プロローグとなる今回は、ヒロインであるリルと、掃除屋スレイの「凄惨な出会い」の記録です。
【※注意】
序盤から流血表現、凄惨な事故、胸糞の悪い虐待描写が含まれる、純度100%のヘヴィなダーク展開です。苦手な方はご注意ください。
(バカなノリとパロディは徐々に解禁されます)
※本作は劇中に挿絵を入れています。ぜひ文章の合間の挿絵表示をタップして、過酷な世界観を視覚でも見届けてください。
境界線001-リル
柔らかな春の陽だまりが、小さな庭の芝生を黄金色に染め上げていた。
風が吹き抜けるたび、まだ幼い少女のサラサラとした金色の髪が、まるで光の粒を散りばめたようにきらきらと揺れる。
彼女の名前はリル。
まだ「傷」も「悲しみ」も、そして他人の悪意すらも知らない、無垢な天使のような少女だった。
「お父さん、見て! ちょうちょ!」
リルは小さな両手をいっぱいに伸ばし、目の前をひらひらと舞うモンキチョウを追いかけて走り回る。その足取りは軽く、ころころと鳴る鈴のような笑い声が庭いっぱいに響いていた。今の彼女は引っ込み思案とは無縁の、ただ目の前の世界すべてを愛し、愛されていると信じて疑わない子供そのものだった。
「こらこらリル、あんまり走ると転ぶぞ」
木陰に置かれたベンチから、父親が目を細めて微笑みかける。その声には、目の中に入れても痛くないほどの深い愛情が滲んでいた。
「大丈夫よ、この子は元気なんだから。でもリル、おやつの時間にはちゃんと戻ってくるのよ」
父親の隣で、母親が優しく編み物の手を止めながら呼びかけた。母親の温かな眼差しと、父親の大きくて安心できる手のひら。それが、幼いリルにとっての「世界」のすべてだった。
リルは振り返り、満面の笑みで大きく頷いた。彼女の小さな顔には痕など微塵もなく、透き通るような白い肌が健康的な赤みを帯びているだけだ。成長すれば誰もが目を奪われるであろう美しさの片鱗は、すでにその愛らしい顔立ちに表れていた。
「お母さんの焼いたクッキー、だーいすき!」
リルは蝶を追うのをやめて、短い足を精一杯動かして両親の元へと駆け寄った。父親が大きく腕を広げて彼女を受け止め、高い高いをすると、リルは「きゃあ!」と楽しげな歓声を上げる。母親はそんな二人を愛おしそうに見つめながら、バスケットから甘い香りのするクッキーを取り出した。
温かい紅茶の湯気、甘い焼き菓子の匂い、そして両親の優しい笑顔。
誰の目から見ても、そこには一点の曇りもない完璧な家族の肖像があった。幼いリルは、この温かで甘やかな時間が、明日も明後日も、永遠に続いていくのだと無邪気に信じきっていた。
この美しい日常が、突然の炎と鉄の軋む音によって理不尽に奪い去られ、彼女の顔に一生消えない傷跡と、心に深い孤独を刻み込むことになろうとは、この時の彼女には知る由もなかった。
ただ柔らかな光の中、金色の髪を揺らす小さな少女の幸せな笑い声だけが、いつまでも優しく響いていた。
家族を乗せた車は、休日の楽しい余韻を乗せて、すっかり暗くなった夜のハイウェイを走っていた。
後部座席では、遊び疲れたリルが母親の上着を毛布代わりに被り、すやすやと穏やかな寝息を立てている。前の座席では、両親が愛娘の寝顔をバックミラー越しに微笑ましく見守りながら、小声で今日の思い出を語り合っていた。
その平和な空間が、次の瞬間に永遠に失われることなど、誰も予想していなかった。
――突然、対向車線を完全に無視して暴走してきた大型トレーラーのヘッドライトが、車内を真昼のように白く照らし出した。
「危ないっ!」
父親の悲痛な叫び声と、けたたましいクラクションの音。激しいブレーキの摩擦音が夜気を引き裂いた直後、鼓膜を破るほどの凄まじい衝撃音が響き渡った。
鉄と鉄が激突し、無残にひしゃげる暴力的な音。
粉々に砕け散った窓ガラスが、凶器となって車内を舞う。
小型の乗用車は大型トレーラーの質量になす術もなく弾き飛ばされ、ガードレールを突き破って斜面を転がり落ちた。
天地が何度も逆転する悪夢のような数秒間が過ぎ、車は完全にひっくり返った状態で停止した。
