境界線PCU~多様性ワールドへようこそ~   作:トナカイ粉砕

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いつもお読みいただきありがとうございます。
今回は、ついに二人のアジトに到着。そして、チームの重要人物である「天才ハッカー」と「美人プロファイラー」が登場します!

これまでの血なまぐさい展開から一転、ようやく温かいご飯の匂いがする「日常パート」が始まります。そして後半では、リルの意外すぎる才能が爆発……?

(※今回も複数の挿絵を入れています。ぜひ挿絵表示でお楽しみください!)


境界線003
境界線003-マリア&アジト


 

【挿絵表示】

 

新宿の雑居ビルの一室。

そこは、表向きは空きテナントとして偽装された、裏の掃除屋たちの極秘アジトである。

 

壁一面に並べられた複数のモニターの青白い光が、薄暗い部屋を照らしている。

その中央で、紫色のロングヘアーを揺らしながら、深いスリットの入ったドレス姿の美女――天才ハッカーの『マリア』が、凄まじい速度でキーボードを叩いていた。

 

ガチャリ、と重い鉄のドアが開く音がした。

 

「……遅かったじゃない、スレイ。定食屋の女将からの依頼(チンピラの掃除)、手こずるような相手じゃなかったはず――」

 

マリアがPCから視線を外し、振り返りざまに文句を言おうとした、その瞬間。

 

「…………え?」

 

【挿絵表示】

 

マリアの言葉が、ピタリと止まった。

 

入り口に立っていた漆黒のコートの巨漢・スレイの背中に隠れるようにして、ボロボロの巨大なボストンバッグを引きずり、顔や服にべっとりと他人の血を浴びた、幼児のように小さな少女が震えていたからだ。

 

「……スレイ。アンタ、いくらなんでも『誘拐』なんて犯罪に手を染めたわけじゃないわよね?」

マリアが、引き攣った笑顔で静かに立ち上がる。

「……俺じゃない。こいつが勝手についてきただけだ」

スレイが、面倒くさそうに紫煙を吐き出した。

 

マリアは深くため息をつくと、スレイを睨みつけてから、怯えて俯くリルへとゆっくり近づいた。

「……血まみれじゃないの。怪我しているの? 痛いところは?」

 

「あっ……ち、違います……これ、私の血じゃ、なくて……」

リルは、マリアのあまりの美しさと、大人特有の香水の香りに萎縮し、ギュッとボストンバッグを抱きしめた。

アジトの明るい照明の下では、長く伸ばしたミドルヘアの隙間から、顔に存在する『事故の傷跡』がどうしても露わになってしまう。

 

(……見られる。また、「気持ち悪い」って言われる……っ)

リルは恐怖で身をすくませ、ギュッと目を瞑った。

 

しかし。

「……そう。なら、よかったわ」

マリアの声には、嫌悪感も、哀れみも、一切含まれていなかった。

 

恐る恐る目を開けると、マリアはリルの顔の傷をジロジロと見ることもなく、ごく自然な動作でリルの肩に温かいブランケットをふわりと掛けた。

「ほら、こっちのソファに座って。冷え切っているじゃない」

「え……あ……」

 

促されるまま、ふかふかのソファに座るリル。

マリアは手早くキッチンへ向かうと、マグカップに温かいココアを淹れて戻ってきた。

 

「……ほら、飲みなさい。甘いものを胃に入れれば、少しは落ち着くわ」

「…………ぁ……」

 

差し出されたマグカップから、甘く優しい香りが湯気となって立ち上る。

リルは震える両手でそれを受け取った。温かさが、凍りついていた手のひらから、ゆっくりと全身へと染み渡っていく。

 

誰も、自分の顔を見て悲鳴を上げない。汚いものを見るような目を向けない。

ただ当たり前のように、温かい飲み物を差し出してくれる。

それが、リルにとってどれほど奇跡のような出来事か、目の前の美しい女性は知る由もないだろう。

 

「私はマリアよ。ただのしがないハッカーだけれど。……あなたは?」

マリアが、隣に座って優しく微笑みかける。

 

