第18話、中編です!
外部の大人たちを頑なに拒絶し、病院のベッドで外界をシャットアウトしている12歳の少女。そんな彼女の頑なな心を溶かすため、リルとメイコが「言葉や音を超えた真っ直ぐな対話」を試みます。
スケッチブックを通じて紡がれる、音のないキャッチボール。
――警察病院、特別保護室前。
「……警察や児童相談所の大人たちは、彼女を可哀想な被害者、あるいは腫れ物のように扱って接しています。……しかし、それが逆に、少女を深く怯えさせ、心を閉ざす原因になっているんです」
病室のドアの前で、警視庁トップ・山田相姦の部下が、苦々しい表情でスレイたちに現状を報告した。
連日のマスコミによる無責任で扇情的な報道も、外部の大人が彼女を色眼鏡で見る大きな要因となり、少女をさらに孤立させていた。
「……難しいわね」
マリアが、小さく息を吐く。
「ええ。それに……スレイの風貌が一緒で、あの過敏になっている子がさらに怯えたりしないか、少し心配だけれど」
モニカが、漆黒のコートを着た顔面凶器の大男を見上げて眉をひそめた。
「……行くぞ」
スレイの短い合図と共に、スレイ、リル、メイコの3人が特別保護室のドアを開けて中へと入っていく。
マリアとモニカは、マジックミラー越しに中の様子が見聞きできる隣の監視部屋で待機することになった。
――病室の内部。
ベッドの上で膝を抱え、下を向いて外界を完全にシャットアウトしている12歳の少女。
そこに踏み込んだメイコは、警察官やカウンセラーがやるような「正面から椅子に座って向かい合う」という威圧的な態度は一切取らなかった。
「やっほー!」
まるで友達の部屋に遊びに来たかのような、極めて軽いノリ。
メイコはそのまま、少女の隣のベッドの端にドカッと無遠慮に座り込むと、買ってきたばかりの派手なスイーツ――色鮮やかなマカロンと、生クリームたっぷりのクレープ――を、隣でモシャモシャと美味しそうに食べ始めた。
少女の肩がビクッと跳ねる。
しかし、怒られることも同情されることもない「ただ隣でスイーツを食っているだけの派手なギャル」という予想外の存在に、少女は戸惑い、ほんの少しだけ顔を上げた。
すかさず、メイコが自分の持ってきたスケッチブックにマジックで文字を書き殴り、少女の視界へと差し出した。
そこには、少女が胸に抱きしめている古いスケッチブックの表紙を指差して、こう書かれていた。
『 あ、その表紙のキャラ、〇〇だよね! アタシも超好きー! 』
――監視部屋。
「……見て」
マジックミラー越しに少女の微細な筋肉の動きを観察していたモニカが、ふと目を細めた。
「……服の袖の擦れ方が変わったわ。ギュッと強く握りしめていた指の力が抜けている。……少しだけ、少女の警戒が解けているわね」
「ふふっ。ここは、私たちの出番はなさそうね」
マリアが、頼もしい家族の背中を見て、ふっと優しく笑った。
――病室。
メイコが隣で警戒を解いたのを見計らい、リルが、少女の正面にゆっくりとしゃがみ込んだ。
リルは、自分の顔の右半分にある凄惨な『火傷の傷跡』を、髪で隠すことなく、はっきりと少女に見せた。自分もまた、心と体に深い傷を負っているのだと証明するように。
そして、リルは自分のスケッチブックとクレヨンを取り出し、絵による会話――音のない対話(キャッチボール)を始めた。
リルは真っ白な画用紙に、少し下手くそだけれど、一生懸命にクレヨンを走らせる。
一枚目。『炎に包まれる車と、その中で大粒の涙を流して泣いている自分(過去)』。
二枚目。『黒い服を着た怖い大人たち(親戚)に囲まれ、いじめられている自分』。
そして三枚目。
『大きな体をした大男(スレイ)や、派手なギャル(メイコ)たちに手を引かれ、満面の笑みで笑っている今の自分』。
言葉も、音もいらない。