「……う、ん……お母、さん……?」
静まり返った暗闇の中、奇跡的に後部座席と前列の隙間に挟まれて致命傷を免れたリルが、目を覚ました。ひどく頭が痛み、鼻をつくガソリンと鉄の匂い、そして生臭い血の匂いが充満している。
「リル……逃げ、て……」
微かな、掠れた声が聞こえた。見れば、ひしゃげたダッシュボードと座席の間に挟まれた母親が、血塗れの手を必死に伸ばしていた。運転席の父親は、すでにピクリとも動かない。
「お母さん! お父さん!」
パニックに陥り、泣き叫びながら手を伸ばそうとしたその時だった。
漏れ出したガソリンに引火し、車体の前方がボワッと赤い炎に包まれた。
「いやああああっ!」
あっという間に燃え広がる炎の熱気が、小さなリルの体を容赦なく炙る。母親は最後の力を振り絞り、這い出ようとするリルの背中を車外へ向かって力強く押し出した。その直後、爆発音と共に車内へ一気に炎がなだれ込んだ。
「ああっ……!!」
割れた窓から外の草むらへ転げ出た瞬間、燃え盛る炎の舌が、リルの顔を無情にも舐め上げた。
透き通るような白い肌が焼かれ、金色の髪の一部がチリチリと焦げていく。経験したことのない激痛に、リルは地面を転げ回りながら悲鳴を上げた。
「お母さんっ! お父さぁんっ!!」
顔を押さえながら炎に包まれた車へと戻ろうとするリルを、駆けつけた後続車の運転手たちが必死に羽交い締めにし、引き留める。
「駄目だ、もう助からない! こっちへ来るんだ!」
大人たちの叫び声と、遠くから近づいてくるパトカーや救急車のサイレンの音。
そして、愛する両親を飲み込んで赤々と燃え盛る業火。
顔を傷つける激しい痛みの中で、リルの視界は炎の赤と絶望の涙で滲んでいった。
それは、無邪気で幸せだった少女の時間が完全に焼き尽くされ、冷たく過酷な孤独の世界へと放り出された、運命の瞬間だった。
退院したリルを待っていたのは、温かい家庭ではなく、冷ややかな義務感と厄介者を疎む視線だった。
最初に彼女を引き取ったのは、父方の伯母の家だった。
事故の慰謝料や保険金が目当てだったことは、幼いリルにも周囲のヒソヒソ話からなんとなく理解できた。
彼らはリルに一部屋を与えはしたものの、食卓には冷たい残り物が並べられ、顔を合わせるたびに「うちだって余裕がないのに」「その顔、どうにかならないの」と、あからさまなため息をついた。
そして、転校先の小学校での日々は、リルにとって地獄の始まりでしかかった。
子供というのは、時として大人よりも残酷に他者の「異質な部分」を攻撃する。
「うわ、なんだよその顔! お化けみたい!」
「気持ち悪い、こっち見んなよ!」
転校初日、自己紹介で教壇に立ったリルに向けられたのは、歓迎の拍手ではなく、悲鳴と嘲笑だった。
かつて太陽のように明るく、誰とでも無邪気に笑い合っていた少女の心は、容赦ない言葉の刃によってズタズタに切り裂かれていった。
休み時間になれば、リルの机はいつもポツンと離され、誰も近づこうとしない。
たまに声をかけてくる者がいても、それは「傷を触らせろ」という好奇心や、「こいつに触ると呪われる」といういじめのゲームの標的としてでしかなかった。上履きを隠される、教科書に落書きをされるといった嫌がらせは日常茶飯事になった。
伯母に助けを求めても、「あなたが暗い顔をしているからでしょう。少しは周りに合わせなさい」と突き放されるだけだった。
両親を失った悲しみを癒やす暇さえ与えられず、リルはただ一人でその苦痛に耐えるしかなかった。
いつしかリルは、人の目を見ることを極端に恐れるようになっていた。
かつて母親が「綺麗ね」と褒めてくれたサラサラの金髪を、彼女は切ることを拒んだ。長く伸びた前髪とサイドの髪で、傷を覆い隠すためだ。
俯き、長い髪の隙間から怯えたように周囲を窺う引っ込み思案な少女。
それが、小学校高学年になる頃には完全に定着したリルの姿だった。声を出して笑うことも、誰かに甘えることも忘れ、ただ息を潜めて教室の隅で時間が過ぎるのを待つだけの日々。