「……リ、リルです……。十八、歳です……」

「十八歳!? スレイ、アンタ中学生くらいの子を拾ってきたのかと思ったわよ!」

マリアが素の顔で驚き、スレイに向かって今日一番の鋭いツッコミを放つ。

スレイは無言で死んだ魚のような目を向けた。

 

「……今日、親戚の家を追い出されて。公園で……怖い人たちに絡まれていたところを、スレイさんに……」

 

ココアを一口飲み、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻したリルは、ポツリポツリと自分の身の上を語り始めた。

幼い頃の事故。両親の死。親戚からの虐待。学校での孤立。

 

そして、今日すべてを失い、血塗られた公園でスレイに「誘拐して」とすがりついたこと。

 

すべてを聞き終えたマリアは、何も言わずにただ静かにリルの頭を撫でた。

その手は、かつて母親がしてくれたように、とても優しかった。

 

「……リル。よく聞いて」

マリアが、真剣な瞳でリルを見つめる。

「ここは表の社会じゃない。私やスレイは、国家の裏金で動いて、人を殺して情報を抜き取る『裏の掃除屋』よ。……決して、真っ当な人間のいる場所じゃないわ」

 

それは、一般人の少女を裏社会に巻き込まないための、マリアなりの最後の警告だった。

しかし、リルはマグカップを両手で強く握りしめ、真っ直ぐにマリアの目を見つめ返した。

 

「……構いません。表の社会にだって、私の居場所はどこにもなかった。ずっと、透明人間だったから」

リルの瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ちる。

「……温かいココアを淹れてくれたのは、マリアさんが初めてです。……お願い、私をここに置いてください……っ。なんでもしますから……!」

 

その必死な懇願に、マリアはふっと口角を上げ、困ったように笑った。

「……なんでもする、なんて簡単に言っちゃダメよ。面倒くさい巨漢がいるんだから」

「……?」

「まぁ、大人の事情よ」

 

マリアは立ち上がると、スレイに向かってウインクをした。

「……スレイ。アンタが拾ってきた責任、ちゃんと取りなさいよ」

「……ああ」

スレイが、そっぽを向きながら低くしゃがれた声で吐き捨てる。

 

それが、このアジトでの「歓迎」の合図だった。

リルは溢れる涙を拭いながら、マグカップの甘いココアを、一滴残らず大切に飲み干すのであった。

 

――翌日。

 

「……お前も来い」

「は、はいっ!」

 

スレイとマリアに連れられ、リルは初めてアジトの外へと足を踏み出した。

向かったのは、アジトから少し離れた場所にある、こぢんまりとしたお洒落な『パン屋』だった。

 

カランコロン、とドアのベルが鳴る。

店内には焼きたてのパンの香ばしい匂いが立ち込め、ガラスケースの中には色とりどりのパンが並んでいる。

 

「……いらっしゃいませ。あら……」

 

奥から出てきたのは、黒髪のストレートロングヘアを揺らす、息を呑むほどの美人だった。

彼女はスレイとマリアの顔を見ると、すぐにその視線を、スレイの後ろに隠れているリルへと移した。

 

「……マリア。こちらの方は?」

「スレイが昨日、公園で拾ってきた迷子よ。リルっていうの」

 

黒髪の美女は、リルの頭の先から足の先まで、ほんの一瞬だけ――まるでレントゲンでも撮るかのように鋭く、しかし優雅な視線で舐め回した。

 

「……なるほど」

彼女はフフッと上品に微笑むと、リルの前にしゃがみ込み、視線を合わせた。

「……極度の栄養失調と慢性的なストレスによる成長阻害。服のシワと靴のすり減り方から見て、ずっと肩身の狭い環境で虐げられてきたのね。……でも、昨日はよく眠れたみたい。目の奥の『怯え』が、少しだけ和らいでいるわ」

 

「えっ……!?」

リルは目を丸くして驚いた。出会って数秒、ただ見られただけで、自分の過去から現在の精神状態まで、すべてを完璧に見透かされてしまったのだ。

 

「……凄い。超能力者ですか!?」

「ふふっ。ただのパン屋の店員よ。……裏の顔は、人間を分析する『プロファイラー』だけれどね」

彼女は立ち上がり、リルに向かって美しい手を差し出した。

 

「私はモニカ。よろしくね、リル」

「……は、はいっ! モニカさん!」

 

