくりと肩を回す。

次の踏み込みに備えて体重をわずかに前へ乗せる。

その動きだけで床と壁の距離がさらに狭く感じられ、

通路の奥に立つ堀北鈴音の存在が、

綾小路の背中に現実的な制約として重く貼り付いた。

 

「逃げねえのか?」

 

宝泉が言う。

 

その声は先ほどまでの怒号とは違い、妙に静かで、

しかし底に沈んだ圧力だけはむしろ増しているように感じられた。

 

「逃げる必要がない」

 

綾小路は短く返す。

 

その言葉に嘘はない。

ここで逃げ続けても、いずれ追い詰められる。

ならば一度、この圧を受け止めて崩すしかない。

 

宝泉の口元がわずかに歪む。

 

「いいじゃねえか」

 

その一言と同時に、空気が一気に圧縮されるような踏み込みが来た。

 

速い。

そして重い。

真正面から受ければ終わる。

 

綾小路は半歩だけ横へずらし、その勢いを外へ逃がす。

だが完全には殺せない。

宝泉の肩がかすめるだけで、体の芯に鈍い衝撃が残る。

 

続けざまに二撃目。

 

今度は下から持ち上げるような圧。

綾小路は腕で受け、力を逃がしながら距離を保つ。

 

狭い。

とにかく狭い。

 

この通路では、宝泉の圧が逃げ切れない。

 

「どうしたよ!」

 

宝泉が笑う。

 

「さっきまでの余裕はどこだ!」

「元からそんなものはない」

「はっ……いいな、その顔」

 

宝泉の目は完全に戦いだけを見ていた。

周囲の状況も、火の気配も、他の勢力も、すべて意識から切り離されている。

 

それは危険だ。

 

だが同時に、利用できる。

 

綾小路は一歩下がる。

宝泉が詰める。

さらに半歩。

また詰める。

 

その繰り返しの中で、少しずつ位置が動く。

 

後ろにいる堀北から距離を取る方向へ。

 

宝泉は気づいていない。

 

いや、気づいていても止まらない。

 

「来いよ!」

 

その叫びと同時に、今度は横殴りの一撃が来た。

綾小路はそれを受け流しながら、壁へ押し付けられないよう足を踏み替える。

 

だが完全には避けきれず、肩に再び衝撃が走る。

 

さきほどの傷が鈍く疼く。

それでも止まらない。

止まれば終わる。

 

その時、背後で銃声が走った。

 

短い連射。

だが方向が違う。

 

通路の奥ではなく、側面の壁に弾が叩きつけられている。

 

龍園側だ。

 

「チッ……当たんねえな!」

 

龍園の苛立った声。

 

宝泉が怒鳴る。

 

「撃つなっつってんだろうが!」

「お前が邪魔してんだよ!」

「上等だ、だったら――」

 

言いかけた瞬間、七瀬の声が割って入る。

 

「やめて!火が広がります!」

 

その言葉で、全員が一瞬だけ意識を別方向へ向けた。

綾小路もわずかに視線を動かす。

通路の入口側、照明機材のあったあたりから、薄く煙が流れ始めている。

 

まだ小さい。

 

だが確実に広がっている。

 

天沢が笑う。

 

「ほんとにやばくなってきましたね」

「笑ってる場合か!」

 

龍園が怒鳴る。

 

坂柳の声は相変わらず静かだった。

 

「笑うかどうかは別として、このままでは棟内の視界が落ちますね」

「だから何だってんだ」

「あなたの銃撃がさらに意味を失うということです」

 

その言葉に、龍園が舌打ちする。

だが撃つのをやめる気配はない。

むしろ苛立ちで判断が荒くなっている。

それがさらに状況を悪くする。

 

綾小路はその歪みを見ていた。

 

この場の全員が、同時に正しい行動を取れていない。

 

だから崩れる。

 

ならば、もう一段階進める。

 

綾小路は宝泉の腕を外へ流し、そのまま一気に踏み込んだ。

 

今度は逃げない。

正面から詰める。

 

宝泉が一瞬だけ目を見開く。

 

予想外だったのだろう。

 

「……おもしれぇ!」

 

宝泉が笑う。

次の瞬間、二人の距離が完全に潰れた。

 

拳と肘と肩と体重がぶつかる。

音ではなく圧で伝わる衝撃。

 

綾小路は宝泉の力を真正面で受けず、

わずかに角度を変えて軸をずらし、崩しきらずに流す。

 

宝泉はそれでも止まらない。

 

押し込む。

叩きつける。

前へ出る。

 

だがその動きは、完全な制御ではない。

 

一部が荒い。

 

そこがわずかな隙になる。

 

綾小路はその隙へ最短の一撃を差し込む。

 