家にも学校にも、彼女を守ってくれる者は誰もいなかった。
世界はどこまでも冷たく、リルは分厚い殻の中に自分の心を深く、深く閉じ込めていくのだった。
小学校を卒業する頃、リルはまるで不用品のように、今度は母方の叔父の家へと押し付けられた。前の伯母が「これ以上は面倒を見きれない」と音を上げたためだ。
新しい家での扱いは、さらに冷酷なものだった。叔父の妻はリルを家族として扱うことはなく、掃除や洗濯、食事の支度といった家事をすべて押し付ける「無給の家政婦」として扱った。
少しでも失敗すれば「居候の分際で」と容赦ない罵声が飛んでくる。
そして、中学校という新しい環境は、リルにとって小学校以上の地獄だった。
中学生という多感な時期において、彼女の抱える「異質さ」は、より陰湿で残酷な標的となったのだ。
しかし、彼女の悲劇は学校の中だけでは終わらなかった。
人間という存在の醜さ、大人の身勝手さ、同世代の残酷さ。
それらすべてを一身に浴び続けた中学時代を経て、リルの心は完全に凍りつき、誰かに助けを求めることすら諦めた「完全な孤独」へと沈んでいくのだった。
中学校という暗黒のトンネルを抜けても、リルの世界に光が差すことはなかった。
義務教育を終えた彼女に対し、叔父夫婦は「これ以上養う義務はない」と冷たく言い放った。
それでもリルが高校へ進学できたのは、彼女が働きに出るよりも、家事全般を無給でこなす都合の良い労働力として手元に置いておく方が、彼らにとって都合が良かったからに過ぎない。
通うことを許されたのは、制服さえ着ていれば誰でも入れるような底辺の高校だった。
しかし、環境が変わっても彼女の居場所は変わらない。教室の一番後ろ、窓際の隅の席だけだ。
高校生ともなれば、小学生や中学生の頃のような、直接的な暴力や幼稚なからかいは減った。
しかし、代わりに待っていたのは「徹底した無関心」と「透明人間扱い」という、より洗練された冷酷な悪意だった。
「ねえ、あの子……また髪で顔隠してる」
「関わんない方がいいよ、なんか気味悪いし」
遠巻きに向けられるヒソヒソ話と、汚いものでも見るかのような視線。
顔の半分を覆い隠すミドル丈の金髪の奥で、リルはただ感情を殺して俯いていた。幼い頃の事故の傷、そして極度のストレスと栄養不足によって中学生のときからピタリと止まってしまった小さな身体。
周囲の生徒たちの中で、彼女の姿はあまりにも異質で、浮き上がっていた。
誰とも言葉を交わさず、ただ息を潜めてやり過ごすだけの学校生活。
そして放課後になれば、急いで叔父の家へと帰り、山積みにされた家事と罵声に耐えるだけの奴隷のような日々。
食事はいつも、叔父たちの残した冷たいおかずの欠片だけ。
成長期にもかかわらず十分な栄養を与えられない彼女の身体は、ますます白く細く、まるで枯れ木のように痩せ細っていった。
そんな地獄のような日々も、三年という月日が経てば終わりを迎える。
しかしそれは、リルにとって「解放」ではなく、さらなる「絶望」の始まりを意味していた。
三月の終わり。
冷たい風が吹きすさぶ中、リルは一人、形だけの卒業証書を抱えて叔父の家へと戻ってきた。誰からも祝われることのない、孤独な卒業式だった。
勝手口から古びた家に入ると、土間には見慣れない粗末なボストンバッグが一つ、無造作に放り出されていた。
「遅いじゃないか。さっさと出ていけ」
腕組みをした叔父が、冷ややかな見下すような視線をリルに向けた。その後ろでは、叔母が厄介払いできたと言わんばかりの薄ら笑いを浮かべている。
「え……?」
「『え?』じゃない。高校を卒業するまでは置いてやるという約束だっただろう。うちはお前のような居候をいつまでも養えるほど裕福じゃないんだ。もう十八になったんだから、自分の力で生きていけ」
ボストンバッグの中には、リルの少ない衣服と、わずかばかりの小銭が入った封筒が詰め込まれていた。それはつまり、文字通りの『追放』宣言だった。
「お願い、です……行くあてなんて……」