リルは、その手をしっかりと握り返した。

 

スレイ、マリア、そしてモニカ。

裏社会に生きる規格外の大人たち。彼らとの出会いが、冷たく閉ざされていたリルの心に、少しずつ、しかし確実に『温かい光』を灯し始めていた。

 

翌朝。

スレイとマリアは、「ちょっと仕事(掃除)に行ってくるわ」とだけ言い残し、アジトを出て行った。

 

一人残されたリルは、静まり返ったアジトのリビングで、ポツンと立ち尽くしていた。

テーブルの上には、マリアが置いていった数枚の千円札と、「お昼はこれで適当に好きなものを買って食べてね」というメモが残されている。

 

「……どうしよう」

 

リルは落ち着きなく部屋の中をウロウロと歩き回った。

親戚の家では、朝から晩まで休むことなく家事をさせられていた。

 

何もしないで座っていると、「居候の分際で」「これだから役立たずは」と容赦ない罵声と暴力が飛んできたからだ。

『何もしない自分』は、またすぐに不用品として捨てられてしまうのではないか。そんな強迫観念が、リルの心を締め付ける。

 

(……そうだ、お掃除しよう。お洗濯も!)

 

リルは弾かれたように立ち上がった。

アジトはそれなりに片付いてはいたが、男の一人暮らし(と、仕事で忙しいマリア)のせいか、隅の方には埃が溜まり、脱衣所には洗濯物が山になっていた。

親戚の家で散々やらされてきたことだ。家事の手際だけは、身体に染み付いている。

 

リルはすぐさま腕をまくり上げ、アジトの隅々まで雑巾がけをし、洗濯機を回し、シーツにアイロンをかけた。

そして、マリアから渡されたお金を握りしめ、近くのスーパーへと買い出しに向かった。

 

(夜ご飯……何がいいんだろう。お二人の好み、まだわからないし……)

 

スーパーの生鮮コーナーで悩んだ末、リルは鶏肉をカゴに入れた。

どんな味付けが好きかわからない。だから、一番無難で、失敗の少ない定番の『唐揚げ』にすることにした。

これなら、きっと文句は言われないはずだ。

 

夕暮れ時。

ガチャリ、と重い鉄の扉が開く音がして、スレイとマリアが任務から帰還した。

 

「……ただいま。あー疲れたわ、今日のターゲットは逃げ足だけは早くて……」

愚痴をこぼしながら靴を脱いだマリアは、リビングに足を踏み入れた瞬間、ピタリと固まった。

 

「え……?」

 

部屋の中が、見違えるようにピカピカになっていたのだ。

床にはチリ一つなく、乱雑に積まれていた資料は綺麗に整頓され、窓ガラスは夕陽を反射して磨き上げられている。さらに、ベランダには二人分の洗濯物が、シワ一つなくピンと張られて干されていた。

 

「お帰りなさい、なさい……!」

エプロン姿のリルが、キッチンの奥からオドオドと顔を出す。

 

「リル……これ、全部あなたがやったの!?」

「あ、はい……っ。勝手にいじって、ごめんなさい! でも、私、こういうことしかできなくて……っ」

 

怒られるかもしれない。そう思って首をすくめたリルに対し、マリアは目を見開き、そしてパッと花が咲いたような笑顔を見せた。

 

「ごめんなさいだなんて、とんでもない! すっごく綺麗じゃない! 洗濯までしてくれたのね、本当にありがとう!」

「え……?」

「……助かった」

 

後ろから入ってきたスレイも、綺麗に畳まれてソファに置かれた自分の黒いシャツを一瞥し、低くしゃがれた声で、ぶっきらぼうに、けれど確かな温もりを込めて言った。

 

「お前、手際がいいんだな。……ありがとう」

「…………あっ」

 

『ありがとう』。

そのたった一言が、リルの胸の奥をギュッと締め付けた。これまでどれだけ完璧に家事をこなしても、一度もかけられたことのない言葉だった。

 

「……あのっ! 夜ご飯、作ってみたんです。お口に合うか、わからないですけど……!」

 

【挿絵表示】

 

リルは慌ててキッチンに戻り、大皿に山盛りになった揚げたての唐揚げをテーブルに運んだ。

スレイとマリアが席につき、箸を伸ばす。

 