リルは、「アタシも、世界で一番怖い思いをした。大人が全員、敵に見えた。……でも、アタシを助けてくれた『本当の味方』がここにいるよ」という痛切で温かいメッセージを、視覚だけで真っ直ぐに少女の心へと届けたのだ。
少女の虚ろだった瞳がわずかに揺らぎ、リルの描いた温かい絵に、ゆっくりと引き寄せられていく。
そこへ。
メイコが、自分のスケッチブックに極太の大きい矢印を書き込み、背後で無言で立ち尽くす漆黒のコートの大男――スレイのほうをバンッと指し示した。
『 このオジちゃんが助けてくれるから、大丈夫だよ! 』
さらに、リルもスケッチブックの新しいページを急いで書き足し、少女の顔を覗き込んで、とびきりの笑顔でその文字を見せた。
『 私の旦那だから信用してね! 』
「…………」
感動的な音のない対話を、最後の最後でぶち壊す金髪少女の重度の妄想(虚偽申告)に。
スレイは死んだ魚のような目で、絶対に少女には伝わらない、音の出ない特大のツッコミを心の中で叫ぶのであった。
――警察病院、特別保護室。
メイコが指差したスレイと、リルが書いた「私の旦那」というトンデモないスケッチブックの文字。
その、大人たちが決して見せないような不器用で真っ直ぐな、そして少しだけおバカな温かさに触れて。
「……ぁ……、う……っ」
少女の虚ろだった瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
彼女は、絶対に手放そうとしなかった自分の古いスケッチブックを、震える両手でゆっくりと開き、リルとメイコの前にそっと差し出して見せたのだ。
「ん? これは何〜! お絵描きしたの? 偉いっ!」
リルが、パッと花が咲いたような笑顔で少女の頭を撫でる。
「えへへ、私のお絵描きもまた見せるね!」
そう言ってリルがスケッチブックをめくって見せたのは、タピオカの絵や、PCUの皆で笑っている顔……。
そして、なぜかスレイの裸やマリアの下着姿のスケッチだった。
しかも、絶望的に下手くそである。
『……ちょっと! 変なものを、いつの間に描いたのよッ!』
マジックミラーの向こうの監視部屋から、マリアの羞恥に満ちた怒りのツッコミ(インカム通信)がスレイたちの耳に響いた。
「あはは! リルたそ、画伯すぎっしょ!」
メイコが笑い転げた後、少女が開いて見せてくれたスケッチブックのページを真剣な顔で覗き込んだ。
「……これは? 自転車? こっちは電柱?」
メイコの問いかけに、少女は涙を拭いながら小さくコクンとうなずいた。そして、自分の腕や脚にある無数の青痣を指差す。
「……そっか。自転車で転んじゃったり、ぶつかっちゃったんだね! アタシもすっごくドジなんだよ!」
リルはポンと手を叩き、自分のスケッチブックに真っ黒に焦げた目玉焼きと、スイッチを押し忘れて炊けていない炊飯器の絵を急いで描いて、少女に見せて笑いかけた。
そのやり取りを見て。
背後に立つスレイと、監視部屋のモニカ、マリアは、事件の根幹を覆す重大な事実に気がついた。
(……マスコミは、あの痣を虐待の末の悲劇だと決めつけていたが)
スレイが、死んだ魚のような目をわずかに見開く。
「……ええ。これは、日常的な暴力による虐待の痕跡ではないわ」
監視部屋のモニカが、プロファイラーの目で確信を持って呟く。
「孤児として、本物の地獄(暴力)を見てきた私たちにはわかる。あれは殴られた痕じゃない。耳が聞こえないがゆえに、背後から来る自転車の音に気づけなかったり、注意が削がれて電柱にぶつかったりしてできた……ただの転倒と接触による傷よ」
「……じゃあ、福祉ボランティアが言っていた虐待って、一体なんだったの……?」
マリアが、世間の作り上げた虚像の脆さに息を呑む。
少女が夜間放置されていたのも、父親がただ死ぬ気でダブルワークをしていたからに過ぎない。
父親は娘を愛しており、娘もそんなドジな自分を責めることなく、こうしてスケッチブックに日記のように記録していたのだ。
