今回は視点を変え、リルを拾った「血塗れの掃除屋」スレイの過去と、あの日、彼が彼女の狂った懇願を受け入れた理由のお話です。
※今回も「愛」や「救い」とは無縁の、理不尽で凄惨な暴力描写が含まれます。
※劇中の挿絵(スレイの過去や、二人の出会いの別視点など)を複数用意しています。
挿絵表示をオンにしてお楽しみください。
境界線002-スレイ
柔らかな夕陽が、レンガ造りの洋館を温かく照らしていた。
アーチ状の門には『愛の家』と、丸みを帯びた可愛らしい字体で書かれた看板が掲げられている。
その名の通り、窓の隙間からは子供たちの無邪気な笑い声と、甘い焼き菓子の匂いが漂ってくるような、穏やかな孤児院だった。
まだこの頃の『愛の家』は、裏の顔を持たない、純粋に子供たちを庇護する真っ当な施設だった。
門の前に立つ若い母親の身なりは、この場所に預けに来る者としてはあまりに不釣り合いだった。
仕立ての良いカシミヤのコート、手入れの行き届いた艶やかな髪。貧困の影など微塵も感じさせない。
しかし、その美しい顔は深い絶望と、張り裂けそうな罪悪感にひどく歪んでいた。
「……ごめんね。本当に、ごめんなさい……」
母親は堪えきれないように冷たい石畳の上に膝をつき、目の前に立つ5歳の娘——ルビーの華奢な体を強く、強く抱きしめた。
ルビーの腕の中では、まだ1歳になったばかりのスレイが、自分がこれから直面する運命など知る由もなく、姉の体温に包まれてすやすやと穏やかな寝息を立てている。
「お母様……? 泣かないで」
ルビーは不安そうに眉を下げ、母の震える背中に小さな手を回した。
幼いながらも聡明な彼女は、これが「ただのお出かけ」ではないことを、肌で感じ取っていた。
「いい、ルビー。よく聞いて」
母親は涙で濡れた顔を上げ、ルビーの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。その声には、血を吐くような悲痛な響きがあった。
「あなたは賢くて、強い子。……どうか、この子をお願い。何があっても、スレイを守ってあげてね」
「……うん。わたしが、スレイを守るよ」
その約束を聞き届けると、母親は嗚咽を漏らしながら立ち上がった。
軋む音を立てて孤児院の木製のドアが開き、エプロン姿の優しそうな職員が迎えに顔を出す。
「さあ、おいでなさい。今日からここがあなたたちの家よ」
職員の温かな声に促され、ルビーはスレイを抱き直して施設の中へと足を踏み入れた。
振り返ると、夕暮れの影に溶け込むようにして、逃げるように走り去っていく母親の背中が見えた。
なぜ自分たちが捨てられなければならなかったのか。裕福だったはずの母を追い詰めたものが何だったのか、5歳のルビーには知る術もなかった。
ただ一つ、ルビーの心に強く刻み込まれたのは、腕の中で無邪気に笑う小さな弟の温もりと、母と交わした「スレイを守る」という約束だけだった。
この温かな『愛の家』が、数年後に恐ろしい臓器売買の温床へと変貌し、二人の運命を狂わせることなど、この時の姉弟はまだ知らなかった。
あの日から数年。温かな陽だまりのようだった『愛の家』は、かつての優しい施設長が不可解な死を遂げたことで、まったく別の顔を持つ施設へと変貌していた。
新しい経営陣に乗っ取られたその場所は、裏社会に繋がる「人身売買の問屋」に過ぎなかった。
ルビーは、あの美しい母の面影を色濃く受け継ぎ、誰の目にも目を引く可憐な少女へと成長していた。
一方のスレイは、幼いながらも骨格が太く、常に周囲を警戒するような鋭い三白眼を持っていた。
決して愛嬌があるとは言えない、大人を威圧するような「可愛げのない」顔立ちだった。
ある冷たい雨の夜。応接室に一列に並ばされた子供たちの前に、葉巻の匂いを漂わせる恰幅の良い外国人の男たちが立っていた。彼らは品定めをするように、無遠慮な視線で子供たちの顔を覗き込んでいく。