その瞬間、リルの心臓は破裂しそうなほど早鐘を打っていた。

親戚の家での記憶がフラッシュバックする。

 

『味が薄い!』『こんなゴミみたいな飯が食えるか!』と、作った食事を床に叩きつけられたトラウマが蘇る。もし、口に合わなくて捨てられたらどうしよう。不味いと怒鳴られたらどうしよう。

 

リルが両手をギュッと握りしめ、震えながら二人の反応を待っていた、その時。

 

「……んっ! 美味しい!!」

マリアが、目を丸くして感嘆の声を上げた。

「ちょっとスレイ、これ食べてみなさいよ! お肉はすごくジューシーだし、下味もしっかりついてて……そこらのお弁当屋さんの唐揚げよりずっと美味しいわよ!」

 

「…………」

スレイは無言のまま、大きな唐揚げを一口で頬張った。

そして、死んだ魚のような目をわずかに見開き、静かに二個目へと箸を伸ばした。

 

「……美味い」

「……えっ」

「……今まで食った唐揚げの中で、一番美味い」

 

スレイが、真剣な顔でポツリとこぼした。

マリアも「本当に美味しいわ、リル! 毎日作ってほしいくらい!」と、次々と唐揚げを口に運んでいく。

 

「…………ぁ……」

 

二人の『美味しい』という言葉と、次々と減っていく大皿の唐揚げを見て。

リルの瞳から、ポロポロと、大粒の涙が溢れ出した。

 

「えっ!? ちょっとリル、どうしたの? どこか痛い?」

マリアが慌てて立ち上がる。

「ち、違います……っ」

 

リルは、袖口で何度も何度も涙を拭いながら、パァッと太陽のように顔を輝かせた。

 

「嬉しいんです……っ。私のご飯を、美味しいって言って食べてくれたのが……ありがとうって、言ってもらえたのが……すっごく、嬉しくて……っ!」

 

誰かのために何かをして、感謝される。

ただそれだけの、当たり前の温かさが、これほどまでに心を救ってくれるなんて知らなかった。

 

「……バカね。美味しいものを作ってくれたんだから、お礼を言うのは当たり前でしょ」

マリアは優しく微笑み、リルの頭を撫でた。

「私とスレイは、いつもこのアジトに住んでるの。モニカは、昨日のパン屋の2階に住んでるわ。……だから、あなたは今日から、ここの『家族』よ」

 

「家族……」

「そう。だから、明日からも美味しいご飯、期待してるわよ?」

マリアのウインクに、リルは弾かれたように、何度も何度も力強く頷いた。

 

「はいっ!!」

 

温かい唐揚げの匂いと、優しい笑顔。

長年、暗い絶望の底で透明人間として生きてきた少女は、この夜、裏社会の片隅にある小さなアジトで、ついに『自分の本当の居場所』を見つけたのだった。

 

任務のない休日。

リルの髪の毛を切りそろえて適当な服を見繕うマリア。

新宿の極秘アジトには、殺伐とした裏社会の空気を忘れさせるような、穏やかな時間が流れていた。

 

リビングのテーブルでは、マリアが、手のひらサイズの『小型偵察用ドローン』のメンテナンスを行っていた。精密なプロペラとカメラが付いた真っ黒な機体を、マリアが細い指先で器用に調整していく。

 

「わぁ……かっこいい」

 

その横でリルが、テーブルから顔を半分だけ出して興味津々に目を輝かせていた。

「……気になる? 偵察用のドローンよ」

マリアが手を止め、ふふっと笑う。

「はいっ! 鳥さんみたいで、すごいなって思って……!」

 

「……使ってみる?」

「えっ!? い、いいんですか? 私、壊しちゃったら……」

「大丈夫よ、頑丈に作ってあるから。ほら、このコントローラーのスティックで上下左右に動かすのよ」

 

マリアに促され、リルはおずおずとドローンのコントローラーを受け取った。

少しだけ説明を聞いた後、リルがスティックをそっと押し込むと。

 

『――ヴンッ!』

 

ドローンが軽いモーター音を立てて宙に浮き上がった。

「わあっ、浮いた!」

リルはパッと顔を輝かせると、そのままコントローラーのスティックを弾くように動かした。

 