ふいに、少女がリルとメイコの服の袖を、キュッと弱々しく引っ張った。
そして、スケッチブックのページをめくり、何かを必死に伝えようと、いくつかの絵を指差した。
『 音符マークに、大きなバツ(✖)印 』
『 風船が、パンッと割れる絵 』
『 地面が、波打つように揺れている絵 』
「……何かを、アタシたちに伝えようとしてる……?」
リルが真剣な顔で絵を見つめる。
少女はさらにページをめくり、今度は具体的なモチーフを指差した。
『 大きな猫 』
『 四角いマス目 』
『 スケッチブックの表紙に描いてあるキャラ(〇〇) 』
「……! あれは、ランドマークよ!」
モニカの鋭い声がインカムに響いた。
「視覚障害や聴覚障害を持つ方にとって、特定の振動や視覚情報は、自分の現在地や行き先を特定するための目印(聴覚的・感覚的ランドマーク)になるの!」
「……なるほど」
マリアが瞬時に分析する。
「最初の三つ(音がない、破裂するような振動、地面の揺れ)は、環境を示す大きな条件。そして後半の三つ(猫、マス目、キャラ)は、彼女が伝えたい『具体的な場所(ルート)』を示しているのね!」
「……オッケー、任せて! すべて記憶しておくっしょ!」
メイコが少女に「ちょっと見せてね」と優しく微笑みかけ、ページに描かれた情報と筆致のすべてを、その驚異的な瞬間記憶能力で脳内のハードディスクへと完璧に焼き付けた。
対話は終わった。これ以上、長居をしては少女を疲れさせてしまう。
リルはスケッチブックに、にっこり笑う顔と共に『バイバイ』と大きく書いて、少女に手を振った。
メイコは「これ、後で食べてね」と、持ってきた色鮮やかなマカロンとスイーツをサイドテーブルにそっと置いていく。
スレイは無言のまま、少女の頭を一度だけ優しく撫でると、音もなく病室を後にした。
閉ざされた少女の世界から受け取った「音のない暗号」。
裏の掃除屋たちは、このスケッチブックの絵が示す真実の場所へと向けて、静かに歩みを進めるのであった。
――昼下がり。警察病院を後にする、裏の掃除屋(PCU)の5人。
「……確信っていうほどじゃないけど。あの子、絶対に犯人じゃないよ」
リルが、スレイの大きな袖を握りながら、静かだが強い口調で言った。
「だね。アタシもそう思うっしょ。あの怯え方は、人を殺した後のそれじゃない」
メイコが、スマホに保存した少女のスケッチブックの画像を見つめる。
「山田相姦の部下が感じていた違和感の正体がわかったわね」
モニカが、優雅に髪をかき上げた。
「……まずは、あの子が私たちに知らせようとしていた場所へ行きましょう」
「メイコ、情報を出して。少女の視覚情報を現実の地図にオーバーレイさせるわよ」
マリアが、ワゴン車の助手席でノートPCを立ち上げた。
――走行中のワゴン車内。
「『音符マークにバッテン』……最初は図書館かと思ったけど、それだと『風船』や『波打つ地面』に繋がらないわね」
メイコが、少女の描いた記号を分析する。
「音符にバツ。つまり、音がしない。あるいは『音が鳴らない』ことを示しているのよ」
モニカが窓の外を見つめながら推理を繋ぐ。
「『風船が割れる絵』は、空気の急激な膨張……。地下鉄の換気口から吹き出す、強い風の暗示じゃないかしら」
「『地面が波打つ絵』は、足の裏に伝わる振動。大きなトラックの走行か、あるいは地下鉄ね」
マリアがキーボードを叩き、条件を絞り込んでいく。
「……そうか。音の鳴らない、踏切」
「第4種踏切ね」
マリアの言葉に、全員がハッとした。
「遮断機も警報機もない、ただ看板だけが立っている踏切。耳の障害がある彼女にとって、警報機が鳴らないのは当たり前のことだけど……わざわざバツ印をつけたのは、そこが警報機そのものが存在しない踏切だと彼女が認識していたからだわ」