やがて、男の濁った目がルビーの前でピタリと止まり、下卑た笑みが浮かんだ。
「素晴らしい。この極上の白鳥は、海外の富裕層向けのオークションで間違いなく跳ねるぞ」
値踏みするような太い手がルビーの腕を掴む。彼女は弟を背中で庇うように立ち塞がっていたが、大人の力であっけなく引き剥がされた。
「お姉ちゃん!」
引き離されまいとしがみついたスレイを、男は汚物でも見るような目で見下ろした。
「なんだこのガキは。ひどく目つきが悪いな。こんな不格好な商品、誰がペットとして買うって言うんだ。ゴミめ」
容赦なく放たれた革靴の蹴りが、小さなスレイの鳩尾に深く突き刺さる。息を詰まらせて床に転がった彼を横目に、新しい施設長が揉み手をして男に歩み寄った。
「お気に触りましたら申し訳ありません。こいつは愛玩用にはまったくの不向きですが、生命力だけは異常でしてね。……『部品取り』の家畜として、裏の棟で飼育しますよ。内臓が大きく育つまで」
「いやっ! やめて、スレイには指一本触れさせない!」
母と交わした「スレイを守る」という約束。ルビーは狂乱して男の腕に噛みつき、必死に弟のもとへ手を伸ばした。
しかし、無情にも男の裏拳がルビーの頬を打ち据え、彼女は床に崩れ落ちた。
「大人しくしろ。高級な商品に傷がつくだろうが」
髪を掴まれ、意識を朦朧とさせながらズルズルと引きずられていくルビー。
彼女は血の滲む唇を動かし、最後に振り絞るような声を上げた。
「スレイ……! 生きて……絶対に、生きて……!」
重い鉄の扉が、冷酷な金属音を立てて閉ざされた。
それが、スレイが愛する姉を見た最後の姿だった。
薄暗い廊下に放り出されたスレイは、痛む腹を押さえながら、冷たい床の泥水を舐めるようにしてゆっくりと立ち上がった。
美しかったから売られた姉。醜かったから臓器の畑に落とされた自分。
理不尽な暴力と底なしの絶望が、幼い彼の心から「恐怖」や「悲しみ」といった感情を完全に焼き尽くしていく。
(……生きる。生きてやる。)
ただそれだけを果たすための、冷たく黒い炎。
後に裏社会を震え上がらせる最強の暗殺者は、この夜、すべての痛みを飲み込んでその鋭い瞳を静かに開いた。
裏の棟——通称「牧場」に落とされてから、スレイは一切の感情を殺した。
そこは陽の光も届かない、冷たいコンクリートと鉄格子に囲まれた地下室だった。
臓器の苗床として生かされる子供たちに与えられるのは、最低限の不味い流動食と、臓器の成長を促すための得体の知れない薬物だけ。
恐怖で泣き叫ぶ者、絶望して衰弱していく者が次々と手術室へ運ばれ、二度と戻ってこない中、スレイだけは異質な光を放っていた。
彼は、ただひたすらに己を鍛え上げた。
狭く薄暗い檻の中で、来る日も来る日も肉体を苛め抜いた。
拳の皮が破け、コンクリートの床が赤黒く染まっても、腕立て伏せをやめることはなかった。
指の骨が軋むまで太い鉄格子を握り締め、懸垂を繰り返し、背筋と腕力を限界まで肥大化させた。
看守から気まぐれな暴行を受ける時も、彼は決して悲鳴を上げなかった。ただ静かに急所を庇い、どのような角度で打撃を受ければ骨が折れないか、どう筋肉を硬直させれば衝撃を殺せるかを冷徹に分析し、自身の体を「打撃に耐えうる装甲」へと作り変えていった。
過酷な環境と薬物の影響か、あるいは彼の内に眠る異常な生存本能のせいか。
スレイの肉体は規格外のスピードで巨大化していく。
十代半ばを迎える頃には、大人たちをも見下ろすほどの巨躯へと成長していた。
全身には看守の鞭やナイフによる無数の傷跡がケロイド状に残って分厚い皮膚となり、その顔つきは年齢にそぐわない、まるで歴戦の猛獣のような凶悪なものに仕上がっていた。常に向けられる鋭い三白眼は、暗闇の中でも獲物を狩る捕食者の光を宿している。