すると、ドローンはまるで意思を持っているかのように、アジト内の障害物――ソファの背もたれや、観葉植物の隙間、さらには壁掛け時計のギリギリのラインを、滑らかな曲線を描きながら猛スピードで旋回し始めたのだ。

 

「……えっ」

マリアが、予想外の光景に目を見開いた。

 

ドローンは空中でピタリと静止(ホバリング)したかと思えば、急降下と急上昇を繰り返し、マリアの指の隙間をすり抜けて、ふたたびリルの手元へと寸分違わずフワリと着地した。

 

「……嘘でしょ。リル、あなたドローンの操縦、初めてなのよね?」

マリアが信じられないというように尋ねる。

 

ソファで安物のタバコを吹かしていた大男――スレイも、百円ライターをいじる手を止め、サングラスの奥で感心したようにリルを見つめていた。素人が少し触っただけでできるような、生半可な機動ではなかったからだ。

 

「えへへ……実は、昔少しだけ似たようなことをやっていて」

リルが、照れくさそうにコントローラーを置く。

 

「親戚の家で、お小遣いもおもちゃも貰えなかったんですけど、物置に捨てられてた『お古のシミュレーションゲーム』だけは、唯一遊んでいいって言われてたんです」

ぽつりと語られたのは、かつての悲しい境遇だ。

「……ずっとそれしかやることがなくて、来る日も来る日もそのゲームばっかりやってたから、こういうコントローラーの操作だけは、すごく得意になっちゃって……」

 

「……なるほどね」

マリアは、同情するのではなく、感心したように息を吐き出した。

劣悪な環境で暇を潰すために磨かれた孤独な技術が、まさか裏社会の最新鋭ドローンを完璧に操る才能(スキル)として開花するとは。

 

「……リル。あなた、情報収集や『陽動』の才能があるかもしれないわよ」

マリアの称賛に、リルは「えへへ、お役に立てるなら嬉しいです!」と無邪気に笑い、エプロンを締め直した。

「それじゃあ、私、お掃除の続きをしてきますね! 夕飯の仕込みもありますから!」

 

リルは鼻歌を歌いながら、洗濯物を取り込み、床に掃除機をかけ、キッチンのコンロに火を点けていく。

アジト中をパタパタと小走りで動き回るその姿は、小動物のように軽快だった。

 

「……本当に、器用ですばしっこいわね」

マリアが、コーヒーを啜りながら感心したように呟く。

「あれだけ軽やかなフットワークと、周囲の状況を同時に見る『視野の広さ』があれば……裏社会でも十分立ち回れるわ」

 

「ああ」

 

スレイも無言で頷き、ソファから立ち上がると、夕飯の準備をしているリルの元へと歩み寄った。

 

「……リル」

「あ、はい! スレイ! 唐揚げ、もうすぐ揚がります――」

 

振り返ったリルの小さな両手に、スレイは無骨な手で『重く冷たい金属の塊』をポン、と押し付けた。

 

「え……?」

リルが目を丸くする。手の中にあったのは、黒光りする護身用の『業務用超高圧スタンガン』だった。

 

「……これを、渡しておく」

スレイが、低くしゃがれた声で告げる。

「……えっ、でも、こんな物騒なもの……私に?」

 

「俺やマリアが、常に24時間お前を守りきれるとは限らない。……それに、お前のそのすばしっこさは、いざという時、チームの武器になる」

スレイは、サングラスの奥の死んだ魚のような目を真っ直ぐにリルに向けた。

 

「……自分の身は自分で守れ。ハンドガンくらいは、使えるようになるといい。……今度、射撃の練習だ」

「…………!」

 

それは、冷徹な暗殺者からの、不器用な思いやり。

そして、「ただ保護されているだけの子供」ではなく、正式に自分たちの大切な『裏の掃除屋(チーム)の一員』として認めたという、何よりの証明だった。

 

「……はいっ!!」

 

リルは、重いスタンガンを胸にギュッと抱きしめ、満面の笑顔で力強く頷いた。

過去の絶望を乗り越えた少女が、PCU(裏の掃除屋)の立派な『陽動役』として、そしてスレイの背中を追うパートナーとして、確かな覚醒の第一歩を踏み出した瞬間だった。

 