東京都内、それも地下鉄の路線が地上に顔を出す境界付近。
遮断機のない危険な「第4種踏切」は、今や数えるほどしか残っていない。
「そこにあって、なおかつ排気口の風が強く、地下鉄の振動が足に伝わる場所……」
メイコが地図上の数か所を指差す。
「絞り込めたっしょ。いくよ、スレイ!」
――数十分後。都内、入り組んだ路地の先。
スレイたちは、数箇所の候補を回った末に、ある「ポイント」に辿り着いた。
そこは、西武線の古い高架下に近い、住宅街の死角だった。
「……ここだわ」
マリアが車を降り、足元の振動を確認する。
数分おきに、足裏が痺れるような地下鉄の通過振動が伝わってくる。
そして踏切の方を見れば、警報機も遮断機もない、古びた鉄の十字路が音もなく佇んでいた。
そのすぐ脇には、巨大な地下鉄用の換気ガラリがあり、時折、生暖かい突風が「パンッ」と服を弾くような音を立てて吹き出している。
「『音符にバツ』、『風船』、『波打つ地面』……条件は完璧っしょ」
メイコが周囲を見渡す。「でも、次は『大きな猫』だけど……」
「大きな猫さん、発見ーっ!」
リルの弾んだ声が響く。彼女が指差した先――古びた倉庫のコンクリート壁に、色鮮やかなスプレーで巨大な『猫のグラフィティ(ストリートアート)』が描かれていた。
「……ん? どこに四角いマス目が……」
モニカが目を凝らすが、周囲にロッカーのようなものは見当たらない。
「ロッカーじゃない……もっと地面に近い、四角い何か……」
メイコが視線を落とし、壁際を歩く。
「あ、あった! スケッチブックの表紙のキャラ、〇〇発見っしょ!!」
自動販売機の隅に、少女が好きだと言っていたキャラクターのシールが、色褪せながらも一枚だけ貼り付けられていた。
その自販機の足元には、コンクリートの隙間に『四角いタイルのようなマス目』の溝が彫り込まれている。
「……ここだな」
漆黒のコートを着た大男――スレイが、静かに自販機の前に立った。
スレイは無言のまま膝をつき、自販機のわずかな隙間に、その大きな手を差し入れた。
指先に触れたのは、冷たい金属の感触ではない。
「……あったぞ」
引き出されたのは、数枚のノートの切れ端だった。
それは丁寧に折り畳まれ、雨や湿気から守るために、ビニール袋で厳重に『防水対策』を施された状態で、自販機の底に貼り付けられていたのだ。
「……これが、お父さんと彼女が隠していた音のない真実の正体ね」
マリアがそれを受け取り、袋を開ける。
そこには、父親の血の滲むような告発の内容が記されていた。
借金、虐待という名の虚像、そして彼らがこの場所で何を「見て」しまったのか。
裏の掃除屋たちは、少女が命がけで繋いだ『最後のバトン』を握りしめ、歪んだ報道の裏側に潜む真の悪へと、牙を剥く準備を整えるのであった。
――夕刻。首相感貞・極秘地下作戦室。
自動販売機の底に隠されていた、数枚の破かれたノート。
マリアの手によって丁寧に広げられたその紙片には、現代社会の歪みが凝縮されたような、おぞましい文字列が並んでいた。
「……『カモリスト』、そして『次期ターゲット』の選定簿ね」
マリアが、そのアナログな記述を鋭い目で見据える。
そこには病院の内部データや名簿業者から違法に買い取られた、「重い病気の家族がいる家」や「障害を持つ子供がいる家」の極めて詳細な個人情報が、執念深く書き込まれていた。
「……このリストが存在する時点で、相手が意図的に弱者を狙い撃ちにしている『特商法詐欺グループ』であることは、警察に一発で証明できるわ」
モニカが、冷徹に断定する。
「亡くなった父親が多額の借金を背負わされたのも、決して偶然じゃない。最初から、このリストに基づいて狙われていたのよ」
「……つまり、お父さんは騙されて奪われたお金を返すために、あんなにボロボロになるまで昼夜働いていたんだね」