「……なんだ、この化け物は」
巡回に来た看守たちが、檻の中に座す巨大な影を見て、思わず後ずさりながら呟く。
もはや誰一人として、彼をただの「無力なストック」として見ることはできなかった。
檻の外にいる大人たちが、檻の中の少年に怯えていた。
スレイの目的はただ一つ。圧倒的な「暴力」を手に入れること。
誰にも奪われず、誰にも蹂躙されない、絶対的な力。
壁のシミを数えるように看守の足音とシフトを記憶し、鍵の開閉のタイミングを測り、人間の急所の位置と最も効率的な殺害方法を頭の中で何万回とシミュレーションした。
来るべき「その日」のために。
彼は泥水をすすりながら、静かに、そして確実に、世界で最も危険な凶器となるべく自身の牙を研ぎ澄まし続けていた。
18歳の誕生日。
それはスレイにとって「出荷」を意味していた。
冷たいステンレスの手術台。太い革ベルトと鋼鉄の枷で、四肢を完全に拘束されている。鼻をつくのは、強烈な消毒液と、床に染み付いた古い血の匂い。眩い無影灯が、無数の傷跡が刻まれたスレイの巨躯を無機質に照らし出していた。
「……規格外のデカさだな。だが、内臓の育ちは最高だ。心臓も肝臓も、特上の値がつくぞ」
マスク越しのくぐもった声で、闇医者が下卑た笑いを漏らす。周囲には、万が一に備えてアサルトライフルを構えた武装警備員が4人。彼らは檻の中の猛獣を恐れるように、銃口をスレイから一瞬たりとも外さなかった。
医者がメスを手に取り、スレイの分厚い胸板へと冷たい刃先を滑らせようとした、その瞬間。
——スレイは、静かに息を吸い込んだ。
全身の筋肉が異様な音を立てて膨張する。鋼のように鍛え上げられた肉体が限界まで収縮し、一気に爆発した。
メキッ、バキンッ!
拘束していた極太の革ベルトが引きちぎれ、鋼鉄の枷が根本からひしゃげて吹き飛んだ。
「なっ……!?」
驚愕に目を見開いた医者の顔面を、丸太のようなスレイの腕が薙ぎ払う。頭蓋骨が砕ける鈍い音とともに、医者の体は部屋の隅までボロ布のように叩きつけられた。
「撃て! 殺せ!!」
パニックに陥った警備員たちが一斉に引き金を引く。
狭い手術室に鼓膜を破るような銃声が響き渡った。
数発の銃弾がスレイの肩や脇腹を抉り、鮮血が舞う。
しかし、規格外の筋肉と、長年の虐待によって麻痺した痛覚は、彼の動きをほんの僅かたりとも鈍らせることはなかった。
弾雨の中を一瞬で踏み込み、一番手前の警備員の喉仏を無造作に鷲掴みにする。そのまま片手で軽々と持ち上げ、盾代わりに残りの警備員へと投げつけた。
重なり合って倒れた男たちの頭上に、巨獣のように跳躍したスレイが降り立つ。急所を的確に踏み砕き、奪い取ったライフルを鈍器として振り回し、次々と命を刈り取っていく。
そこに怒号や雄叫びはない。ただ極めて冷静に、長年脳内で何万回と繰り返してきた「人間を破壊するシミュレーション」を、淡々と現実の作業として出力しているだけだった。
わずか数十秒。
手術室は、完全な静寂と濃密な血の匂いに包まれた。
立っているのは、返り血で赤黒く染まった190センチの巨躯のみ。
スレイは自らの傷を一瞥すると、無表情のまま、床に転がっていた警備員の黒いロングコートを引き剥がして羽織った。今の彼には少し窮屈だったが、裸よりはマシだった。
血塗られた重い鉄扉を蹴り破り、長い地下階段を上っていく。
地上に出ると、激しい雨が降っていた。
『愛の家』の偽りの看板を叩き割るように降り注ぐ雨が、スレイの顔についた血を冷たく洗い流していく。
彼は振り返らなかった。
ただ、暗く果てしない夜の闇を見据え、ゆっくりと歩き出す。
最強の暗殺者、スレイ。その恐るべき伝説は、泥水と血に塗れたこの夜から始まった。
施設を抜け出したスレイを待っていたのは、自由という名の果てしないサバイバルだった。