数年ぶりに、リルは掠れた声で懇願した。
この家が地獄であることに変わりはない。それでも、ここを追い出されれば、今日寝る場所すら、雨風を凌ぐ屋根すらなくなってしまう。
しかし、叔父は無情にも舌打ちをした。
「知るか。施設にでも行くか、その辺で野垂れ死ぬか、勝手にしろ。お前の両親が残した金もとっくに底をついてるんだ。これ以上、俺たちに迷惑をかけるな!」
ドンッ、と強い力で肩を突かれ、リルの小さな身体は冷たい地面へと突き飛ばされた。
擦りむいた手のひらから血が滲む。しかし、痛みを訴える間もなく、目の前で非情にも重いドアがピシャリと閉ざされ、内側からガチャリと鍵がかけられる音が響いた。
「…………」
閉ざされたドアの前に座り込んだまま、リルは泣かなかった。
いや、もう涙の流し方すら忘れてしまっていたのだ。
夕暮れが迫り、冷たい春の風が彼女の金糸のような髪を揺らす。
かつて両親と過ごした温かな春の陽だまりは、もうどこにもない。
リルはゆっくりと立ち上がり、自分の身体の半分ほどもあるボストンバッグを引きずりながら、宛てもなく歩き出した。
金も、頼れる大人も、帰る場所も、そして希望すらも、何一つ持たないまま。
顔の傷を隠すように俯き、ただ冷たいアスファルトを見つめながら、完全な孤独の世界へと小さな足を踏み出していくのだった。
冷たい夜の闇が、人気のない公園をすっぽりと飲み込んでいた。
街灯の弱々しい明かりだけが、古びたベンチにポツンと座る小さな影を照らし出している。
リルは、自分の身体ほどもあるボストンバッグを抱え込むようにして、小刻みに震えていた。
夜風は容赦なく体温を奪っていく。昨日からろくに何も食べていない胃袋はとうに限界を迎え、飢えによる痛みすら麻痺し始めていた。
(私……ここで、死ぬのかな……)
頭の芯がぼんやりと霞む。
誰も助けてくれない。誰にも必要とされていない。このまま冷たいベンチの上で目を閉じれば、すべてが終わるのだろうか。
そんな諦めが彼女の心を支配しそうになった、その時だった。
「おいおい、こんな夜更けに家出少女か?」
下品に濁った、酒臭い声が静寂を破った。
ビクッと肩を震わせて顔を上げると、街灯の逆光の中に三人の男が立っていた。
派手な柄のシャツに身を包み、顔には下劣な笑みが張り付いている。一目で堅気ではない、裏社会の悪意をまとった男たちだった。
「おじさんたちが遊んでやろうか? ……ん? なんだ、やけにガキっぽいな」
「まあいいじゃねえか。拾ってやるよ。来い」
男の一人が、乱暴にリルの細い腕を掴み上げた。
「ひっ……!」
喉の奥で悲鳴が凍りつく。必死に振り払おうとするが、栄養失調の細い腕では大人の男の力に敵うはずもない。
「なんだお前、気味悪りぃな。顔見せろよ」
男の無遠慮な手が、リルが頑なに顔を隠していた金色のミドルヘアを強引に掻き上げた。
街灯の光の下に、幼い頃の傷が赤裸々に晒される。
「うわっ!? なんだこの顔、気持ち悪ッ!」
男は露骨に顔をしかめ、汚いものでも触ったかのようにリルの腕を突き飛ばした。冷たい地面に無様に転がるリルを見下ろし、男たちはゲラゲラと醜悪な嘲笑を響かせる。
「傑作だな! なんだその化け物みたいなツラは!」
「売り物にもなんねえよ。おい、財布だけ置いてとっとと失せろ、気味の悪い……」
男が苛立たしげに舌打ちをし、リルに蹴りを入れようと足を振り上げた、次の瞬間だった。
――ズプッ。
何か、水風船が破裂したような、ひどく湿った音が響いた。
「……あ?」
蹴りを入れようとしていた男の首から、突然、赤い飛沫が噴き出した。
男は自分の身に何が起きたのか理解できないまま、目を見開き、そして糸が切れた操り人形のようにドサリと崩れ落ちた。
「は……? え……?」
残された二人の男が、地面に広がる血だまりと動かなくなった仲間を見て呆然と声を漏らす。
その背後の暗闇から、音もなく『死』が滲み出た。
銀色の閃光が夜の空気を切り裂く。
「ひぎっ――!」
短い断末魔すら最後まで発せられることはなかった。