深くは入らない。

だが十分に軸を揺らす。

宝泉の体が半歩だけ下がる。

 

ほんの一瞬。

それだけでいい。

 

綾小路はその間にさらに横へ回り込む。

宝泉の巨体を無理やり通路中央から外側へ流すことで、

堀北たちが抜けるための導線を強引にこじ開けようとしていたが、

その瞬間、宝泉の踏み込みが再び真正面から戻ってくる気配を察する。

彼は初めてここで完全に止めなければ追いつかれると判断した。

 

綾小路は一歩だけ呼吸を整える。

周囲は文化祭準備用の備品だらけだった。

 

倒れた机。

散乱した食材。

割れた皿。

 

そして、まだ火の消えていない大型コンロの上では、

途中まで調理されていた寸胴鍋が弱く湯気を立て続けている。

 

宝泉はそんな周囲など見ていない。

視界の中心には、最初から最後まで綾小路清隆しか存在していなかった。

 

「逃げんなよ……!」

 

咆哮。

 

次の瞬間、宝泉が真正面から殴り込んでくる。

 

凄まじい踏み込み。

拳そのものが鈍器だった。

綾小路は即座に横へ流れる。

 

だが宝泉は止まらない。

 

二発目。

三発目。

 

重い拳圧が空気ごと唸りを上げ、調理台の端を掠めただけで金属板が大きく歪む。

 

綾小路はそこで、倒れていたフライパンを片手で拾い上げた。

 

直後、宝泉の拳が飛ぶ。

 

ガァン!!

 

鈍い衝撃音。

綾小路はフライパンの底面で拳の軌道を受け流し、

そのまま角度を変えて衝撃を横へ逃がす。

 

火花のような金属音が響く。

 

「チッ……!」

 

宝泉がさらに踏み込む。

 

今度は左。

 

綾小路は近くの片手鍋を掴み、

それを盾代わりに使いながら拳を滑らせるように受け流した。

 

鍋が大きく凹む。

だが直撃は避ける。

宝泉は眉を吊り上げた。

 

「小細工してんじゃねえ!!」

 

さらに連打。

 

拳。

肘。

肩からの突進。

 

綾小路は調理器具を次々と利用しながら、その暴力の軌道だけを逸らし続ける。

 

フライパン。

鍋蓋。

金属ボウル。

 

文化祭準備の名残が、そのまま即席の防具へ変わっていた。

 

そして――。

 

宝泉が大振りの右拳を叩き込もうとした瞬間。

綾小路の視線が、コンロ脇の寸胴鍋へ向く。

 

まだ熱い。

十分だった。

 

綾小路は拳を紙一重で躱しながら、その勢いのまま寸胴鍋を片手で掴み上げる。

 

宝泉が目を見開いた。

 

「っ――?」

 

次の瞬間。

 

綾小路は鍋の中身を、そのまま真正面から宝泉へぶちまけた。

熱いスープが顔面と上半身へ直撃する。

 

「ぐあっ!?」

 

宝泉が反射的に目を閉じ、巨体を仰け反らせた。

 

湯気が立つ。

制服が濡れる。

熱と視界不良で、一瞬だけ動きが止まる。

 

宝泉は怒鳴った。

 

「料理じゃねえんだぞ!遊んでんじゃねえ!!」

 

怒声。

 

だがその声には、僅かな怯みと苛立ちが混ざっていた。

 

綾小路は答えない。

 

宝泉が踏み直す。

床を踏み鳴らすような重い一歩。

 

その巨体が再び一直線に加速しかけた瞬間、

綾小路は逃げるのではなく逆に真正面から踏み込んだ。

 

「――っ!」

 

宝泉の目がわずかに見開かれる。

 

それは予想外だった。

 

綾小路がここで回避でも崩しでもなく、正面から打ち抜きに来たこと自体が。

 

次の瞬間、綾小路の右拳が一直線に放たれる。

 

無駄のない軌道。

小細工もない。

ただ最短距離だけを通る、渾身のストレート。

 

拳が宝泉の顔面へ深く突き刺さった瞬間、

鈍い衝撃音が狭い通路へ重く響き、宝泉の頭部が大きく跳ね上がる。

 

そのまま巨体が後方へ吹き飛ぶ。

背後の金属ラックへ激突。

 

ラックが耐えきれず大きく歪む。

積まれていた工具箱と資材ケースが派手な音を立てながら一斉に崩れ落ち、

火花を散らした照明機材の破片が床を転がった。

 

宝泉の身体がその瓦礫の中へ叩き込まれる。

 

完全に決まった。

 

誰の目にもそう見えるほどの一撃だった。

綾小路自身も、拳へ返ってきた硬い感触で分かっていた。

 