リルが、震える声で呟いた。
「世間じゃ育児放棄だなんだって叩かれてたけど……本当は、詐欺被害に遭って、それでも娘を守ろうとしてただけなんだっしょ。……マジで胸糞悪い話だわ」
メイコが、憤りに顔を歪める。
「……父親はどこかで偶然、この帳簿の一部を入手してしまった。自分たちを陥れた組織の証拠をね」
モニカが、破かれたノートの断面を指差す。
「そして、それを告発しようとして……あるいは交渉の材料にしようとして、逆に命を狙われる結果になってしまった」
スレイは、そのやり取りを無言で聞きながら、納金記録の隅に記された『ある名前』を凝視していた。
(……こいつが、雇われた掃除屋か)
スレイは安物の百円ライターをカチャリと鳴らし、短くなったタバコを灰皿に押し付けると、誰に声をかけることもなく、音もなく作戦室を後にした。
その気配の消し方は、熟練の掃除屋のメンバーですら、一瞬、彼がそこにいたことすら忘れてしまうほど完璧だった。
「……しかし、肝心の組織名やグループの拠点は依然として不明か」
大物議員Aが、苦々しく腕を組む。
「徹底してアナログで帳簿をつけるあたり、相応の判断力と警戒心があるようね。デジタルに足跡を残さない……古いタイプだけれど、それだけに狡猾だわ」
環萌美総理が、ルージュの唇を忌々しそうに噛む。
「紙だと、逆にマリアみたいな凄いハッカーでも、外から覗くのは難しいもんね……」
リルが、マリアのPC画面を見て肩を落とす。
「ええ。裏金や詐欺の収益管理は、足がつかないようにアナログ管理を徹底する組織も多いのよ。人を騙すプロは、隠れることに関してもプロなんだから」
「……でも、この破かれた跡を見ると、犯人側も相当焦っているわね」
モニカが、筆跡の乱れを観察する。
「父親が隙を見て、この決定的なページだけを破り取って逃げ出した。犯人は現場でそれを回収しようとしたけれど、あの子が隠した場所までは見つけられなかった……」
「……ええ。これで、あの少女が犯人じゃないことは、私たちの中では99%確定ね」
マリアがキーボードを叩き、納金記録から浮上した人物を特定する。
「近隣住民が聞いた『怒鳴り声』や『物が割れる音』は、父親と実行犯との最後の争いの音で間違いない。……詐欺グループに辿り着くには、まずはこの実行犯からね。反社のパイプを持つ、この男……。……ねぇ、スレイ。こいつの居場所を――」
マリアが、いつものように背後のリーダーへ問いかけようとして、言葉を止めた。
そこにあるはずの、漆黒の大きな影がない。
使い古された灰皿に、まだ煙を上げる一本の吸殻だけを残して。
「……あれ? スレイが……いない?」
リルの不思議そうな声が、作戦室に響く。
仲間たちが確たる証拠を積み上げている間に。
音のない死神は、既に闇の奥底へと潜む獲物の首筋に、冷たい牙を立てるべく走り出していた。
――都内某所。
完全なオートロックシステムを備えた、瀟洒なマンションの一室。
プロの殺し屋というものは、往々にして過剰なほどの警戒心を持っているものだ。
しかしスレイにとっては、そんなセキュリティなど何の意味も持たなかった。
彼は音もなく裏口へと回り、特殊な鍵を物理的に破壊して、容易くマンション内部へと侵入した。
ターゲットの部屋の前に立つ。
スレイは無言のまま、チャイムを鳴らした。
(……一気に扉ごと蹴り破って制圧するか? ……いや、やめておこう。情報を引き出すのが先だ)
少しの間の後、ガチャリと扉が開いた。
隙間から顔を出したのは、どこにでもいそうな「人の良さそうな中年男」だった。
しかし、ドアチェーンはしっかりと掛けたまま、その奥にある眼光は蛇のように冷たく、スレイを警戒しているのがわかる。
「……例の医療財団の件で、伝達事項だ」
スレイは、低くしゃがれた声でカマをかけた。