二人の男は一瞬にして喉を掻き切られ、痙攣しながら地面に倒れ伏した。三つの死体が、どす黒い血の池を作っていく。
あまりの出来事に、リルは声すら出せず、地面にへたり込んだままその光景を見開かれた目で見つめていた。
さっきまで自分を嘲笑い、暴力を振るおうとしていた存在が、一瞬にしてただの肉塊へと変わったのだ。
むせ返るような血の匂いが、風に乗って鼻腔を突く。
幼い頃、燃え盛る車の中で嗅いだあの鉄の匂いがフラッシュバックする。
震えるリルの視線の先、三人の男の死体を踏み越えるようにして、暗闇の中から『その人物』が静かに姿を現した。
月明かりに照らされた、冷たくも鋭い刃の輝き。そして、血の海を前にしても微塵も揺らがない、静謐で圧倒的な存在感。
リルは、恐怖と、それ以上の何か絶対的な力に魅入られたように、ただガタガタと震えながらその姿を見上げていた。
三つの死体が転がる血だまりの中。
圧倒的な暴力の化身たるその『男』は、月明かりの下で凶器の血糊を無造作に振り払った。
その所作には、人を殺めたという昂りも、感情の揺れも一切ない。ただ道端の石ころを蹴り飛ばしたかのような、あまりにも無機質で冷たい作業の終わりだった。
男は、地面にへたり込んで震えるリルに一瞥すらくれなかった。
彼にとって、そこに怯える少女がいようがいまいが、完全に『無関心』なのだ。ただ自らの目的を果たし、あるいは障害を排除しただけ。
男は無言のまま刃を収めると、一切の足音を立てずにきびすを返し、再び深い夜の闇へと溶け込もうと歩き出した。
「ま、待って……!」
恐怖で凍りついていたはずのリルの喉から、掠れた声が絞り出された。
自分でもなぜそんな声を出したのかわからない。
目の前にいるのは、たった今三人の人間を惨殺した異常者だ。
関われば、次はこの首が切り裂かれるかもしれない。
しかし、男はリルの声など聞こえていないかのように、立ち止まることなく歩みを進める。
その背中が闇に消えようとした瞬間、リルの脳裏に「これまでの地獄」がフラッシュバックした。
嘲笑する同級生たち。蔑む叔父夫婦。閉じられた重いドア。
このままこの男を見送れば、自分はまたあの冷たくて、痛くて、誰も自分を見てくれない『透明な孤独』の中に取り残される。そして、誰にも知られず野垂れ死ぬのだ。
それなら――いっそ。
「待って……行かないでっ!」
リルは這いつくばるようにして血だまりに飛び込み、必死に手を伸ばした。
小さな手が、立ち去ろうとする男の黒いコートの裾を、万力のように強く握りしめる。
ピタリ、と。
そこで初めて、男の足が止まった。
ゆっくりと振り返った男の冷酷な瞳が、足元にすがるリルを見下ろす。
まるでゴミを見るような、あるいは理解不能な不純物を見るような、絶対零度の視線。普通ならその眼差しだけで竦み上がってしまうほどの凄みがあった。
だが、極限の絶望に追い詰められたリルの心は、すでにまともなタガが外れていた。
長い前髪の隙間から、顔の半分を覆う醜い火傷の痕を隠そうともせず、彼女は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、血を吐くような悲痛な声で叫んだ。
「お願い……っ、私を、誘拐して……!」
それは、常軌を逸した懇願だった。
殺人鬼に向かって放たれた、あまりにも突飛で狂った言葉。
「どこでもいい……どこか遠くに……もう、あの場所には帰りたくないの……っ! 家事でもなんでもする、ゴミ漁りだってするから……だからお願い、私をここから連れ去って……!」
必死にすがるリルの細い腕は、すでに男が殺したチンピラの血で赤く汚れていた。
けれど彼女はコートの裾を絶対に離さなかった。
これが、自分の人生を繋ぎ止める最後の蜘蛛の糸だと、魂が理解していたからだ。
冷たい風が吹き抜ける血塗られた公園で、小さな少女と、見知らぬ殺人鬼の男。
絶対的な静寂の中、リルの震える嗚咽だけが、闇夜に悲しく響き渡っていた。
男は、すがりつくリルの小さな手を乱暴に振り払うことはしなかった。