金も、戸籍も、頼るべき大人もいない。あるのは、無数の傷跡が刻まれた規格外の巨体と、長年の地下生活で培われた生き汚いまでの生存本能だけだった。
表の社会で真っ当な職に就けるはずもない。彼は生きるために夜の街をうろつき、やがて路地裏で細々と商いをしている一人の老いた斡旋屋(ブローカー)の元へと行き着いた。
スレイに持ち込まれる殺しの依頼は、映画に出てくるような巨大なマフィアの抗争や、謎めいた秘密組織の陰謀などではなかった。
依頼人は決まって、表の社会で普通に生きている「一般人」たちだった。
詐欺師に会社の運転資金を奪われ、首を吊る寸前の町工場の親父。娘を半グレにオモチャにされて精神を壊した公務員の父親。夫の度重なる暴力に耐えかねたパート主婦。
彼らは皆、どこにでもいる平凡な顔をして、震える手で封筒に詰めたなけなしの札束を差し出し、日常の延長線上で他者の死を求めた。
スレイにとって、表の世界もあの地下室とさして変わらなかった。陽の当たる場所にも、欲望と理不尽な暴力、そして泥にまみれた悪意が当たり前のように転がっている。
彼は命を奪うことに躊躇はない。だが、決して快楽殺人鬼でも、感情を完全に失った冷徹な機械でもなかった。
仕事が終われば安酒をあおり、ひどく痛む古傷をさすりながら、泥のように眠る。腹が減れば飯を食らい、雨が降れば舌打ちをして軒下へ逃げ込む。生き延びるための手段として「暴力」という技術に極端に長けているだけの、不器用で静かな一人の男だった。
ただ、標的を的確に追い詰め、一切の無駄な苦痛を与えずに素早く処理するその手際の良さと、絶対に依頼人を裏切らない寡黙さから、いつしか彼は裏道で「外れのない掃除屋」として重宝されるようになっていた。
脱出から10年が経った、三月の終わり。
スレイはいつものように、斡旋屋が根城にしている古びた喫茶店に足を運んだ。
「……次の仕事だ」
カウンター越しに、ブラックコーヒーと一緒に茶封筒が滑らされる。
中に入っていたのは、三人の男の写真だった。派手な柄のシャツを着た、下品な笑いを浮かべる小悪党の顔。
「依頼人は、駅前の小さな定食屋の女将さんだ。この三人のチンピラに長年みかじめ料を脅し取られ続けてな。ついには店を担保に借金まで背負わされ、完全に首が回らなくなっているらしい」
老ブローカーは紫煙を吐き出しながら、淡々と説明を続ける。
「連中は今日の深夜、女将を脅しに指定の公園へ呼び出している。そこで処理してくれ。……報酬は、女将が親戚中を回ってかき集めてきた、文字通りの有り金全部だ」
スレイは写真の男たちを一瞥した。
特別な感情は湧かない。ただの標的であり、明日の飯代を稼ぐための作業対象に過ぎない。彼は無言のまま、三人の顔を脳裏に焼き付けると、写真を封筒に戻して黒いコートのポケットにねじ込んだ。
「……わかった」
短くそれだけを告げ、冷めきったコーヒーを一息に飲み干す。
それが、あの血塗られた夜の公園へ向かう、彼にとっての「ただの日常業務(仕事)」の始まりだった。
冷たい夜の静寂を切り裂く、湿った肉体の破壊音。
スレイにとって、それはただの「作業終了」の合図に過ぎなかった。
依頼通り、定食屋の女将を苦しめていた三人のチンピラは、地面にどす黒い血の池を作って転がっている。
彼らの命に、特別な価値などない。明日には誰も彼らの不在を気に留めない、路地裏の塵芥のような存在だ。
スレイは事務的に凶器の血を振り払い、ポケットの茶封筒を指先で確認した。
仕事は終わった。あとは斡旋屋に報告し、報酬を受け取り、アジトで眠るだけ。その日常のサイクルに、イレギュラーが挟まる余地などないはずだった。
――「ま、待って……!」
背後から届いた、掠れた小さな声。
スレイは一瞥すらくれなかった。
(……まだ動くのがいたか?)