詐欺グループの隠れ蓑として、NPO法人か医療財団か迷うところだが、病院の横流しデータを扱っている以上、医療財団を名乗っている可能性が高いと踏んだのだ。
「……今日、そんな予定はあったか?」
男が、怪訝そうに眉をひそめる。
「……例の少女の件で、警察署が他殺の線で捜査を進めているとの情報が入った。急遽のイレギュラーだ」
スレイが淡々と告げると、男は「他殺」という言葉に明らかな驚きの色を浮かべた。
当然だ。彼はあの密室で、完璧に「少女の凶行」に見せかけたのだから。
「……状況証拠は完璧だったはずだが。あの父親が、何か(証拠)を残したらしい」
スレイの言葉に、男は警戒をスッと緩めた。
そこまでの内部事情を知っているのは、組織の人間だけだ。
何より、スレイのその「顔面凶器」と圧倒的な威圧感は、どう逆立ちしても正義の警察官には見えない。完全に、裏社会の掃除屋のそれであった。
いつもは一般人を怯えさせるため車で待機させられるスレイの外見が、この時ばかりは最高のパスポートとして機能した。
「……チッ。入れ」
男がチェーンを外し、スレイを部屋の中へと案内する。
「……それで、回収はできたのか? 現場に破かれたノートがあったはずだ」
スレイがリビングに足を踏み入れながら問うと、男はギリッと歯を噛み鳴らして悔しがった。
「……借金の契約書は取り返したが……まだ他の書類が残っていたというのか」
(……なるほど。あのアパートで父親と揉め、一部しか回収できなかったわけか)
スレイは内心で状況を整理し、さらに探りを入れる。
「……上の連中、医療財団は相変わらず正体を出さないか?」
「あぁ。俺も雇われているだけで、組織の本当の名前すら知らねぇよ。……しかし」
男が、ふと立ち止まり、スレイを鋭く振り返った。
「……お前、どこの所属だ? 見ない顔だな」
(……引き出せる情報は、この程度か)
これ以上泳がせても無駄だとスレイが判断した、まさにその瞬間。
スレイのコートのポケットで、場違いな着信音が鳴り響いた。
スレイは悪びれもせずスマホを取り出し、画面を見て男に言った。
「……内閣総理大臣からだ」
「……はぁ? なんだそりゃ。はははっ、お前、見た目と違って随分と面白い冗談を言うやつだな!」
男が鼻で笑う。
スレイは無言で通話ボタンを押し、スピーカーモードに切り替えた。
『――やっほー! みんな大好きなもえみんだよっ☆ 本物だよぉ〜!』
スピーカーから響き渡ったのは、日本のトップとは思えない、環萌美総理のふざけきった猫撫で声だった。
「…………はえ???」
凄腕の殺し屋の脳が、状況を処理しきれずに完全にフリーズする。
『……そいつの利き手は残しておきなさい。文字を書かせないといけないからね』
次の瞬間、もえみんのふざけた声は一変し、いつもの絶対零度の、麗しくも凛とした冷酷な総理の声へと切り替わった。
スレイはスマホをポケットにしまい、呆然としている男に向かって、先ほどの問いへの答えを返した。
「……俺の所属は、PCU新宿アジトだ」
『――ドゴォッ!!』
言葉が終わるか終わらないかのうちに、スレイの鋼鉄の鉄拳が男の顔面に深々とめり込んだ。
「ガ、ブッ……!?」
鼻梁が完全にへし折れ、鮮血が宙を舞う。
「こ、の野郎……ッ!」
男が懐の刃物に手を伸ばそうと抵抗を試みるが、スレイは一切の容赦なく男のスネを蹴り折り、そのまま体をくの字に曲げた男のみぞおちへと、コンバットブーツの重い蹴りを叩き込んだ。
「……ゲハッ、カハァッ……!!」
胃液と血を吐き散らし、床に崩れ落ちる男。
スレイは、その男の頭を無造作に掴み上げ、氷のように冷たい声で囁いた。
「……抵抗できない子供を罪人に仕立て上げた罪だ。お前も、痛みを知っておけ」
音のない世界に閉じ込められた少女。
彼女から父親を奪ったこの男に与える罰として、スレイが選んだのは。
「――ァ、ア、アアアァァァァァァァァァッ!!?」