数日後。都内近郊の、人気の途絶えた広大な廃工場。

そこは、スレイたちが武器のテストや射撃訓練に使う、裏の掃除屋(PCU)の秘密の修練場だった。

 

「……よし、リル。まずはドローンの実戦テストよ」

天才ハッカーのマリアが、タブレット端末を操作しながら指示を出す。

 

「このドローンには、高性能カメラでの『上空からの偵察機能』のほかに、下部に搭載したカートリッジから【催涙ガス】や【致死性の毒ガス】を遠隔で散布する機能がついているわ。……落とすポイントを間違えないでね」

 

「了解です、マリアさん!」

 

リルは真剣な表情でコントローラーを握りしめた。

『ヴンッ!』という低いモーター音と共に、黒いドローンが廃工場の数十メートル上空へと一気に舞い上がる。

 

(……風向きよし。高度よし。ターゲットの座標まで、あと少し……)

リルは、親戚の物置で来る日も来る日もやり込んでいた『シミュレーションゲーム』の画面を脳内にオーバーラップさせていた。風の抵抗や慣性の法則すらも、長年のゲームの経験値が完全に補正していく。

 

「……今です!」

リルの指が、コントローラーの散布ボタンを弾く。

上空のドローンから、狙い違わず『模擬用のカラースモーク』が投下され、地上のターゲットのダミー人形を完璧に赤い煙で包み込んだ。

 

「……信じられないわね。誤差数センチよ」

マリアがタブレットのデータを見て、呆れたように息を吐く。

 

「……次は、こっちだ」

休む間もなく、漆黒のコートを着たスレイが、リルの前に立った。

その無骨な手には、鈍い鉄色の『9ミリ口径のハンドガン』が握られている。

 

「……い、いよいよ本物の銃……」

リルがゴクリと唾を飲み込む。

スレイは無言のまま、リルの背後に立ち、彼女の小さな両手を包み込むようにしてハンドガンを構えさせた。

 

【挿絵表示】

 

「……肩の力を抜け。反動(リコイル)は手首じゃなく、体幹全体で殺せ」

スレイの低くしゃがれた声が、耳元で響く。

「的の真ん中を見るな。フロントサイトの点と、リアサイトの隙間を合わせろ。……息を吐ききったところで、指の腹でゆっくりとトリガーを絞るんだ」

 

「……はいっ」

リルは、スレイの教えと、ゲームの『エイム(照準合わせ)』の感覚を瞬時にリンクさせた。

ただのゲームと現実の銃は違う。だが、「空間を三次元で把握し、カーソルを合わせる」という脳の処理能力において、彼女は異常なまでの適性を持っていたのだ。

 

『――パーーンッ!!』

 

乾いた銃声が廃工場に響き渡り、リルの小さな体が反動で後ろにのけぞる。それを、背後のスレイが分厚い胸板でガッチリと受け止めた。

 

「……あっ、当たりました!?」

リルが慌てて的を見る。

20メートル先のダミー人形の、眉間と心臓。そこに、たった今放たれたばかりの弾痕が、見事なまでに正確に穿たれていた。

 

「…………」

スレイは無言のまま、安物の百円ライターをカチャリと鳴らし、死んだ魚のような目をわずかに見開いた。

 

「……どう? スレイ」

マリアがニヤリと笑って尋ねる。

「……恐ろしく筋がいい」

スレイが、紫煙を吐き出しながら短く絶賛した。

「反動にビビって目を閉じる素人が大半の中、こいつは撃つ瞬間まで的から目を逸らさなかった。……実戦で十分に通用する」

 

「やったぁっ!!」

スレイの口から飛び出した最高の褒め言葉に、リルはハンドガンを持ったまま(※銃口は安全な下に向けて)、満面の笑顔でピョンピョンと跳ね回った。

 

――その日の夕暮れ。

 

「……ふぅ、疲れたねー! 夜ご飯、どうしよっか」

訓練を終え、すっかり日の落ちた街を歩きながら、リルが伸びをする。

「そうね。今日はクタクタだし、モニカのところでパンでも買って帰りましょうか」

マリアの提案で、三人はアジトの近くにある、あのこぢんまりとしたお洒落な『パン屋』へと足を運んだ。

 