とどめを刺し忘れたのかと思った。だが、その声は死体からではなく、街灯の弱々しい明かりの下、地面にへたり込んで震えている、幼児のように小さな人影から発せられていた。
スレイは無言のまま、一切の足音を立てずにきびすを返し、闇へと溶け込もうと歩き出した。
そこに怯える少女がいようがいまいが、完全に『無関心』だ。彼にとって、表の世界の住人は、ただの背景か、あるいは処理対象でしかない。
しかし、少女の声は、夜の風に乗ってなおも彼を追ってきた。
「待って……行かないでっ!」
這いつくばるようにして血だまりに飛び込んできた少女の手が、スレイの黒いコートの裾を掴んだ。
小さな手が、万力のように強く握りしめられる。
ピタリ、と。
そこで初めて、スレイの足が止まった。
ゆっくりと振り返ったスレイの冷酷な瞳が、足元にすがる少女を見下ろす。まるでゴミを見るような、あるいは理解不能な不純物を見るような、絶対零度の視線。
少女は立ち上がりスレイを見上げる。
だが、極限の絶望に追い詰められた少女の瞳は、その凄みに竦むことなく、ただ血を吐くような悲痛な懇願を口にした。
「お願い……っ、私を、誘拐して……!」
その常軌を逸した言葉に、スレイの心に、微かな、しかし決定的なノイズが走った。
理解不能だ。殺人鬼に向かって、誘拐してくれと頼むなど。普通なら悲鳴を上げて逃げるか、警察を呼ぶか、あるいは恐怖で気絶する。
だが、彼女は違った。
血まみれの顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、コートの裾を離そうとしない。
「どこでもいい……どこか遠くに……もう、あの場所には帰りたくないの……っ! 家事でもなんでもする、ゴミ漁りだってするから……だからお願い、私をここから連れ去って……!」
必死にすがる少女の細い腕は、すでにスレイが殺したチンピラの血で赤く汚れていた。
けれど彼女は、これが自分の人生を繋ぎ止める最後の蜘蛛の糸だと、魂が理解しているかのように食らいついてくる。
(……帰りたくない、か)
スレイは少女の姿を、彼女が隠そうともしない顔の傷を、そしてその瞳の奥にある、底なしの暗闇を冷徹に分析した。
嘲笑する同級生。蔑む親戚。閉じられた重いドア。
彼女が吐き出した短い身の上話から、スレイは彼女が受けてきた「暴力」の正体を瞬時に理解した。
それは、肉体を破壊する暴力ではない。
存在を、心を、徹底的に削り取る暴力だ。
彼女は、この社会に存在しながら、誰にも見られず、誰にも必要とされず、まるで存在しないかのように扱われてきたのだ。
表の社会から、システムから、完全に省かれた存在。
それは――『透明人間』だ。
そして、スレイ自身もまた、あの地下室で「人間」としての名前を奪われ、戸籍もなく、裏社会でしか生きられない、紛れもない『透明人間』だった。
普通の世界に生きる人間が、自分の手に負えるはずもない殺人鬼にすがるわけがない。
彼女の「誘拐して」という懇願は、常軌を逸しているからこそ、彼女がこの世界(社会)から完全に決別したことの、何よりの証明だった。
(透明人間が、透明人間を拾う……か)
それは「人助け」のような、甘っちょろい感情ではなかった。
ただ、自分と同じ「社会から省かれたゴミ」を一つ、自分のテリトリーに置くだけのこと。
彼女がこの血塗られた夜を望み、ここから連れ去られることを望んだのであれば、それは彼女の、唯一の、そして最後の意志表示だ。
重い沈黙が、夜の駐車場に降りた。
スレイは何も言わない。ただ、冷ややかな視線で、足元で震えながらボロボロと泣きじゃくる少女を見下ろしていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
不意に、ガチャリ、と無機質な金属音が響いた。
スレイが車のドアを開けた音だった。
リルがビクッと肩を震わせ、恐る恐る顔を上げる。
スレイは運転席に乗り込みながら、振り返りもせず、冷たく、しかしどこか呆れたような低い声で短く言い放った。
スレイ「……勝手にしろ」
バタン、とドアが閉まる。
それは、彼女の絶望に寄り添うような優しい言葉では決してない。
ただの無関心と、身勝手な許可。
しかし、底なしの暗闇に突き落とされていたリルにとっては、これまで生きてきた中で聞いたどんな言葉よりも、温かく、そして残酷な『救い』の言葉だった。
「……っ!」
リルは溢れ出す涙を乱暴に拭うと、重いボストンバッグを抱え直し、急いで後部座席のドアへと手を伸ばした。
二人の「透明人間」が、血塗られた夜の闇の中へ、静かに合流していく瞬間だった。
【お知らせと次回予告】
『境界線PCU~多様性ワールドへようこそ~6月は毎日20時更新』
明日の20時もぜひお待ちしております!
これにて、地獄のような底辺から這い上がった二人の「透明人間」が出会いました。スレイがあの時、決して優しさからではなく、「同じ社会から省かれた者」としての奇妙な共鳴からリルを拾ったという部分を描きたかった回です。
(※スレイの肉体が規格外すぎる件については、地下での謎の薬物と異常な生存本能の賜物ということで……)
次回からは、いよいよこの血塗れの男と、ボロボロの少女の「奇妙な共同生活(と裏稼業)」がスタートします。ようやく少しだけ、息継ぎができる日常(?)パートも入ってくる予定です。
▼イラスト・設定資料について▼
劇中の挿絵や、キャラクターの詳細な設定資料をPixivにて公開しています。
【Pixiv】https://www.pixiv.net/users/124951524
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