スレイは、男の右側の耳を素手で力任せに引きちぎり、血まみれの肉片をゴミのように床へ捨てた。
そして、総理の「利き手(右手)は残せ」という命令を忠実に守り、男の左手の関節を逆方向へと完全にへし折った。
「……ヒィッ、アァァァ……ッ!」
痛みと恐怖で痙攣する男を見下ろし、漆黒の掃除屋は安物のタバコに火を点ける。
実行犯の制圧は完了した。
残るは、この男を雇い、弱者を喰い物にしている「名もなき医療財団」の完全なる殲滅である。
「……アァァ、痛ェェェ……ッ!」
左腕を折られ、耳を引きちぎられて床でのたうち回る殺し屋を一瞥し、スレイはインカムで警視庁トップ・山田相姦の部隊へ回収の手配を済ませた。
そしてそのまま、首相感貞の極秘回線へと連絡を入れる。
『……もう! スレイったら、いつの間に一人で抜け出してるの! アタシたちを置いていかないでよー!』
インカムの向こうから、リルの頬を膨らませたような抗議の声が響く。
『あちゃー。いつの間にか、実行犯はもう完全に制圧されてるっしょ。相変わらず仕事が早すぎ』
メイコが、呆れたような、それでいて頼もしげな声を上げた。
「……グループの全容や組織名は吐かなかったが、隠れ蓑は『医療財団』で確定だ」
スレイが、タバコの煙と共に短い報告を上げる。
「父親が追っていたのは、奴らに騙されてサインした『契約書』と、あの現場で破り取ったノートだ。だが、契約書はすでにこの実行犯に奪い返され、医療財団の本部へと渡っているはずだ」
『……借金の契約書ね。おそらく、詐欺の』
モニカの、冷静な分析が通信越しに聞こえる。
『何の目的の借金かは置いておくとして……。焦って怪しい財団から金を借りたということは、それ以前に正規の銀行ローンの申し込みをして、断られているはずよ。それなら、すぐに調べられそうね』
マリアが、凄まじいタイピング音を響かせながら各銀行のサーバーへと侵入していく。
数分後。
『……ビンゴ。出てきたよ』
メイコが、マリアの弾き出したデータを読み上げる。
『蜜井(みつい)住友銀行、みづほ銀行、それにyouFJ銀行……。大手のメガバンク、全部にローンの申請を出して、見事に全て審査落ちで断られてるみたい』
『……時期的に、この絶望した直後に、詐欺の医療財団が救世主のふりをしてご登場したってわけだね』
リルが、悔しそうに声を沈ませた。
『無利子での高額融資とか、甘い言葉をうたって契約書にサインさせたんでしょうね』
モニカが、プロファイラーの脳内で詐欺の手口を完全にトレースする。
『ああ。そして、契約書の裏の裏にあるような、極小文字で書かれた「違約条項」を盾にして、突然法外な利息を突きつけたのだろうな。よくある手口だが、娘のために必死な人間には引っかかりやすい』
大物議員Aが、葉巻を燻らせながら忌々しそうに吐き捨てた。
『……ふふっ。人の弱みにつけ込むなんて、本当に最低のクズどもね』
環萌美(たまき もえみ)総理の、底冷えするようなドSモードの声が作戦室に響き渡る。
『……そんなクズには、私たちからたっぷりすぎる利息(死)をつけて返してあげないとね』
『……とにかく、契約書の本体は奪われても、父親が自衛のために取っておいたコピーが部屋にあるかもしれないわ』
モニカの提案に、スレイは短く応じた。
「……現場(少女の家)に向かう」
『私達も行くわよ。現地で合流しましょう』
マリアの言葉を合図に、スレイと女性陣はそれぞれ、封鎖された事件現場である都内の古いアパートへと急行した。
中編、お読みいただきありがとうございました。
いよいよ明日は金曜日! 後編(20時更新)の解決編では、お父さんが命を賭けて遺した本当の愛の証明、そして総理が用意した「最高に尊厳を破壊する罠」を引っさげて、PCUが悪徳の本丸へと正面から乗り込みます。ラストに待つ最高の奇跡を、ぜひその目で見届けてください。