カランコロン、とベルが鳴る。

店内には香ばしい小麦の匂いが漂い、ショーケースには美味しそうな惣菜パンが並んでいた。

 

「いらっしゃいませ。……あら、お疲れのようね」

奥から出てきたのは、黒髪のストレートロングヘアを揺らす絶世の美女――情報屋(プロファイラー)のモニカだった。

「モニカさーん! お腹ペコペコです! このクロワッサンと、あとお惣菜のパンもください!」

リルが目を輝かせてトレイにパンを乗せていく。

 

「ふふっ、たくさん食べてね」

モニカは優雅に微笑みながらパンを袋に詰めると、ふと、そのプロファイラーの鋭い目を細めて、スレイとマリアへと視線を移した。

 

「……ちょうどよかったわ。アジトに連絡しようと思っていたところなの」

 

モニカは、パンの入った紙袋を渡すついでに、一枚の『茶封筒』をカウンター越しにスレイへと滑らせた。

スレイが封筒を開けると、中にはある【建設現場】の写真と、ガラの悪い数人の男たちの写真が入っていた。

 

「……実はおいしい依頼(オーダー)が入ってきているのよ」

モニカが、優雅な声色に冷徹な響きを交えて説明を始める。

 

「現在、都内の再開発エリアで、大規模な建設プロジェクトが進んでいるんだけれど……最近、そこに『反社グループ』が毎日のようにたむろして、作業員を脅したり、資材搬入のトラックを物理的に通せんぼしたりして、あからさまな業務妨害をしているの」

 

「ただの嫌がらせじゃないわね」

マリアが写真を見て眉をひそめる。

「ええ。みかじめ料の要求もない。完全に工事の進行を遅らせることだけが目的よ。……おそらく、開発の利権を横取りしようと企んでいる『ライバル企業』が、裏で反社を金で雇って差し向けたのね」

 

「……依頼主は、その工事の元請けか」

スレイが、男たちの写真を一瞥して低くしゃがれた声で尋ねる。

「そう。表の警察を呼んでも、連中は『ただ立ち話をしているだけだ』とシラを切って、すぐまた戻ってくるのよ。完全に警察の死角(グレーゾーン)を突いた嫌がらせね」

モニカがため息をつく。

 

「だからこそ、法というルールに縛られない『裏の掃除屋』の出番というわけね」

マリアが不敵な笑みを浮かべた。

 

「……というわけで、依頼の内容は【建設現場を荒らす反社グループの完全なる壊滅】よ」

モニカの言葉に、スレイは無言のまま写真をコートのポケットにねじ込み、安物のタバコに火を点けた。

 

「……いいだろう。掃除してやる」

 

スレイが冷酷な殺意を漂わせる中、モニカがふと、横でパンを頬張っていたリルを見て、妖しく微笑んだ。

 

「……ちょうどいいわね。ドローンとスタンガンの訓練は済んだんでしょう?」

「えっ? も、もしかして……」

リルが、口の周りにパン屑をつけたまま目を丸くする。

 

「ええ。この仕事、リルの『初陣(テスト)』にはピッタリの舞台じゃないかしら?」

 

モニカの提案に、マリアも「そうね」と賛同の笑みを浮かべる。

「……スレイさん、マリアさん!」

リルはゴクリと唾を飲み込むと、決意を秘めた真っ直ぐな目で、スレイを見上げた。

 

「……私、やります! 陽動でもなんでも、絶対にみんなの役に立ってみせます!」

 

昨日まで家の中で怯えていた少女が、自ら裏社会の最前線に立つことを決意した瞬間だった。

裏の掃除屋(PCU)たちは、リルの初陣となる「反社グループの壊滅」へと向け、夜の建設現場へとその鋭い牙を研ぎ澄ますのであった。

 




【お知らせと次回予告】

『境界線PCU~多様性ワールドへようこそ~6月は毎日20時更新』
明日の20時も、ぜひリルの初陣を見届けに来てください。

▼イラスト・設定資料について▼
劇中の挿絵や、キャラクターの詳細な設定資料をPixivにて公開しています。
【Pixiv】https://www.pixiv.net/users/124951524

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