今までで最も深く入った。

 

まともに立っていられる打撃ではない。

 

実際、宝泉は動かない。

 

崩れたラックの中に半ば埋もれるように倒れ込み、

荒く息を吐いたまま、しばらく完全に沈黙する。

 

通路に一瞬だけ静寂が落ちた。

 

龍園側の武装班でさえ、その光景に思わず動きを止める。

 

堀北も息を呑む。

 

「……やったの?」

 

その声が落ちた、直後だった。

 

「……ハッ」

 

低い笑い声。

瓦礫の奥。

 

倒れていたはずの宝泉の肩が、小さく震える。

崩れた金属ラックを力任せに押しのけながら、宝泉がゆっくりと立ち上がった。

 

額から血が流れている。

呼吸も荒い。

だが、その目だけはまったく死んでいなかった。

 

「……最高じゃねえか」

 

宝泉は口元の血を乱暴に拭いながら笑う。

その笑みは獰猛だった。

敗れた悔しさではない。

 

むしろ、自分をここまで真正面から叩き潰した相手への歓喜に近い。

 

「やっと本気出したなぁ……!」

 

そして再び踏み出す。

 

足元はふらついている。

明らかに効いている。

それでも止まらない。

 

その執念だけで、無理やり立ち上がってきている。

綾小路はそれを見て、ほんのわずかに目を細めた。

 

化け物じみている。

 

だが同時に、それこそが宝泉和臣という男だった。

 

倒れて終わるのではない。

潰されてもなお、最後まで前へ出てくる。

その狂気じみた闘争本能が、再び灼けた通路の空気を張り詰めさせていた。

 

その背後で、龍園と坂柳が同時に動いた。

 

龍園は強引に前へ出ようとする。

坂柳は逆に位置を変え、横からの介入を狙う。

七瀬はそれを止めようとする。

天沢は笑いながら様子を見る。

 

全員が動く。

完全に均衡が崩れた。

 

その瞬間だった。

 

通路の入口側で、少し大きめの破裂音が響いた。

 

爆発と呼ぶには小さい。

だが明確に弾けた音。

 

照明機材の電源ユニットか、配線か、あるいは熱を持った部品の破断。

 

同時に煙が一気に広がる。

 

視界が落ちる。

赤い非常灯が煙でぼやける。

 

誰がどこにいるか、一瞬で分かりづらくなる。

 

「下がって!」

 

七瀬の声。

 

「煙が来る!」

「チッ……!」

 

龍園が舌打ちする。

 

「最悪だな」

「最初に撃ったのはあなたですよ」

 

坂柳の声が冷たく返る。

 

「うるせえ!」

 

その言い合いすら、煙の中で位置が曖昧になる。

 

綾小路は即座に判断した。

これ以上ここにいるのは危険だ。

だが同時に、この煙は最大のチャンスでもある。

 

「堀北!」

 

声を上げる。

返事はすぐに来た。

 

「ここよ!」

 

位置は分かる。

まだ離れていない。

 

綾小路は宝泉との距離を一気に切り、煙の中へ飛び込む。

 

宝泉が追おうとする。

 

だがその瞬間、横から誰かの影が入り、ほんの一瞬だけ動きを遮る。

 

七瀬だった。

 

「今は追わないで!」

「邪魔すんなぁ!」

「ここで突っ込めば全員見失う!」

「宝泉くん豚骨くちゃい……」

 

ひょっこり現れた天沢が鼻を摘んで不快そうに呟いている。

その一瞬の足止め。

 

それで十分だった。

 

綾小路は煙の中で堀北の腕を掴み、通路の反対側へ引き込む。

 

視界は悪い。

 

だが構造は覚えている。

 

三歩で壁。

その先に分岐。

さらに奥に階段。

そこまで行けば一度切れる。

 

「行くぞ」

「ええ……!」

 

堀北の声も、わずかに掠れている。

煙のせいか、疲労か、それともその両方か。

二人は煙の中を抜け、特別棟の奥へと走る。

 

背後ではまだ怒号が続いている。

 

龍園の声。

宝泉の怒声。

天沢の笑い。

七瀬の制止。

坂柳の冷静な指示。

 

すべてが混ざり、煙の中で形を失いながらも、確実にこちらを追ってきている。

 

だが距離は開いた。

 

完全ではない。

 

それでも、次の局面へ進むには十分だ。

 

綾小路は走りながら理解していた。

 

ここから先は、単なる逃走では終わらない。

 

この煙、この負傷、この消耗、この分裂。

 

すべてが揃った今こそ、戦いは最終段階へ入る。

 

そしてその中心にいるのは、変わらず――綾小路清隆だった。




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