ただ、鬱陶しい羽虫でもあしらうように、無言で身を翻す。
リルの血に濡れた手が、黒いコートの裾から力なく滑り落ちた。
再び歩き出す背中。
「あっ……待って、お願い……!」
リルは弾かれたように立ち上がると、自分の身体の半分ほどもあるボストンバッグを引きずりながら、その後を追った。
普通ではない。目の前の男は、たった今三人の命を瞬きもせずに奪った異常者だ。
しかし、リルにとって背後の血だまりに残されることのほうが、死よりも恐ろしい『確実な地獄』だった。
一定の距離を保ちながら、夜の闇を歩く男の影を必死に追いかける。
男の足取りは、決して早くはない。だが、極度の栄養失調でふらつくリルの短い足では、追いつくのに必死だった。
(……狂っている)
前を歩く男は、背後の気配にわずかな戸惑いを覚えていた。
自分の凄惨な殺しを目の当たりにしたはずの小娘が、悲鳴を上げて逃げるどころか、「誘拐してくれ」と懇願し、あまつさえ血塗れの自分に付きまとってくるのだ。裏の世界で生きる彼にとっても、まったく理解の及ばない異常な光景だった。
やがて男は、公園の外れ、街灯の届かない暗がりに停めてあった無骨な黒い車にたどり着く。
運転席のドアノブに手をかけたところで、男は忌々しげに足を止めた。すぐ背後まで、息を切らしたリルが迫っていたからだ。
「ハァッ、ハァッ……お、願い……置いていかないで……っ」
リルは車のボディにすがりつくようにして、必死に言葉を紡ぎ出した。もう、これが最後のチャンスだとわかっていた。
「私、行くところがないの……っ。今日、高校を卒業して……それで、叔父さんたちに家を追い出されて……」
乱れた息のまま、涙声で自分の身の上を吐き出していく。
「ずっと、家政婦みたいにこき使われて、邪魔者扱いされて……っ。顔にこんな火傷の痕があるから、誰も私のことなんて見てくれなくて……気持ち悪いって、石を投げられて……っ!」
必死に男の背中に訴えかける。
両親を亡くしたこと。温かい言葉をかけられた記憶すらないこと。そして今夜、文字通りすべてを失って、この冷たい夜の街にたった一人で放り出されたこと。
「もう、あの冷たい場所に戻りたくない……! 殺されたっていい。あなたの邪魔は絶対にしない……なんでもするから……だから、私を拾って……!」
すべてを吐き出し、力尽きたようにリルは俯いた。
重い沈黙が、夜の駐車場に降りた。
男は何も言わない。ただ、冷ややかな視線で、足元で震えながらボロボロと泣きじゃくる、幼い子供のような少女を見下ろしていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
不意に、ガチャリ、と無機質な金属音が響いた。
男が車のドアを開けた音だった。
リルがビクッと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げる。
男は運転席に乗り込みながら、振り返りもせず、冷たく、しかしどこか呆れたような低い声で短く言い放った。
スレイ「……勝手にしろ」
バタン、とドアが閉まる。
それは、彼女の絶望に寄り添うような優しい言葉では決してない。
ただの無関心と、身勝手な許可。
しかし、底なしの暗闇に突き落とされていたリルにとっては、これまで生きてきた中で聞いたどんな言葉よりも、温かく、そして残酷な『救い』の言葉だった。
「……っ!」
リルは溢れ出す涙を乱暴に拭うと、重いボストンバッグを抱え直し、急いで後部座席のドアへと手を伸ばした。
【お知らせと次回予告】
『境界線PCU~多様性ワールドへようこそ~6月は毎日20時更新』
明日の20時もぜひお待ちしております!
▼イラスト・設定資料について▼
劇中の挿絵や、キャラクターの詳細な設定資料をPixivにて公開しています。
https://www.pixiv.net/users/124951524
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